寒冷化が促したヒトの進化
約700万年前に地上に現れたヒトの進化の歴史は、長期的な寒冷化、つまり環境悪化の流れの中で進行した。さらにその歴史をよく調べると、画期的なイノベーションは、短期的な寒冷化によって惹き起こされている。過去40万年間の氷河時代において、10万年ごとに訪れる氷期が、ヒトにどのようなイノベーションをもたらしたのかを整理してみたい。[1]
1. ヒトは環境の悪化で進化した
1.1. 寒冷化がもたらしたヒトの誕生
以下の図は、恐竜が絶滅してから現在に至る新生代の気候変化を復元したものである。長期的に見て、気温が下落する中でヒトが誕生したことが見て取れる。
霊長類(真主獣類)は、白亜紀の末にウサギ類やネズミ類と分岐したと考えられている。始新世には、真猿類が原猿類と分岐し、漸新世初期には、狭鼻猿類(旧世界ザル)から広鼻猿類(新世界ザル)が分岐し、中新世初期には、類人猿(ヒト上科)が他の狭鼻猿類(旧世界ザル)から分岐した。直立二足歩行という点でチンパンジー亜族から区別されるヒト亜族が誕生したのは、約700万年前である。
1.2. 寒冷化が促したヒトの進化
寒冷化はそれ以降も続いた。以下の図は、世界各地から採取した海底有孔虫の分析から推定した過去500万年の気温の変化を描いたグラフである[3]。
これを見ると、ヒト亜族の進化もまた長期的な寒冷化の流れの中で起きたことがわかる。また、たんに寒冷化しているだけでなく、寒暖の振幅が大きくなっていることもわかる。寒暖の振幅が大きいということは、情報エントロピー(不確定性)も増大しているということであるから、生物にとっては住みにくい環境となっていることを示している。
事実、現生人類を除けば、他のヒト亜族の傍系はすべて滅んだ。ちょうど抗生物質を大量に投与して、環境を悪化させると、菌にイノベーションが起き、耐性菌が生まれてくるのと同じように、ヒトもまた、環境が悪くなるたびに、イノベーションを起こし、進化してきた。自然界からすれば、現在人口爆発を起こしている現生人類は、あらゆる抗生物質を克服して増殖し続ける最強の耐性菌というところだろうか。
1.3. なぜ寒冷化がイノベーションを惹き起こすのか
寒冷化でイノベーションが起きるということは、寒冷地でイノベーションが起きるということと同じではない。実際、北極圏に住むエスキモーが、格別にイノベーションを起こしたということはない。イノベーションを起こすには、能力と必要性という二つの要件が求められる。北極圏のような人口密度が低い(あるいは人が住んでいない)地域では、イノベーションを起こす能力が欠けている。南国の楽園で暮らす人々は、いくら数が多くてもイノベーションを起こす必要性を感じない。温暖化で人口が増え、寒冷化で多くの人が死の危機に瀕する時、イノベーションを起こす能力と必要性という二つの要件が揃う。
2. 過去40万年間のイノベーション
寒冷化がヒトのイノベーションを惹き起こした様子を下の図で確認しよう。この図は過去40万年間の気温の変化を現在の気温を基準として描いたものである。
このグラフから、氷期と間氷期のサイクルが10万年周期で繰り返されていることがわかる。もとより、4万1千年その他の周期もあるので、波動はあまりきれいではないが、現在に相当する右端の間氷期の山から左に順に、ビュルム(Wurm/Wisconsinan)、リス(Riss/Illinoian)、ミンデル(Mindel/Kansan)氷期の谷間を確認できる(カッコ内の左はアルプスでの、右は北米での呼称)。ミンデルは、四つの氷期がある。以下、ミンデル第三氷期から、10万年周期で、どのようなイノベーションが起きたかを見てみることにしよう。
2.1. 35万年前(ミンデル第三氷期)
ヨーロッパで最初に原ネアンデルタール人が現れたのは35万年前である。ネアンデルタール人はホモ・ハイデルベルゲンシスから進化して現れた。ホモ・ハイデルベルゲンシスはかつて、ホモ・サピエンスの祖先と考えられていたが、今では、現生人類とネアンデルタール人とが分岐する最後の共通の祖先は、ホモ・ハイデルベルゲンシスの祖先であるホモ・アンテケソルであるとされている。ホモ・アンテケソルは、ホモ・エレクトゥスから進化している。
2.2. 25万年前(ミンデル第四氷期)
このころ、ホモ・ハイデルベルゲンシスが絶滅した。ホモ・エレクトゥスも大陸では、27万年前ぐらいまでには絶滅したと考えられている。但し、インドネシアでは、ホモ・エレクトゥスは、2万7千年前まで生き延び[7]、小型の子孫であるホモ・フローレシエンシスは、1万8千年前ごろまで生きていた[8]。ホモ・エレクトゥスやホモ・ハイデルベルゲンシスと入れ替わる形で、25-20万年前に、ホモ・サピエンスが誕生する。
2.3. 15万年前(リス氷期)
15万年前は、ミトコンドリアDNAから計算した現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)の誕生時期である。すべての女性の母であるミトコンドリア・イブが生きていたと算出された時期である。16万年前 エチオピアで発見されたホモ・サピエンスの亜種で、ホモ・サピエンス・サピエンスの先祖とみなされているホモ・サピエンス・イダルトゥ(Homo sapiens idaltu)の化石の年代が16~15.4万年前である[9]から、この誕生時期は妥当な計算結果だといえる。現生人類の最古の化石としては、東アフリカのオモで発見された13万年前の化石がある。
2.4. 5万年前(ビュルム氷期)
この時は、遺伝子上のイノベーションは起きなかったが、後天的な、それゆえに先天的なイノベーションよりも急速に発展するイノベーションが起きた。オーリニャック文化に見られるように、5万年前以降、現生人類の言語能力が飛躍的に発展した。この3万5千年前に起きたイノベーションを、ジャレド・ダイアモンド(Jared Diamond)は “Great Leap Forward” と名づけた[10]。直訳すると、「大躍進」だが、これだと毛沢東の大躍進(という名の大後退)を連想させるためなのか、日本では「文化のビッグバン」とか「意識のビッグバン」とか呼ぶことにしている。但し、これに関しては、異論も多いので、次に章を改めて、「文化のビッグバン」について論じたい。
3. 文化のビッグバンを考える
3.1. 文化のビッグバンは遺伝的変化か
ダイアモンドは、次のように主張する。
3万5千年前というごく最近にまで、西ヨーロッパには、芸術も進歩もほとんどなかった未開人であるネアンデルタール人がまだ住んでいた。その後、突然の変化があった。解剖学的な現生人類がヨーロッパに現れ、突然、彫刻、楽器、ランプ、貿易、技術革新が始まった。数千年のうちにネアンデルタール人はいなくなった。人間が人間になったと言われうる瞬間が一つあるとすれば、それは3万5千年前のこの大躍進の時である。[11]
解剖学的な現生人類(Anatomically modern people)、すなわち、ホモ・サピエンス・サピエンスが、3万5千年前に現れたという見解は、既に確認したように、今日否定されている。ダイアモンドは、遺伝的変化により現生人類が言語を話せるようになり、それが大躍進をもたらしたと考えていたが、この考えも現在では支持されていない。
現生人類は、喉頭や口の細かい制御によって発話するというチンパンジーや他の大型類人猿にはない能力を持つ。この能力と関連付けられている遺伝子は、FOXP2である。FOXP2の変異は、人に言語障害や文法障害をもたらすことが知られている。ヒトのFOXP2は、チンパンジーのFOXP2とは2アミノ酸、マウスのFOXP2とは3アミノ酸の相違がある。
では、ネアンデルタール人はどうかと言えば、ネアンデルタール人の骨から抽出されたDNAを調べた結果、ネアンデルタール人は現生人類と同じ対立遺伝子の FOXP2 を持つことが分かった[12]。ヒトが現生人類と同じFOXP2を獲得するようになったのは、620-460万年前のことで[13]、「文化のビッグバン」よりもはるかに昔のことである。
ヨーロッパでの現生人類(クロマニヨン人)のライバルだったネアンデルタール人は、3万年前に絶滅したが、それは言語を話せなかったからではなくて、彼らのネットワークの規模が小さかったからである。脳の構造という点でも、表象世界という点でも、社会システムという点でも、ネアンデルタール人は、クロマニヨン人ほど、次の意味で「知性」がなかった。
クロマニヨン人の脳の発達した前頭連合野は、新しい神経回路のネットワークを作り出し、交易の新しい社会的なネットワークを作り出し、それによって言語システムを複雑にし、概念の示差的なネットワークに革新をもたらした。この三つのネットワークの創発は、相互に無関係なのではなく、知性の発達という一つの本質の異なった側面に過ぎない。[14]
3.2. 漸進説は正しいか
解剖学的現生人類がリス氷期(15万年前)で誕生したとするなら、人類の現代的行動(Behavioral modernity)はいつから始まったのだろうか。これに関して、文化のビッグバン仮説に対するアンチテーゼとして、現代的行動が漸進的に起きたとする漸進説もある。ジョージ・ワシントン大学のアリソン・ブルックス教授(アフリカ考古学)は、8万2千年前の北アフリカからムシロガイを加工したビーズの装飾品が見つかったこと[15]を受けて「これは、現代人の行動の進化には大きな革命はなく、緩やかなプロセスであるという私の考えを裏付けるものだ」と述べている[16]。
しかし、大躍進説が間違いであるからといって漸進説が正しいということにはならない。8万2千年前に生まれた表象文化がそのままクロマニヨン人のオーリニャック文化に継承されたということではない。大躍進説と漸進説は、進化は不可逆的に前進し、後退はないという共通の前提に立っている。暗黒時代であった中世ヨーロッパの例を挙げるまでもなく、文明はしばしば後退する。ましてや文字による情報の保存がなかった時代では、過去の獲得物が失われて、後退するという事例はいくらでもあっただろう。非連続的な前進と後退を繰り返していたと考えるなら、大躍進説と漸進説の対立地平を超えられる。
3.3. 文化のビックバン以降
文化のビックバンで広がった人類の表象世界は、ビックバン後の宇宙と同様に、今日に至るまで膨張を続けている。現在は間氷期であるから、革命が停滞してもおかしくはないのだが、間氷期の中にも小氷期に相当する一時的に寒冷となる時期があり、その時期には、革命と呼ぶべきイノベーションが起きている。
西暦 | 出来事 |
---|---|
紀元前9000~8000年 | 第一次農業革命(食糧生産革命) |
紀元前7500~6000年 | 第二次農業革命(二次産物革命) |
紀元前3500~2500年 | 都市革命(四大文明の誕生) |
紀元前1000~400年 | 精神革命(枢軸時代) |
紀元後1280~1715年 | 産業革命(工業革命) |
いったん文字が発明されると、イノベーションの成果が次世代に伝えられるようになる。しかも、遺伝情報と違って、後天的に書き換えが可能であるから、イノベーションのスピードも指数関数的に増加するのである。
4. 参照情報
- 三井誠『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』講談社 (2005/9/20).
- ジャレド・ダイアモンド, レベッカ・ステフォフ『若い読者のための第三のチンパンジー:人間という動物の進化と未来』草思社 (2015/12/12).
- Jared Diamond. The Third Chimpanzee: On the Evolution and Future of the Human Animal. Oneworld Publications (September 1, 2015).
- クライン, リチャード・G., エドガー, ブレイク『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』新書館 (2004/6/1).
- Klein, Richard G. The Dawn of Human Culture. Wiley; 1st edition (August 15, 2007).
- ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』.
- 中川毅『人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか』講談社 (2017/2/20).
- ↑本稿は、2006年08月17日に『連山』で公開した「寒冷化が惹き起こすイノベーション」に大幅な加筆と修正を施して、2021年7月15日に再公開したものである。
- ↑Robert A. Rohde. “Expansion showing climate change during the last 65 million years.” Licensed under CC-BY-SA.
- ↑ 3.03.1Lisiecki, Lorraine E., and Maureen E. Raymo. “A Pliocene-Pleistocene Stack of 57 Globally Distributed Benthic Δ18O Records.” Paleoceanography 20, no. 1 (2005).
- ↑Global Warming Art . “Five Myr Climate Change." Licensed under CC-BY-SA. July 18, 2010.
- ↑Global Warming Art. “Ice Age Temperature Changes." Licensed under CC-BY-SA. 20 February 2006.
- ↑EPICA community members: Eight glacial cycles from an Antarctic ice core.
- ↑Swisher, C. C., W. J. Rink, S. C. Antón, H. P. Schwarcz, G. H. Curtis, and A. Suprijo Widiasmoro. “Latest Homo Erectus of Java: Potential Contemporaneity with Homo Sapiens in Southeast Asia.” Science 274, no. 5294 (December 13, 1996): 1870–74.
- ↑Brown, P., T. Sutikna, M. J. Morwood, R. P. Soejono, Jatmiko, E. Wayhu Saptomo, and Rokus Awe Due. “A New Small-Bodied Hominin from the Late Pleistocene of Flores, Indonesia.” Nature 431, no. 7012 (October 2004): 1055–61.
- ↑“Here we describe fossilized hominid crania from Herto, Middle Awash, Ethiopia, that fill this gap and provide crucial evidence on the location, timing and contextual circumstances of the emergence of Homo sapiens. Radioisotopically dated to between 160,000 and 154,000 years ago, these new fossils predate classic Neanderthals and lack their derived features." ― White, Tim D., Berhane Asfaw, David DeGusta, Henry Gilbert, Gary D. Richards, Gen Suwa, and F. Clark Howell. “Pleistocene Homo Sapiens from Middle Awash, Ethiopia.” Nature 423, no. 6941 (June 2003): 742–47.
- ↑Jared Diamond. The Third Chimpanzee: On the Evolution and Future of the Human Animal. Oneworld Publications (September 1, 2015). Chapter 2. “Great Leap Forward". pp. 32-57.
- ↑“As recently as 35,000 years ago western Europe was still occupied by Neanderthals, primitive beings for whom art and progress scarcely existed. Then there was an abrupt change. Anatomically modern people appeared in Europe and, suddenly, so did sculpture, musical instruments, lamps, trade, and innovation. Within a few thousand years the Neanderthals were gone. Insofar as there was any single moment when we could be said to have become human, it was at the time of this Great Leap Forward 35,000 years ago.” ― Diamond, Jared M., and Michael Shermer. The Great Leap Forward: The Evolution of Creativity and Language. Skeptics Society, 1993.
- ↑“Here, we find that our closest extinct relatives, the Neandertals, share with modern humans two evolutionary changes in FOXP2, a gene that has been implicated in the development of speech and language.” ― Krause, Johannes, Carles Lalueza-Fox, Ludovic Orlando, Wolfgang Enard, Richard E. Green, Hernán A. Burbano, Jean-Jacques Hublin, et al. “The Derived FOXP2 Variant of Modern Humans Was Shared with Neandertals.” Current Biology 17, no. 21 (November 6, 2007): 1908–12.
- ↑Enard, Wolfgang, Molly Przeworski, Simon E. Fisher, Cecilia SL Lai, Victor Wiebe, Takashi Kitano, Anthony P. Monaco, and Svante Pääbo. “Molecular evolution of FOXP2, a gene involved in speech and language." Nature 418, no. 6900 (2002): 869.
- ↑永井俊哉「知性とは何か」2002年12月1日.
- ↑Bouzouggar, Abdeljalil, Nick Barton, Marian Vanhaeren, Francesco d’Errico, Simon Collcutt, Tom Higham, Edward Hodge, et al. “82,000-Year-Old Shell Beads from North Africa and Implications for the Origins of Modern Human Behavior.” Proceedings of the National Academy of Sciences 104, no. 24 (June 12, 2007): 9964–69.
- ↑“It supports my thought that there are no great revolutions in the evolution of modern human behaviour – it is a gradual process." ― Paul Rincon. “Study reveals 'oldest jewellery’.” BBC NEWS. Last Updated: Thursday, 22 June 2006.
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