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ヒトはなぜ難産なのか

2016年8月4日

ヒトにとって出産は痛くて苦しくて、場合によっては命にかかわる危険な営みであるが、他の動物にとってはそうではない。奈良貴史著の『ヒトはなぜ難産なのか』によると、直立二足歩行と頭脳の巨大化のおかげで、ヒトの出産は難産になった。難産という代償を払ってもこうした形態変化が起きた理由は何かを進化論的に考えたい。加えて出産の医療化という近年の傾向が新たな問題を作り出していることも取り上げたい。

Image by Marjon Besteman-Horn from Pixabay

1. 難産の原因となっている解剖学的構造

人間の女性にとって、出産は苦しくて危険な人生の一大イベントである。分娩の痛みは、指切断の痛みほどではないが、骨折の痛み以上で、それが15時間も続く[1]。たんに痛いだけでなく、危険でもあり、2015年現在の世界の妊産婦死亡率(妊産婦10万人中の死亡数)は、216である[2]。途上国では母親の死因のうち四割が妊娠関連である。現在の日本の妊産婦死亡率は、100以下であるが、戦前は200以上あった。

他の動物にとっては、出産はそれほど苦しくも危険でもない。では、なぜ人間だけが難産なのか。奈良は解剖学的構造の違いを指摘する。

ヒトとほかの動物では、産道の形態学的構造に大きな違いがある。ヒト以外の哺乳類の産道は、ひとことで表現するならば、一直線の円筒形のトンネルだ。それに対してヒトのそれは、S字状の急カーブをともなった、入口部が直方体で出口が円筒形という複雑な構造をしている。[3]

ヒトは、四足歩行から二足歩行への形態変化に伴い、背骨だけでなく産道にも歪みを与えることになり、それが難産の原因の一つになっているというのである。以下の図は、ヒトと犬との産道構造を比較したものだが、どちらが簡単に出産できるかは一目瞭然である。このアニメーション動画で描かれている通り、人間はかなり不自然な形で生まれる。

ヒトと犬の出産の比較画像の表示
ヒトと犬の出産の比較。Source: 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p.19.

直立二足歩行により、たんに産道が歪んだだけでなく、重力方向が90度変わったことで、次のような問題も生まれることになった。

つまり、ヒトは直立二足歩行になったことにより、骨盤に内臓が収納された形になったのである。四足獣では、内臓はハンモックのようなお腹の筋の上に乗った状態なので、肛門の方に下りてくる心配がなく、骨盤底の筋は発達していない。しかし、ヒトの内臓は、底板のないバケツに入っているような状態である。骨盤を上から見ると、真ん中に大きな穴が開いている。ヒトでは、内臓がこの穴から落ちないように支える筋肉が発達し、穴をふさいでいる。いわゆる骨盤隔膜と尿生殖隔膜とよばれる筋と筋膜で構成されているのである。骨盤隔膜の肛門挙筋、尾骨筋などの骨盤底筋は、本来、肛門などを締め付ける役割をしている筋肉である。出産の際には出口をふさぐ構造となり、この軟産道の筋肉の発達が、人類の難産の一つの要因となっている。[4]

骨盤は、以下の図にあるとおり、「底板のないバケツ」の底を形成しており、ここに内臓が落ち込んでいる。

骨盤の模式図の表示
人間の骨盤の模式図[5]。左の図は身体における骨盤の位置。右上は前から見た骨盤。右下は後から見た骨盤。

太りすぎの女性では、蓄積された脂肪が産道の出口を塞ぐため、ただでさえ狭い産道をさらに狭くしてしまう。結婚相手を見つける時、男が女以上に異性の肥満を嫌うのには、肥満が安産の障害になりやすいという理由がある。

ヒトが難産であるもう一つの原因は、胎児の頭の大きさである。他の動物では産道の直径よりも胎児の頭の大きさが小さいのに対して、ヒトではばぼ同じである。

産道が曲がりくねっていても、頭が小さければ、そんなに苦にならずに通り抜けられる。しかし、ヒトには通り抜ける余裕がない。さらに途中で形の変化する曲線の筒を通らなければならない。そのために、胎児は姿勢を変えながら、やっとの思いで出口に到達するのがヒトのお産である。[6]

犬の産道は一直線で、頭は流線形なので、頭が閊えることはない。もっとも、最近ブルドックなど、人間の嗜好に合わせて短頭に品種改良された犬がペットとして飼われるようになり、そうしたペットは難産になることがあるとのことだ。人間は、人間こそ理想の形と考え、動物を人間の形に近づけたがるものだが、そうした品種「改良」は、人間並みの難産の苦痛を与えることになるから、その動物にとっては迷惑なことである。

2. なぜ戌の日は安産の日なのか

品種「改良」以前の犬は、難産知らずで、しかも人間にとって出産が観察できるほどに身近な動物であったので、江戸時代の日本人は、犬のように安産することを理想としていた。月に二度ほどある戌(いぬ)の日に、妊婦とその付き添いの家族が安産祈願のために東京の水天宮に参拝するのも、戌の日は、江戸時代以降、安産の日と認識されているからである。江戸時代、犬張子と呼ばれる玩具が嫁入り道具であったのは、犬筥(いぬばこ)を産室に飾る平安時代の習慣に起因するというのであるから、日本人は江戸時代よりも古くから、犬を安産と結びつけていたようである。

江戸幕府五代将軍徳川綱吉が、戌年生れであることから、生類憐みの令において、特に犬を大切にさせたことはよく知られている。綱吉は犬を自分と同類と意識していたのだろう。生類憐みの令以前、他のアジア太平洋地域と同様、日本にも犬食文化があったが、生類憐みの令は犬食を厳禁とした。綱吉の死後、生類憐みの令は廃止されたものの、犬食文化が本格的に復活することはなく、犬はペットとして愛される対象になった。

これに対して、いまだに犬食文化が残る朝鮮半島では、犬は軽蔑の対象である。北朝鮮が張成沢を処刑する時「犬にも劣る見下げ果てた人間のクズの張[7]」という表現で張を罵倒していたが、こうした表現が使われる背景には、「犬以下」を「最低最悪」とみなす価値観がある。

ソフトバンクは、上戸彩が演じる白戸彩が、犬のお父さんや黒人の兄とともに白戸家を構成するコマーシャルを放映している。お父さんに犬を起用することを決めたのは、元在日韓国人の孫正義社長[8]ということなのだが、韓国では犬の子(개새끼)というのは、「犬にも劣る」と同様、相手を侮辱する言葉である。また韓国では黒人差別が強く、もしも日本の企業が「韓国人は犬の子で、黒人の弟分」という趣旨の広告を韓国で出すなら、不買運動が起きるかもしれない。

ところが、日本では、犬のお父さんのコマーシャルは好評で、CM好感度ランキングの上位に長年にわたって名を連ねている。日本人が犬の肛門から出てくるように見えるソフトバンクのコマーシャルにも特に苦情は寄せられていない。

ソフトバンクのコマーシャル動画
ソフトバンクのコマーシャル。Source: “SMAP の SoftBank 新 CM – YouTube”. Uploaded on Aug 1, 2009. 歌詞に登場する come on(英語で「後ろから来る」という意味)の音「カモン」が肛門と掛け合わされている。犬の肛門から出される排泄物の色は黒色であり、犬のお父さんが「産んだ」長男を黒人にした意義がわかる。

これは、人間が犬のように子供を産むことに対する評価が日本と韓国では異なることによる。ソフトバンクがどういう意図でこうしたコマーシャルを放映しているのかは不明だが、「なぜ韓国には糞尿マニアが多いのか」で指摘したようなアンビバレントな思いがあるのかもしれない。

3. ヒトはなぜ二足歩行を始めたのか

脱線したので、話を本題に戻そう。犬だけでなく、ヒトと近縁の関係にある他の類人猿(ホミニド)も、ヒトほどの難産は経験しない。ゴリラもチンパンジーも、痛そうな表情を見せることなく、一人で子供を産む。ヒトが難産になった原因が直立二足歩行と頭蓋骨の巨大化であるとするなら、ヒトの進化史上、これらの形態変化には、難産などのデメリットを上回るどのようなメリットがあったのかという問題を考えなければならない。

ヒトは、二足歩行することで自由になった手を使い、道具を発明し、頭脳を発達させたと人類学者たちはかつて考えていた。しかし、直立二足歩行は、遅くとも約440万年前のアルディピテクス・ラミドゥス(通称、ラミダス猿人)の時代には行われていた[9]。しかし、脳化指数が類人猿の水準を超え、本格的に道具を使い始めるのは、ホモ・ハビリスが登場した240万年前頃からである。それゆえ、直立二足歩行は、頭脳の巨大化や道具の発明で説明できなくなった。

そこで、奈良はラブジョイの食料運搬説で直立二足歩行の起源を説明しようとする。

近年、注目を浴びているのが、女性や子どもへの「プレゼント説」とも呼ばれる「食料運搬説」である。この説は、アメリカの人類学者ラブジョイによって提唱された。これは、チンパンジーやゴリラでは、オスの犬歯の方がメスよりはるかに大きいが、ラミダス猿人の犬歯は性差が小さいことを根拠とする。これを、種を維持するためのパートナーの選択方法が変化したためと考える。つまり、オスの犬歯が小さくなった代わりに、食料をメスや子どもに運ぶために、手を解放させ立ち上がったとする説である。環境の変化ばかりでなく社会性の変化が、直立二足歩行を生んだと考えている。[10]

確かに、ラブジョイは、1981年の論文で、人類の祖先のオスは、一夫一婦制の下、メスやその子供に手で食べ物を運ぶために二足歩行を始めたという説を唱えた[11]。スザーナ・カルバーリョたちの研究グループは、人間の畑の作物を盗む競争が激しくなると、チンパンジーはより多くの貴重な作物を二足歩行で安全な場所に運ぶ傾向があることを観察し、以下のようなビデオを公開している[12]

直立二足歩行で運ぶチンパンジーの動画
貴重な食料、クーラ・エデュリスのナッツを両手に抱え、直立二足歩行で運ぶチンパンジーの動画。Source: “Chimpanzee carrying behaviour (Movie S1) .” YouTube[13]. 仲間とすれ違う際に直立し、あたりをキョロキョロと見渡した後、四足歩行に戻っていることに注目したい。

寒冷化と乾燥化で資源が不足すると、食料を奪い合う競争が激しくなり、より多くの食料を運ぼうと直立二足歩行が行われるようになったというのである。こうした説は正しいのか。

従来、ホモ属以前の初期ホミニドの時代には、性的二形(生殖器以外にオスとメスの間に著しい形質や能力の相違があること)が小さいことを根拠に、一夫一婦制が否定されていた。一夫多妻制では、雄は、雌を奪い合う競争に勝たなければならないので、体が大きくなるというという傾向がある。二足歩行を始めた初期人類の性的二形が大きいなら、ゴリラのような一夫多妻制かあるいはチンパンジーやボノボのような乱婚制かどちらかで、ラブジョイが想定した一夫一婦制でのオスによるメスや子供への食料運搬は想定しにくくなる。

そこでラブジョイたちのグループは、アウストラロピテクス・アファレンシスの化石を再検証し、犬歯や骨格サイズの格差が現生人類と大差がなく、アウストラロピテクス・アファレンシスは一夫一婦制だったという結論の論文を、2003年に公開した[14]。この新説に対して、サンプルの取り方などに問題があるとして、結論を疑問視する論文が出されているが、ラブジョイたちも反論しており、論争は続いている[15]

論争はまだ決着していないが、仮に初期ホミニドの性的二形がホモ・サピエンスの性的二形と同程度の小ささだとしても、初期ホミニドが一夫一婦制であったと結論付けることはできない。なぜなら、第一に、現生人類は厳密には一夫一婦制ではないからだ。文明化されていない自然民族では、一夫多妻制が多く、かつ婚外交渉も普通に行われている。第二に、性的二形がヒトとほぼ同じであるチンパンジーやボノボは乱婚制で、オスは育児しない。逆にゴリラは、性的二形がヒトよりも大きく、一夫多妻であるが、オスが育児している[16]

初期ホミニドの性的二形が現生人類並みで、一夫一婦制で、オスがメスと子供に餌を運ぶというラブジョイの仮説をすべて認めたとしても、それが二足歩行を帰結する理由にはならない。なぜなら、初期ホミニドは、二足歩行しなくても、食料を運べたからである。以下のビデオは、チンパンジーが四肢すべてを使って食料をナックル歩行で運ぶ様子を映している。

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4本の手足を使って食べ物(バナナ)を運ぶチンパンジーの動画。Source: hide40301able. “4本の手を持つチンパンジー Chimpanzee has four hands.” YouTube. Published on Jun 4, 2014.

類人猿は、四肢を使って木の枝につかめるように、四肢すべてで物を掴む能力を持っている。確実に二足歩行をした最初のホミニドであるアルディピテクス・ラミドゥスは、足の親指が他の指とは逆向きで、排骨側の腱を使って足で物を掴めたことがわかっている[17]。アルディピテクス・ラミドゥスが四肢を使って物を運ぶことができた以上、食料運搬のために直立二足歩行を始めたというラブジョイ説は成り立たない。

では、スザーナ・カルバーリョたちの観察結果はどう解釈するべきか。引用した動画で、チンパンジーが、仲間とすれ違う際に直立し、あたりをキョロキョロと見渡した後、四足歩行に戻っていることに注目したい。ナッツを両手に抱えたチンパンジーは、ライバルを牽制するために立ち上がり、さらに他に脅威がないかあたりを見渡した後、四足歩行になってナッツを運搬したと解釈できる。チンパンジーは二足歩行が苦手であり、運搬するためだけならむしろ四足歩行の方が効率的である。チンパンジーの直立姿勢は示威行動であり、競争が激しくなると直立二足歩行になるのは、横取りされないためで、それが長時間の直立二足歩行を帰結することはない。

類人猿が長時間にわたって直立二足歩行をするのは、水辺を渡る時である。水中では浮力が働くし、転倒してけがをするリスクも小さいので、直立二足歩行が苦手な類人猿でも、長時間にわたって人間のように歩ける。私たちが陸上でバランスを崩さずに直立二足歩行する上で役立っている器官は内耳である。内耳の高解像度コンピューター断層撮影法による分析結果から、化石人類の中で、近代人の内耳と同じ形態を示す最も早い種は、ホモ・エレクトスで、それより以前のアウストラロピテクスなどの人類化石の三半規管の寸法は、近代人よりも、実在の大型類人猿のものに類似していることがわかっている[18]。こうした事実も、アウストラロピテクスの頃は水中を直立二足歩行していたが、ホモ属の時代になって本格的に陸上で直立二足歩行するようになったと考えれば、うまく説明できる。

セミアクア説では、ホモ属が誕生する以前のホミニドは、水辺で暮らしていたと想定する。出産も水中でしていたことであろう。水中なら、浮力の助けを借りながら、四足歩行と同じ体位で出産ができる。脳の大きさがチンパンジーレベルだったこの時代に難産はなかっただろう。今でも水中で無介助分娩する女性がいるぐらいであるから、この時代のメスのホモニドはオスの助けを必要としなかったに違いない。現在の人間のように、未熟で無力な状態で生まれるわけではないので、子育てはそれほど大仕事ではなく、この点でもオスのサポートは不要だったのだろう。

4. ヒトの脳はなぜ巨大化したのか

もしも私たちと動物との最大の違いは何かと聞かれたなら、多くの人は知性と大きな頭脳と答えるだろう。実際、私たちは、自分の種に「知的なホモ属」という意味のホモ・サピエンスという名を与え、大きな頭脳を持つことにプライドを持っている。では、頭脳は大きければ大きいほど良いのかといえば、そうでもない。何事にも光と影がある。

大きな頭脳は多くのエネルギーを消費する。それは、既に指摘した産道の直径に対する外形的な大きさに加えて、ヒトの出産を難産にすることになった。すなわち、ヒトの脳サイズの拡大は、胎児の栄養要求を高め、母親からの胎児への血液の供給源となる母の動脈を大きく変更させ、母親の高血圧を誘導し、妊娠中毒症と呼ばれる妊娠女性の高血圧異常を頻発させることになったのである[19]。こうした代償を払ってでもホモ属が頭脳を大きくさせたのには、しかるべき理由があるはずだ。

脳は人体の器官の中でも非常にエネルギーを消費する場所である。われわれの場合、脳は体重の3%程度の重さしかないのに、ヒトの消費するエネルギーのうち20%も占めているのだ。脳を拡大させるためには、それ相応のエネルギーとなる食料の確保が前提となる。その問題を解決したのが、肉食による高タンパク質、高カロリーの摂取である。[20]

確かにホモ属と同時代にアフリカに存在したパラントロプスは草食で、栄養価の低い堅い食物を長時間咀嚼するため、下顎、側頭筋、頬骨弓といった咀嚼器が発達し、代わりに頭蓋骨は大きくならないまま、人類の傍流として滅びた。他方で、最初のホモ属であるホモ・ハビリスが誕生した240万年前に、MYH16という咀嚼筋のタンパク質を作る遺伝子が不活性化し、咀嚼筋が減少し、頭蓋が大きくなるのを締め付けて抑えていた負の制約が除かれたことがホモ属の脳の肥大化をもたらしたという仮説がある[21]

では脳を大きくしたホモ属はどのような肉を食べていたのだろうか。ホモ・ハビリスの人骨化石が出土したオルドバイ渓谷での調査によると、ホモ・エレクトスの先駆者は、オメガ-6系の脂肪酸を含む陸棲動物の肉に加え、カメ、ワニ、魚など、オメガ-3系の脂肪酸を含む水棲動物の肉を摂取しており、こうした必須脂肪酸を含む食品の摂取が、それを必要とする脳の巨大化に貢献したと考えられている[22]

もとより、こうした食料を食べている動物の脳がすべて巨大化しているわけではないのであるから、≪脳を大きくすることができたから脳が大きくなった≫とする能力論的アプローチではなく、≪脳を大きくしなければならないから脳が大きくなった≫とする必要論的アプローチは取らなければならない。第四紀になって、寒冷化と乾燥化が進み、安住できるセミアクア環境が縮小するなどの環境の悪化が、生存のための社会化と道具の使用の必要性を高め、脳の発達をもたらしたとみなしたい。チンパンジーも寒冷化と乾燥化の試練に晒されたが、樹上生活のまま留まった。これに対して、水辺からサバンナへと環境を大きく変えたホモ属は、大きなイノベーションを必要としていた。

道具の使用自体はチンパンジーもやっていることで、アウストラロピテクスも原始的な石器を使っていたことが知られているが、洗練された石器の使用や火の利用はホモ属から始まる。初期のホモ属は狩猟しなかったが、死肉の加工に石器を用いた。こうした食料加工や調理の技術により、ホモ属は、それ以前のホミニドよりも食料を調達する能力を高めることになった。またホモ属では、それ以前のホミニドにおけるよりも社会化が進んだ、つまり社会の規模が大きくなったことが知られている。

奈良は、ホモ属誕生以前からオスがメスや子供の世話をしていたというラブジョイ説を採用したために、ホモ属がなぜ脳を発達させたのか説明できなくなっている。私は、ラブジョイ説を否定し、ホモ属以前のホミニドは、チンパンジーと同様に乱婚制で、オスはメスや子供の面倒を見なかったと仮定する。そうすれば、生活環境の悪化を克服するための社会化と道具の使用がホモ属という知能の高い新しいホミニドを誕生させたというストーリーを作れる。

知性の高低を決める要因が何であるかに関しては諸説あるが、最も有力な仮説は、ロビン・ダンバーが提案した社会脳仮説である[23]。ダンバーによると、哺乳動物には、集団規模と大脳新皮質のサイズとの間には相関関係がある。社会のメンバーが増えるほど、社会的エントロピーが増大するので、そのエントロピーを縮減するために、より大きな知性が必要になるということである。

頭脳の発達は、社会化の結果であると同時に原因でもある。骨盤の大きさに限度があるので、頭蓋が大きくなると出産が困難になる。そこで、ヒトは子供を完成した状態で出産せず、脳が小さな未熟な状態で産み、出産後に子供の脳が大きくなるようにした。他の動物では、子供は生まれてすぐに自力で立ち上がるが、ヒトではそうではない。生まれたばかりの子が無力なのも、脳が大きくなった代償なのである。このデメリットを克服するために、オスによるメスや子供へのサポートが重要になる。また社会全体での支えあいも重要になる。脳の発達と社会の発達にはこのような関係があったと考えられる。

5. なぜ現代人は出産のために病院に行くのか

これまで、ヒトの出産が難産になった要因として、直立二足歩行と頭脳の巨大化の二つを取り上げたが、実はもう一つ最近になって付け加わった第三の要因がある。それは近代医学の誕生による出産の医療化である。医学の進歩によって妊婦の死亡率が低下したのは事実だが、同時に自宅や助産所ではなく、病院や診療所で出産するのが当たり前になり、まるで手術によって病気を治す時のように、出産が行われるようになった。

出産画像の表示
病院で子供を産む女性

その結果、出産を取り巻く環境は大きく変わった。例えば、従来、立位や座位で行われていた出産が、病院や診療所では、分娩台で背臥位(仰向けの姿勢)によって行われるようになった。伝統的には、立位や座位が主流であったのには、理由がある。

水平移動よりも垂直に下りる方が、余計な力はいらない。排便する際に、寝ながらよりも尻を地につけずに身をかがめる方が楽なのと同じである。また、しゃがんだ姿勢の方が、背臥位よりも産道が広くなり、胎児が通りやすいし、背臥位では背骨の周囲にある大動脈、大静脈を胎児が圧迫する。その結果、子宮と胎児の血流が滞り、胎児を仮死状態とする要因となる。さらにこの姿勢では、背骨のカーブに胎児が押しつけられるのに対して、前傾姿勢をとる立位や座位では、背骨と子宮の距離が確保され子宮と胎児の血流か滞りにくくなる。[24]

それにもかかわらず、病院や診療所で背臥位での出産が行われるのは、その方が、医師にとって取り上げやすい姿勢であるからだ。つまり、産む側よりも医師側の都合が優先されているということである。出産の日時にも同じことが当てはまる。

本来、生理的現象である出産は、一年中二四時間、いつ、どこで起こっても不思議ではない。しかし、現実には休日や夜間には出産の少ない医療機関が存在する。陣痛促進剤を用いて産科医の都合のよい時間に出産をコントロールしているのである。もちろん、このような処置は、平日の昼間の、医療態勢の整った状態で出産を行うためという理由に加え、近年の産科医不足により、二四時間態勢が困難な医療機関が多いという事情がある。しかし、薬剤を使用してまで出産を行うことを望まない人もいる。[25]

薬剤には副作用もあるから、陣痛促進剤を用いた分娩誘発は安易に行われるべきではない。陣痛促進剤の安易な使用よりももっと問題なのは、安易な帝王切開の選択である。

本来ならば、緊急避難的に行われてきた帝王切開が、世界各地で高頻度に行われているのはなぜだろうか。それにはいくつかの理由がある。医師側の問題としては、アメリカなどでは出産時の事故による訴訟を回避するために、より管理された帝王切開を選択する傾向にあるという。また、病院経営として経膣分娩よりも利益の上がる帝王切開を望むという指摘もある。妊産婦側の事情としては、経膣分娩は痛いとか、体形が変わるといった理由で帝王切開を選ぶ場合もある。にわかには信じがたいが、ブラジルでは経膣分娩による膣の変形を避けるために帝王切開を希望する妊産婦が多数いて、経済的に余裕のある人びとが利用する私立病院では帝王切開率が90%におよぶという。[26]

帝王切開による妊産婦死亡率は、経膣分娩によるそれよりも四倍高いという報告もあるので、さもなくば母子の生命が危険にさらされる特殊なケースを除けば、帝王切開は回避されるべきである。

もう一つ楽なように見えて問題ありなのが、無痛分娩である。

一九世紀以降、麻酔薬や麻酔方法は試行錯誤されてきた。現在、一般的に行われているのが硬膜外麻酔である。この方法では、麻酔薬を背中側から背骨の脊柱管内に位置する硬膜の外側に注入して、痛みだけを取り除く。意識はあるので子宮の収縮は張りとして感じて出産できるという。産科医の中には、難産という人類のかかえたデメリットを、医学の進歩で補うとして積極的に奨励する医師もいる。日本での普及率は5%程度であるが、フランスでは63%におよんでいる。しかし、硬膜外麻酔には危険がともなう。陣痛の痛みは脳を刺激してホルモンを放出させ、子宮の収縮を引き起こして胎盤血流を維持する。しかし、このプロセスが麻酔により中止される。それを補うために、新たに陣痛促進剤を投与するという医療行為が追加される割合が増加する。[27]

陣痛促進剤だけでは不十分なら、吸引分娩、鉗子分娩、帝王切開に頼ることになるので、無痛の代償として母子は大きなリスクを抱えることになる。硬膜外麻酔が合併症や偶発症をもたらすこともある。

無介助自然分娩はリスクが大きいので推奨はしないが、分娩は、医療技術を駆使しなくても通常は自然にできるはずで、例外的な場合を除けば、できるだけ自然分娩に近い方法が採られるべきだ。最近は、水中出産ができる病院が日本にもできているようだ。水中出産を選ぶかどうかは別として、従来の背臥位での出産を伝統的な立位や座位での出産に戻すなど、医師の都合が第一の出産ではなくて、母子の利益が第一の出産に変える努力が行われなければならないだろう。

6. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p.9. 痛みの度合いは、マクギル疼痛質問表による。
  2. UNFPA (United Nations Population Fund). “Trends in Maternal Mortality: 1990 to 2015.” November 2015.
  3. 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p.17.
  4. 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p.25-26.
  5. BruceBlaus. “Pelvis.” licensed under CC-BY-SA.
  6. 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p.27.
  7. ウォール・ストリート・ジャーナル. “「犬にも劣る人間のクズ」が「卑劣な手段で国家転覆謀る」―張氏の処刑理由”. By Alastair Gale 2013 年 12 月 13 日 14:04 JST. accessed 2016/7/25.
  8. テレビ東京報道局『カンブリア宮殿 <特別版> 村上龍×孫正義(日経プレミアシリーズ)』日本経済新聞出版社 (2010/12/9). 第一章「ソフトバンクの組織/お父さんはなぜ犬になったか」
  9. 650万年前のサヘラントロプス・チャデンシスの頃から直立二足歩行は行われていたと推定されているが、サヘラントロプス・チャデンシスは頭蓋骨しか見つかっていないので、はっきりしたことはわからない。これに対して、アルディピテクス・ラミドゥスは、頭蓋骨、歯、骨盤、手足など、多くの部位が残されており、その形状から、確実に二足歩行したと判断できる。ただし、日本人が発見したアルディピテクス・ラミドゥスが最古の二足歩行の例ではない。610万から580万年前の中新世にケニア北西部のバリンゴで生息したとされるオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis ミレニアム・アンセスター)も直立二足歩行していた。
  10. 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p.43-44.
  11. “The proposed model accounts for the early origin of bipedality as a locomotor behavior directly enhancing reproductive fitness, not as a behavior resulting from occasional upright feeding posture. […] Rather, both advanced material culture and the Pleistocene acceleration in brain development are sequelae to an already established hominid character system, which included intensified parenting and social relationships, monogamous pair bonding, specialized sexual-reproductive behavior, and bipedality.” Lovejoy, C. O. “The Origin of Man.” Science 211, no. 4480 (January 23, 1981): 341–50. p.348.
  12. “Here, we report new experimental results showing that wild chimpanzees walk bipedally more often and carry more items when transporting valuable, unpredictable resources to less–competitive places.” Carvalho, Susana, Dora Biro, Eugénia Cunha, Kimberley Hockings, William C. McGrew, Brian G. Richmond, and Tetsuro Matsuzawa. “Chimpanzee Carrying Behaviour and the Origins of Human Bipedality.” Current Biology 22, no. 6 (March 2012): R180–81.
  13. Original Source: Carvalho, Susana, Dora Biro, Eugénia Cunha, Kimberley Hockings, William C. McGrew, Brian G. Richmond, and Tetsuro Matsuzawa. “Chimpanzee Carrying Behaviour and the Origins of Human Bipedality.” Current Biology 22, no. 6 (March 20, 2012): R180–81.
  14. “The substantial fossil record for Australopithecus afarensis includes both an adult partial skeleton [Afar Locality (A.L.) 288-1, “Lucy”] and a large simultaneous death assemblage (A.L. 333). Here we optimize data derived from both to more accurately estimate skeletal size dimorphism. Postcranial ratios derived from A.L. 288-1 enable a significant increase in sample size compared with previous studies. Extensive simulations using modern humans, chimpanzees, and gorillas confirm that this technique is accurate and that skeletal size dimorphism in A. afarensis was most similar to that of contemporary Homo sapiens. These data eliminate some apparent discrepancies between the canine and skeletal size dimorphism in hominoids, imply that the species was not characterized by substantial sexual bimaturation, and greatly increase the probability that the reproductive strategy of A. afarensis was principally monogamy.” Reno, P. L., R. S. Meindl, M. A. McCollum, and C. O. Lovejoy. “Sexual Dimorphism in Australopithecus Afarensis Was Similar to that of Modern Humans.” Proceedings of the National Academy of Sciences 100, no. 16 (August 5, 2003): 9404–9.
  15. 例えば、Plavcan, J. Michael, Charles A. Lockwood, William H. Kimbel, Michael R. Lague, and Elizabeth H. Harmon. “Sexual Dimorphism in Australopithecus Afarensis Revisited: How Strong Is the Case for a Human-like Pattern of Dimorphism?Journal of Human Evolution 48, no. 3 (March 2005): 313–20. これに対するラブジョイたちの反論は、Reno, Philip L., Richard S. Meindl, Melanie A. McCollum, and C. Owen Lovejoy. “The Case Is Unchanged and Remains Robust: Australopithecus Afarensis Exhibits Only Moderate Skeletal Dimorphism. A Reply to Plavcan et Al. (2005).” Journal of Human Evolution 49, no. 2 (August 2005): 279–88. 別のリサンプリングによる反論としては、Gordon, Adam D., David J. Green, and Brian G. Richmond. “Strong Postcranial Size Dimorphism in Australopithecus Afarensis: Results from Two New Resampling Methods for Multivariate Data Sets with Missing Data.” American Journal of Physical Anthropology 135, no. 3 (March 2008): 311–28. がある。これに対するラブジョイたちの反論としては、
    Reno, P. L., M. A. McCollum, R. S. Meindl, and C. O. Lovejoy. “An Enlarged Postcranial Sample Confirms Australopithecus Afarensis Dimorphism Was Similar to Modern Humans.” Philosophical Transactions of the Royal Society B: Biological Sciences 365, no. 1556 (October 27, 2010): 3355–63.
  16. 山極寿一『人類進化論 霊長類学からの展開』裳華房, 2008. p.94.
  17. 帯刀益夫『遺伝子と文化選択: 「サル」から「人間」への進化』東京都千代田区: 新曜社 (2014/1/18). p.60.
  18. 帯刀益夫『遺伝子と文化選択: 「サル」から「人間」への進化』東京都千代田区: 新曜社 (2014/1/18). p.63.
  19. 帯刀益夫『遺伝子と文化選択: 「サル」から「人間」への進化』東京都千代田区: 新曜社 (2014/1/18). p.113.
  20. 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p.47-48.
  21. 帯刀益夫『遺伝子と文化選択: 「サル」から「人間」への進化』東京都千代田区: 新曜社 (2014/1/18). p.90-91.
  22. “The manufacture of stone tools and their use to access animal tissues by Pliocene hominins marks the origin of a key adaptation in human evolutionary history. Here we report an in situ archaeological assemblage from the Koobi Fora Formation in northern Kenya that provides a unique combination of faunal remains, some with direct evidence of butchery, and Oldowan artifacts, which are well dated to 1.95 Ma. This site provides the oldest in situ evidence that hominins, predating Homo erectus, enjoyed access to carcasses of terrestrial and aquatic animals that they butchered in a wellwatered habitat. It also provides the earliest definitive evidence of the incorporation into the hominin diet of various aquatic animals including turtles, crocodiles, and fish, which are rich sources of specific nutrients needed in human brain growth. The evidence here shows that these critical brain-growth compounds were part of the diets of hominins before the appearance of Homo ergaster/ erectus and could have played an important role in the evolution of larger brains in the early history of our lineage.” Braun, D. R., J. W. K. Harris, N. E. Levin, J. T. McCoy, A. I. R. Herries, M. K. Bamford, L. C. Bishop, B. G. Richmond, and M. Kibunjia. “Early Hominin Diet Included Diverse Terrestrial and Aquatic Animals 1.95 Ma in East Turkana, Kenya.” Proceedings of the National Academy of Sciences 107, no. 22 (June 1, 2010): 10002–7.
  23. Dunbar, Robin I. M. “The Social Brain Hypothesis.” Evolutionary Anthropology: Issues, News, and Reviews 6, no. 5 (1998): 178–90.
  24. 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p78-79.
  25. 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p.82-83.
  26. 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p.85.
  27. 奈良貴史『ヒトはなぜ難産なのか――お産からみる人類進化』岩波書店 (2012/9/7). p.86-87.