金本位制は平和に貢献したか
著名な経済人類学者カール・ポランニーは、1816年から1914年までの金本位制の時代を国際協調と平和の100年として懐かしんでいた。確かにナポレオン戦争が終結した1815年以降、第一次世界大戦が起きるまでの約100年間、あまり大きな戦争が起きていない。はたして、金本位制は、世界に平和と安定をもたらす、すばらしい制度であったのだろうか。

1. 平和な100年と金本位制
カール・ポランニーの著作『大転換』(原著:The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time)によれば、平和な百年は、勢力均衡(the balance-of-power system)、国際的金本位制(the international gold standard)、自己規制的な市場(the self-regulating market)、自由国家(the liberal state)という四つの制度に基づいていた。
これらの制度の中で、金本位制が重要であることがわかった。金本位制の崩壊が破局の直接の原因である。金本位制が崩壊するまでに、他の制度の大半を犠牲にしてでも金本位制を救おうとしたが、無駄だった。[1]
平和な100年は、コンドラチェフ・サイクルの第一波動の金利の山から第三波動の金利の山にいたるまでの期間に相当する。途中の第二波動における金利の山(1870年)を形成する過程で、1853-56年にクリミア戦争、1861-65年に南北戦争、1866年に普墺戦争、1870-71年に普仏戦争が起き、物価と金利が上昇している。しかしこれらの一連の戦争は、他のサイクルの金利上昇=インフレ局面で見られる戦争と比べれば、規模が小さい。なにより、金本位制の時代は、物価も金利も安定していた。
2. 金本位制はインフレを抑制する
金本位制には、物価と金利を安定させる効果がある。そもそも、金本位制とは、中央銀行が、発行した紙幣と同額の金を常時保管し、金と紙幣との兌換を保証する堅実な制度なのである。それ以前は、金と並んで銀も本位通貨とされていたが、金本位制を採用すると、銀を本位貨幣から外すために、ベースマネーが減少する。すると、実質金利が上昇するので、貸し出しが控えられ、マネーサプライが減少する。つまり金本位制度導入には、金融引き締めの効果があるわけだ。
1816年にイギリスは、ナポレオン戦争によって生じたインフレを抑えるべく、世界に先駆けて金本位制を導入する。その後、最初に述べたとおり、1870年前後に再びインフレが生じると、ドイツ、オランダ、ベルキー、フランス、イタリア、スイス、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、日本といった先進国が次々と金本位制を導入し、1870年代に国際金本位制が確立された[2]。
当時銀貨の価値が下がっていたので、銀を本位通貨としてインフレを煽ることにならないよう、金本位制を導入した(その結果銀貨はさらに暴落する)ことは正しい判断だったといえる。
3. 金本位制はデフレを長引かせる

問題は、デフレになった時である。1873年にイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアで鉄道バブルが崩壊し、以後19世紀の末まで世界経済は長く深刻な不況に苦しむことになる。例えば、英国の場合、1873~96年の年平均で小売物価が1.7%下落し、1900年までには最大手10行にイギリスの銀行預金の40%以上が集中した。アメリカとドイツでも同様の集中が起きたが、特にドイツでは、カルテルとシンジケートが成長した[3]。
この世界大恐慌は、1929年の暗黒の木曜日から始まった世界大恐慌に匹敵する大規模なデフレだった。そして、金本位制の導入は、このデフレの原因の一つだった。
デフレになると、物価が下落し、貨幣価値が上昇する。物価が下落すると、企業の収益が悪化し、また貨幣価値が上昇すると、貸し渋りにより資金調達が難しくなるので、投資と生産が抑制される。その結果失業者が増えるか賃金が低下する。すると消費が減退し、物が売れなくなるので、値下げによる物価の下落がさらに続く。デフレが新たなデフレを呼ぶデフレスパイラルである。
4. デフレから脱却するための方法
デフレスパイラルから脱却するには、貨幣価値を下げるか、物価を上げるか、どちらかまたは両方を政策的に行わなければならない。
貨幣価値を下げる最も簡単な方法は、ベースマネーの量を増やすこと(量的金融緩和)である。しかし金本位制のもとでは、ベースマネーを増やすには、金の物理的量を増やさなければならない。イギリスでは、当時イギリスの植民地であったオーストラリアや南アフリカでのゴールドラッシュのおかげである程度金の保有量を増やすことができた。しかしドイツやアメリカといった他の新興工業国は、この手段をとることができなかった。
貨幣価値を下げることができないなら、物価を上げるしかない。物価を上げる最も簡単な方法は、戦争で資源を浪費して物不足状態を作ることである。ところが、1873年の大恐慌以降、第一次世界大戦が勃発するまで、デフレを解消するような大きな戦争は起きなかった。これは、大英帝国の軍事力が圧倒的で、どの国もパクス・ブリタニカに挑戦しようとしなかったからではない。19世紀の末になると、アメリカとドイツが、工業生産力という点でも、軍事力という点でも、イギリスを凌駕するようになっていた。だから、実際よりももっと早く、アメリカとドイツのどちらかが大英帝国の世界制覇に挑む戦争をしてもおかしくはなかったのだが、政治的な理由、すなわち、アメリカは孤立主義により、ドイツはビスマルク外交により、大規模な世界戦争は1914年まで延期となった。
戦争という手段を選ばなかった列強諸国は、別の手段で、物価を引き上げた。すなわち、大産業資本がカルテル・トラスト・コンツェルンなどを形成し市場を独占/寡占して、価格を引き上げることを容認したのである。いわゆる独占資本主義の始まりである。時を同じくして、労働組合も結成されるようになった。これは組合が労働市場を独占して、賃金(労働者の価格)を引き上げることを意味している。だからこの当時の社会主義運動の高まり[4]は、独占資本主義に対抗する運動というよりも、これに同調する運動だったのである。
こうして物価下落という意味でのデフレは阻止されたが、独占/寡占による供給サイド主導の価格の引き上げは、需要の減退をもたらすので、先進工業国は、国外に新たな市場を見つけなければならなくなった。その結果、レーニンが帝国主義と名付けた植民地獲得競争が起きる。ドイツは、もはやビスマルク外交を続けることができなくなり、1890年にビスマルクが失脚すると、ヴィルヘルム2世は積極的な世界政策を展開し、これがやがて第一次世界大戦を惹き起こすことになる。こうして、1873年以来の長期のデフレは完全に解消される。
5. 金本位制は戦争の遠因となる
このように、金本位制は、ヨーロッパに平和をもたらしたのではなく、むしろ戦争を惹き起こすデフレの原因となっていたのである。もし、1873年のバブル崩壊後に、大規模なベースマネーの供給が行われていたら、第一次世界大戦は回避できたかもしれない。
言語が世界の情報を代表象するように、貨幣は全商品の価値を代表象する。金の価値の総額は、市場経済で売買される商品の価値と比べると圧倒的に少ない。本位貨幣を金に限ると、市場経済の成長とともに増大する資金需要を満たすことができなくなる。したがって、纏足を続けると、成長する女性の足が屈折していびつになるように、金本位制度を続けると、成長する資本主義が屈折していびつになる。しかし、纏足が女性の足の必然的発展形態ではないのと同様に、独占資本主義は、マルクス主義者がそう誤解しているような資本主義の必然的発展形態ではない。
実際、金本位制度が最終的に放棄された第二次世界大戦以後、特にニクソンが1971年にドルと金の交換を停止して以来、先進国は国内における独占/寡占を容認しなくなったし、植民地獲得のための帝国主義戦争を行わなくなった。
6. 参照情報
- カール・ポランニー『大転換』東洋経済新報社 (2009/6/19).
- Karl Polanyi. The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time. Beacon Press; 2版 (2001/3/28).
- 高橋是清, 井上準之助, 大正・昭和史研究会『高橋是清・井上準之助 論争 昭和恐慌 金解禁・金輸出再禁止: 付・Q&A よくわかる金本位制 歴史に学ぶ金融と経済』2015/12/5.
- 宮崎 正弘『世界は金本位制に向かっている (扶桑社BOOKS新書)』扶桑社 (2013/3/1).
- ↑“Of these institutions the gold standard proved crucial; its fall was the proximate cause of the catastrophe. By the time it failed most of the other instituitons had been sacrificed in a vain effort to save it.” Karl Polanyi. The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time. Beacon Press; 2版 (2001/3/28). p.3
- ↑年代順に並べると、1854年 ポルトガル、1871年 ドイツ、1871年 日本、1874年 オランダ、1878年 イタリア、1878年 フランス、1878年 ベルキー、1881年 アルゼンチン、1885年 エジプト、1892年 オーストリア、1892年 ハンガリー、1897年 ロシア、1899年 インド、1900年 アメリカという順序で金本位制が導入された。日本は日清戦争によって得た賠償金を準備金にして1897年に金本位制に加わった。
- ↑ゾンバルトは、自由放任のもとでは独占が自動的に成立すると考えていたが、実際にはドイツの独占資本主義は、上からの産業の意図的な組織化と統制の産物であった。
- ↑ドイツでは1879年に、イギリスでは1880年と1897年に、オーストリアでは1887年に、フランスでは1899年に社会保障制度ができ、工場の視察も、イギリスでは1833年に、ドイツでは1853年に、オーストリアでは1883年に、フランスでは1874年と1883年に行われるようになった。
ディスカッション
コメント一覧
別に懐かしんでもいないように思えますが・・・
19世紀自由市場社会の教義を再構築しようとしたのは、むしろハイエクでは?
永井さん初めまして。かねてよりふとした疑問を調べると、こちらのサイトに辿り着くことが多く、その度に学びが深まることに感謝しております。
私はリバタリアンの端くれとして、永井さんと非常に考え方が近いと思っているのですが、それだけに認識の不一致が気になるので質問させてください。
本投稿ではデフレは放置すべきではないという認識の元、脱却のために本来リバタリアンが忌避する政府の介入を許してしまっています。しかし、なぜデフレは問題なのでしょうか。
とありますが、物価の下落を示されただけでは何が問題なのかがわかりません。
物価の下落は購買力の上昇であり、それ自体は消費者にとって問題ではないはずです。ある商品に関して、ある消費者は「安くなるまで待とう」と考えているかもしれませんが、別の消費者が「十分に安くなったから買おう」と考える可能性を排除すべき理由はないと思います。結局のところ、消費者の現在の需要に応える商品は売れるし、競合商品に劣る商品は売れないというだけの話ではないでしょうか。インフレに矯正するための政策で供給される貨幣によって消費者が望まない活動が行われるよりよっぽど健全な経済と考えます。
実際、”Less Than Zero”でこの時期の経済の実態を分析したGeorge Selginは、
と結論しています。
また、
とありますが、金本位制では資金需要を満たすことができなくなる理由がわかりません。
売買に関する限り、商品の価値とは価格のことだと思いますが、価格とは販売者が商品を手放す代わりに最低限要求する貨幣の数量と理解できます。一度取引に使用した貨幣がもう使えなくなるのであれば価格の総和分の貨幣が市場に必要ですが、我々は使用済みの貨幣でも受け取ります。つまり、貨幣は循環するので、実際に市場に必要な貨幣の量は価格の総和より圧倒的に少ないはずです。
もちろん、販売者は任意の価格で売却できるわけではありません。たとえば、商品を価格金0.1gとして販売する場合、購買者が金0.1gをその商品より高く評価していれば、買ってもらえません。しかし、こういった競争は貨幣の量が多かったとしても無くなりません。もし無くなったとすれば、その経済はもはや市場経済ではないでしょう。
また、私自身は貨幣間の競争を支持していますが、本位貨幣を金に限ったとしても、銀などの代用貨幣や貨幣証券を用いれば、金の物理的な制約上の不便は解消できます。
デフレが悪という社会通念は、インフレで得をする経済主体(政府など)によって促進されたドグマであると思います。質が悪いことに、政府は最低賃金制度や納税額の固定によって、このドグマを現実にしてきました。問題はデフレではなく、デフレを問題化する政府の介入ではないでしょうか。
リバタリアンの中には、ロン・ポールのように、政府や中央銀行が金融政策を通じて市場に介入することを否定し、金本位制の復活を主張する人がいます。私は、「民間にできることは民間で」というリバタリアンな考えに賛同していますが、この小泉純一郎が流行させたモットーは、裏を返せば「民間にできないことは政府で」ということでもあります。通貨の発行は政府と中央銀行にしかできず、民間が勝手に通貨を発行すれば、通貨偽造罪になります。それゆえ、通貨の発行量が経済に好ましくない影響を与えているのなら、その量を調節することは、政府や中央銀行が行わなければならない仕事であると言うことができます。
もちろん、民間は、法定通貨であることを偽らなければ、貨幣もどきを自由に発行することはできます。特に近年、民間で仮想通貨が多く発行されるようになりました。しかし、それらが法定通貨を不要にすることはなかったし、これからもないでしょう。分散型台帳技術(ブロックチェーンに限定されない広義の偽造防止技術)自体は、取引コストを引き下げる有望な技術ですが、法定通貨もこの技術を用いて発行することも可能ですから、技術的な理由から法定通貨が時代遅れになることはないでしょう。むしろ通貨を用いた取引がデジタル化されればされるほど、中央銀行はより正確な情報をリアルタイムで入手することが技術的に可能になり、より適切な金融政策を行うことができます。
政府や中央銀行が、デフレやインフレを阻止するべきか否かを論じる前に、そもそもデフレやインフレの本質とは何かについて理解しなければなりません。デフレとは通貨収縮で、インフレとは通貨膨張です。多くの人は、デフレとは物価が下落すること、インフレとは物価が上昇することと認識していますが、デフレの結果物価が下落するとか、インフレの結果物価が上昇するとは言えても、そうした付随現象を本質とみなすことはできません。実際、価格統制が行われている場合、物価が変わらないのにデフレあるいはインフレが進行するということもあります。また、非通貨的な要因で、物価の下落や上昇が起きることもあります。だからデフレやインフレを物価の下落や上昇と同一視するべきではないのです。
なぜこういうことを強調するのかといえば、リフレの話をすると、「企業努力や技術革新で物価が下落すれば、消費者は購買力を増し、豊かになるのだから、デフレを否定するのは間違いだ」といった的外れなリフレ批判をする人がしばしば出来するからです。企業努力や技術革新で財やサービスのコスト・パーフォーマンスが改善することは、歓迎するべきことです。だからといって、デフレを放置してよいということにはなりません。なぜなら、両者は原因が別の全く関係のない話だからです。
企業努力や技術革新で財やサービスのコスト・パーフォーマンスが改善する場合とは異なり、デフレで物価が下がる時、消費者の購買力は増大しません。なぜなら、消費者の賃金も同じように下がるからです。反対にインフレで賃金が上昇しても、物価が同じように上がるなら、生活は楽にはなりません。このように、デフレであれインフレであれ、それ自体は経済に対しては益にも害にもなりません。
では、なぜデフレを放置してはいけないのかと言えば、それは、人間が予想する動物だからです。デフレが原因で全般的な物価下落が始まると、人々は今後も同じことが起きると予想します。消費者が、さらなる価格の下落を期待して購入を延期するだけではありません。通貨の保有者が、使うよりも死蔵した方が有利と判断し、投資や融資を控えます。その結果、生産活動が落ち込み、さらなるデフレを帰結します。つまり、問題は、デフレそのものではなくて、デフレ期待であり、予想の自己実現によるデフレ・スパイラルというポジティブ・フィードバックです。
健全なインフレは生産活動を促すので、デフレよりも好ましいのですが、こちらでも、予言の自己実現によるポジティブ・フィードバックが作動するので、行き過ぎることがあります。具体的な弊害としては、資源の浪費や乱脈融資の促進といった問題を挙げることができます(スタグフレーションやハイパーインフレはまた別の問題)。だから、景気が過熱するときには、政府と中央銀行による引き締めが必要です。
「小さな政府」を主張する人たちは、金本位制を採用して、政府や中央銀行が市場をコントロールしなかった時代を理想化します。しかし、金本位制が成り立つほど経済規模が今よりもずっと小さかった時代でも、それはデフレを帰結したし、デフレは、戦争を含めた公共事業への人々の渇望を高めました。つまり、金本位制は、結果としては「大きな政府」を帰結してしまったのです。そうした歴史的事実をふまえた上で、私は「小さな政府」を理想視するがゆえに、リフレ政策を支持するというスタンスをとっているのです。
ご返信くださりありがとうございます。
「民間にできることは民間で」という考えは、市場原理至上主義の帰結ですよね。私の根本的な疑問は、市場原理至上主義の永井さんが貨幣に関しては市場原理に委ねようとしない理由です。私は民間で貨幣を供給させ、かつ民間で貨幣を選択させる市場原理に従うのが至上の貨幣政策と考えています。ただし、過去の反省あるいは財産権制度の当然の要請から、あらゆる貨幣代用物についてそれぞれ100%の準備を義務付けます。永井さんがよく仰るように、政府は審判の役割に徹するということです。
元のご投稿のテーマは金本位制なのでやや脱線となりますが、可能であれば以後貨幣制度一般の議論として検討いただけると幸いです。
「法律で通貨の発行は政府と中央銀行にしかできないと定められているから、その量の調節は政府や中央銀行が行わなければならない」という論理については、私は通貨発行権を政府と中央銀行に限る法律は不要と考えているので納得しかねます。
私は生活者に特定の運営者の貨幣を通貨として押し付けることが問題と考えているので、たとえ法定通貨が分散型台帳技術を取り入れたとしても変わらずに反対します。より正確な情報をリアルタイムで入手できるようになっても、その情報をどのように解釈し対応すべきか、できるのかといった問題は依然残るはずであり、その解決は市場原理に委ねるべきだと思います。
デフレやインフレの本来の定義については承知しています。本来の定義に従うのであれば、原則として金本位制自体はデフレを引き起こさないか、起きたとしてもほどんど経済への影響はありません。歴史上の金本位制における(悪性の)デフレは、正貨から派生してつくられた流通信用の信用収縮として発生しています。金本位制で100%の準備を義務付けて流通信用を排除すればデフレは防止できます。たしかロン・ポールさんも金本位制の単純な復活ではなく、このようにかつて問題を引き起こした原因を取り除いた形の、いわば修正金本位制を主張していたはずです。しかし、物価の下落が問題であれば、修正金本位制でもダメということになるため、私は物価の下落を問題視する議論が気になっています。
誤解を招いてしまいましたが、私が購買力の上昇と述べたのは貨幣価値の上昇のことです。貨幣価値は物価の逆数なので物価が下落すれば上昇するのは間違いありません。私は「的外れなリフレ批判をする人」とは違って、物価の下落で「豊かになる」ではなく「問題ではない」と述べただけですが、たとえば引退した労働者に貯金しかない場合などを考えると、どんな人でも経済発展の恩恵にあずかれる物価の下落の方がどちらかといえば好ましいと思います。
デフレやインフレ自体はコスト・パーフォーマンスと無関係かもしれませんが、リフレ政策は市場に対する政府の介入なので少なからず悪影響を与えます。デフレを放置した場合、貨幣価値が上がるのと同じように賃金が下がる(たとえば1.1倍に上がると同時に1/1.1倍に下がる)としても、リフレ政策を行わなければ、政府の介入で経済計算が歪まされることのない分だけ、総合的には経済に対して相対的に益と評価できます。
デフレ・スパイラルに対しては、
「ある商品に関して、ある消費者は「安くなるまで待とう」と考えているかもしれませんが、別の消費者が「十分に安くなったから買おう」と考える可能性を排除すべき理由はないと思います。結局のところ、消費者の現在の需要に応える商品は売れるし、競合商品に劣る商品は売れないというだけの話ではないでしょうか。」
と、既に述べたのですが、反論になっていなかったのでしょうか。投資や融資についても同様に、死蔵するよりも今実行すれば得られる利益が大きくなると判断する可能性を排除すべき理由はないと思います。そもそも投資とはそういうものではないでしょうか。
インフレ自体は経済に対して益にも害にもならないと仰っていたので、「生産活動を促す」とされる「健全なインフレ」とはリフレのことだと思いますが、リフレ政策に対しては、
「インフレに矯正するための政策で供給される貨幣によって消費者が望まない活動が行われるよりよっぽど健全な経済と考えます。」
と、放置した方が消費者にとってより望ましい生産活動が行われるはずであることを既に主張しています。リフレ政策を実行すると、消費者から自発的に支払われる貨幣ではなく中央から供給される貨幣に対して資源が配分されてしまうということです。
デフレは戦争を含めた公共事業への人々の渇望を高めて「大きな政府」を招いた、との歴史評価については、十分なデータが無いため賛同も反対もできません。仮にそれが普遍的真理であったとしても、金本位制はデフレを帰結し、デフレが「大きな政府」を帰結するから反対ということであれば、前述したデフレを帰結しない100%準備の金本位制であれば問題ないのではないでしょうか。つまり、歴史の評価としては正当かもしれませんが、金本位制自体への普遍的な反対理由にはなっていないと思います。
また、”「小さな政府」を理想視するがゆえに、リフレ政策を支持するというスタンス”には反対です。私はデフレ対策のために中央が通貨を独占することが「大きな政府」を招くと考えており、現実に世界各国でそうなっています。永井さんはよく「大きな政府」であるかを歳出の大きさで判定なさっていますが、中央が通貨を供給してインフレ税という見えない形で国民の富が奪われることで、歳出の増大が促進されています。金本位制の廃止以降、インフレが進む中で政府が急速に大きくなっていることもまた歴史的事実であると思うのですが、そちらの側面は無視するのでしょうか。
通貨は、政府と中央銀行しか発行できませんが、民間にも通貨として機能する有価証券を発行する自由があります。
例えば、本の紹介でアマゾンから私に支払われる報酬は、通貨で受け取ることもできますが、アマゾン・ギフト券で受け取り、それで好きな商品をアマゾンで買うこともできます。この場合、アマゾン・ギフト券は通貨と同じような機能を果たしていると言うことができます。アマゾン・ギフト券を発行する権利はアマゾンにしかなく、誰かが偽ってアマゾン・ギフト券を勝手に発行すれば、有価証券偽造罪になります。しかし、アマゾンがアマゾン・ギフト券の発行権を独占するのはけしからんと非難する人は誰もいません。この点では、官も民も同じなのです。
では、官と民との違いは何かといえば、それは物価(ないしは物価の変動率)の安定に対して責任を負っているか否かという点にあります。仮想通貨の場合、ほとんどの人は投機目的で保有しているので、儲けるためには、物価、つまり物の価値との相対における仮想通貨の価値はむしろ安定してもらっては困ります。政府や中央銀行と逆のモティベーションを持っているとすら言うことができます。
そこで次に、政府や中央銀行に物価(ないしは物価の変動率)の安定を義務付けることが良いことなのかどうかが問題となります。
一般的に言えば、政府は市場経済に介入するべきではありません。それは、政府による介入が民間での公平なイコール・フッティングの競争を阻害するからです。日本の官僚がよくやるように、特定の事業者だけに規制と補助金で優遇する許認可を与えると、本来淘汰されるべき事業者が生き残り、本来生き残るべき事業者が民業圧迫で退場させられるといった不公平な事態が起きえます。
ところがリフレ政策は、こうした事業者間の不公平さを生み出しません。資産買い入れを行うなら、どの資産を買うかに関して不公平さが生じえますが、この手段を使わなくてもリフレを行うことができますから、本質的な問題ではありません。金融を緩和しても、引き締めても、優良な事業者がそうではない事業者よりも投融資において優先されるという関係性は変わらないのです。それどころか、もしも物価(ないしは物価の変動率)の安定に成功するなら、時間軸上に生じる不公平さを是正することすらできます。
人々がマイナスのインフレ期待を持っているとき、通常なら投融資の対象となる優良事業ですら、資金を集められないことがあります。他方で、バブルになると、通常なら投融資の対象となるはずのない泡沫事業までが、分不相応の資金を集めてしまいます。こうした時間軸上に現れる環境の差異は、完全になくすことはできないにしても、縮小することで、時間軸上に生じる不公平さを減らすことができます。
このように、一口に政府あるいは中央銀行による市場経済への介入といっても、イコール・フッティングの競争を阻害する介入とそうではない介入があるのですから、両者をまとめて否定することは賢明ではないと思います。
リタイヤした労働者も貯金を投資すれば、リフレ政策は資産インフレをもたらすので、経済発展の恩恵に与ることができます。
リフレ政策を行ったからといって、消費者が望まない活動を強いられるということはありません。リフレ政策は法的強制を伴っておらず、消費者には自由が与えられているのですから、消費者は自分が望むことしかしないはずです。
プロパタリアンさんが謂う所の「100%準備の金本位制」がどういうものかはよくわかりませんが、似たような制度に預金保険制度があります。この制度のおかげで、銀行の取り付け騒ぎが起きなくなりましたが、だからといってデフレが起きなくなったということはありません。あるいは、プロパタリアンさんは、株式の損失補填のような制度を考えているのでしょうか。
デフレの時は、インフレ税を増やし、デフレ効果のある税金(消費税、所得税、法人税など)を減らせば、全体として増税を回避しつつ、リフレ効果を発揮することができます。反対に、インフレが過熱するときには、デフレ効果のある税金を増やすことで、ディスインフレ効果を発揮することができます。どの税金のウェイトを増やすかという問題と歳入全体を増やすという問題は別であり、大きな政府を回避するために必要なことは、全体の歳出あるいは歳入の規模を抑制することであって、その内訳は関係ありません。
因果関係が逆です。インフレになったから政府が大きくなったのではなくて、政府が大きくなったからインフレになったのです。1930年代に世界恐慌をきっかけにデフレになると、大きな政府が求められました。反対に、1970年代にインフレが深刻になると、福祉国家が見直され、小さな政府が求められるようになりました。
PrometheusさんがGoogle+でコメントを書いてくれたのですが、Google+はあと一ヶ月で終了になるので、こちらで引用して、返答しておきます。
ビットコインは、もともと量的金融緩和によって減価していた米ドルに対抗して発行されたので、「インフレ通貨」になることを最初から目指したのではなかったのですが、その後さまざまな仮想通貨が雨後の筍のごとく乱立し、2018年には仮想通貨の価値が暴落しました。結果としては米ドル以上に価値が不安定な通貨もどきとなってしまいました。
ビットコインが経済全体に与える影響はそれほど大きくはありませんが、銀行が行う信用創造は、マネーサプライという点で重要な役割を果たします。信用創造は、銀行による貨幣発行と考えることができます。デフレ・スパイラルが起きると、信用創造は縮み続け、民間だけでそれを阻止することは困難であるため、政府と中央銀行がリフレ政策をとることが重要になります。
やはり通貨発行権というと語弊がありますね。「通貨発行権を政府と中央銀行に限る法律は不要」という主張の意図は、政府と中央銀行だけが発行できる貨幣を税制上優遇したり強制通用力を付与したりして特別扱いする法律が不要という意味です。貨幣の供給は「民間にできること」であり、金であれBitcoinであれアマゾン・ギフト券であれ、他者がどの貨幣を用いても損害が及ぶことはないので、このような法律は廃止して公平な競争をさせるべきであると考えます。
市場原理至上主義者として、本来ならこの考え方に賛同いただけると思うのですが、永井さんが現状の制度を認めるのは、物価(ないしは物価の変動率)の安定を重視しており、なおかつ、それをイコール・フッティングの競争を阻害せずに政府・中央銀行が実現できると考えていらっしゃるからと理解しました。しかし、どちらの考えにも異議があります。
まず、物価(ないしは物価の変動率)の安定は、
といった事態を減らせるとするご見解から検討します。
消費者がマイナスのインフレ期待を持つ、すなわち、さらなる物価の下落を予想していても、優良な事業であれば高い利回りを提示することで資金を集められるはずです。「通常なら」と、物価の下落が予想されていない環境を本来の状態として論じるのは論点先取ではないでしょうか。私は消費者が継続的な物価の下落を予想している経済こそが、政府の介入がない場合の通常の経済であると思います。人々は相対的に早く価格が下落する財を貨幣として持とうとはしないと考えるからです。
バブルは特定の資産に関する話で、中央銀行が調整しようとする物価とは直接関係ないのではないでしょうか。バブルが金融政策によってもたらされることはあると思いますが、それはむしろ介入に反対すべき根拠です。
そもそも一般に貨幣保有者が求めているのは物価(の変動率)の安定ではなく、購買力が高まると期待できる貨幣であると思います。政府が安定して購買力が高まるような貨幣を供給できるのであればいいですが、政府にできるのはせいぜい購買力を安定して下落させることだけで、民間の優良事業以上に購買力を安定して上昇させることはできないでしょう。仮に物価(の変動率)の安定が求められているとしても、ハイエクがDenationalization of Moneyで述べたように、民間でもそのような貨幣を提供することはできるはずです。Bitcoinなどの仮想通貨は元々物価(の変動率)の安定を目的としていないだけです。むしろ掲げた目標を達成できていないのは中央銀行の方です。
次に、イコール・フッティングの競争を阻害せずリフレ政策を遂行できるというご見解を検討します。
私の「インフレに矯正するための政策で供給される貨幣によって消費者が望まない活動が行われる」という主張の意味は、消費者が不自由になるということではなく「リフレ政策を実行すると、消費者から自発的に支払われる貨幣ではなく中央から供給される貨幣に対して資源が配分されてしまう」と述べた通りです。金融緩和の過程から資産の買い入れを排したとしても根本的な問題が残ります。政府はリフレ政策に伴って必ず特定の貨幣(法定通貨)を優遇し、貨幣間の競争を阻害せざるを得ないという点です。
おそらく永井さんが想定なさっている手法は「調整インフレは有害か」で言及されていたヘリコプターマネーでしょう。国民全員に対して一定の給付を行い続ける政策ならば他のどんなリフレ政策より公平であると思います。電子マネーであれば定期的に口座残高に対して2%を追加供給するといった操作が容易にできます。しかし、そうすると購買力が下落するのは確実で、人々がそのような貨幣を自発的に選ぶことはまずないため、政府は法律でその貨幣を優遇する必要が生じるでしょう。これは民業圧迫以外の何物でもありません。
念のため述べておきますが、私は原理主義的に政府の介入に反対しているわけではありません。実際、私が支持する貨幣制度では、貨幣の供給を市場に放任すると部分準備に発展してしまうことを懸念し、100%準備を義務付けるという介入を認めています。
自由市場では貨幣を保有しているだけで実質的に分散投資していることになります。市場の利子率が貨幣の需給に一致しているからです。一方で資産にリスクヘッジしながら投資するには知識や手数料・取引コストなど一定の資力が必要になるため、そうしなければならない環境は不公平です。結果として不要な格差拡大をもたらし(てい)ます。
100%準備の金本位制は私のオリジナルの提案ではなく、通貨学派の伝統を受け継ぐオーストリア学派経済学者が提唱している貨幣制度です。ちなみに先に登場したロン・ポールさんもオーストリア学派経済学の学徒です。100%準備とは、貨幣代用物の発行額に対して本来の貨幣を100%準備させるという意味です。本来の貨幣とは、債権債務といった法的関係から自由な貨幣すなわち商品貨幣のことです。金本位制で言えば、本来の貨幣である金を100gしか保有していない銀行は100g分までしか貨幣代用物(額面で準備金との兌換を約束された紙幣や預金通貨など)を発行できないということです。 このような制度下ではデフレ(通貨収縮)は事実上発生しません。
法的に解釈すれば、一つの財産に対して同時に二人以上の財産権を割り当てないことを保証する制度と言えます。不確定性・エントロピーを縮減するための制度として評価いただけるのではないでしょうか。
一方で、歴史的には預金が同時に引き出されることはないと想定した銀行が準備金以上の貨幣代用物を発行してきました。おそらく借金しやすくするためだと思いますが、政府はそれを合法化して追認してきました。預金保険制度はむしろこうした部分準備(信用創造)を前提としたものなので100%準備制度とは全く趣旨が異なります。
もちろん理屈の上では無関係ですが、実際問題としては影響しているはずです。もし政府・中央銀行が通貨発行権を持たずインフレ税に期待できなければ、歳出を賄うために目に見える課税を増やす必要があります。その場合、国民からの反発はより大きくなるはずです。したがって歳出の抑制が期待されるということです。
私は「インフレになったから政府が大きくなった」とは述べていません。永井さんがデフレが大きな政府を招くからインフレにすべきと主張なさっているので、歴史的にインフレになっても政府は大きくなっていると反論したまでです。しかし、あながち間違いとも言えないと思います。
なぜなら実際の因果関係は、部分準備制でインフレ(信用拡大)になり、信用収縮が起きたから不況になり、不況になったから大きな政府が求められたと考えられるからです。1930年代の世界恐慌の例で米国における経緯を整理すると、物価が下落していた1920年代に、1913年に設立された連邦準備銀行の物価安定化政策によってインフレ(信用拡大)が促進されて好況となり、それにより形成された資産バブルが1929年に弾けて信用収縮で不況となり、フーバー、ルーズベルト政権下の大規模な政府の介入を招きました。つまり、インフレ(信用拡大)こそが大きな政府の呼び水と評価できます。デフレは原因ではなく過程です。
よって、やはりインフレ(信用拡大)できない100%準備の金本位制(あるいは自由通貨制度)に移行するべきです。
信用貨幣説に対してコメントしておくと、信用は貨幣の通用力を高めますが、それ自体が貨幣となることはできないはずです。あらゆる信用貨幣は元々商品との兌換によって価値が認められているので、商品貨幣説の方がより汎用性のある理論です。つまり、信用から独立した貨幣は存在しますが、商品から独立した貨幣は存在しません。すべてのお金が負債(債権)ではなく、ある負債(債権)がお金(お金になる負債がある)が正しい命題です。
たとえば信用貨幣論者はヤップ島の石貨を例に挙げて、債務と債権の記録が貨幣の本質であり、貨幣にとって商品は必要条件ではないと議論しますが、商品貨幣論者は取引の度に必ず商品の形で貨幣を譲渡する必要性があると主張しているのではなく、帳簿上で済ませるにしても記録されている債権は必ず一定量の何かしらの商品との兌換を要求しているはずだから、そこまで遡って商品貨幣説で説明すべきであると議論しているのです。
ところで、Prometheusさんは信用創造を認めないのは非資本主義者という独特な主張をされていますが、私にとって資本主義経済は生産手段が私有された経済という程度の認識です。信用創造を必要条件と定義するのであれば、私は資本主義者ではありません。
リフレ政策は対症療法であり、そもそもの信用創造を阻止することが抜本的な解決策です。そして、その手段が100%準備を義務付けることです。
「電子マネーであれば定期的に口座残高に対して2%を追加供給するといった操作が容易にできます。しかし、そうすると購買力が下落するのは確実で、人々がそのような貨幣を自発的に選ぶことはまずないため、政府は法律でその貨幣を優遇する必要が生じるでしょう。」
と述べましたが、貨幣購買力が下がっても、その分だけ確実に保有量が増えるのであれば購買力は下がらないですね。あとは運営費を徴税ではなく寄付金で賄えるのであれば、このようなヘリコプターマネー方式でもいいと思います。
というより私としては、貨幣間の公平な競争が妨げられず、100%準備が義務付けられているのであれば、各貨幣の運営がどのようなポリシーで行われていても構いません。むしろ多様な試行錯誤を歓迎します。
日本政府は、原則として、納税を日本の法定通貨で行わせます(物納が認められる場合もありますが、例外的)。「税制上優遇」とはこのことを言っているのですか。それなら、アマゾンのギフト券にも同じことが言えません。アマゾンでは、楽天ポイントのような他社が発行する通貨もどきは使えません。その意味では、アマゾン内部では、アマゾン・ギフト券が「優遇」されていると言えます。また、マーケットプレイスの出品者を含めて、アマゾン・ギフト券による支払いが拒否されません。つまり、強制通用力があるということです。
もちろん、アマゾンの外では、強制通用力はありませんが、それは日本円でも同じことです。日本円は、海外では強制通用力がありません。全世界で強制通用力を持つ通貨はないのです。もちろん、米ドルは、最も通用力のある通貨だし、日本円もハードカレンシーなので、そこそこ通用力はあります。どの程度通用力があるかは、国家間の競争の結果決まるのだから、そこには民間発行の通貨もどきの通用力をめぐる競争と同様の公平性はあると思います。
ここで謂う所の「通常」とは平均ということです。経済は、一時的にデフレに陥ることはあっても、長期的には成長するので、インフレになります。だから、平均としての通常は、穏やかなインフレであり、インフレ・ターゲットの目標は、経済を穏やかなインフレにすることです。もしも、長期的にデフレが続くことが正常だと思っているなら、その人は資本主義を信じていないということになります。資本主義とは、「生産手段が私有された経済」以上のもので、富をすべて消費せずに、さらなる富の拡大生産のために投資するという思想です。富がどんどん増えていくのだから、貨幣価値は下落しなければなりません。
それこそがリフレ政策の狙いです。デフレでは、人々は投資や融資をせずに、価値が高まると期待される法定通貨を持とうとします。それを止めさせ、民間発行の通貨もどきである株や社債を持たせるように動機付けるべく、リフレ政策を行うのです。
既に市中に出回っている株や社債が、プロパタリアンさんが謂う所の「民間の優良事業」が発行する「購買力が高まると期待できる貨幣」です。リフレ政策は、法定通貨を優遇するどころか、むしろ冷遇する政策なのです。民間発行の通貨もどきの利用を推奨しようとするリフレ政策にプロパタリアンさんが反対する理由は何なのですか。
株でも、最小限の「知識や手数料・取引コスト」で分散投資し、確実に資産を増やす方法があります。それは、インデックス投信を買って、長期間保有し続けるという方法です。ウォーレン・バフェットは、知識のない投資家にS&P500に連動する投資信託の保有を推奨していますが、もっとリスクを分散する方法として、MSCIの先進国株式インデックス・ファンドがあります。
株は、短期的には下落することはあるし、一つの銘柄なら、会社が倒産して無価値になることもあります。しかし、世界の主要企業の株式で構成されるインデックス・ファンドを10年以上保有し続ければ、非常に高い確率で、資産を増やすことができます。それは、既に述べたように、資本主義社会は、長期的には富を増やし続けるからです。
言葉というものは、表面的に同じでも、使っている人により意味が違います。オーストリア学派といっても色々な経済学者がいるし、同じ経済学者でも時代とともに考えが変わるので、どういう意味で使っているかは、使用者が自分の言葉で説明するべきです。
現在、民間は、保有する金などの商品貨幣の量とは無関係に、自由に通貨もどき(貨幣代用物)を発行することができるのですが、その自由を制限しろというのですか。プロパタリアンさんが民間による通貨発行の自由を肯定しているのか否定しているのか、わからなくなってきました。私には、これは政府による不当な自由の制限に思えます。
しかも、それがデフレ(通貨収縮)をもたらさないというのはどういうことですか。通貨が膨張したり収縮したりする上で重要なのは、広義のマネー・サプライです。商品貨幣で発行を制限すると、民間での信用創造が行われなくなります。現在の中央銀行は、保有する金以上のベース・マネーを供給しているので、プロパタリアンさんの提案に従えば、ベース・マネーだけでなく、広義のマネー・サプライも大幅に減少し、とんでもない通貨収縮になります。生産活動は壊滅的に落ち込み、大量の失業者が巷に溢れ、人々は阿鼻叫喚の生活苦に陥ることになるでしょう。