祭りとは何か
ネット上で発生する祭りは、伝統的な祭りとどのような共通点を持つのか。2ちゃんねるで神と呼ばれるのはどのような人たちか。なぜ2ちゃんねるには「クマー」が出没するのか。2ちゃんねるでのフィールドワークを通して、祭りの民俗学的分析を行い、これらの問いに答えよう。
目次
1. 祭りの本質を語源から考える
「祭り」の語源は何であろうか。折口信夫は「祭(まつ)る」の語源を「たてまつる」に求め[1]、柳田国男は「まつらふ」に求めている[2]。だが、「たてまつる」は「たつ」と「まつる」の合成語であり、「まつらふ/まつろふ」は、「まつる」に、継続を意味する「経(ふ)」という語尾を加えたもので、根源的な語源を示すものではない。根源的な語源ということであれば、「祭り」「祭る」の語幹である「まつ」と「待つ」との共通性に注目するべきだ。白川静は、「まつり」に関して、次のように解説している。
神のあらわれるのを待ち、その神威に服することをいう。「待つ」と同源の語。祭酒を「待酒」という。まつりのことをまた「まち」「日まち」のようにいうところもある。[3]
祭りとは、神の出現を待つことである。では、神とは何か。ここでも、語源分析が手掛かりとなる。かつて「神(かみ)」の語源は「上(かみ)」と考えられていたこともあった。しかし、前者の「み」が乙音であるのに対して、後者の「み」が甲音であることから、現在では支持者は少ない。神の語源に関しては、定説はないが、日本語の「神」とアイヌ語の「カムイ」が同語源であることに異論を唱える人は少ない。そして、アイヌ語の「カムイ」には熊の意味もある。日本語でも、「かみ」と「くま」の間には密接な関係があるのではないか。
一般的に言って、音韻の変遷において、子音は母音よりも変化しにくい。“kami”でも“k_m_”という子音の部分は変化せずに、母音の部分だけが変容を被ったと考えるなら、「かみ」と「くま」を同語源とみなすことに問題はない。そして、神と関連がある「くま」には、「隈」「熊」「奠」の三つがある。これらを順次解説しよう。
まず「隈」であるが、これは現代でも「くまなく探す」などの表現で使われている。また、白川の解説を引用しよう。
山や川ぞいの入りこんだみえにくいところ。そのようなところは、神の住む聖所とされることが多かった。[4]
古来より、日本には、死者は山中の異界、つまり地母神の胎内に回帰するという信仰がある。「山や川ぞいの入りこんだみえにくいところ」とは、地母神の女陰であり、あの世とこの世のを結ぶ通路と考えられていた。アイヌの人々が、地母神の女陰と観念していた山の隈から現れた熊を、異界から来た神の化身と考えたことは、ごく自然なことである。
いわゆるアイヌのイヨマンテとは、アイヌの人々が、山で狩って、上等の餌を与えて、生贄として1-2年大切に飼った小熊を屠って、肉を食べ、その霊魂を山奥の異界に送り返す祭りである。彼らにとって、神は霊魂であって、熊の肉や毛皮は、神が人間のために持ってきた土産である。だから、熊を屠ったときに神が現れるのであり、その神の出現を「待つ」ことが「祭り」なのである。
アイヌのイヨマンテで屠られる生贄は、熊に限定されない。シマフクロウやシャチが生贄となることもある。日本本土では、新嘗祭に見られるように、米が供された。米に宿る神もまた、地中からこの世へと立ち現れ、食料という土産を私たちに届け、秋になると枯れて、地中に戻っていく。天皇が米を食し、その収穫に感謝しながら、神送りをし、来年の豊作を祈る新嘗祭は、アイヌのイヨマンテとよく似ている。かつての日本人は、米のような供え物を「奠(くま)」と言った。「供米(くまい)」や「米(こめ)」は、「神」と同様に、“k_m_”という子音の部分は変化せずに、母音の部分だけが変容を被っている「くま」と同系の語である。
以上の語源分析から、祭りとは、隈に潜む熊などの奠を屠ることで神が顕現し、そして神があの世へと発っていくことを待つことだと言うことができる。これが祭りの根源的な意味であり、「たてまつる」や「まつろふ」はここから逆に説明される。「たてまつる」の「たつ」は「発つ」であり、神があの世へと発つことを待つという意味である。そして、「まつろふ」とは、祭りの儀式の反復を通じて、神威に服することである。
ところで、人々は、なぜ、以上のように定義された祭りを行う必要があるのだろうか。私は、その社会学的機能は、カタルシスにあると思う。この世が光の世界だとするならば、あの世は闇の世界である。隈は、この世から見たあの世との境界であり、隈から現れる熊や奠は、境界上の両義的存在である。この両方の世界に帰属する両義的存在者をあの世へと送り返し、境界を再設定し、両義的存在者によって増大したシステムのエントロピーを縮減する(つまりコミュニティの秩序を取り戻す)こと、これがカタルシスの機能である。
排除された両義的存在者は、いつも神と認知されるわけではなくて、節分の豆まきのときのように、鬼として認知される場合もある。「鬼(おに)」は「陰=隠(おぬ)」に由来し、その点では「隈」に由来する「神」とよく似ている。生贄を神に捧げることと鬼をスケープゴートとして排除することの違いを「生贄とスケープゴートの違いは何か 」で述べたが、ここでは、どちらもカタルシス効果をもたらすという共通点を強調しよう。そして、より包括的に、祭りを、生贄を屠ったり、スケープゴートを排除したりすることによるカタルシス効果を待つセレモニーであると定義することにしよう。そして、この定義に基づいて、ネット上の祭りもまた、祭りであることを次に示そう。
2. ネットにおける祭り
ネット上でも「祭り」と呼ばれる現象が起きる。多くの人の顰蹙を買うような個人ないし団体の行為や発言が発覚すると、2ちゃんねる上にそれを報告するスレッドが作られ、それを非難する書き込みが増えてくると、祭りが始まる。以下の画像に見られるように、そうした平均投稿時速の高いスレッドを「祭り認定」する「2ちゃんねるニュース速報+ナビ」というサイトまである。
祭り上げられた生贄は、個人情報やさらなる問題発言・問題行為が暴露されたり、周辺にいる関係者への「突撃」が行われたりして、大きなダメージを受ける。毎日新聞の場合、ボイコット運動の広がりのおかげで、一時サイトからスポンサーがすべて姿を消したこともあった。
こうした祭りは、伝統的な祭りと同様に、カタルシスを目的としている。祭りの対象となるのは、コミュニティのエントロピーを増大させていると認定された境界上の両義的存在者である。毎日新聞のように、売国的な言動をしているとみなされたものは、格好のスケープゴートとなる。裏切り者は、内にして外という両義性を帯びるので、コミュニティは、この両義的存在者を血祭りにして、システムの外部へと追放しようとするのである。
3. なぜブログは「炎上」するのか
ブログに顰蹙を買うようなことを書くと、それに対する非難のコメントが殺到することがある。この現象は、ブログ炎上と呼ばれ、しばしば祭りに付随して起きる。ブログが普及する以前の、パソコン通信によるフォーラムが盛況であった時代にも、感情的なメッセージは「フレーム(炎)」と呼ばれ、フレームによってフォーラムが荒れることは「火がつく」と呼ばれていた。ネット上では、なぜこのような火のメタファーが使われるのであろうか。
もちろん「怒りに燃える」といった表現に見られるように、火は怒りのメタファーとしてよく使われるのだが、私は、それに加えて、火が伝統的な祭りにおいて重要な役割を果たしていることに注目したい。火による加熱は、最も古典的かつ代表的な殺菌方法であり、それゆえ、古来、人々は、穢れを清める際に火を用いた。火はまた、暗闇を照らす照明としても使われていたので、“光=この世の秩序”を取り戻す手段として使われた。
日本のみならず、海外においても、火祭りは広く見られる。フランスの聖ヨハネ祭では、ルイ13世が勅令で禁止するまで、猫を生きたまま袋に詰めて、燃えさかる火の中に投げ込むという、古代の異教から受け継がれた供儀が行われていた[6]。中世の魔女狩りでは、魔女の嫌疑をかけられた女性たちが火あぶりになったが、これもキリスト教というよりもそれ以前から存在した古代の異教の風習によるものと考えられる。ネット上でも、穢れを清めるために、炎上と呼ばれるスケープゴーティングが行われていると解釈できる。
4. 「待つ」こととしての「祭り」
私は、「祭り」をカタルシスを「待つ」ことと定義したが、2ちゃんねるには、以下のような、祭り上げる獲物を「待つ」様子を描いた定番のAA(アスキー・アート)がある。
戦後の貧しい時代には、子供たちが、「愛媛みかん」などと書かれた木箱を食卓にし、空っぽの食器を箸で打ち鳴らし、「腹減った!飯食わせ!」と大合唱したものだが、飽食の現代にあっては、このような光景は見られなくなった。代わって、ネットで見られるようになったのは、スケープゴートを求めて飽くことのない大衆たちの欲望を示したこのAAである。このAAは、現在では、より短く、
あるいは
と書かれることもある。待っていたことが起きると、2ちゃんねらーは、
と叫んで喜ぶ。これは「神降臨などのとき感動をあらわす言葉[7]」とされている。逮捕の場合は、
と書かれることもある。逮捕された人が喜んでいるのは奇妙だが、逮捕された対象へと、それを喜んでいる2ちゃんねらーの魂が乗り移ったエクスタシー (脱魂) の瞬間のAAと解釈すれば、理解できる。
5. どのような人が2ちゃんねるで神認定されるのか
2ちゃんねるでは、通常の祭りにおいてと同様に、カタルシスをもたらしてくれる存在者は、神と呼ばれる。だが、スケープゴートは神とは呼ばれない。もしも毎日新聞が、ネットでのボイコット運動が原因で倒産したとしても、毎日新聞が神と崇められることはないだろう。神と呼ばれるには、犠牲となる生贄に対して、祭りの執行者たちが何らかの自己同一性を感じていなければならない。
伝統的に、日本では、高貴な身分の者が、濡れ衣を着せられ、恨みを抱きながら不本意な死を遂げた時、人々は、その怨霊を鎮魂するために、彼を神として祭る。極悪人は、人々の同情の対象にはならないので、神として崇められない。2ちゃんねるにおいても、神認定されるのは、2ちゃんねらーにとって同情の対象となるような犠牲者である。犠牲になった「同志」を神のように崇める定番のAAとして、こういうのがある。
無名の2ちゃんねらーでも、英雄的な行為で自己を犠牲にすると神になれるが、やはり有名人のほうが神になりやすい。2ちゃんねるで神になった代表的な人物に田代まさしがいる。田代まさしは、2000年9月に女性の下着を盗撮しようとして、東京都迷惑防止条例違反で書類送検となった後、2001年12月に、男性が入っていた風呂場を覗き、現行犯で逮捕された。後者の現行犯逮捕のニュースは、2ちゃんねるで大いに話題となり、田代を『タイム』誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」にして、神格化しようと、2ちゃんねらーたちによって、同誌が行っていたオンライン投票に大規模な動員がなされ、結果として田代が圧倒的な票でトップになった、いわゆる「田代祭」が起きたりした。田代も、自分が神と呼ばれていることを強く意識しているらしく、現在の彼の公式サイト/ブログのタイトル画像には、「ネ申降臨」と大書されている。
田代ほどではないが、2004年4月にエコノミストの植草一秀が女子高生のスカートの中を手鏡で覗こうとしたとして逮捕された時にも、2ちゃんねらーは彼を神と呼んだ。
田代まさしも植草一秀も、覗きスキャンダルでテレビの画面から姿を消したのだから、象徴的な意味で殺されたといってよい。これらの屠られた生贄が神と呼ばれたということは、祭りを行っている2ちゃんねらーは、彼らに何らかの自己同一性を感じたということである。おそらく、祭りを行っている2ちゃんねらーが、覗きが原因で社会的に抹殺される人に対して同情的であるのは、彼らと覗きの性癖を共有しているからであろう。事実、スケープゴートの実名や住所を暴露し、顔写真や自宅の写真をアップロードして、丸裸にして楽しむという彼らの行為は、一種の覗き趣味に基づいている。祭りを行っている2ちゃんねらーが田代を神と崇めるのは、田代を、星となって昇天した、覗きの大先輩と感覚しているからだろう。
6. なぜ2ちゃんねるには「クマー」が出没するのか
2ちゃんねるでは、以下のような「クマー」と呼ばれるAAをよく見かける。2004年の秋に、熊が人里に出没するニュースが話題となったとき、盛んに下の図の左にあるようなAAが貼られたが、そのニュースが話題にならなくなった今でも、下の図の右にあるような、餌で釣り上げられる熊というテーマでよく使われる。
既に、「神」の語源分析で示したように、「かみ」と「くま」は同系統の語である。だから、熊出現は、神降臨と等値である。もちろん、そうした「神」や「熊」についての民俗学的ないし語源的な知識のある2ちゃんねらーは少ないだろうし、中にはアイヌの熊祭についてすら知らない人もいるかもしれない。だが、たとえ学問的な知識がなかったとしても、古代から続く日本人の祭りに対する感覚が、ネットスラングの選定においても無意識のうちに働いているということはありうる。
多くの2ちゃんねるの閲覧者は、無名かつ匿名の一般人で、いわば、彼らは、隈に隠れた熊である。そんな熊が、餌に釣られ、白日のもとに我が身を晒す時がある。実際、これまでに、多くの2ちゃんねらーが、祭りの際に釣られて、名誉棄損、脅迫、威力業務妨害、著作権法違反、迷惑防止条例違反などの理由で逮捕されたり書類送検になったりした。彼ら、彼女らは、仲間から「無茶しやがって?」と言われながら、神になっていく。これは、アイヌの熊祭の現代版である。
祭りを行っている2ちゃんねらーには覗き趣味があると書いたが、窃視症と露出症には高い相関性があって、一般に言って、覗くことが好きな人は、露出するのも好きである。2ちゃんねるは、匿名掲示板ということもあって(本当は完全に匿名ということはないのだが)、祭りの実行人たちは、普段、慎み深く包み隠しているものを、ネット上で露出する。露出が行き過ぎて、御用となることがしばしばあっても、それは祭りの失敗ではなくて、それ自体が祭り上げられる対象となって、祭りを盛り上げていく。
7. 祭りから司法2.0へ
古来、日本では、祭りで犠牲者が出ても、それは神の成せる業として許容されてきた。諏訪大社の御柱祭りで死者が出ても、岸和田だんじり祭で家屋が損壊しても、苦情を言う人はいなかった。しかし、現代の日本は、政教分離の法治国家であり、祭りだからといって、人権侵害が許容されるわけではない。警察によるネット上の祭りに対する取り締まりも厳しくなってきた。例えば、2009年2月には、タレントのスマイリーキクチのブログを炎上させた祭りの執行人たち19人が、名誉棄損や脅迫容疑で書類送検となった。
祭りをやっている人の中には、悪人を懲らしめるために、正義感からやっていると言う人もいるだろう。しかし、日本の法律はリンチ(私刑)を禁止しており、動機が正義感だからといって、違法行為が容認されるわけではない。さらに、ネット上で祭りをやっている人たちの大部分は、伝統的な祭りの参加者と同様に、祭りをエンタテイメントとして楽しんでいる。エンタテインメントとしてのリンチへと堕落した祭りは、警察によって取り締まられてしかるべきである。
他方で、私は、たんに祭りを警察権力によって弾圧するだけでよいとも考えていない。ネット上で台頭してきた祭りのパワーを司法の民主化に取り入れることで、エンタテインメントとしてのリンチへと堕落した祭りを司法2.0へと昇華させるべきではないだろう。実は、司法の民主化は、現在、裁判員制度の導入などの形で、強化が試みられている。一方で、無報酬でかつ犯罪者になるリスクまである祭りに多くの人が殺到し、他方で、日当がもらえるのにもかかわらず、辞退希望者が多い裁判員制度との間にあるギャップを何とか解消したいところだ。
現在日本で行われている裁判員制度は、多くの問題を抱えているので、支持することはできない。だからといって、ネット上の祭りにそのまま公権力を付与するなどということは、もちろんできない。司法において公平性と民意の反映の両方を実現するにはどうすればよいかに関しては、私独自のアイデアがあるのだが、これに関してはまた別の機会に詳述することにしたい。
ディスカッション
コメント一覧
何だか亀レスですが、愛媛みかんのはダンボールではなく木箱です。
今の若い人はダンボールしか知らないのかもしれませんが、かつてはみかんと言えば木箱でした。ダンボールになったのは時代的なスケールで言えばわりと最近です。
昭和時代はみかんの木箱を机にするのは貧乏の代名詞としてよくネタにされたものです。日本の心だと思うのですが。
なるほど、たしかにダンボールでは、食卓の素材として弱すぎますね。本文を訂正しておきます。
はじめまして。
本筋とは関係ありませんが、冒頭に出てくる胎内回帰(母体回帰・子宮回帰・・・)
などの言葉・考え方・概念は、いつから、だれが、どのようにして使うようになったのでしょうか?
先生の宗教論や歴史関係の論文などにもよく出てくる言葉ですが、ネットなどで調べてもあまりよくわかりせん。自分でもこの概念を使ってみたいのですが、出典がよくわからないので、自信をもって使用できません。
本来は自分で調べるべきなのでしょうが、自分の力では調べきれなかったので是非とも先生のお知恵をお借りしたいと思って書き込ませていただきました。
失礼とは思いますが、何卒よろしくお願いします。
精神分析学の世界では、オットー・ランク(Otto Rank:1884年-1939年)が先駆的です。ランクは、フロイトの右腕であったのにもかかわらず、父子関係での抑圧を重視するフロイトに対して、母子関係での分離不安を重視し、フロイトと決別しました。彼の著作は多数あるのですが、とりあえず、『文学作品と伝説における近親相姦モチーフ―文学的創作活動の心理学の基本的特徴』あたりを読んでみてはいかがでしょうか。また、手前味噌で恐縮ですが、『ファリック・マザー幻想―学校では決して教えない永井俊哉の“性の哲学”』もよろしくお願いします。
アメリカで差別や選挙を巡って暴動が起きていますが、暴動は祭りですか。警察署が燃えていましたし、火炎瓶は必須アイテムです。エロティシズムも感じます。あと神の語源ですが金平譲司さんのブログがとても参考になります。
今年起きた議事堂襲撃事件や去年盛んに行われたブラック・ライヴズ・マター運動は、政治運動であって、お祭りではありませんが、極右が行う有色人種やユダヤ人の排斥あるいはブラック・ライヴズ・マター運動で行われた奴隷制度と関連のある記念碑の解体には、スケープゴー排除的な性格があると思います。
日常的な生産活動の果てに消費があり、生産活動の終わりを示すために祭事がある。人間が永遠に資源開発を続けることは不可能なので、資源・生産物の分配による人口増加を避けて過剰消費をするのが祭りだと思います。ジョルジュ・バタイユは地球が太陽から無償のエネルギー贈与を受け取っているので宗教的蕩尽をして返礼をするのだと言っていた。政治が祭礼と分離したのは近代的現象だと思いますが、宗教儀式に公共投資の面があることを忘れ去られたおかげで安易な合理性から思わぬ無駄を生むことになった。公共事業に宗教的なカタルシスがあれば近代戦争のような合理的無駄を回避できるような気がする。現代人の倦怠感の原因は政治に神秘性が無いことだ。