ギリシアの有の哲学対仏教の無の哲学
紀元前2世紀に現在のインド西北部を支配したギリシア人のミリンダ王は、仏僧のナーガセーナとの問答を通じて仏教に帰依し、出家したと『ミリンダ王の問い』は伝える。この書は、西洋の有の哲学に対する仏教の無の哲学の優位を示すものとして有名であるが、ナーガセーナの無の哲学は、当時のギリシア哲学を論破するような水準のものではなかった。ミリンダ王は出家しなかったし、本当に理解したかどうかも不明である。それにもかかわらず、ミリンダ王や彼の後継者たちが仏教を保護したのは、被支配民の間で仏教の信仰が広がることが、彼らの統治にとって有利であったからと考えられる。仏教は、王朝の保護を受けることで、大衆宗教としては逆に衰退することになる。

1. この書はどこまで史実を伝えているのか
『ミリンダ王の問い』は、紀元前2世紀にインド亜大陸北西部を支配したギリシア人のミリンダ王(メナンドロス1世; Menander I Soter; 165/155 BC – 130 BC)と、仏僧のナーガセーナの問答を記録したとされる仏典である。パーリ語での書名は、単数女性形の Milindapañhā であるが、スリランカでは、単数男性形の Milindapañho、語幹で引用する時は、Milindapañha となる。現在入手可能な日本語訳としては、中村元と早島鏡正による三巻本の『ミリンダ王の問い―インドとギリシアの対決 (1), (2), (3)』などがある。原典は紀元前100年前後にサンスクリット語[1] もしくはガンダーラ語[2] で書かれたと推定されるが、現存する最古のテクストはパーリ語訳と漢語訳のみである。本書の引用は、1880年にトレンクナー(Vilhelm Trenckner)がパーリ語をローマ字化して刊行した Milindapañha & Milinda-ṭīkā のページ数を表示することが慣行となっているので、本稿もそれに従うことにする。
最初にサンスクリット語あるいはガンダーラ語で書かれた原典がどのようなものであったかは、はっきりとは分からない。現存するパーリ語訳は、漢語訳よりも長く、このことは後世パーリ語訳に加筆がなされたことを示している。各訳本は、その共通部分から分岐したと考えられるが、その共通部分が原典に相当するとも言えない。共通部分の64ページと89ページに対話の終わりを示す同じような記述があることは、編集の混乱を物語っている。もっとも、内容から判断すると、25ページから始まり、89ページで終わる前半は、いかにもアウトサイダーであるギリシア人が問いそうな素朴な質問が中心となっているのに対して、90ページ以降の後半は仏教の専門的で特殊な教義に関する議論となっており、前半が原典に近く、24ページより前の伝記的序文と後半は後世の仏教徒による創作が大部分を占めると推定することができる。もちろん、前半でも、仏教的な教義に基づいて問いが立てられていることが多いので、そこにも仏教徒による改変が加えられていると見なければならない。
文献学的な話はこれぐらいにして、次に、史実の検証を行おう。図2は20世紀初頭にヨーロッパで描かれたミリンダ王とナーガセーナとの対話の想像図であるが、こうしたギリシア人の王とインドの高僧とのエキゾチックな対話は紀元前140年頃に実際に行われたのだろうか。

ミリンダ王は、その肖像を描いた貨幣が大量に残存しているなどの証拠から、実在するインド・グリーク朝の国王であると言える。インド・グリーク朝はバクトリアから分裂したヘレニズム王国で、図3が示すように、紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃までの間、インド亜大陸北西部を支配した。

ミリンダ王と対話したとされるナーガセーナは、その名が「竜軍」という象徴的な意味を持つこと、『ミリンダ王の問い』以外には登場しないことなどから、架空の人物の可能性がある。もちろん、モデルとなる人物はいただろうが、その候補は、時代と思想内容から考えて、上座部仏教から分派した一部派、説一切有部(せついっさいうぶ; Pāli: sabbatthivāda; Sanskrit: sarvāstivāda)の初期の人物と推定される。
では、ミリンダ王が仏教に帰依したという『ミリンダ王の問い』の記述は正しいのか。これは本稿全体のテーマであるが、まずは考古学的史料から考えてみたい。ミリンダ王は、以下のミリンダ王を描いた硬貨の図柄からもわかるように、ギリシアの神々を信奉していた。

しかし、ミリンダ王の名が刻まれた貨幣の中には、図5のように、仏教のシンボルが描かれたものもある。

また、ミリンダ王が奉献したと記されている舎利壷がシンコットから出土しており、彼が実際に仏教に肩入れした可能性は高い。プルタルコス(Plutarch; Greek: Πλούταρχος; Latin: Lucius Mestrius Plutarchus; c. 46 – 120 AD)は、『モラリア』で、ミリンダ王が死後、仏教の開祖、ガウタマ・シッダールタ(Sanskrit: Gautama Siddhārtha; Pali: Gotama Siddhattha)のような扱いを受けたと伝えている。
ミリンダという男はバクトリアの善き王であった。彼が野営地で死亡した時、葬式は通常通り行われたが、遺骨の所有をめぐって各都市の間で争いが起き、擦った揉んだの末、遺灰を平等に分けあい、各都市に持ち帰り、それぞれ王の記念碑を建てることで合意した。[7]
この話は、ガウタマ入滅後、仏舎利をめぐって争いが起き、結局八等分することで解決したという事例を思い起こさせる。しかし、この逸話も、ミリンダ王に人望があったということを伝えるだけで、彼が仏教に放蕩に帰依したという証拠にはならない。ミリンダ王の死後、彼の王国は分裂したが、後継となるギリシア人の王たちもまた仏教を保護したことが、貨幣のデザインからわかっている。だから、もともとギリシアの神々を信奉していたミリンダ王が、仏僧(一人とは限らず、複数である可能性もある)と対話をして、仏教を保護するようになったというのは史実とみてよい。だが、彼が仏教をどの程度まで理解したかは、考古学的史料だけではわからない。だから、『ミリンダ王の問い』を読み解きながら、ナーガセーナの答えが本当にギリシア人を納得させるようなものだったのかどうかを検討する必要がある。
2. 名に対応する実体は存在しないのか
ミリンダ王とナーガセーナとの対話は、「ナーガセーナ」という名に対応する実体が存在するかどうかという問題を論じることから始まる。ナーガセーナは、「ナーガセーナ」には「いかなる持続的な個体性もない[8]」と言ってミリンダ王を驚かせる。ちょうど「車」という名に対応する実体は、車の部品のどれかでもなければ、そのたんなる集合体でもなく、またそれ以外の何かでもない、つまり無であるように、「ナーガセーナ」という名に対応する実体は、心身の一部のどれかでもなければ、そのたんなる集合体でもなく、またそれ以外の何かでもない、つまり無であり、言葉はこれらの部分に縁って生じる仮象を指すだけの空虚な音にすぎないというのである。このように、『ミリンダ王の問い』は、冒頭から《ギリシアの有の哲学》対《仏教の無の哲学》という形で始まる。権力、富、名誉、あらゆるものを持つミリンダ王と無の哲学しか持たない比丘のナーガセーナという両者の差が、既に有と無の対決を象徴している。
ナーガセーナは、『サンユッタ・ニカーヤ2』での「譬えるならば、諸々の部分が集まりに縁って「車」という名称が起こるように、五蘊が存在する時に「生ける者」という仮の想いが起こるのである[9]」というヴァジラー尼の詩を引用している。五蘊(ごうん; Sanskrit: skandhas; Pāli: khandhas)というのは、人間の心身を構成している、色蘊(肉体)、受蘊(感受作用)、想蘊(表象作用)、行蘊(意志作用)、識蘊(認識作用)という五つの要素のことである。使っている比喩が同じであることや五蘊という仏教的概念が使われているから、冒頭の対話は『サンユッタ・ニカーヤ2』をベースに創作なしは潤色されたものと考えることができる。『サンユッタ・ニカーヤ2』は仏教徒と悪魔との対話がテーマであり、仏教徒の目には、実体の持続性を想定するギリシャ哲学というのはさぞ悪魔の思想に見えたことであろう。
なぜ仏教徒にとって、名の指示対象を実体と認める思想が悪魔の思想なのかは後で説明するとして、ここではナーガセーナの唯名論が妥当なのかどうかを検討しよう。車の本質は、円が平面と点で接することを利用して、水平移動の摩擦を最小にするところにある。この機能を果たす限り、車のどの部品も他の部品と交換可能であり、その意味でどの部品も車の本質を代表していない。また、車をばらばらの部品に分解すると、この機能を果たさなくなるので、物質という点で分解以前と変わりなくとも、もはや車ではなくなる。ゆえに、バラバラにされた部品の集合体も車ではない。しかし、だからといって、「車」という概念に対応する対象に実体的な持続性がないということにはならない。
存在するのは車ではなく、車の構成部分だけであるという議論を徹底すると、その構成部分もまた存在せず、存在するのはその部分だけであるという無限後退に陥る。後に、説一切有部は、物質(色)は極微(ごくみ; Sanskrit: parama-aṇu)という最小単位から成り立っているとする教義[10] を展開したが、ナーガセーナもそうした原子論的な物質観を持っていたようだ。もしも私たちが「車」と呼んでいる物が極微のたんなる集合体にすぎないとするならば、なぜ私たちは「車」という観念を有するのか。ナーガセーナは、諸々の部分に縁って「車」という名称が起きるという仏教的な縁起(Pali:paticcasamuppāda; Sanskrit: Pratītyasamutpāda)の教義に基づく説明をしている。仏教で謂う所の縁起は、西洋哲学における原因結果関係よりも意味が広く、かつ曖昧なのだが、ここでは唯物論的因果関係で認識が説明されていると解釈できる。すなわち、存在するのは、車ではなく、それを構成する物質的な部分にすぎず、「車」という観念は、物質が私たちの感覚作用や認識作用を刺激することで生まれる仮象ということである。このように、説一切有部には原子論的な唯物論の傾向がある。
古代ギリシアの哲学では、プラトンのイデア論が典型的にそうなのだが、観念論的な傾向が強い。しかし、例外的に唯物論も存在した。最も有名なのは、エピクロス(Greek: Ἐπίκουρος; English: Epicurus; 341 BCE – 270 BCE)で、エピクロスは、デモクリトスの原子論を受け継ぎ、その唯物論的な世界観から伝統的宗教的な権威を否定した。彼は、ガウタマと同様に、伝統的な身分差別を否定して弟子を集めた。エピキュリアニズムは快楽主義であるのに対して、仏教は禁欲主義という違いがあると思うかもしれないが、実は、両者の差は小さい。エピクロスは欲望を満たそうとすることはかえって苦痛をもたらすとして、それを断念することで得られる平静な心(ἀταραξία アタラクシア)と苦痛の欠如(ἀπονία アポニア)を理想とした。仏教もまた、苦痛の原因を取り除くために煩悩を断滅しようとしたのだから、両者は形而上学的にも倫理学的にも実は似ていると言うことができる。
原子論的唯物論は、現代の知見からして正しいと言えるのか。物理的に実在するのは原子を構成単位とする物質とエネルギーのみであり、原子の集合体が作り出す、そして、私たちが様々な名前を付けているところの形は、私たちの脳が勝手に作り出した幻想で、物理的な実在性を持たないという世界観が科学的で正しいと思っている人は今でも少なからずいる。しかし、物質が持つ形とかまとまりは、物理学的に言えば、エントロピーの低さであり、それは物質やエネルギーと独立で、かつそれらと同等の物理的実在性を持つ。私たちは、形に対して間違った認識をすることもあり、その場合は、私たちの認識は幻想であったということになるが、そうした間違いは物質やエネルギーに関してもあることで、前者が後者よりも主観的であるとは言えない。
エピキュリアニズムと仏教の倫理学に関してもシステム論的に批評するならば、私たちが苦痛を減らしたいという願望を持つことは今も昔も変わらないが、苦痛とは、エントロピーの増大を警告するネガティブ・フィードバックであり、苦痛を減らしたいならば、エントロピーを縮減しなければならない。そして、エントロピーを減らすということは、苦痛を感じる主体であるシステムの形を維持することであり、苦痛を減らすために形を幻想として否定するというのはおかしなことなのである。
こうした現代の知見を持ち出して批判することは不適切だと思う人もいるだろうが、当時のギリシアの哲学的知見でもってナーガセーナに反論することもできる。ミリンダ王は、ナーガセーナの説明を称賛したと『ミリンダ王の問い』は伝えるが、もしもミリンダ王がアリストテレスの哲学を知っていたならば、実体と性質の違いを用いて反論していただろう。アリストテレスによれば、実体(ὑποκείμενον ヒュポケイメノン)とは、「もはや他のいかなる主語の述語ともなりえない究極の基体[11]」であり、これに対して性質(ποιὸν ポイオン)は、「転化する実体のすべての諸属性、例えば、暑さや寒さ、白さや黒さ、重さや軽さなど、物体の転化に応じて変化する諸属性[12]」で、主語である実体に対して述語の関係にある。性質が実体にとって本質的でない時、それは偶有性(συμβεβηκὸς シンベベーコス)と言われる。車の構成部分が持つ偶有的な性質がいかに変化しようとも、車がその本質を維持する限り、車の実体の同一性を否定することにはならない。
アリストテレスは、実体には二つの意味があり、実体が、主語よりもむしろ述語になる形相を意味することがある[13] と言っている。こうした混乱は、アリストテレスの古典的論理学が、主語と述語の文法構造に固執することで起きる。現代の論理学では、実体と偶有性の関係は関数と変数の関係として理解されている。数学的な例を使うなら、直角三角形の三辺の関係、x2+y2=z2 において、x と y の値が何であるかは偶有的であり、直角三角形の本質は、その偶有性とは無関係に、この関数関係を実体として存続しうる。廣松渉(1933-1994)は、仏教の無の哲学は、実体主義的な西洋の有の哲学とは異なり、関係主義的な事的世界観に立脚していることを高く評価している[14]が、 そもそも実体は関係と対立する概念ではない。廣松が提唱する「関係の第一次性」のテーゼは関係を実体化しており、実体の存在を否定するものではない。
「ナーガセーナ」と名付けられた人間の人格的同一性に関しても、車の関数的(functional 機能的)同一性と同じ議論が成り立つ。人間は、新陳代謝により、その構成物質が一定期間後にすべて入れ替わるが、「ナーガセーナ」は、誕生から死まで同じ人格として持続すると認識されている。仏教徒が主張するように、人間を五蘊の集まりとみなすことに同意したとしても、五蘊をまとめるシステムとしての人格に実体的な同一性を認めることができる。実体といっても、もちろん永遠不滅ということではない。そうした絶対的な意味での実体は、物理学的にはエネルギーぐらいしかない。ここで謂う所の実体とは、偶有的な要素に対して相対的に不変な構造を維持するシステムという意味である。このかぎりでは「車」も「ナーガセーナ」も同じ意味での相対的な実体であるが、次に、前者にはない後者の特質について考えてみたい。
3. 霊魂は存在しないのか
古代のインド人も古代のギリシア人も霊魂に対して似たような認識を持っていた。ギリシアでは、霊魂はプシュケー(Ψυχή)と呼ばれたが、この言葉は元々呼吸を意味しており、そこから転じて生命や霊魂を意味するようになった。古代インドの宗教では、霊魂は、サンスクリット語でアートマン(Ātman)と呼ばれたが、この言葉も元々は呼吸を意味し、そこから転じて生命や霊魂を意味するようになった。『リグ・ヴェーダ』では、梵我一如、すなわち、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとみなされた。
霊魂を呼吸と関係付けることは、システム論的に考えても的外れではない。生命システムは、呼吸が作り出すエネルギーによってシステムのエントロピーを縮減しているからだ。霊魂は呼吸をする主体であるが、呼気や吸気そのものではない。だから、ミリンダ王の廷臣アンティオコスのように、「ナーガセーナ」を「身体の内部に存在し、呼吸として出入りする霊魂[15]」と同一視することは正しくない。
ミリンダ王は、以下の発言からもわかるように、霊魂を感覚する主体として認識していた。
身体の内にある個我は、眼によって形を見、耳によって音を聞き、鼻によって香りを嗅ぎ、舌によって味を味わい、身体によって触れられるべきものに触れ、意によって事象を識別する。それは、ちょうどこの宮殿に座っている我々が、東西南北どの窓からでも眺めたい窓から眺めることができるのと同じことである。[16]
感覚器官が五感ではなくて、仏教的に、眼、耳、鼻、舌、身、意という六処(Sanskrit: Ṣaḍāyatana; Pāli: Saḷāyatana)となっている点は、ギリシア人の主張として不自然であるが、それでもこの発言を仏教徒による完全な創作と断じることはできない。なぜなら、個我(abbhantare jivo)は、他のパーリ語の聖典には見当たらないからである。この観念は、どうやらミリンダ王独自のもののようである。
ナーガセーナは、ミリンダ王に対して、次のように問い返し、霊魂が存在しないと言う。
ここの宮殿に座っている私たちは、これらの窓を開けて、顔を外に出せば、大虚空を通していっそうよく形を見ることができるでしょうが、それと同様に、眼の門が除去されると、内にあるこの個我は大虚空を通して、いっそうよく形を見るのでしょうか。また、耳、鼻、舌、身体が除去された時には、大虚空を通していっそうよく音を聞き、香りを嗅ぎ、味を味わい、触れられるべきものに触れることができるでしょうか。[17]
もしも人間の中に小人がいると想定し、その小人を感覚の主体とする認識モデルを肯定するなら、小人の中にさらに小人を想定しなければならず、無限後退に陥る。霊魂がそういう意味での実体として身体の中に存在するのではないのは、車を解体すると、中から小さな車の実体が出てくるのではないのと同じことである。
ギリシアの一般人はともかくとして、ギリシアの哲学者たちはそのような粗雑な実体主義には陥っていなかった。例えば、アリストテレスは、『心とは何か』で霊魂と身体が形相と質料、現実態と可能態、実体と偶有性の関係にあると言う。
霊魂は実体、それも可能的に生命を持つ自然的物体の形相という意味での実体であるということになる。しかし、この意味での実体は現実態であり、霊魂はこのような自然的物体の現実態ということになる。しかし、この現実態は知識(エピステーメ)と知識活動(テオーリア)という二通りの意味で言われる。[18]
形相と質料は概念的に区別できても、空間的に切り離すことはできない。だから、アリストテレスの哲学では、霊魂は身体の中の小人ではありえないのである。アリストテレスが認識しているように、霊魂は知識の選別を行う情報システムであり、知識活動は、物質を通じて行われ、また物質を離れては存在しないものの、情報システムを物質と同一視することはできない。
無我(Pāli: anattā; Sanskrit: anātman)説は、上座部仏教における三相(Pali: tilakkhaṇa; Sanskrit: trilakṣaṇa)、大乗仏教における三法印、つまり、仏教をそれ以外の教えから区別する三つの教義のうちの一つであるが、ガウタマ本人の本来の教えは、「自我への執着を捨てよ」という倫理的実践的教説であって、「自我は存在しない」という形而上学的教義ではなかった。ガウタマは、「死後霊魂は存在するか」といった形而上学的に問題に対して答えず、無記(Pāli: avyākata; Sanskrit: avyākṛta)、すなわち、真でも偽でもないものとした。そうした問題について論争をすると、自説への執着が生じ、修行の妨げになるからである。
では、なぜ無我や無常(Pāli: anicca; Sanskrit: anitya)が仏教の三法印あるいは三相になったのだろうか。もしも自我が存在しなければ、自我への執着はなくなる。自我への執着を捨てたいという願望が、自我は存在しないという思い込みにつながったと考えられる。同様に、富や権力が一時的ではかないものであるならば、それらに対する執着もなくなる。物への執着を捨てたいという願望が、すべては無常であるという思い込みにつながったと考えられる。『サンユッタ・ニカーヤ2』が無我や無常の否定を「悪魔の思想」とするのは、それが自我と物への執着を呼び醒まし、迷いの原因となるからである。
こうした願望を実現するための思い込みは、仏教に特有の思考である。仏教は、女が不浄であるというが、この女性蔑視の思想は、男の修行僧が女性への執着を断ち切るために、女性が汚くて魅力がなければよいのにという願望を抱くようになり、そしてその願望を実現するために、女性は不浄であると思い込むことで出来したものである。
ガウタマの死後、ガウタマを名乗った仏典が数多く書かれたが、ガウタマでない仏教徒がガウタマに成りすますのは、仏教は無我を法印としており、霊魂の実体的同一性を認めないので、自分とガウタマとを区別する理由がないからと説明することもできるが、ガウタマのようになりたいという仏教との願望が、自分はガウタマであるという思い込みに発展した結果であると説明することもできる。
4. 輪廻説と無我説は矛盾しないのか
インドでは、生き物は、生前の業、すなわち、カルマ(Pāli: kamma; Sanskrit: kárman)の結果、別の生き物に生まれ変わるという輪廻(Pāli, Sanskrit: Saṃsāra)の思想が古くからあり、仏教もこれを受け継ぎ、生死を超えた因果応報説を信者に説いた。古代ギリシアでは、ピタゴラス学派やプラトンなどの例外はあるものの、輪廻転生説は一般的ではなく、ミリンダ王も輪廻転生に関して多くの質問をしている。無我説は、輪廻説と矛盾しているように見えるし、霊魂の実体的同一性を否定すると、因果応報説が倫理的に無意味になるように思えるからだ。
ナーガセーナによると、輪廻の主体は名色(みょうしき; Pāli, Sanskrit: Nāmarūpa)である。名と色のうち、色は色蘊に、名は他の五蘊に対応する。両者は、アリストテレスの哲学における質料と形相との関係に似ているが、名色は、名も色も実体的同一性を持たないという点で、質料や形相とは異なる。現世の名色と来世の名色は異なるが、因果の関係で結ばれているので連続性があることをナーガセーナは以下のような例を用いて説明している。
ナーガセーナ:それは、搾り出された牛乳がしばらくすると酪になり、さらに酪から生蘇となり、生蘇から醍醐となるようなものです。大王よ、牛乳が酪、生蘇、醍醐と同じであるということは正しいでしょうか。
ミリンダ王:尊者よ、そうではありません。それに依存して、他のものが生じたのです。
ナーガセーナ:大王よ、事象の連続はそれと同様に継続するのです。生じるものは、滅びるものとは別のものではあるが、両者はあたかも前後別物でないかのごとく継続しているのです。このように、それは同じでも異なるのでもないものとして、最後の意識に上るのです。[19]
酪、生蘇、醍醐というのは、チーズやバターのような乳製品で、牛乳を乳酸発酵して作る。乳酸発酵によって、分子の形が変わるので、形相は変化するが、質料は自己同一性を維持すると言うことができる。質料が自己同一性を維持すると言っても、素粒子には実体的な自己同一性はないので、量子力学的なミクロのレベルでは非連続的に連続性を観る仏教的世界観の方が正しいと言えなくもないのだが、ここで例に挙げられているようなマクロなレベルでは、そうした解釈は正当化されない。
ナーガセーナは、牛乳を買うという契約が、牛乳が酪となることによって無効にはならないという例を引き合いにして、名色が不連続であっても、輪廻によって前世の悪業を免れることはできない[20]と言う。だから、無我説は、輪廻転生説や因果応報説とは矛盾しないというのであるが、もしも悪業をなす名色とその報いを受ける名色が、たんに因果関係で結ばれているだけで、実体として異なるものであるとするならば、悪業を免れることになるし、もしも悪業を免れることがないというのなら、変動する偶有性とは別に、責任の主体となる人格の実体的同一性を想定しなければならなくなる。
矛盾している教えを和することを仏教では会通(えつう)というが、ナーガセーナの会通は説得力に欠く。その最大の理由は、無我説を「自我に対する執着を捨てよ」という倫理的教義ではなくて「自我は存在しない」という形而上学的教義にしてしまったところにある。自我に執着するから、自我と一緒に輪廻転生を繰り返すのであり、自我への執着を捨てるなら、輪廻転生から解脱することができる。自我への執着を不可能にするために、自我は存在しないということにすると、存在しない自我がなぜ輪廻するのか、なぜ解脱するとなぜ輪廻転生から免れるようになるのかがわからなくなってしまう。
5. ミリンダ王はなぜ仏教を保護したのか
『ミリンダ王の問い』では、ミリンダ王はナーガセーナの回答にすべて納得し、ナーガセーナを絶賛している。そして、本書の最後では、「ミリンダ王は、その後長老の知恵の偉大さに心打たれ、王子に王国を譲り、家庭生活を離れて出家し、正観を増大し、阿羅漢の位に達した[21]」と書かれている。ナーガセーナは、在家者でも阿羅漢の位に達することは可能としつつも、次のように述べている。
大王よ、しかしながら、出家者こそ道の人たる地位の主であり、長であります。大王よ、家を捨てることには、多くの功徳、種々の功徳、無量の功徳があります。[22]
これに対して、ミリンダ王は、「まさにその通りだと私は認めます」と言っている。だから、最終的に出家しないと辻褄が合わないのである。しかし、ミリンダ王の出家を裏付ける史料は、他にはない。プルタルコスは、ミリンダ王が戦場の野営地(στρατόπεδον)で没した、つまり死ぬまで国王として君臨していたと伝えており、こちらが史実と考えられる。
願望を事実と思い込む仏教徒の思考傾向を考慮に入れると、ミリンダ王がナーガセーナの答えに完全に納得し、仏教に深く共鳴したとするこの書の記述全体を疑わなければならない。『ミリンダ王の問い』を読むと、ミリンダ王がナーガセーナの無我説に完全に納得しながら、それが間違っているという前提で別の質問をするといった不自然な展開に何回も出くわす。実際に行われた対話では、ミリンダ王は、仏教徒の説明に納得せず、様々な角度から仏教の教義に疑問をぶつけたことだろう。これまで見てきたように、ナーガセーナの教義は、もしもミリンダ王にギリシア哲学の素養があるのなら、論破できる類のものだからだ。
もちろん、ミリンダ王ならびに彼の後継者となるギリシア人の王たちが仏教を保護したことは事実と認めてよい。だが、彼らは、出家しなかったことからもわかるように、仏教に心底帰依したというよりも、むしろ政治的に利用しただけではないのだろうか。インドには伝統的なカースト制度が根強く残っており、ギリシア人をはじめ外国人はアウト・カースト(不可触賤民)として蔑視された。そんな中、カースト制度を否定する仏教は、外国人支配者にとっては都合がよく、そのため、ギリシア人のみならず、その後インドに侵入した外国の支配者たちはたいてい仏教を保護したものなのである。仏教を保護することには、支配者が外国人でなくても、メリットがあった。カースト制度では、王といえども、バラモン(聖職者)の下に位置付けられていたのである。バラモンの下のクシャトリヤ(王侯貴族)や、そのさらに下のヴァイシャ(商人など)にとっては、自分たちの権力や富にふさわしい地位を求めて仏教を保護したという事情がある。
また、支配者、つまり権力や富を持つ者にとって、被支配者、つまり権力や富を持たない者に反乱を起こさせないようにすることは、自分の地位を維持する上で極めて重要である。反乱を起こそうとするのは、権力や富への執着が強いことが原因であるから、仏教を広めて下層民に権力や富への執着を捨てさせ、無欲にすることは、不満分子の反乱を予防するのに効果的である。表向きの理由はともかくとして、インドの王侯貴族や富豪が仏教を保護した裏の理由は、そこにあると考えることができる。王侯貴族や富豪の保護のおかげで、仏教は世俗的な繁栄を享受することとなった。しかし、権力や富への執着を否定する宗教が権力と富を持った支配者と癒着するというパラドキシカルな関係が続く中で、民衆の心は、支配のためのイデオロギーと化した偽善的宗教から離れていった。仏教に代わって民衆の心を捉えたのは土着の宗教であるヒンドゥー教であった。そして仏教は、イスラム国家とイスラム商人が台頭する中、パトロンを失って、インド、パキスタン、アフガニスタンの地から跡形もなく消えてしまったのである。
6. 参照情報
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- ↑Hutchinson’s story of the nations. Nabu Press (October 9, 2010).
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- ↑“Μενάνδρου δέ τινος ἐν Βάκτροις ἐπιεικῶς βασιλεύσαντος εἶτ´ ἀποθανόντος ἐπὶ στρατοπέδου, τὴν μὲν ἄλλην ἐποιήσαντο κηδείαν κατὰ τὸ κοινὸν αἱ πόλεις, περὶ δὲ τῶν λειψάνων αὐτοῦ καταστάντες εἰς ἀγῶνα μόλις συνέβησαν, ὥστε νειμάμενοι μέρος ἴσον τῆς τέφρας ἀπελθεῖν, καὶ γενέσθαι μνημεῖα παρὰ πᾶσι τοῦ ἀνδρός." Πλούταρχος. “Ἠθικά, Πολιτικὰ παραγγέλματα." p. 821e. Translation: Plutarch (Author), Frank Cole Babbitt (Translator). Plutarch: Moralia, Volume IV, Roman Questions. Greek Questions. Greek and Roman Parallel Stories. On the Fortune of the Romans. On the Fortune or the … in Wisdom? Precepts of Statecraft. 28.
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- ↑Abhidharma Mahāvibhāṣa Śāstra. Translation: 玄奘 (translator). 『阿毘達磨大毘婆沙論』Kindleアーカイブ (April 16, 1947). 巻127.
- ↑“τό θ᾽ ὑποκείμενον ἔσχατον, ὃ μηκέτι κατ᾽ ἄλλου λέγεται." Αριστοτέλης. Μεταφυσικά.Βιβλίο Δ, 1017b. Translation: Aristotle (Author), C. D. C. Reeve (Translator). Metaphysics. Hackett Publishing Company, Inc.; UK ed. edition (March 1, 2016).
- ↑“ἔτι ὅσα πάθη τῶν κινουμένων οὐσιῶν, οἷον θερμότης καὶ ψυχρότης, καὶ λευκότης καὶ μελανία, καὶ βαρύτης καὶ κουφότης, καὶ ὅσα τοιαῦτα, καθ᾽ ἃ λέγονται καὶ ἀλλοιοῦσθαι τὰ σώματα μεταβαλλόντων." Αριστοτέλης. Μεταφυσικά.Βιβλίο Δ, 1020b. Translation: Aristotle (Author), C. D. C. Reeve (Translator). Metaphysics. Hackett Publishing Company, Inc.; UK ed. edition (March 1, 2016).
- ↑Αριστοτέλης. Μεταφυσικά.Μεταφυσικά, Βιβλίο Δ, 1017b. Translation: Aristotle (Author), C. D. C. Reeve (Translator). Metaphysics. Hackett Publishing Company, Inc.; UK ed. edition (March 1, 2016).
- ↑廣松渉, 吉田宏晢. 『仏教と事的世界観』朝日出版社 (December 1, 1979). p. 36-52.
- ↑Vilhelm Trenckner, Padmanabh S. Jaini, et al. (editor). Milindapañha & Milinda-ṭīkā. Pali Text Society (December 1, 1986). p. 30.
- ↑Vilhelm Trenckner, Padmanabh S. Jaini, et al. (editor). Milindapañha & Milinda-ṭīkā. Pali Text Society (December 1, 1986). p. 54.
- ↑Vilhelm Trenckner, Padmanabh S. Jaini, et al. (editor). Milindapañha & Milinda-ṭīkā. Pali Text Society (December 1, 1986). p. 55. これと同じ議論が 86-87 での繰り返されている。
- ↑“ἐπεὶ δ’ ἐστὶ καὶ σῶμα καὶ τοιόνδε, ζωὴν γὰρ ἔχον, οὐκ ἂν εἴη σῶμα ἡ ψυχή; οὐ γάρ ἐστι τῶν καθ’ ὑποκειμένου τὸ σῶμα, μᾶλλον δ’ ὡς ὑποκείμενον καὶ ὕλη. ἀναγκαῖον ἄρα τὴν ψυχὴν οὐσίαν εἶναι ὡς εἶδος σώματος φυσικοῦ δυνάμει ζωὴν ἔχοντος. ἡ δ’ οὐσία ἐντελέχεια; τοιούτου ἄρα σώματος ἐντελέχεια. αὕτη δὲ λέγεται διχῶς, ἡ μὲν ὡς ἐπιστήμη, ἡ δ’ ὡς τὸ θεωρεῖν." Αριστοτέλης. Περί ψυχής.Βιβλίο Β, Κεφάλαιο 1. p. 412. a20. Tranlation: Aristotle (Author), Hugh Lawson-Tancred (Translator). De Anima (On the Soul). Penguin; Reissue edition (July 29, 2004).
- ↑Vilhelm Trenckner, Padmanabh S. Jaini, et al. (editor). Milindapañha & Milinda-ṭīkā. Pali Text Society (December 1, 1986). p. 40-41.
- ↑Vilhelm Trenckner, Padmanabh S. Jaini, et al. (editor). Milindapañha & Milinda-ṭīkā. Pali Text Society (December 1, 1986). p. 48.
- ↑Vilhelm Trenckner, Padmanabh S. Jaini, et al. (editor). Milindapañha & Milinda-ṭīkā. Pali Text Society (December 1, 1986). p. 419.
- ↑Vilhelm Trenckner, Padmanabh S. Jaini, et al. (editor). Milindapañha & Milinda-ṭīkā. Pali Text Society (December 1, 1986). p. 243.
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