5月 102002
 

一つ禅問答をしよう。絶対に蚊に刺されないようにするにはどうすればよいだろうか。蚊取りせんこうをたいたり、虫よけスプレーをまいたりしても根本的な解決にはならない。絶対に蚊に刺されないようにするには、蚊を絶滅させなければならない。では、そのためにはどうすればよいか。

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悟りを開く前の苦行中のガウタマ。背後にいるのは最初の弟子となる五人。ラオスの壁画。

1. 欲求不満から解放される究極の方法

こうした解決策を探る方向は世俗的なもので、禅問答が期待していることではない。禅問答で重要なことは、公案にたいして答えを出すことではなく、答えを出すことを通じて修行中の僧が悟りを開くことである。絶対に蚊に刺されないようにするには、良寛がやったように、こちらから腕や足を差し出し、蚊に刺させてやればよい。刺されまいとするから、蚊に刺されるという被害に遭うのであって、そうした欲望を捨てれば、被害に遭わなくてすむ。

織田信長が武田信玄の菩提寺である恵林寺を焼き討ちにした時、快川禅師は「心頭を滅却すれは火も自ら涼し」という名言を吐いた。火の熱さから逃れるには、火を消したり、火から遠ざかったりするのではなく、火は熱いという思いを捨てたらよいというわけだ。ここに、仏教の根本思想を見ることができる。

2. 涅槃寂静の境地に達することができるのか

仏教の根本思想とは、こうである。私たちの人生は苦に満ちていて、そして私たちは苦から逃れたいと思っている。苦は欲望が満たされない時に生じるのだから、世俗の人々は、苦を完全に滅却するために、欲望を完全に満たそうとする。しかし欲望には限度がないから、欲望を完全に満たすことは不可能である。課長になれば部長に、部長になれば取締役になりたいと思うのが人間である。だが、欲望が無限に広がるからこそ、苦の原因も無限に増大する。したがって、苦から完全に自由になる(解脱する)には、苦の原因である欲望(煩悩)を滅却しなければならない。

仏教が理想とする自由は、私たちが通常望む自由とは、次元の違う自由である。私たちは、例えば、「好きな食べ物を自由に食べたい」という欲望を持つが、このような自由を望むことは、食欲という煩悩の奴隷になることを意味している。つまり、私たちが求める自由とは、欲望のための自由であって、欲望からの自由ではない。欲望のための自由は欲望からの不自由であるから、二つの自由は対立する。

では、私たちは、欲望から完全に自由になって、涅槃寂静の境地に達することができるのだろうか。答えは、否である。生きている限り、欲望から自由になることは、不可能である。涅槃とは死のことで、死ねば、欲望から完全に自由になれると思うかもしれないが、死ぬと自由である主体・涅槃寂静を感じる主体自体が消えてしまうので、自由と安らぎを手に入れることができない。実際、仏教は自殺を奨励する宗教ではない。仏教が否定しているのは、苦の原因となる煩悩であって、全ての欲望を否定しているわけではない。少なくとも、真理を求める欲望までは否定していない。問題は、真理を求める欲望が煩悩ではないのかどうかということである。

3. 仏陀は本当に煩悩から解脱したのか

仏教の開祖、仏陀(ゴータマ・シッダールタ)には、真理を求める欲望があった。仏陀が、快楽と苦行という両極端を否定し、中道を説いたことは中途半端に思えるかもしれないが、真理への欲望を満たすという点では徹底している。他の欲望を満たそうとすれば、真理への欲望は薄れてしまう。逆に全ての欲望を捨て、苦行と称して肉体を極限状態に追い込むと、意識が朦朧として、真理から遠ざかってしまう。彼も当時の慣習に従って、出家後苦行を試みたが、やがてそれを放棄し、後に菩提樹と呼ばれる樹の下で禅定に入る。

仏教徒が後に編纂した『仏伝』によると、仏陀は、菩提樹の下で悟りを開くまで、魔と戦い続けたとのことである。魔(マーラ)とは、心の内に潜む煩悩である。魔は「君は世界を統一する大帝王になれる」と誘惑した。しかし、仏陀は権力への欲望を克服した。魔はさらに、三人の娘を半裸の姿で踊らせ、仏陀を誘惑した。しかし、仏陀は官能的快楽への欲望を克服した。

権力欲と性欲を克服した仏陀は、悟りがもたらす心の安らぎを一人で楽しみ、このまま涅槃に入ろうとした。この時、『仏伝』によると、梵天(ブラフマー神)が驚いて、真理を独り占めせずに、説法を通じて、人類に仏陀の教えを広めて欲しいと勧請した。その結果、仏陀は、説法をして信者(弟子)を作ることを決意する。

一体、この時登場する梵天の正体は何なのだろうか。私は、それらは、魔が化けた天子魔だと考える。魔が「君は全人類から尊敬される聖者になることができる」と誘惑したのだ。そして、権力欲と性欲を捨てた仏陀も、名誉欲、すなわち他者から認められたいという欲望を捨てることはできなかった。仏陀は真理を欲望したが、真理は普遍的でなければならないので、自分の悟りが真理であることを示すために、多くの人にそれを認めてもらわなければならなかった。

こうした解釈をすると、仏教徒の読者から「釈尊は、無知蒙昧な衆生を哀れみになって説法をされたのだ。名誉欲のためではない」とお叱りを受けるかもしれない。しかし、仏陀が説法という布教活動をすることは、かなり矛盾を孕んだ行為である。仏陀自身が言うように、法を説いて、他の人々に理解されないとしたら、それは苦である。そして、苦の原因となる欲望は煩悩である。したがって、苦の原因となる煩悩を否定せよという説法自体が、苦の原因となる煩悩の肯定になっている。

仏陀をこの矛盾から救うのは、煩悩即菩提という考えである。煩悩は苦をもたらすが、煩悩から解脱すればそれは心の安らぎをもたらす。このことは、もしはじめから煩悩がなければ、煩悩から解脱する喜びもないということである。権力欲や性欲が否定された後で肯定されるべき煩悩であるとするならば、真理への欲望は肯定された後で否定されるべき煩悩である。もし、仏陀が最初から名誉欲を持たなければ、仏教は存在しなかっただろう。しかし、仏教は名誉欲もまた煩悩として否定しなければならない。

追記

この文章を書いたのは、2002年5月である。私の仏陀に対する最近の解釈に関しては、「仏教はなぜ女性を差別するのか」を参照されたい。仏陀が、名誉欲から布教活動をしたという表現は、評判が悪いので、取り下げたい。ただ、仏陀は、名誉を求めたわけではないにしても、「自ら思いを制し、よく注意して、教えを聞く人々を広く導きながら、国から国へと遍歴しよう」『スッタニパータ』(No.114)と語っており、布教への意欲はあったようだ。その布教への欲望が、仏陀に新たな苦悩をもたらしたかどうかは、今となっては知る由もない。

読書案内
書名中部(マッジマニカーヤ)根本五十経篇 <1>, <2>
著者片山 一良
出版社と出版時期大蔵出版, <1> 1997/07, <2> 1998/02
書名中部(マッジマニカーヤ) 中分五十経篇 <1>, <2>
著者片山 一良
出版社と出版時期大蔵出版, <1> 1999/06, <2> 2000/07
書名中部(マッジマニカーヤ)後分五十経篇 <1>, <2>
著者片山 一良
出版社と出版時期大蔵出版, <1> 2001/06, <2> 2002/02
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私が書いた本

  51 コメント

  1. 君の仏教観はいわゆる『小乗仏教』観です。大乗仏教では、食欲や性欲などのいわゆる煩悩は持ってて当たり前と解くんです。だって、それがなきゃ子孫なんて増やせないでしょ・・・。
    『解脱』っていうのは、簡単に言ってしまうと誰もが恐れ避けられない『死』の恐怖から解き放たれ『永遠の生命』の存在を自覚することを指すんですよ。もっと、仏教の事をよ~く勉強してから書きなさいね。さもなくば、恥をかきますよ。
    ちなみに禅の教えは『不立文字』と言って、釈迦の教えを否定するいわば、『異端』です。そんなものをもとに仏教を語ってはいけない。つまり、『禅』教をもとに違う宗教『仏教』を語っているような物ですから・・・。

  2. 私の仏教の理解が大乗仏教的ではないという批判に対しては、「煩悩からの解脱は可能か」は、もともと大乗仏教をテーマにしていないと答えれば十分でしょう。「煩悩即菩提」という言葉も、言葉自体は大乗仏教から借りてきたものですが、私なりの解釈で使っているので、大乗仏教とは直接には関係がありません。私が「煩悩からの解脱は可能か」で使っている「仏教」という言葉は、「仏陀の教え」という意味です。これが「仏教」という言葉の本来の意味だと思うのですが、誤解を招かないように、以下「仏陀の教え」という言葉を使います。大乗仏教は、仏陀の教えに対する後世の解釈であり、両者は区別する必要があります。

    「死の恐怖から解き放たれ、永遠の生命の存在を自覚することが解脱だ」という考えは、仏陀の教えとは異なります。以下に引用する仏陀の十四無記の教えからわかるように、人間が死後も存在できるかどうかということと解脱とは関係がありません。

    毒矢のたとえ(中部経典第63経)

    マールンキャープッタ、如来(衆生)は死後存在するという考え方があって初めて、如来(衆生)は修行生活にとどまるであろうというようなことはない。マールンキャープッタ、如来(衆生)は死後存在しないという考え方があって初めて、如来(衆生)は修行生活にとどまるであろうというようなこともない。[…] マールンキャープッタ、何ゆえにそれ [如来(衆生)は死後存在するか否かなどの形而上学的問題] を私は説かないか。マールンキャープッタ、これは目的にかなわない。修行のための基礎となるものではない。世俗的なものへの嫌悪・欲情から離れること・煩悩の消滅・心の静けさ・優れた知恵・正しい悟り・涅槃のために役立たない。このゆえにそれを私は説かない。

    なおここに出てくる如来は、仏陀だけのことを指しているのではなく、人一般つまり衆生と通常解釈されている。

    もしも、「永遠の生命の存在を自覚すること」が解脱なら、輪廻転生を自覚することも解脱だということになりますが、仏陀は、実体的に持続するアートマンを前提し、さらにカースト制度を正当化することになる輪廻転生を否定していました。なお、大乗仏教を確立した龍樹(ナーガールジュナ)も、「自性として空であるとき、そのお方について『仏陀は入滅の後に存在する』とか『存在しない』と考えることは合理的でない」『根本中論偈』と輪廻転生説を否定しています。

    死は四苦の一つですが、唯一の苦の原因ではありません。もし、死から解放され、永遠の生が与えられたとしても、その生が煩悩と苦に満ちているとするならば、解脱したとはいえません。

    最後に「不立文字」ですが、これは、仏陀自身の思想であったようです。彼が自分の教えを自ら文字で残さなかったのもそのためです。悟りの境地は、言葉で簡単に伝えられるものではありません。仏陀がキサー・ゴータミーを悟らせる方法は、禅と同じ方法です。子供を失って、半狂乱になっている母親に、言葉で説教をしても無駄だったでしょう。死者がいない村が存在しないことを、自ら歩いて確かめさせることによって悟らせる方法は、不立文字の思想に基づくものといえます。

    もちろん、禅と仏教は全く同じではありません。もしそうなら、禅などという名前は不要でしょう。そして、私も一言もそのようなことは言っていません。「禅の真理に仏教の根本思想を見ることができる」という命題から「禅と仏教は同じ宗教だ」という結論を出すことは論理の飛躍です。

  3. 私は環境上、御坊さんの話を聞く機会が多いのですが、筆者の仏教の解釈と諸御坊の仏教観に隔たりを感じます。よろしければ、こちらの文章の判断のために筆者の「縁」に対する解釈を聞かせていただけないでしょうか。もし、どれかの論文で触れていましたら、掲載論文を教えください。それと「仏教はなぜ日本で普及したのか」についてですが、筆者は「本地垂迹説」に対して、どのような見解を加えているか聞かせていただけないでしょうか。こちらも触れていましたら掲載論文を教えてください。

  4. 一口に「仏教」といっても、原始仏教と大乗仏教は同じではないし、同じ大乗仏教と分類されていても、大陸の大乗仏教と日本の大乗仏教には違いがあります。「煩悩からの解脱は可能か」は、原始仏教に関する考察であって、したがって、私の議論と「諸御坊の仏教観」に「隔たり」を感じたとしても、当然です。違う宗教についての議論だと思ってください。

    仏陀にとって、縁とは、苦の原因のことで、十二縁起の法によれば、根本原因は、無明(真理に暗いこと)です。縁起は、輪廻転生の思想と関係付けられて語られることが多いのですが、これはあくまでも後世の解釈です。輪廻転生の思想は、仏教本来の思想ではありません。

    本地垂迹説のもととなった神仏習合は、神道の最高権威である天皇が6世紀に仏教を受容したことから始まりました。536年に発生した大飢饉により危機に瀕した天皇のカリスマを復活するために、当時先進的だった大陸の宗教である仏教が導入されたというのが、「仏教はなぜ日本で普及したのか」の要旨でした。この当時、天候不良による凶作は単なる自然災害としてではなく、為政者の責任と考えられていました。仏教受容という出来事は、凶作により衰退したカリスマを復活するために、卑弥呼が魏の権威の傘下に入ろうとした時と同じような現象です。

    仏教の受容に関して、井沢元彦氏が面白い議論をしています。井沢氏によれば、日本における最大の宗教的問題は、怨霊の鎮魂でした。古代の日本では、権力闘争に敗れた死者の祟りが、自然災害を惹き起こすと考えられていて、仏教は、そうした災害の原因である怨霊を成仏させるためのテクノロジーとして導入されたというわけです。

    仏陀の本来の教えは、自分の煩悩(執着)を捨てることのはずですが、日本の為政者たちが仏教に求めたことは、現世に対する執着ゆえに、死んでも死に切れずに怨霊となって祟りをなすかつての政敵を解脱させることでした。自分の煩悩を捨てるのではなく、他人に煩悩を捨てさせることにより、自分の煩悩を満足させようとしたわけです。悟りを求めていたのではなく、現世利益を期待していたという点で、彼らの仏教受容は不純な動機に基づいていたと言えるでしょう。

    もしも、井沢氏の怨霊史観に基づく日本古代の宗教問題の分析に興味をお持ちであるならば、『逆説の日本史1 古代黎明編/封印された「倭」の謎 』と『逆説の日本史2 古代怨霊編/聖徳太子の称号の謎』の二冊を読むことをお勧めいたします。

  5. ご返事いただきありがとうございます。また、少し質問を加えさせていただきます。
    まず、「原始仏教と大乗仏教は同じではない~」の行ですが、そもそも大乗仏教なる宗教は、存在しません。大乗なるものは、小乗に対しての言葉で、仏陀の思想は、個人の解脱にあり、本人しか救われない。それに比べて大乗は、弥勒信仰に拠り、より多くの人間を救うことが出という意味です。小乗仏教というのは、大乗側の小乗に対する差別用語です。根幹にあるものは、どちらも現在に至るまで変わらぬものです。そういう意味で、「原始と大乗」なる宗教区別は、適切ではないと思います。したがって、「違う宗教についての議論とだと思ってください。」の返答は、成立しないと思われます。
    続いて、「縁(えにし)とは、苦の原因」という解釈は、どの参考文献に拠ったものか、教えてもらえないでしょうか。また、縁起は、「輪廻転生と関係付けられて語ることが多い」とありますが、具体的に、述べてもらえますか。縁起と輪廻は、それぞれ一つで、付けて語ることは逆に不自然に思われますし、そのようにして講義・文献・説法等を受けたことはありません。この他にも、言葉の結び付けに、何点か疑問を持つところがあるので、よろしければ、この文を書く際の参考文献を提示していただけないでしょうか。この点の疑問から、筆者の仏教観は、正確さを欠いていると推測されます。故に、「煩悩からの解脱は可能か」での仏陀の説いたことに対する解釈は、適切さを欠いた文章だと思われます。
    次に、本地垂迹説の世俗的要因の推測は、的を外していると思いません。しかし、シンクレティズムに対する考察が加えられてない点で、不完全な考察といえます。故に、「なぜ仏教は日本で普及したか」の文章も正確さを欠く考察と思います。

  6. 「違う宗教」という表現が気に入らないのであれば、「違う宗派」のことだと理解してください。原始仏教とは、大乗仏教と上座(小乗)仏教が分裂する以前の仏教のことです。大乗仏教の信者が「自分たちは、お釈迦様の教えを忠実に受け継いでいるのだから、自分たちの信仰とお釈迦様本来の教えを区別するのはけしからん」あるいは「自分たちの宗教こそ仏教そのものであり、これ以外に仏教は存在しない」と言うのは理解できますが、部外者からすれば、大乗仏教が、仏教を普及させるために、教義を大衆化したという側面は否定できません。したがって、原始仏教とその通俗版である大乗仏教は区別するべきです。

    ところで、「縁」は「えにし」と読むのですか。手元の国語辞典『辞林21』で調べると、

    • えにし:えん。関係。特に男女の間のえん。
    • えん:(仏教用語)結果を生ずるための間接的原因や条件。

    とありましたが、まさか、あなたは男女関係のことを聞いているのではないですよね。ともあれ、私は、後者の方の「縁」を念頭においていました。国語辞典は、一般的な意味で定義していますが、仏陀の関心事は、生老病死という苦からの解脱でしたから、十二縁起の法に関して言えば、「縁とは苦の原因のこと」という理解で良いと思います。「無明に縁りて行生ず。行に縁りて識生ず。識に縁りて名色生ず。名色に縁りて六処生ず。六処に縁りて触生ず。触に縁りて受生ず。受に縁りて渇愛生ず。渇愛に縁りて取生ず。取に縁りて有生ず。有に縁りて生生ず。生に縁りて老死の苦しみ生ず。」とあるように、苦の究極の原因は無明です。

    上座仏教は、十二縁起を輪廻思想に近づけて、三世両重の因果という解釈を打ち立てました。大乗仏教の信者の中にも、輪廻転生の輪から抜け出すことが解脱だと考えている人が多いようです。

    最後の件に関しては、多分これ以上議論しても無駄でしょう。私はいかなる宗教も信仰していません。私は世俗的人間ですから、対象が宗教であっても、それに対して世俗的な評価しかしません。

  7. すみません。一点目の質問は、言葉が足りなかったようです。「教義の大衆化」というよりは「体系化」のほうが適していませんか。確かに、宗教において、出来た当時に対する変化は存在します。時代ごとの背景、地域ごとの文化、それに馴染むために、宗教というものは変化するものです(ちょっと乱暴ですけど、シンクレティズム)。しかし、根幹にあるものは、受け継がれていますよ。説法の場でも、仏陀の思想には触れますから。だから、区別は誤解を生むと思います。そうですね、そもそも、あの文章に批判文をよせた方の意見が間違ってるんですよね。「小乗仏教観」なんて存在しないのに、勉強しろなんて、自分の無学を証明するようなものです。あの文章に付き合う必要が無いと思うにとどめてください。そういう意味で、区別を加える必要が無いと思もうということを言いたかったのです。仏陀の思想に触れない御坊はいませんし、そもそも、教えを忠実に守るという道徳は、仏教に限って言えばないのですから。その点、宗教という言葉で、一神教のスタイルと混同する方が多いですね。あの批判文に付き合ってはならないと思います。
    二点目は、「えにし」でも「えん」でも、どちらでも構わないです。御坊のジョークで、「縁といっても男女の関係では、無いからね。」なんて言ってたのを思い出しました。誰も反応しないんですよね(笑)。あの文章を読んで、違和感を覚えたので、僕も仏教を少し復習してみました。そうしたら、どうやら、苦の解釈が間違ってるようですね。よく「私たちの人生は苦に満ちている~」のように、苦の克服を図るのが仏教だという脈絡で、「苦」を説くことがありますが、これは誤りですよ。テーラヴェダ(上座部)仏教から、勉強した方に多いそうですね。一神教圏の外人なんかは、宗教というと、こういう風にとらえがちでしょう。「苦」の講釈を僕なんかがするのは、身分不相応かと思いますので、名著を書かれてる方をご推薦します。松原泰道氏の著書なんか読んでみたらどうでしょうか。今、日本でもっとも尊敬されている御坊の一人ではないかと思います。僕も一冊読ませていただきましたが、勉強になりました。奈良康明氏も、ちょっとした御縁で、推薦しておきます。まぁ、仏教って解りづらいですよね。「縁」とか「苦」とか、現在の意味が先入観としてあると理解するのに苦労しますから。こういう経緯で、本来の縁の解釈と違うと思ったので、質問させていただきました。「苦」に対する指摘が遅れた自分の無学に対しては、本当に失礼致しました。
    三点目ですが、世俗的という言葉を使ったのが間違いでした。シンクレティズムは、前文の乱暴な解釈で済まさせてください。正確にやると大学の一講義分くらいになるんではないですかね。また、僕にも、宗教学上の正確な講釈をたれる実力は無いですから。あくまで歴史を考える上で、必要な知識しかないので。また、この場面では、辞書以上の意味を必要としないと勝手に判断させていただきます。その乱暴な解釈で恐縮なのですが、シンクレティズムに対する考察がないと、短絡的としかいえないと思います。シンクレティズム」も学問的考察の一つで、別に信仰心の有無に関係なく歴史を考察する上での必要なものです。この場合は、「日本人の内面性、根付いている信仰心に触れてみてください」という意味で、世俗と区別してしまいました。これが不適切だったことは申し訳ありません。ちなみに神道が体系化されたのは明治以降なんですよね。知ってました。それとちょっとビックリしたのですが、井沢元彦氏の著書を推薦されてるのですが、あれはまずいと思います。僕も自信がなかったので、少し専門の知人に意見を求めていたのですが、やはり、あれには学問的価値は無いそうです。ひとつのエンターテイメントに止めるべきだと思いますよ。講義と銘打って歴史に触れるのなら、プライドを持つべきです。作家さんに頼らず研究者に目を向けてください。

  8. 私は、学問は好きですが、宗教は好きではありません。同様にイデオロギーも嫌いです。では、学問が宗教やイデオロギーとどこが異なるかといえば、後者においては、本来結論であるはずの教義が前提として先にあって、あらゆる知的努力は、そのドグマを擁護するために使われるのに対して、前者においては、いかなる先人の学説も神聖ではなく、過去の支配的な学説を疑い、批判し、葬り去ることが賞賛されます。あなたが「教えを忠実に守る」ことを「道徳」とみなしているのを読んで、改めて学問と宗教は異なるのだなあと実感しました。学問の世界では、過去の学説を墨守することは、「進歩がない」ということで、むしろ否定的に評価されるのですから。

    もちろん、学問の世界で批判が評価されるといっても、その評価は証拠と理性に基づく合理的な批判でなければいけません。「専門の知識人」の「意見」を引用して、井沢元彦氏の『逆説の日本史』の批判をするといった権威主義的な評価の仕方は学問的に有害です。権威やドグマに盲従することは、学問の世界では奴隷になるのと同じことです。もしもあなたに少しでもプライドというものがあるのなら、なぜ自分で読んで、自分の頭で考え、自力で評価しないのですか。私も、個別的な論点に関しては、井沢氏と同意できないところはありますが、『逆説の日本史』は、在野の学者による真摯な学問の書であり、大学教授たちが書いた平凡な歴史書より学問的価値があると私は評価しています。

    「宗教が嫌いだ」といっても、宗教が現象として存在する以上、宗教を学問の対象として無視することは社会科学にとって許されません。私としても、社会システム論という観点から、宗教史を含めた歴史の研究を今後とも続けていきます。「仏教はなぜ日本で普及したのか」の続編も計画しています。

    「煩悩からの解脱は可能か」は、しかしながら、社会科学的なテーマを扱っているわけではありません。他方で、それは宗教的な議論をしているわけでもありません。そもそも、仏陀本人は、超越神や死後の世界を語らなかったのですから、厳密な意味では宗教家とは言えません。仏教が宗教になったのは、後世の宗教家たちの解釈によってです。仏陀は、ソクラテスや孔子と同様に、人生の教師とでも言うべき人だったと思います。あなたは、「苦の克服を図るのが仏教」という理解が間違っていると書きましたね。たしかに、仏陀は苦の克服に成功したのではなくて、「苦を克服する」という発想そのものを捨てました。そして、「煩悩からの解脱は可能か」のテーマはまさにこれだったわけです。

  9. 少しづつ本質が見えてきました。有意義な回答をいただいてます。友達に勧められて、見たのですが、僕の周りはあなたの考えに傾倒しているので、僕個人としての判断を加えるのに、よい材料となります。
    一点目は、「教えを忠実に守るという道徳は、仏教にはない」と僕は、記述しているのですが、その点を理解してもらえたということでいいのでしょうか。返信の文脈が分かりつらいのですが・・・。
    二点目は、学問と言われてるのですが、もし学問ならルールに則った方法で行う必要があるのでは。その意味で、この本は、ルールを無視していると伝えたいのですが。まぁ、本の価値は、人それぞれですから、筆者の学問に対する姿勢と本に対する価値基準を知ることが出来たので、今後、知人とこのサイトの話題が挙がるようでしたら、それを念頭に判断します。え~と、それから、学術書かエンタ本かを中身を読まずに、見るところを見れば判断することは、さっきの学問のルールからできますよ。その意味で、知人に意見を求めるまで、指摘しなかったのです。それが権威的であるとするのなら、仕方がないですけど、逆に、世の中で評価されてる論文を読んだことがありますか。文脈からは多分触れたことが無いのだと推測できますが。しかし、確かに、自力で評価しないと駄目ですね。ただ、時間と実力を考えたら、選んで読む必要もあるので、膨大な情報量の中では、僕は、筆者の言うところの「権威」というやつにすがります。
    三点目、「社会システム論という観点から~」、別にそれは否定していないのですけど・・・。その考察が短絡的だと、その程度に解釈してください。
    四点目は、少し文章を長く書き過ぎましたね。単純に、「苦の解釈が間違ってます」。もちろん、苦の解釈が多様にあるとか言われれば、そうですというしかないですけど、新説を唱えるなら独自に筆者の哲学を語れば良いわけです。宗教が嫌いなら、仏陀の教えを学問的に考察すると言って自説を唱えるために、わざわざ歪曲しなくてもいいと思います。
    それと最後に、周囲で話題に挙がってるのですが、筆者は、何を専門に学ばれてる方ですか。僕は、自分の畑の学問体系しか分からないので、それに対する判断は加えられるのですが、それ以外は無知でして。周りのあなたのファンも知りたがっているので、是非教えていただけませんか。

  10. 前回の投稿はわかりにくかったですか。一般に大宗教ほど多くの宗派があります。後世の信者が、第三者的に見て、本来の教義に忠実でないのは、仏教に限ったことではありません。私が問題にしていたのは、“教えを忠実に受け継いでいるかどうか”ではなく、“教えを忠実に受け継ぐことを評価するか否か”ということでした。そしてそこが宗教と学問の分かれ目です。

    私の専門についてのお問い合わせがありました。私の修士課程での専門は倫理学で、博士課程での専門は社会哲学でした。だから、私の専門は哲学ということになるでしょう。もっとも、本来、哲学とは、専門がないことが専門である特殊な学問なのですが。

    大学院に在籍していたころは、私も世間で名著と呼ばれている古典や定評ある学術書しか読みませんでした。井沢氏の『逆説の日本史』を読んで初めて作家の中にも学者として有能な人がいるのだということを知りました。以来、偏見を捨てて、できるだけいろんな本を読むようにしています。

    権威に頼ることなく、学術書を評価するということは、もちろん難しいことですが、「ルール」は簡単です。独創性と無矛盾性という二つの基準に基づいて判断すればよいのです(事実と理論との不一致も矛盾の一種とみなすことにする)。独創性を評価するということは、言うまでもなく、学界の定説や教祖の教えを忠実に守ることに価値を認めないということでもあります。『逆説の日本史』は、その理論が完全に無矛盾とは思えませんが、この基準から評価できる良書です。

    もしあなたが、宗教を志すなら、私は何も言うことはありません。しかし、もし学問を志すのであれば、もっと主体性を持ってくださいと言いたいです。学問の世界で「あなたの×××は間違っています。でも、どう間違っているのかうまく言えないので、×××先生の名著『×××』を読んでください」というような発言をすると、「この人は自分ではわかっていないのだな」と思われて軽蔑されます。自分の頭で考え、自分の言葉で主張してください。

    私は、「苦」にしても「縁」にしても、原始仏典で使われている本来の意味で使っています。現代的な意味で誤解しているのは、あなたの方ではないですか。その証拠に、あなたは、私にオリジナルの原始仏典を読むことを薦める代わりに(もちろん主な原始仏典は「煩悩からの解脱は可能か」を書くためにすでに読みましたが)、日本人によって書かれた現代の本を薦めているではないですか。もちろん、その日本人は、本来の言葉の意味が何であるかを論じているのかもしれませんが、それは所詮一つの解釈にすぎません。

    さらにあなたは、「新説を唱えるなら独自に筆者の哲学を語れば良い」と言いますが、旧説を否定せずして、どうして新説を「新説」と呼ぶことができるのですか。「旧」に言及しなければ「新」を語ることはできません。旧説が常識的な説なら、いちいち固有名詞を挙げる必要はないでしょうが、仏陀の場合特殊だから、引用せざるをえないのです。

  11. 「煩悩からの解脱は可能か」について、お伝えしておきたいことがあり、投稿しました。「またぞろ、仏教かぶれ野郎のクレームか」と思わないで下さい。
    1.仏陀にも「真理を求める欲望があった」との指摘について
    勿論、ご指摘の通りですが、「真理を求める『煩悩』があった」とまでは、永井先生も書けなかった事と思います。半意識的に良識感覚が作動した結果でしょう。結論から言いますと、宗教では「真理を求める欲望」は煩悩に含めないのです。寧ろ、これを基準として、「真理を求める欲望」を妨げる内的要素を煩悩と位置付け、定義付ける事になります。仏教で「真理を求める欲望」を菩提心などと呼ぶのはご存知の通りです。よく、「愛情と憎悪は同じコインの裏表」とか「同じ棒の右端と左端」などと申します。精神分析学でもそう言いませんでしょうか?煩悩と菩提心は、これと同様の関係にあります。(反転関係)煩悩と菩提心は、同じコインの裏表、同じ棒の右端と左端です。従って、「煩悩即菩提」の命題は、極めて粗雑な表現命題であり、正しくは煩悩は菩提心が反転したに過ぎないものであるという意味で、両者は同じもの、と表現すべきことになります。(向けられるベクトルが反対なだけ)
    2.「梵天勧請の話」の扱いについて
    梵天を仏陀自身の名誉欲の化身と解釈するあたり、仏教徒には無い発想で、とても面白く興味深い切り口だと思いました。御蔭さまで、「梵天勧請の話」について考察でき、「これは後世の作り話」との結論を得ることができました。『仏伝』の記述を100%信用した上に「永井説を構築した」のは、永井先生らしからぬケアレスミス、弘法も筆の誤りと申せましょう。確かに、ヨーガでは、サマディーに入ると、鈍重な物質界に戻りたくなくなり、そのまま捨身したくなる、と言われます。しかし、釈尊が真の大聖者であったなら、真理をこの世に伝道するためにこそこの世に生まれた、という「大使命」の認識も会得しているはずなので、梵天の勧請は無用どころか、それこそ「釈迦に説法」になります。
    3.「釈尊の伝道は名誉欲、説」の当否について
    永井先生は「仏陀の布教活動はかなり矛盾を孕んだ行為である」と分析し、それ故、仏教徒からの叱責を覚悟の上で、あえて名誉欲説を提出しています。一般的通説よりも、自分の分析力こそ信じて発言する、これぞ、日本人に必要なものです。日本の仏教徒や仏教学者にも、是非見習ってもらいたいものです。あやまちを恐れては、学問の発展はありません。
    ただ、この永井説は、西洋哲学的、個人主義的な思考パターンに基づく分析である点に、分析の限界があります。いきなり「奥義」に触れますがインド哲学、ヴェーダのウパニシャッド、不二一元哲学、ひいては、その影響を受容してきている東洋哲学では、イデア(形而上的なもの)を「本地」、リアル(形而下的なもの)を「垂迹」と見ます。仏教が神道を包摂統合する日本の「本地垂迹説」はその特殊版と言えます。逆にいうなら、日本の「本地垂迹説」の適用範囲を一般化したもの、即ち、「一般本地垂迹論」こそがインドの不二一元哲学の本質です。誤解を恐れず、もっと簡略に表現するなら、イデア的な唯一の神霊たる大生命こそが「本地」、形而下的・物質的な万物はその「垂迹」にして「投射」もっと簡略に表現するなら、唯一の大生命以外、一体何処に生命があるのか?何処にも無い。粗雑に言えば個体生命も「電気なければただの箱」という事です。
    『金剛般若経』(岩波文庫版)の第25款には、「というような考えが、如来に起こるだろうか。スブーティよ。しかし、このようにみなしてはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が救ったというような生きものはなにもないからである」と記されています。これに対しては、「原始仏教と後世の大乗仏教は違う」との反論もできましょうが、般若経群は、仏陀のヴィジョンに近づき、悟りの空の境地を伝えようとして出来たお経であり、不二一元哲学と一致する点や、「ヴェーダの達人」と釈尊が自称したと原始仏典スッタニパータが記している点からも、仏陀の境地を般若経群から推察する事は許されることでしょう。
    衆生を生きものとして見ないで伝道する。これは西洋的な個人重視思考の人々にはショックなことでしょう。しかし、イエズスも伝道行為を「葡萄作りの農作業」に喩えています。人を葡萄と見るなんて、と感じる人もいるでしょうが。インドでは、伝道行為を「畑を耕す行為」に喩えます。(ギータなど)もっと言えば、「衆生を生きものとして見ないで伝道する」とは楽器の修理や調律・調弦作業に喩えることができます。こうした作業は淡々とやるもので、毀誉褒貶する個人を生きものと見ず、無視するので、名誉欲から伝道するのではない、と言えます。真理の響きを増やす意味で、この調弦作業は菩提心の一種と位置付ることができます。これが本来の仏陀の立場と言えます。
    また、別角度からの説明もできます。インドの諸スートラ(スッタニパータも然り)には、ある種のサマディーに没入すると、諸煩悩は焼き尽くされ、二度と煩悩に悩まされることはなくなる、との教えがあります。よって、「煩悩からの解脱は可能か」という問いは、「煩悩解脱のサマディーは本当にあり、本当にこれに没入することはできるのか」と言い換えられます。
    これについては、近代の聖者として評価が固まりつつある、2聖者をあげることで、極々、僅かの超人的に強烈な瞑想力を持つに至った「信心の天才」に限り、解脱は可能、との結論を得ることができるでしょう。(でなければ、宗教はインチキという事になります。)その2聖者とは、ラーマクリシュナとラマナ・マハリシです。ラーマクリシュナについては『ラーマクリシュナの福音』という、この聖者の生活ぶりを記録した書が有り、ここから、サマディーに入った聖者とはどんなものか、うかがい知ることができます。

  12. まず、梵天勧請の話ですが、もちろん、私も、梵天(ブラフマー神)が本当に仏陀の前に現れたとは思っていません。そもそも私はいかなる神の存在も信じていませんから。あくまでも神話の解釈をしているだけです。

    真理を求め、悟り、それを教え広めたいという欲望が、煩悩かどうかですが、これは、仏教に対して内在的な立場をとるか外在的な立場をとるかで、違ってきます。仏教の信者は、「真理を求め、悟り、それを教え広めたいという欲求は煩悩ではなく、煩悩とは悟りを妨害する欲望だ」と言われれば、納得するでしょう。

    しかし、仏教を信じない人から見れば、仏教の真理とは、たくさんある真理の候補のうちの一つです。仏陀を聖人として理想化する伝説ではともかくも、実際には、仏陀は伝道に苦労したと思います。後に、仏教がインドに定着しなかったことから判断しても、当時の人々が、仏陀の教えを素直に受け入れたとはとても思えません。

    もし、煩悩を、「それを満たそうとすることが苦をもたらす欲望」と定義するならば、自分の教えを広めたいという欲望もまた煩悩でしょう。真理の候補は他にたくさんあります。自分の教えを広めようとすることは、承認をめぐる戦いに参加することですから、大変な苦痛です。
    ところで、「衆生を生きものとして見ないで伝道する」とは、どういうことでしょうか。生命がなければ、意識もないはずで、そうした物同然の大衆に対して、布教活動ができるでしょうか。

    例えば、今私が「白きものは救われる」という教えを説く新興宗教を創設し、森に生えている木の枝やら幹やらに白い布をかぶせたとしても、それを布教とか伝道とか言うことはできません。木を口説いて、彼らに自発的に白い布で身を覆わせることに成功すれば、布教あるいは伝道に成功したということになるでしょうが、ただ木に白い布を巻きつけることは、たんなる宗教的実践であって、布教あるいは伝道と言うことはできません。

  13. 「煩悩」を巡る解釈問題について以下、論じてみます。永井先生は、仏教に対する、非信徒としての外在的立場から、「煩悩」に対する新たな定義をお立てになり、煩悩を、「それを満たそうとすることが苦をもたらす欲望」と定義するなら釈尊もこの種の煩悩からは自由ではなかったと、ご指摘です。これは多分、一仏教を外在的立場から鳥瞰し、仏教よりも一般的・大局的立場からの普遍的な、「哲学的な新定義」なのでありましょう。しかし、哲学的な永井説の「煩悩」の定義の中の「苦」という言葉は、「楽」に対する相対的な概念である上に、「苦」は(バタイユではないですが)「エクスペリアンス・アンテリユール(内的体験)」に属するものです。苦が内的体験であるとすれば、以下のような考察が出来ます。
    <肉体的な苦(=身苦)の場合>医者に外科手術を施されている患者を第三者が目撃して、「痛そう!苦しそう!」という見解を目撃者が持ったとしても、その手術部分に局所麻酔をかけられていたなら、当の患者本人は「痛くも苦しくもありません!」と、笑って答えるでしょう。インドの瞑想法は、幽体離脱に近い方法(但し、厳密には違う現象です)で、肉体の感受意識から離脱する、又は、他(=神)に強烈な集中力をする事で、肉的感受(感覚)を全く意識せず忘れてしまう技法です。この状態に入るサマディーを「苦の断滅」と定義します。そして、この状態の一特徴を涅槃と呼んだのですが、後世、涅槃が死の状態と混同されてしまいました。しかし、本来、サマディーと死は、別個の現象です。
    永井先生は、「火の熱さから逃れるには、火を消したり、火から遠ざかったりするのではなく、火は熱いという思いを捨てたらよいというわけだ。ここに、仏教の根本思想を見ることができる。」と書いておられ、正解ですが、この「思いを捨てる」の中には、「肉体の感受」を捨て、それから離脱することが含まれます。尤も、「そんな離脱は有り得ない!幻想だ!」と言われたら、どう答えましょうか。有神論と無神論との間には、越えられない深い河が有る、としか、答えようがありません。現在の科学では、神や心霊問題は証明不能の問題ですから、保留事項扱いで、「真理の候補としての仮説群」として双方の見解を尊重すべきでしょう。但し、アナロジーとしての「麻酔現象」や、強度の集中時にも「痛苦感覚」が麻痺する現象については、一考して戴くべき問題と言えるでしょう。
    <精神的な苦(=心苦)の場合>最高度の集中の結果もたらされるサマディーに見事入定すると、大歓喜・大法悦を(肉体ではなく個的霊体が)体験すると言われます。この場合、その時には既に一切の心苦は、大歓喜の故に、吹き飛んでいます。ところで、永井説は、煩悩を「それを満たそうとすることが苦をもたらす欲望」と定義しますが、「それを満たそうとする」衝動から自由である場合、即ち、それを満たさない選択をすることが可能であり、それを満たさない選択をしても苦を感じず、平気である場合には、どうなのでしょう?
    しかし、永井先生は、133号講義の中で、「では、私たちは、欲望から完全に自由になって、涅槃寂静の境地に達することができるのだろうか。答えは、否である。生きている限り、欲望から自由になることは、不可能である。」と断じておられます。つまり、これを哲学的な「真の命題」として提示しておられます。そして、この命題を「真」とする根拠は、「煩悩」に関する永井定義です。煩悩を「それを満たそうとすることが苦をもたらす欲望」と定義することで、「妨げられると苦と感じる内的衝動全般」を「煩悩」に指定して、一切の例外を許さない「網」を張っているからです。よって、この定義の一帰結として「真理を求める欲望も煩悩である」という判断になります。何故なら、「真理を求める欲望を持つ者が真理に接近するのを妨げられれば、当然、心苦を感じるであろう」と考えられるからです。確かに、この解釈で行けば、修行中の釈尊にも、一般仏道修行者にも煩悩がある、と言えますし、悟りを求める菩提心も煩悩の一種と評価されます。(よって、この見方に異論を唱えることは無意味ですね。ちゃんと筋が通った一見解ですから。これぞ、外在的立場からの広義の「煩悩」解釈ですね。)
    しかし、遂にサマディーに入ることを得て「悟った釈尊」は、苦を超脱した、と言われます。この場合、求める真理との一体化を既に成就してしまったわけですから、「真理を求める欲望はもはや無い」と言えます。一切の苦が吹き飛んでしまった大歓喜・大法悦の境地にあっては、「他者から認められたい」という名誉欲など、混入の余地がありません。この状態は、誤解を恐れずに言えば、「全欲望」が満たされた状態です。或いは、最高の大歓喜大満足状態の故に、他の欲望が消滅してしまった状態と言えば良いでしょうか。アナロジーとして、セックスの絶頂恍惚体験がよく引き合いに出されますが、内的エクスタシーに圧倒されている時、名誉欲など湧く余地はありません。
    セックスの絶頂の場合も、神を悟ったと言えるサマディー(これを、ニルヴィカルパ・サマディーと言います)の場合も、共に肉体の行動意識は働きません。ただただ、<エクスタシーを味わう(茫然自失の)意識>が有るのみです。この状態は、主体的選択が不能の状態なので、バタイユの言う「プティ・モール(小さな死)」ではないですが、「こいつは死んでいる!」と永井先生なら評価するかもしれません。もしかして、永井哲学の限界がここにあるかも?!(笑)
    鋭い冗談はさておきまして、但し、例外的に、内的に大法悦エクスタシーを保持したまま、肉体活動ができるサマディーが有ります。これを、サハジャ・サマディーと申します。これは、極々少数の<大聖者>のみが達成できるサマディーですが、釈尊の場合も、これに当たると見ることが出来ます。(諸特徴の分析から言って)さて、このように、サハジャ・サマディー状態の内的エクスタシーがメインの意識体にありましては、(圧倒的なエクスタシーに浸るところにこそ主な意識が有るので)、この者にとって、肉体的諸活動は、はっきり言って、やってもやらなくても、どうでも良いというレベルのものになっております。そして、こういう状態で行なう行為こそが、<行為に執着の無い行為>(超行為)と呼ばれ、これが、カルマ(行為)・ヨーガの理想とする状態だと説かれます。
    ですから、はっきり言って、サハジャ・サマディー達成の大聖者の場合伝道・布教活動など、やってもやらなくても、どうでも良いのです。ただ、無為自然に、無我の状態で、誤解を恐れずアナロジーで言えば、夢遊病者のように、語り、歩むのです。人為的な努力も皆無です。説得する気持ちもなく承認されたいとも思わず、承認を巡る戦いをしている意識もない。こういう状態で法を説く。これが仏陀の行為です。はたから見れば伝道行為だと評価できる、しかし本人にとっては、やってもやらなくてもどうでも良いものであり、とはいえ人々から「教えて」と求められる以上、それに応じてやっている、そういう説法行為に過ぎないわけです。(この意味で「布教に当たっての戦略性」はゼロです。)そして、この場合、老荘思想との共通性を見ても大過ないので、「無為自然の行為」これがキーワードと言えば、分かりやすいかもしれません。従って、以上のような「釈尊の内的状態」を前提にすれば、「煩悩」の意味に関する(水も漏らさぬ)永井定義からしても、悟った後の釈尊に関しては、「煩悩から自由であった」と見る解釈が成立する余地が出て来ます。そして、この見解こそ、恐らく、大多数の仏教徒やヒンドゥー教徒からも支持され(得)る見解と言えましょう。(真理の候補の中の、最有力候補として強く推奨するものです。)
    仏陀は有神論者か?永井先生は「仏陀の十四無記の教え」を引用して、「そもそも、仏陀本人は、超越神や死後の世界を語らなかったのですから、厳密な意味では宗教家とは言えません。」と仰っておられますが、これは、実は、一般に流布している皮相な誤解群の一つと言えます。何故なら、「言わない事」は「認めない事」を必ずしも意味しないからです。(ハートからハートへの無言の伝達にこそインド文化の奥義が有ります。)そもそも、仏陀はジュニャーナ(叡智)・ヨーガの厳格な実践者でありまして、真の神、又は、真の実在、又は、無常にあらざる真なるもの、を求めて、「これでもない、これでもない」と思惟力によって「非真」を否定をして行く事で、真実に迫る手法を取った、と推察されます。(大乗仏教で花開くその流れから)
    そして、非真の代表は、言葉や名称であるので、神という呼称を使用することで生じる既成の概念や偏見を断つために、超越神について無言を貫いたのです。つまり、「偶像的な神」概念を全部否定してこそ「真の神」に到達できる、という「叡智のヨガ」の方法論が根底にあるわけです。その証拠といっては何ですが、超越神の名称を忌避する立場を貫くと、伝道上うまく伝達できない不都合が生じます。そこで、後世になると、超越神のことを、真如とか法身とか大日如来とか、本居とか本地(!)などと、呼ぶようになります。また、大乗仏教で、方広道人(ほうこうどうじん)と言えば、無神論的・虚無的な見解の保持者を指し、外道とされることからも、仏教自体は、超越神自体を否定するものではないと、充分に推測できるはずです。

  14. 私が、以前から仏教に対して抱いている疑問は、「仏教の理想は、人間が植物になることなのか」というものです。

    植物には神経がありません。ですから、一切の苦から解放されています。欲望もありません。外から観察している者は、「植物は太陽の光を望んで、枝を窓に向けて伸ばしている」などと言いますが、当の本人には、少なくとも欲望の意識はありません。それでいて死んでいるわけではありませんし、動きが非常に遅いとはいえ、静止しているわけでもありません。

    植物は、意図的に他の生物を殺すことはありません。逆に殺される時には、叫び声を上げたり、逃げ去ろうとしたりもしません。現世への執着を微塵も見せずに、従容として死に就きます。まさに、仏教の理想ではないでしょうか。

    にもかかわらず、植物は、自分たちが偉大だとうぬぼれていません。うぬぼれる意識がないから当然なのですが、他方で意識を持つ私たちも、植物を尊敬する気にはなれません。植物が「最高度の集中の結果もたらされるサマディーに見事入定」して涅槃の境地に入ったわけではなく、生まれつき苦労せずしてそうだからです。

    もしも「一切の苦が吹き飛んでしまった」なら、もはやそれは「大歓喜・大法悦の境地」ではありません。欲望を持ち、欲望の挫折から苦悩するからこそ、私たちは大歓喜・大法悦の境地に達することができるのです。

    もしも、仏陀が、尊敬に値しない植物ではなくて、尊敬に値する聖人であるとするならば、仏陀もまた煩悩に支配された人間でなければなりません。

    もう一つの話題「仏陀は有神論者か」についてですが、確かに、言わなかったから認めなかったとは限らないにしても、言わなかったから認めていたとも限りませんね。今日の仏教が宗教であることは間違いありませんが、仏陀本人が宗教家であろうとしていたかどうかは、解釈の問題だと思います。

  15. 誤解を恐れず<一言で>答えようとしつつ、同時に、正確性をも保持しようとするならば、「空海なら、この質問にどう答えただろう」と、空海の解答を推察する手法が良いように思います。空海なら恐らく、「まあ、9割がたは、植物のようになることと考えて宜しい。しかし、残りの1割にこそ、奥義が有る」と解答したかもしれません。
    というのも、空海全集に入っていますが、彼の「秘密十住心論」という著作の中で、彼は人間の精神の発展段階を10段階に分け、最高の第10段階をゴールとし、これを「悟りの意識」とし、その一つ前の第9住心を「極無自性心」としているからです。「無自性を極めた心」=これは、主体性ゼロの、植物の如き「受動性」に徹した心の状態を意味します。
    因みに、木石禅と言えば、座禅中、自らを木や石の如きものとする瞑想法を指します。仏陀は菩提樹の下で悟ったと言われますが、一説には、菩提樹を背にして、木の如くなる瞑想法を実践したのだ、と言われます。
    以上の点から、「仏教の理想は、人間が植物になることなのか」と問われれば、答えは「いいえ、違います」になります。喩えで言えば、マンゴーの木が有って、思いっきりジャンプしたら手の届く位置に、マンゴーの果実がぶる下がっていたとします。
    すると、第9段階の心「極無自性心=主体性の無い、植物の如き受動に徹した境地」この段階は、最高の飛躍をするために「最も低くかがむ」という、ジャンプの準備段階に相当します。従って、この段階にとどまっていては話になりませんし、この状態のままでは、人としての「価値」を疑われても仕方ありません!!!この点は永井先生のご指摘の通りです。
    空海はこの段階の「卑」を捨てて、第10段階の「尊」を取れ、と言います。まことに、仏教の理想、そして、密教の、そして、一般的な宗教の理想は、「神の意識」という「マンゴーの果実」を手に入れる処にあります。この「マンゴーの果実」が極上・無上である故に、その一かけらでも食べたいと望む人々から、聖者は尊敬を受けるのです。
    以上の回答に対して、「的はずれの回答をしてくれるな。私が言いたかったのは、植物には選択の自由も選択の能力も無いから意識も認識もなく、従って、苦も楽もない。もしも、人間が植物のように選択の自由も選択の能力も無く、よって意識も認識もなく、従って、苦も楽もない、という状態になったら、大歓喜も認識できないはずだし、人としての価値もないだろう、ということだ」という感想を永井先生がお持ちになったとしたならば、この論理の中には、微妙な「誤解」が混入している、と申し上げます。
    宗教の話ですから、信じる・信じない、受け入れる・受け入れない、は別にして、プラトンのイデア・モデルを想定するのと同様の心持ちで、仏教的な、そして、インド不二一元哲学的な「有神論の世界観」について、真理の一つの候補として、そのモデルを「想像」して戴く必要が有ります。
    つまり、「主体」の問題です。無神論なら、超越神を否定しますから、この立場に固執したまま、仏教を見るなら、「仏教の理想は植物になることか?」となります。しかし、有神論の立場から、超越神という「アナダー・ワンの主体」を想定するなら、「主体の明渡し=大政奉還=主導権の交代」の問題になります。
    すなわち、「極無自性心=主体性ゼロの、植物の如き受動的な心」は、<神に主導権を渡すための最高の準備>ということになる、と分かって戴けることと思います。
    永井先生は、もしも「一切の苦が吹き飛んでしまった」なら、もはやそれは「大歓喜・大法悦の境地」ではありません。欲望を持ち、欲望の挫折から苦悩するからこそ、私たちは大歓喜・大法悦の境地に達することができるのです。と、認識の相対性の問題を指摘なさいます。
    確かに、主体が一つの場合には、このような論理になるかもしれません。しかし、主体が二つ有る場合には、「与えるもの」と「受けるもの」の相対性が成立し、先生の論理は全く成り立たなくなるはずです。いかがでしょうか。あくまでも、一モデルとして、お考え下さい。
    尚、仏陀が有神論者か否かは14無記からだけでは判別不能ですが、原始仏典スッタニパータには仏陀が自分のことを「ヴェーダの達人」と自称している記録が有ります。「ヴェーダ」は有神論聖典であり、これに精通しているとの言明は、仏陀=有神論者説に有利でしょう。仏陀=無神論者説と仏陀=有神論者説双方で、間接証拠・提出合戦をしたなら、後者の説が大分有利でしょう。

  16. 大空照明さんの言いたいことがわかりました。幽体離脱で抜け殻となった身体は植物同然だけれども、幽体離脱する精神はそうではないということですね。

  17. その通りです。但し、3点ほど、注意点が有ります。
    1.無神論的ヴィジョンでは、「物質の脳味噌が精神を作る」と見ます。しかし、有神論的ヴィジョンでは、「霊体が肉体を纏う」と見ます。イエズズも肉体を「新しい着物」に喩えていますし、同様の見方はインドの「バガヴァッド・ギータ」にも有ります。インドの輪廻転生説も霊体の同一性が基本になります。仏陀が霊魂肯定論者か否かは、有神論か否かと同様の議論になってしましますが、仏陀の「ヴェーダの達人」発言は、仏陀が「ヴェーダの体現者」と自称したのと、ほぼ同義とみて良いでしょうから、霊魂肯定論者と見ることが出来ます。実際,瞑想力が一定以上になると、霊界や霊魂のことが分かるようになります。ソクラテスも霊魂肯定論者だったと聞いています。また、白隠禅師の書いたものには、幽体離脱体験が記されています。特に、三重苦のヘレン・ケラーのケースは注目に値します。彼女は大学首席卒業したほどの(努力と)頭脳の持ち主ですが、その頭脳をどうして手にいれたのでしょう。盲目状態で、諸概念をどうやって構築できたのでしょう?「光の中へ」という彼女の自伝の中に、小学校の時、図書館で点字図書を読んでいるとき、幽体離脱してお花畑で蝶々を見た、と記しています。肉体の目では「蝶々」を見たことがなく、蝶の様子は想像すらできないはずなのに、彼女は霊体の目で見て、蝶概念を正確に把握したのでした。
    2.幽体離脱とサマディーは別の現象です。幽体離脱は、肉体からの霊体の離脱ですが、(但し、魂の緒のようなものでは繋がっていると一応想定して下さい)サマディーは、霊体の更なる「核」の部分である「アートマン」への没入を意味します。アートマンが「神の意識」であり、もう一つの主体です。
    3.密教には「入我我入(にゅうががにゅう)」という言葉があります。この二つの「我」は二つの「主体」を表しています。神が人のエゴの入るのが「入我」、人のエゴが神の意識の没入するのが「我入」です。神の意識という大海の表面に、エゴの浮き玉が浮き沈みしている様子をイメージして戴ければ宜しいかと思います。

  18. 仏陀が有神論者か否かの問題を含め、大空照明さんは、仏教をウパニシャッド哲学と結び付けすぎているような印象を受けました。仏教は反バラモン教であり、梵我一如が仏陀の悟りの境地だとは思いませんが、そうした解釈の問題は措くとして、宗教に関するもっと普遍的な問題で議論を続けましょう。

    オウム真理教のいかがわしい「空中浮遊」などとは違って、解脱は内的体験であって、外部から観察可能な体験ではありません。要は、本人が解脱したと主観的に感じるかどうかにかかっています。

    したがって、たとえ本人が最終解脱を体験したとしても、周囲から、解脱したと認められなければ、その人は信仰の対象にはならないでしょうし、逆に内的な体験を欠いていても、周囲を説得することさえできれば、その人は信仰の対象となるでしょう。

    もっと重大な問題は、神か否か、仏か否かを決める基準を誰がいかなる権利で決めるのかということです。もし神や仏を自称する人が決めるのなら、その教説はトートロジーの域を出なくなります。

    「我は神なり」あるいは「我は仏なり」と言い出すことなら、誰でもできます。問題は、人々にそう認めてもらえるかどうかにかかっています。したがって、布教や伝道は、どうでもよいことではありません。

    それとも大空照明さんは、「たとえ認める者が自分一人しかいなくても、真理は真理だ」と思いますか。

  19. 真理の認定と布教の問題を論じる前に、1点確認しておきたいことが有ります。いわゆる「思想の自由市場」の中での「自然淘汰」説、つまり、邪説はやがて敗れ、真理は最後に勝利する、このような「市場原理」が働くとする、一つの「信仰」を永井先生は肯定なさいますか?つまり、思想についても、「市場原理は至上原理」とお考えでしょうか?

  20. 自然淘汰説は、「正しい理論は必ず生き延びる」という真理についての信仰ではなくて、「生き延びている理論だから正しい」と判断する真理の判定基準です。正確に言えば、メタ基準なのですが。一応、次のように整理しておきます。

    • 真理の定義:知と現実との一致
    • 真理の基準:知の整合性
    • 真理のメタ基準:知のサバイバル
  21. ご指摘有り難う御座います。<「適者生存」は内容空虚なトートロジー>という事は、20年前に長谷部恭男教授(憲法)がまだ私大で助教授をしていた頃に教えて貰い、それ以来、よく使っていたのですが、うかつでした。
    ところで、我々の議論で扱っているのは、「宗教の真理」についてです。よって、前提として、まず、「宗教」概念について定義しておく必要がありましょう。無神論の立場からの「宗教」の定義は、神など無いのに「有る」と強弁する、その虚偽性を指摘する、否定的なものになるでしょう。但し、その中で、倫理的な規範を含む部分だけは、肯定的な評価を与える、という内容になりましょうか。
    一方、有神論の立場では、「超越神という主体」と「人間という主体」という「2主体」の相互関係を前提にしますから、ここから洞察される宗教の定義は、永井先生風に表現すると、「(分裂的な)神と人との状態のエントロピーを縮減するための教え」と表現できる、と思います。よって、「宗教規範」とは、それを選択すると、その選択者と神との相互関係性のエントロピーがそれなりに縮減される、ファンクショナルな恒常性の原理ということになります。この私の定義に、ご異議ありますでしょうか。これをもとに議論を進めても宜しいでしょうか?

  22. 宗教は、信仰の目的で定義されるべきでしょう。宗教を信じる人の目的は、死後を含めた(ここが科学技術とは異なる)魂の救済だと思います。神とか仏とかは手段です。たとえ教義上第一の存在であっても。

  23. 次の3点を前提にしつつ、永井先生の意見を尊重する形で、先の私の宗教の定義に、一部修正を施してみます。
    1.これまでの議論で明らかになった事として、もしも、超越神が存在しないとしたならば、永井先生の結論通りに、「煩悩からの解脱は不可能」という帰結になるしかないでしょう。この場合、サルトルの戯曲じゃないですが、まさに「出口なし」の状態になります。この悲劇的実存状況にありながら、ニーチェのようにもならず、バタイユのようにもならず、カミュのようにもならず、精神の平衡を保つのは、よほど強靭な精神力が必要だと思います。故に、これができる人を私は本当に心から尊敬するのです。
    2.「宗教の定義」を立てるに当たり、私は、無神論と有神論両方の立場で、ケース分けしました。これは、両方の立場を含むような、広くて曖昧な定義をすると、定義をする意味が無くなってしまうからです。よって、この議論においては、「宗教の定義」は、有神論の立場からのものに限定する必要があります。それに、無神論の立場から、宗教の定義をすると、それは、「宗教の真理」を巡る認定論の、その土台の否定になります。よって、やはり、有神論の立場に限るべきことが導かれます。∵無神論に立脚すれば、結局、「救いは無い」「解脱も不可能」となり、「魂の救済」は有り得ず、「魂の救済」など「嘘っ八」になるだけです。
    3.有神論に立脚した場合でも、超越神が、人間とは何の関係も持たないというケースを想定すると、この場合も無神論の場合と同様に、「魂の救いは無い」ことになります。というか、正確に言うと、このケースで「救いが有る」という教義を立てても、それは「真理の論理性を欠いたもの」でしかなくなるので、「宗教の真理」を扱うこの議論からは、除外する必要が有る、ということです。よって、有神論の立場の中でも、超越神と人間、相互のかかわりの中での、人間の閉塞的実存状況からの「超越」の可能性が論じられなければなりませんし、救いを信じる宗教では、それがまさに可能だと信じる、こういう信仰を持つことが、合理性を内包した真理の一候補としての「宗教」ということになります。
    以上の3点を踏まえると、リヴィジョン・アップした「宗教」の定義、即ち、(合理的な、真理の一候補を内包した)「宗教」とは「魂の救済を目的にして、(分裂的な)神と人との状態のエントロピーを縮減するための教え」このようになります。これなら、永井先生のご意見も、ちゃんと取り込んでいますから、異論は出ないと思いますが、いかがでしょうか?

  24. 「神と人との状態のエントロピーを縮減する」というのは、何のことなのかよくわかりません。「様々な宗教や神様を手当たり次第に信じた結果、どれが一番良いのかわからなくなったという不確定性を減らす」ということなのでしょうか。

    宗教を信じるか否かは別として、私たちは、選択の不確定性にさらされています。この不確定性を縮減するための手段はたくさんありますが、神や死後の世界の信仰もそうした手段の一つです。神や死後の世界など、検証不可能な形而上的存在の想定による不確定性の縮減が宗教だと定義することができます。

    もし、宗教をこのように定義するならば、仏陀の教えは宗教ではありません。仏陀は無神論者であり、魂の実体性を否定しました(無我の思想)。神とか魂といった有への信仰は、有への執着をもたらし、煩悩からの解脱を不可能にします。仏陀の教えは、無への信仰です。つまり信仰はないということです。

    不確定性の縮減がさらなる不確定性の増大をもたらすとするならば、初めから縮減しなければよいという考えもまた、一つの縮減方法です。だから、魂の実体性の否定も、結果的には魂の救済のための一つの方法ということになります。

    「煩悩からの解脱は可能か」で私が言いたかったことは、「解脱は不可能だ」ではなくて、「解脱は不必要だ」ということです。解脱は決して不可能なことではなく、誰でも、死ぬか植物状態になるかすれば、解脱することができます。

  25. 先生の宗教の定義、及び、仏陀と仏教の解釈を明確に提示して戴き、有り難う御座います。いくつか問題点を指摘したいのですが、それは次の投稿に譲ることにします。議論もいよいよ佳境に入って来た感が有りますね。
    ただ、先生の仏教・仏陀解釈を論じる準備として、1点確認しておきたいことが有ります。先生は仏陀がサマディーに入ったと言われることを肯定なさいますか?それとも認めない立場、つまり、「仏陀=ただのおっさん」説でしょうか?
    さて、この投稿では、私の宗教の定義についてもう少し論じさせて下さい。エントロピー概念の達人である永井先生に伝わらないなら、誰にも伝わらないでしょう。私の言葉不足です。お詫び申し上げます。
    私が表現したかったことを以下、説明してみます。大きなプールに、二人の人間(主体)が制約なく自由に泳いでいたとします。この場合、2主体はバラバラな動きをしているので、2主体の行動の不確定性は高い状態と言えましょう。ここで、一方の者が「やるわよー」と大声をかけたなら、もう一方の者は「はーい」と言って、共に「東方向」に泳ぎだす、という約束事を決めたとするなら、これを実行している時は、以前の無秩序状態よりも、2主体の行動の不確定性は減っていると言えましょう。こうした2主体の打ち合わせを密にして行くことで、最終的には、<一糸乱れぬシンクロナイズド・スイミングの演技>をやるならば、2主体の行動のエントロピーはものすごく縮減された状態と言えると思います。
    宗教の場合も、超越神を想定した場合、神の主体と人間の主体2者の行動はバラバラで独自の状態で、不確定性は高い状態が想定されますが(これが2者の分裂的状況)、人間が超越神の意向に沿った行動を取るように努めて行くならば、両者の行動は統合的な方向にまとまって行き、両者の行動に関するエントロピーは縮減されて行きます。このことを言いたかったのです。
    超越神が己れの超越性を人間に無条件に付与することは、両者の行動に関する相関的なエントロピーを増大させる行為になるので、自己保存的秩序維持システムの基では、この選択は取られない、と言えます。創世記でも、人間にこのままの状態で永遠の命を付与したら大変だ、ということで、命の樹の実を渡さないようにするシーンが有ります。というわけで、超越神が己れの超越性を人間に分与する条件が有るとしたなら、神の行動と統合・一体化の方向で、人間の行動に関するエントロピーを縮減して行くことしか、考えられません。
    以上の考察から、再度、宗教の定義を表現しなおしてみます。
    宗教とは「人間が(魂の救い会得のために)、神の意思・行動に合わせる方向で、人間の意思・行動に関する選択のエントロピーを縮減して行く(ための)教え」このように言えると思うのです。表現の不備があれば、指摘して下さい。
    この定義について、深く検討すると、これまでの仏教論議における、永井先生にとっての「謎」の部分や、私が先生に伝達したいと思う大乗仏教の奥義が垣間見える、と思います。(アートマンの解釈においては、永井先生は多分通説的立場でしょう。しかし、私は原始仏教と大乗仏教の間に「無神論と有神論」の大転換が有ったとは見ず、本質的には連続している、と見る点では、通説的立場と言えましょう。この両者の矛盾について深く検討すると、どちらか一方が間違って誤解している、という結論が導き出されます。)
    真理の候補で有り続けるには、宗教は以上のように定義されなくてはならない、と考えます。いかがでしょうか?仏陀理解・原始仏教理解で、この宗教定義に、仏陀のそれが該当しないとしたならば、「原始仏教は宗教ではない」と言うしかありません。

  26. 「仏陀がサマディーに入ったと言われることを肯定なさいますか?それとも認めない立場、つまり、仏陀=ただのおっさん説でしょうか?」という問いに対しては、「サマディーに入らなければ、ただのおっさんなのですか」と逆に問い返したいです。同時代のソクラテスやプラトンは、サマディーに入ったわけではありませんが、偉大な哲学者であることには変わりがありません。

    「人間が(魂の救い会得のために)、神の意思・行動に合わせる方向で、人間の意思・行動に関する選択のエントロピーを縮減して行く(ための)教え」という定義は、理解できますが、宗教を他の理論から区別するためには、死後の世界についても言及するべきではないでしょうか。

    エントロピーという言葉を使うなら、エントロピーの法則が宗教でどのような役割を果たしているかについても考えましょう。エントロピーの法則とは、「システムが構造のエントロピーを減らすためには、それ以上のエントロピーを環境で増やさなければならない」というものでした。仏教に応用するならば、この法則は、「煩悩からの解脱をありがたく思うには、人は煩悩のとりこでなければならない」ということになります。

  27. これまでの議論では、哲学的なディアロゴスにふさわしく?「言葉の(意味の)示差性」が問題になっていますね。
    1.煩悩の定義 
    宗教に対する「内在、又は外在」的立場の差
    2.「ただのおっさん」の意味合い
    無神論の立場では、偉大な哲学者は、ただのおっさんではないでしょう。(無神論に限らず一般的通説?)しかし有神論の立場では、その人が礼拝の対象となるかならぬか、という場合、「神の化身(聖者)か、ただのおっさんか」、という二分法は、あまりにも重要です。(笑)永井先生は「サマディーに入らなければ、ただのおっさんなのですか」と逆に問い返したいです。と仰いましたが、これに対する答えは、礼拝の対象問題における二分法からすると、「はい。サマディーに入らなければ、ただのおっさんです」となります。神との合一を果たしていない者を信仰の対象として崇拝・礼拝するのは、宗教に対する内在的立場からすると邪道だからです。あとは、認定論の問題になります。
    (無神論の立場では「サマディーも否定されるのか。なるほど」、とあらためて確認できた事は、新鮮な発見でした。ただ、サマディー否定論で原始仏典を解釈すると、解釈に困る部分が沢山出てきて、真剣に議論すると、この立場では勝ち目はないのでは?ともちらっと思いました。「彼岸」は何を意味するのか?等等です。まあ、我々の議論の中ではどうでも良い事ですが。)
    3、アートマンの解釈の差異 仏教解釈については、普通に議論すれば、無神論と有神論では平行線になるだけの公算が高いです。例えば、イエズス・キリストを「受肉した神」と見るか、ただのおっさんと見るか議論しても実りがないのと同じでしょう。しかし、永井先生も「仏陀の言葉」と認めておられる「アナートマン」の解釈について論じるならば、これで「仏教奥義」を永井先生に伝達することはできる、と私は感じています。「宗教」の定義の議論が片付いたら、これに取り組めれば幸いです。
    さて、宗教の定義について、あと一歩、詰めの議論をさせて下さい。エントロピーという言葉を使うなら、エントロピーの法則が宗教でどのような役割を果たしているかについても考えましょう。お言葉を受けて、検討して、答えが出ました。私の定義からすると、神と人の2主体を前提にします。「選択のエントロピー」に関して見ると、自由度が高ければエントロピーが高く、自由度が低ければエントロピーも低いということになりましょう。
    神の意思・行動の合わせる方向で人間の選択のエントロピーを縮減すると、その人間の自由度は狭まり、どんどんと従属的になって行きます。そして、それに正確に反比例する形で、神の自由度(選択のエントロピー)は高まります。何故なら、神に従属的になる人を神はその従属性に応じて自分の意志通りに動かせるようになる、即ち、道具化することができ、その意味で、神の意思・行動の選択肢は増大するからです。
    また、「人間が(魂の救い会得のために)、神の意思・行動に合わせる方向で、人間の意思・行動に関する選択のエントロピーを縮減して行く(ための)教え」という定義は、理解できますが、宗教を他の理論から区別するためには、死後の世界についても言及するべきではないでしょうか。
    というご指摘についても検討しました。そして、「永遠の命」をいう文言を追加することにしました。即ち、宗教とは、「魂の救いと永遠の命の会得のために、神の意思・行動に合わせる方向で、人が自分の意思・行動に関する選択のエントロピーを縮減して行く、こうした道を示す教え」これでどうでしょう?何か不備・瑕疵がありますでしょうか?かなり良いように思いますが。
    おわりに、仏教に応用するならば、この法則は、「煩悩からの解脱をありがたく思うには、人は煩悩のとりこでなければならない」ということになりますについてですが、これについては「認識の相対性」という点では首肯しますが、厳密に検討すると少々違う可能性があると思います。中学生の時、哲学者三木清の「人生論ノート」を読んだ時、「健康は病気になって初めて認識できる」とか何とかの一節がありましたが、ハタ・ヨーガをやると、健康でも健康の喜びが実感できました。それに「煩悩・解脱」ではシステムと環境の区別もないといえるような気がするのですが?尤も、これについて深く議論するのは止めた方がいいような気がしています。もっと重要なことに精力を注ぎましょう。

  28. インド人の中には、「サマディーに入らなければ、ただのおっさん」と考えていた人もたくさんいたことでしょう。だからこそ、仏教はインドで定着しなかったのではないのですか。インド人が仏教よりもヒンドゥー教やイスラム教やキリスト教を好んだのは、仏教が、神を信仰したいという民衆の宗教的欲望を満たすことができなかったからでしょう。もっとも今でも仏教は、ヒンドゥー教の一部へと変質して、インド人の心の中に残存しているらしいですけれども。

    人間が神の道具になるというのは、キリスト教の説明としては良いとしても、仏教の説明としてはいかがなものでしょうか。大空照明さんは、仏典に精通していると思うので、聞きますが、仏陀が

    1. 大衆に、自分を神として拝めと命令した
    2. 自分以外を神として拝むことを禁止した
    3. 自分以外の人間が神になろうとする越権行為を禁止した

    という文献上の証拠はあるのですか。もし仏陀本人が、こうしたことを言っていたとするならば、仏教は、キリスト教と同じ宗教ということになります。

  29. 2者の異同を論じる時には、異同のものさしたる価値基準が前提として問題になりますね。
    永井先生が挙げた3つの点について、仏陀本人が命令や禁止をしたという事は勿論、有りません。しかし、「だから」<仏教とキリスト教は完全に異質のものだ>という論理になるかといえば、そうとは限りません。
    有神論を前提にした場合、超越神を複数認めるか否か、という論点が発生しますが、この問題を深く検討すると、複数は認められない、という結論になるでしょう。多分、永井先生が有神論に万が一、転向した場合も、この立場を採ると思います。
    そうすると、結論的には「万教帰一思想」にならざるを得ません。私の立場も「万教帰一思想」です。空海も同様です。真言密教における「一大曼荼羅観」も「帰一思想」(或いはその展開形)です。空海には「三教指帰」という著書があり、仏教・儒教・道教の三者の究極的な帰一を想定しています。(但し、三者の優劣は有るとしていますが)ヒンドゥー教の多神教とウパニシャッド哲学も「帰一思想」です。
    「帰一思想」は「山頂は一つ、しかしそれを目指す登山道は色々有る」と、表現されます。インドの各種のヨーガの中には、バクティー(信愛)ヨーガと呼ばれる「特定の対象を神(の化身)として崇拝し、この化身に対して信愛のセルフレス・サーヴィスをして行く修行法」が有ります。キリスト教はこのヨーガに分類されます。
    一方、ジュニャーナ(叡智)ヨーガと呼ばれるものは、外的なすべての特定対象を崇拝する「偶像礼拝」を忌避して、自己の内側をひたすら脚下照顧して行く修行法です。仏教はこのヨーガに分類されます。
    一見、正反対のヨーガですが、どちらのヨーガでも神を悟れると言われます。南面の登山道と北面の登山道、陽と陰ほどの差異がありますが、この差異は本質的なものではありません。
    私の宗教定義について永井先生は「キリスト教の説明としては良いとしても…」と条件付きで容認して下さいました。キリスト教の説明として良ければ、ユダヤ教の説明としても良いはずですし、ユダヤ教から派生したイスラム教の説明としても良いと言えるでしょう。ヒンドゥー教の説明としてもOKでしょう。
    というわけで、残ったものとして、私の宗教定義が「仏教の説明としても妥当するか否か」この問題について、思索を深めて行きましょう。私の宗教定義「魂の救いと永遠の命の会得のために、神の意思・行動に合わせる方向で、人が自分の意思・行動に関する選択のエントロピーを縮減して行く、こうした道を示す教え」これは、便宜上粗雑に表現するなら(神に統合する方向で)「人のエゴを縮減すること」、一言で言えば「エゴの縮減」です。「邪心滅却の道」ともいえます。(神意に反する人心を邪心と定義します)
    さて、そうすると、イエズス・キリストの十字架は、彼が身をもって示した、血染めの「エゴの縮減(・滅却・献上)の教え」(の象徴)と見ることができます。一方、仏陀の「無我(アナートマン)」の教えも<エゴの縮減・滅却の教え>と見ることができます。このように見るなら、キリスト教と仏教の差異は登山道の差であり、表面的なものに過ぎない、と言えます。
    ここで、「仏陀が有神論者か無神論者か」という論点を思い出して下さい。永井先生に一つ質問してみます。仏陀が「超越神」の存在に関しては無記を貫いたことは、先生の「仏陀=無神論者説」の根拠でもありますが、さて、一切の、超越神を指し示す言葉や記号を用いずに、それを「否定」することが論理学的に可能でしょうか?
    これが不可能ならば、仏陀の「無我(アナートマン)」の教えは「超越神に関する無我」を意味しないことが明らかになり、畢竟、超越神以外の「形而下的な存在に関する無我」を意味する、と確定します。つまり、超越神以外のものを斬り捨て否定し排除して、真の超越神を瞑想する手法であった、と確定します。
    尚、永井先生のように、アートマンを「(個体的な)魂」の意味に解するのは、後世の派生的用法と推察できますし、仏陀がこの意味でアートマンの語を使ったと解する事は、仏教教義上、無理が有りすぎます。何故なら、「(個体的な)魂」を人間の「根本動因(=アートマン)」と見るのは、大乗仏教では「我見」に当たり、「無我見」を説く仏教からすれば「外道」に当たるからです。ちなみに、『岩波仏教辞典』の「我(アートマン)」の項には「原語の<アートマン>は、ドイツ語のatmenと同じく、もと気息、呼吸の息を意味し、生気、本体、霊魂、自我などを表す。云々」と有ります。
    それから、永井先生の理解のように、「仏教がインドで定着しなかった」というわけではなく、不幸にして「大乗仏教はイスラム教勢力に駆逐されてしまった」というのが歴史の事実のようです。イスラム教勢力が無ければ、大乗仏教はかなりの勢力に成長して繁栄したことでしょう。(既に、ヒンドゥー教的に変容していたのですから)

  30. 私の立場は、一神教的ではなくて、多神教的です。こうやって、意見交換しているうちに、私と大空照明さんの意見がいつか一致するだろうとも期待していないし、たぶん平行線をたどり続けるだけだろうと思います。でもそれで良いと思います。私と意見が一致しないからこそ、他者は他者なのだというのが私の哲学ですから。

    どこから登っていっても同じ頂点に達するはずだという信念のもと、異なる見解の持ち主を折伏しようとすることは、仏陀的な方法ではありません。仏陀は次のように言っています。

    「自己の見解に執し、固く捉え、捨てがたい人にとって、自己の見解に執しない、固く捉えない、捨てやすさが涅槃のためになります」(中部経典第8経)

    仏陀が、世界や魂についての形而上学的な問いに答えないのは、本人が言うように、それが悟りを開く上で必要がないという消極的な理由からだけではありません。形而上学的な仮説を立てると、その仮説への執着が生じ、「私の説は論争で守ってやらなければならない」という煩悩が増大するので、解脱の障害になるという積極的な理由からです。

    毒矢の喩えを使うならば、毒矢を射られた者が、毒矢を射た者が誰なのかとか、どのような弓で射られたのかとかを問うことは、たんに不必要なだけでなく、傷を治療する上で有害ですらあります。なぜなら、そのような非本質的なことを考えている間に、どんどん毒が体に回って、取り返しの付かないことになるからです。

    先ほど引用した『中部経典第8経』で、仏陀は次のように言っています。

    世界には我説に関するもの、あるいは世界説に関するものといったこれら種々様々な見解が現れます。これらの見解が現れるところでも、潜在するところでも、行われるところでも、“これは私のものではない”、“これは私ではない”、“これは私の我ではない”と、このことを如実に正しい慧をもって見る者には、このようにしてこれらの見解は断たれます。このようにしてこれらの見解は捨てられます。

    ここからもわかるように、仏陀は、形而上学的な問題に執着しないために、無我を説いているのです。

    もとより、『中部経典』をはじめとする最古の仏典ですら、仏陀の死後400年以上経って編纂されたものですから、それらを手がかりに、仏陀の本当の思想が何であるかを確定することはできないでしょう。だから、仏陀が本当はどういう人物で、どういう思想の持ち主だったのかというようなことは、議論しても意味がないのかもしれません。

    ですから、大空照明さんが独自の仏教解釈を打ち出して、新しい宗教を作るとしても、私は何も反対しません。宗教は、宗教を信じる人の心を満たせばそれでよいのではないでしょうか。

  31. 私は永井先生を折伏するつもりはゼロです。折伏という昔の創価学会みたいな活動には、大反対です。ただ、金剛般若経のような意識のトランスフォーメーションが対談の中で起これば…、とは少々期待していました。対談のはじめに述べた通り、永井先生に東洋哲学の奥義を伝達できるならしてみたい、というのが、私の動機だからです。 私は永井哲学が好きで、永井先生の思索力が好きなのです。
    宗教奥義哲学では、他者を純粋な他者とは見ません。右手と左手は異なる動きをしますが、両者は他者ではありません。これと同様で、私は他人をも私と同一主体(神)の一部分と見ます。よって、私と永井先生の意見が永遠に平行線ということは無いと考えています。(真の主体の力を信頼している、という意味です。)
    「仏陀が有神論者か無神論者か」という議論は平行線になるだけの不毛なものだと、永井先生はご判断されたのだと思いますが、私もそれはある程度承知の上で、敢えて、ひと押ししてみたのです。というのも、それが殻を破る布石になると思ったからです。殻とは、永井先生が東洋哲学においても達人になるための殻です。
    私は新しい宗教を作ろうとしているわけではありません。この対談で私が主張して来た宗教思想は、インドのウパニシャッド哲学を肯定するヒンドゥー教のスタンダードな考え方です。ラーマクリシュナもヴィヴェーカーナンダもオーロビンドも私の主張と寸分も違わないことでしょう。シャンカラやサイババの見解とも同様とさえ言えます。「仏教とヒンドゥー教が本質的に異なる」と見るのは、堕落・形骸化した仏教アカデミズムの産物です。形骸化したアカデミズムに批判的な、そういう気骨、反骨精神の持ち主という意味では、私と永井先生は共通すると思います。永井先生はいつまでも堕落した仏教アカデミズムに騙されているべきお人ではありません。きっと、私の主張が異端ではなく、真理であるが故にユニヴァーサル・スタンダードであると、気付く時が来ると思います。そして、それがこの投稿であれば…と願っています。
    「先生に有神論的説明をして、有神論者にひきずり込もうとした」とか「(私の手法は)仏陀的な方法ではありません」と思われましたなら、それは誤解です。インドは宗教の国ですから、これまでの議論は、仏陀のおかれた当時の文化環境がそうだったという点を確認する意味も有った、とご理解下さい。(いわば、外堀を埋める作業でした。)
    では、いよいよ、その「仏陀的な方法」=「神を使わないで、思索的・哲学的に真理を瞑想して行く、思い込みレベルの信仰など全く無用な叡智のヨーガ」を以下で実践してみましょう。「金剛般若経」のスブーティーのような意識の変性が、あわよくば起こることを少しだけ期待しながら。(いざ、本陣へ)
    永井先生は、次のように仰いました。「仏陀は無神論者であり、魂の実体性を否定しました(無我の思想)。神とか魂といった有への信仰は云々」と。しかし、ここで「実体性の否定」の意味をわかって発言しておられますでしょうか?多分、違うでしょう。「実体性の否定」が「存在性の否定」と同義なら、「存在性の否定」と言えば良いだけです。実際、般若心経の翻訳でも「五蘊には実体性がない」と訳され、物質にも実体性がない、と言われますが、五蘊も物質も存在はしています。その意味で、「実体性の否定」は「存在性の否定」とは同義ではありません。
    永井先生が「仏陀の思想は無我の思想」と理解するのは正しいですが、肝心の「無我」の意味を誤解しておられるようですね。 「無我」とは「我の否定」であり、その「我」とは「アートマン」のことです。アートマンと呼ばれる「我」の元々の意味は「主体・本体」の意味です。「根本動因としての主体・本体」と言っても良いでしょうし、「主体・本体としての根本動因」と言う事もできましょう。<個体的魂>を人間の「根本動因としての主体・本体」だと感じた人が、アートマンに「魂」という意味を後から付着させたに過ぎません。 私も仏陀も現在の仏教も、個体的魂を「根本動因としての主体・本体」だとは寸毫も考えません。たとえ魂が存在したとしても、です。
    「実体性」は仏教ジャーゴンで「自性(じしょう)」とも言われ、両者は同義異語です。つまり、「実体性が無い」とか「自性が無い」とは、「根本動因としての本体性が無い」ということです。「真の主体」を縮めて「真主体」と呼ぶなら、「真主体性が無い」という表現でもしっくり来ます。  ここで質問します。永井哲学では「主体」とはなんですか? 「真の主体」といえるためには何が必要ですか?
    さあ、では、大急ぎで「抜かなければならない<毒矢>」を今抜きましょう。そのために伝家の宝刀、文殊菩薩の鋭利な剣を、今こそふるいましょう。
    永井先生の右手は主体と言えますか? ノーでしょう。では、手の根っこの胴体は主体と言えますか? 命令伝達媒体に過ぎないのでしたら、主体ではないでしょう。では、脳味噌は主体ですか? 脳味噌のどの細胞に主体があるのでしょう。永井氏を永井氏として動かしている「根本の動因」は何ですか?永井氏の五蘊のどこに「根本の動因としての本体」がありますか?永井氏が「私の意識こそが主体だ」というのなら、その意識を作動させている根本の動因は何ですか? 例えば、数時間前に食べたお米と鳥のから揚げが先生の意識の根本動因ですか?
    煩悩に悩まされることが有るなら、その煩悩を煩悩たらしめている根本の動因は何でしょうか?喜怒哀楽の心の動きの根本の動因は何ですか?意識こそ主体というのなら、あなたの意識は心臓に「鼓動せよ」とか「鼓動をやめよ」と一度でも命令してそれを選択・実行したことがありますか?血液を濾過・浄化して尿にして膀胱に溜めるよう、意識的な選択をしたことが一度でもありますか?
    DNAの二重螺旋構造を形成しようと一度でも意思した事がありますか?ATGCの4種の塩基配列による遺伝子プログラムは、永井先生の頭脳をも遥かに超えた「設計」ではありませんか。これを人間がいつ意識で選択・形成したというのでしょう? 超高層ビルディングの造形を目の前にして、「これは偶然の産物だ」と強弁し続ける人がいたら、その人をどう評価しますか?一連のシステムが主体だというのなら、そのシステムをシステムたらしめている根本動因は何なのでしょう?
    目を転じて「風」について見てみます。風を風たらしめている「根本の動因」は何ですか? 地球の自転でしょうか? 太陽の光熱でしょうか?では、地球の自転の根本の動因は何ですか?太陽の光熱の根本の動因は何ですか?重力や核力など4つの力の根本動因は何ですか?宇宙のビッグバンを起こさせたその根本動因は何ですか?
    あらためてつぶさにクローズ・アップして検証すると、これが根本動因としての本体だというものが全然見当たらないでしょう。(これを仏教では「諸法無我」と言います)。根本動因としての本体が無いのに、森羅万象は見事なまでに深い法則と秩序を内奥に孕みながら、美しく活動しています。これを老子は「無為自然」と評したのでしょう。「無我の中の無為なる活動」です。一方、永井先生は自分を主体だと思って思考したり活動しているでしょう。ここに「主体に関する錯覚」が有ります。
    ヒンドゥー教では、象徴的に「縄を蛇と勘違いする」と表現します。真の主体でない(=無我な)のなら、小ざかしい作為を巡らして作為的に動くべきではありません。それが自分の本分なのですから。そうすれば、やがて、その人の意識を媒体にして、無為なる働きが顕れます。(媒体の個性に応じて)ところが、自分を真の主体だと錯覚すると、「自分は自分の肉体の王様」のような気分になってしまいます。そして好き勝手な、倫理に反する行動を取り始めます。
    <河童型ソーラーパネル付きアンドロイドの喩え>を出します。人間そっくりのアンドロイドができたと仮定します。このアンドロイドは、頭のてっぺんに河童型のソーラーパネルが付いていて、太陽光を受けて発電し、そうしてニューロ・コンピューターを作動させ、人間のように思考して活動するものとします。このアンドロイドを「カッパくん」と名づけましょう。カッパ君には充電システムが装備されていません。よって、太陽光が遮られると、瞬時に糸の切れた操り人形のように、地に崩れ倒れて、屍同然となります。しかし、カッパ君は、太陽光を浴びているときは、自力で意識し、自力で活動している気持ちになっています。こういうカッパ君には何と言いましょうか。「いい気なもんだね、カッパ君。君は自己存在の根本的な<依存性>について全く意識していないんだからね。自己存在に関する最重要事項について失念したまま、君は活動しているわけだ。それが存在に関する<根本の無知>というやつなのだよ。」
    では、準備ができたので、永井先生の最初の質問、即ち、「ところで、「衆生を生きものとして見ないで伝道する」とは、どういうことでしょうか。生命がなければ、意識もないはずで、そうした物同然の大衆に対して、布教活動ができるでしょうか」について、回答します。
    正確には、<衆生を1個の独立した「生命主体」と見ないで伝道する>と表現すべきでしょう。衆生の五蘊のどの部分にも、「根本の動因たる真主体性」は有りません。よって、主体でないものは、腕と同じ、道具としての器官に過ぎません。つまり、衆生を、「真主体の道具としての器官(又は媒体)」と見ながら伝道するのです。足が痒ければそこを右手で掻くでしょう。それと同じ行為なのです。つまり、<足の痒みが衆生の求道心、右手で掻くのが仏陀の伝道活動> ということになります。ここにこそ、仏教の奥義、そして宗教の奥義が隠されています。
    最後に、永井先生は、複雑系の思考パターンを重視するからでしょうか、自らを「多神教的」と仰いましたが、これは永井先生らしくありません。お伽話的に「多数の神々」を想定なさっておられるのでしょうが、確かに、「仮の主体、かりそめの主体」であれば、無数に認めても問題有りません。相対的レベルの神なら、いくらでも想像して戴いて結構です。
    しかし、「神」というからには「永遠不滅性・常恒性」が不可欠です。自己の存在の存続条件を他の存在に依存しない、独立した主体であり、なおかつ、「永遠不滅性・常恒性」が有るような「主体」が、本当に複数、ありえるでしょうか?<永遠不滅性・常恒性を具備した真の主体>について真剣に思索するなら、軽軽しく、「多神教的」とは言えなくなってくるはずです。絶対界と相対界の区別を大乗仏教ではします。前者を勝義諦、後者の諸法(諸存在)を世俗諦と呼びます。絶対的な超越神を複数想定するのは、論理的に無理が有ります。それに多神のどの神にも「自性が有る」と見るのは、「自性概念」に精通した人から見れば、洞察不足、ということになります。「中論」のナーガルジュナ(龍樹)も他性(=Another 自性)を否定しています。ジョークの世界ではなく、哲学として、「真理の候補」について真面目に思索し、探究するなら、どうして「自性有る神」を複数認められるでしょうか。絶対界を複数認め、それを同一次元で交差させるのですか?
    以上のようなことにつき、真剣に洞察してゆくのが、叡智のヨーガです。このような「根本の動因としての主体」について強く深く洞察している最中には、煩悩は停止しています。真理を求める菩提心が働いているからです。つまり、毒矢の毒が回らないで止まっている状態になります。こうした状態を続けて行き、それが深まって行くと、毒矢も抜けます。
    では、最後に、私からのこの対談の<結論>を述べましょう。「真主体性が無い」(無我)という構造的な特徴を持つ人間が、自分には「実体性=自性=真主体性」が有ると錯覚して意識活動をするから、邪な動きをするのであって、そうした主体についての錯覚を正し、「まやかしの主体性を放棄」して、「真主体性が無い」状態を意識し、それに戻り、とどまるならば、「煩悩からの解脱は可能である」と。そして、解脱は必要でもあると。何故なら、悪業ゆえの応報罰の苦を回避するには、最終的には悪業の根本たる「まやかしの主体性に基づく自由」を放棄する必要があるからです。
    この結論を正面から打破するには、「仏教の無我の思想」自体を打破する必要があるでしょう。果たして、永井先生にそれができるでしょうか?仏陀の無我の思想は人間存在の深奥を射抜いた<真理命題>ですから、この偉大な洞察を覆すことは、さすがのゴウリキの永井先生でも無理ではないでしょうか。
    勿論、「仏陀の無我の思想は大空照明さんが解説したようなものではない」と反論して、永井先生独自の「無我解釈」をすることも不可能ではないでしょう。しかし、私が提示した「無我解釈」だけが唯一、首尾一貫した深遠な世界観を表す「無我の哲学」と言えるもの、であるはずです。従って、他の無我解釈を無理にすると、その解釈は「ちゃんとした世界観を表す哲学」にならないので、片(手)落ちで「価値のない無我思想」になってしまうことでしょう。「ヒビの入った骨董品」の如く価値のない、そのような「無我解釈」を前提にして「仏陀は偉大な哲学者だった」と評しても、それは単なる社交辞令のように空しく響くばかりでしょう。 (事実、永井先生は釈尊の事を「本当は偉大な哲学者とは全然思わない」というのが、偽らざる本心なのではないでしょうか?)
    ではここで、<無神論無我説>の致命的な欠点を指摘致しましょう。「一切が無我(主体なし)」であるならば、「無我であることも認識できない事」になってしまします。「無我」や「空」を認識・照見する「主体」は何ですか?これすら否定する「無の哲学」に何の意味があり、思想としてどんな偉大な点があると言うのでしょうか? これすら否定する「無の思想」など、クズでしかないでしょう。違いますか?多分、この指摘には永井先生も、渋々ながら同意して下さるのでは?

  32. 意識は物ではなくて、機能なので、意識を身体のどの空間的一部分とも同一視できないからといって、意識の存在を否定することはできません。意識とは、身体の不確定な選択の主体であり、身体全体ではないにしても、身体を離れては存在しません。

    ここで言う身体とは、皮膚によって画された常識的な意味の身体ではありません。私の身体のエントロピーを縮減する選択とは他のようではない限りで、それは身体であり、例えば、忠実な部下は、私の「右腕」であり、私の身体の一部です。全体主義の独裁者は、国民全体を自分の身体にしています。

    大空照明さんによれば、仏陀は、衆生を真主体の道具としての器官と見ながら伝道したとのことですが、そうすると、その限りでは、仏陀という人は、ヒットラーやスターリンや金正日と変わらないということになってしまいます。

    話を身体論に戻します。心臓や膀胱は、その働きが他のようではありえないから、意識にすら上りません。意識に上る行為ほど、不確定性が高く、他のようでありえますが、その他者性を否定する限りにおいて、私の身体に属します。だから意識に上る選択は、私の身体の周縁に属します(といっても、必ずしも空間的な意味でではありませんが)。不確定性が高く、私の選択とは他の選択である領域に到達した時、身体は環境との境界に達します。

    システムが不確定性の縮減を放棄する時、すなわち構造と環境との差異化を放棄する時、システムは死にます。たとえ肉体的に死ななくても、無我の境地に入るということは、意識システムとしては、死ぬのも同然です。さらに、生理的な選択を放棄すれば、それは肉体的な死までも、もたらすことでしょう。

    倫理が生の肯定の上に立脚しているのですから、無我論のように死を肯定すると、倫理を基礎付けることができなくなります。“自分を真の主体だと錯覚すると、「自分は自分の肉体の王様」のような気分になってしまいます。そして好き勝手な、倫理に反する行動を取り始めます。”という主張は、倫理学的にみてナィーブです。無我論が主張するように、他者が他者の肉体の王様ではないとするならば、ちょうど、誰の所有物でもない石を金槌で粉々にしても誰からも非難されないように、他者の肉体にいかなる危害を加えてもかまわないということになります。

    価値的認識の究極的な根拠は人間の生です。では、認識一般の究極的な根拠、大空照明さんの言葉を使うならば、「根本動因」は何でしょうか。西洋の近代哲学の答えは、自己意識です。現代の物理学も、人間原理で、宇宙を説明しようとします。例えば「なぜ地球は自転するのか」と問われれば、「もし地球が自転していなければ、我々人間が存在することが不可能だったから」と答えます。つまり、人間がいるから、この宇宙は存在するというわけです。

    ただ、私は、近代の意識哲学のように、意識を絶対化しません。無我論でも独我論でもないのが、不確定性の哲学の立場です。人間が住むこの宇宙は、唯一の宇宙ではないし、この宇宙においても、私の選択が唯一の選択ではありません。私が「多神教的」という言葉を使ったのは、この意味においてです。確定的という様相は対象レベルでしか存在せず、メタレベルは常に不確定的です。そしてこの不確定性を自覚することが、他者を尊重することになるのです。

    無我論と独我論は、一見対立するように見えますが、不確定性を否定する確定性の哲学として、表裏一体の関係にあります。無為自然を説く老荘思想が、愚民政策を進める法家に利用されたり、近代的自我を否定したハイデガーがナチに協力したり、主客未分の境地から出発した西田哲学が、日本のファシズムの正当化に使われるなど、宗教的な神秘主義が独裁体制のイデオロギーとなった例はたくさんあります。

    他者に対して、無我を説きながら、自分が我を捨てない時、それは独我論的全体主義となります。こうした危険性があるからこそ、私は、煩悩からの解脱を他者に説くこと自体が自らを煩悩のとりこにするのではないのかと問題提起したわけです。

  33. 「そして、権力欲と性欲を捨てた仏陀も、名誉欲、すなわち他者から認められたいという欲望を捨てることはできなかった。仏陀は真理を欲望したが、真理は普遍的でなければならないので、自分の悟りが真理であることを示すために、多くの人にそれを認めてもらわなければならなかった」と書いてありますが、原始仏典の『スッタニパータ』には、
    “かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。もしも他人に非難されているがゆえに下劣であるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それゆえに、諸々の論争を超越している。”
    と書いてあるので、仏陀は自分の教えもたくさんある真理の候補のうちの一つだと思っていただろうし、普遍的な真理は求めていなかったと思います。
    “ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。”と書いてあり、信仰自体を否定したわけだから、信者を増やしたり、崇拝させたり、自分の悟りが真理であることを多くの人に認めさせる気もなかったのではないかと思います。つまり、仏陀は真理を求める事や他人に認められる事に執着するのも権力を持つことや食べる事に執着するのと同様に煩悩だと捉えていたと思います。欲望を満たすことにも捨てることにも執着しないという「中道」ならば、解脱できるという事を言いたかったのだと思います。

  34. 私は、普遍性のない真理は真理ではないと考えています。人類が今日に至るまで、滅びずに生き延びているのは、人類の圧倒的多数が、煩悩の虜になっているからです。もしもすべての人が、仏陀のように煩悩を捨て去り、托鉢だけで生きようとすれば、人類は滅びるでしょう。それでは、自殺肯定のジャイナ教と大差ありません。普遍化不可能な仏陀の生き方は、個人的な処世術あるいは趣味の域を出るものではないと考えます。「煩悩からの解脱は可能か」が問題にしているのは、仏教解釈ではなくて、自殺することなく、煩悩から解脱することは可能なのかという純論理的な問題であり、それに対する私の答えは否です。

  35. レベルの低い投稿ですいませんが・・・仮に何かを悟っていたとしてもそれを自分のみに実行し、死に埋もれていく人が一番尊いのではと、若いとき良く思っていました。いわゆる本当に尊い方はこの世には知られずに死んでいくのだと。仏陀の意思とは関係なしに信仰が広まったという解釈であれば以上のことが解決するのでしょうか?また、それはありえないのでしょうか。そうであって欲しいですね。キリストにしろ、仏陀にしろ、本人に問題があるというより伝える人間が優れているとは思えません。必ずしも学がある人間ばかりが話を聞いたとは限らないからです。私も普遍性の無い真理を真理とは考えていませんが、今の私は普遍性のある真理が無いことに自分が生かされている様でしかたがありません。

  36. キリスト教の修道院とかは、自給自足ですから、在家信者からお布施をもらわないとやっていけない仏教の出家修行僧たちとは違って、普遍化可能です。

  37. 話を一度もとに戻して「煩悩の解脱は可能か」については人間の欲求も含め全て欲望とするかということはさて置くことにしておいて、全ての欲を欲望としてそれを無くす究極の形は生を否定する事をもって解決するほかに(前述の植物にでもならない限り)私の浅はかなる知識においてそれを見出せません。いわゆる人間として与えられたものをうまく生かすことが出来ません。植物に生まれ出でなかった事はそこに何かしらの理があると考えます。あくまでもこの議題においての煩悩の解脱は可能でないと思います。私も反対意見は思い浮かびません。気になるのはその否定論を仏陀と一緒に否定されるように受け取られかねないところにあります。それでも人間は死んではならないというところに意味があるような、惹かれるようなものを感じますが今の私にはそれはまだ見出せません。

  38. それでも人間は死んではならないというところに意味があるような、惹かれるようなものを感じますが今の私にはそれはまだ見出せません。

    それについては、「自殺はなぜ悪なのか」でコメントしてください。

  39. 「煩悩からの解脱は可能か」について、私は心(意識)を修養する事によって可能ではないかと思っています。(知識として理解するだけでなく、実践することによってのみ可能なことと理解しています)
    まず心(意識)の定義ですが、詳細には神智学の分類(7種類)と思います。
    しかし、すべてを感知できていない私としては、大きく二種類として考えて対応するのが実用的かなと思っています。
    一つは、霊魂に属する意識で、神や仏とつながる慈悲心・愛と智慧に属する意識であり、自分は何のために生きているのだろうというような疑問が湧いてくるのはここの部分での働きではないかと、
    二つ目は、肉体的存在としての意識で、「わがもの」という認識が生れる五感、受・想・行・識の働きから来る意識に分類して考えると理解しやすいと思っています。
    「言霊(ホツマ)」という本の中で、人(ひと)とは(霊・止)であり、肉体に霊が宿っているが故に、ひとと言う、云い伝えがあるとありました。
    苦の原因としての煩悩は、獣性を持った肉体的存在としての意識の働きから生じていると思います。
    このため、肉体的存在としての意識の働きに眼を向け、執着しない囚われないことを説いたと理解しています。
    それは、tanha(渇愛)の働きであり、それによる喜び・楽しみと共に、愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦という苦しみが生じると
    毒矢の喩えの矢はtanhaであり、毒とはtanhaから生ずる煩悩であろうと理解しています。
    (tanha)渇愛の説明文として、もと喉の渇き(thirst)を云う言葉で、水を飲むまで、欲望が叶うまで、喉の渇きの苦しみが続くようなものであり、持たない方が良いものとしている。
    三種類あって、①欲愛(kamatanha)性欲の激情である。性的快楽に対する渇愛。人間の自己拡大の激情 ②有愛(bhavatanha)生存欲の激情である。生存に対する渇愛。人間の自己延長の渇愛である。 ③無有愛(vibhavatanha)自己優越の欲望の激情である。権勢・繁栄・富などに対する渇愛である。人間の名誉欲などの昂りがそれである。
     
    弱肉強触の世界を生き残った肉体意識にある、肉体的存在としてより良い状態を求める・維持のために必然の欲求が含まれています。しかし、我がものという意識に基づく過剰な欲求から、離れる・囚われないことによって、霊魂に属する意識(正念・正智)に住することによって、煩悩から解脱することが可能ではないかと考えています。
    そして、煩悩から解脱した時には正念・正智等を捨てる。それは、ざわついてうるさい時に「静かに」というのは良いですが、シーンとして静かな時に「静かに」なんて言わない思わないように、と説いたのではないでしょうか?
    また、何のために生きているかについて、いろいろな体験を通して、煩悩から解脱することと、そのためになる霊魂に属する意識を育て身に付けることと理解しています。
    一般的にいわれる、仏性があるとかないとかでなく、仏性に属する慈悲心・愛・智慧を育て身に付ける為に生きていると、そのために四無量心・八正道・四念処法等いろいろな観察をする念ずる修行法を説いていると理解しています。
    故に、永井さんの言う○○先生の名著「○○」を読んで、でなく自分の頭で考え主張するということは大事なことと同感します。
    スッタニパータ等によると、(慈悲心を育てる方法として)四無量心を修することを薦めています。(慈悲心の定義として、感謝の心を起点に育った外に向かう思いやりの心である)
    四無量の説明文
    ①慈ーmetta
     「一切の生きとし生けるものどもは、安楽であれかし」と念ずることなどの仕方によって、利益と安楽をもたらすことを願うことである。
    ②悲ーkaruna
     「一切の生きとし生けるものどもが、この苦しみから脱れられますように」と念ずるなどの仕方によって、不利益や苦しみを除去しようと願うことである。
    ③喜ーmudita ④捨ーupekha ・・・略
    永井さんは釈尊の布教伝道について、疑問に思っていると感じますが、四無量心に基づいて行ったと理解して、自己優越・名誉心に基づいたものでないと理解すれば認められることではないでしょうか?
    釈尊の心の推測であり、証明できるものではありませんが。

  40. 永井さんは釈尊の布教伝道について、疑問に思っていると感じますが、四無量心に基づいて行ったと理解して、自己優越・名誉心に基づいたものでないと理解すれば認められることではないでしょうか?

    ここで書いた私の釈尊理解はもう古いものになっています。私のもっと新しい見解については、「仏教はなぜ女性を差別するのか」をご覧ください。

  41. 今生きている人物が「解脱したい」、「仏門に入って悟りたい」と考えて、僧侶になって仏道修行したとしても、本当に悟りができるのかと言うと案外そうでもないと最近感じる。
    「個人的な仮説」として、今生きている人物が「悟りを開いたのか?」、「解脱できたのか」はその人が死んで、100年以上経過しないと判断できないのでしょうか?生きているうちに「あなたは解脱しました。おめでとう」と、自動車免許証取得や昭和プロ野球名球会入会の様に、「誰かに認定」されるものではないと思います。
    そもそも今の日本の宗教界(特に仏教界)で「悟りを開いた人間」などいるのでしょうか?「仏教の故郷」のインドでも今生きている「名のある高僧」の中でさえ、悟りを開いた人などいないのではないのでしょうか?
    個人的な比喩な表現として、私事ですが高校生時代に「私は英語(英文法)解脱ができればテストで80点は楽に取れる」、「数学の方程式解脱さえできたら、赤点を取る事などはありえない」と、「くだらない事ばかり」10年前に考えていた私。
    30歳近くになった今でも時々こういう「くだらない事」ばかり考える私。こういう事を考えるうちは「煩悩」が消えないのでしょうか?しかし、最近になって以前は全くできなかった野球のスィング(ミートポイントをつかむ)が上達しました。右利きの私は左打ちの方が打球をしっかりと見える事に気がついたのです。これはある意味の「打撃解脱」とも言えます。以上で質問を終えます。このご質問を拝見なされた先生のご回答をお願いします。

  42. そもそも今の日本の宗教界(特に仏教界)で「悟りを開いた人間」などいるのでしょうか?

    日本の僧侶は、妻帯肉食をしている人もいるぐらいですから、解脱とは無縁の職業でしょう。

  43. 煩悩即菩提でしょ。ならば、なぜ私たちは煩悩苦を通らなければならないの?人生60年くらいしかないのに。その前に今を見失うか死んでしまう。

  44. 一般人は多分ほとんどが「悟りを開く」や「解脱する」の意味を、「超能力を身につける」や「不可能を皆無にする」と解釈していると思うんですが、仏教的な意味合いでは全くちがうんです。なぜこのような「誤解」が生じるのでしょうか?1995年のオウム事件の影響でしょうか?また、ブッダが「悟りを開いた」と正式に認定されたのは、いつごろでしょうか?もしかすると「後世の創作」の可能性もあるんですが。
    ただ、キリスト教やイスラム教、神道では「悟り」が存在しないといわれます。

  45. それは、原始仏教が、出家信者には本来の教理を教え、在家信者には、お布施をもらうために、俗受けしやすい方便を説いたという二重構造に由来していると思います。だから、後世の創作というよりも、仏陀の時代から、仏陀自らが誤解の種を蒔いていたと考えることができます。実際、かなり古い時代の仏典にも、通俗的でいかがわしい話が載っていたりしますから。

  46. この質問はテーマとは関係ないと思います。
    「若者の出家(得度)が良くない」と社会的にとかく言われる理由は何ですか?
    経済的に損失が生じる、失業した若者の「就職目的」のやましい発想(ただしこれは、はるか昔からも指摘される)、と言うのが最大の理由でしょうか?1990年代後半以降によく聞きます。それだけなら特別と声高に非難する人(経済学者や保守的な思想の人)がいても、説得力に欠けるというのではないか?
    それは「お寺に生まれて跡を継ぐ立場の青少年」を無視している事ですから。確か空海が18歳、親鸞聖人は9歳、釈迦でさえ20代で出家したのですから。俗に「出家行為=世間を捨てる(「仏門への帰依は自殺行為と同等」と言う偏った思想も存在する)」と言う考えがまかり通るからでしょうか?
    また、「仏門に入る=年寄りか身寄りのいない人か犯罪者のやる事」と言う間違った(偏った)思想もあるのでしょうか?(犯罪には入らない)不祥事をした人が坊主頭にする事で、周囲に反省の意を現すと言われるという事もあるのでしょうか。
    そういえば(古い寺の)坊さんが一般人を寺に勧誘する事はしないですね。勧誘行為をしても法律違反になりませんが。

  47. あくまでもこれは経済的観点ですが、仏教の寺院は、キリスト教の修道院などと異なって、自給自足でないところが問題視されているのでしょう。

  48. 本来仏教においては「悟りを開く」、「煩悩を捨て去る」ための修行は存在しないと思いますが、仏教は古代に中国に入った時点で、「本来の姿ではなくなった」と指摘する人もいます。僧階・戒名・戒律・経典・法要・葬儀形態は中国や日本(「葬儀」の形式は日本独特)で確立されたもので、本来は釈迦の弟子らに称号や墓すらないと聞きます。忠実に仏教の形態を維持している(それでも「古代仏教」とはちがうが)国はタイやネパール、チベットくらいです。
    これらの国と日本では根本的に仏教に対する見方が違うと感じます。僧侶の心がけ1つでもそうです。タイの僧侶が街中で托鉢をしますが、日本では「物乞い」とみなされ軽蔑される行為です。本来、僧侶に托鉢をする事はいい事です。今日の日本の僧侶はほとんど托鉢行脚をしていません。お布施を集める行脚は行いますが。「悟りを開く」や「煩悩を捨てる」はほぼ不可能であるのに、それを求める発想が消えないのは何故でしょうか?

  49. 中国の仏教は、大乗仏教ですから、もちろん、本来のブッダの教えとは異なります。とはいえ、煩悩を棄てることを棄ててしまうと、それはもはや仏教とはいえませんから、本質的なところは受け継いでいます。

  50. を修行してください。成仏法です。仏教は日常における観察の実践です。そこから得られる智慧により解脱が得られます。修行法を実践しないと仏教を正しく理解することは困難です。凡夫の頭脳で理解できる世界ではありません。実践あるのみ。成仏する日常実践法を広めて、より多くの人が生活の中で成仏の修行をし、煩悩を乗り越え、安らかな執着心に囚われない人生を送る。このように考えれば、根本仏教を小乗とした大乗仏教の考え方の人も納得できるのではないでしょうか。修行法は個人の実践ですが、多くの人が実践していけば、みんな幸せになれるのです。

  51. 絶対に蚊に吸われない方法
    存在の枠外に赴く。蚊もいないが自分もいない。絶対に吸われない。

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