煩悩からの解脱は可能か
一つ禅問答をしよう。絶対に蚊に刺されないようにするにはどうすればよいだろうか。蚊取りせんこうをたいたり、虫よけスプレーをまいたりしても根本的な解決にはならない。絶対に蚊に刺されないようにするには、蚊を絶滅させなければならない。では、そのためにはどうすればよいか。

1. 欲求不満から解放される究極の方法
こうした解決策を探る方向は世俗的なもので、禅問答が期待していることではない。禅問答で重要なことは、公案にたいして答えを出すことではなく、答えを出すことを通じて修行中の僧が悟りを開くことである。絶対に蚊に刺されないようにするには、良寛がやったように、こちらから腕や足を差し出し、蚊に刺させてやればよい。刺されまいとするから、蚊に刺されるという被害に遭うのであって、そうした欲望を捨てれば、被害に遭わなくてすむ。
織田信長が武田信玄の菩提寺である恵林寺を焼き討ちにした時、快川禅師は「心頭を滅却すれは火も自ら涼し」という名言を吐いた。火の熱さから逃れるには、火を消したり、火から遠ざかったりするのではなく、火は熱いという思いを捨てたらよいというわけだ。ここに、仏教の根本思想を見ることができる。
2. 涅槃寂静の境地に達することができるのか
仏教の根本思想とは、こうである。私たちの人生は苦に満ちていて、そして私たちは苦から逃れたいと思っている。苦は欲望が満たされない時に生じるのだから、世俗の人々は、苦を完全に滅却するために、欲望を完全に満たそうとする。しかし欲望には限度がないから、欲望を完全に満たすことは不可能である。課長になれば部長に、部長になれば取締役になりたいと思うのが人間である。だが、欲望が無限に広がるからこそ、苦の原因も無限に増大する。したがって、苦から完全に自由になる(解脱する)には、苦の原因である欲望(煩悩)を滅却しなければならない。
仏教が理想とする自由は、私たちが通常望む自由とは、次元の違う自由である。私たちは、例えば、「好きな食べ物を自由に食べたい」という欲望を持つが、このような自由を望むことは、食欲という煩悩の奴隷になることを意味している。つまり、私たちが求める自由とは、欲望のための自由であって、欲望からの自由ではない。欲望のための自由は欲望からの不自由であるから、二つの自由は対立する。
では、私たちは、欲望から完全に自由になって、涅槃寂静の境地に達することができるのだろうか。答えは、否である。生きている限り、欲望から自由になることは、不可能である。涅槃とは死のことで、死ねば、欲望から完全に自由になれると思うかもしれないが、死ぬと自由である主体・涅槃寂静を感じる主体自体が消えてしまうので、自由と安らぎを手に入れることができない。実際、仏教は自殺を奨励する宗教ではない。仏教が否定しているのは、苦の原因となる煩悩であって、全ての欲望を否定しているわけではない。少なくとも、真理を求める欲望までは否定していない。問題は、真理を求める欲望が煩悩ではないのかどうかということである。
3. 仏陀は本当に煩悩から解脱したのか
仏教の開祖、仏陀(ゴータマ・シッダールタ)には、真理を求める欲望があった。仏陀が、快楽と苦行という両極端を否定し、中道を説いたことは中途半端に思えるかもしれないが、真理への欲望を満たすという点では徹底している。他の欲望を満たそうとすれば、真理への欲望は薄れてしまう。逆に全ての欲望を捨て、苦行と称して肉体を極限状態に追い込むと、意識が朦朧として、真理から遠ざかってしまう。彼も当時の慣習に従って、出家後苦行を試みたが、やがてそれを放棄し、後に菩提樹と呼ばれる樹の下で禅定に入る。
仏教徒が後に編纂した『仏伝』によると、仏陀は、菩提樹の下で悟りを開くまで、魔と戦い続けたとのことである。魔(マーラ)とは、心の内に潜む煩悩である。魔は「君は世界を統一する大帝王になれる」と誘惑した。しかし、仏陀は権力への欲望を克服した。魔はさらに、三人の娘を半裸の姿で踊らせ、仏陀を誘惑した。しかし、仏陀は官能的快楽への欲望を克服した。
権力欲と性欲を克服した仏陀は、悟りがもたらす心の安らぎを一人で楽しみ、このまま涅槃に入ろうとした。この時、『仏伝』によると、梵天(ブラフマー神)が驚いて、真理を独り占めせずに、説法を通じて、人類に仏陀の教えを広めて欲しいと勧請した。その結果、仏陀は、説法をして信者(弟子)を作ることを決意する。
一体、この時登場する梵天の正体は何なのだろうか。私は、それらは、魔が化けた天子魔だと考える。魔が「君は全人類から尊敬される聖者になることができる」と誘惑したのだ。そして、権力欲と性欲を捨てた仏陀も、名誉欲、すなわち他者から認められたいという欲望を捨てることはできなかった。仏陀は真理を欲望したが、真理は普遍的でなければならないので、自分の悟りが真理であることを示すために、多くの人にそれを認めてもらわなければならなかった。
こうした解釈をすると、仏教徒の読者から「釈尊は、無知蒙昧な衆生を哀れみになって説法をされたのだ。名誉欲のためではない」とお叱りを受けるかもしれない。しかし、仏陀が説法という布教活動をすることは、かなり矛盾を孕んだ行為である。仏陀自身が言うように、法を説いて、他の人々に理解されないとしたら、それは苦である。そして、苦の原因となる欲望は煩悩である。したがって、苦の原因となる煩悩を否定せよという説法自体が、苦の原因となる煩悩の肯定になっている。
仏陀をこの矛盾から救うのは、煩悩即菩提という考えである。煩悩は苦をもたらすが、煩悩から解脱すればそれは心の安らぎをもたらす。このことは、もしはじめから煩悩がなければ、煩悩から解脱する喜びもないということである。権力欲や性欲が否定された後で肯定されるべき煩悩であるとするならば、真理への欲望は肯定された後で否定されるべき煩悩である。もし、仏陀が最初から名誉欲を持たなければ、仏教は存在しなかっただろう。しかし、仏教は名誉欲もまた煩悩として否定しなければならない。
4. 追記(2004年)
この文章を書いたのは、2002年5月である。私の仏陀に対する最近の解釈に関しては、「仏教はなぜ女性を差別するのか」を参照されたい。仏陀が、名誉欲から布教活動をしたという表現は、評判が悪いので、取り下げたい。ただ、仏陀は、名誉を求めたわけではないにしても、「自ら思いを制し、よく注意して、教えを聞く人々を広く導きながら、国から国へと遍歴しよう」『スッタニパータ 』(No.114)と語っており、布教への意欲はあったようだ。その布教への欲望が、仏陀に新たな苦悩をもたらしたかどうかは、今となっては知る由もない。
ディスカッション
コメント一覧
君の仏教観はいわゆる『小乗仏教』観です。大乗仏教では、食欲や性欲などのいわゆる煩悩は持ってて当たり前と解くんです。だって、それがなきゃ子孫なんて増やせないでしょ・・・。
『解脱』っていうのは、簡単に言ってしまうと誰もが恐れ避けられない『死』の恐怖から解き放たれ『永遠の生命』の存在を自覚することを指すんですよ。もっと、仏教の事をよ~く勉強してから書きなさいね。さもなくば、恥をかきますよ。
ちなみに禅の教えは『不立文字』と言って、釈迦の教えを否定するいわば、『異端』です。そんなものをもとに仏教を語ってはいけない。つまり、『禅』教をもとに違う宗教『仏教』を語っているような物ですから・・・。
私の仏教の理解が大乗仏教的ではないという批判に対しては、「煩悩からの解脱は可能か」は、もともと大乗仏教をテーマにしていないと答えれば十分でしょう。「煩悩即菩提」という言葉も、言葉自体は大乗仏教から借りてきたものですが、私なりの解釈で使っているので、大乗仏教とは直接には関係がありません。私が「煩悩からの解脱は可能か」で使っている「仏教」という言葉は、「仏陀の教え」という意味です。これが「仏教」という言葉の本来の意味だと思うのですが、誤解を招かないように、以下「仏陀の教え」という言葉を使います。大乗仏教は、仏陀の教えに対する後世の解釈であり、両者は区別する必要があります。
「死の恐怖から解き放たれ、永遠の生命の存在を自覚することが解脱だ」という考えは、仏陀の教えとは異なります。以下に引用する仏陀の十四無記の教えからわかるように、人間が死後も存在できるかどうかということと解脱とは関係がありません。
なおここに出てくる如来は、仏陀だけのことを指しているのではなく、人一般つまり衆生と通常解釈されている。
もしも、「永遠の生命の存在を自覚すること」が解脱なら、輪廻転生を自覚することも解脱だということになりますが、仏陀は、実体的に持続するアートマンを前提し、さらにカースト制度を正当化することになる輪廻転生を否定していました。なお、大乗仏教を確立した龍樹(ナーガールジュナ)も、「自性として空であるとき、そのお方について『仏陀は入滅の後に存在する』とか『存在しない』と考えることは合理的でない」『根本中論偈』と輪廻転生説を否定しています。
死は四苦の一つですが、唯一の苦の原因ではありません。もし、死から解放され、永遠の生が与えられたとしても、その生が煩悩と苦に満ちているとするならば、解脱したとはいえません。
最後に「不立文字」ですが、これは、仏陀自身の思想であったようです。彼が自分の教えを自ら文字で残さなかったのもそのためです。悟りの境地は、言葉で簡単に伝えられるものではありません。仏陀がキサー・ゴータミーを悟らせる方法は、禅と同じ方法です。子供を失って、半狂乱になっている母親に、言葉で説教をしても無駄だったでしょう。死者がいない村が存在しないことを、自ら歩いて確かめさせることによって悟らせる方法は、不立文字の思想に基づくものといえます。
もちろん、禅と仏教は全く同じではありません。もしそうなら、禅などという名前は不要でしょう。そして、私も一言もそのようなことは言っていません。「禅の真理に仏教の根本思想を見ることができる」という命題から「禅と仏教は同じ宗教だ」という結論を出すことは論理の飛躍です。
私は環境上、御坊さんの話を聞く機会が多いのですが、筆者の仏教の解釈と諸御坊の仏教観に隔たりを感じます。よろしければ、こちらの文章の判断のために筆者の「縁」に対する解釈を聞かせていただけないでしょうか。もし、どれかの論文で触れていましたら、掲載論文を教えください。それと「仏教はなぜ日本で普及したのか」についてですが、筆者は「本地垂迹説」に対して、どのような見解を加えているか聞かせていただけないでしょうか。こちらも触れていましたら掲載論文を教えてください。
一口に「仏教」といっても、原始仏教と大乗仏教は同じではないし、同じ大乗仏教と分類されていても、大陸の大乗仏教と日本の大乗仏教には違いがあります。「煩悩からの解脱は可能か」は、原始仏教に関する考察であって、したがって、私の議論と「諸御坊の仏教観」に「隔たり」を感じたとしても、当然です。違う宗教についての議論だと思ってください。
仏陀にとって、縁とは、苦の原因のことで、十二縁起の法によれば、根本原因は、無明(真理に暗いこと)です。縁起は、輪廻転生の思想と関係付けられて語られることが多いのですが、これはあくまでも後世の解釈です。輪廻転生の思想は、仏教本来の思想ではありません。
本地垂迹説のもととなった神仏習合は、神道の最高権威である天皇が6世紀に仏教を受容したことから始まりました。536年に発生した大飢饉により危機に瀕した天皇のカリスマを復活するために、当時先進的だった大陸の宗教である仏教が導入されたというのが、「仏教はなぜ日本で普及したのか」の要旨でした。この当時、天候不良による凶作は単なる自然災害としてではなく、為政者の責任と考えられていました。仏教受容という出来事は、凶作により衰退したカリスマを復活するために、卑弥呼が魏の権威の傘下に入ろうとした時と同じような現象です。
仏教の受容に関して、井沢元彦氏が面白い議論をしています。井沢氏によれば、日本における最大の宗教的問題は、怨霊の鎮魂でした。古代の日本では、権力闘争に敗れた死者の祟りが、自然災害を惹き起こすと考えられていて、仏教は、そうした災害の原因である怨霊を成仏させるためのテクノロジーとして導入されたというわけです。
仏陀の本来の教えは、自分の煩悩(執着)を捨てることのはずですが、日本の為政者たちが仏教に求めたことは、現世に対する執着ゆえに、死んでも死に切れずに怨霊となって祟りをなすかつての政敵を解脱させることでした。自分の煩悩を捨てるのではなく、他人に煩悩を捨てさせることにより、自分の煩悩を満足させようとしたわけです。悟りを求めていたのではなく、現世利益を期待していたという点で、彼らの仏教受容は不純な動機に基づいていたと言えるでしょう。
もしも、井沢氏の怨霊史観に基づく日本古代の宗教問題の分析に興味をお持ちであるならば、『逆説の日本史1 古代黎明編/封印された「倭」の謎 』と『逆説の日本史2 古代怨霊編/聖徳太子の称号の謎』の二冊を読むことをお勧めいたします。
ご返事いただきありがとうございます。また、少し質問を加えさせていただきます。
まず、「原始仏教と大乗仏教は同じではない~」の行ですが、そもそも大乗仏教なる宗教は、存在しません。大乗なるものは、小乗に対しての言葉で、仏陀の思想は、個人の解脱にあり、本人しか救われない。それに比べて大乗は、弥勒信仰に拠り、より多くの人間を救うことが出という意味です。小乗仏教というのは、大乗側の小乗に対する差別用語です。根幹にあるものは、どちらも現在に至るまで変わらぬものです。そういう意味で、「原始と大乗」なる宗教区別は、適切ではないと思います。したがって、「違う宗教についての議論とだと思ってください。」の返答は、成立しないと思われます。
続いて、「縁(えにし)とは、苦の原因」という解釈は、どの参考文献に拠ったものか、教えてもらえないでしょうか。また、縁起は、「輪廻転生と関係付けられて語ることが多い」とありますが、具体的に、述べてもらえますか。縁起と輪廻は、それぞれ一つで、付けて語ることは逆に不自然に思われますし、そのようにして講義・文献・説法等を受けたことはありません。この他にも、言葉の結び付けに、何点か疑問を持つところがあるので、よろしければ、この文を書く際の参考文献を提示していただけないでしょうか。この点の疑問から、筆者の仏教観は、正確さを欠いていると推測されます。故に、「煩悩からの解脱は可能か」での仏陀の説いたことに対する解釈は、適切さを欠いた文章だと思われます。
次に、本地垂迹説の世俗的要因の推測は、的を外していると思いません。しかし、シンクレティズムに対する考察が加えられてない点で、不完全な考察といえます。故に、「なぜ仏教は日本で普及したか」の文章も正確さを欠く考察と思います。
「違う宗教」という表現が気に入らないのであれば、「違う宗派」のことだと理解してください。原始仏教とは、大乗仏教と上座(小乗)仏教が分裂する以前の仏教のことです。大乗仏教の信者が「自分たちは、お釈迦様の教えを忠実に受け継いでいるのだから、自分たちの信仰とお釈迦様本来の教えを区別するのはけしからん」あるいは「自分たちの宗教こそ仏教そのものであり、これ以外に仏教は存在しない」と言うのは理解できますが、部外者からすれば、大乗仏教が、仏教を普及させるために、教義を大衆化したという側面は否定できません。したがって、原始仏教とその通俗版である大乗仏教は区別するべきです。
ところで、「縁」は「えにし」と読むのですか。手元の国語辞典『辞林21』で調べると、
とありましたが、まさか、あなたは男女関係のことを聞いているのではないですよね。ともあれ、私は、後者の方の「縁」を念頭においていました。国語辞典は、一般的な意味で定義していますが、仏陀の関心事は、生老病死という苦からの解脱でしたから、十二縁起の法に関して言えば、「縁とは苦の原因のこと」という理解で良いと思います。「無明に縁りて行生ず。行に縁りて識生ず。識に縁りて名色生ず。名色に縁りて六処生ず。六処に縁りて触生ず。触に縁りて受生ず。受に縁りて渇愛生ず。渇愛に縁りて取生ず。取に縁りて有生ず。有に縁りて生生ず。生に縁りて老死の苦しみ生ず。」とあるように、苦の究極の原因は無明です。
上座仏教は、十二縁起を輪廻思想に近づけて、三世両重の因果という解釈を打ち立てました。大乗仏教の信者の中にも、輪廻転生の輪から抜け出すことが解脱だと考えている人が多いようです。
最後の件に関しては、多分これ以上議論しても無駄でしょう。私はいかなる宗教も信仰していません。私は世俗的人間ですから、対象が宗教であっても、それに対して世俗的な評価しかしません。
すみません。一点目の質問は、言葉が足りなかったようです。「教義の大衆化」というよりは「体系化」のほうが適していませんか。確かに、宗教において、出来た当時に対する変化は存在します。時代ごとの背景、地域ごとの文化、それに馴染むために、宗教というものは変化するものです(ちょっと乱暴ですけど、シンクレティズム)。しかし、根幹にあるものは、受け継がれていますよ。説法の場でも、仏陀の思想には触れますから。だから、区別は誤解を生むと思います。そうですね、そもそも、あの文章に批判文をよせた方の意見が間違ってるんですよね。「小乗仏教観」なんて存在しないのに、勉強しろなんて、自分の無学を証明するようなものです。あの文章に付き合う必要が無いと思うにとどめてください。そういう意味で、区別を加える必要が無いと思もうということを言いたかったのです。仏陀の思想に触れない御坊はいませんし、そもそも、教えを忠実に守るという道徳は、仏教に限って言えばないのですから。その点、宗教という言葉で、一神教のスタイルと混同する方が多いですね。あの批判文に付き合ってはならないと思います。
二点目は、「えにし」でも「えん」でも、どちらでも構わないです。御坊のジョークで、「縁といっても男女の関係では、無いからね。」なんて言ってたのを思い出しました。誰も反応しないんですよね(笑)。あの文章を読んで、違和感を覚えたので、僕も仏教を少し復習してみました。そうしたら、どうやら、苦の解釈が間違ってるようですね。よく「私たちの人生は苦に満ちている~」のように、苦の克服を図るのが仏教だという脈絡で、「苦」を説くことがありますが、これは誤りですよ。テーラヴェダ(上座部)仏教から、勉強した方に多いそうですね。一神教圏の外人なんかは、宗教というと、こういう風にとらえがちでしょう。「苦」の講釈を僕なんかがするのは、身分不相応かと思いますので、名著を書かれてる方をご推薦します。松原泰道氏の著書なんか読んでみたらどうでしょうか。今、日本でもっとも尊敬されている御坊の一人ではないかと思います。僕も一冊読ませていただきましたが、勉強になりました。奈良康明氏も、ちょっとした御縁で、推薦しておきます。まぁ、仏教って解りづらいですよね。「縁」とか「苦」とか、現在の意味が先入観としてあると理解するのに苦労しますから。こういう経緯で、本来の縁の解釈と違うと思ったので、質問させていただきました。「苦」に対する指摘が遅れた自分の無学に対しては、本当に失礼致しました。
三点目ですが、世俗的という言葉を使ったのが間違いでした。シンクレティズムは、前文の乱暴な解釈で済まさせてください。正確にやると大学の一講義分くらいになるんではないですかね。また、僕にも、宗教学上の正確な講釈をたれる実力は無いですから。あくまで歴史を考える上で、必要な知識しかないので。また、この場面では、辞書以上の意味を必要としないと勝手に判断させていただきます。その乱暴な解釈で恐縮なのですが、シンクレティズムに対する考察がないと、短絡的としかいえないと思います。シンクレティズム」も学問的考察の一つで、別に信仰心の有無に関係なく歴史を考察する上での必要なものです。この場合は、「日本人の内面性、根付いている信仰心に触れてみてください」という意味で、世俗と区別してしまいました。これが不適切だったことは申し訳ありません。ちなみに神道が体系化されたのは明治以降なんですよね。知ってました。それとちょっとビックリしたのですが、井沢元彦氏の著書を推薦されてるのですが、あれはまずいと思います。僕も自信がなかったので、少し専門の知人に意見を求めていたのですが、やはり、あれには学問的価値は無いそうです。ひとつのエンターテイメントに止めるべきだと思いますよ。講義と銘打って歴史に触れるのなら、プライドを持つべきです。作家さんに頼らず研究者に目を向けてください。
私は、学問は好きですが、宗教は好きではありません。同様にイデオロギーも嫌いです。では、学問が宗教やイデオロギーとどこが異なるかといえば、後者においては、本来結論であるはずの教義が前提として先にあって、あらゆる知的努力は、そのドグマを擁護するために使われるのに対して、前者においては、いかなる先人の学説も神聖ではなく、過去の支配的な学説を疑い、批判し、葬り去ることが賞賛されます。あなたが「教えを忠実に守る」ことを「道徳」とみなしているのを読んで、改めて学問と宗教は異なるのだなあと実感しました。学問の世界では、過去の学説を墨守することは、「進歩がない」ということで、むしろ否定的に評価されるのですから。
もちろん、学問の世界で批判が評価されるといっても、その評価は証拠と理性に基づく合理的な批判でなければいけません。「専門の知識人」の「意見」を引用して、井沢元彦氏の『逆説の日本史』の批判をするといった権威主義的な評価の仕方は学問的に有害です。権威やドグマに盲従することは、学問の世界では奴隷になるのと同じことです。もしもあなたに少しでもプライドというものがあるのなら、なぜ自分で読んで、自分の頭で考え、自力で評価しないのですか。私も、個別的な論点に関しては、井沢氏と同意できないところはありますが、『逆説の日本史』は、在野の学者による真摯な学問の書であり、大学教授たちが書いた平凡な歴史書より学問的価値があると私は評価しています。
「宗教が嫌いだ」といっても、宗教が現象として存在する以上、宗教を学問の対象として無視することは社会科学にとって許されません。私としても、社会システム論という観点から、宗教史を含めた歴史の研究を今後とも続けていきます。「仏教はなぜ日本で普及したのか」の続編も計画しています。
「煩悩からの解脱は可能か」は、しかしながら、社会科学的なテーマを扱っているわけではありません。他方で、それは宗教的な議論をしているわけでもありません。そもそも、仏陀本人は、超越神や死後の世界を語らなかったのですから、厳密な意味では宗教家とは言えません。仏教が宗教になったのは、後世の宗教家たちの解釈によってです。仏陀は、ソクラテスや孔子と同様に、人生の教師とでも言うべき人だったと思います。あなたは、「苦の克服を図るのが仏教」という理解が間違っていると書きましたね。たしかに、仏陀は苦の克服に成功したのではなくて、「苦を克服する」という発想そのものを捨てました。そして、「煩悩からの解脱は可能か」のテーマはまさにこれだったわけです。
少しづつ本質が見えてきました。有意義な回答をいただいてます。友達に勧められて、見たのですが、僕の周りはあなたの考えに傾倒しているので、僕個人としての判断を加えるのに、よい材料となります。
一点目は、「教えを忠実に守るという道徳は、仏教にはない」と僕は、記述しているのですが、その点を理解してもらえたということでいいのでしょうか。返信の文脈が分かりつらいのですが・・・。
二点目は、学問と言われてるのですが、もし学問ならルールに則った方法で行う必要があるのでは。その意味で、この本は、ルールを無視していると伝えたいのですが。まぁ、本の価値は、人それぞれですから、筆者の学問に対する姿勢と本に対する価値基準を知ることが出来たので、今後、知人とこのサイトの話題が挙がるようでしたら、それを念頭に判断します。え~と、それから、学術書かエンタ本かを中身を読まずに、見るところを見れば判断することは、さっきの学問のルールからできますよ。その意味で、知人に意見を求めるまで、指摘しなかったのです。それが権威的であるとするのなら、仕方がないですけど、逆に、世の中で評価されてる論文を読んだことがありますか。文脈からは多分触れたことが無いのだと推測できますが。しかし、確かに、自力で評価しないと駄目ですね。ただ、時間と実力を考えたら、選んで読む必要もあるので、膨大な情報量の中では、僕は、筆者の言うところの「権威」というやつにすがります。
三点目、「社会システム論という観点から~」、別にそれは否定していないのですけど・・・。その考察が短絡的だと、その程度に解釈してください。
四点目は、少し文章を長く書き過ぎましたね。単純に、「苦の解釈が間違ってます」。もちろん、苦の解釈が多様にあるとか言われれば、そうですというしかないですけど、新説を唱えるなら独自に筆者の哲学を語れば良いわけです。宗教が嫌いなら、仏陀の教えを学問的に考察すると言って自説を唱えるために、わざわざ歪曲しなくてもいいと思います。
それと最後に、周囲で話題に挙がってるのですが、筆者は、何を専門に学ばれてる方ですか。僕は、自分の畑の学問体系しか分からないので、それに対する判断は加えられるのですが、それ以外は無知でして。周りのあなたのファンも知りたがっているので、是非教えていただけませんか。
前回の投稿はわかりにくかったですか。一般に大宗教ほど多くの宗派があります。後世の信者が、第三者的に見て、本来の教義に忠実でないのは、仏教に限ったことではありません。私が問題にしていたのは、“教えを忠実に受け継いでいるかどうか”ではなく、“教えを忠実に受け継ぐことを評価するか否か”ということでした。そしてそこが宗教と学問の分かれ目です。
私の専門についてのお問い合わせがありました。私の修士課程での専門は倫理学で、博士課程での専門は社会哲学でした。だから、私の専門は哲学ということになるでしょう。もっとも、本来、哲学とは、専門がないことが専門である特殊な学問なのですが。
大学院に在籍していたころは、私も世間で名著と呼ばれている古典や定評ある学術書しか読みませんでした。井沢氏の『逆説の日本史』を読んで初めて作家の中にも学者として有能な人がいるのだということを知りました。以来、偏見を捨てて、できるだけいろんな本を読むようにしています。
権威に頼ることなく、学術書を評価するということは、もちろん難しいことですが、「ルール」は簡単です。独創性と無矛盾性という二つの基準に基づいて判断すればよいのです(事実と理論との不一致も矛盾の一種とみなすことにする)。独創性を評価するということは、言うまでもなく、学界の定説や教祖の教えを忠実に守ることに価値を認めないということでもあります。『逆説の日本史』は、その理論が完全に無矛盾とは思えませんが、この基準から評価できる良書です。
もしあなたが、宗教を志すなら、私は何も言うことはありません。しかし、もし学問を志すのであれば、もっと主体性を持ってくださいと言いたいです。学問の世界で「あなたの×××は間違っています。でも、どう間違っているのかうまく言えないので、×××先生の名著『×××』を読んでください」というような発言をすると、「この人は自分ではわかっていないのだな」と思われて軽蔑されます。自分の頭で考え、自分の言葉で主張してください。
私は、「苦」にしても「縁」にしても、原始仏典で使われている本来の意味で使っています。現代的な意味で誤解しているのは、あなたの方ではないですか。その証拠に、あなたは、私にオリジナルの原始仏典を読むことを薦める代わりに(もちろん主な原始仏典は「煩悩からの解脱は可能か」を書くためにすでに読みましたが)、日本人によって書かれた現代の本を薦めているではないですか。もちろん、その日本人は、本来の言葉の意味が何であるかを論じているのかもしれませんが、それは所詮一つの解釈にすぎません。
さらにあなたは、「新説を唱えるなら独自に筆者の哲学を語れば良い」と言いますが、旧説を否定せずして、どうして新説を「新説」と呼ぶことができるのですか。「旧」に言及しなければ「新」を語ることはできません。旧説が常識的な説なら、いちいち固有名詞を挙げる必要はないでしょうが、仏陀の場合特殊だから、引用せざるをえないのです。