2006年6月25日
2001年に私が書いた「仏教はなぜ日本で普及したのか」には読みにくい漢字があるので、別途振り仮名付き版を作成しました。但し、原文は改訂されているので、原文とは内容が多少違います。違いはそれほど大きくはないので、漢字が苦手な方はこちらのページをお読みください。

1. 仏教が日本に伝来したのはいつか
『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』によれば、日本に仏教が公式に伝来したのは、欽明天皇の戊午の年(西暦538年)である。『日本書紀』は仏教伝来の年を欽明13年(552年)としている。正しいのはどちらだろうか。
百済の聖明王は、553年と554年に日本に援軍を要請した。554年には、対価として、五経博士等を献じているので、それに先立つ553年に、対価の第一弾として仏像と経文を献じたということは、十分考えられる。日本は、これに報いるために、554年、千人規模の援軍を派遣した。仏像と経文が献じられた年を、553年ではなくて、1年前の552年にしたのは、仏教の公式伝来という画期的出来事を、『日本書紀』を編集した当時末法の初年とされていた年に当てるためと考えられる。
しかし、大和朝廷が、この時初めて仏教を受容したとは言えない。『日本書紀』によると、545年に、百済が、天皇のために丈六の仏像を作り、任那日本府に贈っている。もしも天皇が仏教を嫌っているのなら、このようなプレゼントをするはずがない。だから、545年の段階で、すでに天皇は仏教を受容していたということになる。そこで、通説どおり、最初の仏教受容の年を538年としたい。
2. なぜ蘇我稲目は突然権力を握ったのか
仏教は、その後、上から下へと普及した。594年頃から臣・連らが競って寺を造り始め、7世紀になると、朝廷の下級豪族までが、こぞって一族の寺を造るようになった。多くの歴史家は、こうした仏教の日本への伝来と普及を当然のように扱っている。しかし、よく考えてみると、天皇は、世俗的権力者であっただけでなく、宗教的権力者でもあった。なぜ当時の朝廷が、伝統的な神道と本来は対立するはずの仏教を受け入れたのか。キリスト教は、封建道徳に反するという理由で、江戸時代に弾圧された。同様に、仏教も拒否されて当然だったのではないのか。
よく知られているように、仏教受容に際して、物部尾輿は「天皇は古くから天神地祇を祭るべきであって、蕃神などを信奉されるとあらば、神々の怒りを招くことは必定でありましょう」と言って反対した。しかし蘇我稲目は、「西方の諸国で信奉しているのに、我が国だけがどうして背けましょうか」と受け入れに意欲を示したので、天皇は試しに稲目に仏像を与えて礼拝させることにした。
だが、「大臣の蘇我稲目が、仏教信仰に賛成したから、日本でも仏教が普及するようになった」というのは、答えになっていない。なぜなら、蘇我氏自体が、仏教伝来の頃に突然権力の表舞台に出てきた新興勢力だからである。
蘇我氏は、物部氏や大伴氏など、由緒正しい他の飛鳥の大豪族とは違って、氏素性がはっきりしない。蘇我稲目は、一応、武内宿禰-蘇我石川宿禰-満至-韓子-高麗-稲目という家系に連なっていることになっているが、武内宿禰以外の先祖は正体不明である。葛城・紀・巨勢・平群などの名門の始祖である武内宿禰を祖先とすることは、成り上がりものがよくやる家系の粉飾と考えられる。
満至、韓子、高麗といった名前から、蘇我氏の祖先を渡来人とする説がある。蘇我氏の起源が、朝鮮半島にあるのかどうかはともかく、蘇我氏が、渡来人と密接に関係を持っていたために海外文化に明るかったことは確かだ。
ともあれ、蘇我稲目には、伝統的権威はない。蘇我馬子が、葛城の子孫を自称していることから、馬子の母、つまり稲目の妻は葛城の血を引くと考えられるが、当時葛城氏は、すでに権力を失っていた。「なぜ伝統的権威のない蘇我稲目が大臣になることができたのか」ということは「なぜ大和朝廷は、神道の伝統的権威を否定することになる仏教信仰を受け入れたのか」と同様に、歴史の謎である。
3. 535年の異常気象
この謎を解く鍵は、蘇我稲目が大臣になった宣化元年、西暦で言うと、536年における宣化天皇の詔「食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えをいやすことはできない。真珠が一千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか」にある。『日本書紀』は、それまでは豊作であったと書いている。それなのに、536年には、一転して未曾有の寒冷化による大飢饉が発生したのである。
実は、詔が出る1年前の535年から翌年にかけての時期は、世界的な寒冷化の年であった。そのことは世界各地の年輪データから実証されている。地域によって差があるが、535年から数年、場合によっては20年以上にわたって、年輪の幅が異常に狭くなっている。その間、木がほとんど生長しなかったのだ。
さらにグリーンランドや南極の氷雪を分析してみたところ、6世紀中ごろの氷縞に火山噴火の痕跡である硫酸層が大量にあることが確認された。このことは、火山噴火による大気汚染が日光を遮断し、世界的な気候の寒冷化をもたらしたことを意味している。535年以降、異常気象による飢饉と疫病で人々が苦しんだことは、世界中の文献に記載されている。
日本でも535年以降、同様の天変地異が起き、このために伝統的な宗教が権威を失い、人々は現世利益をもたらす新たな信仰の対象を求めた。仏教をはじめ大陸の先進文明に通じていた蘇我氏が登用された背景には、大和朝廷が未曾有の危機に直面し、伝統的な手法に行き詰まったことがあったわけである。
ちなみに、仏教そのものは、538年以前から日本でもその存在が知られていた。『扶桑略記』によれば、522年に司馬達止が中国(南梁)から渡来し、飛鳥の坂田に草堂を構え仏像を礼拝したという。しかしこの当時の日本人は、誰も仏教を信仰しようとはしなかった。豊かな時代には、人々は新しい宗教を受け入れようとはしない。
一般的に言って、社会不安が広がると、新しい宗教が普及したり、宗教改革が行われたりする。バブル崩壊後の日本でも、広がる社会不安を背景に、様々な新興宗教が跋扈した。気候が寒冷化し、環境が悪化すると新しい宗教が生まれると同時に、権力の集権化が起きる。新しい宗教は、しばしば新しく生まれた権力と結び付き、やがて形骸化し、腐敗していく。その体制が次の環境悪化で危機に直面するとまた同じことが起きる。世界の歴史にはこうした現象が繰り返されているように見える。
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