言語行為と規範倫理学(02)前期ウィトゲンシュタイン

2015年11月25日

本書は言語と行為の関係を心理学的経験的にではなく、哲学的超越論的に論じる。その出発点となるのがウィットゲンシュタインの言語哲学である。後期の思想は、次の節で扱うこととして、まずは、『論理哲学論考』を中心にウィトゲンシュタインの写像理論を見ていくことにしよう。

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論理哲学論考』に代表される初期ウィトゲンシュタインの意味論は、通常「像の理論 picture theory」と呼ばれている。「この像という表現は、この場合すでに、ある拡張された意味をもっている。この像という概念を私は二つの方面から受け継いだ。第一に描かれた像から。そして第二に既に一般的な概念になっているところの、数学者の意味する像からである。画家なら像[Bild]という表現を用いないところでも、数学者は写像[Abbildung]について語るのであるから」[Ludwig Wittgenstein und der Wiener Kreis. Gespräche, aufgezeichnet von Friedrich Waismann, 1931.12.9] 、二つの概念は異なっている。

日常での慣用はともかくとして、「像」は「写像」よりも幅広い概念として使うことができる。写像は、厳密な意味での写像、すなわち関数と呼ばれるためには、一対一または多対一の対応関係でなければならない。ところが、私と他者の間で一つの対象/事態に対して複数の、それもしばしば矛盾する値が与えられる。間主観的にのみならず、内主観的にも、一対多の写像が行われ、それゆえ判断に迷いが生じる場合がある。また、私たちがまだ認識していない対象や自体も存在する。『論理哲学論考』が理想とするのは全単射なのだが、実際には、私たちの認識は全射でも単射でもないから、関数とは言えない。

そこで、以下、「像」を包括的な概念として使うことにしたい。『論理哲学論考』が「像」でもって念頭においていた対応関係においては、

(1)対象はレアールで像はイデアール

であった。しかし絵画においては、

(2)対象も像もともにレアール

であり、数学の写像関係においては、関数も変数も、つまり

(3)対象も像もともにイデアール

である。この三つ対象/像関係は相互に連関しあっている。例えばある画家が城の絵を描くとする。その時、城とキャンバスに描かれた油絵は(2)の対応関係にあり、城と名辞「城」、油絵と名辞「油絵」は、(1)の包摂関係にある。そして二つの概念「油絵」と「城」は、命題関数「そのxはyの絵である」に対して(3)の写像関係にある。三つの写像関係を説明するために、今世界をレアール/イデアール、単体的/複合的にしたがって4つに区分すると、表1のようになる。

写像の多重的構造
レアール(対象/事態) イデアール(名辞/像)
複合的 S:対象「城」に対して対象「油絵」 が描かれる事態 B:命題「その油絵は 城の絵である」
単体的 G:対象「城」& 対象「油絵」 N:名辞「城」& 名辞「油絵」

S(Sachverhalt 事態)が(2)の写像関係、N(Name 名辞)から B(Bild 像)への写像関係が(3)、S から B への、あるいは G(Gegenstand 対象)から N への写像関係が(1)である。ウィトゲンシュタインが「写像」でもっておそらく念頭においているであろう(1)は、写像(2)を写像(3)へと写像する関係と言ってよい。

表1の4区分は、『論理哲学論考』の基本的な4区分である。この図をドイツ語で書くと、図1のようになる。

図1 『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの写像理論
その構造の詳細図を見る

この4区分と前著で描いた言語の四角形は対応しない。言語の四角形では、単体的/複合的を区別しなかった。 それは両者の区別が相対的で、かつ究極的に単純な対象は存在するとは思えないからである。その代わりに、シニフィアン/シニフィエの区別を導入した。

ウィトゲンシュタインは名辞/対象、あるいは命題/事態の区別をそのままシニフィアン/シニフィエの区別と考えたようである。 だがすでに指摘したように、対象の内部にも意味するもの/意味されるものの区別がある。ウィトゲンシュタインは「名辞は対象を意味[bedeuten 指示]する。対象が名辞の意味[Bedeutung]である」[Wittgenstein: Tractatus,3.203] と言うが、対象としての意味[Bedeutung]は、命題が持つ意義[Sinn]から区別されるべきだ。意義は対象の複合体としての事態とはまた違う「思想」の内容である。一方で認識の対象と内容を区別せず、他方で認識主体について語ることにウィトゲンシュタインは極めて禁欲的であったことは、対象認識の四角形の方が軽視されていることを意味している。

図1で概略した『論理哲学論考』の構図を、強引にではあっても、直方体モデルへと引きつけることが必要になってくる。 全体部分関係論の立場から興味を引く問題は、『論理哲学論考』においてウィトゲンシュタインは全体と部分のどちらに優位を置いているのかという問題である。すなわちウィトゲンシュタインは、一方では「世界は事実[Tatsache = 実情であるところのもの Was der Fall ist =事態の存立 das Bestehen von Sachverhalten]の総計であって、事物[Ding]の総計ではない」[Wittgenstein: Tractatus,1.1] と断った上で、「事物にとって事態[諸事物の結合 eine Verbindung von Dingen]の構成要素[Bestandteil 存立の部分]でありうる[sein koennen]ことは事物にとって本質的である」[Wittgenstein: Tractatus,2.011] と ホーリスティックな主張をしておきながら、他方で「対象[Gegenstand=Ding]は確固とした存立するものであり、配置[Konfiguration=Sachverhalt]は変易する存立しないものである」[Wittgenstein: Tractatus,2.0271] とアトミスティックな説明を行っている。

アトミズムとホーリズムは次のように調停されている。「事物は、全ての可能的事況[Sachlage≒Sachverhalt]に出来しうるかぎりにおい て自立的であるが、この自立性の形式は、事態との連関の形式、非自立性の形式である」[Wittgenstein: Tractatus,2.0122] 。例えば「花」という事物は、「花は咲いている」「花は赤い」「花は無機物ではない」といった可能的事態において理解されるが、一端理解されれば、「花」はそれ自体で意味を持つ、すなわち対象となる。今の引用文や「事物にとって事態の構成要素でありうることは事物にとって本質的である」における können/möglich に注意されたい。事物は、現実的なこの/あの事態に現れなければならない必然性はないが、いかなる可能的事態にも現れえない事物は、他と噛み合わない歯車のように存在しないも同然なのである。

事物についてあてはまるこのことはそれの像についてもあてはまる。ウィトゲンシュタインは「写像関係は像の要素と事象の並列から成る」[Wittgenstein: Tractatus,2.1514] と言うが、要素的な像と事物が個別的に対応した結果、複合物の写像ができると言うわけではない。「命題は語の混合ではない。-ちょうど音楽のテーマが音の混合ではないように」[Wittgenstein: Tractatus,3.141] 。「命題だけが意義[Sinn]を持つ。命題との連関においてのみ名辞[Name]は意味[Bedeutung]を持つ」[Wittgenstein: Tractatus,3.3] 。

ウィトゲンシュタインが次のように言う時、 あたかもクワイン並みのホーリズムに達しているかのようである。「対象が与えられている時、それとともにまた全ての対象がすでに我々に与えられている。要素命題が与えられている時、それとともにまた全ての要素命題が与えられている」[Wittgenstein: Tractatus,5.524; Vgl.2.0124] 。「命題とは、全ての要素命題の総計から(そしてもちろんそれが全ての総計であるということからも)生じてくるものの全てである」[Wittgenstein: Tractatus,4.52] 。もっともウィトゲンシュタインは「一つの要素命題から、他のいかなる要素命題も演繹されない」[Wittgenstein: Tractatus,5.134] とも言っている。

要素命題の経験的内容は相互に独立しているが、形式的構造に関しては相互に独立していない。「ある命題の真であることが他の諸命題が真であることから帰結するということを、我々はそれらの諸命題の構造から見て取る」[Wittgenstein: Tractatus,5.13] 。経験的レヴェルでのアトミズムと哲学的レヴェルでのホーリズムとは区別すべきである。

論理哲学論考』がアトミズムであるという解釈は、多分個別的な対象を「実体 Substanz」と混同するところから来るのであろう。ウィトゲンシュタインは「諸対象は世界の実体を形成する。それゆえ諸対象は合成されえない。 Die Gegenstände bilden die Substanz der Welt.Darum können sie nicht zusammengesetzt sein」[Wittgenstein: Tractatus,2.021] と言うが、ここで《bilden》が《sind》でない点に注意。

それにしても「対象が合成されえない」というのはどういうことなのだろうか。「対象は世界の実体を形成する」という命題の「対象」は複数形で「実体」は単数形であることと矛盾しないのだろうか。おそらくウィトゲンシュタインは「合成されている zusammengesetzt sein」を「相互に係わる sich zueinander verhalten」から区別して使っているのであろう。「事態において諸対象は、鎖の環のように一定の様式と方法で引っ掛かり合っている」[Wittgenstein: Tractatus,2.03] というメタフアーは、事態における諸対象の《sich zueinander verhalten》の関係が環同士を結合させる第三のものは存在せず、環自らが相互に結合を作り上げることを示している。「世界の実体はただ形式のみを規定しうるのであって、実質的な性質までを規定しえない」[Wittgenstein: Tractatus,2.0231] のだから、実体はまさに《sich zueinander verhalten》の形式を規定するだけであって、諸対象を実質的に《合成 zusammensetzen》するわけではない。

「諸対象は世界の実体を形成する。それゆえ諸対象は合成されえない」という命題には「もしも世界に実体がないならば、ある命題に意義があるかどうかは、他の命題が真であるかどうか[その命題に意義がある[f]ということ]に依存することになるであろう」[Wittgenstein: Tractatus,2.0211] という、《実体=原子》に固執するいかにもアトミスティックな註が付けられているが、命題は事態(正確には事況)の像であって、対象の像ではないことを想い起こさなければならない。つまりこの命題は「事態は相互に独立的である」[Wittgenstein: Tractatus,2.061] とパラレルな主張をしているに過ぎない[a]。

[f] 既にフッサールが『論理学研究』 [Husserl: Logische Untersuchungen 2,SS.342-344] で主張していたことであるが、「無意味 Unsinn」と「反意味 Widersinn」は異なる。真か偽かは有意義性という“地平”上での選択肢であるから、[ ]のような換言ができる。ひとはここで「哲学的な事柄について書かれてきた大概の命題や問いは偽[falsch]なのではなくて無意味[unsinnig]である」 [Wittgenstein: Tractatus, 4.003] というウィトゲンシュタインの語法を想起すべきである。有意義な命題のみが偽でありうる。

[a] この事態の相互独立性のテーゼがしばしばウィトゲンシュタイン のアトミズムと言われるが、対象のアトミズムはこれから区別されなければならない。対象が「本」や「机」などの《もの》であるのに対して、事態は「机の上に本がある」という《こと》であり、両者の相違は相対的ではない。事物(Ding)・事態(Sachverhalt)・事況(Sachlage)の像における対応物が名辞(Name)・要素命題(Elementarsatz)・命題(Satz)である。「事態」と「事況」、「要素命題」と「命題」の区別は、ラッセルの原子命題と分子命題の区別がそうであるように相対的である。なお事態の相互独立性のテーゼは、「論理形式についての若干の考察」で 放棄されている。

「命題とは、全ての要素命題の総計から(そしてもちろんそれが全ての総計であるということからも)生じてくるものの全てである」というテーゼにある通り、哲学的反照においては、命題の意義は要素命題の総体から帰結する。もしもある命題に意義があるかどうかが他の命題の意義に依存するなら、その「他の命題」に意義があるかどうかもさらに他の命題の意義に依存するのだから不可知論に陥る。ある命題に意義があるかどうかは、それを含めた命題の全体系の有意義性に依存しているのである。

さて「実体とは形式[Form]と内容[Inhalt]である」[Wittgenstein: Tractatus,2.025] が、その形式とは「空間・時間・色(有色性)が諸対象の諸形式である」[Wittgenstein: Tractatus,2.0251] と言う時の形式である。有色性(こちらの方が「色」よりもミスリーディングでない)は視覚のみならず触覚や聴覚などの他の感覚にも係わると推測される [Wittgenstein: Tractatus,2.0131] ので、カントの言う感性的多様に相当すると考えてよいであろう。

なお空間/時間は感性的多様と相即する。特に時間は変化を、それゆえ多様を前提する。もし多様がなければ時間のみならず空間の存立も怪しいであろう。しかしもしも感性的多様までが形式であるとするならば、実体の内容とは何であろうか。「諸対象」のことであろうか。

ウィトゲンシュタインは「この[現実的/可能的世界に共通の、つまり実体の]確固たる 形式[feste Form]はまさしく諸対象から成り立っている」[Wittgenstein: Tractatus,2.023] と言った後で、しかしながら「世界の実体はただ形式のみを規定しうるのであって、実質的な性質までを規定しえない」(前出)とも言っていたのであった。したがって実体の「内容 Inhalt」は、総合的アポステリオリではなくて総合的アプリオリ、つまりあれやこれやの諸対象ではなくて、《形式的性質 formale Eigenschaft》、フッサールが謂う所の“空虚な担い手=基体”、形而上学的な「Sub-stanz 下に立つもの」であると解釈される。

もしアトミスティックに[実体=基体]を原子・素粒子…に求めていったとしても、以前述べたように、単位の Einheit は統一 の Einheit に、最小の個物は最大の普遍に転化する。この Substanz をカント=フッサール流に一歩突き抜けたら、世界の総体のノエシス的相関者である Subjekt に到達するはずである[s]。

[s] 「命題・像・モデルは、否定的な意味では 他の物体の運動の自由を制限する固体のようなものであるが、肯定的な意味では、その中に物体が居場所を見出す、確固とした実体によって限界付けられる空間のようなものである」[Wittgenstein: Tagebücher, 1914.11.14.] 。「表現とは命題の意味にとって本質的なものの全てであり、命題が相互に共通に持ちうるものである。表現は形式と内容を特徴付ける」 [Wittgenstein: Tractatus, 3.31] 。ここから「表現」は実体の像であると推測される。

しかし、ウィトゲンシュタインの哲学は超越的哲学ではなく、むしろカントの哲学と同様に、超越論的哲学であったと評することができる。E.ステニウスも言うように、ウィトゲンシュタインにおいては、「カントの超越論的演繹が行おうと意図していたことが、言語の論理分析によって成される」[Stenius: Wittgenstein’s Tractatus,p.218] 。したがってウィトゲンシュタインにおいても「論理学は超越論的である」[Wittgenstein: Tractatus,6.13] し、それどころか「倫理学は超越論的である」[Wittgenstein: Tractatus,6.421][t]とまで言われる。

ウィトゲンシュタインの哲学的システムは、“批判的言語論”あるいは“超越論的言語論”あるいは“言語論的観念論”とさえ呼ばれうる。[カントと同様に]ウィトゲンシュタインにとっても、経験の形式は超越論的な意味で“主観的”である。形而上学的主観は、言語を使い、理解する“主体”であり、言語によって記述可能な世界の一部分である経験的自我からは区別されなければならない。

[Stenius: Wittgenstein’s Tractatus,p.220-221]

[t] 草稿には、「倫理学は世界に係わらない。倫理学は論理学と同じく、世界の条件でなければならない」[Wittgenstein: Tagebücher,1916.7.24] とある。

カントは超越論的弁証論において人間悟性の限界を示したが、ウィトゲンシュタインもまた、「哲学は、思考可能なものを、そしてそれでもって思考不可能なものの境界線を引かなければならない。哲学は思考不可能なものを、思考可能なものによって内側から限界付けなければならない」[Wittgenstein: Tractatus,4.114] と言っている。

以前の章で超越論的現象学の全体部分関係論における部分と全体の関係として

  1. 志向的諸契機と志向的全体
  2. 時間空間の直観的延長の諸断片とその全体
  3. 直観的個別体とその意味的懐胎
  4. 単一的意味と複合的意味
  5. 個物または下位の種とその上位の類
  6. 超越論的主観性と超越論的経験
  7. 個別的主観性と間主観性

を順次考察した。2から5まではこれまで論じたし[f]、6と7の「私と他者」の問題は次節で扱うことにして、本節では最後に1の志向性の問題について触れよう。ウィトゲンシュタインとフッサールの関係が問題になるのはここである。

[f] 2は「事物 Ding」と「事態 Sachverhalt」との関係。3について は「論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある」 [Wittgenstein: Tractatus, 5.61] が“理論負荷性”のテーゼとして解釈される。4と5は強いて言えば、名辞・要素命題・命題の関係である。もっともウィトゲンシュタインは高階論理を認めないのだが、これが成り立たないことについては、[Fogelin: Wittgenstein, p.70-75] を参照。

ウィトゲンシュタインが中期において志向性について論じたのはフッサールの影響か否かを巡って黒田亘氏と滝浦静雄氏の間に論争がある。ことの始まりは、『論理哲学論考』から『哲学探究』にかけてのウィトゲンシュタインがフッサールの『論理学研究』などから本質的な影響を受け、それとの格闘・離脱によって自分の立場を築いて行ったとする黒田氏の論文「現象と文法」[k]を 滝浦氏が「フッサールとウィトゲンシュタイン - 志向性と用法」[t]で逐一検討して、ウィトゲンシュタインの言う「現象学」はエルンスト・マッハのそれであって、両者の間には影響関係がないと反論したところにある。

[k] 日本哲学会編『哲学』第25号(1975年)、後に同氏の『知識と行為』(東京大学出版会)に収録。

[t] 『現代思想』第5巻2号(1977年)、後に同氏の『言語と身体』(岩波書店)に収録。

滝浦氏によればフッサールとウィトゲンシュタインは「ほとんど同じ地点から出発し、ほとんど平行して進みながら、進むにつれてしだいに隔たりを増していく二人の走者」[滝浦静雄: 言語と身体』228頁]ということである。黒田氏はこれに対して「『フッサールとウィトゲンシュタイン』の周辺」[k]で論争的な応答をしている。論争はその後しばらく続いたが、「ウィトゲンシュタインと現象学との関係については、従来、わが国でほとんど公認されかけていた或る解釈があり、それに私は強い疑念をもっていたので、現象学そのものについての理解と合わせて、私なりの見方を提示すべく努めた」[滝浦静雄: ウィトゲンシュタイン, 240頁] その後の著作においても滝浦氏は自説を堅持している。

[k] 『現代思想』総特集「フッサール」(1978年)、後に同氏の『知識と行為』に収録。

私見を述べれば、思想史上の事実問題としては黒田説に軍配が上がるのではないかと思う。滝浦氏は、フッサールの『論理学研究』とウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に共に現れる「事態 Sachverhalt」はドイツ語としてごくありきたりの言葉であるから特に典拠を求める必要はなく、また後者では要素的原子的であるのに対して前者では複合的でありうるとのことである [滝浦静雄: 言語と身体,214頁以下] 。だがウィトゲンシュタインは事態が相互に要素的原子的であると言っているだけで、事態が複合的でないとは言っていない。また黒田氏が指摘するように [黒田亘: 知識と行為,333頁以下] フッサールとウィトゲンシュタインの間には「事態 Sachverhalt」と「事況 Sachlage」の使い分けが一致しているし、さらに“Sachverhalt”を“sich so und so verhalten”(かくかくの事態である)に分解するところまで共通である。滝浦氏はこれを偶然の一致とするのだろうか。

ヴァイスマンの速記録から、ウィトゲンシュタインがフッサールの『論理学研究』を読んでいたことが分かるが、『論理哲学論考』脱稿より17年前に出版され、カルナップを始め多くの分析哲学者にポジティヴなまたはネガティヴな影響を与えたフッサールの『論理学研究』を、『論理哲学論考』執筆前にウィトゲンシュタインが読みもしなかったというのは、余りにもありそうもないことである。シュピーゲルバークの伝えるところによれば、1939年にJ.N.フィンドレイが、『論理学研究』に言及したところ、ウィトゲンシュタインは、まだそんな古いテクストに関心があるのかと驚きを表明したとのことである [Spiegelberg, The Puzzle of Ludwig Wittgenstein’s Phänomenologie,p.247] 。しかし1939年といえば『哲学探究』を執筆している頃である。「古い」という言葉は、かえってかつては自分もそれから影響を受けていたことを示しているのではないであろうか。

もちろんウィトゲンシュタインは「フッサール哲学の祖述者や解説者の類ではなかった」[黒田亘: 知識と行為,336頁] から、黒田氏も認めるように、「影響」よりも「触発」とか「刺激」などの言葉のほうが適切であろう。滝浦氏も、黒田氏ではなくてシュピーゲルバークを引用して「そもそもウィトゲンシュタインのようなタイプの思想家に『影響』を語りうるものかどうか、仮にそのようなものがあったとしても、それは自身の思索の刺激剤か解発装置に過ぎなかったであろう」[滝浦静雄: ウィトゲンシュタイン,135頁] と記している。恐らくそれが一番妥当な推測であろう。

してみると滝浦氏と黒田氏は、滝浦氏のメタファーをもじって言えば、お互いに「違う、違う」と言い合いながら同一地点に向かって走って行く二人の走者ということになる。実際、例えば、中期のウィトゲンシュタインが論じる「志向性」は、滝浦氏が指摘するようにフッサールが謂う所の「志向性 Intention」であるよりもむしろ「意図 Absicht」の性格の方が強い [Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen,21] のだから、フッサールから直接“影響"を受けているとは言えない。未来のある事態へと向けられた意図・欲求・願望 は 当の事態の実現によって「充実」されるし、疑問は答えによって「充実」される。しかし疑問はフッサールが言う志向性ではないのである。

ウィトゲンシュタインは『哲学的考察』の冒頭ですでに「現象学/現象学的言語」の放棄を宣言しているが、このことは『論理哲学論考』以後の過渡期で一時期「現象学/現象学的言語」が構想されたことを示している。「物理学は、法則を確定しようとする点で現象学から区別される。現象学はただ諸可能性のみを確定する。かくして現象学とは、それへと物理学がその理論を構築する事実の記述の文法ということになるであろう」[Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen,1] 。

これはフッサールの純粋文法学の理念を連想させる件であるが、なぜ一時期とはいえ、ウィトゲンシュタインはこのような現象学を構想するようになったのだろうか。ウィトゲンシュタインは、かつて『論理哲学論考』において、「例えば、二つの色が視界の一点に同時にあるということは不可能、それも論理的に不可能である。なぜならそれは色の論理構造によって排除されているのだから」[Wittgenstein: Tractatus,6.3751] と言っていた[p]が、「赤かつ赤でない」は論理的矛盾と言えるであろうが、「赤かつ緑」はそうとも言えない。そこでウィトゲンシュタインは、赤と緑の両立不可能性を言い表すためには、事実の記述の文法=現象学的言語が必要だと考えたわけである。その現象学的言語を放棄するようになったことは、実は彼の私的言語批判に係わってくる論点である。

[p] 微視的には赤と青の点の混合が、巨視的には(つまり人間の肉眼には)青っぽい赤の点に見えることもあるであろう。そもそも幾何学的に厳密に定義された「点」には広がりがないはずであるから当然色もなく、したがって「同一の点に異なった色がありうるか否か」という問題は、真か偽かという前に無意義なのではないかと思う。