個体の本質は何か
不定冠詞や「すべて all」や「いくつかの some」などがついた、複数の個体を指示することができる述語を不確定記述というのに対して、固有名詞によって指示されるような、世界に一つしかない個体を指示する、定冠詞のついた述語を確定記述という。では、確定記述は個体の本質を同定できるであろうか。そして固有名詞は確定記述で置換可能であろうか。

1. 固有名詞は個体の本質ではない
今「アリストテレス」という固有名詞によって指示される、歴史上一人しかいない著名哲学者をXとすると、Xには、
X was the teacher of Alexander the Great.
Xはアレクサンドロス大王の教師だった
というように定冠詞つきの確定記述により述定することができる。
しかし「アリストテレス」という固有名詞を「アレクサンドロス大王の教師」という確定記述で代替できない。だからこそ、仮に歴史学者が「アレクサンドロス大王には教師がいなかった」という新事実を発見しても、私たちは「アリストテレスは存在しなかった」とは考えずに、たんに「アリストテレスはアレクサンドロス大王の教師ではなかった」と認識を修正するだけで、アリストテレス自体は存在したと考え続けるのである。
このことは、「Xはアレクサンドロス大王の教師だった」という命題が、分析的ではなく、したがって「アレクサンドロス大王の教師」という述語は、Xの本質ではないことを意味している。Xには、この他、「プラトンの弟子」とか「『ニコマコス倫理学』の著者」とか多くの述語を帰属させることができるが、それらのうち一つとしてXの本質とは言えない。
では「アリストテレス」という固有名詞はどうだろうか。「アリストテレス」という述語は、Xを本質的に指示する固定指示子であろうか。そうではない。だから、仮に歴史家が「アリストテレスは当時『アリストテレス』とは呼ばれていなかった」という新事実を発見しても、私たちは「アリストテレスは存在しなかった」とは考えずに、たんに「Xは当時アリストテレスと呼ばれていなかった」と認識を修正するだけで、X自体は存在したと考え続けるのである。
もう一つ難点がある。歴史上、おそらく「アリストテレス」という固有名詞を持った無名人が複数いたはずだ。そうだとするならば、「アリストテレス」という固有名詞だけでは、Xをアイデンティファイできないということになる。このことも考慮に入れるならば、「アリストテレス」という固有名詞がXの本質とは到底言えない。
2. 本質とは統合の機能=関数である
ならば、「アリストテレス」「アレクサンドロス大王の教師」「プラトンの弟子」といった一連の述語を剥がしてもなお残存する時空上の位置がXの本質なのだろうか。そうではない。述語が無ければ、述語の担い手である存在も認識できない。そして原理的に認識不可能な存在者は存在しないも同然なのである。
個体Xにとって、すべての述語との結びつきは偶然であるが、担うべき何らかの述語が無ければ、Xは存在できない。この関係は、全体と部分との関係と同じである。全体を特定の一つの部分へと還元することはできないが、部分が全く存在しなければ、全体も存在しえないという関係に、である。
このメタファーは、本質とは何かを考える上で、有力な手掛かりを提供している。本質とは「X is …」という命題関数(function)の「…」を満足させる述語ではなく、述語を統合しているメタレベルの関数という機能(function)である。逆に言えば、この機能が働いている限り、部分的に述語が否定されても、個体は本質的自己同一性を維持することができるということである。
3. 個体の本質的自己同一性

例えば、私はある個体Yについて「名前は山田太郎」「職業は教師」「住所は東京」という三つの情報のみを知りえたとする。
- 時点1:その後「山田太郎先生の住所は、実は東京ではなくて、山梨の間違いだった」という情報を得て、私は「そうか、教師の山田太郎氏は、山梨の人か」と認識を改めた。
- 時点2:その後「山田太郎先生の職業は、教師ではなくて作家だった」という情報を得て、私は「そうか、山梨に住む山田太郎氏は、作家だったのか」と認識を改めた。
- 時点3:その後「山田太郎はペンネームで、本名は鈴木太郎だ」という情報を得て、私は「そうか、あの山梨に住む作家は、作家らしくペンネームを使っていて、本名は鈴木太郎なのか」と認識を改めた。
もし、一度に三つの述語をすべて否定されたなら、私は「Yは実在しない」と判断するであろう。しかし部分的に述語を入れ替えることにより、個体Yは、自己同一性を維持したまま、すべての属性を変えることができるのである。
この話は、私たちの身体を構成しているすべての物質は、新陳代謝により、一定期間後にはすべて入れ替わるという話に似ている。一度にすべて入れ替えることはできないが、段階的に行えば、身体の自己同一性を損なうことなく、構成物質をすべて新しくすることができるのだ。
私は、「実存と本質の違いは何か」で、実存と本質が、レアールな存在とイデアールな存在の関係にあることを説明した。実存と本質は、実体と偶有性の関係にあるわけではなく、ともに実体として、それぞれのレベルでの偶有性を持つ。イデアールな主語/述語関係においても、レアールな身体/物質関係においても、実体は偶有性に依存すると同時に依存しないという全体/部分関係を見出すことができる。
ディスカッション
コメント一覧
「アリストテレスはプラトンの弟子だった」という命題があるとします。可能世界論では、「アリストテレスはプラトンの弟子ではなかった」ということが想像可能です。じゃあ、「プラトンの弟子はプラトンの弟子ではなかった」という無意味な命題ができてしまいます。たしかクリプキはこれを避けるためにラッセルらの述語説を放棄し、固定指示子を提案したのだったと記憶しております。
この辺りで、この問題に関してどうしてもこんがらがってしまいます。今回のお話は「本質」についてで、可能世界意味論とはちょっと違ってくるのかもしれませんが、上の論理プロセスのどこが間違っているかご教授願います。大澤さんは「プラトンの弟子は弟子ではなかった」というところが完全な誤りだとおっしゃっていましたが、それのどこらへんが誤っているのか、私にはちょっとわからないのです。
本文でも、実は可能世界論に相当する議論はいたしました。仮に歴史家が「…」という新事実を発見しても、というところを、可能的世界では「…」とするならば、と読み替えてもらえばおわかりかと思います。クリプキは、ニクソンがアメリカ大統領にならなかった可能性がある以上、「1970年のアメリカ大統領」はニクソンの固定指示子とはなりえないが、「ニクソン」という固有名詞は、その trans world identification により、固定指示子だと言っています。しかし彼は同時にニクソンが「ニクソン」と呼ばれていなかった事態はありうるとも付記しています。
だから彼が固定指示子とした固有名詞は、普通の意味での固有名詞ではなく、私が「対象X」と呼んだものに近いといえるでしょう。その本質としての分析性は規約に基づくものにすぎません。だから私は固有名詞を、ラッセルのように「縮められた確定記述」とは考えませんが、他の確定記述から独立した特権的な固定指示子だとも考えません。
「確定記述の問題」で,アリストテレスを例に考察して,「本質とは述語を統合しているメタレベルの関数という機能である」との説明を読み,個物の本質について,目が開かれる思いでした。
しかし,「三位一体とは何か」のパンダの本質についての考察に戻り,そこで非本質的な特徴を消去してパンダの本質を認識する,といったことが記されてあるのを読み,また分からなくなりました。
アリストテレスの本質については,メタレベルの関数という機能なのですから,そこにはさまざまな述語について本質的と非本質的の区別は直接語られていません。ただ,あるとき当てはまる述語も,別なときには当てはまらない,ということは確認できます。しかし,パンダとなると,非本質的と本質的の区別が問題になる。
そこで,質問です。
1.アリストテレス等の個物の本質と,パンダ等の種の本質は,どちらも同義で「述語を統合しているメタレベルの関数という機能」と把握してよいのでしょうか。
2.もし個物の本質と種の本質は区別する必要があるなら,どのように区別したらよいでしょう。
3.個物については,本質は「本質的な述語を統合しているメタレベルの関数という機能」と,循環的に言う必要はまったくないのでしょうか。
「アリストテレス」の本質を探る時も、あの確定記述ではない、この確定記述ではない、「アリストテレス」という固有名詞ですらないと「非本質的な特徴を消去して」、「述語を統合しているメタレベルの関数という機能」という本質に到達したのだから、パンダのケースと同じです。ただ、子供が「パンダ」という言葉を理解する場合には、そうした哲学的認識にまで到達する必要はなくて、その時代において近接する述語の束を学習すればよいという違いはありますが。