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シェーラーの哲学的人間学

1997年9月2日

マックス・シェーラーは、現象学の影響を受けた倫理学者であり、哲学的人間学の提唱者でもある。フッサールは、倫理学にはあまり興味を持たなかったので、現象学的な直観主義が、倫理学に何をもたらすのかを、マックス・シェーラーの提唱する実質的価値倫理学で検証し、彼の哲学的人間学の成否を検討したい。[1]

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1. 現象学的倫理学の基礎的構図

シェーラーの倫理学を検討する前に、シェーラーのメタ倫理学(倫理学に対する哲学的な認識論)を検討しよう。

1.1. 価値と知の関係

シェーラーは、学位論文(Dissertation)において「厳密に言えば、《倫理的知》などというものはない。知はそれ自体において決して倫理的でない。あるのはただ倫理的なものについての知である[2]」と主張し、主著の『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』においても、新カント学派を批判しつつ、「論理学は、それが《真理》という価値を扱わなければならないからといって、価値学として倫理学や美学と同格にすることはできない。なぜなら一般に真理は《価値》ではないのだから[3]」というように、主知主義的な観想の優位を説いている。

シェーラーは、後年知識社会学的研究に従事するに至ってプラグマティズムの相対的な正しさを認めつつ、「プラグマティズムのたんなる批判者がよくするように、このように[プラグマティズム的に]知に何のために[Wozu?]の問いを立てることを拒否し、[ポアンカレのように]《知のための知 la science pour la science》を提唱することはできない[4]」と説くようになる。そして、シェーラーは、知をそれが何を目標としているかにしたがって、支配知(Beherrschungswissen)、教養知(Bildungswissen)、救済知(Erlösungswissen)に分類し、かつ三者の間には、後ろに行くにつれて価値が高くなる「客観的序列 objektive Rangordnung」があると言う[5]

とはいえ、シェーラーによれば、プラグマティズムはノエシスとノエマを混同している。

自然的認識作用は、たんに精神が知へと動くことに過ぎない。[…]知自身は真でも偽でもなく、[…]明証的かそうでないか、対象の相在充実に関してさらに十全的か非十全的かである。真や偽であるのはむしろただ命題、すなわち私たちの判断作用に内在するイデア的な意味相関者だけである。明証的で最大限十全的な知の対象の直観的相在と“一致している”時、命題は真であり、“背反する”時、偽である。[6]

つまり、プラグマティズムが適用できるのは、せいぜい認識作用までであり、認識内容が真か偽かを判定する基準にプラグマティズムを使うことはできないということである。シェーラーはまた、ノエマとしての真理までを人間学的=知識社会学的に相対化することを拒否する。何が善いかは、多数決では決まらないということである。

人間は、善い人から成り立っている場合に限って、正の人倫的価値を持つ。しかしながら、《人間の種族意識》によって突き動かされるような、すなわち、畜群本能に従うような人間が《善い》ということは決してない。《人間》は、その種族意識がそれに合わせて変化するために、そのことに一向に気が付くことができないのなら、この意識が人倫的価値の源泉である限り、いくらでも堕落する。測られるものに比例して収縮する物差しがいつも同じ大きさの目盛りを生じさせるように、《種族意識》という物差しはここ[人間学的相対主義的倫理学]でもまた測られるべきものに自分を常に合わせるので、《人間性》が実際どれだけ悪くなっても評価結果は同じままであろう。[7]

この引用に出てくる「畜群本能 Herdeninstinkt」はニーチェの言葉である[8]。ニーチェが非難する畜群のように、堕落した人々が「良い」と判断するものは、等しく堕落している。そのような主観的基準に基づく倫理的判断は、「今・ここでは私にはかくかくであるように思われる」という思念の表明と同様、判断の名に値しない判断である。超越論的主体はかかる時間的有限性を《超越》して、普遍的意識に至らなければならないのだが、現象学者シェーラーはカントのように構成主義的にではなくて直観主義的に超越しようとする。

1.2. 価値のシュペチエス的同一性

シェーラーによれば、ちょうど意味の担い手(言語的表現)や意味の主観的体験が動揺しても意味自体はシュペチエス的同一性を保持するように、価値の担い手(財 Güter)や価値の主観的体験が動揺しても、価値自体はシュペチエス的同一性を保持する[9]とのことである。

なるほど、例えば生命の価値は、その担い手(生物)は様々な種類があるが、皆等しく生命という価値を持ち、また個々の生物はやがて生命を失うであろうが、だからといって生命という価値自体は死なないという点で、当の価値自体はその担い手の動揺に係わらず自己同一性を保持する。だが反面、生物というこの担い手は、「生命価値」という述語以外に「細胞から構成され」「自己再生力があり」「呼吸によってエネルギーを作り」等の他の述語を持ち、また「生命価値」がなくても生物は生物であるという点で、担われる意味契機の動揺に係わらず、自己同一性を保持する。価値は他の付随物が動揺しても自己同一性を保つというのは、まさに全ての独立的意味に関してあてはまる極めてトリヴィアルな主張である。

シェーラーは「《善い》の可能的担い手とその(たんなる担い手としての)共通のメルクマールを当の価値自身と見なす[10]」ことをパリサイ主義であるとして論難し、「価値は常にそれ自身直観的に与えられなければならない[11]」と主張する。たしかにこれは、ムーアが謂う所の《自然主義的誤謬》を防ぐ意味で重要な論点であろう[12]。だが、これだけでは「価値は価値である」というトートロジーの域を出ない。価値の自己同一性という純粋時間性が事象の差異性へと超越することが超越論的倫理学への路ではないのか。価値相対主義を論駁する上で重要なのは、担い手から切り離された価値の超感性的同一性ではなく、むしろ価値と担い手との関係の同一性ではないのか。

もちろんシェーラーは、価値と担い手との関係の解明・価値の適用基準の記述・価値判断の正当化(これら三つはすべて同じことである)について言及していないわけではなく、(1)持続性 (2)分割不可能性 (3)基づけ関係における独立性(4)満足の深さ(5)価値感得主体の非特定性をメルクマールとして挙げている[13]。だがハルトマンも指摘するように、「この基準の各々は、道徳的価値が生的価値よりも高いということを知るのに役立つ」だけであって「広大な価値のクラスの内部でのより繊細な高低の区別はこのような方法では分からない[14]」。

かくして「価値序列 Wertrangordnung」の作成が直観主義的倫理学にとって必要となるが、問題は価値の高低の決め方である。シェーラーによれば、価値の高低は「先取 Vorziehen と後置 Nachsetzen」という特殊な作用に よって統握される。この先取/後置は《経験的先取/後置》である「選択 Wahl」から区別されなければならない。「すべての《選択》は、ある行為と他の行為との間で生じる。これに対して先取は何らかの財と価値に関しても生じる。」「先取は《財》から独立に価値それ自身の間にすでにある[15]」。

だがこのように先取を現実の行為、《選択としての行為=行為としての選択》から切り離してしまうなら、結局またレアールな財を超越したイデア的価値の観想に戻ることにならないか。シェーラーの結論はこうである。「どの価値が《より高次の価値》であるかは、先取と後置の作用によってその都度新たに統握されるべきである。このためには論理的演繹では決して置換することができない直観的な《先取の明証》がある[16]」。客観主義的直観主義は主観的“決断主義”を帰結することはここから明らかである。

1.3. 価値の関係超越性と関係内在性

価値を行為の合目的的意味連関によって定義することはできないであろうか。シェーラーは、「価値とは、事物と事物に向けられた人間の欲求との関係が言葉によって誤って客観化されたものである」と言うエーレンフェルスに対して、それならば「色もまた“誤って客観化された関係”になる」ではないかと批判する[17]。「価値は関係の基礎と成りうるが、赤や青が関係でないのと同じく価値は関係ではない[18]」とシェーラーは言う。

しかし赤や青が物体と視覚器官とのレアールな関係と人と人とのイデアールな関係との関係であるように、価値を関係と見なすことはできないであろうか。シェーラーは「 ~ にとっての価値(使用価値)」と「それ自体における価値」とを区別するが、マルクスなどは後者をも人と人との関係に求める。《事物に付着した価値や色彩》とか《客観的に存立するイデア的な価値や色彩》などの想定は、《1+1=3》が誤謬であるのと同じ意味で誤謬であるわけではなく、むしろパラダイム内在的には必然的に真であるのだが、パラダイム超越的には物象化的錯認とされるのである[19]

シェーラーも、普遍主義の立場を採りながらも、さすがに現代の哲学者だけあって倫理/倫理学のパラダイム相対性を認めようとする。

各時代の価値の形而上学は[…]絶対的ではあるが同時に個別相対的な妥当性しかもたない認識である。それは [1] 古代の善世界絶対主義者が 思念したような実質的で歴史的に普遍妥当的な認識でもなければ(これは歴史主義者が正当にも決定的に破壊した)、 [2] 絶対的だが単に《形式的》な認識(カント)でもなければ、相対主義的歴史主義が思念するようなたんに《事実的に》相対的で時代と集団ごとに専ら《主観的に》妥当するに過ぎない認識でもない。最後の歴史主義は、当の思念において歴史的認識と歴史的存在の絶対性を最高に素朴に前提してしまっているのだ。[20]

[1] と [2] は、実質的/形式的という対立にも係わらず、というよりもその対立を通して抽象的普遍という同一の地平にある。そこでは実質的な愛・神の命令・完全性等々であれ形式的な定言命法であれ、ある単一の概念が超歴史的に普遍妥当であるとされる。歴史主義者はそのような普遍妥当性は疑わしいとして[3]のような不可知論に走ることになる。しかし、超歴史的妥当性を否定したからといって、歴史的妥当性まで否定するのは早計である。「歴史はわれわれにとって有限の制約の場であり、それと同時に超越の場でもある[21]」。シェーラーは、個別的相対的ではあっても、客観的で具体的な価値の存在を認めて、実質的価値倫理学=哲学的人間学=知識社会学を試みるのである。

2. 価値的倒錯の現象学的分析

本節では、シェーラーの現象学的倫理学の具体的内容を見ていく。彼の倫理学は、一口で言えばキリスト教倫理学であり、その中身はクリスチャン以外には余り興味あるものとは言えない。彼の才能は、倫理のポジではなくてネガの部分、価値的倒錯に対する生き生きとした現象学的記述の中に見られる。そこでシェーラーの実質的価値倫理学を搦手から攻略していくことにしよう。

一般に価値的に劣った行為をし、価値的に劣った存在となる時、つまり価値的転倒が生じた時、当人には二通りの反応が考えられる。一つは恥じ入る場合、もう一つは開き直る場合。ここでは、まず前者の羞恥心について、次に後者のルサンチマンについて論じる。

2.1. 羞恥心について

羞恥心は人間にのみ固有である。

人間の本質に身体が属しているがゆえにのみ、人間は恥をかかなければならない(müssen)ようになりうる;そしてこのような《身体》と身体から生じうる一切のものから本質的に独立なものとしてその人格存在を体験するがゆえにのみ、人間は恥をかくことができる(können)ようになることがありうるのである。[22]

もし神のような存在者であるならば、常に完全であるがゆえに恥をかくことは不必要である(nicht dürfen)。もし獣のような存在者であるならば、完全たろうとする理想がないがゆえに恥をかくことは不可能である(nicht können)。人間は神と獣の中間であるがゆえに羞恥心を持つのである。それは人間が知と無知との中間であるがゆえに「なぜ」の問いを立てうるのと同じことである。人間は有限な存在者であるがゆえに恥ずべき行為を行うが、その行為を恥ずべき行為として反省しうることは、人間が同時に超越論的存在でもあることを意味している。これは超越論的哲学の立場からの羞恥の特徴付けである。

もちろん羞恥の現象自体は多様である。特に性的羞恥心と道徳的羞恥心はとても同じ現象のようには見えない。しかしシェーラーの遺稿『羞恥と羞恥感情』は、未完に終わったとはいえ、肉体的性愛的羞恥心と精神的道徳的羞恥心との共通点を見出そうとしている。

まず性的羞恥心であるが、私たちは自分の性器を露出すべきでないことを自明視しているが、考えてみるとこの現象は人間以外の動植物には見られない現象なのである。

植物は、一般的にその生殖器をあけすけに素朴に、その存在の絶頂点のように見せびらかすが、植物はこのことによってあたかも自分の現存在の意味を生殖に賭けているとでも言わんばかりである。[23]

これに対して動物は、生殖器を解剖学的にみて従属的な位置に持ち、人間にいたっては、衣服によって隠蔽しようとする。

シェーラーによれば、寒さなどから身を守るために服を着、その結果裸体であることに羞恥心を感じるようになったのではなくて ― この説では、性器だけを隠している自然民族が説明できない ― 羞恥を感じる裸体の隠蔽の結果身体が脆弱になって、事後的に護身用に服が着られるようになった[24]とのことである。

ここからシェーラーは、いかにも現象学者らしく「客観的羞恥[25]」について語る。客観的羞恥としての生殖器は、バタイユの言葉を使うならば、《呪われた部分》である。それは嫌悪の対象である。

同じ嫌悪が性機能と排泄行為を同じ夜の中に遠ざける。生殖器官と排泄器官とは自ずから接近しており、また部分的に一体化しているので、両機能の結合も自然である。[26]

《呪われた部分》は、嫌悪の対象であると同時に魅惑の対象でもあるという両義性を帯びる。それは羞恥一般に言えることで、例えば、万引きをした人が見つかって大いに恥じ入るとき、万引き自体は、つまり無償で欲しい商品が手にいれられること自体は魅力的であるが、そのような行為は普遍化不可能であるから、普遍性の光のもとに照らされたとき、嫌悪すべき対象となり、また恥ずかしさが生じてくるのである。私たちは感性的存在者であるから、汚らわしいことにも魅力を感じるが、超越論的存在者でもあるから、理性の立場から反省して、恥じたり嫌悪したりすることができる。

シェーラーは、暗い無意識の衝動を概念と判断の明るみに出すことを羞恥が阻止する(超自我が抑圧する)と言う。「《自分が見られていることを知ること Sichgesehenwissen》は、それ自体ではまだ羞恥を条件付けない[27]」。例えば画家のモデルとしての、医者の患者としての、浴場で召使にかしづかれる女主人としての裸婦は羞恥を感じないではないかというわけである。羞恥はむしろ《自己を振り返ること Rückwendung auf ein Selbst》から生じる。愛する男に夢中になっている女性も、はたと《我に返ると》羞恥を感じるようになるとシェーラーは言う。

この振り返りとは、社会的意識が即自的な自我のあり方を対自化すると言えないだろうか。羞恥心とはプライヴェートな暗闇に公共性の光が当てられたときに起こる感情であるのだから。逆に言えば、公共的に許容された裸体は何ら羞恥心の対象ではない。先ほどの例の裸婦が羞恥を感じないのは、そこにおいては着服しないことが社会的に承認されているからである。もし浴場で裸婦が男に覗かれていることに気が付くならば、彼女が感じる感情は羞恥ではなくて怒りである。

それなのにシェーラーは、羞恥が「専ら社会的な感情 ein ausschließlich soziales Gefühl」ではなくて、社会的感情であるのと等根源的に「自己自身にとっての羞恥 Scham vor sich selbst」であると主張し、自分の身体を見つめたり触ったりすることすら恥ずかしく思う少女を例に出している[28]。しかしそれは可能的他者の目を意識しなくてもであるのか。キリスト教的な《罪の文化》と日本的な《恥の文化》との相違は相対的である。私たちに羞恥心を起こさせる周囲の世間の眼差しが内面化され、超越化されたとき、神の眼差しとなる。先に引用したように、シェーラーは価値に「個別相対的な妥当性」しか認めないはずなのだが、実際には価値の社会的相対化を拒否し、彼のパラダイムであるキリスト教倫理学で全ての価値現象の評価を行っているという印象を受ける。

シェーラーは、羞恥が人類に普遍的な現象であることを示すために、そして主観的な羞恥感情から客観的な羞恥を区別するために、次のような例を挙げている。ある部族の黒人女性は性器を隠蔽しないでも平気であるが、宣教師が無理やりスカートを履かせると(ちょうど文明人の女性がそれを脱がされた時のように)物陰に隠れ、恥ずかしがって周囲の視線から逃れようとしたとのことである。この実例は、シェーラーの意図に反して、「客観的羞恥」の存在を否定するのに役立っている。レヴィ=ストロースによれば、未開社会においては、近親相姦の禁止やトーテム動物のタブーが普遍的に見られるが、重要なのは禁止(規範)があるということであって、何が禁止されているのかといった“実質的”内味ではない。性器の隠蔽に関しても同じことが言えるのではないだろうか[29]

もし既製の規範や価値を妥当なものとして受け入れるならば、恥の現象学はそのままエートスの学としての倫理学になる。羞恥心は、私が社会的通念に違反していることを教えてくれるが、その社会的通念が正当であるか否かを教えてくれない。「恥を知れ」という非難に対して「そう言う君こそ自分がやっていることが恥ずかしくないのかね」とやり返せば水掛け論である。倫理学で重要なのは、公共性の地平においてなお対立する複数の規範の止揚である。

2.2. ルサンチマンについて

次にルサンチマン(これは恥ずべきことに対して恥じない“恥の上塗り”なのだが)について。羞恥心とルサンチマンは、謙虚と高慢の対局関係にある。

高慢な者、それは絶えざる《見下し》によって頂点に立っているかのような錯覚に陥る人である。彼は自分の人格の実際上のどの堕落をもさらに一段下の下を見ることによって過剰補償しようとする。そこで高慢な者は、実際には堕落しているにもかかわらず、自分が上昇しているように見えるにちがいない。[30]

これに対して謙虚な人は、理想が高いがゆえに上を仰ぎ見る。

ニーチェはキリスト教の謙虚の徳をルサンチマンの産物である奴隷の徳と考えた[31]が、シェーラーによればそれはむしろ「生まれながらの主人の徳[32]」である。徳とは現状を否定しようとする努力の持つ犠牲の価値である。したがってすでに下にいる奴隷にとっては上に上昇しようとする自尊心が徳であり、すでに上にいる主人にとっては下へと遜ろうとする謙虚が徳となる。

この観点からすれば当然シェーラーはカントのあのキリスト教的倫理学をも擁護してよさそうなのだが、しかしシェーラーによればカントの倫理学は、

  1. 結果の度外視
  2. 平等主義

という点でルサンチマンの産物とのことである。心情倫理は、実は実行力のない無能のルサンチマンであるというのである[33]。このようなシェーラーのカント批判は、カントに対する無理解に基づいているという以前に、概念的な混乱に一因があるので、私たちはまずルサンチマンとは何であるのか、その本質規定から手掛けなければならない。

「ルサンチマン形成にとって最も重要な出発点は、復讐衝動である[34]」。まず敵から何らかの攻撃を受けて恨みを持つ。しかしたんにある攻撃に対してすぐ反撃するなら、恨みが残らず、ルサンチマンも生じないので、一定期間反撃の衝動を抑制するということが第一の要件である[35]。「復讐心に燃えて感情に狩り立てられて復讐する者、憎悪に満ちてはいるが、敵対者に損害を与えるか、彼に少なくとも“苦情”を言うか、あるいはせめて他人のところで彼を罵るものは[…]ルサンチマンに陥らない[36]」。

ある人から恩を受けた時、打って返すように返報すればいかにも恩着せがましく見えて失礼にあたるので、むしろ一定期間置いておもむろに答礼するほうが効果的であるように、復讐もしばらくしてからそれとなくやったほうが効果的である。しかし、その復讐ができない場合がある。復讐できるにも係わらず復讐しない場合は、相手に寛容を示したことになるのでルサンチマンは生じない(特権を行使しないことはそれ自体特権である)。復讐できない場合、特に無能であると侮辱されて復讐できないなら、無能であることの恨みはさらに深まる。

例えば、ある職場の若手の有能な課長が、自分の部下について同僚に「あいつはもう40才だというのにまだ係長だ」と言ったのがその部下の耳に入ったとしよう。その部下は復讐することはできない。なぜなら出世するためには、その課長の機嫌を害してはならないからである。彼は依然として《悪戯に対してもいやな顔一つせず gute Miene zum bösen Spiel》でなければならない。しかし思えば、このように復讐できない無能さが復讐したくなる原因である。二重に自分の無能を思い知らされた係長は、「出世だけが人生じゃねぇ」と赤ちょうちんでぼやくしかないだろう。彼は無能から有能になることによってではなくて、自分を無能たらしめている価値基準そのものの転倒によって自己を防御しようとする。これがルサンチマンである。

ルサンチマンとは《恨み Groll》であり、また無能に基づくがゆえに《嫉妬 Neid》でもあり、おのれを高めようとはしない《他人の不幸を喜ぶ気持ち Schadenfreude》である。今の係長の場合、恨みと嫉妬の対象は課長あるいはせいぜい自分の上司と限定されているが、無能や欠陥が甚だしい場合、当の対象は無限定的になる。不具者は周囲のなにげない振舞(視線を向けること・こそこそ話をすること・笑い等々)にひどく心を痛める。だがその一つ一つにいちいち復讐することはできない。恨みの対象は世界全体にまで広がり、そしてその相関者である自己にまで及ぶ。慢性化し欝積したルサンチマンは《陰険 Hämischkeit》となって性格的に固定化する。恨み→嫉妬→他人の不幸を喜ぶ気持ち→陰険、これが深まりいくルサンチマンの症状である。

ルサンチマンの人は、確かにシェーラーも言う通り、嫉妬の対象となる人に対して復讐できない。だがルサンチマンによる価値転倒は、その相手の価値を貶めるという点で一種の復讐になりうることは明らかである。ルサンチマンが自己防衛の機制であるとするならば、その本質はエゴイズムであると言える。価値W1とW2のうち、自分がW1ではなくW2を所有しているという理由で、あるいはW1<W2の方が自分にとって都合がよいから、W2を「先取 vorziehen」し、W1を「後置 nachsetzen」することがルサンチマンであると定義できる。

この定義から皮肉な見方をするならば、キリスト教はルサンチマンの産物だとするニーチェの糾弾自体が、ルサンチマンに基づくと言える。「ニーチェはキリストを嫉妬していた。それも気も狂わないばかりに嫉妬していた[37]」。ニーチェはエゴイストであった。ニーチェ自身、「高貴なる魂は自己への畏敬を持つ[38]」のだから、「エゴイズムは高貴なる魂の本質に属する[39]」と語っていた。ニーチェが嫉んでいたものは、言うまでもなく、西洋の精神世界においてイエスが持っている支配的地位であった。ニーチェがイエスに取って代わりたいと思っていたことは、発狂後の彼が、多くの手紙に「十字架にかけられたる者」と署名したところからも見て取ることができる。

ルサンチマンの本質がエゴイズムであるという説は、シェーラーの主張しないところである。シェーラーは「あるものを、それが実現されるためにより多くの力・骨折り・労働等を要求するからと言って、価値あるものとみなすことはルサンチマンに基づくまったく典型的な価値錯誤である[40]」と言う。

シェーラーによれば、イソップ物語の狐が、葡萄が採れないから葡萄がすっぱいと価値を貶めてあきらめたことを典型的なルサンチマンである。しかし今の引用文に従うなら、その葡萄を獲得することは、狐の能力以上に「多くの力・骨折り・労働等を要求する」がゆえに「その葡萄はうまい/価値がある」と言うことがルサンチマンであることになるが、これはおかしい。シェーラーの定義は不十分なのであって、多くの力・骨折り・労働等を要求するがゆえに私にとって主観的な価値があるものを、私が所有しているときには「価値がある」と言い張り、私が所有していないときには「価値がない」と言い張ることがルサンチマンであると定義し直さなければならない。

シェーラーは『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』の脚注で「経済学的な費用[犠牲価値]理論がルサンチマンにその起源を持っているかどうかはここでは保留しておく」と記しているが、それはルサンチマンと何の関係もないし、実際この論点は後に論じられることはなかった。ルサンチマンの本質はエゴイズムにあるのであって、低い価値を高い価値と取り違えることではないからである。

なお、他者の利己主義を指摘してそれを批判することは、それ自体が(自分の利益につながるという点で)利己主義である。したがってルサンチマンが利己主義であるとすれば、キリスト教をルサンチマンとして批判するニーチェ自身も利己主義であるということになる。ニーチェはキリスト教に映っている自分の利己主義を批判しているのである。一般に他人の欠点が気になるのは、自分もその欠点を持っているからなのであって、例えば他人の功績の誇示に反感を持つ人に限って名誉欲が強いし、アベックを冷やかす人に限って恋人に飢えているものである。ゲーテは「人はやっと脱却したばかりの欠陥に対しては最も厳格である」と言ったが、それはその人の関心が、当の欠陥とその否定という《地平》に留まっているからである。

シェーラーはさらに「徳は、あるものを犠牲にしなければならないから、そしてその犠牲にしなければならない分だけ価値があるのであって、徳が何かをもたらすからではない[41]」という一文を引用して、カントの倫理学がルサンチマンであると批判するが、これは誤解である。カントは理性的であることだけが取り柄の実行力のない小心の人だったから、ルサンチマンに基づいて結果に価値を認めなかったというよりも、結果を度外視してもなお義務遂行に価値があることを主張したかったと考えるべきである。彼がたんなる徳だけよりも徳福一致のほうが望ましいと考えていたことも考慮に入れなければならない。

以上のルサンチマン理解の観点から、シェーラーのキリスト教擁護を検討しよう。

全く特徴的なことにキリスト教の言語は《人類への愛 Liebe zur Menschheit》というものを知らない。その根本概念は《隣人愛 Nächstenliebe》である。[42]

この点キリスト教の《隣人愛》は、「人類」という量的・無差別的な集合体をルサンチマンに基づいて尊重するコントやベンサムなどの近代実証主義者が説く《愛》とは異なる。

近代の平等性理論一般は、[…]明らかにルサンチマンの成せるわざである。[…]純粋に合理的な理念としての“平等性”の理念は、決して意志・意欲・情緒を活性化しえない。より高次の価値を喜んで見ることのできないルサンチマンは、しかしながら“平等性”の要求にその本性を隠しているのだ![43]

確かに所謂悪平等はルサンチマンの産物である。だが競争の条件の平等・機会均等は悪平等ではない。高い地位/身分にいる無能が、有能だが低い地位/身分にいる者と対等に“平等に”競争することを拒み、ルサンチマンによって実力よりも地位/身分の高低にこだわることだってある。平等な競争に勝ち抜いて主人の地位/身分を守ることが《主人=強者》の道徳というものである。これに対してキリスト教は主人に遜ることしか命じない。シェーラーに言わせれば、キリスト教が否定的なもの(弱者・病気・貧困)に同情を寄せること(愛・犠牲・救済)は、否定的なものの中に肯定的なものを見いだすことであって、肯定的なものの中に否定的なものを見いだすルサンチマンとは異なる[44]

この肯定的/否定的はいかなる価値基準に基づいているのか。もしキリスト教的な価値観を始めから肯定するならば、キリスト教がルサンチマンの産物ではなくて、その反対が価値的に転倒したエゴイズムであるというのは当然のことであろう。しかしいまやその前提を疑わなければならない。

先ほどの係長の例に戻ろう。この係長は出世が後れている無能で、したがってこれを正当化する価値観はルサンチマンの産物と見なされた。だがもしかするとこの係長は性格は善い人なのかもしれない。そして逆に若手の課長は、仕事は有能にやるが、人間的な魅力に欠けた心の冷たい人なのかもしれない。するとあの課長の悪口は係長の人気を妬んでなされた自己防衛であったのかもしれない。こうなるとどちらがルサンチマンなのか判らなくなってくるであろう。

有能/無能と人間性の豊かさ/貧しさのどちらが真正で、どちらが転倒した価値観であると誰がいかなる権利でもって認識するのか。価値の本質直観の明証性によってか。直観の明証性を引き合いに出すことは、正当化の断念の宣言に他ならない。

私たちはルサンチマンを、価値W1とW2のうち、自分がという理由で、あるいは1<W2の方が自分にとって都合がよいからW2を先取し、W1を後置することと定義したが、その際たまたま「自分」がW1ではなくW2を所有していたというよりも、むしろW1<W2の価値観に基づいて意図的にそれを所有したということの方がよくある場合である。その場合「自分」はそれがルサンチマンであることを認めないであろう。「自分」はまさに十全的な“本質直観”によってそれを観取したと主張するに違いない。こうして自分の価値観を前提にして他を裁く高踏なルサンチマン論は、“神々の闘争”を直視して、自らの規範/価値の基礎付けへとその課題を変質させる。

3. 人間学的倫理学の再構築

シェーラーはキリスト教的に精神的価値と肉体的価値とを分けたうえで、前者が後者に下降したことに気が付くことを羞恥、この下降を下降と認めない転倒の転倒をルサンチマンとした。これに対して私は、前節で、羞恥をある価値パラダイム内部での違反の意識、ルサンチマンを対立する価値パラダイムの相互誹謗として捉え返した。本節では、シェーラーが晩年取り組んだ『宇宙における人間の地位 』などで表明されている人間学的研究の批判的検討を通して、シェーラーが直観主義的に構築した価値のヒエラルヒーを目的論的に再構築したい。

シェーラーにおいては、価値倫理学・哲学的人間学・知識社会学の三者は一体であり、以下の表に示したごとく、価値のヒエラルヒーが同時に人間構造のヒエラルヒーであり、また社会類型のヒエラルヒーでもあるという対応が見られる。

表の画像
シェーラーにおける価値のヒエラルヒー

以下このヒエラルヒーを逐一検討していく。

3.1. 感情衝迫の段階

まず「感情衝迫 Gefühlsdrang」という心的なものの最下位の段階から始めよう。感情衝迫は、最下位の生物である植物にすでに見られる。「対象なき[objektlos]快と不快が、それ[植物]の唯一の二つの状態性である[45]」。植物には感覚、即ち一つの中枢への器官/運動状態の還帰的通報(Rückmeldung)とこの通報による運動の変容可能性が欠けている。「それゆえに生命が本質的に《権力への意志》ではなく、生殖と死への衝迫がすべての生物の原衝迫であることを植物が最も明確に示している[46]」。

《権力システム Machtsystem》がないところには《感覚のシステム System vom Empfindungen》も欠けている。この意味で植物の感情衝迫は「忘我的 ekstatisch[47]」である。だが感覚を持たない忘我的な植物になぜ快と不快という二つの状態性があるのか。

シェーラーは、感情を

  1. 感性的感情または《感覚感情》
  2. 状態としての身体感情と機能としての生命感情
  3. 純粋に心的な感情(自我感情)
  4. 精神的感情(人格性感情)

の四つに分け[48]、これらが「私たちの全人間的な実存の構造に対応している[49]」と言う。段階の順番からして、一番目の「カール・シュトゥンプフが謂う所」の《感覚感情》は 感情衝迫ということになるが、これは矛盾である。

そこで私たちとしては「対象のない objektlos」という限定を重視して、感情衝迫をハイデガーの謂う「情状性 Befindlichkeit[50]」に引き付けて理解することにしよう。情状性はあれが快いとかこれが不快であるとかいうような存在的な意識ではなくて、現存在の被投性を存在論的に開示する根本機構である(もちろん人間以外の存在者は情状性を存在論的に対自化することはないのだが)。シェーラーにおいても以下に確認するように、ばらばらな快/不快は人間存在や生命一般にとって決して根本を成すエレメントではないのである。

3.2. 本能の段階

心的なものの第二段階は「本能 Instinkt」である。本能的行為は

  1. 「意味にかなった sinngemäß」つまり自他の生に対して「目的にかなった teleoklin」
  2. 固定的で恒常的なリズムに従って、
  3. 類型的に繰り返される状況に反応し、個体にではなくて種の生にとって有意義であり、
  4. 試行の回数とは無関係である

ことをメルクマールとする[51]

一番目に対して、シェーラーは「人間の所謂《衝動的》行為は、全体的に見て(例えば麻薬常用癖のように)まったく無意味でありうるという点で、本能行為の正反対である[52]」と言うが、もし走性なども本能の内に入るならば、本能行為もまた「飛んで火に入る夏の虫」などに見られるように、生にとって《反目的的=無意味》な行為に成りうるのではないのかと疑問を持つ向きもあろう。確かにシェーラーが主張するほどに衝動行為と本能行為は区別されえないのだが、Ⅲにある通り、本能は、全体的統計的に種全体にとって合目的的であればそれで有意味ということになるのである。

シェーラーは、一方で「本能行動は、前-知識と行為との不可分の統一を表している。[…]それゆえ本能においては[…]《生得的表象》を語ることは無意味である[53]」と言いながら、他方「動物が表象し、感覚することができるものは生得的本能と環境構造との関係によってアプリオリに支配され規定されている[54]」とも言っている。これは矛盾しているように見えるが、シェーラーは要するに、本能以上の能力を持たない動物も表象を持つが、表象を表象として対自化することができないと言おうとしていたのであろう。

表象は否定によって媒介されなければ成立しない。植物は忘我的であるがゆえに、その生の運動が外界によって抵抗を受けても、その情報(感覚)を還帰的通報によって「表象として自分の前に立てる als Vorstellung vorstellen」ことができない。逆に言えば感覚表象とは、抵抗というレアールな否定の意識なのである。「実在的存在とは、対象存在すなわち全ての知的作用において同一な相在の相関者ではなく、むしろいかなる種類の意欲・注意においても同一である根源的自発性に対する抵抗存在である[55]」。

本能は求心系神経路から来る特定の感覚表象に対して特定の指令情報を遠心系神経路に送り込む。その際刺激に対する反応は本能によって先天的一義的に決まっており、したがってVをするべきかVをするべきでないかが当の個体によって問われない。つまり表象Vは、¬Vというイデアールな否定によって媒介されていないので、選択の自由(超越)の余地が全くないのである。

動物は聞いたり見たりする。しかし聞いたり見たりしていることを知ってはいない。動物の魂は機能し、生きている。だが動物は心理学者や生理学者ではありえないのだ![56]

対象意識が自己意識成立のモメントであることは、超越論的哲学の基本的テーゼであった。

シェーラーと同時代のジンメルは、常識を逆転させて次のように主張している。

究極的根本的には、たぶん実在性は、それが私たちに成す抵抗を通して私たちの意識に入って来るのではなく、抵抗感覚や阻止感情と結び付いた表象が、客観的に実在的な、私たちとは独立に私たちの外部にある表象と呼ばれているのであろう。それゆえ事物は、価値あるがゆえに獲得が困難なのではなく、それを獲得しようとする私たちの欲求を阻止するような事物を私たちは価値あるものと呼ぶのだ。[57]

シェーラーが聞いたら「ルサンチマン的倒錯だ!」と批判したことであろうが、ジンメルのこの《抵抗=実在》説、あるいは《希少性=価値》説は、システム/環境の差異化論として理解できる。システムとはシステムと環境の区別であり、環境とはシステムにとっての選択の不確定性である。自分の意のままになる確定性に対して私たちは客観的対象性を感じない。自分の意志を妨げる不透明性に接して、初めて私たちは世界の客観性を認識するのである。

3.3. 習慣と知能の段階

第三段階の心的形式は習慣、すなわち「連合・再生・条件反射の事実の総体[58]」であり、第四段階のそれは知能である。注意しなければならないのは、この習慣や知能は感情衝迫や習慣という全体的生の分解の産物であって、より下位の単純な能力の複合ではないということである。2 のⅡに謂う所の「固定的で恒常的なリズム」とは生命の非機械的本性のことで、シェーラーに言わせれば、本能は(無条件)反射の単なる組合わせではないし、学習(習慣)は条件反射の単なる組合わせではない。「それゆえ心的発展の根本的経過は、創造的分解であって連合や(ブントが謂う)《総合》ではない。[59]」。

概ね純粋な連合はおそらく思考の上位の決定因子が欠落した全く特定の現象、例えば観念奔逸[Ideenflucht]の状態の場合における語の外的音響連合においてのみ見出されよう。こうした結合の仕方は発生的に基本的なものでは全くないのであって、心的な表象経過はむしろ老年期に至って初めて(衝動生の勢力の減退と分化の低下の結果として)連合型への接近の度を強めると言えるほどである。高年齢に見られる書法や描写や画法や語法の変化はこれを証拠立てており、 それら全てはますます累加的・非統合的性格を帯びてくる(つまり連合諸法則はほぼ老衰的精神薄弱に対して妥当する)。これと平行して、感覚は老年期において“純粋”感覚の刺激比例的な性格に近付く。身体的有機体が生の流れとともに相対的な機械組織をますます産出していき、死におよんで全面的にそのようなものへと沈下するのと全く同様に、私たちの心的生も諸表象と諸行動様式の純粋に習慣適合的な結合をますます産出する。つまり人間は老年期に至って、いっそう習慣の奴隷となる。[60]

死に近づくにつれて、機械的でばらばらになるということは、生の本質が有機的全体性にあるということである。この生のホーリズムは、シェーラーの哲学にとって基本的なものである。本能的行為にせよ、習慣的行為にせよ、あるいは知能的行為にせよ、行為とは「行いにおいてこの[目標である]事態を実現することの体験、すなわち全てのそこに属する客観的な因果的経過ならびに行為の結果から全く独立した一つの現象的統一体としてあるこの特殊な体験統一体である[61]」。

例えば帽子をかぶろうとする時、私はかぶることを意欲するのであって、かぶる運動を意欲しているわけではない[62]。行為においては、物理的な経過である身体の運動や、それに付帯している感情 やさらにそれに付帯している快楽が目指されているわけではないし、またそのようなものの機械的な合成から行為が成り立っているわけではない。「それゆえ行為意欲の源泉は、第一次的には感情状態ではなく(ちょうど感情状態が意欲の目標ではないように)、実践的客体や純粋意欲に対する《事象》の体験された抵抗である[63]」。そしてこの抵抗の克服が衝動活動の目標となる。

「感性的感情状態の経過は、既に衝動活動に依存している[64]」派生的なものに過ぎない。感性的感情、なかんずく快楽は行為の結果であって、決して動機ではない。「ひとは《差し当り》財を目指しているのであって、財における快を目指しているのではない[65]」。快を 目標とする時には、《自然的態度》とは違った《不自然な態度 eine künstliche Einstellung》が必要である。

純粋に快に向けられた生の態度は、個人の生についても民族の生についてもまぎれもない老年期現象を表しているのであって、それは“しずくをなめる”年老いた酒飲みやエロチックな領域でのこれに類した現象が実例を示しているところである。[…]それゆえ《快楽原理》は、感覚主義の同族たる快楽主義者が考えるように 根源的なものではなく、連合的知性が進んだあげくの成りの果てである。[66]

バラバラなセンスデーター、バラバラな快楽、そしてそれを結合してカオスに形式を与える矛盾律の能力としての論理的悟性 ― これはシェーラーをはじめ総じて現象学者が退ける構図であった。「ヒュームの自然は存在するためにカントの悟性を必要としたし、ホッブスの人間は前者と同様に自然な経験に戻るつもりなら、カントの実践理性を必要とした[67]」。

現象学者は現象の中にイデアールな秩序を見いだそうとする。シェーラーに言わせれば、カントの「自律 Autonomie」は理性による「理律 Logotomie」という点で、「人格の他律 Heteronomie der Person」である[68]。ここから明らかなように、シェーラーは人格と論理的主語を区別して[69]、「人格の存在をその行いから理解しようとする[…]所謂一種の《行為主義的》な人格の理解[70]」を、つまりカント的な人格の理解を拒否する。そこでシェーラーの人格は、フッサール謂う所の潜在的な生の地平をも含むコギトに相当すると考えられる。

人格の行為は統一的な体験である。物理的な身体行動・感情状態・抽象的な快・表象としての目的は事後的な反省によって派生する契機に過ぎない。「努力する意識から表象する意識への《後退》の現象において、努力において与えられる目標内容を表象する統握において初めて目的意識が生じる[71]」。努力する人格は作用の中で生きていてそれを反省しない。彼にとって行為とは、まさに主体的行為(Handeln)であって客体的行動(Handlung)ではない。緊張して危険な仕事をしている時には、怪我をしてもそれに気が付かないものであり、「企画とその実現過程に完全に埋没していることが、大胆な行動家に特有な態度である[72]」。 「“偉人”論の著者は決して偉人ではなく、常にもっぱらその傍観者であった[73]」。偉人は、偉人伝作家のように過去ないし他人の Können(正確には das Gekonnte:できたこと)に対する意識を喜ぶのではなくて、自分の今の Können(できること)の意識を喜ぶのである。それは「できる行為に対する快楽 eine Lust am Tun dessen,was wir können」ではなくて「行為できるという快楽 eine Lust am Können dieses Tuns」である。しかしシェーラーは生に内在するだけの人ではなかった。

3.4. 精神の段階

知能は賢いチンパンジーにすでに見られるので、宇宙における人間の特殊地位を示すものではない。ところが人間は、知能をも含めたこれまでの全ての心的能力を超越することができる。ここに至って人間と動物との相違を単なる程度上のもの以上にする新たな原理が登場する。ギリシャ人はかつてこれを「理性」と名付けたが、シェーラーはさらに包括的な(つまり単に思惟だけでなく、直観・意志・情緒をも含む)「精神」をその名称に選ぶ。

それゆえ《精神的》存在者は、もはや衝動と環境世界に拘束されず、《環境世界》から自由であり、[…]《世界開放的》である。そのような存在者は《世界》を持ち、さらに彼にも根源的に与えられた、彼の環境 ― 動物はそれをただ持っているだけで、そこに忘我的に没入している ― の《抵抗》と反応の中心を《対象》にまで高めることができ、この対象のありかたを原理的に自分で統握することができるのである。[74]

精神とは「理念化の作用 Akt der Ideierung[75]」であり、この理念化としての「昇華 Sublimierung」こそが、フッサールが謂う現象学的超越論的還元に他ならない[76]

これまでシェーラーは生哲学的な観点から、人間の習慣的行為や知能的行為を、有機的統一性を持った動物の本能的行為の老衰的末期的な堕落形態として、そしてその限界概念を“観念奔逸”として見なしてきた。ところが精神という新たな原理に定位するや否や、動物と人間の地位の間に逆転が生じて来る。

動物は自分の環境に忘我的に埋没して生きており、ちょうどかたつむりが自分の家を持ち運ぶように、どこへ行こうともその環境を構造として持ち運ぶ。《環境世界》をこのように固有の仕方で遠ざけ、距離をとり、《世界》ないし世界の象徴にすること、人間には可能なこのことを動物はすることができないのである。[…]突然ここに、それからあそこへと飛び移る猿は、言わば純粋に刹那的な忘我状態[in lauter punktuellen Ekstasen]にある(人間で言えば病的な観念奔逸)。[77]

人間は「Xは私の右側にある」という客観的な言明を語ることができる。もし「Xは右側にある」と言ったら、それは主観的な言明である。なぜならある他人にとってXは左側にあるということがありうるからである。しかるに人間は方向の特殊性を対象化された自己存在の特殊性に置換することができるのである。「自分の環境と自分の全心的物理的存在と両者の因果的関係を対象化することができることから、人間の一連の特殊性が理解できる[78]」。してみると人間の宇宙における特殊地位は、人間が宇宙において特殊地位を持たないことを認識している点にあるということになる。これは逆説的である。

人間が科学で、宇宙における自分の偶然的位置[特殊地位]、自分自身と自分の全物的心的装置を、さながら他の事物と厳密な因果関係にある他の事物であるかのようにつねに包括的に考慮に入れることを学び、かくして次第に世界の像自身を獲得する術を心得るようになることは人間の科学の偉大なところである。[79]

しかしその偉大な科学が教えるところによれば、人間は少しも偉大ではない。他の動物とは違って理性的と自負する近代人がその能力を最大限発見した結果得た科学の結論は、人間は他の動物と同様DNA戦略の一環たるタンパク質に過ぎないということであった。人間は有能になることによって無能となったのである。

このパラドックスは、フッサール謂う所の「人間的主観性のパラドックス:世界に対する主観存在であると同時に世界の中での客観存在であること[80]」から来ている。すなわち経験的人間は特殊地位を持たないが、持たないと認識する超越論的な精神はその超越のゆえに特殊地位を持つのである。もちろん人間の超越は時間的に相対的であるが、かかる時間的相対性(変化)を認識しうることは、超越論的な精神が時間性としての超越であることを示している。

シェーラーは一方では「全ての非現象学的な経験、例えばレアールな事物の自然な知覚は原理的にその直観的な内容を《超越している[81]」と言うが、この《超越する Transzendieren》は、私の言葉で言えば超越的超越である。これに対して「人間は自分自身と自分の生と全ての生を超越する事物である。人間の本質的な核は[…]まさにかの運動、自己を超越するというかの精神的作用なのである[82]」と言う時の《超越する》は私の言葉で言えば超越論的超越である。

感情衝迫を時間としての超越本能・習慣・知能を時間的多様における超越とするならば、本節でこれまでフォローして来たシェーラーの《哲学的人間学=超越論的倫理学》に『カントの超越論的哲学』で提示した「超越論的哲学の定式3」

(1)時間としての超越が

(2)時間からの超越を

(3)時間的多様において超越しつつ

(4)時間的多様から超越する

があてはまることは容易に見て取れよう。物象化的錯視である直観主義と超越論的哲学との間の子である現象学を目的論的に改作することが『現象学的に根拠を問う』での私の課題である。

4. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 本稿の初出は、「シェーラーの哲学的人間学」『一橋研究』通巻94号 97-117頁 一橋研究編集委員会 1992年1月31日. です。この論文は、後に私の電子書籍『現象学的に根拠を問う』の第二章となりましたが、このページはそれをブログ記事用に編集したものです。
  2. Scheler, Max. Frühe Schriften. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 1. Francke Verlag. ed. Maria Scheler, Manfred Frings. p. 92.
  3. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 197.
  4. Scheler, Max. Die Wissensform und die Gesellschaft. 1957. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 8. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 204.
  5. Scheler, Max. Die Wissensform und die Gesellschaft. 1957. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 8. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 205.
  6. Scheler, Max. Vom Umsturz der Werte. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 3. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 222. これと相即的に、直接的直観的認識に関わる「錯誤 Täuschung」 と間接的認識、特に推論にその本来の領域を持つ「誤謬 Irrtum」が区別される。真理のこの区別に関してはさらに以下を参照されたい。Heidegger, Martin. Sein und Zeit. Max Niemeyer, Halle (1927). p. 32-34.
  7. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 276.
  8. Nietzsche, Friedrich. Die fröhliche Wissenschaft – la gaya scienza. 1887, 116.
  9. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 35-40.
  10. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 37.
  11. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 37.
  12. 「善は定義できない」というテーゼはプラトン以来であるが、先行のブレンターノや後続のハルトマンによっても、またイギリスのムーアによっても主張された。この論点に関してムーアは『倫理学原理』の序論でブレンターノに言及し、シェーラーは『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』の第二版序論でムーアに言及し、ハルトマンもシェーラーに言及(Hartmann, Nicolai. Ethik. 1926. Walter de Gruyter. p. 286)している。
  13. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 107.
  14. Hartmann, Nicolai. Ethik. 1926. Walter de Gruyter. p. 280.
  15. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 105.
  16. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 107.
  17. Scheler, Max. Frühe Schriften. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 1. Francke Verlag. ed. Maria Scheler, Manfred Frings. p. 97.
  18. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 248f.
  19. 廣松渉. 『物象化論の構図』. 東京: 岩波書店, 2001. p. 129-139.
  20. Scheler, Max. Die Wissensform und die Gesellschaft. 1957. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 8. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 154.
  21. 溝口宏平. 「歴史と歴史を越えるもの」 1988. 新岩波講座哲学 第11巻. 『社会と歴史』 岩波書店. 大森荘蔵, 中村雄二郎, 滝浦静雄, 藤沢令夫 編,328頁.
  22. Scheler, Max. Über Scham und Schamgefühl. 1913. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 10. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 69.
  23. Scheler, Max. Über Scham und Schamgefühl. 1913. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 10. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 73.
  24. Scheler, Max. Über Scham und Schamgefühl. 1913. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 10. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 74f.
  25. Scheler, Max. Über Scham und Schamgefühl. 1913. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 10. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 75.
  26. Bataille, Georges. Oeuvres Complètes VII – L’ Économie à la mesure de l’univers – La Part maudite – La Limite de l’utile (fragments) – Théorie de la religion – Conférences (1947-1948) 1976. Gallimard. p. 52.
  27. Scheler, Max. Über Scham und Schamgefühl. 1913. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 10. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 79.
  28. Scheler, Max. Über Scham und Schamgefühl. 1913. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 10. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 78.
  29. 私は、現在では、このレヴィ=ストロース的な考えは支持しない。トーテム・タブーという形で実現している近親相姦の回避は、遺伝子の多様化に貢献しているし、性器の隠蔽は、性フェロモンの機能を失った人類に代替機能を提供している
  30. Scheler, Max. Vom Umsturz der Werte. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 3. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 20.
  31. Nietzsche, Friedrich . Zur Genealogie der Moral: Eine Streitschrift. Erstdruck: Leipzig (C. G. Naumann) 1887. 1. Abhandlung, 10.Abschnitt.
  32. Scheler, Max. Vom Umsturz der Werte. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 3. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 25.
  33. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 135.
  34. Scheler, Max. Vom Umsturz der Werte. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 3. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 38.
  35. Scheler, Max. Vom Umsturz der Werte. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 3. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 39.
  36. Scheler, Max. Vom Umsturz der Werte. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 3. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 41.
  37. André, GIDE. Dostoïevsky. PLON ET NOURRIT, 1934. p. 185.
  38. Nietzsche, Friedrich. Also sprach Zarathustra – Aus dem Nachlaß 1882 -1885. 1896. Friedrich Nietzsches Werke 7. Band. Alfred Kröner Verlag. p. 267.
  39. Nietzsche, Friedrich. Also sprach Zarathustra – Aus dem Nachlaß 1882 -1885. 1896. Friedrich Nietzsches Werke 7. Band. Alfred Kröner Verlag. p. 251.
  40. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 235.
  41. Kant, Immanuel. Kritik der praktischen Vernunft. 1788. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 278.
  42. Scheler, Max. Vom Umsturz der Werte. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 3. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 97.
  43. Scheler, Max. Vom Umsturz der Werte. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 3. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 121.
  44. Scheler, Max. Vom Umsturz der Werte. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 3. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 78.
  45. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 13.
  46. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 14.
  47. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 15.
  48. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 334.
  49. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 334.
  50. Heidegger, Martin. Sein und Zeit. 1927. Max Niemeyer Verlag. p. 134-140.
  51. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 18f.
  52. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 20.
  53. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 21f.
  54. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 19.
  55. Scheler, Max. Die Wissensform und die Gesellschaft. 1957. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 8. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 363.
  56. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 34f.
  57. Simmel, Georg. Philosophie des Geldes. 1900. Duncker&Humblot. p. 13.
  58. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 22.
  59. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 21.
  60. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 24.
  61. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 142.
  62. フッサールはこれとパラレルに「私は色の感覚を見ているのではなくて色の着いた事物を見ているのだ」(Husserl, Edmund. Logische Untersuchungen. Zweiter Teil. Untersuchungen zur Phänomenologie und Theorie der Erkenntnis. 1901. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 19. Martinus Nijhoff. ed. Ursula Panzer. p. 387)と言う。シェーラーやフッサールのこれらのテーゼは「示されうることは語ることができない」(Wittgenstein, Ludwig. Tractatus Logico-Philosophicus. Bilingual Edition. Translated by Charles Kay Ogden. LONDON KEGAN PAUL, TRENCH, TRUBNER & CO., LTD. NEW YORK: HARCOURT, BRACE & COMPANY, INC. 1922. 4.1212)というヴィトゲンシュタインの命題を想い起こさせる。もっともフッサールもシェーラーもこのような自然的態度を放棄して現象学的還元に走るのだが。フッサールはシェーラーの当の主張とは反対に「意欲することを意欲する」(Husserl, Edmund. Vorlesungen über Ethik und Wertlehre 1908-1914. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 28. ed. Ullrich Melle. Springer; 1988 edition (October 31, 1988). p. 125)ことについて語る。この反復は、必ずしも無意味ではない。例えば異性を欲するが、異性を欲することを女々しいこととして欲しない場合があるからである。「知覚を見る」とかさらに「知覚を見ない」などといったこともある哲学的な態度ではありうることである。
  63. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 151.
  64. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 170.
  65. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 251.
  66. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 27.
  67. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 85.
  68. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 382.
  69. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 382.
  70. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 383.
  71. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 60.
  72. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 79.
  73. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 81.
  74. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 32.
  75. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 40.
  76. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 42.
  77. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 34.
  78. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 36.
  79. Scheler, Max. Die Stellung des Menschen im Kosmos. 1928. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 9. Francke Verlag. ed. Manfred Frings. p. 38.
  80. Husserl, Edmund. Die Krisis der europäischen Wissenschaften und die transzendentale Phänomenologie. 1936. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 6. Martinus Nijhoff. p. 182.
  81. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 70.
  82. Scheler, Max. Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik. 1916. Max Scheler Gesammelte Werke, Bd. 2. Francke Verlag. ed. Maria Scheler. p. 293.