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目的論的還元・構成・破壊

1997年9月2日

全ての価値を目的に対する手段の価値とみなし、現存の価値をより上位の目的への価値へと還元(reduzieren 縮減)し続けることで、私たちは、究極目的を構成し、それに基づいて、現存の価値を破壊することができる。このページでは、現象学的還元・構成・破壊のモデルを参考にしつつ、認識行為を含めたあらゆる行為の基礎付けを試みる。[1]

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1945年5月11日、九州沖で特攻による被害を受けたUSSバンカーヒル[2]

1. 目的論的還元

本節では、フッサールの現象学的還元に倣って、まず、無反省な自然的態度において、価値を超越的に定立する判断を停止し(エポケーし)、その実在性を括弧に入れ、価値を価値たらしめている目的へと、そして究極的な目的である私たちの存在へと反省の作用を振り向けることにしたい。

1.1. 価値の超越的定立のエポケー

事象と意味、あるいは事象と価値の特定の述定関係は、私たちに先与的・超越的に、さながら事象そのものの性質であるかのように現出する。そのために現象学者は、《実質的アプリオリ》としての事象本質の受動的直観に自足する。しかしだからといって(差し当り価値に関して言えば、メタ倫理学を批判する解釈学者が主張するように)事実から価値は切り離されず、両者は一体であるとは言えない。

例えば眼前に生起したある行為は、私にとって「美しい、素晴らしい、称賛に値する」という価値感情と一体となっているとする。この即自的な段階においては、私にとって「私にとって」が意識されていない。ところがいまそこにある他者が現れ、その行為を指示しつつ「醜い、くだらない、罵倒に値する」というような述定を行ったとする。もし事実と価値が一対一対応の関数関係にあるとするならば、価値が異なることは事実が異なることを意味するので、彼は異なった対象を指示していることになる。もしもそうだとすれば、一般に(つまり価値のみならず意味に関しても)妥当性要求の争いは同一主語に矛盾した述語を帰属させることによって生じるのだから、私は彼と論争する必要はないはずである。しかし今の場合、私は自分の述定に根拠を与えてそれを正当化しつつ、なぜ君はあの美しい、素晴らしい、称賛に値する行為に「醜い、くだらない、罵倒に値する」などというような述定を行うのかと問い質すのではないだろうか。

もちろん指示対象に相違を見出して争いを回避することもあるであろう。例えば私はその行為の美しい動機を讃めたのに対して、後から来た彼はその行為の結果だけを見てけなした場合とか、同じ行為を主語にしている場合でも、私は封建的な家庭に育ったが、彼はリベラルな雰囲気の家庭に育ったというように(判断者の心的状態をも含めた)指示“対象”を振り分ける時には争いは生じない。では常にこのような振り分けが可能かと言えば、そうではなく、相互に譲り合わない和解不可能な争いが世の中にあることは否定できない。そしてこのことは事実即価値ではないことを示している。パラダイムの相対性の自覚が直観主義者をしておのれの規範の超越論的基礎付けを動機付けるのである。

倫理学の創始者アリストテレスは、今言った意味での直観主義者であったと思われる。彼は、実体主義的な価値観に基づいて徳目の記述を行う点でシェーラーやハルトマンなどの現象学的ないし現相論的な実質的価値倫理学の祖でもあったように思われる。そこでまず手始めにアリストテレスの倫理学を検討してみよう。

1.2. アリストテレスにおける中庸の徳

人生経験豊かな大人アリストテレスは、哲学的には実体主義的であったにもかかわらず、徳の相対性をよく心得ており、例えば「勇敢」という徳が「無謀」という悪徳と表裏一体であることを見抜いている。だが徳の価値はあくまでも客観において完結すると考える彼は、両者の差を事象の事実的相違によって区別しようとする。すなわち「勇敢」は、中庸の徳として「無謀」と「憶病」という過超と不足の中間に位置する、と考えられるのである。

それゆえ“徳”は、その実体に即して言えば、またその本質を言い表す定義に即して言えば“中庸”であるが、しかしその最善性とか“善さ”とかに即して言うならば、それはかえって“頂極”に他ならないのである。[3]

アリストテレスの三項図式は、図解すると以下のようになる。

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中庸の徳またはアリストテレスの三項図式

この三項図式において、無謀と憶病という両極端は、なるほど「いかなるものも恐れず、いかなるものにも向かって進んで行く」人は無謀であり、「あらゆるものを逃避し、あらゆるものを恐怖して何事にも耐えない」人は憶病である、というように事実的に区別されようが、果たして同様に勇敢が両者の《事実的》中間であると言えるだろうか。ここでアリストテレスの価値客観主義は行き詰まるように見える。勇敢の具体的規定という段取りになると、彼は「然るべき事柄を、然るべき目的のために、然るべき仕方で、然るべき時に」「事柄の値するところに応じて、理(ことわり)の命ずるであろうような仕方で」という空虚な条件しか与えることができないのである[4]

事実と価値の乖離をより明確に暴露するためには、事実的に同一の行為が勇敢とも無謀とも取れるような例を示せばよい。アリストテレスによれば、「優れた意味において勇敢な人と言うべきは、うるわしき死について、またおよそたちまちのうちに死を招来する如き事柄について恐れるところのない人に他ならない。こうした事態の最たるものは、だが戦いにおけるそれであろう[5]」とのことであるので、特攻隊を例にとって考えてみよう。

特攻隊に志願して敵国艦隊に体当りするという行為は、戦中の帝国臣民にとっては勇敢に見えようが、今の私たちにとっては無謀としか思えない。この相違を、現代の日本人は戦中の日本人よりも身の危険が少ないので、勇敢な行為が相対的に無謀に見える、というように程度の差として説明するには無理がある。そこには普通私たちが《観点の相違》と呼んでいるものがある。問題はこの事象の中に見出すことのできない相違を何に帰属させるかである。

さてある特攻隊員は命が惜しくなり、(うまく行けばの話だが)隊を離れて中立国に亡命したとしよう。帝国臣民はこれを憶病な、破廉恥極まりない国賊的行為として罵倒するに違いないが、そうは考えない今の私たちは彼の行為をなんと形容したらよいであろうか。アリストテレスの三項図式に従うならば、高く評価する以上は彼の行為を勇敢と呼ばなければならないのだが、これは、もし当人がそれを“ファシズムへの挑戦”と称して開き直るならともかくとして、言葉の意味に反する。かくして私たちは、無謀でも勇敢でもない憶病でもない「慎重」という第四項を必要とするようになる[6]

この第四項を加えることによって、アリストテレスの三項図式は以下の図のように修正される。この四項図式においては、左と右の事実の相違と上と下の価値の相違が完全に区別されている点に注意したい。

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事実と価値の峻別または四項図式

その構造は、以下の一般図式において明確となる。

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四項図式の論理形式(T=事実、W=価値)

直観主義者の価値の地平は、この図式で言えば《勇敢(T∧W)か憶病(¬T∧¬W)か》あるいは《慎重(¬T∧W)か無謀(T∧¬W)か》というような←→で示された二項図式によって表現されているのであって、そこでは事実の相違(Tと¬T)が、そのまま価値の相違(Wと¬W)になっている。

この点アリストテレスの三項図式は、素朴な直観主義者の二項図式から批判的四項図式への過渡的段階であったと言うことができよう。いやそれどころか彼の徳目の叙述の中には、三項図式の不十分さに気が付いていたのではないのかと思われる個所すら見出されるのである。

私たちは、名誉心の強い人を名誉を希求するにあたって希求すべきものを越えて希求してはならないところから希求するものとして非難し[T∧¬W]、また名誉心のない人を美しい行為によって名誉を与えられることさえ望まないものとして非難する[¬T∧¬W]。そしてある時は、私たちは名誉心の強い人を男らしい、美しい行為を好む人として称賛し[T∧W]、ある時は、名誉心のない人を身の程を弁えた節度ある人として称賛する[¬T∧W]。[7]

アリストテレスは、結局この場合中庸は無名称である言って逃げてしまうのだが、彼の当面した問題は、上掲の四項図式の論理形式によって最もよく理解されうる[8]。以下の図では、アリストテレスが列挙しているこれ以外の中庸の徳目の三項図式をも私たちの四項図式に変換しておいた。なおこの図では、新たに加えられた第四項には*が付けられている。中庸が無名称であるとされる場合でもアリストテレスの叙述から推し量った。

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自己の誇りに関する中庸の徳目「自尊」の四項図式での位置付け
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肉体的快楽に関する中庸の徳目「節制」の四項図式での位置付け
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財貨の使用に関する中庸の徳目「寛厚」の四項図式での位置付け
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財貨の消費に関する中庸の徳目「豪華」の四項図式での位置付け
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怒りの情念に関する中庸の徳目「温和」の四項図式での位置付け
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社交と交際に関する中庸の徳目「孤高」の四項図式での位置付け
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自己の評価に関する中庸の徳目「真実」の四項図式での位置付け
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交際や冗談に関する中庸の徳目「機知」の四項図式での位置付け

このような徳目/価値の四項分節に接して私たちは当惑する。価値客観主義=価値実体主義の立場に立つ限り、(1)同一事象に対立する価値が述定されたり(T ⇒ W∧¬W)、(2)相互背反的な事象が「善い」の基準になったりする(W ⇒ T∧¬T)不合理が生じるからである。この矛盾を回避するには、

(1) (T∧Z1⇒W)∧(T∧Z2⇒¬W)

(2) (W∧Z1⇒T)∧(W∧Z2⇒¬T)

という振り分けが必要なのだが、この変項 Z は T を手段とする目的で、W は T に内存する実体概念ではなくて T と Z の関係概念であると私たちは主張したい。もしこの Z で主観的な心的状態が理解されるならば、それは「蓼食う虫も好き好き」という不可知論的主観主義が帰結するであろう。これに対して私たちは、客観的当為を客観的目的によって定義するので、逆に客観的目的から客観的当為を導出することができる。

しかしある目的を客観的と称するためには、その目的を根源的で間主観的に承認された目的によって正当化しなければならない。かくして目的論的還元が始まる。私たちは自然的態度における価値の超越的実在措定を括弧に入れて、価値の根拠(目的)を問い遡らなければならない。

しかしその前に、私たちの目的論的還元とフッサールの現象学的還元との関係について言及しなければならない。目的意志的行為が一種の志向性を持つことはフッサールも認めるところである。「未来へと向けられた意志は創造的な志向[schöpferische Intention]であり、実行行為において“充実”される[9]」。そしてこの未来完了形の実行行為は(ドイツ語の文法用語を用いるなら、接続法第二式のたんなる願望文とは異なった)接続法第一式の《かくあれ Es werde …!》なる事態へと向けられた志向性の実的成素である。

ただ意志の志向性は「時間区間 Zeitstrecke」を持つという点で知覚の志向性とは異なる。もちろん「知覚作用-知覚対象 Wahrnehmen-Wahrgenommenes」の志向性においても、後者で超越的対象が考えられているならば、両者の間には時間的な差延があることになろうが、内在的意識の領域に留まるなら、意識作用(ノエシス)と意識内容(ノエマ)は同時である[10]

カントも言うように知覚としての相互作用は同時なのである。だがもし内在的意識を超越して《本質洞察》へと係わろうとするならば、アリストテレスが言うように、認識は「まさにそれであったところのもの」(ト・ティ・エーン・エイナイ)を志向しなければならない。なぜならば、「本質とは、そうであったところのもの」(Wesen ist was gewesen ist)であるからだ。

目的意志的行為は一種の志向性を持つのだが、逆に志向性もその本質的構造において目的論的なのである。志向性の現象学は超越論的哲学を帰結するのだが、『カントの超越論的哲学』で結論したように超越論的哲学とは目的論に他ならない。したがって《現象学的還元=超越論的還元=目的論的還元》であることが肯首されるであろう。

1.3. 価値に対する三段階の目的論的還元

目的論的還元の第一段階は形相的還元である。価値の個別的直観から本質が観取され、領域的形相学の立場から個体-種-類へと類的普遍化が遂行される。そして最高価値類の総体からそれのノエシス的相関者への視線の転化が第二段階の、というよりも狭義の目的論的還元である超越論的還元になる。フッサールはさらに第三段階の現象学的還元とでも言うべき「間主観的還元[11]」を考案する。

カントが言うように、各人格は他の人格を、一方ではたんに手段として、だが他方では同時に目的としても扱う。たんに目的の体系が間主観的に承認されるだけでなく、間主観性自体が目的の体系として定義される。だがこれは構成と破壊で論じることにしたい。還元のモデルとして以下のようなものが考えるられる。

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目的論的還元のモデル

このモデルの意味するところをもう一度特攻隊の例で考えてみよう。C が神風特攻隊員に成って体当りをすることであるとするならば、D は鬼畜米英艦隊に損害を与えて自国に勝利をもたらすこと、B は特攻隊員に成るための一連の手段行為ということになる。行為 B に定位した時、B は一方で動機 A を原因として因果的に成立してはいるものの、他方で A を目的Cとして未来に向けている。この意味で未来完了的な目的は過去完了的な「まさにそれであったところのもの」でもある。この A=C と相即して A-B の「A だから B をした」と B-C の「C をするために B をすべし」は折り返しになっている。B-C の可能的行為規則が現実のものとなるかどうか、つまり行為 B が C を実現しうるかどうか自然的社会的法則にかかっている。

A から D は、たんなる時間的な因果系列として見られるならばその分節の仕方は相対的であり、特攻隊志願の動機 A の目的を直接 D にまで求めて短縮することもできれば、さらに細かく「特攻隊の訓練を受け、別離の酒を交わし、戦闘機に乗り込み、レイテ島沖に向かって出発し、天皇陛下万歳と叫びながら …」というように分節することもできる。だがこのことは B,C,D が意志の志向性における作用・内容・対象の区別を無意味にするわけではない。分節は、単定立的/多定立的の区別の時と同様、主体の実践的関心に基づく。

形相的還元を遂行するにあたって目的概念の二義性を指摘しなければならない。目的は普通目的-手段系列において、手段より時間的に後続する事象とされているが、このような目的概念を「目標的目的」と名付け、これとは別に手段的行為をその実現「形態」(カント流に言えば図式/範型)とし、それから時間的に分離できない(つまりフッサール流に言えば当の断片の非独立的契機である)「理念的目的」から区別することにする。

目標的目的 D を実現しなかった場合、例えば特攻隊によくあることだが、体当りし損なって海中に没した場合でも、なお C は独立の目的でありうる、つまり還元されるべき価値が有ると考えられる。C はたんに目標的目的 D の手段であるだけでなく、理念的目的 E の実現形態でもある。C は D にとって善いだけでなくて、E としても善い。私たちは先に価値を目的と事象との関係概念であるとしたが、二種類の目的に対応して価値も二種類に分けられる。

価値はたんに《とって-系列 Für-Reihe》上だけではなくて、《として-系列 Als-Reihe》上にも還元しなければならない。それは「勇敢な行為」「天皇への忠誠の証示」などの高次の(ただし構造的に“高次の”であって価値的に“高次”というわけではない)種概念へ包摂されることによってその根拠が遡られる。もしたんに《とって-系列》上にだけ還元するならば、「受験勉強は良い学歴のために、良い学歴は良い就職のために、良い就職は良い結婚と蓄財のために、そしてこれは子育てと老後のために、… そうこうしているうちに私たちは死ぬ」というニヒリスティクな帰結が生じる。だがカントが洞察したように、このような《とって-系列》上への還元によって得られるのは最終目的であっても究極目的ではないのである。

行為の《産出すること das Erzeugen》の価値と《産出されたもの das Erzeugte》の価値の区別は、ノエシスとノエマの区別ではなくて、Handeln(行為すること)と Handlung(行為)の区別に基づく。また、Handeln とHandlung は、身体行為とその行為の産物の関係にあるのでもない。身体自体が新陳代謝という行為の産物であるし、身体の外部である道具も身体の機能を果たすので、普通の意味での身体は還元にとって本質的ではない。Handeln と Handlung は、作用と内容という機能的な区別である。

Handeln という作用は、メタレヴェルのノエシス-ノエマ関係においてはノエマとして名辞化され、個物-種-類の階層を上昇して行く。種E(勇敢な行為)は、D(特攻隊の任務を果たすこと)だけでなく、例えば「弱いものいじめに抗議する」をも包摂するであろう。特攻隊を評価しない私たちが前者を無謀と呼び後者を勇敢と呼ぶのは、後者が産出する結果が前者のそれとは異なって私たちのシステムの存立に《とって良い》からであって、両者が理念的目的である種Eに包摂される点では(つまり Handlung から区別された Handeln としては)、共通である。価値だけでなく当為もまた還元される。「自分は特攻隊に志願すべきだ」という個別的指令は「帝國臣民ハ國體護持ノ義務ヲ負フ」一般的規則に包摂されるが、しかしその行為規則もまたその当為の根拠をシステムの維持という目的に還元されるのである。

種-類の階層(規則の包摂関係は類種関係ではないが、ここではフッサールの形相的還元モデルにしたがっておく)はフッサールが謂う所の実質的アプリオリであって、実質的であるがゆえにその頂点は複数でありうる。例えばFは「自己実現」とか「忠誠」とか「冒険」とかで、それ以上還元されないであろう。だが超越論的エゴ・コギトはその複数性を統一しうる。この統一性=単一性こそがGの究極目的であり、その定義からしてただ一つだけである。ノエマの総体からノエシスの総体へのこの目的論的還元によって獲得された単一性のゆえに、対立する価値パラダイムは和解の可能性を得るのである。

しかしその単一性は空虚な単一性であってはならず、多様な目的の体系の統一を通しての反照的規定である《具体的普遍=超越論的統覚》でなければならない。もちろん Fの最高次の理念的諸目的が何であるかは、その都度の価値経験の還元の積み重ねによって修正/確証されるわけだが、ここである程度内容上の考察をしておく必要があるであろう。価値の四項図式における対立する価値地平を還元してみると、ニーチェの用語で言えば、そこには左上と右下の組合わせによって示される「主人の徳」と右上と左下の組合わせによって示される「奴隷の徳」が対立していることに気が付く。

「主人の徳」は、憶病に対して勇敢を、卑屈に対して自尊を、無感覚に対して活発を、吝嗇に対して寛厚を、小心に対して豪華を、腑抜けに対して厳粛を、機嫌取りに対して孤高を、卑下に対して真実を、道化に対して真面目を先取する。これに対して「奴隷の徳」は、無謀に対して慎重を、傲慢に対して謙虚を、放埒に対して節制を、放漫に対して倹約を、派手に対して質素を、短気に対して温和を、無愛想に対して親愛を、虚飾に対して正直を、野暮に対して機知を先取する。私たちとしては、前者の目的を「自己実現」、後者の目的を「他者帰属」と命名しておこう。

自己実現とは他者を蹴落としてエゴを顕示せんとする行為であり、そこにおいては他者の苦痛が自分の喜びであり、その喜びとは生の高揚である。他者帰属とはエゴを滅して他者との平和な情緒的関係に埋没しようとする行為であり、そこにおいては他者の喜びが自分の喜びであり、その喜びは生の安定である。

私たち社会の中で生きるものは、いつもこの二つの目的の間で揺れるものである。一方で、目立ちたい、注目を浴びたいと思いながらも、他方、孤立し、村八分になることを恐れている。多数派の中に身を置けば、安心感は得られるが、同時に自分の存在感を失ってしまう。しかし出る杭は打たれるのである。

それにしても一見多様な精神的目的をこの二つに還元することはいかがなものかと思う人もいるであろう。私たちは決して最初からこのような目的を対自的に意識しているわけではない。例えばあるフランス通の人は自国の日本文化を軽蔑し、フランス文化そのものに価値を見出し、フランス文化に精通することに生き甲斐を感じているとしよう。ところが、その人がフランスに留学してフランス人に囲まれるや否や、突然「日本の心」だの「東洋の禅の精神」だのといったそれまでに口にしたこともないようなことを口にしたくなる衝動を感じたとしたならば、それは彼がそれまでにフランス文化に認めていた超越的価値の妥当性をエポケーして、その根拠を問い遡って反省することを彼に動機付けさせるようになる。すると彼は、彼の職場にはイギリス通やドイツ通のライバルはいても、フランス通は誰もおらず、したがって、自分はフランス通であることにアイデンティティを感じていたと悟るに至る。こうしてフランス文化への愛好は、自己実現という理念的目的の偶然的な実現形態に過ぎないということになる。

多様な精神的目的も対他性の形式においては特殊性と一般性の二つのカテゴリーに分類されるのである。ではこの差し当っては和解不可能な二つの目的はいかにして無矛盾的に構成されるのであろうか。このように問う時、《演繹》の問題は《構成》の問題へと移行する。

2. 目的論的構成

私たちの究極目的は、個体内的にも個体間的にも一つではない。目的論的還元によって得られた究極的目的はどのように構成されるべきであるのか、欲望の合目的的連関に従いながら、徳福一致の社会を考える。

2.1. ハイデガーと和辻による人間存在の構成

ハイデガーは、1927年のマールブルクでの講義『現象学の根本問題』で現象学的方法の三つ構成要素として還元・構成・破壊を挙げている。ハイデガーによれば「現象学的還元とは、存在者の極めて特定な把握からその存在者の存在の了解(その非隠蔽性のあり方への企投)へと現象学的視線を向け返すことである[12]」。もちろんこれはフッサールの現象学的還元とは大きく異なっているし、またフッサールの現象学的還元をカントの超越論的演繹に近付けて改作した私たちの目的論的還元ともまた異なる。そこで私たちとしては複数の還元概念を一つの根源的な概念にまで還元しなければならない。

フッサールはもともと、彼の若い時期の師であるワイヤーシュトラースやクローネッカーがその一翼を担っていた「算術への還元」の運動に倣って、数全体を自然数に《還元》して、そこから数全体を《構成》し、基礎付けようとする構成主義的な数学的基礎論を『算術の哲学』で展開していた[13]。もし後の『イデーン』で展開される所謂現象学的還元の母胎がここにあるとするならば、ハイデガーの 還元・構成・破壊 も等根源的に現象学的方法であると言えるであろうし、派生的なものから根源的なものへの還帰という我々の広い語の使い方もかならずしも没概念的な濫用でもないことになる。

ハイデガーによれば現象学的還元によって存在者から存在へと視線を向け戻すだけではまだ不十分であり、存在を自由な企投において捉えなければならない。「このように所与の存在者をその存在と存在の構造へと企投することを、私たちは現象学的構成と名付ける[14]」。現存在はさしあたりたいてい非本来的な(uneigentlich = 自己に係わらない) 世人として“世界”に頽落しているが、良心の呼び声は現存在の本来的自我を呼び開く。本来的自我へ向けておのれを投げる現存在の了解のあり方が企投に他ならない。

しかしそれにしても存在の光のうちへと脱我的に立ち出て、民族の歴史的運命の根源としての存在から呼びかけてくる“声なき声”に聴従し、“死への先駆的決意性”へとおのれを企投する私たちの特攻隊員は(あるいはナチスの突撃隊員は)、はたして良心の呼び声を正しく聞き取っているだろうか。意味と価値を正しく見定めるためには、私たちはむしろ《存在 Sein》を突き抜けて《主体 Subjekt》へと《存在者 Seiendes》を還元すべきではないだろうか。

本邦の和辻は、《存在者》を「表現」、《存在》を「人間存在」に置き替えて、ハイデガーの"還元・構成・破壊"という現象学的方法を自分の「人間の学としての倫理学」のための解釈学的方法へと批判的に改作しようとする。

主体的な人間の存在はただその表現において(すなわち現象において)のみ接近し得られるがゆえに、私たちはまず表現を捕え、その解釈によって存在を理解しなければならない。人間存在の表現はすでにその了解に充たされている。だからその了解の自覚によって理解が得られる。その理解の道は表現からして表現せられた人間の存在へ還って行くのである。それは人間存在への解釈学的還元と呼ばれてもよいであろう。[15]

そして逆に人間存在から表現へと視線を向け戻して、表現(現象)を人-間の実践的行為的連関の契機として自覚することが解釈学的構成である。

和辻によれば、「存在」の「存」は主体の時間的動的な自己把持を、「在」はその主体が空間的に(但し空間の"空" は仏教用語で"実"つまり実体に対する関係のこと)対他的実践的交渉の中にあること意味している。空と空との間、時と時との間、人と人との間の理法を解釈学的に理解することが倫-理学なのである。

和辻は人間存在を具体的には歴史性と風土性として《構成》するのだが、実はここに彼のハイデガー批判が込められている。

もちろんハイデッガーにおいても空間性が全然顔を出さないのではない。[…]しかしそれは時間性の強い照明のなかでほとんど影を失い去った。そこに自分はハイデッガーの仕事の限界を見たのである。空間性に即せざる時間性はいまだ真に時間性ではない。ハイデッガーがそこに留まったのは彼の Dasein があくまでも個人に過ぎなかったからである。彼は人間存在をただ人の存在として捕えた。それは人間存在の個人的・社会的なる二重構造から見れば、単に抽象的なる一面に過ぎぬ。そこで人間存在がその具体的なる二重性において把捉せられるとき、時間性は空間性と相即し来たるのである。ハイデッガーにおいて充分具体的に現れて来ない歴史性も、かくして初めてその真相を呈露する。とともに、その歴史性が風土性と相即せるものであることも明らかとなるのである。[16]

この歴史性と風土性の相即から国民的当為、すなわち国民が“当ニ為スベキ”行為が説かれるようになる。太平洋戦争における日本国民の世界史的使命を論じ、「日本の臣道」と題して説教を垂れた和辻にとって特攻隊はさぞ勇敢に見えたことであろう。ドイツ民族の生命圏の拡大も大東亜共栄圏の建設も五十歩百歩である。

戦後ハイデガーは教職を追放され、和辻も次のような「反省」を強いられるようになる。

太平洋戦争の敗北によって近代日本を担つてゐた世界史的地位は潰滅した。かゝる悲惨なる運命を招いたのは、理智に対する蔑視、偏狭なる狂信、それに基づく人倫への無理解、特に我国の任ふ世界史的意義に対する恐るべき誤解などのためである。私たちはこの苦い経験を無意義に終わらせてはならぬ。平和国家を建立し、文化的に新しい発展を企図すべき現在の境位に於て、何よりも先づ必要なのは、世界史の明かなる認識の下に私たちの国家や民族性や文化を反省することである。[17]

問題はその「反省」である。もし世界史の明かなる認識の下に私たちの国家や民族性や文化を哲学的に反省しようとするならば、その「反省」は 超越論的反省でなければならない。平和国家を建立し、文化的に新しい発展を企図すべきなら、今ここでもう一度カントの永遠平和論や歴史哲学が読み返されなければならないであろう。現象学者や解釈学者の直観主義的な価値判断/決断主義的な当為判断は挫折する。 実践の問題にも理性の光が当てられなければならない。

2.2. カントにおける目的の国の構成

「通俗的な人倫の世間智から人倫の形而上学へ」さらには「人倫の形而上学から純粋実践理性の批判へ」[カントの『人倫の形而上学の基礎付け』の第二章と第三章の表題]と《還元》したカントは、どのように目的の国を《構成》したのであろうか。カントは倫理学を純粋実践理性の目的の体系と定義したが、その際、当為となる「同時に義務でもある目的」とは何であるか。

それは自分の完全性他人の幸福である。これをひっくり返して、一方で自分の幸福を、他方でそれ自体において他の人格の義務であるところのその他人の完全性を目的とすることはできない。[18]

なぜなら、自分の幸福は全ての人が自然と傾向性にしたがって求めるものだから義務には成りえず、また他人の完全性を自分の義務とすると、その人は意志の他律に陥って完全ではなくなるので、これも義務とは成りえないからである。この二つの目的はただ以下の図のような相互主体的関係において間接的にその実現が期待できるだけである。

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カントの徳論における徳福一致

この図を説明すると、自分の道徳的完全性は結果として他人の幸福に資するが、幸福は完全性の物質的条件である(衣食足りて礼節を知る)ので、私の完全性は他者の完全性に間接的に貢献することになる。そして同じ論理で、他者の完全性から自分の幸福を期待することができる。

幸福を要求する権利と完全性の義務の法的関係も同じように以下の図のようになる。

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カントの法論における権利と義務の関係

カントはもちろん結果を重視しなかったわけだが、法的秩序はこの図に書いたように相互依存的である。もし社会のメンバーが相互に義務を遂行するならば、社会全体の徳福一致が期待できる。以下の図はカントが究極目的と考える理性の自己実現である。

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社会システムにおける道徳と幸福の関係

徳福一致は、経済システムに関して言えば、私の労働が他者の欲望に向けられることによって他者の労働は私の欲望に向けられるということである。ヘーゲルも認識していたように、個人は労働を通じて普遍性の高みへと自己形成することができる。

個人の労働は、自分の欲望を満たすためだけではなく、他者固有の欲望をも満たしている。個人は他者の労働を通してのみ自分の欲望を満足させることができる。個別者が、その個別的な労働において、無意識のうちにすでに普遍的労働を成し遂げているように、普遍的労働の場合でも、これを自分の意識的な対象として成し遂げている。[19]

もし労働が、たんに欲望を満たすために一時的に耐えなければならない苦痛であるだけでなくて、同時に相互に精神的・社会的・普遍的欲望を満たす活動性でもあるとするならば、そのシステムはさらに完全である。

2.3. 欲求実現の間主観的構成

私たちは前節で目的論的還元を行った。私たちの欲望は一見無限に多様であるように見えるが、現象からその根拠へと遡るなら、欲求は少数の類型へと整理・構成することができる。アメリカの社会心理学者マズローは、以下に図示したように、欲求を生理的(Physiological)欲求、安全(Safety)欲求、帰属と愛情(Love/belonging)の欲求、尊敬(Esteem)欲求、自己実現(Self-actualization)欲求に分類してこの順に階層を成す、つまりある次元までの欲求が充足されるとより高次の欲求の充足へと関心が上昇して行くと主張する[20]

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マズローの欲求のピラミッド[21]

欲求と目的は作用と内容の関係にあるので、(3)と(5)は、前の節で指摘した「他者帰属」と「自己実現」の目的に対応している。(4)は自己実現欲求に算入される。(1)と(2)はシェーラーの言う快楽価値と生命価値の区別に対応しているが、要するに身体という有機体システムを維持しようとする欲求である。この欲求も個体レヴェルと社会レヴェルに分けて分類するならば、以下のようになる。

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欲求の分類

欲求は必ずしもそれがもたらす帰結を目的としているわけではない。例えば空腹を満たすことはその個体の生を再生産する帰結を生むが、それとは別にその行為は味覚の快を伴っているし、またその快を享受しようとすることによって合目的的に生が促進される。同じような例を挙げれば、性欲を満たすことは超個体的な生を再生産する帰結を生むが、それとは別にその行為は独特の快を伴っているし、またその快を享受しようとすることによって合目的的に生が促進される。

快楽価値と生命価値は必然的な結合関係にはないから、とりわけ人間においては、快楽価値が生命価値から遊離して自己目的化する。それは健康にとっては却って有害な嗜好品や、生殖を目的としない快楽のための快楽、以前引用したシェーラーの言い回しを用いれば、「“しずくをなめる”年老いた酒飲みやエロチックな領域でのこれに類した現象が実例を示しているところである」。

そういう作用の自己目的化は他者帰属や自己実現などの精神的目的にも見られる。これらは本来、肉体的(material 物質的)な目的の充足(労働)の仕方を通して示される精神作用の形式で、以下の図に書いたような体系的連関において合目的的に充足される。

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社会システムにおける欲望の相互充足関係

しかし社交会などの種々の懇親会(他者帰属)・ コンクールなどの種々の競技大会(自己実現)に見られるように、それらは労働という本来的な全体連関から分離して自己目的化されうる。狩猟や戦争といった生の合目的的活動からスポーツ(sport=ふざけ・娯楽)や冒険のための旅行が、収穫のための宗教的儀礼から お祭りや音楽や芸術が、自然認識の探求からパズルやクイズなどの娯楽が生じてくる。これらの《遊戯 Spiel》は、派生的であるからといって価値がないわけではなく、その追求はむしろその純粋さにおいて目的合理的行為でありうる。

私たちが前節から持ち越した問題は、自己実現と他者帰属をどのように調和させるかであった。両者は理念型であって、どちらか一つしか持たない人はまずいない。大概の人はある集団を自己同一して、その集団の成員と《他者帰属》し、その集団の《自己実現》を自分の自己実現とする。これは巧妙な調和のさせかたである[22]が、この両立が愛郷心・愛校心・愛社心・ 愛国心と進んで行くと本節で問題にしたファシズムにまで先鋭化する。全体を物象化するファシズムは、たんに帝国侵略を受ける集団外部の諸目的のみならず、帝国臣民の諸目的までを抑圧するようになる。それゆえ自己実現は個人レヴェルで考えなければならない。他者帰属的自己実現という安直なアマルガムの路線を走ることなく、コスモポリタンな立場から自他の目的の体系を構成し、その構成を通して自己を実現するというのがカントの理念であった。自分の特殊性は、かえって自分とは異なる他者の特殊性を前提しており、自他の特殊性の相互承認という形で他者帰属と両立しうる[23]。特殊性と一般性は、《具体的普遍=人倫》において止揚されるのである。

3. 目的論的破壊

倫理学という学問が求められるのは、私と他者の価値観が対立する時である。選択行為と行為選択の関係を論じながら、目的論的構成が、間違った選択を破壊するメカニズムを認識することで、主体的な価値と規範の決定の可能性と限界を画定しよう。

3.1. 現象学的破壊と目的論的破壊

破壊とは「伝承され、差し当っては必然的に使わなければならない諸概念をそこからそれらが汲み取られてきた源泉へと批判的に解体すること[24]」である。破壊は決して伝統を無に帰すといった消極的な意味を持つものではなく、「逆に伝統をその積極的な可能性において、同じことだがその限界において境界線を画定するはずである[25]」。

なお『存在と時間』の第二部は「存在時性(Temporalität)の問題性を手引きとする存在論の歴史の現象学的破壊の要綱」と題され、カントからデカルト、アリストテレスを経て古代ギリシャにまで至るはずであった。現行の『存在と時間』は第一部の第一編と第二編で終わっているが、そこでは現存在の存在の意味が時間性として解明されている。これは現象学的還元に相当する。すると存在時性から存在者一般の存在の意味を規定するはずであった 第一部 第三編 の「時間と存在」では現象学的構成が仕上げられる予定であったと推測することができる。

本書において破壊されるべき「伝承された概念」は、フッサールにおける地平であり、シェーラーにおける価値の階層であり、広く言って現象学者の言う本質直観/受動的総合である。私たちは、直観的価値という現象から出発して、それを目的論的に制約から根拠へと還元し、究極目的をシステム論的に構成した。《上向》の次の仕事は、究極目的から再び直観的価値/規範へと《下降》し、その可能性と限界を画定することである。

3.2. 価値的対立の目的論的解決

現象学者は イデアールで即自的に存在する意味/価値の本質直観を説くが、超越論的哲学にとって重要なのは、そのような自己同一的な意味/価値の直観ではなくて、それがおのれとは異質的な意味/価値へと超越することの認識、つまり価値の正当化であるということはこれまでに繰り返してきた通りである。自分の知のシステムに矛盾を見出すこと、これと原理的に同じことだが、私と他者との間に判断の不一致が生じること、このことが≪超越論的反省=基礎付け≫を動機付けるのであった。

しかしそのような矛盾は、以前のカントの用語で言えば、可能的矛盾

Widerspruch:p∧¬p

ではなくて現実的対立

Widerstand:(s∧p)∧(s∧¬p)

でなければならない。ある可能的述語にその反対の述語があること、例えば「有罪である」に対して「有罪でない」があることは分析的に可能であり、そこに何の問題もない。「有罪でありかつ有罪でない」は矛盾であるから問題ではあるが、まだ可能的問題に過ぎないので、私たちは「そのような矛盾が生じた時には、それを回避すべく知のシステムを修正しなければならない」と言って済ましていられる。私たちには何も悩むところはない。

ところが、また太平洋戦争から例を採るが、現実に「東条英機は有罪でありかつ有罪ではない」という判断が帰結するや否や、つまりG.H.Q.の硬派は処刑を主張し、軟派は釈放を訴えるなら、私たちはその解決に苦しむことになるであろう。有罪であるか否かは東条の戦前の行為から判断しなければならないのだが、そこでは価値述語の分析的論理的な自己同一的関係ではなくて、価値と事実の実質的総合的な関係が問題となる。

ハルトマンは、倫理学で重要なのは価値と反価値の矛盾関係では なくて価値と価値の対立関係であると言うが[26]、これはもっともである。もし例えば正義に価値があるのなら、その否定概念たる不正義に価値がないということは分析的に真である。種における論理的対立ではなく、種と種との事実的対立が問題なのである。

ところがハルトマンの語法からすれば、正義は価値という類の一つの種であり、善のような純粋な価値語とは異なって価値的ならざる記述的内容(法律/規範にかなっている)を持ち、そしてこれが他の徳目との種差を成す。だから具体的状況における他種の価値との葛藤解決には、この記述的内容の分析が鍵鑰となる。ハルトマンは、愛と正義の葛藤を持ち出す[27]が、その対立は価値的二項性と事実的二項性の交差によって、以下の図のような四項的分節を成す。

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一階の不確定性:述語の選択としての判断(寛容/不寛容のパースペクティブに対して、正義/不正義のパースペクティブが勝利する)

この対立において正義と不正義、寛容と不寛容はそれぞれ純粋な論理的関係で問題はない。これに対して正義と寛容は価値、不正義と不寛容は反価値という共通地平における二つの種である。一方の肯定は他方の否定になり(正義としての寛容や不正義としての不寛容の可能性は仮定によって排除される)、また二つとも否定することも不可能である(なぜなら何もしないことは寛容または不正義になるのだから)ため、両者はそれ自体(per se)には対立ではないが、場合によっては(per accidens)矛盾対立である。

次に縦の対立を見てみると、正義と不寛容は規範遵守の強要、不正義は規範不遵守の許容という共通地平上の価値的矛盾対立である。縦の対立の解決は横の対立を解決する《存在根拠 ratio essendi》であり、後者は前者の《認識根拠 ratio cognoscendi》である。

法律/規範の厳格な適用が善いか悪いかは、もちろんその都度の状況 (行為連関=目的連関)による。法律/規範はしばしば成定されたときの合目的性を離れて自己目的化し、人間の目的を抑圧することがあるので、法律/規範遵守が常に善いわけではない。

G.H.Q.の硬派は世界平和 と正義(復讐による秩序の回復)を理由に戦犯の処刑を主張し、軟派は天皇を処罰せずにその「奸臣」だけを処罰するのはナンセンスだとして「寛容」を主張する。結局極東国際軍事裁判は東条英機以下23名のA級戦犯を処刑した。「勝てば官軍」なのであって、この“先取-後置”は日米間の権力闘争の帰結に過ぎない。天皇が処罰されなかったのは日本の共産主義化を防止しようとする米国の対ソ牽制の政治的政策に他ならない。

3.3. 価値選択における先取と後置

価値選択における先取と後置は、したがって価値の階層は、人-間から離れたイデアールな存立ではなくて、むしろ人-間の権力闘争の構造そのものに他ならない。「私がある行為/価値を選択する」ことと 「私が他者と闘争する」ことという一見何の関係もないように見える二つの行為が、論理的に相互に反転する関係にあることを以下に示そう。

闘争とは二つの意識主体が、希少財の獲得をめぐって相互に他者を排除しようとする行為である。意識主体は、個人であっても集団であってもよい。また三つ以上の主体が闘争する場合もあるが(例えば、万人の万人に対する戦い bellum omnium contra omnes)、その場合でも一つの主体から見れば「自分と敵」という二項対立を成している。なお闘争は目標が同じであるがゆえに生じるのであって、目的までが同じである必要はない。例えば部族Aは耕作のためにある土地を欲し、部族Bはその土地を祭式のために欲して闘争するというようなことがありうるからである。

船が沈没してAとBが一人しか乗れない木片をめぐって闘う場合を考えてみよう。二人の行為、つまり「A助かる」「B助かる」は「木片に乗って溺れずにすむ」という共通類の二つの種である。「A助かる」と「A溺れる」、「B助かる」と「B溺れる」は論理的な矛盾関係であって、一方の否定は他方の肯定につながる。これに対して「A助かる」と「B助かる」は、「正義」と「愛」がそうであったように、即自的には対立しないのだが、状況次第では対立関係、さらには矛盾関係にまで先鋭化する。かくしてAの関心は自分が生き延びることから相手を突き落とすことへと変化するわけだが、以下の図は、その対立状況を書いたものである。

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二階の不確定性:選択者の選択としての闘争(A=連合軍, B=枢軸国で、連合国が枢軸国に勝利し、ファシズムは淘汰される)

Aはもちろん《T∧W⇔¬T∧¬W》、Bは《¬T∧W⇔T∧¬W》という価値パースペクティブに立っている。この四項図式における縦および横の対立は、いずれも人称的差異に基づくのだが、これら一階と二階の不確定性の図が 四項図式の論理形式の図 と同じであることは説明するまでもないであろう。

選択において選択肢が全く同じものなら選択する必要はないが、選択肢が全く違う地平にあるものならばそれもまた選択には成らない。闘争に関しても、全く同じ主体は対立しないが、全く違うことを目指している主体は対立しない、と言うことができる。闘争は共通目標という地平での矛盾として可能である。

そもそも矛盾は、二つの述語Pと¬Pが同一主語Sに帰属させられることによって生じるのであって、あるものがPでありまた別のものが¬Pであるということは矛盾ではない。この判断間の矛盾と主体間の闘争の関係性を明らかにするためにも、ヨーロッパ言語においては主体と主語が同一語であることを想起しなければならない。主体がある主語にある述語を帰属させることによって、その帰属行為が述語として主体に帰属する。そしてこのことは主体が(メタ文法的な)主語に服従する《The subject is subject to the subject》ということである。

一階の判断における選択(selection)が妥当性を持つかどうかは、 二階の選択者の淘汰(selection)によって決定される。もう一度太平洋戦争の例に戻ろう。日本の東条内閣が「連合軍」なる主語に対して、「打倒すべし」という述語を帰属させることによって「枢軸国側」という述語が帰属主体としての日本に帰属する。述語へと客体化された日本は、「太平洋戦争」という主語=地平において、「連合国側」と矛盾関係におかれる、つまり太平洋の覇権という希少財をめぐって連合国側と闘争状態に入る。権力秩序は連合国側を選択し、そしてこのように連合国側が選択されることが、東条英機等の処刑を選択することなのである。

ある状況である行為を選択することは、その行為システムによって選択されることである。私が合格した大学A,B,Cの中からA大学を選ぶ過程は、同時に相互に闘争状態にある受験生A,B,Cの中から私Aが選ばれる過程でもあり、その結果受験戦争は、システムの方から見れば行為の闘争でもあるわけである。選択行為=闘争行為=行為選択=行為闘争である。

休日に海に行こうか山に行こうか考えているという一見闘争とは関係のないのどかな状況を考えてみよう。その背後にはしかし顧客を引き寄せようとする観光業者の間の闘争がある。山に行こうとしてホテルに予約をすることは同時に他の客とホテルを奪い合う闘争状態に入ることであり、予約が取れたということは私が選択されたということでもある。倫理学は「私は何をすべきか」の問いに答える学であるが、和辻が云うように、それはまた人-間の間主観的存在の理法についての学 でもある。個人的な行為の選択が等根源的に対他的な闘争でもあるという私たちの結論は、倫理学のこの両義性をよく示していると言えるのではないだろうか。

認識が、意味の選択(真の先取 Vorziehen と偽の後置 Nachsetzen)ないし価値の選択(善の先取と悪の後置)であり、このような知のシステムにおける《選択すること》が人-間のシステムにおける《選択されること》=闘争であるとするならば、超越論的目的論とはかかる闘争の目的論的洞察であると言える。フッサールは認識の真/偽を人-間の身体知覚システムの正常/異常に求め、知覚における真理の開示を先述定的な生=Xによる受動的総合とみなし、シェーラーもまたレデイ・メイド の価値の階層を受動的に直観する立場に甘んじた。私たちはこれら現象学者たちの物象化的錯視を退け、かのXを再び主体(システム)として捉え、カント以来の超越論的哲学の伝統を顕揚した。

一見主体(システム)の存在とは無関係に物自体的に自存するかのうに見える私たちの直観的な価値や規範の妥当性は、実はシステムの維持発展という究極目的によって初めて可能になっているのであって、選択システムが淘汰されたときその妥当性を失う。このように主体的な価値と規範の決定の「可能性と限界を画定する」こと、これが、目的論的破壊である。

4. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 本稿の初出は、「価値的対立の超越論的目的論的還元」『一橋研究』通巻98号 65-86頁 一橋研究編集委員会 1992年10月31日. である。この論文は、後に私の電子書籍『現象学的に根拠を問う』の第三章となりましたが、このページはそれをブログ記事用に編集したものです。
  2. File:USS Bunker Hill hit by two Kamikazes.jpg – Wikipedia.” “USS Bunker Hill (CV-17) hit by two Kamikazes in 30 seconds on 11 May 1945 off Kyushu. Dead-372. Wounded-264., 1943 – 1958", from Archival Research Catalog.
  3. Αριστοτέλης. Ηθικά Νικομάχεια. アリストテレス. 『ニコマコス倫理学』岩波書店 (2014/8/28). 1107a.
  4. Αριστοτέλης. Ηθικά Νικομάχεια. アリストテレス. 『ニコマコス倫理学』岩波書店 (2014/8/28). 1115b.
  5. Αριστοτέλης. Ηθικά Νικομάχεια. アリストテレス. 『ニコマコス倫理学』岩波書店 (2014/8/28). 1115a.
  6. Hartmann, Nicolai. Ethik. 1926. Walter de Gruyter. p. 565.
  7. Αριστοτέλης. Ηθικά Νικομάχεια. アリストテレス. 『ニコマコス倫理学』岩波書店 (2014/8/28). 1125b.
  8. このようなアリストテレスの中庸の徳に対する批判としては、以下を参照:Hartmann, Nicolai. Ethik. 1926. Walter de Gruyter. p. 562-584.
  9. Edmund Husserl. Vorlesungen über Ethik und Wertlehre 1908-1914. Husserliana 28. ed. Ullrich Melle. Springer; 1988 edition (October 31, 1988). p. 109.
  10. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 109f.
  11. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie der Intersubjektivität. Texte aus dem Nachlass. Erster Teil. 1973. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 13. Martinus Nijhoff. ed. Iso Kern. p. 447.
  12. Heidegger, Martin. Die Grundprobleme der Phänomenologie. Marburger Vorlesung Sommersemester 1927. Gesamtausgabe Bd. 24. Vittorio Klostermann. ed. Friedrich-Wilhelm von Herrmann. p. 29.
  13. Roger Schmit. Husserls Philosophie der Mathemathik. Bouvier Verlag Herbert Grundmann. 1981. p. 24.この反対の立場がフレーゲやラッセルの論理主義であるが、論理主義的な《還元》が成り立たないことについては、内井惣七氏の論考(神野慧一郎編『現代哲学のフロンティア』勁草書房. 1990年. p. 237-247)参照。
  14. Heidegger, Martin. Die Grundprobleme der Phänomenologie. Marburger Vorlesung Sommersemester 1927. Gesamtausgabe Bd. 24. Vittorio Klostermann. ed. Friedrich-Wilhelm von Herrmann. p. 29f.
  15. 和辻哲郎『人間の学としての倫理学』 1934. 岩波全書 19. 岩波書店, 259頁.
  16. 和辻哲郎『風土―人間学的考察』 1979. 岩波書店, 3頁以下.
  17. 和辻哲郎「人倫の世界史的反省序説」 1946. 『思想』昭和21年度3・4月合併号. 岩波書店,1頁.
  18. Kant, Immanuel. Die Metaphysik der Sitten. 1797. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der koniglich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 6. p. 385.
  19. Hegel, Georg Wilhelm Friedrich. Phänomenologie des Geistes. 1807. Felix Meiner Verlag. ed. Johannes Hoffmeister. p. 257.
  20. Maslow, Abraham H. Motivation and Personality. 3rd Edition. ed. Robert Frager, James Fadiman, Cynthia McReynolds, and Ruth Cox. New York: Longman, 1987.
  21. Pyramid showing Maslow’s hierarchy of needs” by FireflySixtySeven. Licensed under CC-BY-SA.
  22. とはいえ、個人の自己実現=個性と集団の自己実現=個性は一般に両立しない。集団が明確な個性を持つためには、その成員は没個性的で画一的でなければならないからである。もちろん構成員がそれぞれ個性を持っていることがその集団の個性ということもありうる。しかしその個性は、他の集団においては構成員が個性を持たないことを前提しているのだから、普遍化することはできない。
  23. この点、政治学的には、ファシズムに対して「国家の多元理論 pluralistic theory of the state」が擁護されてもよいはずである。但し多元的な集団は地縁的ではなく機能的な単位でなければならない。
  24. Heidegger, Martin. Die Grundprobleme der Phänomenologie. Marburger Vorlesung Sommersemester 1927. Gesamtausgabe Bd. 24. Vittorio Klostermann. ed. Friedrich-Wilhelm von Herrmann. p. 31.
  25. Heidegger, Martin. Sein und Zeit. 1927. Max Niemeyer Verlag. p. 22. なお『存在と時間』の第二部は「存在時性(Temporalität)の問題性を手引きとする存在論の歴史の現象学的破壊の要綱」と題され、カントからデカルト/アリストテレスを経て古代ギリシャにまで至るはずであった。現行の『存在と時間』は第一部の第一編と第二編で終わっているが、そこでは現存在の存在の意味が時間性として解明されている。これは現象学的還元に相当する。すると存在時性から存在者一般の存在の意味を規定するはずであった 第一部 第三編 の「時間と存在」では現象学的構成が仕上げられる予定であった、と推測することができる。講義『現象学の根本問題』との関係については、『存在と時間』の注記(p. 440)参照。
  26. Hartmann, Nicolai. Ethik. 1926. Walter de Gruyter. p. 294.
  27. Hartmann, Nicolai. Ethik. 1926. Walter de Gruyter. p. 296.