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十字架はなぜキリスト教の象徴なのか

2004年7月1日

十字架がキリスト教の象徴であるということは、常識的に考えると奇妙である。敵対する異教徒の中には、「彼らは、彼らに値するもの(死刑)を拝んでいる」と皮肉る人もいるが、なぜキリスト教徒は、教祖であるイエスを死に追いやった忌まわしい処刑の道具を、キリスト教の象徴として崇拝するのだろうか。イエスは、死後復活したのだから、十字架は、死の克服の象徴だと言う人もいるが、それならば、なぜ、釘とか槍といった他の処刑道具ではなくて、十字架でなければならないのかが問われなければならない。

Image by Gerd Altmann from Pixabay

1. コンスタンティヌスはなぜ公認したのか

実は、十字架がキリスト教の象徴になったのは、イエスが死んでから300年ほどたってからである。よく知られているとおり、キリスト教は、ローマ帝国では長らく迫害されていたが、313年にコンスタンティヌス1世(Flavius Valerius Constantinus - 以下、コンスタンティヌスと記す)によって公認され、後に国教にまでなった。十字架が象徴として認知され始めたのも、『新約聖書』が現在の形で成立したのも、キリスト教の基本的な教義が決まったのもこの頃である。どうやら、コンスタンティヌスに謎を解く手掛かりがありそうだ。

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P と X を組み合わせたキリスト教のエンブレムを空中で目撃するコンスタンティヌス [1]

コンスタンティヌスは、ローマ帝国の西方副帝コンスタンティウスの子供で、母親がキリスト教徒ということもあって、もともと歴代皇帝と比べるとキリスト教には寛大だったが、彼自身は、キリスト教徒ではなかった。転機が訪れたのは、西方正帝マクセンティウスとの覇権争いの時だった。それ以前に信じていた宗教から身の破滅を予言され、無神論者になりかけていたコンスタンティヌスは、P と X を組み合わせたモノグラムの夢(一説によると白昼夢)を見て、これを新たな神の啓示と受け取り、そのモノグラムを兵士の盾に描かせたと伝えられている。

モノグラムの画像
PとXを組み合わせたモノグラム

このモノグラムは、キリストに相当するギリシャ語クリストス(Χριστός)の最初の二文字であるカイとローを組み合わせたもので、キリスト教を象徴する記号だった。ローは、ラテン文字のRに相当するのだが、ギリシャ文字の大文字は、ラテン文字のPと形が同じである。だから、コンスタンティヌスのようなラテン文化圏の人には、キリスト教のモノグラムは、P と X の組み合わせに見えたはずだ。

コンスタンティヌスが夢に見たこの記号が、いかなる願望の隠喩であったかは、精神分析学的に興味のあるテーマである。キリスト教のモノグラムは、ファルス(phallus)あるいはペニス(penis)の頭文字である(そして、睾丸の付いたペニスを横から見た形に似ている)Pにバツ印をつけた記号とも解釈できる。コンスタンティヌスにとって、それは去勢を意味する記号だったのではないだろうか。

なぜ、コンスタンティヌスが去勢の夢を見たのかは、後で考えることにしよう。その後、コンスタンティヌス軍は、数の上では圧倒的に劣勢だったにもかかわらず、マクセンティウス軍をミルヴィオ橋の戦いで破り、最終的に、コンスタンティヌスは、分裂していたローマ帝国を再統一して、ローマ皇帝となることができた。かくして、コンスタンティヌスは、キリストの神に感謝して、キリスト教を公認し、その後、キリスト教は、帝国内で急速に普及した。

こうした歴史的経緯を考えるならば、十字架がキリスト教の象徴になった背景には、イエスが十字架で死んだからという以上の理由があるようだ。去勢の記号としてのXを45度回転させれば、十字架になる。私がこれまで主張してきたように、キリスト教を、人類史の男根期に現れた去勢コンプレックスの宗教と位置付けるならば、なぜ十字架がキリスト教のシンボルとして選ばれることになったのかを理解することができる。

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ラファエロの弟子たちが十六世紀に描いたこの作品では、コンスタンティヌスは空中に十字架を目視したということになっている[2]

ローマ帝国では、長い間、十字架による磔刑が、死刑の方法として採用されてきたが、コンスタンティヌスは、これを廃し、絞首刑を採用した。ここからも、コンスタンティヌスが十字架に聖なる意味を見出していたことがわかる。328年に、コンスタンティヌスの母ヘレナは、エルサレムで聖十字架を発見し、その後、十字架に対する信仰が始まった。

コンスタンティヌスは、325年にニケア公会議を開き、父なる神と子なるイエスと聖霊は全く異なるとするアリウス派を異端として追放し、三位一体の教義を確立した皇帝としても知られている。三位一体とは、神にして人という両義性を帯びたイエスが、神と人の媒介となり、そしてイエスが処刑される、つまり媒介が消去(去勢)されることで、神と人とが一体となる(聖霊降臨)という教義である

カトリックでもギリシャ正教でも、キリスト教徒は、よく指を使って十字を描く。その際、指は親指・人差し指・中指の三指を伸ばし、他の二本を折り曲げることで、三位一体を表す。このことは、十字を描くことと三位一体の教義には密接な関係があることを示している。

十字を描く時、手を、まず上から下へ、次に、カトリックでは左から右へ、ギリシャ正教では右から左へと動かす。どちらの場合でも、上から下に引かれる線は、天上の神と地上の信者を結び付ける媒介的な線、つまりイエスを表し、それに横線を引くことは、イエスの抹殺を表す。キリスト教徒は、十字を切ることで、イエスというファルス的存在を去勢するキリスト教の原点を反復し、神と人との一体を確認しているとみなすことができる。

2. 去勢がファルス崇拝をもたらす

去勢とは、ラカンの用語を使うなら、想像的ファルスの象徴的欠如である[3]。子供は、母にファルスが欠如していることに気が付き、母の想像上のファルスとなることで母の欲望を満たすことを欲望する。他方で、ペニス羨望を持つ母も、子供をそうした想像的ファルスとして所有することを欲望する。

この母子相姦関係は、鏡像的段階のナルシシズムの延長上にある。

近親相姦、ナルシシズム、母親の男根(ファルス)であることは、もしそれが実現すれば、そこでそっくりすべての欲望が終末に達し、何も欲望せず、何も他者に訴えず、そもそも言葉を使う必要がなくなることを意味する。これは人間にとっての一種の死である(ナルシス神話、鏡像段階の袋小路)。したがって、母親と子供の死の抱擁を妨げ、この想像的融合を断ち切る作用をするものが父の名なのである[4]

父の名(Non du Pêre)とは、父から発せられる否(Non du Pêre)でもあり、想像的ファルスによる母子相姦を禁止する。去勢といっても、文字通り息子のペニスを切り取るわけではない。想像的ファルスが象徴的に欠如するだけである。欠如(する)を意味する英語の“want”が同時に欲望(する)という意味を持つことからわかるように、去勢によって作られる欠如が、欠如を埋めようとする欲望を可能にする。

欲望は常に欠如に向けられており、欠如を埋める相手を求めている。だから、性感帯は、身体の縁にある[5]。性交において互いに触れ合うペニスと膣、キスにおいて互いに触れ合う唇や舌、授乳において互いに触れ合う乳首と乳児の口唇、排泄において触れ合う肛門と糞あるいは尿道と尿、視線が出入りする瞼の裂け目、声が出入りする耳たぶや口、これら性感帯に当たる身体の縁は、自分の身体に属すると同時に属さない両義的な性格を帯びる。

社会システムの境界に侵入する両義的存在者が、センセーションを巻き起こすように、身体システムの境界に侵入する両義的存在者は、エロティシズムを惹き起こすが、社会システムの秩序の体現者が、境界上の両義的存在者をスケープゴートとして排除するように、父は去勢により性的享楽を禁止する。

イエスも、いろいろな意味で、境界上の両義的存在者だった。神であると同時に人でもあり、ユダヤ教徒であると同時にユダヤ教徒ではなく、ローマ帝国の内部に存在すると同時に外部に存在した。その両義性ゆえに、スケープゴートとして、屠られることになる。キリスト教徒たちは、イエスを失うという去勢体験を経て初めて、イエスが自分たちのファルスであることに気が付いた。

『聖書』によれば、イエスは処刑後葬られたが、死後復活したがゆえに、墓から亡骸が無くなった。墓は、謂わば、ぽっかり空いた穴になってしまったのだ。

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」[6]

去勢によってぽっかり空いた穴を、ラカンは対象aと名付ける。対象aは、欠如を埋めようとする欲動を惹き起こす。人々は、イエスの亡骸がなくなったことに気がつくと、聖十字架、聖釘、聖槍、聖杯、聖顔布、聖骸布といったイエスの欠如の痕跡を残す聖遺物を、対象aとして、追い求めた。特にヒトラーは、聖槍を手に入れれば世界を征服できるということで、ペニスと形状が似ているその聖遺物を渇望した。

日本神話に登場する英雄、日本武尊(やまとたけるのみこと)にも、類似の話がある。悲劇の死を遂げた後、亡骸が無くなり、復活したとされるのだ。

日本武尊は白鳥となって、陵から出て、ヤマトの国を目指して飛んで行かれた。群臣たちが、そこでその棺を開いてみてみると、清らかな布の衣服のみがむなしく残っていて、屍は無くなっていた。[7]

日本武尊が白鳥と化して降り立ったとされる場所(大阪府堺市西区)は聖地になり、大鳥大社が建てられ、そこの主祭神として祀られ、日本武尊が帯びた剣(草薙剣)は、その後聖遺物のような扱いを受けた。

3. なぜコンスタンティヌスは去勢の夢を見たのか

話をコンスタンティヌスに戻し、なぜ彼がが去勢の夢ないし白昼夢を見たのかを考えよう。フロイトによれば、人が夢を見るのは、願望を充足しようとするためである。同じことは白昼夢についても言える。

これらの空想の内容は、非常にはっきりした動機付けによって支配される。白昼夢は、その人の利己的な野心と権力の欲求やエロティックな願望を満足させる情景や出来事なのだ。若い男では、たいがい野心的な空想が、恋の成就に野心をかけている女たちではエロティックな空想が抜きん出ている。しかし、男においてもしばしばエロティックな欲望が背景にはっきり現れる。すべての英雄的な行動と成功も、もっぱら女性たちの賞賛と好意を得ることを目指している。[8]

男の場合、権力欲も性欲も男性ホルモンであるテストステロンの成せる業である。コンスタンティヌスは、権力への強い欲望を持っていたが、それは、女性にもてたいという欲望と同じであり、したがって、権力は、女性たちの欲望の対象であるペニスによって象徴される。当時、彼の軍は劣勢で、彼の野望は否定されようとしていた。それが、ペニスであるところのPにX(バツ)が付けられていた理由である。

ファルスは、去勢されることで、かえって欲望の対象になる。結局、コンスタンティヌスは、ローマ皇帝という象徴的ファルスとなることができたわけだが、それと同時に、イエス・キリストも真に普遍的なファルスとなることができた。

去勢されたファルスは、去勢されたことで無になるわけだが、それは、たんなる無であってはならず、普遍的な無でなければならない。去勢されたファルスは、ラカンのマテームでは、大文字の他者A(例えば、子供にとっての母)における欠如のシニフィアンSとして、S()と記される。ラカン研究者のリチャードソンとマラーは「S() は、数学の集合論における空集合、つまり一つも要素を含まない集合である[9]」と言うが、これはどう解釈したらよいだろうか。

空集合は、“0” ではなくて、“Ø”と記される。“0”は、ぽっかりと開いた穴の形をしていて、空を表すが、“1”や“2”と同様に、要素の一つとして扱われるので、{0} は空集合ではない。空集合であるためには、“0”から、数字としての特殊性を抹殺しなければならない。斜線は、その抹殺を意味する記号であると解釈できる。この空集合を表す記号は、ファルスのギリシャ語(Φαλλός)の頭文字“Φ”とよく似ている [10]。イエスもまた、処刑されることで、肉的存在という特殊性を抹殺して、ファルスとして普遍的な存在となったのである。

4. 参照情報

  1. Peter Paul Rubens. “The Emblem of Christ Appearing to Constantine ― Constantine’s conversion.” 1622. Licensed under CC-0.
  2. Giulio Romano, Giovanni Francesco Penni and Raffaellino del Colle. “The Vision of the Cross“. 1520–24. Licensed under CC-0.
  3. ラカンの用語法では、想像的対象の象徴的欠如が去勢(castration)であるのに対して、女性におけるペニスの欠如のような、象徴的対象の現実的欠如は、剥奪(privation)、子供が空想する乳房の喪失のような、現実的対象の想像的欠如は、挫折(frustration)と呼んで区別される。つまり、ラカンにとって去勢とは、文字通りペニスを切り落とす現実的欠如でもなければ、ペニスがなくなるかもしれないという想像でもなく、母のペニスになる想像が、父によって、言語的・象徴的に禁止されることなのだ。
  4. 石田 浩之.『負のラカン―精神分析と能記の存在論』. 誠信書房 (1992/04). p.149.
  5. Jacques Lacan. Écrits. Seuil; Champ Freudien edition (January 1, 1966). p. 817-818. ジャック・ラカン.『エクリ(3)』. 弘文堂 (1981/5/20). p. 329.
  6. 「マタイによる福音書」28:05-07.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  7. “日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺[木親]而視之、明衣空留而、屍骨無之。” 『新編日本古典文学全集 (2) 日本書紀 (1)』. 小学館 (1994/03). 小島 憲之, 西宮 一民, 毛利 正守, 直木 孝次郎, 蔵中 進. p.386.
  8. “Der Inhalt dieser Phantasien wird von einer sehr durchsichtigen Motivierung beherrscht. Es sind Szenen und Begebenheiten, in denen die egoistischen Ehrgeiz- und Machtbedürfnisse, oder die erotischen Wünsche der Person Befriedigung finden. Bei jungen Männner stehen meist die ehrgeizigen Phantasien voran, bei den Frauen, die ihren Ehrgeiz auf Liebeserfolge geworfen haben, die erotischen. Aber oft genug zeigt sich auch bei den Männern die erotishe Bedürftigkeit im Hintergrunde; alle Heldentaten und Erfolge sollen doch nur um die Bewunderung und Gunst der Frauen werben.” Sigmund Freud. “Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse.” in Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband. Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.11. p. 95.
  9. John P. Muller & William J. Richardson. Lacan and Language: A Reader’s Guide to Ecrits. Intl Universities Pr Inc. 1994/06/01. p. 409.
  10. 姉歯一彦「優しい類人猿」in 小出 浩之『ラカンと臨床問題』 p. 212.