定義とは何か
「定義とは何か」という問いは答えにくい問いである。この問いは定義の定義を求めているのだが、定義を定義しようとするならば、あらかじめ定義とは何かが分かっていなければならないからだ。この循環のディレンマから抜け出るために、いったん伝統的な方法で定義を定義した後で、その妥当性を検討する方法をとることにしよう。
1. 伝統的定義からの出発
定義は、アリストテレス以来、伝統的には、類と種差を定義項とすることにより概念の外延(集合)と内包(性質)を定めることだとされている。例えば、「人間とは理性的な動物である」という定義において、人間という種は、動物という類と理性という種差で定義される。
定義は、概念の説明であるが、他の説明と違って、「理性的な動物は人間のみである」というように、逆の命題も真である。すなわち、定義は同語反復的で分析的という特徴を持つ。だから、定義は、「概念の説明」という類と「分析性」という種差で定義される。実は説明と分析性は両立しないのだが、この点は後で論じることにする。
2. 伝統的ピラミッドモデルの問題点
人間は動物という類のひとつの種だが、動物は生物という類の種である。このように、類/種の区別は相対的である。一般に外延が広くなるほど内包は狭くなるので、つまり逆に言えば、「動物でかつ理性的でかつ…」というように多くの性質を持てば持つほど普遍的ではなくなるので、普遍を上、個物を下に位置付けると、内包という観点からは、類/種の階層はピラミッド型になる。ピラミッドの頂点には、最も普遍的な類概念があるはずで、ポルピュリオスの樹では、最高類は実体ということになっている。
では概念の本質は、このようなピラミッドへの位置付けによって定義されるのであろうか。定義における主語/述語関係を主体/役割関係で考えてみよう。私たちは、自分の肩書きを組織という類とそこでのポジションという種差で定義する習慣がある。例えば、「A大学経済部経営学科」とか「B株式会社研究開発部人事課」というように。しかしこれで自分の本質が定義されていると考える人がいるなら、その人はよほどの組織埋没型人間である。情報革命は、私たちの社会のあり方を、上意下達のヒエラルヒーから双方向のネットワークへと脱中心化した。言葉の定義も、もっとネットワーク時代にふさわしいものにするためには、類/種のヒエラルヒーを脱構築する必要がある。
3. ピラミッドモデルからネットワークモデルへ
まず、類と種差の違いを疑ってみよう。一般に類は種差を外延的に含むとされる。しかし「理性的な動物」という概念において、「種差=理性的」は本当に「類=動物」に含まれるのであろうか。もし理性的なコンピュータとか理性的な神とかを想定するならば、「種差=理性的」は「類=動物」の階層下に収まらなくなる。その場合、「理性的存在者」を類として、「動物」を種差とすることもできるのである。
「A大学経済部経営学科」や「B株式会社研究開発部人事課」の場合も、組織を類として専門を種差とするタテ社会的な考えを捨てて、専門を類として組織を種差とするヨコ社会的な考えで自分を定義することもできる。ヨコ社会的に類と種差を逆転させれば、組織に縛られることなく、所属を変えていく生き方もできる。
ウェッブ上でのハイパーリンクを使ったディレクトリ横断的なネットサーフィンは、そうした生き方と似ている。しかしネットワーク化される以前のコンピュータは、ディレクトリ・ツリーに象徴されるように、ヒエラルヒー的なファイル管理を行っていた。そうした管理は一見整然としているように見えるが、あるファイルが内容的に同じディレクトリ内にある他のファイルよりも、別のディレクトリ内にある他のファイルに近いということはよくある。そうした不便さを解消しようとすれば、階層構造を無視したハイパーリンクのネットワークを作らなければならない。
定義項の構成要素である類と種差に階層差がないだけでなく、被定義項は定義項以外のさまざまな述語を定義項の候補として持っている。例えば、「人間」には、「理性的な動物」以外にも、「有限な迷う存在」とか「泣いたり笑ったりできる感情的生物」などの他の定義もある。定義する人によっては、そうした述語のほうが本質的かもしれない。同様に、個人は、企業の一社員であるだけでなく、家庭に帰れば子供たちの父親であったり、球場に行けば熱烈なタイガースファンであったりする。職場の上司にとってはともかくも、子供たちやファンクラブの人たちにとっては、後者の属性の方が本質的に見える。
意味は近接する複数の意味によって定義されると同時にそれらを定義し返すという双方向的な差異のネットワークの中にある。その近接の度合いは、人によって違っている。この違いのおかげで、人々もまた、社会システムというメタレベルでの差異のネットワークの中にある。だから定義は、分析的であるはずなのに、常に他のようにも定義可能だという他者性を含んでいる。
私は当初「定義」を「分析的な概念の説明」と定義した。しかしここにはあるディレンマがある。もし定義が分析的で同語反復的ならば、それは語るに値しないし、説明の必要もないほど明らかであるはずだ。もし定義が語るに値するならば、それは分析的ではないということになる。このディレンマは、社会的なメタレベルのネットワークで考えれば、解決できる。定義は定義する人にとって自明であるが、定義が常に他のようにも可能であるがゆえに、他者にとっては説明を要するのである。
ディスカッション
コメント一覧
「常に他のようにも定義可能だ」とするならば、定義は普遍ではなく、定義する個人によって違っていてもよい、ということになってしまう。そうしたら、同じ事柄を論じるに当たって、不便は生じないだろうか。もっとも実際には、各自がそれぞれ異なった定義をもちながら、論じあっているのだが。そのことは、辞書によって定義がまちまちであることによっても説明がつきます。一方、数学や自然科学の用語はどうなるのであろうか。数学の定義も人によってまちまちなのであろうか。数学は「分析的であるはずなのに、常に他のようにも定義可能だ」という事態に反するのではないでしょうか。(もし数学が分析的でないとしたら、その場合には数学は何であろうか)
「もし定義が分析的で同語反復的ならば、それは語るに値しないし、説明の必要もないほど明らかであるはずだ。もし定義が語るに値するならば、それは分析的ではないということになる。」について:
では、定義が分析的で同語反復的(=普遍的)でなければならない数学はいかにして分析的から外にでていき、またいかにして普遍的・分析的な数学のうちに入り込むことができるのであろうか。つまり、定義が同語反復的ならば、人はいかにしてその同語反復的な世界に入ることができるのであろうか。定義は定義を知っている人によってのみ知ることができるのであるから、定義を知らない人にとっては、定義は永遠に未知のものになってしまうことになる。「説明」とは定義される当の概念の外にでることであるはずであるから。繰り返して言えば、人はいかにして数学上の定義を知るに至るのであろうか。またそれを他人に説明することができるのであろうか。この数学上のディレンマは社会的なメタレベルのネットワークで解決できるであろうか。「説明と分析性は両立しない」という立場からどのような解決方があるでしょうか。
言葉をどう定義するかは、定義する人の勝手ですが、一度定義すると、理論の整合性を維持するために、その定義の分析性を維持しなければなりません。例えば、「赤は停止」という信号の色の定義には、何の必然性もありませんが、一度そのように定義したならば、その約束を守り続けなければいけません。さもなければ物理的もしくは法的に痛い目にあいます。交通規則は、規約の体系に過ぎませんが、そこに必然性がないわけではありません。
数学や論理学は、正しい前提から間違った前提を導かないための学問であり、前提が正しいかどうかは問題にしません。ユークリッド幾何学は、第5公準の上に成り立っていますが、第5公準を否定すれば、非ユークリッド幾何学が成り立ちます。数学もまた「他のようでもありうる」という他者性を持っています。
今度は以下のようにもう一度問うてみます。
「言葉をどう定義するかは、定義する人の勝手ですが、一度定義すると、理論の整合性を維持するために、その定義の分析性を維持しなければなりません。例えば、「赤は停止」という信号の色の定義には、何の必然性もありませんが、一度そのように定義したならば、その約束を守り続けなければいけません。さもなければ物理的もしくは法的に痛い目にあいます。交通規則は、規約の体系に過ぎませんが、そこに必然性がないわけではありません。」について:
すると、問題は、言葉を最初に定義した人が、それを「どのように」他人に伝達したか、また他人はそれを「どのように」理解したか、ということになります。
ある人が「赤は停止」と信号を定義したとしても、別の人には自明のことではないからです。信号の定義は他の人が納得しなければ、意味がないからです。「交通規則」といっても、国によって別々です。だから「規約の体系」といっても、そのことを他の人たちが承認しなければ意味がありません。ある人が外国に行って、そこで法律を犯したからといって、必ずしも罰せられるとは限りません。治外法権ということもあるからです。この場合は力の関係で決着せざるをえません。明治時代の人にとって治外法権は大変な問題だったはずです。このようにある人が何かを定義することと他の人がそれを認めることとは別の事柄です。そこで、ある人の定義を他人が理解することがまず問題です。
本人には明晰で、分析的ではあっても他人には明晰でも、分析的でもない。他人にも明晰で、分析的であるためには、「どのように」したらそのことは可能でしょうか。同語反復の世界にいる人が、つまり、自分だけの世界に閉じこもっている人が、「どのようにして」他の、自分だけの世界に閉じこもっている人に、定義を理解させることができるのでしょうか。簡単に言えば、どのようにして言葉(定義)を他人に伝達できるのでしょうか。5+7=12という法則をどのようにして他人に理解させることができるのでしょうか。というのは、他人はこれらの言葉や法則を知らないのですから。
「数学や論理学は、正しい前提から間違った前提を導かないための学問であり、前提が正しいかどうかは問題にしません。ユークリッド幾何学は、第5 公準の上に成り立っていますが、第5公準を否定すれば、非ユークリッド幾何学が成り立ちます。数学もまた「他のようでもありうる」という他者性を持っています。」について:まず、哲学は無前提の学問だと思っています。
非ユークリッド幾何学はユークリッド幾何学を前提にして初めて、成立すると思います。もし先に非ユークリッド幾何学が成立していたら、なぜそれを用いなかったのでしょうか。するとユークリッド幾何学が用いられているのは、偶然ということにならないでしょうか。
学問的な論争は、定義そのものではなく、定義を前提にした理論に向けられます。「止まれの信号を赤色にするのか黒色にするのか」とか、「”5”を日本語で”五”と呼ぶのか、英語で”five”と呼ぶのか」について論争することはできますが、それはあくまでも趣味の問題であって、学問的真理についての論争ではありません。
私の質問の不手際のために議論がずれてしまいましたので、すべてを元にもどして、以下のような質問にします。「「定義とは何か?」という問いは答えにくい問いである。この問いは定義の定義を求めているのだが、定義を定義しようとするならば、あらかじめ定義とは何かが分かっていなければならないからだ。この循環のディレンマから抜け出るために」について:
この循環のディレンマは「あらかじめ定義とは何かが分かっていなければならない」を意味し、のちには「分析的」と言い換えられています。だから「同語反復的」とも言われています。そうすると、「この循環のディレンマから抜け出る」とは、「分析的」、「同語反復的」から抜け出ることになります。それはどういうことを意味するのでしょうか。
言葉をどう定義するかは、定義する人の勝手ですが、他者と議論する時、他者の定義に従わないと議論になりません。だから、伝統的な定義の定義から始めたわけです。私が第65号で問題にしたのは、伝統的な定義の定義そのものではなくて、伝統的な定義の定義が前提としている言語モデルであり、これについての議論は分析的ではなくて、総合的です。
種・類という術語は、ヨーロッパ系の言語では何というのですか。またこれらの術語は、どの学問分野で使われ始めたものでしょうか。その概念は生物分類にも適用されていますが、他国語でも生物の「種」と同じ語が当てられているのでしょうか。
種/類はgenus/speciesに相当します。
生物分類学では分類の各階層がつぎの名で呼ばれています。
kingdom-phylum/division-class-order-family-“genus”-species
これが日本では、つぎのようになります。
界-門-綱-目-科-“属”-種
他方、数学基礎論の分野では集合論における数々のパラドクスを回避するために、ラッセルが「階」および「級」の概念を提案しました。ただし私はこれを初学者向けの本で知ったところで、彼と哲学者ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マスマティカ』をまだ手にしていません。
私はこれらの術語の関係について、つぎのように解釈していました。すなわち「”類”-種」が科学哲学あるいは数学基礎論の考え方であり、この関係が「階」あるいは「級」のどちらか一方あるいは両方に対応し、それが生物分類において隣接する階層「”属”-種」「科-属」などに適用される。したがって”類”と”属”は異なる分野の術語であり、「”類”-種」の種と「”属”-種」の種とは別の概念である、と。そうであるならば、ヨーロッパ系の言語では両者が別の語で表されている可能性が考えられます。
ところで古代ギリシアの音楽理論では、ある種の音階をオクターブ種と呼び、オクターブ種の上位に genos(複数形は英語と同じくgenera)を置いています。当時の音楽理論は哲学の一領域だったこと、および生物分類学がアリストテレスに遡れることから、これらの術語が無関係であるはずがありません。私の興味は、もっぱら「”類”-種」「”属”-種」「genos-オクターブ種」の関係にあります。質問の背景には、以上のことがありました。
集合論のパラドックスを回避するために導入された階型と音階との間に論理的に同一の構造があるとは思えません。階型の場合、n+1階のメタレベルはn階の対象レベルに対して「…について」という関係を持つけれども、音階の場合は、たんなる分類でしかないからです。
古代ギリシアの音楽理論におけるgenosは、英語圏ではおそらくgenusと訳されていると推測します。これに対して日本では、そのままゲノスとされる場合と稀に類と訳される場合とがあります。オクターブ種という術語を用いる一方で、ゲノスを日本語にしない理由がどこにあるか今のところ調べようがありません。また類という術語が件の「類-種」に基づいて採用されたのか、「種類」という語から発想されたものかも分かりません。またオクターブ種がオクターブ属と呼ばれる場合もあって、私の混乱に輪を賭けています。前回の質問の繰り返しになりますが、 genus/speciesは生物分類学では属/種と訳され、哲学では類/種と訳されるのでしょうか。あるいはgenus/speciesは生物分類学における属/種であり、哲学における類/種はそれらとは異なる言葉なのでしょうか。
永井さんはつぎのように書いていらっしゃいます。
「人間は動物という類のひとつの種だが、動物は生物という類の種である。このように、類/種の区別は相対的である。」
これからすると、後者のような気がしますが。もし後者であるなら、英語で何というのか教えてください。
「この文は間違っている」という文によって言及されている対象がn階、言及している文それ自体がn+1階ということですよね。これに対して級(級型?)の場合は、単なる分類なのでしょうか。またそれを集合と部分集合の関係として理解すればよいのでしょうか。
私が言っている類と種は、アリストテレス以来の伝統となっている哲学的な区別です。生物学者の分類が絶対的な区別であるのに対して、類と種は相対的な区別です。
“級”というのは、たぶん”class”のことでしょう。”class”は、集合(set)と同じで、また単純な主語述語関係でならば、階(order)とも同じと考えてよいと思います。クレタ人の嘘つきで知られるゼノンのパラドックスもラッセルの集合論のパラドックスも、自己言及的だからパラドックスになるわけで、自己言及的でないたんなる分類では、このようなパラドックスは生じません。
私は学校を卒業して以来長いこと「定義」とは何かのような思考から離れていた社会人です。最近、定義について議論する機会があり、現在では数十年前と「定義」観に相当の変化あるいは進歩があったのか知りたいと思いグーグルからこのコーナーを発見しました。読み終わるとコメント欄がありました。折角なので私の疑問を書きたいと思います。
昔、ヴィトゲンシュタインは著書「哲学探究」において、「語の意味とは言語の中におけるその用法である」と主張し、ある種の語(例えば「ゲーム」)の用法はその概念の外延が何らかの限界によって閉ざされていないという意味でクローズドされておらず、我々はクローズドされていないことを必要としており、その語については十分に定義することは出来ないと主張しました。
そこで、私は「芸術」などの価値に関わる語についても、その定義域はオープンであり、その外延は定まっておらず、内包的定義も不可能であろうと考えてきました。
実際に私たちがある語を定義しようとする際、私たちは何のためにその定義を行うのかを考え、この場合どのような定義を与えるべきかを注意深く決定する必要があります。その語が日常言語の中で使われているなら、その用法の持つ本質的意義に出来る限り近いものにしようとし、その定義によって有効で生産的な議論を可能にしようとします。
定義は、よく言われるように、形式的には出発ですが、学問は定義を完了したときには事実上完成した‐ないしその相当部分を成し遂げたように見えます。例えば、論理学でシェーファーの棒p|qを彼が?p∨?qと定義したのは、そうすることが単一の公理のもとにオルガニックな演繹体系を作るという彼の目的に合致したからであり、彼の定義は彼の殆ど終着点に達しているかに見えます。
私はこのように考え、それにあまり疑問をもちませんでした。この考えは現在ならどのように修正されるものでしょうか?
「定義とは何か」を問うよりも「なぜ定義が必要なのか」を問う必要があるというのは、その通りであり、私も、結論をその観点から出しました。
なるほど
論争にもならない論争をして君達は何をやっているんだ?
屁理屈を並べる事が君達の仕事か?w