定義とは何か

2016年10月22日

「定義とは何か」という問いは答えにくい問いである。この問いは定義の定義を求めているのだが、定義を定義しようとするならば、あらかじめ定義とは何かが分かっていなければならないからだ。この循環のディレンマから抜け出るために、いったん伝統的な方法で定義を定義した後で、その妥当性を検討する方法をとることにしよう。

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青色のボックス内の概念はピラミッドモデルによって階層付けられているが、オレンジ色のボックス内の概念はネットワークモデルによってつながっている。“Hierarchical Model Mental Lexicon” by Nathanael Crawford is licensed under CC-BY-SA. Adapted from the Model of Collins, A. M., & Quillian, M. R. (1969). ”Retrieval time from semantic memory”. Journal of Verbal Learning & Verbal Behavior, 8(2), 240-247. doi:10.1016/S0022-5371(69)80069-1.

1. 伝統的定義からの出発

定義は、アリストテレス以来、伝統的には、類と種差を定義項とすることにより概念の外延(集合)と内包(性質)を定めることだとされている。例えば、「人間とは理性的な動物である」という定義において、人間という種は、動物という類と理性という種差で定義される。

定義は、概念の説明であるが、他の説明と違って、「理性的な動物は人間のみである」というように、逆の命題も真である。すなわち、定義は同語反復的で分析的という特徴を持つ。だから、定義は、「概念の説明」という類と「分析性」という種差で定義される。実は説明と分析性は両立しないのだが、この点は後で論じることにする。

2. 伝統的ピラミッドモデルの問題点

人間は動物という類のひとつの種だが、動物は生物という類の種である。このように、類/種の区別は相対的である。一般に外延が広くなるほど内包は狭くなるので、つまり逆に言えば、「動物でかつ理性的でかつ…」というように多くの性質を持てば持つほど普遍的ではなくなるので、普遍を上、個物を下に位置付けると、内包という観点からは、類/種の階層はピラミッド型になる。ピラミッドの頂点には、最も普遍的な類概念があるはずで、ポルピュリオスの樹では、最高類は実体ということになっている。

では概念の本質は、このようなピラミッドへの位置付けによって定義されるのであろうか。定義における主語/述語関係を主体/役割関係で考えてみよう。私たちは、自分の肩書きを組織という類とそこでのポジションという種差で定義する習慣がある。例えば、「A大学経済部経営学科」とか「B株式会社研究開発部人事課」というように。しかしこれで自分の本質が定義されていると考える人がいるなら、その人はよほどの組織埋没型人間である。情報革命は、私たちの社会のあり方を、上意下達のヒエラルヒーから双方向のネットワークへと脱中心化した。言葉の定義も、もっとネットワーク時代にふさわしいものにするためには、類/種のヒエラルヒーを脱構築する必要がある。

3. ピラミッドモデルからネットワークモデルへ

まず、類と種差の違いを疑ってみよう。一般に類は種差を外延的に含むとされる。しかし「理性的な動物」という概念において、「種差=理性的」は本当に「類=動物」に含まれるのであろうか。もし理性的なコンピュータとか理性的な神とかを想定するならば、「種差=理性的」は「類=動物」の階層下に収まらなくなる。その場合、「理性的存在者」を類として、「動物」を種差とすることもできるのである。

「A大学経済部経営学科」や「B株式会社研究開発部人事課」の場合も、組織を類として専門を種差とするタテ社会的な考えを捨てて、専門を類として組織を種差とするヨコ社会的な考えで自分を定義することもできる。ヨコ社会的に類と種差を逆転させれば、組織に縛られることなく、所属を変えていく生き方もできる。

ウェッブ上でのハイパーリンクを使ったディレクトリ横断的なネットサーフィンは、そうした生き方と似ている。しかしネットワーク化される以前のコンピュータは、ディレクトリ・ツリーに象徴されるように、ヒエラルヒー的なファイル管理を行っていた。そうした管理は一見整然としているように見えるが、あるファイルが内容的に同じディレクトリ内にある他のファイルよりも、別のディレクトリ内にある他のファイルに近いということはよくある。そうした不便さを解消しようとすれば、階層構造を無視したハイパーリンクのネットワークを作らなければならない。

定義項の構成要素である類と種差に階層差がないだけでなく、被定義項は定義項以外のさまざまな述語を定義項の候補として持っている。例えば、「人間」には、「理性的な動物」以外にも、「有限な迷う存在」とか「泣いたり笑ったりできる感情的生物」などの他の定義もある。定義する人によっては、そうした述語のほうが本質的かもしれない。同様に、個人は、企業の一社員であるだけでなく、家庭に帰れば子供たちの父親であったり、球場に行けば熱烈なタイガースファンであったりする。職場の上司にとってはともかくも、子供たちやファンクラブの人たちにとっては、後者の属性の方が本質的に見える。

意味は近接する複数の意味によって定義されると同時にそれらを定義し返すという双方向的な差異のネットワークの中にある。その近接の度合いは、人によって違っている。この違いのおかげで、人々もまた、社会システムというメタレベルでの差異のネットワークの中にある。だから定義は、分析的であるはずなのに、常に他のようにも定義可能だという他者性を含んでいる。

私は当初「定義」を「分析的な概念の説明」と定義した。しかしここにはあるディレンマがある。もし定義が分析的で同語反復的ならば、それは語るに値しないし、説明の必要もないほど明らかであるはずだ。もし定義が語るに値するならば、それは分析的ではないということになる。このディレンマは、社会的なメタレベルのネットワークで考えれば、解決できる。定義は定義する人にとって自明であるが、定義が常に他のようにも可能であるがゆえに、他者にとっては説明を要するのである。

読書案内
書名 形而上学〈上〉
著者 アリストテレス 他
出版社と出版時期 岩波書店, 1959/01
書名 形而上学〈下〉
著者 アリストテレス 他
出版社と出版時期 岩波書店, 1961/01