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他者は存在するのか

2000年9月2日

自分に意識があるということは確実な事実である。では他者にも同様の意識があるということをどうやって証明したらよいのであろうか。この証明に行き詰まる時、ひょっとしたら、意識がある存在者は自分だけではないだろうかという独我論が頭をもたげて来る。

Image by Gerd Altmann from Pixabay modified by me

1. 哲学者を悩ませる独我論

今あなたは、アニメ映画を見ているとしよう。あなたは映画の主人公と自己同一し、主人公とともに恋人の死に涙する。しかしふと我に返ると、映画の登場人物はすべて架空の存在者であり、自分が見ていたものは、たんにブラウン管に映し出された映像にすぎないことに気がつく。

これと同じことを現実の(とこれまで考えていた)世界にも応用してみよう。そして、自分が今楽しくおしゃべりをしている友人も実は幻ではないだろうかと疑ってみよう。友人は、テレビの登場人物と違って、自分の質問に答えてくれる。しかしインタラクティヴTVが登場すれば、画面の背後に、本当の人間がスタンバイしているのか、たんにできの良いコンピュータと会話しているだけなのかわからなくなる。

疑惑はどんどん広がる。この文を書いている永井俊哉もひょっとすると意識のない作文マシーンではないだろうか、自分に他者の経験を伝えるマスコミはすべて自分をだましてきたのではないかというように。そして最後は、「存在するのは自分ひとりだけなのか?」ということになる。

普通の人は誰もまじめにこんなことを考えない。しかし哲学者というのは奇妙な人種で、この問題で真剣に悩みつづける人もいるのである。

2. 類推説による他我証明

独我論を否定するためによく持ち出されるのが、次のような類推説である。例えば、他者の歯の痛みを理解することは、次のような類推から可能だとされる。

私は歯の痛みを感じる。

私は歯が痛い時、一定の振る舞いBを行う。

他者が一定の振る舞いBを行う。

その人は私と同じような歯の痛みを感じているに違いない。

このように、類推説は、1:3=2:x という比例式から x=6 を推論するように、他者の心を類推する。

この類推説に対して、二つの疑問を抱かざるをえない。

第一に、自我の存在が自明であるのに対して、他我の存在は数学の問題を解くような形でしか理解できないほど自明ではないのか。

第二に、他者の存在を認識することは、他者と同じ経験、同じ思考、同じ振る舞いをすることなのか。

私の答えはともに否である。

3. 他我とは他の可能的選択である

私が他者の歯痛を直接感じることは、生理的にというよりは論理的に不可能である。もちろん類推説はそのようなことを主張していない。自我が感じるのと同じような歯痛を他我も感じるであろうと類推することはできると言っているだけである。だがそれにしても、自分と同じような経験をし、同じようなことを考え、同じような行為をする存在者は他者の名に値するだろうか。

忠実な部下のことを「右腕」と呼ぶことがある。右腕は脳が命令した通りにしか動かないから、他者として意識されないし、忠実な部下も上司が命令した通りにしか動かないから、組織という拡大身体の一部としてしか意識されない。

私がある行為者を他者として意識するのは、その行為者が、私が選択するのとは他のように選択しうるからである。忠実だった部下に裏切りの兆しが見えたとき、初めてその部下は私にとって他者になりうる。通常身体においても、拡大身体においてと事情は同じである。脳梁離断手術を施されると、右脳と左脳がそれぞれ管轄下の身体を勝手に動かすため、二つの人格が一つの身体に共存することになる。

私は、「意識とは何か」で、意識があるかどうかは、選択において迷うことができるかどうかで決まると主張した。意識ある存在者は迷った挙げ句何もしないこともある。しかし何もしないことも一つの決断だから、常に何らかの選択が行われていることになる。その際、選択肢の複数性ゆえに、私が選ぶのとは他のようにも選ぶことが可能だ。この可能的な他の私こそ、自我という明白な事実とともに等根源的に明白に与えられる他者なのである。私は迷うという行為において、他者とのコミュニケーションを経験しているのである。

もちろん可能的他者と現実的他者は同じではない。私にとって、他我一般が自我と同じく自明な存在者だとしても、目の前で現出する特定の身体的振る舞いがどのような動機で行われているかを理解するには、推論によらざるをえない。ここで独我論を論破しようとする人は「私の他者理解は、間接的な推論に基づいているから、不確定性が残ってしまう」と苦悩する。

ここで次のように発想を逆転させよう。私は他者を完全に理解することができない。他者の心には不確定な不透明さがある。だから他者の振る舞いは私には予測不可能で、コントロールできない。しかしだからこそその人は私にとって他者なのだ。もし私がその行為者を心の底まで知り尽くし、その人を意のままに動かすことができるのなら、その行為者は拡大身体の一部であって、他者ではない。

4. 不確定性の肯定が独我論を否定する

独我論を否定するために他者の存在を証明しようとすることは、よく考えるとこっけいなことである。証明するということは、必然的である、つまりこうであってその「他がない」ということを主張することで、それは他者の抹殺だからである。他者認識はあいまいな類推で十分なのである。

機械論的決定論と観念論的独我論は、他者性の否定という近代哲学の共通の幹から出てきた二つの枝である。不確定性のパラダイムに立脚すれば、他我のいない自我は、迷わない意識と同様にナンセンスであることが洞察できる。

5. 読書案内

省察』(初版 1641年)は、近代意識哲学の開祖であるデカルトの哲学的主著。デカルトは、感覚への懐疑から始めて、数学のような明晰な学問の信憑性すらも、全能の神によって騙されているかもしれないとして疑った末に、「自分は存在する」という命題だけは、絶対に疑うことができないという結論に到達する。デカルトによれば、「精神は身体よりも容易に知られる」。デカルトは、自分が他者と思っている人間は、実は自動機械ではないだろうかとか、自分が肉体を所有していると思い込んでいるのは幻想に過ぎないのではないだろうかと疑っている。だから、絶対に確実な存在である自分とは、あくもでも自分の意識なのである。