9月 022000
 

自分に意識があるということは確実な事実である。では他者にも同様の意識があるということをどうやって証明したらよいのであろうか。この証明に行き詰まる時、ひょっとしたら、意識がある存在者は自分だけではないだろうかという独我論が頭をもたげて来る。

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1. 哲学者を悩ませる独我論

今あなたは、アニメ映画を見ているとしよう。あなたは映画の主人公と自己同一し、主人公とともに恋人の死に涙する。しかしふと我に返ると、映画の登場人物はすべて架空の存在者であり、自分が見ていたものは、たんにブラウン管に映し出された映像にすぎないことに気がつく。

これと同じことを現実の(とこれまで考えていた)世界にも応用してみよう。そして、自分が今楽しくおしゃべりをしている友人も実は幻ではないだろうかと疑ってみよう。友人は、テレビの登場人物と違って、自分の質問に答えてくれる。しかしインタラクティヴTVが登場すれば、画面の背後に、本当の人間がスタンバイしているのか、たんにできの良いコンピュータと会話しているだけなのかわからなくなる。

疑惑はどんどん広がる。この文を書いている永井俊哉もひょっとすると意識のない作文マシーンではないだろうか、自分に他者の経験を伝えるマスコミはすべて自分をだましてきたのではないかというように。そして最後は、「存在するのは自分ひとりだけなのか?」ということになる。

普通の人は誰もまじめにこんなことを考えない。しかし哲学者というのは奇妙な人種で、この問題で真剣に悩みつづける人もいるのである。

2. 類推説による他我証明

独我論を否定するためによく持ち出されるのが、次のような類推説である。例えば、他者の歯の痛みを理解することは、次のような類推から可能だとされる。

私は歯の痛みを感じる。

私は歯が痛い時、一定の振る舞いBを行う。

他者が一定の振る舞いBを行う。

その人は私と同じような歯の痛みを感じているに違いない。

このように、類推説は、1:3=2:x という比例式から x=6 を推論するように、他者の心を類推する。

この類推説に対して、二つの疑問を抱かざるをえない。

第一に、自我の存在が自明であるのに対して、他我の存在は数学の問題を解くような形でしか理解できないほど自明ではないのか。

第二に、他者の存在を認識することは、他者と同じ経験、同じ思考、同じ振る舞いをすることなのか。

私の答えはともに否である。

3. 他我とは他の可能的選択である

私が他者の歯痛を直接感じることは、生理的にというよりは論理的に不可能である。もちろん類推説はそのようなことを主張していない。自我が感じるのと同じような歯痛を他我も感じるであろうと類推することはできると言っているだけである。だがそれにしても、自分と同じような経験をし、同じようなことを考え、同じような行為をする存在者は他者の名に値するだろうか。

忠実な部下のことを「右腕」と呼ぶことがある。右腕は脳が命令した通りにしか動かないから、他者として意識されないし、忠実な部下も上司が命令した通りにしか動かないから、組織という拡大身体の一部としてしか意識されない。

私がある行為者を他者として意識するのは、その行為者が、私が選択するのとは他のように選択しうるからである。忠実だった部下に裏切りの兆しが見えたとき、初めてその部下は私にとって他者になりうる。通常身体においても、拡大身体においてと事情は同じである。脳梁離断手術を施されると、右脳と左脳がそれぞれ管轄下の身体を勝手に動かすため、二つの人格が一つの身体に共存することになる。

私は、「意識とは何か」で、意識があるかどうかは、選択において迷うことができるかどうかで決まると主張した。意識ある存在者は迷った挙げ句何もしないこともある。しかし何もしないことも一つの決断だから、常に何らかの選択が行われていることになる。その際、選択肢の複数性ゆえに、私が選ぶのとは他のようにも選ぶことが可能だ。この可能的な他の私こそ、自我という明白な事実とともに等根源的に明白に与えられる他者なのである。私は迷うという行為において、他者とのコミュニケーションを経験しているのである。

もちろん可能的他者と現実的他者は同じではない。私にとって、他我一般が自我と同じく自明な存在者だとしても、目の前で現出する特定の身体的振る舞いがどのような動機で行われているかを理解するには、推論によらざるをえない。ここで独我論を論破しようとする人は「私の他者理解は、間接的な推論に基づいているから、不確定性が残ってしまう」と苦悩する。

ここで次のように発想を逆転させよう。私は他者を完全に理解することができない。他者の心には不確定な不透明さがある。だから他者の振る舞いは私には予測不可能で、コントロールできない。しかしだからこそその人は私にとって他者なのだ。もし私がその行為者を心の底まで知り尽くし、その人を意のままに動かすことができるのなら、その行為者は拡大身体の一部であって、他者ではない。

4. 不確定性の肯定が独我論を否定する

独我論を否定するために他者の存在を証明しようとすることは、よく考えるとこっけいなことである。証明するということは、必然的である、つまりこうであってその「他がない」ということを主張することで、それは他者の抹殺だからである。他者認識はあいまいな類推で十分なのである。

機械論的決定論と観念論的独我論は、他者性の否定という近代哲学の共通の幹から出てきた二つの枝である。不確定性のパラダイムに立脚すれば、他我のいない自我は、迷わない意識と同様にナンセンスであることが洞察できる。

読書案内

『省察』(初版 1641年)は、近代意識哲学の開祖であるデカルトの哲学的主著。デカルトは、感覚への懐疑から始めて、数学のような明晰な学問の信憑性すらも、全能の神によって騙されているかもしれないとして疑った末に、「自分は存在する」という命題だけは、絶対に疑うことができないという結論に到達する。デカルトによれば、「精神は身体よりも容易に知られる」。デカルトは、自分が他者と思っている人間は、実は自動機械ではないだろうかとか、自分が肉体を所有していると思い込んでいるのは幻想に過ぎないのではないだろうかと疑っている。だから、絶対に確実な存在である自分とは、あくもでも自分の意識なのである。

書名省察・情念論
著者デカルト 他
出版社と出版時期中央公論新社, 2002/06
書名世界の共同主観的存在構造
著者広松 渉
出版社と出版時期講談社, 1991/11
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私が書いた本

  12 コメント

  1. 「この可能的な他の私こそ、自我という明白な事実とともに等根源的に明白に与えられる他者なのである」
    これは、理解不能です。この主張は、な他我の存在を前提にして成り立つ議論でしょう。他者のというのは、まさに、私の主観のに、私の主観と同等な構造を持った、世界内存在としてのな他我があるか、どうか、ということ、そして、もし仮に、そんなものがあったとしても、それをどうやて、了解しているのかということ、ではないでしょうか?(われわれは、のにしかを見出す能力しかないわけですから、のにあるとは、どういう意味かということなります。もちろん、ここで言っているは、認識論的構造としてのそれであって、物理学的世界のことではありません。)解くべきの答えを前提にしているように思われます。
    「ここで独我論を論破しようとする人は「私の他者理解は、間接的な推論に基づいているから、不確定性が残ってしまう」と苦悩する。」
    これも、理解不能です。「間接的な推論」という言い回しは、先の例と同様に、な他我の存在を前提にして成り立つ事態だと思われます。主観のに他我が無いのなら、推論ではなく、他我のということになります。そもそも、主観的世界には、などと言う概念は、存在しない、というのが、基本的に現象学の見方なのではないでしょうか?(それとも、やっぱり、を想定しないのは、不自然すぎますか?)

  2. 他者を論じる時には、次の四つの問題を区別しましょう。四つとも違う問題です。
    1.可能的他者の存在の認識
    2.可能的他者の認識
    3.現実的他者の存在の認識
    4.現実的他者の認識
    TaFuさんの関心は、3にあると思います。そこで、1→2→4→3の順に議論を進めましょう。
    1.「この可能的な他の私こそ、自我という明白な事実とともに等根源的に明白に与えられる他者なのである」という命題は、可能的他我に関するものであって現実的他我に関するものではありません。認識が常に他のようでもありうるということは、私の認識と他の認識が可能的に存在するということですから、可能的他我が自我とともに与えられているということは論理的に明白です。
    2.可能的他我が存在するのであれば、可能的他我についての認識も成り立ちます。可能的他我の認識では、例えば、小説家が自分で創作した登場人物の動機や心理を認識する場合、犯人がどういう動機で殺人に踏み切ったかは、小説家に決める権利があり、したがって、可能的他我は自我とは違った世界を選ぶにもかかわらず、自我は、可能的他我を意のままに認識できます。
    4.ところが、現実の他我を認識する時は、このようにうまくいきません。私の予期はしばしば裏切られます。このことは、可能的他我の認識とは別の現実的他我の認識が存在するということを意味しています。
    3.現実的他我の認識が存在するのであれば、現実的他我が存在しなければなりません。ゆえに、可能的他我という明白な与件から、現実的他我を推論することができます。

  3. 可能的他者という言葉の意味がよく分からなかったので、考えてみました。この場合の可能的というのは、日常語で使われる可能性とは、違うような感じです。日常語で使う場合、可能性というのは、対象の振る舞い、変化の規則性から推定される、起こりうる事態のようなものだと思います。当然、その対象がどのようなものか、どのような規則を持っているのかがわからなければ、つまり、現実的な対象の認識がなければ、その可能性、つまり、起こりうる事態の想定はできないと思います。しかし、ここで言われているのは、現実的他者の認識の前提のようなので、日常的意味のそれとは、異なると思われます。そうすると、カントが想定したような物の成立条件のような感性のようなものでしょうか?カントは様々な事物の有り様の一般的構造を定式化し、その構造を時空的構造と想定したと思います。私に分かりやすく言うと、カントの感性というのは、一定の時空のもとに対象を現出させるような機能のことだと思います。すべての対象は、何らかの時空構造のなかで現れます。つまり、現前します。その現象的構造を主観の機能として定式化したわけです。
    それと同じような意味だとするならば、他者の構造を定式化し、それをするような主観の機能が想定できると思います。可能的他者とは、その機能によって、されうる存在ということになると思います。そうしたは、具体的他者認識においても、利用されますが、想像的な他者の認識においても利用されるものだと思います。(2.の例で示しているように)
    「認識が常に他のようでもありうるということは、私の認識と他の認識が可能的に存在するということですから、可能的他我が自我とともに与えられているということは論理的に明白です。」と言いますが、あまり、明白ではないのではないでしょうか?他のようでもあり得るというのは、のようでもあり得るかもしれませんが、のようでもありうるということであり、一切の事物に魂が宿っているとするなら、でもありうることにもなり、他我の存在を否定は、しないでしょうが、積極的に肯定もしないのではないでしょうか?いわば、必要条件かもしれませんが、十分条件とは言えないのではないでしょうか?これだけでは、他我が存在しないとは、言い難いとしか言えないと思います。2.の例であげている可能的他我から、その構造を想定してみると、他者の一般的構造とは、身体という事物的構造が表現しているのことだと思われます。その点で、自我構造と他我構造は、本質的にかなり異質だと思われます。
    そうした観点からかなり違和感を覚える言葉が、「この可能的な他の私こそ、明白に与えられる他者なのである」という言葉です。可能的な他の私というと私のバラエティーのように見えます。しかし、本当は、「可能的な他の私」といっても、私には、A,B,C...といった任意の誰にでもなれるがあるわけではありません。私の人格構造というものは、私の身体構造や、今までの様々の経験と密接なつながりがあるわけで、いわば、私には、私の人格(知性や感性や運動能力も含んだ)という構造に、条件付けられた選択の自由しかないわけです。ところが、現実の他者(他我)は、そうした私の選択の自由の幅を、原理的に、ように、少なくとも、のではないでしょうか?こうした他者(他我)が現す的構造と示さないと、らしくないのではないでしょうか?つまり、「この可能的な他の私」を常に人格構造こそが「他者なのである」という風にならなければならないのではないでしょうか?
    さらに、現実経験を時間軸にそって見るならば、この可能的な他我をする機能は、現実の他我を認識する事態によって形成されています。例えば、人間環境から隔絶され、オオカミに育てられた野生児には、人間的な他我を認識する能力がありません。彼には、可能的他我をする能力がないわけです。ということは、可能的な他我をする機能というのは、明らかに、他者の交流のなかで、育てられるものだと思います。つまり、現実的な他者との交流(なんらかの他者認識を含む)が可能的他者をする機能を生み出しているわけです。というわけで、現実的な他者認識とは、その他我の機能を再構築もしくは創造するような機能を持っていないなければならないということになり、現実的な他者認識の記述は、可能的他者認識の構造のみではなく、的基礎をも含むようなものになると思われます。
    というわけで、
    1.可能的他者の存在の認識
    2.可能的他者の認識
    3.現実的他者の存在の認識
    4.現実的他者の認識
    という分け方をするなら、3と4における他者(他我)の認識の記述がまずあり、そこから、1と2を措定すべきなのではないでしょうか?つまり、の構造からしても、基礎付けの構造からしても、1と2は、3と4の経験からしているわけであり、また、3と4に基礎づけられて措定されるようななわけです。そのによって、されるようなだからこそ、可能的他者は、現実的他者と類似した意味を、つまり、で、な印象を持っているのだと思います。
    2.の例で上げている作家が想定している他我は、私の考えでは、他者のになっている自我にすぎません。例えば、自我の視界は、自我の眼球の動きと連動します。眼球を動かせば、視界も動くわけです。ところが、他者の場合は、そうではありません。他者の眼球が動いても、自我の視界は、変動しないわけです。自我の場合は、知覚や行動とが密接に連動しているわけです。そのような主観の構造を想定しているならば、それは、自我主観に近いと思います。他者のつもりになっている自我だから、一切がなわけです。可能的他我というのは、その他者のつもりになっている自我の前に現れると想定された他者が開示する(人格構造)です。それは、相変わらず、曖昧で、不可知的ではないでしょうか?つまり、可能的他者も既に、認識できるというわけにはいかないと思います。例えば、好きな女性に告白することを想定している男性は、想像裏に、彼女の姿を思い浮かべ、もちろん、そこに、性的なを見出すでしょうが、とともに、自分のことを愛してくれるかどうかなままの彼女の、決して、が不可能な彼女のを理解しているのではないでしょうか?可能的な他我も、リアルに充実して理解されている限り、現実の他者(他我)に類似したや、を示すものだと思います。
    もちろん、想像的世界に想定された自我と他我の関係においては、可能的他者のを覗くという反則技も可能ですが、それは、ズルではないかと思います。想像的世界においては、現実にあり得ないことも普通に起こりえます。例えば、に関して講釈を垂れている崇高な狸なども想定できますし、空を飛ぶことも可能な狸も想像できます。しかし、このような狸の構造を根拠に現実の狸の認識が成り立つとは思えません。同様に、想像上の他者においては、を覗くことも可能ですが、これを根拠に、主観的世界が成り立つとは、思われません。現実の狸の理解に最も強く関係するは、もっともリアルな狸を思い浮かべたときのだと思われます。他者の場合も同様で、そのを覗くことも想定可能ですが、リアルな想像世界に遊ぶ限り、他者(他我)は、やはり、曖昧な存在として理解されていると思います。
    というわけで、私の結論としては、ちょうど逆です。つまり、「ゆえに、可能的他我という明白な与件から、現実的他我を推論することができます。」ではなくて、現実的他者(他我)の構造の記述によって、可能的他我の構造の措定が可能になる、ということになりそうです。論理の運び方だから、どちらでもいいんじゃないかと思われるかもしれません。しかし、メルロー・ポンティの論理の展開の仕方は、ちょうどカントと逆です。具体的知覚様態の記述から、その一般的構造を措定しようとします。結果として、カント的な感性、悟性概念は、維持されず、破壊されたと思います(壊しっぱなしだったような気もしますが)。
    具体的な他者(他我)の記述からは、自我と他我が的な関係であるような主観的世界というのは、とても維持できないと思います。他我のは、他者の眼球が開示する意味であって、私の視線が、持っている視野的構造の疑似的な類比物にすぎません。他我のは、他者の身体が表現する意味であって、私の行為が持つような内的意味(目的や意図)を、いわば、外的に曖昧に表現しているだけであって、私の行為の疑似的な類比物にすぎません。要するに、他我は、自我とは、根本的に構造が異なるのであり、単純な的な関係が成り立つようなものではないと思います。自我と他我がいかに異質な構造であるかは、具体的な他者(他我)の在り方を見ていくことによってしか調べようがありません。現象的他我の認識において、他我は、「私の予期(を)しばしば裏切」り、「可能的な他の私」ではない、他我の本質が開示されるわけですから。すべての他我概念の根拠になっている、私にとっての他者(他我)という現象の原理性を見るべきではないでしょうか?可能的他我は、その派生物にすぎないわけですから。

  4. 私が言っている可能的他者は、現実の他者から導かれた可能態ではなくて、現実の自我から導かれた私の可能態です。可能的自我の諸可能性が現実的他者のすべてのあり方を網羅することはできませんが、現実的他者の認識が、予期可能なあり方とは他のようでもありうるということは、「現実的他者は見かけ上の他者にすぎず、実は、自分の拡大身体の一部」ではないということを示す上で必要です。
    発達心理学的に見るならば、幼児が最初に出会うのは母親という他者であり、幼児は他者を通して自我を認識します。しかし、経験的発生的説明は、そのまま形而上学的論理的説明にはなりません。社会契約に相当する歴史的事実がなかったといって、社会契約論を批判するのと同じことです。49号は、常識的な意味で他者と思われている人すべてが、実は自我の一部ではないかと疑っている独我論者をどうやって説得させるかを問題にしているのですから、独我論者に幼児期のことを思い出させても、全然説得力がありません。

  5. たとえば日本語って曖昧だよなww
    論理展開が重要な話なのに
    論理記号をほとんど使っていない理由はなんだよww
    ほとんど日本語であるよりは、
    わかりやすくなると思うがwww
    永井さんよw
    あとさww
    もし、記号論理学から話すのだったら、
    いくつかの公理系をつくってからなwww
    たとえば選択公理がなにかわかるか?ww
    まw がんばれww

  6. たとえば日本語って曖昧だよなww
    論理展開が重要な話なのに
    論理記号をほとんど使っていない理由はなんだよww

    これはもともとテキストベースのメルマガに掲載した文章で、論理記号を使うと、文字化けするので、論理記号は使っていません。ちなみに、これ以前に書いた「システム論研究序説(03)他者認識と認識の不確定性」では論理記号を使っていますが、論理記号を使っても、使わなくても、議論の本質は変わりません。

  7. ここで次のように発想を逆転させよう。私は他者を完全に理解することができない。他者の心には不確定な不透明さがある。だから他者の振る舞いは私には予測不可能で、コントロールできない。しかしだからこそその人は私にとって他者なのだ。もし私がその行為者を心の底まで知り尽くし、その人を意のままに動かすことができるのなら、その行為者は拡大身体の一部であって、他者ではない。

    ここが一番言いたい所だと私は解しました。

    しかしながら論理構成としては
    「他者の心には不確定な不透明さがある。」
    ↓故に
    「他者の振る舞いは私には予測不可能で、コントロールできない。」

    更にこれを全てまとめて、一つの理由にして「自我が理解できないからこそ他者といえる」としています。

    一見正しそうに見えますがこれはトートロジーに陥っているのではないでしょうか?

    この文章自体は他我の存在を推論によって証明しようという目的で書かれていますが、「他者の心には不確定な不透明さがある。」という文は「他者の心」すなわち他我の存在を前提としています。
    換言すれば先ほどの論理構成は

    「他我というものが存在し、それは自我によっては理解し尽くせるものではない」
    ↓ゆえに
    「他者は私にとって予想外の行動をすることがある」
    ↓すなわち
    「他我が存在することが予想できる」

    となってしまい、トートロジーに陥っています。

    しかも先ほどの結論の文自体、自分がコントロールできない「他者」という存在自体を証明することはできますが(話がややこしくなるのでセンスデータの議論はここでは無視します)、その他者が自我を持っているかどうか、すなわち他我の存在を証明したことにはならないのではないですか?

    そもそも、この文章で主張されていることは「他我の存在を否定できますか?できないですよね?だから存在するんですよ」と言っているに等しいです。
    実際は「存在するかしないか、わからない」とすべきでしょう。

  8. 「不確定である」とは「他のようでもありうる」ということです。だから、「私の認識が不確定である」とは、「私の認識が他のようでもありうる」ということであり、それは「私とは他の認識が存在しうる」、つまり、「他者が存在しうる」ということです。それなら、宇宙が不確定であることから他の宇宙の存在を推測するマルチバース仮説と同様に、証明にはなっていないと言いたのでしょうが、証明できなくてよいのです。

    冒頭に「自分に意識があるということは確実な事実である。では他者にも同様の意識があるということをどうやって証明したらよいのであろうか」と書きましたが、これは読者に仕掛けたトリックで、私の結論は、最後に書いたとおり、

    独我論を否定するために他者の存在を証明しようとすることは、よく考えるとこっけいなことである。証明するということは、必然的である、つまりこうであってその「他がない」ということを主張することで、それは他者の抹殺だからである。他者認識はあいまいな類推で十分なのである。

    というものでした。他者の存在を「証明」しようとする限り、他者の存在を肯定することはできません。他者の存在を証明しようとする試みを放棄してこそ、初めて、他者の認識が可能になるというパラドックスが本稿の結論なのです。

  9. 独我論を否定するために他者の存在を証明しようとすることは、よく考えるとこっけいなことである。証明するということは、必然的である、つまりこうであってその「他がない」ということを主張することで、それは他者の抹殺だからである。他者認識はあいまいな類推で十分なのである。他者の存在を「証明」しようとする限り、他者の存在を肯定することはできません。他者の存在を証明しようとする試みを放棄してこそ、初めて、他者の認識が可能になる。

     私は、この意味を、次のように考えていますが、理解として違うのでしょうか。

     「存在」の有無は、「認識」を通じた判断とならざるを得ず、客観的認識は原理的に不可能に思いますので、独我論の立場が真か、そうでない立場が真かは、回答不能の問題、つまり、「独我論が正しいかどうか」は、疑似問題ではないかという気がしています。

     要は、独我論の正否の哲学的な解決はギブアップし、しかし、人と意見を交換したり、投票したり、食事をしたり、仕事をしたりするうえで、他者について、物について、過去の体験あるいは歴史などについて、存在すると解しないと、我々の人間の営み自体が成り立たないことを良しとしないといった心境です。現状の圧倒的な状況証拠が、他者や事物の存在を強く示しているというレベルで納得すべきであり、そもそも人間の意識のあり方や認識の本質から考えて、答えが用意されているものではないと考えます。

  10. 証明するとは、こうであって他ではありえないことを示すということです。そして、それは、≪他ではありえない=他の認識は存在しえない=他の認識を持った存在者はいない=他者は存在しない≫ということですから、他者の存在の否定につながるのです。他者の存在を証明しようという態度を放棄し、認識の不確定性を認めることは、≪認識は他でありうる=他の認識がありうる=他の認識を持った存在者がありうる=他者が存在しうる≫ということになるので、他者の存在を可能にすることになるのです。

  11. >証明するとは、こうであって他ではありえないことを示すということです。そして、それは、≪他ではありえない=他の認識は存在しえない=他の認識を持った存在者はいない=他者は存在しない≫ということですから、他者の存在の否定につながるのです。

     他者存在を証明する、≪他でもありえる=他の認識は存在しうる=他の認識を持った存在者はいる=他者は存在する≫で、他者の存在の肯定という選択肢はないのでしょうか。あえて他者の存在の否定の方にのみつながるという、その含意は何でしょうか。もっとも私自身、両方とも可能であるとは思っておりませんが。

    >他者の存在を証明しようという態度を放棄し、認識の不確定性を認めることは、≪認識は他でありうる=他の認識がありうる=他の認識を持った存在者がありうる=他者が存在しうる≫ということになるので、他者の存在を可能にすることになるのです。

     この場合、他者は存在するかもしれないし、存在しないかもしれないという状態かと思われますが、「他者の存在を証明しようという態度を放棄」することは、世界観としては、人間の認識の限界を認めたうえで、結局は、他者の存在を(暫定的にでも、仮定的にでも)受け入れるということでしょうか。

  12. 他者の存在をどう証明するかという問題は、デカルト以来の近代哲学で問題になったことです。デカルトは自我の認識作用と自我の存在を同一視し、「考える我」という疑うことのできない事実からすべてを幾何学のように厳密に証明しようとしました。ところが、証明とは、認識が他ではありえないことを示すことであり、認識と存在を同一視する以上、他の認識を認めないことは、他者の存在をも認めないことになります。デカルトの時代では、科学は不確定性を一切認めようとはしませんでしたが、量子力学以降の時代を生きている私たちは、デカルト以来の必然性の哲学を見直さなければならないというのが私の問題意識なのです。

    カントが、「私たちの外なる事物の現存在をたんに信念に基づいて想定しなければならないことは、常に哲学と普遍的人間理性のスキャンダル」(Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. B.39.)であったと言ったのに対して、ハイデガーは「《哲学のスキャンダル》は、この証明がこれまでにまだなされていない点にあるのではなく、そのような証明が絶えず期待され、試みられてきたという点にある」(Heidegger, Martin. Sein und Zeit. 1927. Max Niemeyer Verlag. p.205.)と言っています。外界の存在証明を他者の存在証明に置き換えても同じことが言えます。他者の存在を証明できないことよりも、他者の存在を証明しようとしていることの方が問題ではないかということです。証明するという態度を見直すことで、むしろ他者の存在は認識可能になると言ってもよいでしょう。

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