私という言葉はなぜ必要なのか

2000年9月30日

よく記憶喪失に陥った(と称する)人が「私って、だぁ~れ?」ととぼけた質問をする。自分の名前まで忘れた人が、「私は…である」という文法形式の方はしっかり覚えているというのは、不思議なものであるが、「私」という言葉の使い方は、生得的ではなく、学習によって習得されるものである。多くの幼児は、自分のことを言及するのに、当初固有名詞を使う。「私」「ぼく」「おれ」といった一人称代名詞は、言語の使い方を学び始めて20ヶ月ほどたってからでないと習得されない難しい言葉なのである。では、私たちは、いつ、どのようにして、そしてなぜ一人称代名詞を使うようになったのだろうか。

愛ちゃんのイメージ画像

1. 「私」という言葉を正しく使うための条件

この問いに答える前に、「私」という言葉を正しく使える存在者には、どのような条件が必要なのかを考えてみよう。一般に、「私」の指示対象は、この言葉を使う主体であると考えられている。では次のような事例で使われた「私」は、どうだろうか。

ケース1.録音機に「私は録音機です」と吹き込んで、それを録音機で再生させた場合。

ケース2.コンピュータに、語彙と文法規則を与えて、自由に作文させたところ、コンピュータが「私はコンピュータです」という文を作った場合。

ケース3.幼女愛ちゃんが、自分のことを「愛」と呼び、それを見たアメリカ人が、「この子は、自分のことをアイと呼んでいるので、もうIの使い方を覚えたようだ」と誤解した場合。

ケース4.愛ちゃんが、学校で英語を教わり、先生から言われた通り、"I am a girl"と発音した場合。

どの場合も、「私」という言葉が理解されて使われていない。録音機やコンピュータには自己意識がないし、自己意識がない人間も「私」という言葉を正しく使えない。

しかし自己意識があるということは、「私」という言葉を正しく使うための必要条件であっても十分条件ではない。自己意識がある存在者が自己に言及するとき、「私」という人称代名詞を使わなくても、固有名詞を使えば、事足りる。例えば、「私はコンピュータを使っている」という代わりに、「永井俊哉はコンピュータを使っている」と言えば良いのである。

2. 「私」という言葉の特殊性

「私」という人称代名詞は、固有名詞とどう異なるのかを考えてみよう。「永井俊哉」という固有名詞は、話者が誰であれ、たった一つの対象しか指示しない。もちろん「永井俊哉」という名前を持った人間は他にもたくさんいる。しかし「1965年生まれの永井俊哉」というように限定をつけていけば、いくらでも固有化することができる。これに対して、人称代名詞「私」は使う人によって指示対象が異なってしまう。

その意味で、「私」は「今」や「ここ」とよく似ている。「今・ここ」という言葉は、時空上の特殊な一つの点を指示するが、どんな時空上の地点も「今・ここ」でありうるという意味で、普遍的な言葉でもある。もちろん「今・ここ」とは、「私が存在する時空上の点」であるから、「今・ここ」の最も特殊で、かつ最も普遍的という二面的性格は、その都度特殊な人物しか指示しないにもかかわらず、誰もが「私」でありうるという「私」の二面的性格へと還元できる。

3. 「私」は「私」を否定するためにある

「私」には、「公」との対比で、エゴイズムを象徴する言葉のようなイメージがある。しかし「私」の指示対象が私的でも、「私」という概念自体は優れて公共的である。「私」という代名詞のおかげで、「自分にとって自分が私であるように、他者にとってその人は私なのだ」と、他者の立場に身を置いて、他者の感情を想像することが可能になる。だから、「私」を正しく使うためには、自己意識があることに加えて、間主観的な想像力が条件となる。

のどが渇いた愛ちゃんが、「愛はジュースが欲しいのぉー」とだだをこねるが、彼女の友人もジュースを欲しがっていて、かつジュースが一本しかないと仮定しよう。「愛はジュースを飲みたい」が「私はジュースを飲みたい」ならば、友人を押しのけて、ジュース一本を全部飲んでしまうことは、他者の立場に立った欲望、「私はジュースを飲みたい」を否定することになる。「私」の普遍性がエゴイズムを論理的自己矛盾へと追いやるのである。愛ちゃんが、「友人は、私と同様に、ジュースを欲しがっている」ということに気が付き、二人で一本のジュースを分け合って飲むとき、愛ちゃんは、はじめて「私」という言葉を理解して使うことができるようになるのである。