末は博士かホームレスか
もしもあなたが日本の大学院の博士課程に進学すれば、周囲からこうささやかれるだろう。なぜならば、たとえ博士号を取得できたとしても、ホームレスにしかなれないぐらいに、今後、余剰博士の問題は深刻になるからだ。「末は博士か大臣か」と言われた時代は終わった。余剰博士問題はなぜ起きるのか、その根本的な原因を考えながら、問題の解決策を探ろう。
1. 大学院重点化で量産された博士
余剰博士問題が深刻化した原因を作ったのは、文部科学省の大学院重点化政策である。1996年に大学審議会は、「大学院の一層の量的な拡大が求められる中で,質的な面での抜本的な充実と改革が必要となっている[1]」と大学院重点化の理念を語ったが、量的拡大を行った結果、質が大幅に低下したというのが現実である。
大学院生の数は、この10年で倍近くにまで増え、その結果、大学院の入学試験は大幅に易しくなり、修士論文の水準は、10年前の卒業論文の水準以下になった。このため、技術系社員を修士課程の修了者から採用している企業は、質の低下に頭を抱えている[2]。
理系の修士課程修了者は、就職できるだけまだましである。大学院重点化の弊害は、博士課程で顕著である。文部科学省の『学校基本調査報告書』(平成14年度)によると、理系大学院博士課程修了者の内、大学教員等になれた者は、12.6%で、何らかの形で就職できたのは、62.7%である。
博士号取得者の就職率が低いのは、民間企業が、「博士は、社会経験が乏しくて、視野も狭く、プライドばかり高くて、役に立たない」と考えているからだ。実学色の強い工学系分野で比較すると、米国の博士課程修了者の民間営利企業への就職割合が約59%であるのに対して、日本のそれは約26%で、大きな差がある[3]。
博士号を取れなかった退学者の就職は、もちろん、これよりももっとひどいはずである。また、文系の場合、博士号をとることなく、博士課程を修了するのが一般的だが、民間にあまり需要がないこともあって、就職状況は理系よりも悪い。2003年の博士全体の就職率は54.4%で、この10年間で約10%低下している[4]。
政府は、余剰博士の救済策として「ポストドクター等1万人支援計画」を進め、年間1万人の博士に、公的機関が一時的に職を与えたり、数年間にわたって研究費や生活費を助成したりしている。ポストドクターの数は、2004年度で12500人で、「社会保険の加入状況から推定すると、常勤研究者並みの待遇のポスドクは半数程度しかいない[5]」。しかも、ポストドクターの中には、任期終了後、就職できずに、路頭に迷う人が少なくない。
余剰博士の問題は、今後ますます深刻になっていく。今後、少子化の影響を受けて、大学や短大が次々に廃校に追いやられ、研究職は減り続けていくであろう。しかるに、博士の大量生産はこれまで通り行われる。ますます減り続けるイスをめぐって、ますます多くの博士が競争することになるだろう。しかも、政府も、財政難のため、ポストドクターにばらまく金を増やすわけにはいかない。
かつては、就職できない博士の受け皿となった塾や予備校も、少子化のために倒産が相次ぎ、しかも、最近では、社会経験を積んだ講師の方が人気があるからということで、博士を採らなくなってきている。長年禁欲的に研究に励み、奨学金という借金を背負い、教授の奴隷としてこき使われたあげくに、就職できずに破産し、ホームレスとなって、最後は自殺か野垂れ死にか … これが博士課程進学者の悲しい末路である。
読者の中には、競争が激しくなった方が、優秀な人材が研究職に就くのだから、日本の大学や研究機関の水準を上げるという点では好ましいのではないかと反論する人もいるだろう。しかし、アカデミックポストの人選は、必ずしも実力本位で行われているわけではなく、教授の主観的な好みで行われることが多いので、水準向上は期待できない[6]。むしろ、教授の金と人事の権限が強くなればなるほど、若手研究者たちは、教授の奴隷とならざるをえなくなり、自由で独創的な研究がしにくくなるのだから、逆効果とすら言える。
2. なぜ大学院重点化が行われるのか
ゆとり教育批判で有名な西村和雄は「大学院の重点化は、小・中・高校のゆとり教育と並ぶ文部科学省の失政だ[7]」と言うが、私は、大学院重点化とゆとり教育の目的は同じであると考えている。両者は、少子化で減りつつある公教育の需要を増やすための政策であると考えられる。すなわち、就学者の絶対数が減っても、教育の質を落とせば、それだけ長く学校にいなければならないから、公教育は収入を減らさなくてすむという計算があったと思われる。
では、大卒が高卒レベルになり、修士が大卒レベルになり、博士が修士レベルになれば、以前は文系の大卒を採用していた企業は、修士を採用するようになり、理系の修士を採用していた企業は、博士を採用するようになるだろうか。私は、多分そうならないだろうと思う。
教育の質が低下したということは、企業からすれば、人材のコストが割高になったということである。修学年限が長くなればなるほど、機会費用を含めた教育コストは増大するから、被雇用者はそれだけ高い給与を求める。もしも日本の労働者が労働市場を独占できるならば、日本の企業は、国際競争力を犠牲にしてでも日本の労働者を雇い続けるだろうが、実際には、市場がグローバル化しているのだから、日本企業は、より安くて有能な人材を海外に求めるであろうし、現にそうなりつつある。
パナソニックの場合、10年度新卒採用1250人のうち海外で外国人を採用する「グローバル採用枠」は750人だった。11年度は外国人の割合を増やし、新卒採用1390人のうち、「グローバル採用枠」を1100人にする。残る290人についても、日本人だけを採るわけではないという。大坪文雄社長は『文藝春秋』10年7月号のなかでこうした方針を示し、「日本国内の新卒採用は290人に厳選し、なおかつ国籍を問わず海外から留学している人たちを積極的に採用します」と述べている。[8]
私は、「もしも日本の労働者が労働市場を独占できるならば」と仮定の話をしたが、大学院の修了生に市場を独占させ、大学院の需要を確実に確保することは、できないことではない。医学部・歯学部・獣医学部は、他の学部では修士に相当する学位をとらなければ、国家試験が受験できない。そして、国家試験に合格しなければ、国内で医療活動をすることができない。薬学部も2006年から6年制課程が設置され、国家試験受験資格も6年の課程を必要とするようになった。
医学部では、一人前の医者になろうと思えば、医学博士が必要である。医学部に関しては、今後とも「末は博士かホームレスか」という状況にはならない。医学博士には、金と名誉が保証されている。だから、医学部は非常に人気がある。そして、医学部と同様に、大学院と資格を結びつけることで、甘い汁を吸いたいと考えた学部があった。法学部がそうである。
3. 法科大学院が作られた本当の理由
2004年4月から、法科大学院という法曹のプロフェッショナルを育成する専門職大学院が創設された。当初、法科大学院修了者の7割から8割が新司法試験に合格すると言われ、人気を集めたが、その後、合格率が2割から3割になることが判明し、二年目は志願者が激減した。新司法試験は、3回までしか受験のチャンスがない。合格できない多くの法務博士が多額の借金を背負ったまま路頭に迷い、それがホームレスの博士を増やすことになるだろう。
法科大学院は、どうして作られたのだろうか。法科大学院の構想は、表向きは司法制度改革の一環として、提案されたのだが、この提案を最初に出したのが、法曹の現場ではなくて、1998年10月の「21世紀の大学像と今後の改革方策について」という文部省の大学審議会の答申であったことが、この構想の性格を雄弁に物語っている。この答申には「大学院の修了と資格制度との関係では、現在、法曹養成制度の改革が進行中であり、今後、法曹養成のための専門教育の課程を修了した者に法曹への道が円滑に開ける仕組み(例えばロースクール構想など)について広く関係者の間で検討していく必要がある[9]」と書かれている。
この答申からも窺えるように、法科大学院のお手本はアメリカのロースクールである。アメリカの大学には法学部がなく、法曹(弁護士・裁判官・検察官など)を目指す人は、通常大学卒業後に法科大学院で3年間の教育を受け、修士レベルの学位を得た後、司法試験をパスして法曹資格を取得する。
これに対して、日本では、司法試験への受験資格はなく、試験に合格して司法研修を修了すれば、大学を出ていなくても、法曹資格が与えられる。しかし、司法試験は非常に難しいので、大学法学部での授業を履修しているだけではまず合格しないため、受験生の多くは司法試験のための予備校に通っている。そして、法科大学院の本当の狙いは、法科大学院を修了すれば、司法試験の合格が容易になるようにして、民間の司法試験予備校から教育需要を奪おうというところにある。
もちろん、本音と建前は別である。法科大学院設立の表向きの理由はプロセス重視の法曹養成である。従来の司法試験は一発勝負の性格が強く、受験生は、受験技術の詰め込みに走る傾向があったが、法曹には、専門的な法律知識の他、高い倫理や教養も求められるので、真に優秀な法曹を育てるには、全人的な接触のなかで、対話重視・プロセス重視の教育を行う必要があるというわけである。
現状はどうなのか。日経新聞の記事から引用しよう。
「新司法試験の出題科目以外は授業中、耳栓をして自習しています」。西日本にある国立大の法科大学院が先月開いた懇親会で、学生の言葉に教授たちは驚いた。「合格することで頭がいっぱい。必要ない授業は、内職したり、途中で退出したり。まるで学級崩壊だ」。教授はため息をつく。[10]
学生たちは、司法試験合格に必死なのである。試験と関係のない話を聞きたくないのは当然である。もしも本当に、学生たちの試験志向の態度を改め、プロセス重視の教育を可能にしようとするならば、司法試験を廃止し、法曹の選抜を、法科大学院の教授の主観的評価に委ねなければならなくなるが、これは弊害が大きい。
こうしたプロセス重視の教育論は、高校受験での内申書重視や大学受験での推薦入試導入の際になされた議論とそっくりである。1993年に脱偏差値を標榜する文部省が業者テストの排除を行って以来、内申評価が客観的評価から主観的評価に変質し、今日話題となっている学力崩壊の一つの原因になっている。プロセス重視の名のもとに、法曹の選抜が、法科大学院の教授の主観的評価によって行われるならば、同様な知識軽視が進むであろう。しかし、プロセス重視の選抜には、学力崩壊よりももっと由々しき問題がある。
4. プロセス重視だと茶坊主が有利になる
プロセス重視の教育で、子供たちは勉強しなくなり、代わりに、教師に対して「良い子」を演じるのがうまくなった。同じことが、法曹でも起きるだろう。従来の司法試験は、結果のみを判定したが、司法研修所では、プロセス重視の教育評価が行われていた。司法試験合格後、合格者は、1年半司法研修所で研修を受けるが、そのプロセスにおいて、任官志望者の選別が行われる。近年の長引く不況と合格者増の影響で、任官志望者数は増える傾向にある。ところが、選別の基準は不明瞭で、国家権力に従順な人物が選ばれ、反権力的な人が排除されていると言われている。
これに対して、弁護士には反骨精神のある反権力主義者が少なくないのは、プロセス不問で、学力だけで選抜されるからだ。法科大学院の課程で弁護士が選抜されるようになれば、教授に媚を売る茶坊主型の弁護士が増えることだろう。ちょうど病院が大学ごとに系列化し、医局が若い勤務医の人事を支配するように、法律事務所が法科大学院ごとに系列化し、ボス教授が弁護士の人事を支配するようになるだろう。
既存の大学における学位の認定や人事など、プロセス重視の選抜では、有能な人材ほど排除される傾向にある。
学位というものは、大学の入学試験や資格試験とは全く異なります。これは試験を行う者が現場を見ないで試験をやって、採点して何点取れば合格というものではありません。つまり、客観性が低く、学位を出せる成績かどうか判断する教官の主観に作用されることが大きいのです。優秀な成績を上げた、頑張った、努力したというのは必ずしも良い結果には結びつきません。いくら多くの業績を残したとしても、担当の教授が認めないと言えば不合格なのです。逆に、殆ど仕事をしていなくても、助手や技官の仕事等と併せて論文にまとめてしまい、楽に学位を取得する者も多数います。この様な状況の中で、学位が欲しい学生と成績を判断する教官との間に大きな力の差が生まれます。
そうすれば、学生はどうしなければならないでしょうか。お気付きになったと思いますが、学位を取りたいと思うならば、担当の教官との人間関係を損ねないのは絶対条件です。たとえ無茶な要求をされたとしても、どうしても学位が欲しいのなら、我慢して命令に従わなければなりません。[11]
学問的に無能な教授ほど、研究に専念する有能な部下よりも、自分のために雑用をやってくれる無能な部下をかわいがる。そして、無能な部下は、出世すると同じことを繰り返す。厳しい市場競争に晒されている企業のトップが、周囲をイエスマンで固めると淘汰されるが、大学は規制と補助金で守られているから、腐ってもなかなかつぶれない。そして問題の根源は、ここにある。
5. 教育と研究に市場原理を導入せよ
これまでの議論をまとめよう。公教育は、ゆとりの教育によって教育の質を下げ、大学院重点化により修業期間を増やし、少子化に伴う需要の減少に歯止めをかけようとした。もちろん、大学院重点化の表向きの理念は、高度に複雑になった社会に対応できる質の高い人材の供給ということなのだろうが、学位が高くなっただけで、能力は高くない人材の押し売りをすることは、大して性能が向上していないソフトを「アップグレード版」と称して高値で売りつけることと同様に、売り手が市場を独占していなければできないことである。
そこで大学人たちは、大学院を出なければ、国家試験が受験できないように、制度を変えることで、教育市場を独占しようとした。法科大学院を作るときも、当初、法科大学院を修了しなければ、司法試験が受験できないようにする予定だったが、法科大学院に行かなくても受験できる抜け穴を作ったため、独占に失敗し、いまやその存続が危機に瀕している。
私は、法科大学院の優遇制度がなくなることを望んでいる。医師国家試験も、かつての司法試験と同様に、学歴とは無関係に受験できるようにするべきだ。その代わり、筆記試験のみならず、実技試験をも盛り込んで、知識だけでなく、技能的にも優れた医師が選抜されるようにすればよい。そして、医師国家試験のための教育は、市場原理の機能する営利企業に任せればよい。そうすれば、今よりも早く、かつ低コストで医師が育つようになる。一方で、入り口の敷居を低くしつつ、他方で、問題の多い医師の免許を取り消して、出口も大きくした方が、入り口も出口も小さい現在の制度よりも、日本の医療サービスの質は向上するだろう。
私たちは生産者中心の論理を消費者中心の論理へと変える必要がある。法学部であれ、医学部であれ、どこであれ、優秀な人材を短期間かつ低コストで効率よく育成するには、政府が教育産業から撤退するべきだ。政府が公教育という殿様商売を続けていると、社会のニーズと合致しない割高な粗悪品を量産することになる。政府は学位認定と資格認定を前提条件なしで行い、教育機関はすべて市場原理の機能する民間企業に委ねるべきである。もしも日本の教育機関の効率が良くなれば、海外からの留学生も増えるから、少子化が進んでも、日本の教育産業は衰退することはない。
読者の中には、教育を営利企業に任せるのはかまわないが、非営利の学術研究まで市場経済に委ねるわけにはいかないと反論する向きもあるだろう。確かに市場経済に委ねるわけにはいかないが、それでも市場原理を導入することは可能である。
学術研究に資金を出すとき、どのプロジェクトにどの程度出すかが問題となる。官僚には、先見の明がないので、何が有望な研究かを文部科学省の官僚に決めさせるわけにはいかない。また、若手研究者への資金の配分をボス教授の主観的裁量に委ねると、若手研究者がボス教授の奴隷になるので好ましくない。
だから、政府は、資金を有望な研究のための予算として出すのではなくて、優れた過去の業績への報奨金として支出すればよい。過去の業績の優劣の度合いは、被引用数に基づいて、客観的に数量化可能であるから、機械的に配分できる。ただし、報奨金は、研究者ではなくて、研究者に研究資金を提供した投資家に支払われる。もちろん、研究者が自分の金で研究を行ったならば、本人が受け取ることになる。
こうした投資家に、非営利の財団だけでなく、営利の投資会社もなれる。提供した研究資金以上の報奨金が入れば、その差額が利益となる。その利益は、有望な研究プロジェクトを見つけた仕事に対する報酬である。ここからも分かるように、この制度は、政府の仕事を民間に委ねることを意味している。官僚とは異なって、民間の投資家は、投資に失敗すれば、損失を被る。だから、いい加減な判断はできない。
この制度の下で、資金が特定の研究者に集中することはない。実績のある研究者と契約を結ぶことは、競争が激しいので、条件が悪くなり、ローリスク・ローリターンになる。実績のない研究者の場合は、わずかな研究資金で契約を結ぶことができるから、ハイリスク・ハイリターンとなる。この点、一般の投資と変わるところはない。
私の提案は、ベンチャービジネスへのアメリカ流の投資方法を学術研究にも応用することにある。日本とは異なって、アメリカのベンチャービジネスの経営者は、事業に失敗しても、すべての負債を抱えて破産するということはない。また、アメリカの大学院生は、奨学金という名の借金を背負って破産することはない。
投資家と研究者は、オープンな横の関係にあり、教授と若手研究者のように、クローズドな縦の関係にないので、研究者は自由に研究ができる。現行の教授は研究職というよりも管理職なのだが、投資や経営といった仕事を素人の老研究者にさせるよりも、専門家に任せたほうが、分業による効率化が期待できる。
自分の研究を若手に押し付け、ファーストオーサーとして若手の研究成果を横取りする教授の存在は有害である。上の世代による下の世代の搾取は、私が「非対称的贈与システム」と名付けたオートポイエーシスで、一度作るとなかなか廃止できなくなるのだが、これを廃止しないと自由な研究はできない。
6. 追記:法科大学院について
原名高正さんという方が、本稿に対して「法律家養成を再検討する 」という批評を書いてくれたようです。かなり昔(5年前)に書かれたもののようですが、せっかく書いてくれたのだから、それに対する反論を書いておきましょう。
原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.
■「21世紀の大学像と今後の改革方策について」「という文部省の大学審議会の答申」がだされたというのは、いってみれば、司法改革という法務省の土俵に、文部省(当時)が ずかずか あがりこんで、独り相撲をはじめてしまったことを意味する。
■ま、厚生労働省管轄の医師・歯科医師・薬剤師など 医療系専門職の資格はともかく、養成については、文科省に基本的にしきられてしまっているのと、おなじカラクリだ(もちろん、カリキュラムなどで、実質内容について、厚生労働省は、くちだしする。笑)。
■また、司法試験受験を、完全に予備校にしきられていることを、にがにがしく おもっていた 文科省/法学部関係者が、法律専門職の先進国 アメリカの システムを 導入するという、大義名分を利用したという、「内幕」も、ただしい。
■しかし、実質的に定着するかどうかは ともかく、アメリカ式の法律家養成が、デタラメという わけでは、もちろんない。
■プロセス重視は、本来的には、正論なのである。プロセス重視を 問題だというなら、本家本元のアメリカの法律家養成の機能不全、病理を指摘したうえで、「マネなど やめろ」と、いうべきなのだ。
米国の大学では、教師の待遇は学生の評価によって決まります。学生の評価が高ければ、教師の給料が上がったり、よりランクの高い大学への移籍が可能となります。逆に低ければ、給料が下がったり、解雇されたりします。日本の大学は、こうした米国の大学の優れた部分は取り入れずに、プロセス重視といった好ましくない部分を模倣しています。学生には評価の権限を与えずに、教師には基準が不透明な評価の裁量権を与える非対称性には問題があろうかと思います。
原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.
■国公立大学の医学部学生の、医師国家試験合格率が8?9わりを維持しているように、法科大学院修了者も、基本的には法律家としての専門資格をあたえられるのが、本旨だ。
■それができないなら、趣旨に反するし、約束違反でもある。また、それが、市場の需要をはるかにこえた合格者数になるなら、それも約束違反である。
■もちろん、全国の私立大学に法科大学院が設置されたという事実ひとつをとっても、文科省が まったく責任をおう気がなかったことは、あきらかだ。
これは、むしろ医学部の方にこそ問題があると思います。ご指摘のように、医師国家試験の合格率は毎年80%以上で、2010年現在も89.2%と高水準を維持しています。このため、医師になるための最大のボトルネックは、医師国家試験ではなくて、医学部医学科への入学試験となっていますが、この選抜システムには大きな問題があります。大学入試で出題される数学や物理の難問を解く能力は、たいていの医者には不要であり、医師を育てるコストを不必要に高くしています。また、大学医学部医学科は、医師を認定するための特権を事実上与えられているようなものだから、教育機関として不良であっても、市場原理により淘汰されないという問題もあります。
だから、私は、医師国家試験を専門別に分化させたり、実技試験を取り入れたりするなど、医師選別試験としての実質を持たせると同時に、医学部医学科卒業を前提条件からはずすことを提案します。こうすれば、現行システムよりもより低いコストで、つまりより多くの医師を育てることができるし、教育産業の効率化が進むことも期待できます。
原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.
■永井さん、意図的に、プロセス重視の法律家養成を否定したいのか、あるいは、事実誤認の自覚がまったくないのか、ものすごい暴論を展開している。
■「弁護士には反骨精神のある反権力主義者が少なくないのは、プロセス不問で、学力だけで選抜されるからだ」というのは、まったく司法研修所の機能を誤解している。弁護士だって、「司法試験合格後、合格者は、1年半司法研修所で研修を受ける」んだから(笑)。
■裁判官や検察官が、より「いい子ちゃん」で、権力追従的な性格の可能性がたかいことは、経験則でしられている。そして、「選別の基準は不明瞭で、国家権力に従順な人物が選ばれ、反権力的な人が排除されている」という構造も、何十年も指摘・批判されつづけてきた。
■しかし、弁護士が「プロセス不問で、学力だけで選抜されるからだ」というのは、まったく事実誤認だ。この程度の しらべで、法律家養成制度をうんぬんする、神経は、すごすぎる。
旧司法試験においては、弁護士がプロセス不問で、学力だけで選抜されたというのは事実誤認ではありません。もちろん、旧司法試験においても、被験者は、資格試験合格後に司法修習を受け、司法修習生考試に不合格となれば、弁護士になれませんでしたが、考試が不合格で弁護士になれなかった人はほとんどいませんでした(最近では増えているようですが)。だから、旧制度においては、司法修習生となるための資格試験、所謂司法試験に合格さえすれば、ほぼ間違いなく弁護士になれたのです。また、司法修習生考試も、筆記による客観的なテストですから、プロセス重視の選抜とはいえません。プロセス重視で、不透明な選抜が行われるのは、本文で指摘したように、そして原名さんも認めるように、任官(裁判官や検察官に任じられること)においてであり、弁護士の登録においてではありません。
原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.
■それと、永井さんの議論が、根本的に乱暴なのは、司法研修所と法科大学院と理科系大学院を、同質の権力ピラミッドとみなしている点だ。
■「ちょうど病院が大学ごとに系列化し、医局が若い勤務医の人事を支配するように、法律事務所が法科大学院ごとに系列化し、ボス教授が弁護士の人事を支配するようになるだろう」という、危険性は、アメリカとちがって、「日本的土壌」という次元で、警戒すべきだ。しかし、医局支配によって、開業医、とりわけ辺地医療などにたずさわる医師たちが、母校から完全コントロールをうけているとか、いった実態が、一般的だろうか?
■はっきりいおう、権威主義的で、ともすれば、国家権力への追従を ほのめかすような司法研修所の1年半を経験しても、反骨弁護士は、それこそ何百人もうまれていく。
■永井さんが、大学院の支配体制を象徴するために 引用した 組織は、医学などをふくめた 理科系の大学院だ。大学院という空間は、旧帝大系ほかブランド大学かどうか、研究科が理系や、伝統のある法学・文学系のように権威主義的組織かどうか、など、具体的空間を特定しないと、一般論はなりたたない。
原名さんは、理系と文系の間に大きな違いがあると主張していますが、むしろ大きな違いは、人材供給が過少の医学部と過剰の他学部との間にあると言うべきでしょう。日本医師会は、その政治的権力を使って医師の供給過剰を防ぐことに成功しました。現在、多くの病院が、医師の確保に苦労しています。病院が、医局に属さない医師を自由に採用しようとしても、その病院を支配している大学医局が、医局員(医局が派遣している医師)を引き上げるなどの対抗措置を取れば、欠員が補充できず、病院経営が成り立たなくなるので、できません。これが、医師の人材市場において医局が強い権力を持っている所以です。
医学部以外での人材市場では、博士は供給過剰で、こうした問題はありません。それにもかかわらず、教授の推薦が就職に際して重要な役割を果たすのは、日本の大学では、終身雇用制が厳密に守られており、採用後、好ましくない人材であると気がついても、解雇できず、そのため、採用に際しては、権威ある第三者による身元保証が必要であるからです。これはブランド大学にのみ限定される話ではありません。むしろ、出身大学にブランドがないほど、ブランド力のある教授による推薦が必要になってきます。
原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.
■日本中に、やくたたずの インフレ「法務博士」号は、あざわらわれ、取得者の うらみぶしが、うなりをあげることだろう。
■しかし、挫折者の数・専門学校に「すてられた」学費、試験の難関ぶりに反して 実社会で異常なぐらい過小評価される、典型的資格といえば、税理士さまが、あるではないか? いまや 税理士は、開業した税理事務所を顧客ごと ひきつがねば、まったく わりがあわない資格といわれている。
■歯科医師なども、それに準ずるのではないか? 法律家だけ、こわだかに その養成を 問題視するのは、それこそ、特別視=特権視、あるいは 大学院制度全般の否定など、別の「真意」を、うたぐってしまう。在野の「哲学者」には、一種 異様なほどの 粘着質な権威主義をかんじるしなぁ(笑)。
原名さんは、冒頭ですでに「ハラナも、大学院の定員拡大は、大問題だとおもっている」と書いていますが、ここから既に私と問題意識がずれています。私が考えている余剰博士問題の本質は、大学院の定員拡大、およびその結果として生じる博士の数の増大ではなくて、教育と称する官営ビジネスが、資格を武器に、民間の教育ビジネスから仕事を奪いつつ、税金を無駄に使いながら、民間需要を無視した経営を行っている点にあります。ですから、もしも教育産業が、市場原理の機能する民間企業によって担われるのであれば、ドロップアウトが出るぐらいに競争が激化しても問題はないし、むしろ人材市場における消費者の利益という観点からすれば、競争の激化は望ましいとすら言うことができます。
なお、税理士の上位資格である公認会計士に関しては、2004年以降、会計大学院が設立され、ここでの教育課程を修了すれば、短答式試験での財務会計論、管理会計論、監査論の3科目を免除されるようになりました。しかし、会計大学院を修了しなくても、公認会計士になる道が残されており、この点で、法科大学院よりも社会的弊害は少ないと言うことができます。
原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.
■ちなみに、「教育機関はすべて市場原理の機能する民間企業に委ねるべきである」という、産業界がよろこびそうな、発言が、小学校には、通用しないことは、岡崎先生の論文を参照した「託児所としての小学校」の一連の分析で、わかるよね?
■ケア労働が ほぼ民間だけでなんとかまわっているのは、家庭の事情に いっさい介入しない(する必要を 感じられていない)幼稚園だけ、という現実を、ちゃんと ふまえておこうね。
■小中学校を すべて私立学校に きりかえたら、ものすごい 奨学金を大量に用意しないかぎり、学校にいかせない(いかせることができない)「保護者」が 大量発生することも、ほぼ確実だろう ていう、予測もね。
「託児所としての小学校」がアクセス不可能になっているので、どういう議論がなされているのかわかりませんが、幼稚園は民営化できても、小中学校は民営化できないというのはおかしなことです。小中学校に国や自治体が支出している金を教育バウチャーに回せば、指摘されているようなことは起きないでしょう。
原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.
■それと、「大学は規制と補助金で守られているから、腐ってもなかなかつぶれない」っていうけど、私立大学の実態は どう? 毎年のように つぶれる 地方の弱小私大は おくとして、首都圏や近畿圏の私大、一向に つぶれそうにないんですけど。まさか、つぶれない 私大が みんな 「競争原理ゆえに、国公立の平均水準より 総じて まとも」とか、「私大も ものすごい 規制と補助金で守られているから、国公立と同類」とか、いわないよね(笑)?
■国公立の先生方も、私大の理事会も、どっちも、おこるとおもうよ。「私大と一緒だと? バカにするな!」とか、「旧国立みたいに 補助金で守られているなら、ヒトあつめ、カネあつめに、こんなに ちまなこに なってない!」ってね(笑)。
大学の淘汰はすでに起きていますが、問題は、大学が、教育の良さではなくて、立地条件の良さや創立の古さや設置者の違いで選別されているところにあります。これは、大学が、教育機関としてではなくて、評価機関として機能していることが原因であり、だからこそ、私は、教育機能と評価機能の分離を主張しているのです。
原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.
■ともかく、なんらかの「資格試験」を課しさえすれば、「到達度」が客観的に測定できて、市場原理にも、のる。そうすれば、教育機関=過程の 客観的評価も 可能で、万事正常化し、まるくおさまる、なんて、幻想だよ。
■まさか、就職戦線や大学入試/高校入試という、「一発試験」制度が、大学/高校/中学の 客観的な 教育効果を 測定しえている、なんて、いわないよね?
■現行の英検や司法試験や教員免許や医師国家試験が、それぞれの分野の適性について充分客観的な能力を測定しえているとか、適当な人材をえらべているといった想定が、あやしいのも、おなじことだ。
■教育機関=課程の「出口」「上位」に、市場原理にねざした民間ベースの資格/選抜試験をおこうが、国家管理の資格/選抜試験をおこうが、「内部」を競争原理にそって正常化できるっていうのは、あやしい。
■「測定」には、「誤差」がつきものだから、「市場」が実際に「つかいがって」を たしかめるまでは、わからないんだよ。
資格試験による客観的評価が高いからといって、顧客による主観的評価も高いとは限りませんが、だからといって、客観的評価を行う資格試験が不要であるということにはなりません。顧客がその都度採用試験をするのは、コストがかかりすぎるので、評価者によって評価が大きく変わらない客観的評価は、第三者機関が行い、他方で、プロセス重視の主観的評価は、評価者によって大きく変わる可能性が高いので、資格付与の段階では行わず、顧客に委ね、不適格者は市場原理で選別する方が合理的です。
原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.
■ちなみに、数年まえだが、司法研修所の教官(たぶん、検察官で出向しているひとだったと、記憶しているが)が、「いまどきの修習生(研修中の合格者)は、予備校のテキストが例示する論点しか、しらない。あげる論点で、どこの予備校か わかるぐらいだ。自分で徹底的に かんがえぬくタイプが、激減した。問題だ」と、なげいていた。
■これが、「いまどきの わかもの」論だったら、いいんだが、ハラナは、そうじゃないと、にらんでいる。
■「塾を学校に」論を 先日批判したが、本質は おなじだと、おもう。「民間にまかせ、市場にゆだねる自由競争」ってのは、えてして、こうなる宿命をかかえると……。
それは、予備校が予想するような典型問題しか作ることができない教官の側に問題があるのではないのですか。もしもその教官に「自分で徹底的に考え抜く」能力があるのなら、予備校が予想もしないような独創的な問題を出題して、修習生に「自分で徹底的に考え抜く」能力があるかどうかを見定めることができるはずでしょう。今時の修習生には自分で徹底的に考え抜く能力が不足しているなどと偉そうなことを言う前に、自分にそういう能力があるのかどうか自問してみるべきでしょう。
「民間にまかせ、市場にゆだねる自由競争」が自分で徹底的に考え抜く能力を奪うというのもおかしな話です。自分で徹底的に考え抜く能力は、自由に選ぶ権利が与えられて初めて育つものであって、上意下達の官僚システムにおいて育まれるものではありません。公教育のもとで、プロセス重視の教育をやっても、思考力は向上せず、逆に、PISA(思考力を試す国際的な学習到達度調査)での日本の順位が低下したことからもわかるように、政府が教育ビジネスに参画し、プロセス重視の評価を行って、法曹を選抜すれば、自分で徹底的に考え抜く法曹が育つなどという法科大学院設立の大義名分は、あやしいものです。
7. 参照情報
- 水月昭道『ホームレス博士~派遣村・ブラック企業化する大学院~』光文社 (2011/8/5).
- 水月昭道『高学歴ワーキングプア~「フリーター生産工場」としての大学院~』光文社 (2007/10/20).
- 榎木英介『博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか?』ディスカヴァー・トゥエンティワン (2010/11/16).
- 山田剛志『搾取される研究者たち~産学共同研究の失敗学~』光文社 (2020/3/30).
- 渡部 容子, 永山 茂樹, 立松 彰, 青年法律家協会弁護士学者合同部会『法科大学院はどうなる 若手弁護士の声』花伝社 (2016/7/15).
- 森山文昭『変貌する法科大学院と弁護士過剰社会』花伝社 (2017/10/13).
- ↑大学審議会(文部科学省).「大学院の教育研究の質的向上に関する審議のまとめ」1996/10.
- ↑「大学院肥大化のツケ」in『日本経済新聞』連載(2005/02/25-27).
- ↑文部科学省.「博士号取得者の就業構造に関する日米比較の試み -キャリアパスの多様化を促進するために-」平成15年12月.
- ↑『読売新聞』2004/07/18.
- ↑『読売新聞』2005/05/02.
- ↑日本の大学院がどういうところか知らない人は、「大学院教育 その恐るべき実態」あるいは「悪徳慶応義塾大学を告発する」などの、元院生による内部告発のサイトを御覧いただきたい。
- ↑「大学院肥大化のツケ」in『日本経済新聞』2005/02/25.
- ↑J-CASTニュース.「パナソニック採用の8割外国人」2010/6/20.
- ↑大学審議会(文部科学省).「21世紀の大学像と今後の改革方策について」平成10年10月26日.
- ↑「大学院肥大化のツケ」in『日本経済新聞』2005/02/27
- ↑尾上伸.「大学院教育 その恐るべき実態」2000年02月06日.
ディスカッション
コメント一覧
永井さんの主張にほぼ賛成ですが、部分的に異論があります。
医師の場合、病院が安定的に確保することが困難であるため、教授の権力は強大になりますが、弁護士の場合は現在のところ供給不足ということはありませんし、十数年で倍以上に増員されることから、将来供給不足になることもないと思います。したがって、事務所側からみれば、別に大学に頼らなくても人材確保に困難はないので、教授が弁護士人事を支配することはないと思います。
また、医学部の場合、卒業後も大学病院という組織に医師がつなぎとめられるのに対し、弁護士の場合は、卒業してしまえば、大学院とのかかわりはほとんど切れてしまうので、いつまでも教授の支配が及ぶとは思えません。
また、大規模な法科大学院では、100人近い学生を一人の教官が指導しています。学生は、教授の研究の手伝いをする必要もありません。
したがって、一般の大学院と異なり、学生と教授に濃密な人間関係があるわけでなく、単位の授与も期末試験の出来でほとんど決まってしまいます。ですから、不勉強で試験が出来なかった場合に、単位をくれるようお願いにいくような場合を除いて、教授に媚を売る必要はありません。
2005年2月15日に、埼玉医大の卒業試験の内容を漏らし、1200万円を受け取って懲戒解雇になった講師がいました。法科大学院が、司法試験合格のための必須の関門となれば、これと同じことが起きるでしょう。
大学の人事では、博士の供給が過剰になり、就職が難しくなればなるほど、教授の推薦書がものをいうようになるという現象が見られます。教授のお世話で就職したものが出世して、新たに人材を雇う時、その教授またはその学閥の後継者にお伺いを立てるということがよくあります。ボス弁がイソ弁を雇う時にも、同じような現象が起きるかもしれません。
永井さんは、民間企業に≪市場原理≫が有効に機能しているとお考えですか? 「博士は、社会経験が乏しくて、視野も狭く、プライドばかり高くて、役に立たない」という企業の見解は、合理的な競争にもとづく選択の結果なのか、それともたんなる偏見なのか。これによっても議論は大きく変わると思います。
もしPDが役に立たないのが事実であるとすれば、かれらは努力して「失われた時間」を取り戻そうとし、民間企業できちんと働いていくことができるように自分自身を変える必要があります。「プライドが高い」から努力もしない、というのなら、それは完全にPD側の責任となります。
しかしながら、もし役に立たないという見解が偏見で、「ちゃんと仕事についていくようがんばります」と言うPDにたいしても門戸を閉ざすようであれば、それは合理的な市場原理に基づいているといえるでしょうか。むしろ慣習・惰性に由来する偏見の可能性はないでしょうか。
職歴がないとか、よく考える人間は組織にとって脅威だとか、「ふつうに」大卒を採用しておけば無難だとか、そういう意識は民間企業にはないといえるでしょうか。そういう意識があるとすれば、それはあなたのおっしゃる市場原理なのですか?
わたしの考えは、学者として大学に就職するのが難しくても、チャレンジする価値があるということ。しかしそれがうまくいかなくても、研究者になれなくても、それなら民間企業に転身するべく柔軟に身を転じる(気持ちを柔軟に切り替える)べきだということ。柔軟に身を転じるということは、あたらしい環境になればその環境のなかで生きていくようにちゃんと努力することです。そして第三に、そのような柔軟な対応をすることが慣習などの不合理な制度(ヴェブレンのいう支配的思考習慣)によって否定されたり、妨げられたりすることがあってはならないということ。この三点です。
きちんとした合理的な市場原理であれば、これが可能です。いまの段階で「役に立たない」人間でも、努力しようとしていれば、長期的には「遅れを取り戻す」可能性が充分にあるので、博士後期課程を経ているから就職は絶望的ということにはならない。市場原理であれば、とうぜん≪投資≫の側面が雇用情勢にかんしても適用されることになります。誰かを雇うことにはリスクがともなう。「すぐにカネになる」人材のみを探してもうまく行かないことも御存知かと思います。リスクを負って教育・訓練する必要がある。わたしは雇用は投資だと思います。とくに今後は人材不足が懸念されますので、リスクを避けるやり方だけでは合理的な人材配分は実現しないでしょう。
さて、研究に投資のシステムを持ち込むことについては、わたしは大賛成です。ちゃんと競争が成り立っているし、自由で、しかも効率的です。一口に言えば合理的です。まさに≪市場原理≫が貫徹しています。
では、ということで上述の疑念に戻るわけです。研究状況にはこうした市場原理が実際に貫徹しうるのか。また、永井さんが手放しに前提にしている「民間企業は市場原理」ということがほんとうに成り立っているのか。ここに疑問が残ります。
資本主義である≪はず≫の民間企業でさえ、不合理な慣習によって市場原理が妨げられているのに、どうして研究というあたらしい分野に市場原理を持ち込めるのか。仮に持ち込めたとしても、それで充分ではなく、研究者としてやっていけないひとが「別の市場」に身を転じられる可能性がなければなりません。
競争のなかで誰からも投資されない・生活できない研究者は、民間企業に転じるほかはないでしょう。すると、それを受け入れる「市場原理」がないなら、「就職できずに破産し、ホームレスとなって、最後は自殺か野垂れ死にか … これが博士課程進学者の悲しい末路である」状態をいささかも改善しえない。なぜなら博士が多すぎる状況は変わらないので、投資型に変えても、それで全員が包摂されるとはかぎらないからです。むしろ「学力が低下」しているなら、いわゆる「崩れ」は増えるでしょう。それはそれで構わないと思うのですが、それなら民間企業に「合理的なシステム」が備わっているのかどうか、ということなのです。
長くなりました。疑念の要点はまとめれば単純です。「市場原理の機能する民間企業」と言い切れる根拠を教えてください。
ちなみに、高学歴だから給料を高くしなければならない、ということには賛成できません。大学院卒であろうが高卒であろうが、また年齢に関係なく、企業に利益をもたらす人材に高給をリターンすればいいと考えます。「被雇用者はそれだけ高い給与を求める」のも、それにあわせて企業が高い給与を支払うのも、市場原理から外れていると思います。学歴社会でなくなったから、いま、即座に「就学期間」に無関係な雇用情勢に完全になったと言い切れますか? 言い切れないとしたらどうしてそれが市場原理なのですか? わたしが疑っているのはそういうことなのです。
多分これは「政府は学位認定と資格認定を前提条件なしで行い、教育機関はすべて市場原理の機能する民間企業に委ねるべきである」という箇所に関する質問だと思いますが、もんてすQさんは、「市場原理の機能する民間企業」という表現を誤解しているようです。私は「民間企業ならどこでも市場原理が機能する」と言っているわけではなくて、民間企業にも「市場原理の機能する民間企業」と「市場原理の機能しない民間企業」の二種類があるから、民営化という言葉にごまかされることなく、後者ではなくて前者の方の民間企業に教育を委ねようと言っているのです。
民間企業であっても、市場原理が機能しない場合はたくさんあります。例えば、広告で収入を得ているテレビ局は、民間営利企業ですが、新規参入ができないので、市場原理は、不完全な形でしか機能していません。日本には、政府と純粋な民間企業の間に、補助金と規制によって優遇された中間的な企業が存在し、それが日本経済の癌となっています。旧国立大学は、現在民営化されつつありますが、将来とも、「市場原理の機能する民間企業」ではなく、官僚が理事として天下る「市場原理の機能しない民間企業」にしかならないでしょう。私はそういう不徹底な民営化を批判しているのです。
なるほど、「市場原理の機能する」というのは形容ではなく関係なのですね。たしかにその点は誤解でした。これについての疑念は解決しました。おそらくは教育とPDにかんする大部分の相互了解もできていると思います。
民間企業にせよ、教育機関にせよ、もっときちんと市場原理を制度として導入することは、おっしゃるとおり必要なことだと思います。市場原理は絶対万能とまでは言い切れないけれども、それでも、日本のさまざまな問題について、適切な競争システムによってまだまだ解決しうるところがたくさんあると思います。
市場原理が機能しているような民間企業、わたしの見るかぎりそう多くはありません。とりわけ労働市場にかんしてはそう言えると思います。教育のみならず、まさに企業自身への≪市場原理の導入≫がなければ、”末は博士かホームレス”という問題は解決しないと思います。これは男女間の格差や年齢の問題、そしてニートやパートタイム労働の問題にもひとしく言えることです。
いずれにせよ、働くことの意義も含めて、多様な人間と労働のシステムとのあり方については、わたしの現在の考察課題であります。そのなかで、永井さんのこの論文はとてもよい刺激・判断材料になりました。ありがとうございました。
司法試験から行政法が消えましたが、かなりの弊害が将来起こると推測されますが、御意見があればお聞きかせ願います。
司法は法曹人口を制限し、国民が係争するチャンスを間接的に抑制してきた感がありますが、修士程度並の弁護士達が量産されれば、米国並の法治国家に移行しやすいメリットもあるのではないでしょうか?
司法試験での行政法廃止や公益通報者保護法(という名の内部告発規制法)制定の動きを見ていると、どうも政府や企業は、スキャンダルを暴露されたり訴えられることをかなり嫌っているようですね。
弁護士の数を増やすには、定員の枠を広げればよいのであって、それは司法試験が純粋な資格試験であっても実現できることです。公権力が教育に介入するよりも、自由市場で弁護士間の競争を激化させた方が、弁護士の質の向上に資することでしょう。
教えて下さい。
①大学院博士課程まで物理学を勉強し、そのまま大学に残って研究する人
②大学院博士課程まで源氏物語を勉強し、そのまま大学に残って研究する人
永井さんのおっしゃるように、教育と研究に市場原理を導入されると、
①の人は、営利の投資会社や政府の報奨金によって、生活できると思います。
②のように現在生活している人は、職を失うのでしょうか?
また、
③音楽大学にて声楽を勉強し、自宅にて勉強を続けている人
②と③の違いですが、②の人は研究することでお金をもらえていますが、③の人はもらえません。なぜこのような差が生まれるのでしょう?
市場原理が導入されると、科学に貢献する学問を勉強することで生活は成り立つが、それ以外の学問を専門に勉強しても生活はできなくなるということでしょうか?
私が提案した研究支援方法は、学術一般に適用できると思います。学術とは、学問と芸術を包括的に言い表す便利な言葉です。
これまで、学術に対する補助金は、業績に対してというよりも肩書きに対して支払われるという傾向が強かったわけですが、私が提案した方法なら、組織に所属しているかどうかということは関係がなくなります。
源氏物語の研究と教育の両方をやっていた人が、市場原理の導入により、直ちに教育者としての仕事を失うということにはならないでしょう。単位や学位が出るわけでもないカルチャーセンターで、源氏物語の講義を行って生活している人もいるのですから。
問題認識は共有しておりますが、ご提案の報奨制度には疑問が残ります。
理系の場合、優れた研究成果は市場での収益と結びつく構造があり、市場原理が実現されていますから、さらに報奨制度を設けたとしても、博士の就職難という事態は改善しないのです。理系の研究では実験設備が必須であり、大学や企業に就職せずに研究を続けることは事実上不可能でもありますから、企業は単に研究者を雇用するだけでなく、実験設備を含めた投資が必要になります。言い換えれば、実験設備に見合った研究者数は報奨程度ごときでは変化しないということです。
したがって効果があるとすれば市場原理が作用しにくい人文芸術分野なのでしょうか。しかし被引用件数が多い優れた研究者が大学に就職できないということが現実にありうるのでしょうか。また被引用件数を客観的指標として報奨するならば、報奨目当てに仲間内での相互引用が激増して混乱に陥るのではないでしょうか。
私はこうした分野にこそ、科学技術以上に本来の市場原理が作用する可能性があると考えています。個人金融資産1400兆円が、たとえばカルチャーセンターを拠点に個人の研究者に流れる仕組みができても良いのではないでしょうか。また政府や企業や大学のブランドに依存するのでなく、NPO活動としての研究者支援も可能なはずです。ただし研究者もそれなりの覚悟が必要ですが。
数学とか、天文学とか、古生物学とかの研究は、営利企業では無理でしょう。
ベンチャービジネスだって、最初から巨額の投資を必要とする事業からは始めませんよね。研究者も、最初は、金のかからない研究から始めて、信用と集金力を高めてから、高額の施設を必要とする研究をすればよいのです。
人文科学や社会科学の分野では、論文を全く書かない教授や助教授が定年まで居座るということがよくあります。
グーグルがページランクの決定でやっているように、ランクが高い著作からの引用を高くカウントし、ランクの低い者どうしが相互に引用しあっても、ランクの向上に効果がないようにすればよいのです。
現行司法試験では行政法は廃止されましたが、新司法試験では必修科目として復活します。それについて反対の動きがあったという話もききません。
現行試験での行政法廃止は単に修習期間短縮により、選択科目を廃止し、民事訴訟法と、刑事訴訟法を必修化する必要があったというだけで、あまり深い意味はないのでは?もちろん結果として弊害はあるのでしょうが。
情報ありがとうございます。法科大学院の関係者にとっては、政府が訴えられないようにすることよりも、自分たちの授業数を増やすことの方が重要なのでしょう。
私は嘗て学研都市の研究会に参加していました。遠隔学習の実験です。
まだダイヤルアップが主流だった時代に150メガの高速大域を仕様して近い将来にどういう社会となり学習システムが必要か調べました。
多くの大企業の人々は配置換えになったりしましたが私は関西のある学部長と国際的な遠隔教育システムをプロト実用化までもってきました。
教育の改革には最新の武器(技術システム)と国際的な枠組み、そして、実社会側のニーズが一致する事が不可欠です。3点に重点をおきました。
ただ特徴としては私たちは勉強する気も無いメディア信奉の馬鹿学生が嫌いだという事です。5%程度の選抜した学生だけに口コミでしか広げるつもりはありませんが新しいタイプの教育も生まれつつあります。
あとルネッサンスのパトロンは資産家でした。日本にも5%程度は正当な資産家がいます。
日本の知の革命は起きていますがやはり見えにくい形です。
遠隔教育/e-Learning は、既存の学生よりも、働いている社会人にとって有用な教育方法でしょう。「勉強する気も無いメディア信奉の馬鹿学生」でも、社会に出てから「もっと勉強しておけばよかった」と思うものです。しかし、職を棄てて大学院に入学するのはリスクが大きすぎるので、通信教育が好まれる傾向があるようです。アカデミズムに篭っていると、実社会に疎くなるので、働きながら勉強し、勉強しながら働くという方が良いと思います。
そちらも言われるまでもなく実際に全速力でやっています。しかしながら長期的な視野に立ち、一時的にせよ出費と労力がかさむ勉強を何人の大衆労働者層が選択するとお考えでしょうか?それに実際、現場の場数を踏んだ教官の数が全く足りないのです。1人のベテランパイロットが養成できるのは半年で4名程度でしょう。最新の遠隔教育システムでカバーを考えていますがまだ時間がいる。
今年、恐らく世界の石油生産はピークをつけます。後は減る一方です。嘘八百のデータを捏造してもガソリンスタンド価格は誤魔化せません。
石油生産量が来年から減少? 「オイルピーク」論争(上)2005年06月03日
急いぎに急いでも日本だけで20年で2000万人が死亡する可能性がある。代替エネルギーというのはそんなに簡単には進みません。燃料電池に変更するだけも交流から直流への切替が必要です。私が今いるアジアの小国でさえも未来を考えその対策を打っています。今日の午後からその会議があります。
知の大衆化は日本を奈落の底に落としました。品性を忘八レベルの経営者を祭りあげテレビで馬鹿騒ぎ。せめてこれ以上のエネルギー浪費を抑え戦争などを回避する方策を考えても馬鹿の大衆が結果として減少するまでは手の打ち様がない、、、
支配者が少数なら直接会って説得する方法もあるし、大学の学長や教授を説得して彼らに説明してもらう事も可能です。私は諸外国ではこれをよく使いました。完全に硬直化し腐敗化し大衆化し愚劣化しそれを自覚していない衆愚政治の国につける薬があるなら本当に教えて欲しい。私が唯一見つけた方法もまだまだ時間が必要です・・・
石油がもうすぐ枯渇するという予測は、オイルショック以来何度も出ていますが、外れ続けています。石油は、木炭や石炭がかつてそうなったように、枯渇する前に、主要エネルギー源ではなくなるでしょう。
私は、燃料電池などやめて、メタンガスを直接燃やせばよいと思っています。そうすれば、既存のインフラをそのまま使うことができます。
エネルギー革命が今回も起きるなら人類の大量死や世界大戦が発生するという事にもなります。
私の考えは形を変えた低劣度世界大戦の発生と大量死とエネルギー学名が発生すると見ています。日本の唯一の資源は人材ですがさてこちらの知的枯渇の方はいかがになると思いますか?
今日の石油価格は1ドル、58.82セントです。
もう後少しで産油国優位態勢が整うでしょう。
最高神エンリルの罰が訪れるのも遠くは無いでしょう。
もう既に枯渇しつつあると思います。日本人の学生の学力低下があまりにもひどいので、最近では、アメリカの大学院も、日本の学生を受け入れなくなっているそうです。
研究への市場原理導入というアイデアに賛成する者ですが、報奨金システムは無理がありませんか?
報奨金は論文の被引用回数に応じて機械的に定められると有り、さらに、重み付けを使って内部引用等のインチキをなくすと言うことですが、論文のピアレビュー制度自体に金のやり取りを保証するほどの信頼性が無い事や、分野に応じて一報の価値が異なることなどを考慮すると、実現は難しいという印象を受けました。
自分なら、
エディターに賄賂を送る、
新規の雑誌を立ち上げて私物化する、
内部引用ではなくタスキ掛けの引用仲間をつくる等々、
インチキ技の開発に努めるでしょう。
そこで対案ですが、研究費を企業および個人の寄付でまかない、寄付分は納税額から控除するというアイデアはどうでしょうか。
つまり、
納税者→政府(税金)→研究者(研究費)
と言う構造から、
”政府(税金)”の部分を中抜きしてしまおうというわけです。
メリットは、
少人数が莫大な金額の予算配分を決定する現在の”クローズド”システムと異なり、関心を持つ多くの人々が関与すること(”オープン化”)で予算配分の妥当性が増す。
払う人と受け取る人の顔が直接見えることで、研究者の説明責任、費用対効果の追及に対する意識が増す(責任の所在の明確化)。
人々が身銭を切ることで学術に対する意識があがる(自動的な学術啓蒙の推進)等々。
ホームレス博士問題の解決に直接のつながりは無いですが、
システムの健全化は博士号所持者を含む関係者の幸せに寄与するだろうと思います。
「自分なら、エディターに賄賂を送る、新規の雑誌を立ち上げて私物化する、内部引用ではなくタスキ掛けの引用仲間をつくる等々、インチキ技の開発に努めるでしょう。」
そういう方法で、例えば、グーグルのページランクを上げることは難しいし、学術論文のランクを上げることはさらに難しいでしょう。学術論文のランクを上げるには、ランクの高い論文から引用される必要があるわけですが、ランクの高い論文を書く学者は、ステータスが高く、スキャンダルのコストが高いので、それだけ買収は困難です。
「そこで対案ですが、研究費を企業および個人の寄付でまかない、寄付分は納税額から控除するというアイデアはどうでしょうか。つまり、納税者→政府(税金)→研究者(研究費)と言う構造から、”政府(税金)”の部分を中抜きしてしまおうというわけです。」
税金を控除するということは、補助金を交付するのと同じで、政府が介入することを意味します。ご提案の方法だと、節税目的で、私的なコネによる寄付とか、私的な利害の絡む研究への寄付とかが増えるので、好ましくありません。
ご返事ありがとうございます。
さて、
「そういう方法で、例えば、グーグルのページランクを上げることは難しいし、学術論文のランクを上げることはさらに難しいでしょう。」
「ランクの高い論文を書く学者は、ステータスが高く、スキャンダルのコストが高いので、それだけ買収は困難です。」
googleで1位、2位になるようなエライ科学者については、仰るとおりでしょう。確かに、裏技でgoogle順位を2位を1位に、10位を5位に上げるのは難しいかもしれません。
でも、10000位を5000位に上げるのはどうでしょうか?
自分は簡単だと思います。
そして報奨金制度下では、10000位を5000位に上げることでさえ十分なインセンティブが働くでしょう。
さらに、ランキングを上げるための”裏技”が日本の研究者の間だけではやることで、世界の研究者は大いに迷惑するでしょうね。
「税金を控除するということは、補助金を交付するのと同じで、政府が介入することを意味します。」
おっしゃる意味がよく解りませんが、仮に、税金も寄付(=補助金)も政府の介入という点で同じだと認めたとしても、使い道に注文をつけることのできない”税金”と、寄付先を選択することのできる”補助金”では、どちらがオープンなシステムであるか自明のことと思います。
「節税目的で、私的なコネによる寄付とか、私的な利害の絡む研究への寄付とかが増えるので、好ましくありません。」
確かに、自分なら、自分の研究に寄付しますね。
しかしながら、その額はどれほどですか?
例えば、控除可能な寄付総額を納税額の10%までと決めればよいだけです。
一箇所あたり最高1%までと決めても良いかもしれません。
親戚一同に頼み込んでも、十分な額が集まるとは思えませんよ。
むしろコネで手に入れた研究費を放蕩することなんてできませんから、費用対効果を考慮した研究ができるのではないですか?
「私的な利害の絡む研究への寄付」が問題になるのは主に企業(法人)からの寄付でしょう。この場合は、寄付額に対して控除額を(例えば)8割に減らす等の工夫により、自前で研究あるいは寄付を仲立ちとした共同研究の、どちらが得かの判断を各企業に任せることが可能でしょう。
その際には企業と研究室のコミュニケーションが増し、結果、研究室に埋もれていた”優秀な”博士に企業就職の道が開けるという、おまけの効果も期待できます。
追加アイデアとして、寄付先は、研究室、学科、大学もしくは研究所のいずれでも良いように制度設計することが可能です。また、ある種の財団法人を設立して広く寄付を求め、そこから各研究テーマに再分配することもアリでしょう。そのような財団は投資効果の高い研究テーマを選定し、その成果を大いに宣伝しなければ、財団への寄付が減ってしまうでしょうから、文科省にまかせるよりはよっぽどましな科学ジャーナリスト(博士)が誕生するでしょうね。
まとめると、
1)peerレヴューと任意の引用制度に基く現在の論文公開制度に、お金がダイレクトにからむ評価制度を100%リンクさせることは心もとない。
2)コネによる寄付、大いに結構。
個人のコネが制度に及ぼす影響(歪み)と、企業と研究者間のコネによる歪みは、制度の調整いかんでコントロールが可能である。
むしろ、泥のついた1万円札で、科学者の無駄遣いを抑制しよう。
こんなところでいかがでしょうか?
お返事をいただけると幸甚です。
検索順位が1万位から5千位になったところで、そのページのアクセス数はまったく増えません。科学論文でも、順位がその程度上がっただけでは何のメリットもありません。なぜならば、私の考えている制度では、ごく少数の高ランク論文に莫大な金が支払われるからです。その金は、投資家のところに行き、科学者のところには行きません。投資家にとっては、宝くじのようなものですが、これが投資意欲をそそるのです。そして、科学者には、比較的少ない金が、もっと幅広く与えられることになります。
◎ 冒険はなぜ楽しいのか
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2001/adventure-wanderlust/
投資家は、自分の金を賭けているので、その分野に精通し、有望な研究の評価をまじめにします。
これに対して、政府であれ、節税希望者であれ、何であれ、成果に対して責任を負わない人が投資を決めるとき、投資は非本来的な動機で決められるようになります。
私がいっている私的コネは、もっと幅広いものです。多くの人は、専門的な科学論文の価値を自分で判断する能力がありませんので、自分の母校の研究者だからとか、地元の大学の教授だからとかいった非本質的な理由で、寄付先を決めます。血縁だけでなく、学閥や地縁もコネのうちです。
哲学とか古生物学とか、営利企業にとって魅力のない学問はどうするのですか。公的な枠組みでの研究補助を必要としているのは、企業が興味を持たない学問でしょう。企業にとって必要な科学技術は、公的枠組みがなくても、支援されます。
大学院は無法地帯です。
絶対権力者の教授がいて、逆らえば学位をもらえません。
モラルもないですし、
労働者のように組合もないですし、
時間外労働を取り締まる法律さえ無いのではないでしょうか?
アカハラも、セクハラもあたりまえ。
死にたいです。
死にたいし、自殺するひとも多いし、
精神的におかしくなる人は数多いです。
死ぬ覚悟があるならば、大学院をやめて、自立してみることを考えてはいかがでしょうか。お上の助けなしに生きていくことは、経済的には大変ですが、精神衛生上好ましいと思います。
皆さんいろいろと意見があって、興味深く拝見させていただきました。
研究の市場原理に関しては、私は反対の立場を取らさせていただきたい。実際、今現在博士課程に属しているので、いろいろなことが見えてきています。研究に市場原理を持ち込む=有名教授に資金が集まる。これは間違いのない事実で、新しい研究者を生み出す足かせになりかねません。実際私の所属する研究室の教授は名ばかりは有名です。資金も豊富で、企業献金やつてをつかった科研費が膨大になり、教授に媚いる他の教諭たちにばら撒いているほどです。そうなると、市場原理ではなく、企業に顔がきくかきかないかの問題に摩り替わってしまう恐れがあります。論点がだいぶずれた文章になってしまって申し訳ないですが、そう思います。
途中に「グーグルのページランクを上げることは難しいし、学術論文のランクを上げることはさらに難しいでしょう」ということが書かれてありました。
はっきり言って、それは間違っています。
(「自分なら、エディターに賄賂を送る、新規の雑誌を立ち上げて私物化する、内部引用ではなくタスキ掛けの引用仲間をつくる等々、インチキ技の開発に努めるでしょう。」
そういう方法で、例えば、グーグルのページランクを上げることは難しいし、学術論文のランクを上げることはさらに難しいでしょう。学術論文のランクを上げるには、ランクの高い論文から引用される必要があるわけですが、ランクの高い論文を書く学者は、ステータスが高く、スキャンダルのコストが高いので、それだけ買収は困難です)
このコメントも私は違うと思います。全てはコネクションです。私の所属する研究室の教授の知名度は抜群です。しかし、研究内容は時代遅れもはなはだしく、はっきり言ってやる意味が学生にも分からないほどです。でも上位ランクの学術誌に掲載されます。それはエディターやら関係者に知り合いが多く、教授の権力が上回っているため逆らえず、落とせないのです。「ぼくはね○●の論文におちたことがないんだよ」。ちなみにここに入る学術誌はその分野で上位から数えて五本の指にゆうに入ります。所詮、そんなものなのです。また、「ランクの他愛論文から引用される~」とありますが、これにもからくりはあります。第一に、有名教授になればなるほど教え子が多くいたり、知り合いの教授陣が多くなります。彼らに引用を進めるのです。無理やり。不可能な話、とお思いになられるかも知れませんが、実際起きているので否定のしようがありません。また、高い論文ほど高い論文を引用すれば載りやすい、というのは知れたことです。
長々と稚拙な乱文を書いてすみません。
ただ、現在の博士たちの置かれた現状は悲惨です。企業に面接に行くと真っ先に聞かれるのが「あなたは博士だけど、うちでは修士生と同じあつかいになるから」ということ。
なんのための博士課程なのでしょう。私は博士課程のある意味はやはり、教授の地位向上のためのロボット製造だと考えています。
日本国内の学術誌ではそういうこともあるかもしれませんが、Nature や Science といった世界トップレベルの学術誌では、そういう話は聞きません。むしろ、日本の大学で問題なのは、論文等の業績が、必ずしも人事や待遇に反映されていないことにあると思います。
永井俊哉様
反論するわけではありませんが、たしかにNature,Scienceではあまり聞かないかもしれませんが、無いわけではありません。
実際に私の申す学術誌(科学系ではインパクトファクターから見ても上位)は、国内雑誌ではありません。
欧米の有名雑誌です。
有名雑誌一報 = 国内雑誌数報 ほどの差があります。
永井俊哉様がおっしゃるとおり、業績が人事・待遇に反映されないのも事実。くだらない研究をして論文を数多く出した人と、有名雑誌に数報出した人。どちらを採るか、といえばおそらく後者のほうが確率が高いでしょう。
でも、ここに最も影響を与えるのが後ろ盾だと思います。
論文の内容がいくら良くても、担当教授との温度差が投稿する学術誌にもだいぶ影響がでます。
一つ疑問が浮かんだのですが、現在、日本に「博士」の必要性はあるのでしょうか?
先日の新聞に、東大か早稲田か忘れましたが、博士を持っていない教諭が殆どだという記事を見ました。
そういう意味からみても「博士」を国内で持っている意味とはいったい?
100人の博士課程の人の内、20人が精神的な病になるという統計もあるそうですが、このあまりにも高い確率なのは、受け皿だけの問題ではないように思えます。
根本的に何かがおかしいとしか思えません。
永井俊哉様の投稿は正直、「ごもっとも」と思えます。
ご指摘の問題は、ピア・レビューが抱えている問題と思います。この問題を解消するために、最近、Nature は、ピア・レビューなしで、ネット上で、自由に論文を公表することができる Nature Precedings と呼ばれるサービスを始めました。
一般公開時での評価が、掲載の可否に反映される仕組みを作れば、密室審査に付きまとう不透明さをかなり軽減できるのではないかと思います。
たぶん、論文1報につき、人柱がたってます。呪いがつまってます。
准教授が機嫌が悪いと怒鳴り散らします。
言う事を聞かないと、男子学生に殴り掛かるポーズをとります(実際引きずりまわしたことはあります)。
気に入らないことがあると、准教授室に連れ込んで鍵をかけ、2?3時間罵倒され続けます。(ちなみに私は女です)
「やめろ!学位はやらない!言う事をきけ」
精神的に病んでる学生が数人いて、
2人くらいは精神安定剤を飲んでるために、ふらふらしながらラボにやってきます。
誰もが知ってる有名大学です。
独身の秘書には優しく、ホテルでのお茶に誘っています。
新しく2つめのマンションも購入したそうです。
その間、大学院生は搾り取られ、ぼろ切れのように捨てられていきます。
朝9時から夜12時(普通に夜中の3時をまわってるときもあります)。
医学の進歩のために、病の人のためにと思って入ってきた若い学生を踏みにじり。
こんな日本に、研究に未来は無くていい。
みなさんの議論をみていると、博士課程に進学するのをためらってしまいますね。しかし、それが現状なんでしょうね。
博士課程に進むには余りにリスクが高い。ポストにつける可能性が余りに低く、民間への就職は困難。おまけに奨学金と言う名の借金。金持ちの子弟以外は勉強するなってことですかね。
そこで、まず必要なのが民間企業の学部新卒至上主義を改善することだと思います。2008年末から世界中が不況になり日本もそれに巻き込まれました。そして非正規社員の問題が急激にクローズ・アップされるようになっています。彼らの多くは新卒の流れから外れた人で、その流れから外れれば元に戻ることは非常に難しい。同い年の人が年功序列で給料が上がっていく反面、ほとんど昇給はなくワーキング・プアになってしまう。
不景気の中、従来の日本型経営への回帰が叫ばれてもいますが、学部新卒至上主義と年功序列のセットでは取り残された人の苦境は変りません。確かにそれが自己責任だといわれればその通りなのかもしれませんが、それでももう一度やり直せるチャンスがないのはおかしいと思うのです。過ちを犯さない完璧な人間などいないのですから。
それは、博士課程に進学した人にも言えます。ポストにつけなかったとしても再び努力すればやり直せるチャンスをつかめるようにしなければなりません。そうしなければ優秀な人材が集まらなくなる。
ただ、このような慣行を改めるのはなかなか難しい。そこで、まず公務員から変えるべきだと思います。研究者を目指した人の場合、挫折したときたいてい年齢が30を超えてしまいます。この場合ほとんどの公務員は受験不可能。
しかし、公務員試験に年齢制限をかける必要があるのか疑問です。不要な人材であれば採用しなければいいだけで受験資格を制限する必要はないのではないでしょうか。公務員は年功序列の賃金でなければならない必要性があるのかも疑問です。最低限の給料を定めれば能力差を設けてもいいのではないかとも思います。特に警察官は人数が不足しており増員傾向にありますから受験できるようにすれば優秀な人材を集めれるのではないでしょうか。
もっとも、就職というのは結局は採用する側の主観になりますからそこが改善されなければどうしようもありません。人物重視というのは一見よさそうに見えますが、実際は見た目重視ですから公務員試験でさえ偏見やコネがあるのは否めません。制度を変えれば済む話ではないので余計に難しい。ゆとり教育の失敗もそこにあると思うのです(私はそのは理念には賛同する部分が大いにあると思います)。流動性のない社会は活力を失い、やがては恐ろしい事態を招いてしまうと危惧しています。たいてい事の重大さに気づいたときにはもう遅いんですがね…。
長々と失礼しました。
世界はこれで動物社会へと堕落していくだろう。
”たぶん、論文1報につき、人柱がたってます。呪いがつまってます”
に一票。
本当にそうですよ。私はアカハラで論文捨てました。名前はのらないでしょうね。学位どことか大学に戻れません。
大学で訴えても全然学生にとっては、進展なし。結局教授同士の助け合い。
知名度で、実体はない研究がほとんど。時代遅れ。中身なし。教授はテレビでたり、本出したり、学生はブラックライター
科研費報告書も学生。
そして学位をやらないぞと脅し。精神安定剤は飲むな by医師の免許ある教授
命を捨ててまで博士をとるかどうか、
法律馬鹿という言葉があります。
昔から、それほど他のことには目を向けず勉強しないと合格できなかった国家試験の一つであり、首尾よく合格出来れば将来が保証されていた特権への関門だった思われます。しかし、時代の趨勢とともに法律に関わる事象も大変多岐に亘り、法律の専門知識だけでは通用しないものとなり、あらゆる角度からの試験参入へのある種規制緩和的な措置がされたのが法科大学院ではないでしょうか。
勿論、ここには米国からの圧力に近い導入強勢もあったようです。この同一線上に導入されたのが、裁判員制度のようですが、市場原理によるこの緩和措置による裁判上の均衡を図る制度とも言えます。
法科大学院には、法学部出身者を対象とした2年間の法学既修者コースとそれ以外を対象とした3年間の法学未修者コースがあります。後者のコースを設けた理由は、より多くの入学者を集め、より多くの授業料を払わせるためでしょう。
もしも、本当に、そう考えているのであれば、司法試験改革で、従来から行われていた、法律の専門的知識を問うだけの必須試験以外に、それ以外の分野の知識を問う選択科目が課せられるといった改革がなされてもよいのですが、そうはなりませんでした。だから、ご指摘のような崇高な理念は、あくまでも建前上のものにすぎません。
なお、未修者コースの修了者は、既修者コースの修了者よりも合格率が低いです。2008年の数字ですが、未修者コースの修了者の合格率は22.5%で、既修者コースの修了者の合格率よりも21.8%も低かったそうです。
タカマサのきまぐれ時評 : 法律家養成を再検討する
批評を拝見して思うことは、あまりにもドクサで終始している、つまり、ドクサの集積のような内容と感じました。多くのドクサの中から真理を見つけ出すための思想の開きが感じられません。単なるドクサには思想の萌芽を見ることは到底不可能でしょう。それはアリストテレスが批判したプラトンのイデア論によれば第三のヒトが、第四のヒトが必要になってきます。と同時にこれは果てしなく続くものです。懐疑のための懐疑と同じものです。
懐疑とは真理へと連なる思想の開きでなければならないのです。この思想が開き、公的空間に現れ出ることによって、懐疑は真理を求めて他者の力を借りながら言論によってその正当性をつかむものなのです。ヘーゲルが「思想によって正当と認められないものはこれを認めることができない」といったことにこの批評は当てはまるように思われます。
カントの判断力批判、諸学部の争い、そして実践理性批判がこのドクサに対して真理への道程を小さな灯りで照らし出してくれるのではないでしょうか。また、アーレントの政治思想がこのドクサに思考の嵐を吹きかけ、ドクサから思考へ、思想へと止揚してくれるのではないでしょうか。
次の言葉を持ってこのコメントを終わります。
人生とは祝祭のようなものである。競技するために祝祭に来るものもいれば、商売を営むために祝祭に来るものもいる。だが最良の人々は観客としてやって来る。それと同様に、人生においても、奴隷的な人間は名声や利益を追求するが、哲学者は真理を追究する。
投稿されている方々の年頃くらいの子どもを持つ母親です。何十年も前に修士を出ました。専攻は哲学。はっきり言ってまともに就職できませんでした。女子大だったので、教官も面倒味はよくありませんでした。他方面にコネを持って学生を送り出せる力のある方もいらっしゃらなかったとは思いますが・・・。その頃は大学院の実態を語り合える場もなく、おかしなことはだいぶありましたが、アカハラやセクハラという概念も浸透しておらず、学生同士でも打ち明けられずに苦しんでいた方も多かったと思います。本当に教える気があるのかっていう教官、茶坊主の助手など等、今でもきっといるのでしょう。その頃は自分の子どもの時代はもっとフェアで透明性のある大学院になっていることとだろうと思っていたのに、相変わらず繰り返しているこの日本の最高学府の研究・教育って何なんでしょうね。投稿者さんのお一人の方が言っておられた、「若い学生(の真摯な志)を踏みにじり」、という言葉が胸に刺さります。この准教授って人は学生の親の気持ちも大々的に踏みにじっています。こういう輩を法的に糾弾はできないものでしょうか。
ちなみに私の指導教官もろくな授業もせず、また、論文も書かず、笑う哲学者、なんかうそぶき駄文を書いていた、笑われるべきヤツでした。
博士過程をどこにでも置くのは、教育機関としてお金がほしい、ちゃんとした大学、教員もいいぞというハクがほしいからだと思います。
教員の実態はとんでもないところにあります。
学生がかわいそうです。
文系修士。20年前から思うこと。
教授たちも人間なんだなって。
人の研究を自分の実績にしたり、運よく教授の椅子に座ったら最後、薬屋が論文書いて、校正まで薬屋に回している人もいる。
自分の実績のためにどんな手だって使う。
仏語の本を丸ごと学生に翻訳させてバイブルとしていたり、弟子の修論を握って論文書いていたり。
見渡す限り私大のドクターコースに優秀な教員はいませんでした。
したがってあとに続く若手もそうです。
後任はイエスマン、口が堅い人を選びます。
彼らにしても定年まじかの教授につければ数年の辛抱なのでラッキーです。
また中途で入ってくる教授は、名前が知れているムードメーカーに限っています。大学も生き残りをかけ、有名人が必要です。
でも、K先生のような有名な先生に限って、学校をみきって、有名大学に流れてしまいました。そうすれば一生食いっぱぐれがありません。
だから、つぶれそうな大学に限って、タレントを客員教授にしてでも学生を集めます。
最近、東〇大学でもコネがあることを知りました。私大はコネだらけです。お父様が優秀な方でも嘘ばっかり書いているN先生。
お父様が超優秀でもダメダメなO先生。
いいおじいちゃんに見えるんだけれどエゴの塊のI先生。
マスコミ受けするT先生の研究はおかしなところだらけ。
彼らほとんどが定年になりました。
コーヒー、ココアを何杯も飲んだらいいって?
鼻血になりました。その程度です。
でもこの体質は受け継がれていくんだな。そして、後継者に共通しているのは、ドクターを取るのに必死なことです。取れれば何でもいいんです。なんとしても教授の椅子がほしい、指導教諭になりたいだけです。
出来の悪い助手の論文をほめまくる出来の悪い教授。
その意図は弟子が偉くなれば、自分は自動的にもっと偉くなるから。
本当に尊敬できる人には今も出会えません。学生は兵隊です。
今になって捨てるものがないので書きました。
ピントはずれはわかっています。スルーしてください。
今後30年間で大学の統廃合が進むと教授などの大学教員数がたとえ減少しても、大学生の全体数との比率で見るとまだまだ多くなりそうです。「18歳人口」自体がほぼ毎年減少しているので、博士課程を取得しても大学の教員として就職が難しく(新興大学は存続が危ういため)なりますね。恐らく2020年以降は大学統廃合(予備校でも同様の現象が起きると思います)が加速するので、人材の絞り込みはあると思います。私が大学受験をした2000年前後は大学新卒者の早期離職がまだ「まれなケース」でした。ただ、受験者数の減少が続くと運営が悪化して大学閉校、となるケースは有名大学にも起こり得る現象ですか?
もしかすると日本は人口比と進学率で見たら、大学の数が多いんでしょうか?
統廃合は、国公立の大学での話で、私立では、廃校が一般的です。ブランドのある大学にとって、ブランドのない大学を統合することは、メリットよりもデメリットの方が多いからです。早稲田大学が医学部を創設するために、既存の私立医科大学を併合するとい噂を昔耳にしたことがありますが、これは特殊ケースです。
これは,文系を除いた基礎科学の優位性を確立するためのものとして機能しませんか?
コメントでは源氏物語の例が出ていましたが,被引用数という指標自体が絶対数や分野の集約度に左右されると思います。
そうなると,絶対数が少なく,分野が細分化されたような文系学問は,なくていいといわれているようなものではないでしょうか。
古今和歌集の研究者は,源氏物語など引用しないでしょう。
理系のように基礎が統一だという考えでシステム設計をするのはいかがなものかと。
また,ベンチャーは小さな事業から始めるので,最初は資金のかからない研究からというのも,この基準では無理があります。
論文として評価に値するためには,多くの場合高額の標準的な設備が必要とされ,それを使わない研究は,いつまでたっても評価されない分野になってしまうことはないですか?
医学が特別なのは,治す力が大事だからだけではなく,医療の場合は,集約して日本に1つの大病院があればいいとはならないからで,要するに数がいる仕事だからです。
たとえば,教員養成にもかなりの量の人材が必要であり,現状では免許が必要なため市場原理は働く可能性がありますが,免許をやめて試験一本にするなどすれば理系以外の研究者の研究費は全滅に近いのではと思います。
そうすると必然的に大学の教員も(研究を好きでして論文を書く好事家以外には)養成されなくなり,システム全体の設計変更が可能になりませんか。
文学や芸術領域などの教員の養成は必要ないというなら,理解できますが,その時には研究は存在しても教育という営みやそれに対する広範な理解はどのように身に着けさせるのでしょうか。
社会は普遍的なものではなく,文化や環境に規定されたものだと思っていますが,そうであれば,成果だけで教育が必要ないとはならないでしょう。
大学院については悪い部分だけを挙げていますが,それでも学ぶところはあるはずですし,それは市場原理に従えば修得できるようなものでもないでしょう。
問題なのは基本的には博士課程を出ると働けない,という一点であり,大学に残れないということは重要でない気がします。
この論考では,博士があまっていることが問題ではなく,問題はそれが就職できないことにあるのではないですか?
ただでさえお金を払って損をしている人を,さらにシステム上博士課程に行けないようにするのが,システム設計者の仕事ではない気がします。
それは単に可能な選択肢をつぶすだけで,強者をさらに強くしたいだけの強者の立場だから言えるものではないですか。
業績の優劣の度合いを指数化する際、被引用数は絶対値ではなくて相対値として使われるので、そういう問題は起きません。
源氏物語の作者は、現存する研究者ではないのだから、関係ありません。源氏物語に関する研究論文からの引用なら、被引用数カウントの対象になります。
有望な事業であれば、企業の規模の大小とは関係なく、必要な資金が集まるでしょう。
何を言っているのかよくわかりません。そもそも現在、大学の教員には免許は必要ないし、免許が必要な高校以下の学校教師には、学術研究は義務付けられていません。また、提案されている試験は最低限の学力の確認だから、供給のボトルネックになることはありません。むしろ、特定の教育課程の履修を義務付けている現行システムよりも、供給を増やすことになるでしょう。
市場原理を無視するから、市場が必要としない研究者が作られるというのが、本稿の結論です。
そもそも大学院重点化の起因はグローバル化にあります。
なぜなら、海外には大学に6年制学部という概念がなく大学院にシフトしているからです。事実、国際専門資格とか、国際関連分野の就職には院卒の学歴が前提になっています。その他には日本の頭脳の海外流出を防ぐために行ったのもあります。さらに、医療が日本社会で最も閉鎖的になっているのは、医師養成を大学レベルで行っていることが最大の要因です。医師養成は大学院のみでやらないとグローバル化は進みません。
さらに日本社会の一番の問題は、経団連に代表される東証一部上場企業の幹部にあります。政府より地方役場の方に問題があるのも事実ですが、大企業幹部はもっとひどいです。その結果、生産者至上主義の市場経済になり、雇用の大卒新卒至上主義、オウム真理教事件を引き起こした要因であるプロセス不問、学力至上主義となるのです。そもそも官僚みたいに、就職の際に学校名をいまだに問う職場が最優先するのが、現役で二流高よりも浪人して一流高なんてもので、酒の席は事実上、高校の同窓会と化しているそうです。そして博士課程修了生を採用しないというグローバル化と逆行した採用行っているのです。
大学院の定員を増やすことがなぜグローバル化への対応となるのでしょうか。グローバル化に対応したいのであれば、英語で講義を行うことを許可するとか、9月入学制度を導入するとかすればよいでしょう。大学院重点化後も医歯薬獣医学部はあいかわらず6年制学部制度を継続しているので、これは関係がないと思います。
また、定員を増加させたおかげで、日本の大学院の価値は下がり、一流の研究者になろうと思えば、海外の一流大学院に行かざるをえなくなっていますから、「日本の頭脳の海外流出を防ぐ」という点でも逆効果になっています。
やはり、大学院重点化を推進した文部科学省の真の狙いは、社会人の再教育という新たな需要を掘り起こすことで、少子化で需要が減った高等教育を建て直そうという所にあると考えるのが妥当です。
なお、日本の医療界が閉鎖的であるのは、新設が長らく抑制されている大学医学部が、医師の供給を独占しているからで、このボトルネックを広げない限り、大学院重点化をしても効果はないでしょう。また、「生産者至上主義の市場経済」とありますが、生産者至上主義なのは社会主義経済で、市場経済は消費者至上主義です。
なぜ、このように間抜けな抜け穴を作ってしまったのでしょうか?日本医師会のような圧力団体が存在しないため、「法科大学院にも行けない、ハングリーな若者にもチャンスを与えるべきだ」などという謎の天の声を排除することができなかったのでしょうか?
独占で利益が得られるのは業界人だけで、それ意義の人は損害を被ります。だから、大学関係者以外は、独占の失敗を歓迎すべきなのです。