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末は博士かホームレスか

2005年5月21日

もしもあなたが日本の大学院の博士課程に進学すれば、周囲からこうささやかれるだろう。なぜならば、たとえ博士号を取得できたとしても、ホームレスにしかなれないぐらいに、今後、余剰博士の問題は深刻になるからだ。「末は博士か大臣か」と言われた時代は終わった。余剰博士問題はなぜ起きるのか、その根本的な原因を考えながら、問題の解決策を探ろう。

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1. 大学院重点化で量産された博士

余剰博士問題が深刻化した原因を作ったのは、文部科学省の大学院重点化政策である。1996年に大学審議会は、「大学院の一層の量的な拡大が求められる中で,質的な面での抜本的な充実と改革が必要となっている[1]」と大学院重点化の理念を語ったが、量的拡大を行った結果、質が大幅に低下したというのが現実である。

大学院生の数は、この10年で倍近くにまで増え、その結果、大学院の入学試験は大幅に易しくなり、修士論文の水準は、10年前の卒業論文の水準以下になった。このため、技術系社員を修士課程の修了者から採用している企業は、質の低下に頭を抱えている[2]

理系の修士課程修了者は、就職できるだけまだましである。大学院重点化の弊害は、博士課程で顕著である。文部科学省の『学校基本調査報告書』(平成14年度)によると、理系大学院博士課程修了者の内、大学教員等になれた者は、12.6%で、何らかの形で就職できたのは、62.7%である。

博士号取得者の就職率が低いのは、民間企業が、「博士は、社会経験が乏しくて、視野も狭く、プライドばかり高くて、役に立たない」と考えているからだ。実学色の強い工学系分野で比較すると、米国の博士課程修了者の民間営利企業への就職割合が約59%であるのに対して、日本のそれは約26%で、大きな差がある[3]

博士号を取れなかった退学者の就職は、もちろん、これよりももっとひどいはずである。また、文系の場合、博士号をとることなく、博士課程を修了するのが一般的だが、民間にあまり需要がないこともあって、就職状況は理系よりも悪い。2003年の博士全体の就職率は54.4%で、この10年間で約10%低下している[4]

政府は、余剰博士の救済策として「ポストドクター等1万人支援計画」を進め、年間1万人の博士に、公的機関が一時的に職を与えたり、数年間にわたって研究費や生活費を助成したりしている。ポストドクターの数は、2004年度で12500人で、「社会保険の加入状況から推定すると、常勤研究者並みの待遇のポスドクは半数程度しかいない[5]」。しかも、ポストドクターの中には、任期終了後、就職できずに、路頭に迷う人が少なくない。

余剰博士の問題は、今後ますます深刻になっていく。今後、少子化の影響を受けて、大学や短大が次々に廃校に追いやられ、研究職は減り続けていくであろう。しかるに、博士の大量生産はこれまで通り行われる。ますます減り続けるイスをめぐって、ますます多くの博士が競争することになるだろう。しかも、政府も、財政難のため、ポストドクターにばらまく金を増やすわけにはいかない。

かつては、就職できない博士の受け皿となった塾や予備校も、少子化のために倒産が相次ぎ、しかも、最近では、社会経験を積んだ講師の方が人気があるからということで、博士を採らなくなってきている。長年禁欲的に研究に励み、奨学金という借金を背負い、教授の奴隷としてこき使われたあげくに、就職できずに破産し、ホームレスとなって、最後は自殺か野垂れ死にか … これが博士課程進学者の悲しい末路である。

読者の中には、競争が激しくなった方が、優秀な人材が研究職に就くのだから、日本の大学や研究機関の水準を上げるという点では好ましいのではないかと反論する人もいるだろう。しかし、アカデミックポストの人選は、必ずしも実力本位で行われているわけではなく、教授の主観的な好みで行われることが多いので、水準向上は期待できない[6]。むしろ、教授の金と人事の権限が強くなればなるほど、若手研究者たちは、教授の奴隷とならざるをえなくなり、自由で独創的な研究がしにくくなるのだから、逆効果とすら言える。

2. なぜ大学院重点化が行われるのか

ゆとり教育批判で有名な西村和雄は「大学院の重点化は、小・中・高校のゆとり教育と並ぶ文部科学省の失政だ[7]」と言うが、私は、大学院重点化とゆとり教育の目的は同じであると考えている。両者は、少子化で減りつつある公教育の需要を増やすための政策であると考えられる。すなわち、就学者の絶対数が減っても、教育の質を落とせば、それだけ長く学校にいなければならないから、公教育は収入を減らさなくてすむという計算があったと思われる。

では、大卒が高卒レベルになり、修士が大卒レベルになり、博士が修士レベルになれば、以前は文系の大卒を採用していた企業は、修士を採用するようになり、理系の修士を採用していた企業は、博士を採用するようになるだろうか。私は、多分そうならないだろうと思う。

教育の質が低下したということは、企業からすれば、人材のコストが割高になったということである。修学年限が長くなればなるほど、機会費用を含めた教育コストは増大するから、被雇用者はそれだけ高い給与を求める。もしも日本の労働者が労働市場を独占できるならば、日本の企業は、国際競争力を犠牲にしてでも日本の労働者を雇い続けるだろうが、実際には、市場がグローバル化しているのだから、日本企業は、より安くて有能な人材を海外に求めるであろうし、現にそうなりつつある。

パナソニックの場合、10年度新卒採用1250人のうち海外で外国人を採用する「グローバル採用枠」は750人だった。11年度は外国人の割合を増やし、新卒採用1390人のうち、「グローバル採用枠」を1100人にする。残る290人についても、日本人だけを採るわけではないという。大坪文雄社長は『文藝春秋』10年7月号のなかでこうした方針を示し、「日本国内の新卒採用は290人に厳選し、なおかつ国籍を問わず海外から留学している人たちを積極的に採用します」と述べている。[8]

私は、「もしも日本の労働者が労働市場を独占できるならば」と仮定の話をしたが、大学院の修了生に市場を独占させ、大学院の需要を確実に確保することは、できないことではない。医学部・歯学部・獣医学部は、他の学部では修士に相当する学位をとらなければ、国家試験が受験できない。そして、国家試験に合格しなければ、国内で医療活動をすることができない。薬学部も2006年から6年制課程が設置され、国家試験受験資格も6年の課程を必要とするようになった。

医学部では、一人前の医者になろうと思えば、医学博士が必要である。医学部に関しては、今後とも「末は博士かホームレスか」という状況にはならない。医学博士には、金と名誉が保証されている。だから、医学部は非常に人気がある。そして、医学部と同様に、大学院と資格を結びつけることで、甘い汁を吸いたいと考えた学部があった。法学部がそうである。

3. 法科大学院が作られた本当の理由

2004年4月から、法科大学院という法曹のプロフェッショナルを育成する専門職大学院が創設された。当初、法科大学院修了者の7割から8割が新司法試験に合格すると言われ、人気を集めたが、その後、合格率が2割から3割になることが判明し、二年目は志願者が激減した。新司法試験は、3回までしか受験のチャンスがない。合格できない多くの法務博士が多額の借金を背負ったまま路頭に迷い、それがホームレスの博士を増やすことになるだろう。

法科大学院は、どうして作られたのだろうか。法科大学院の構想は、表向きは司法制度改革の一環として、提案されたのだが、この提案を最初に出したのが、法曹の現場ではなくて、1998年10月の「21世紀の大学像と今後の改革方策について」という文部省の大学審議会の答申であったことが、この構想の性格を雄弁に物語っている。この答申には「大学院の修了と資格制度との関係では、現在、法曹養成制度の改革が進行中であり、今後、法曹養成のための専門教育の課程を修了した者に法曹への道が円滑に開ける仕組み(例えばロースクール構想など)について広く関係者の間で検討していく必要がある[9]」と書かれている。

この答申からも窺えるように、法科大学院のお手本はアメリカのロースクールである。アメリカの大学には法学部がなく、法曹(弁護士・裁判官・検察官など)を目指す人は、通常大学卒業後に法科大学院で3年間の教育を受け、修士レベルの学位を得た後、司法試験をパスして法曹資格を取得する。

これに対して、日本では、司法試験への受験資格はなく、試験に合格して司法研修を修了すれば、大学を出ていなくても、法曹資格が与えられる。しかし、司法試験は非常に難しいので、大学法学部での授業を履修しているだけではまず合格しないため、受験生の多くは司法試験のための予備校に通っている。そして、法科大学院の本当の狙いは、法科大学院を修了すれば、司法試験の合格が容易になるようにして、民間の司法試験予備校から教育需要を奪おうというところにある。

もちろん、本音と建前は別である。法科大学院設立の表向きの理由はプロセス重視の法曹養成である。従来の司法試験は一発勝負の性格が強く、受験生は、受験技術の詰め込みに走る傾向があったが、法曹には、専門的な法律知識の他、高い倫理や教養も求められるので、真に優秀な法曹を育てるには、全人的な接触のなかで、対話重視・プロセス重視の教育を行う必要があるというわけである。

現状はどうなのか。日経新聞の記事から引用しよう。

「新司法試験の出題科目以外は授業中、耳栓をして自習しています」。西日本にある国立大の法科大学院が先月開いた懇親会で、学生の言葉に教授たちは驚いた。「合格することで頭がいっぱい。必要ない授業は、内職したり、途中で退出したり。まるで学級崩壊だ」。教授はため息をつく。[10]

学生たちは、司法試験合格に必死なのである。試験と関係のない話を聞きたくないのは当然である。もしも本当に、学生たちの試験志向の態度を改め、プロセス重視の教育を可能にしようとするならば、司法試験を廃止し、法曹の選抜を、法科大学院の教授の主観的評価に委ねなければならなくなるが、これは弊害が大きい。

こうしたプロセス重視の教育論は、高校受験での内申書重視や大学受験での推薦入試導入の際になされた議論とそっくりである。1993年に脱偏差値を標榜する文部省が業者テストの排除を行って以来、内申評価が客観的評価から主観的評価に変質し、今日話題となっている学力崩壊の一つの原因になっている。プロセス重視の名のもとに、法曹の選抜が、法科大学院の教授の主観的評価によって行われるならば、同様な知識軽視が進むであろう。しかし、プロセス重視の選抜には、学力崩壊よりももっと由々しき問題がある。

4. プロセス重視だと茶坊主が有利になる

プロセス重視の教育で、子供たちは勉強しなくなり、代わりに、教師に対して「良い子」を演じるのがうまくなった。同じことが、法曹でも起きるだろう。従来の司法試験は、結果のみを判定したが、司法研修所では、プロセス重視の教育評価が行われていた。司法試験合格後、合格者は、1年半司法研修所で研修を受けるが、そのプロセスにおいて、任官志望者の選別が行われる。近年の長引く不況と合格者増の影響で、任官志望者数は増える傾向にある。ところが、選別の基準は不明瞭で、国家権力に従順な人物が選ばれ、反権力的な人が排除されていると言われている。

これに対して、弁護士には反骨精神のある反権力主義者が少なくないのは、プロセス不問で、学力だけで選抜されるからだ。法科大学院の課程で弁護士が選抜されるようになれば、教授に媚を売る茶坊主型の弁護士が増えることだろう。ちょうど病院が大学ごとに系列化し、医局が若い勤務医の人事を支配するように、法律事務所が法科大学院ごとに系列化し、ボス教授が弁護士の人事を支配するようになるだろう。

既存の大学における学位の認定や人事など、プロセス重視の選抜では、有能な人材ほど排除される傾向にある。

学位というものは、大学の入学試験や資格試験とは全く異なります。これは試験を行う者が現場を見ないで試験をやって、採点して何点取れば合格というものではありません。つまり、客観性が低く、学位を出せる成績かどうか判断する教官の主観に作用されることが大きいのです。優秀な成績を上げた、頑張った、努力したというのは必ずしも良い結果には結びつきません。いくら多くの業績を残したとしても、担当の教授が認めないと言えば不合格なのです。逆に、殆ど仕事をしていなくても、助手や技官の仕事等と併せて論文にまとめてしまい、楽に学位を取得する者も多数います。この様な状況の中で、学位が欲しい学生と成績を判断する教官との間に大きな力の差が生まれます。

そうすれば、学生はどうしなければならないでしょうか。お気付きになったと思いますが、学位を取りたいと思うならば、担当の教官との人間関係を損ねないのは絶対条件です。たとえ無茶な要求をされたとしても、どうしても学位が欲しいのなら、我慢して命令に従わなければなりません。[11]

学問的に無能な教授ほど、研究に専念する有能な部下よりも、自分のために雑用をやってくれる無能な部下をかわいがる。そして、無能な部下は、出世すると同じことを繰り返す。厳しい市場競争に晒されている企業のトップが、周囲をイエスマンで固めると淘汰されるが、大学は規制と補助金で守られているから、腐ってもなかなかつぶれない。そして問題の根源は、ここにある。

5. 教育と研究に市場原理を導入せよ

これまでの議論をまとめよう。公教育は、ゆとりの教育によって教育の質を下げ、大学院重点化により修業期間を増やし、少子化に伴う需要の減少に歯止めをかけようとした。もちろん、大学院重点化の表向きの理念は、高度に複雑になった社会に対応できる質の高い人材の供給ということなのだろうが、学位が高くなっただけで、能力は高くない人材の押し売りをすることは、大して性能が向上していないソフトを「アップグレード版」と称して高値で売りつけることと同様に、売り手が市場を独占していなければできないことである。

そこで大学人たちは、大学院を出なければ、国家試験が受験できないように、制度を変えることで、教育市場を独占しようとした。法科大学院を作るときも、当初、法科大学院を修了しなければ、司法試験が受験できないようにする予定だったが、法科大学院に行かなくても受験できる抜け穴を作ったため、独占に失敗し、いまやその存続が危機に瀕している。

私は、法科大学院の優遇制度がなくなることを望んでいる。医師国家試験も、かつての司法試験と同様に、学歴とは無関係に受験できるようにするべきだ。その代わり、筆記試験のみならず、実技試験をも盛り込んで、知識だけでなく、技能的にも優れた医師が選抜されるようにすればよい。そして、医師国家試験のための教育は、市場原理の機能する営利企業に任せればよい。そうすれば、今よりも早く、かつ低コストで医師が育つようになる。一方で、入り口の敷居を低くしつつ、他方で、問題の多い医師の免許を取り消して、出口も大きくした方が、入り口も出口も小さい現在の制度よりも、日本の医療サービスの質は向上するだろう。

私たちは生産者中心の論理を消費者中心の論理へと変える必要がある。法学部であれ、医学部であれ、どこであれ、優秀な人材を短期間かつ低コストで効率よく育成するには、政府が教育産業から撤退するべきだ。政府が公教育という殿様商売を続けていると、社会のニーズと合致しない割高な粗悪品を量産することになる。政府は学位認定と資格認定を前提条件なしで行い、教育機関はすべて市場原理の機能する民間企業に委ねるべきである。もしも日本の教育機関の効率が良くなれば、海外からの留学生も増えるから、少子化が進んでも、日本の教育産業は衰退することはない。

読者の中には、教育を営利企業に任せるのはかまわないが、非営利の学術研究まで市場経済に委ねるわけにはいかないと反論する向きもあるだろう。確かに市場経済に委ねるわけにはいかないが、それでも市場原理を導入することは可能である。

学術研究に資金を出すとき、どのプロジェクトにどの程度出すかが問題となる。官僚には、先見の明がないので、何が有望な研究かを文部科学省の官僚に決めさせるわけにはいかない。また、若手研究者への資金の配分をボス教授の主観的裁量に委ねると、若手研究者がボス教授の奴隷になるので好ましくない。

だから、政府は、資金を有望な研究のための予算として出すのではなくて、優れた過去の業績への報奨金として支出すればよい。過去の業績の優劣の度合いは、被引用数に基づいて、客観的に数量化可能であるから、機械的に配分できる。ただし、報奨金は、研究者ではなくて、研究者に研究資金を提供した投資家に支払われる。もちろん、研究者が自分の金で研究を行ったならば、本人が受け取ることになる。

こうした投資家に、非営利の財団だけでなく、営利の投資会社もなれる。提供した研究資金以上の報奨金が入れば、その差額が利益となる。その利益は、有望な研究プロジェクトを見つけた仕事に対する報酬である。ここからも分かるように、この制度は、政府の仕事を民間に委ねることを意味している。官僚とは異なって、民間の投資家は、投資に失敗すれば、損失を被る。だから、いい加減な判断はできない。

この制度の下で、資金が特定の研究者に集中することはない。実績のある研究者と契約を結ぶことは、競争が激しいので、条件が悪くなり、ローリスク・ローリターンになる。実績のない研究者の場合は、わずかな研究資金で契約を結ぶことができるから、ハイリスク・ハイリターンとなる。この点、一般の投資と変わるところはない。

私の提案は、ベンチャービジネスへのアメリカ流の投資方法を学術研究にも応用することにある。日本とは異なって、アメリカのベンチャービジネスの経営者は、事業に失敗しても、すべての負債を抱えて破産するということはない。また、アメリカの大学院生は、奨学金という名の借金を背負って破産することはない。

投資家と研究者は、オープンな横の関係にあり、教授と若手研究者のように、クローズドな縦の関係にないので、研究者は自由に研究ができる。現行の教授は研究職というよりも管理職なのだが、投資や経営といった仕事を素人の老研究者にさせるよりも、専門家に任せたほうが、分業による効率化が期待できる。

自分の研究を若手に押し付け、ファーストオーサーとして若手の研究成果を横取りする教授の存在は有害である。上の世代による下の世代の搾取は、私が「非対称的贈与システム」と名付けたオートポイエーシスで、一度作るとなかなか廃止できなくなるのだが、これを廃止しないと自由な研究はできない。

6. 追記:法科大学院について

2010年9月5日

原名高正さんという方が、本稿に対して「法律家養成を再検討する 」という批評を書いてくれたようです。かなり昔(5年前)に書かれたもののようですが、せっかく書いてくれたのだから、それに対する反論を書いておきましょう。

日米の大学の違い

原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.

■「21世紀の大学像と今後の改革方策について」「という文部省の大学審議会の答申」がだされたというのは、いってみれば、司法改革という法務省の土俵に、文部省(当時)が ずかずか あがりこんで、独り相撲をはじめてしまったことを意味する。

■ま、厚生労働省管轄の医師・歯科医師・薬剤師など 医療系専門職の資格はともかく、養成については、文科省に基本的にしきられてしまっているのと、おなじカラクリだ(もちろん、カリキュラムなどで、実質内容について、厚生労働省は、くちだしする。笑)。

■また、司法試験受験を、完全に予備校にしきられていることを、にがにがしく おもっていた 文科省/法学部関係者が、法律専門職の先進国 アメリカの システムを 導入するという、大義名分を利用したという、「内幕」も、ただしい。

■しかし、実質的に定着するかどうかは ともかく、アメリカ式の法律家養成が、デタラメという わけでは、もちろんない。

■プロセス重視は、本来的には、正論なのである。プロセス重視を 問題だというなら、本家本元のアメリカの法律家養成の機能不全、病理を指摘したうえで、「マネなど やめろ」と、いうべきなのだ。

米国の大学では、教師の待遇は学生の評価によって決まります。学生の評価が高ければ、教師の給料が上がったり、よりランクの高い大学への移籍が可能となります。逆に低ければ、給料が下がったり、解雇されたりします。日本の大学は、こうした米国の大学の優れた部分は取り入れずに、プロセス重視といった好ましくない部分を模倣しています。学生には評価の権限を与えずに、教師には基準が不透明な評価の裁量権を与える非対称性には問題があろうかと思います。

医学部は法科大学院にとっての模範となるのか

原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.

■国公立大学の医学部学生の、医師国家試験合格率が8?9わりを維持しているように、法科大学院修了者も、基本的には法律家としての専門資格をあたえられるのが、本旨だ。

■それができないなら、趣旨に反するし、約束違反でもある。また、それが、市場の需要をはるかにこえた合格者数になるなら、それも約束違反である。

■もちろん、全国の私立大学に法科大学院が設置されたという事実ひとつをとっても、文科省が まったく責任をおう気がなかったことは、あきらかだ。

これは、むしろ医学部の方にこそ問題があると思います。ご指摘のように、医師国家試験の合格率は毎年80%以上で、2010年現在も89.2%と高水準を維持しています。このため、医師になるための最大のボトルネックは、医師国家試験ではなくて、医学部医学科への入学試験となっていますが、この選抜システムには大きな問題があります。大学入試で出題される数学や物理の難問を解く能力は、たいていの医者には不要であり、医師を育てるコストを不必要に高くしています。また、大学医学部医学科は、医師を認定するための特権を事実上与えられているようなものだから、教育機関として不良であっても、市場原理により淘汰されないという問題もあります。

だから、私は、医師国家試験を専門別に分化させたり、実技試験を取り入れたりするなど、医師選別試験としての実質を持たせると同時に、医学部医学科卒業を前提条件からはずすことを提案します。こうすれば、現行システムよりもより低いコストで、つまりより多くの医師を育てることができるし、教育産業の効率化が進むことも期待できます。

司法研修所はプロセス重視か

原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.

■永井さん、意図的に、プロセス重視の法律家養成を否定したいのか、あるいは、事実誤認の自覚がまったくないのか、ものすごい暴論を展開している。

■「弁護士には反骨精神のある反権力主義者が少なくないのは、プロセス不問で、学力だけで選抜されるからだ」というのは、まったく司法研修所の機能を誤解している。弁護士だって、「司法試験合格後、合格者は、1年半司法研修所で研修を受ける」んだから(笑)。

■裁判官や検察官が、より「いい子ちゃん」で、権力追従的な性格の可能性がたかいことは、経験則でしられている。そして、「選別の基準は不明瞭で、国家権力に従順な人物が選ばれ、反権力的な人が排除されている」という構造も、何十年も指摘・批判されつづけてきた。

■しかし、弁護士が「プロセス不問で、学力だけで選抜されるからだ」というのは、まったく事実誤認だ。この程度の しらべで、法律家養成制度をうんぬんする、神経は、すごすぎる。

旧司法試験においては、弁護士がプロセス不問で、学力だけで選抜されたというのは事実誤認ではありません。もちろん、旧司法試験においても、被験者は、資格試験合格後に司法修習を受け、司法修習生考試に不合格となれば、弁護士になれませんでしたが、考試が不合格で弁護士になれなかった人はほとんどいませんでした(最近では増えているようですが)。だから、旧制度においては、司法修習生となるための資格試験、所謂司法試験に合格さえすれば、ほぼ間違いなく弁護士になれたのです。また、司法修習生考試も、筆記による客観的なテストですから、プロセス重視の選抜とはいえません。プロセス重視で、不透明な選抜が行われるのは、本文で指摘したように、そして原名さんも認めるように、任官(裁判官や検察官に任じられること)においてであり、弁護士の登録においてではありません。

なぜ教授には権力があるのか

原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.

■それと、永井さんの議論が、根本的に乱暴なのは、司法研修所と法科大学院と理科系大学院を、同質の権力ピラミッドとみなしている点だ。

■「ちょうど病院が大学ごとに系列化し、医局が若い勤務医の人事を支配するように、法律事務所が法科大学院ごとに系列化し、ボス教授が弁護士の人事を支配するようになるだろう」という、危険性は、アメリカとちがって、「日本的土壌」という次元で、警戒すべきだ。しかし、医局支配によって、開業医、とりわけ辺地医療などにたずさわる医師たちが、母校から完全コントロールをうけているとか、いった実態が、一般的だろうか?

■はっきりいおう、権威主義的で、ともすれば、国家権力への追従を ほのめかすような司法研修所の1年半を経験しても、反骨弁護士は、それこそ何百人もうまれていく。

■永井さんが、大学院の支配体制を象徴するために 引用した 組織は、医学などをふくめた 理科系の大学院だ。大学院という空間は、旧帝大系ほかブランド大学かどうか、研究科が理系や、伝統のある法学・文学系のように権威主義的組織かどうか、など、具体的空間を特定しないと、一般論はなりたたない。

原名さんは、理系と文系の間に大きな違いがあると主張していますが、むしろ大きな違いは、人材供給が過少の医学部と過剰の他学部との間にあると言うべきでしょう。日本医師会は、その政治的権力を使って医師の供給過剰を防ぐことに成功しました。現在、多くの病院が、医師の確保に苦労しています。病院が、医局に属さない医師を自由に採用しようとしても、その病院を支配している大学医局が、医局員(医局が派遣している医師)を引き上げるなどの対抗措置を取れば、欠員が補充できず、病院経営が成り立たなくなるので、できません。これが、医師の人材市場において医局が強い権力を持っている所以です。

医学部以外での人材市場では、博士は供給過剰で、こうした問題はありません。それにもかかわらず、教授の推薦が就職に際して重要な役割を果たすのは、日本の大学では、終身雇用制が厳密に守られており、採用後、好ましくない人材であると気がついても、解雇できず、そのため、採用に際しては、権威ある第三者による身元保証が必要であるからです。これはブランド大学にのみ限定される話ではありません。むしろ、出身大学にブランドがないほど、ブランド力のある教授による推薦が必要になってきます。

大学院重点化問題の本質は何か

原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.

■日本中に、やくたたずの インフレ「法務博士」号は、あざわらわれ、取得者の うらみぶしが、うなりをあげることだろう。

■しかし、挫折者の数・専門学校に「すてられた」学費、試験の難関ぶりに反して 実社会で異常なぐらい過小評価される、典型的資格といえば、税理士さまが、あるではないか? いまや 税理士は、開業した税理事務所を顧客ごと ひきつがねば、まったく わりがあわない資格といわれている。

■歯科医師なども、それに準ずるのではないか? 法律家だけ、こわだかに その養成を 問題視するのは、それこそ、特別視=特権視、あるいは 大学院制度全般の否定など、別の「真意」を、うたぐってしまう。在野の「哲学者」には、一種 異様なほどの 粘着質な権威主義をかんじるしなぁ(笑)。

原名さんは、冒頭ですでに「ハラナも、大学院の定員拡大は、大問題だとおもっている」と書いていますが、ここから既に私と問題意識がずれています。私が考えている余剰博士問題の本質は、大学院の定員拡大、およびその結果として生じる博士の数の増大ではなくて、教育と称する官営ビジネスが、資格を武器に、民間の教育ビジネスから仕事を奪いつつ、税金を無駄に使いながら、民間需要を無視した経営を行っている点にあります。ですから、もしも教育産業が、市場原理の機能する民間企業によって担われるのであれば、ドロップアウトが出るぐらいに競争が激化しても問題はないし、むしろ人材市場における消費者の利益という観点からすれば、競争の激化は望ましいとすら言うことができます。

なお、税理士の上位資格である公認会計士に関しては、2004年以降、会計大学院が設立され、ここでの教育課程を修了すれば、短答式試験での財務会計論、管理会計論、監査論の3科目を免除されるようになりました。しかし、会計大学院を修了しなくても、公認会計士になる道が残されており、この点で、法科大学院よりも社会的弊害は少ないと言うことができます。

原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.

■ちなみに、「教育機関はすべて市場原理の機能する民間企業に委ねるべきである」という、産業界がよろこびそうな、発言が、小学校には、通用しないことは、岡崎先生の論文を参照した「託児所としての小学校」の一連の分析で、わかるよね?

■ケア労働が ほぼ民間だけでなんとかまわっているのは、家庭の事情に いっさい介入しない(する必要を 感じられていない)幼稚園だけ、という現実を、ちゃんと ふまえておこうね。

■小中学校を すべて私立学校に きりかえたら、ものすごい 奨学金を大量に用意しないかぎり、学校にいかせない(いかせることができない)「保護者」が 大量発生することも、ほぼ確実だろう ていう、予測もね。

「託児所としての小学校」がアクセス不可能になっているので、どういう議論がなされているのかわかりませんが、幼稚園は民営化できても、小中学校は民営化できないというのはおかしなことです。小中学校に国や自治体が支出している金を教育バウチャーに回せば、指摘されているようなことは起きないでしょう。

原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.

■それと、「大学は規制と補助金で守られているから、腐ってもなかなかつぶれない」っていうけど、私立大学の実態は どう? 毎年のように つぶれる 地方の弱小私大は おくとして、首都圏や近畿圏の私大、一向に つぶれそうにないんですけど。まさか、つぶれない 私大が みんな 「競争原理ゆえに、国公立の平均水準より 総じて まとも」とか、「私大も ものすごい 規制と補助金で守られているから、国公立と同類」とか、いわないよね(笑)?

■国公立の先生方も、私大の理事会も、どっちも、おこるとおもうよ。「私大と一緒だと? バカにするな!」とか、「旧国立みたいに 補助金で守られているなら、ヒトあつめ、カネあつめに、こんなに ちまなこに なってない!」ってね(笑)。

大学の淘汰はすでに起きていますが、問題は、大学が、教育の良さではなくて、立地条件の良さや創立の古さや設置者の違いで選別されているところにあります。これは、大学が、教育機関としてではなくて、評価機関として機能していることが原因であり、だからこそ、私は、教育機能と評価機能の分離を主張しているのです。

政府による評価と市場原理による評価

原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.

■ともかく、なんらかの「資格試験」を課しさえすれば、「到達度」が客観的に測定できて、市場原理にも、のる。そうすれば、教育機関=過程の 客観的評価も 可能で、万事正常化し、まるくおさまる、なんて、幻想だよ。

■まさか、就職戦線や大学入試/高校入試という、「一発試験」制度が、大学/高校/中学の 客観的な 教育効果を 測定しえている、なんて、いわないよね?

■現行の英検や司法試験や教員免許や医師国家試験が、それぞれの分野の適性について充分客観的な能力を測定しえているとか、適当な人材をえらべているといった想定が、あやしいのも、おなじことだ。

■教育機関=課程の「出口」「上位」に、市場原理にねざした民間ベースの資格/選抜試験をおこうが、国家管理の資格/選抜試験をおこうが、「内部」を競争原理にそって正常化できるっていうのは、あやしい。

■「測定」には、「誤差」がつきものだから、「市場」が実際に「つかいがって」を たしかめるまでは、わからないんだよ。

資格試験による客観的評価が高いからといって、顧客による主観的評価も高いとは限りませんが、だからといって、客観的評価を行う資格試験が不要であるということにはなりません。顧客がその都度採用試験をするのは、コストがかかりすぎるので、評価者によって評価が大きく変わらない客観的評価は、第三者機関が行い、他方で、プロセス重視の主観的評価は、評価者によって大きく変わる可能性が高いので、資格付与の段階では行わず、顧客に委ね、不適格者は市場原理で選別する方が合理的です。

プロセス重視で思考力が向上するのか

原名高正「法律家養成を再検討する」『タカマサのきまぐれ時評』2005年06月26日.

■ちなみに、数年まえだが、司法研修所の教官(たぶん、検察官で出向しているひとだったと、記憶しているが)が、「いまどきの修習生(研修中の合格者)は、予備校のテキストが例示する論点しか、しらない。あげる論点で、どこの予備校か わかるぐらいだ。自分で徹底的に かんがえぬくタイプが、激減した。問題だ」と、なげいていた。

■これが、「いまどきの わかもの」論だったら、いいんだが、ハラナは、そうじゃないと、にらんでいる。

■「塾を学校に」論を 先日批判したが、本質は おなじだと、おもう。「民間にまかせ、市場にゆだねる自由競争」ってのは、えてして、こうなる宿命をかかえると……。

それは、予備校が予想するような典型問題しか作ることができない教官の側に問題があるのではないのですか。もしもその教官に「自分で徹底的に考え抜く」能力があるのなら、予備校が予想もしないような独創的な問題を出題して、修習生に「自分で徹底的に考え抜く」能力があるかどうかを見定めることができるはずでしょう。今時の修習生には自分で徹底的に考え抜く能力が不足しているなどと偉そうなことを言う前に、自分にそういう能力があるのかどうか自問してみるべきでしょう。

「民間にまかせ、市場にゆだねる自由競争」が自分で徹底的に考え抜く能力を奪うというのもおかしな話です。自分で徹底的に考え抜く能力は、自由に選ぶ権利が与えられて初めて育つものであって、上意下達の官僚システムにおいて育まれるものではありません。公教育のもとで、プロセス重視の教育をやっても、思考力は向上せず、逆に、PISA(思考力を試す国際的な学習到達度調査)での日本の順位が低下したことからもわかるように、政府が教育ビジネスに参画し、プロセス重視の評価を行って、法曹を選抜すれば、自分で徹底的に考え抜く法曹が育つなどという法科大学院設立の大義名分は、あやしいものです。

7. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 大学審議会(文部科学省).「大学院の教育研究の質的向上に関する審議のまとめ」1996/10.
  2. 「大学院肥大化のツケ」in『日本経済新聞』連載(2005/02/25-27).
  3. 文部科学省.「博士号取得者の就業構造に関する日米比較の試み -キャリアパスの多様化を促進するために-」平成15年12月.
  4. 『読売新聞』2004/07/18.
  5. 『読売新聞』2005/05/02.
  6. 日本の大学院がどういうところか知らない人は、「大学院教育 その恐るべき実態」あるいは「悪徳慶応義塾大学を告発する」などの、元院生による内部告発のサイトを御覧いただきたい。
  7. 「大学院肥大化のツケ」in『日本経済新聞』2005/02/25.
  8. J-CASTニュース.「パナソニック採用の8割外国人」2010/6/20.
  9. 大学審議会(文部科学省).「21世紀の大学像と今後の改革方策について」平成10年10月26日.
  10. 「大学院肥大化のツケ」in『日本経済新聞』2005/02/27
  11. 尾上伸.「大学院教育 その恐るべき実態」2000年02月06日.