大学教授は虚業家か
私が大学を去ってから10年程が経つ。大学淘汰の時代を迎え、少しは改革が進んでいるのかと思っていたが、古谷浩著の『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』を読むと、根本的な問題は何も解決していないという印象を得る。沈み行くタイタニックの甲板上で椅子取り合戦をしている人たちを見ていると、もっと本格的な淘汰が必要なのではないかと思ってしまう。

1. 大学教授の仕事は営業か
四年制私大の三割が定員割れになるなど、大学経営は厳しさを増している。その結果、教育や研究よりも、営業業績で教員の評価が決まるという事態まで発生している。
一部の大学では、公立高校の校長OBらを大学教員として雇って高校訪問をさせ、入学者を獲得すればそれに見合う歩合給を払ったり、前年度において何人の志願者を集めて入学させたかで、翌年度の特任教授としてのポストを決めるところすらある。[1]
かつて大学受験生は「入ってしまえば、後はどうにでもなる」と、入学後のことは考えずに、がむしゃらに勉強したものだ。少子化の現在、選ぶ権利が大学から受験生に移っただけで、この発想は何も変わっていない。大学教員たちは「入ってしまえば、後はどうにでもなる」と、入学後の教育の質のことは考えずに、がむしゃらに受験生勧誘にいそしんでいる。
もしも教育の質が高ければ、営業活動をしなくても、受験生は自然に集まる。そして教育の質を高めるには、教員を教育活動や教材研究に専念させるべきだ。教員に営業をやらせている大学は「本校は教育には力を入れていません」と外に向かって宣言しているようなもので、逆効果ですらある。
2. なぜ学問的無能ほど出世できるのか
大学教授の中には、「自分よりも業績のあるヤツは自分の下には置かない」と公言する人もいるぐらいで、若手研究者は、研究に専念するよりも、教授のために雑用をするほうが出世できる。
筆者が勤務した私立大学でも、自分の立場を脅かしかねない優秀な人材を排斥し、能力がなくても従順な人間を可愛がろうとする学園幹部のいやらしさをうんざりするほど見せつけられた。そして、そうした「御仁」が「ゴマスリ」教員を昇格させ、その人間がまた無能なのを手下に置いておこうとする悪循環が生じているのである[2]
大学院生には、「研究が好き」という純粋なタイプと「教授になりたい」という生臭いタイプの二種類がいて、前者は研究に時間を使い、後者は社交に時間を使う。そして、アカデミックポストを手に入れ、学内行政を牛耳ることになるのは、後者のタイプである。この傾向は、文系学部において顕著である。
3. 文盲でも教授になれる日本の大学
有能な若手を排除し、無能な茶坊主を重用し続けた結果、日本の大学教授の学力は大幅に低下した。まともに論文を書くことができない教授も少なくない。
驚くべきことに、教授と名乗る御仁の中には、書くことのみならず字もまともに読めない人物さえいる。現に、筆者が勤務した大学には中学生レベルの漢字の読み方すら知らない、れっきとした「教授」や単に「口舌の徒」に過ぎない助教授などもおり、おったまげたことがある。[3]
大臣の中にも中学生レベルの漢字を読み間違える人がいるので、官僚たちは、答弁の原稿に振り仮名を付けることにしているのだそうだ。国会のセンセイの知的水準が低いことはよく知られているが、永田町の論理で人事が行われている大学のセンセイの知的水準も、それに勝るとも劣らず低いことはあまり知られていない。
大学教員は、少なくとも5年に1本論文を書かなければいけないことになっている。しかし、この不文律は実際には守られていない。
2001年度春現在の時点を見ると、全教員のうち4分の1は5年間かけても1本の論文も書いていないという調査結果が出ていた。しかも、論文を書いているとされる残りの4分の3の教員が実際に自分で論文を書いているかというと、前述したように、甚だ心もとない限りだという。これは、有名国公立大学でも見られ、自分の弟子に論文を書かせて格好をつけている教授がかなりいるというのは、もはや常識となっている。[4]
確かに、私が知っている人の中でも、在職中一本も論文を発表することなく、助教授のまま定年を迎えた人もいる。日本の大学の文系学部では、教員は、いったん専任として採用されると、全く論文を書かず、教育能力がゼロでも、犯罪行為が発覚でもしない限り、解雇されることはないし、それどころか、降格や減俸といった処分を受けることすらない(さすがに昇格はできないけれども)。
4. 有能な教員ほどいじめられる嫉妬の構造
こうした、インセンティブのほとんどないぬるま湯の環境が、大学研究者の士気を低くしているわけだが、日本の大学の教育・研究水準を押し下げる最大の原因は、熱心な教育者や有能な研究者を村八分にし、場合によっては、濡れ衣を着せてまで排除しようとする嫉妬の構造である。
某学園では、学生に人気のあるゼミ(3、4年生向けの2年コース)担当の教授(太い態度をとることで知られた)を干すために、そのゼミ所属学生に担当教授のあらぬ噂を流したが、学生が続投を求めて署名運動をし「連判状」を学園幹部に提出した、といった事例があった。だが、学園幹部はそれをひた隠しにして、なんらの手立ても講じなかったことなどから、その教授は嫌気がさして他校へ移籍した。[5]
熱心な教育者や有能な研究者を優遇するどころか、逆に陰湿ないじめで排除しようとする村社会的慣行を改めない限り、日本の大学の教育・研究水準が、世界水準と比べて低いままに留まるのは当然と言わなければならない。
5. ベビーシッター化する大学教授
大学の粗製濫造で、大学教授の知的水準が大いに低下したが、これに少子化の波が加わることで、大学生の知的水準はそれ以上に低下した。低偏差値大学では、大学教授(あるいは予備校講師が代役として)が小学生レベルの大学生に、読み・書き・算数(数学ではなくて、算数!)を教えなければならないというのが現状である。
大学教授の中には、自分の仕事はベビーシッティング(子守)と割り切っている人もいる。実際、次のような話を聞くと、無名大学の学生は、小学生よりもっとレベルが低いのではないかと疑いたくなる。
中には、大学教員が授業への出席を促すために、学生向けに、毎日のごとく「ウェークアップ・コール(目覚まし電話)」までするという大学もある。学生に対しきめ細かいケアを施すといえば、聞こえはいいが、もう立派な大人である大学生に対しここまでの「サービス」の実施を義務付ける「無名大学」について、読者諸氏はどのようにお考えであろうか。[6]
いくら午前中の授業の出席率が低いからといって、大学教員がここまでしなければならないのか。
他の業種に転職するだけの能力のある人は、子守稼業や無能教授によるいじめに嫌気がさして、大学教授を辞めていく。そして、本来辞めるべき無能教授だけが大学に残る。かくして、日本の大学の知的水準は、底なしのデフレスパイラルに入っていく。
6. 参照情報
- 古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07).
- 木村誠『大学大倒産時代 都会で消える大学、地方で伸びる大学』朝日新聞出版 (2017/8/10).
- 木村誠『消えゆく「限界大学」』朝日新聞出版 (2017/8/10).
- ↑古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 46.
- ↑古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 51.
- ↑古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 80-81.
- ↑古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 81.
- ↑古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 115.
- ↑古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 154.
ディスカッション
コメント一覧
大学は死んだ。死因は嫉妬性昏睡。ほとんど自殺に近い。
確かに文科系の先生は暇で楽で優雅なようですね。私学の文系というのはそんなもんだと思うよ。大学が多すぎる。日本にそんなに人材はいない。まだ新しい大学ができているんだけど、一体誰を教授にするつもりかね?
でも理系は国際的な評価システムが貫徹していますので、逆にもう大変です。今度生まれて来たら文科系の教授になりたいかというとそうでもない。そのころには文科系でも評価システムが変わっているだろうから。
まあ、しかし低学力化の影響はきついね。それと日本では伝統的に、初等、中等、高等教育という区別があった。初等教育で児童がわからなければ、先生の教育が悪い。でも高等教育では教授は学生が理解できることを言ってはいけない。危機感を植え付けて自分で考える習慣を身につけるというのが高等教育だった。最近は大学院でもFDとかで、高等教育の初等教育化が起こって、いつまでたっても自分で考える能力が養成できない。日本は「科学技術立国」だそうだけど、文科系の官僚や政治家にそんなこと言ってもらいたくないね。言ったとたん、文科系の自分たちは何の役にも立たないことを公言しているようなものだから。そもそも理科系の研究をしたこともない文科省の官僚が研究システムをどんどん悪くして来たことが日本の開発能力をここまで低下させたってことをわかってないんだろうね。
このところの大学法人化で理系の研究の裾野はほとんどなくなったというのは確か。残念ながら多くの理系はhumbleな分野で、予算がないと何もできないという弱みがある。そこへ行くと、文科系の人は万葉集やシェークスピアだけで一生行けるんだからいいね。本当にnoble、数学や理論物理みたいなのに憧れる気持ちがあるね。でも頭悪いから化学選んだからしようがないか(笑)
大阪商業大学教授・学長(!)の谷岡一郎著『「社会調査のウソ~リサーチ・リテラシーのすすめ』という新書で大学という学者の世界を披露しています。第3章のみ独立した形で「研究者と調査」章で教授・准教授・講師・(助手?)の実態を指摘しています。
乱暴ながら、もう少し単純に考えると、多すぎる全国約750以上に増殖した大学に教養と専門の先生方及び事務方で約500名(少なすぎますか?国立大学が一つしかないとある県の某国立大学は繊維学部を含み学部が多いので、職員約3000人ですから少なくないでしょう)いらっしゃるので、約40万人の雇用が生み出されます。
大学というのは大部分(全てとはいいません)が教授・准教授・講師・(助手)ための組織でしょう。学生から搾取(正確には大学生を持つ家庭からの搾取)をやめるべき。せめて全国の高校卒業生の1/3ぐらいの定員総数にしておかないと本物の研究者(教授・学生)がいなくなってしまいます。特に65歳以上の年金世代は自ら隠居し、学術的にまだまだ情熱があるのならば無報酬で研究に加わるようなしくみはできないものでしょうか?65歳以上を排除するとはいっていません。若手(弟子)に任せてもいい部分もあるのではと思うのです。無報酬で研究してノーベル賞
結論。
2年連続定員割れの学部は2回の不渡りを出したということで廃止。大学単位ではなく学部単位で統廃合すれば、その大学の特長が浮き彫りになり、高校生も進路選択における迷いを低減できる。(750大学と3000ともいわれる学部から1つを選ぶのは普通の高校生にはできない)
外国人留学生はこの定員に含まない。
定員については2007年を基準として定員減を認めない。
高校生の青田刈りを防ぐためにAO・推薦等学力検査によらない合格者を2割以内に制限し、進級基準を引き上げて学士の地位を引き上げる。どんどん留年させてよろし。
ついでに義務教育ではない高校も現在の2/3まで統廃合し、半分は留年させよう!
留年が多くなれば「2年生みんなでダブれば怖くない」組と「本気で大学行きたい」組が経済格差ではなく、学業意欲で区別できる。
私は、政府が学校経営をしていること自体が問題だと考えています。これについては、「教育改革はどうあるべきか」を参照してください。
よくTVのクイズ番組で「おバカ」と頭につく芸能人が、珍解答をして視聴者やギャラリーの「失笑を買う事」が見られます。しかし、彼ら(特に芸人)の出身校を見ると有名大学が目立つ。直接関係ないとは思いますが、芸能人である彼らにとっては大学時代とは「現在の職業」には直接は結びつかない時代と考えます。ただ、昔(明治・大正生まれ)の芸能人(俳優、歌手、落語家など)は旧制尋常小学校や旧制中学(現在の中学+高校に該当)しか卒業していない人、あるいは中退した人がかないります。それなのに昭和中期(20~30年代)ごろまでは「あの人は学歴がないから、常識がない」などと(芸能界内部で)悪口を言われたためしがあまりありません。加えて現在の大衆演劇の俳優の大多数でも同様の事が言えます。昔はさほど学歴重視社会でなかったせいもありますが、この事実を現在の「高学歴」の若手の芸能人諸君はどう感じるでしょうか?「高学歴=頭が良い」と言う概念はいまや成立しないのでしょうか?先生のご回答をお待ちいたします。
ゆとりの教育と入試制度の多様化により、分数の計算すらできない大学生が増えているのですから、有名大学出身者だから知的とはいえないでしょう。
珍解答をするのには実はおバカではできません。
視聴者に優越感や笑いを提供するために、それとは分からないようにベストなタイミングで適度なユーモアを瞬時に思いつく事を常に要求されるのですから。(天然もまれにいるようですが。。)
たしかに珍解答が出来る能力と学歴は直接は結びつかないでしょう。
大学は少子化の影響でさらに二極化するようですね。
人気のある大学は優秀な学生が集中し、国からの補助金も多いので高い教育レベルを維持し、思う通りの運営が出来るでしょうが、人気のない大学は職員が学生に迎合しサービス産業化しています。さらにこの流れが加速すれば、大学卒業後の進路もより固定化されるでしょうね。採用する側もいたれりつくせりのぬるま湯大学を卒業した学生を取りたいとは思わないでしょうし。
教授が営業をしているのであればまだましです。
川成洋さんが書いた本にも書かれてあるように、本当に仕事(本業である教育、研究は捨てている)をしない教授が存在しますし、それに何も言わない教授陣がいます(自分が実績が無いに等しいのでそれをつかれるのが嫌なのでしょう)。
痴呆酷立大学では、漢字の通り、痴呆に掛かったかのような教授の世話を学生が金を払ってまでして実地訓練させられます。
また、それに対して、改善要求を学生がつきつけると、教授を処分せずに、なんと、学生を処分するようなことが実際に起きています。
教官といえども、サービス業なのでウェークアップコールはいかがかとは思いますが、痴呆症にかかったような教授の介護を学生が金を払ってまでしなければいけないような状態を放置しておいて、それを訴えたら学生を処分するような大学、これはあまりにもおかしいんじゃないでしょうか!?
行き過ぎた文章があるかとは思いますが現実にあることです。
とにかく、授業料というのは天から降ってくるもんでもなく、学生の親が働いて得た給料だということです。教授らも、まあ看板あってやっと飯を食えているんですからそういうところは謙虚になってほしいもんです。
教授も偉そうにしたいのであれば、実績をつみあげ、他人様に飯を食わせるようになってやっと偉そうにしてほしいと思います。
NHK ハーバード白熱教室を観ておりますが、30数年前 研究生で米国大学におりました事を
思い出します。もちろん、サンデル教授の様な教授ではありませんが、その授業の進め方等は、時々依頼され、大学で特別講義の際も応用させて頂いております。最近思います事は、
学生の質が落ちたと同時に、大学で教鞭を取る先生方も質が落ちていることです。
それは何故なんだろうと思いますと、結局 全く現場を知らないまま、教鞭を取っている事です。
以前、特別講義を依頼された大学から、お礼のご連絡を頂きましたが、その際。教授の方々は
現場出身の講師を嫌うとおっしゃっておりました。理由は、自分の地位が危ないからとのことです。
アジアの留学生達は、率直に講義での質問をぶつけてきます。日本の学生で質問してくるのは
少ないです。でも果たしてちゃんと質問に回答出来る先生方はどのくらいいるのか?疑問です。
大学で教えている友人は「差別部落だ!」と言ってましたが、駄目な大学は潰した方が良いと思います。駄目な教授連中が教えれば、駄目な学生はもっと駄目になる。勉強もろくにしないのですから、会社にも入れない。社会がだんだんと駄目になる。この負のスパイラル。
このぶんでいくと、日本の大学はガラパゴス携帯の進化ではなく、退化していくことだと思います。それだけ、教える側に差がありすぎます。
実はどこの国の大学も文系ほど腐敗している
アメリカも文系分野ほど思想の偏りが多い
文系は物語として残すべし
今は政治思想と脳の関係すら調べられる時代