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大学教授は虚業家か

2005年8月24日

私が大学を去ってから10年程が経つ。大学淘汰の時代を迎え、少しは改革が進んでいるのかと思っていたが、古谷浩著の『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』を読むと、根本的な問題は何も解決していないという印象を得る。沈み行くタイタニックの甲板上で椅子取り合戦をしている人たちを見ていると、もっと本格的な淘汰が必要なのではないかと思ってしまう。

Photo by sean Kong on Unsplash modified by me

1. 大学教授の仕事は営業か

四年制私大の三割が定員割れになるなど、大学経営は厳しさを増している。その結果、教育や研究よりも、営業業績で教員の評価が決まるという事態まで発生している。

一部の大学では、公立高校の校長OBらを大学教員として雇って高校訪問をさせ、入学者を獲得すればそれに見合う歩合給を払ったり、前年度において何人の志願者を集めて入学させたかで、翌年度の特任教授としてのポストを決めるところすらある。[1]

かつて大学受験生は「入ってしまえば、後はどうにでもなる」と、入学後のことは考えずに、がむしゃらに勉強したものだ。少子化の現在、選ぶ権利が大学から受験生に移っただけで、この発想は何も変わっていない。大学教員たちは「入ってしまえば、後はどうにでもなる」と、入学後の教育の質のことは考えずに、がむしゃらに受験生勧誘にいそしんでいる。

もしも教育の質が高ければ、営業活動をしなくても、受験生は自然に集まる。そして教育の質を高めるには、教員を教育活動や教材研究に専念させるべきだ。教員に営業をやらせている大学は「本校は教育には力を入れていません」と外に向かって宣言しているようなもので、逆効果ですらある。

2. なぜ学問的無能ほど出世できるのか

大学教授の中には、「自分よりも業績のあるヤツは自分の下には置かない」と公言する人もいるぐらいで、若手研究者は、研究に専念するよりも、教授のために雑用をするほうが出世できる。

筆者が勤務した私立大学でも、自分の立場を脅かしかねない優秀な人材を排斥し、能力がなくても従順な人間を可愛がろうとする学園幹部のいやらしさをうんざりするほど見せつけられた。そして、そうした「御仁」が「ゴマスリ」教員を昇格させ、その人間がまた無能なのを手下に置いておこうとする悪循環が生じているのである[2]

大学院生には、「研究が好き」という純粋なタイプと「教授になりたい」という生臭いタイプの二種類がいて、前者は研究に時間を使い、後者は社交に時間を使う。そして、アカデミックポストを手に入れ、学内行政を牛耳ることになるのは、後者のタイプである。この傾向は、文系学部において顕著である。

3. 文盲でも教授になれる日本の大学

有能な若手を排除し、無能な茶坊主を重用し続けた結果、日本の大学教授の学力は大幅に低下した。まともに論文を書くことができない教授も少なくない。

驚くべきことに、教授と名乗る御仁の中には、書くことのみならず字もまともに読めない人物さえいる。現に、筆者が勤務した大学には中学生レベルの漢字の読み方すら知らない、れっきとした「教授」や単に「口舌の徒」に過ぎない助教授などもおり、おったまげたことがある。[3]

大臣の中にも中学生レベルの漢字を読み間違える人がいるので、官僚たちは、答弁の原稿に振り仮名を付けることにしているのだそうだ。国会のセンセイの知的水準が低いことはよく知られているが、永田町の論理で人事が行われている大学のセンセイの知的水準も、それに勝るとも劣らず低いことはあまり知られていない。

大学教員は、少なくとも5年に1本論文を書かなければいけないことになっている。しかし、この不文律は実際には守られていない。

2001年度春現在の時点を見ると、全教員のうち4分の1は5年間かけても1本の論文も書いていないという調査結果が出ていた。しかも、論文を書いているとされる残りの4分の3の教員が実際に自分で論文を書いているかというと、前述したように、甚だ心もとない限りだという。これは、有名国公立大学でも見られ、自分の弟子に論文を書かせて格好をつけている教授がかなりいるというのは、もはや常識となっている。[4]

確かに、私が知っている人の中でも、在職中一本も論文を発表することなく、助教授のまま定年を迎えた人もいる。日本の大学の文系学部では、教員は、いったん専任として採用されると、全く論文を書かず、教育能力がゼロでも、犯罪行為が発覚でもしない限り、解雇されることはないし、それどころか、降格や減俸といった処分を受けることすらない(さすがに昇格はできないけれども)。

4. 有能な教員ほどいじめられる嫉妬の構造

こうした、インセンティブのほとんどないぬるま湯の環境が、大学研究者の士気を低くしているわけだが、日本の大学の教育・研究水準を押し下げる最大の原因は、熱心な教育者や有能な研究者を村八分にし、場合によっては、濡れ衣を着せてまで排除しようとする嫉妬の構造である。

某学園では、学生に人気のあるゼミ(3、4年生向けの2年コース)担当の教授(太い態度をとることで知られた)を干すために、そのゼミ所属学生に担当教授のあらぬ噂を流したが、学生が続投を求めて署名運動をし「連判状」を学園幹部に提出した、といった事例があった。だが、学園幹部はそれをひた隠しにして、なんらの手立ても講じなかったことなどから、その教授は嫌気がさして他校へ移籍した。[5]

熱心な教育者や有能な研究者を優遇するどころか、逆に陰湿ないじめで排除しようとする村社会的慣行を改めない限り、日本の大学の教育・研究水準が、世界水準と比べて低いままに留まるのは当然と言わなければならない。

5. ベビーシッター化する大学教授

大学の粗製濫造で、大学教授の知的水準が大いに低下したが、これに少子化の波が加わることで、大学生の知的水準はそれ以上に低下した。低偏差値大学では、大学教授(あるいは予備校講師が代役として)が小学生レベルの大学生に、読み・書き・算数(数学ではなくて、算数!)を教えなければならないというのが現状である。

大学教授の中には、自分の仕事はベビーシッティング(子守)と割り切っている人もいる。実際、次のような話を聞くと、無名大学の学生は、小学生よりもっとレベルが低いのではないかと疑いたくなる。

中には、大学教員が授業への出席を促すために、学生向けに、毎日のごとく「ウェークアップ・コール(目覚まし電話)」までするという大学もある。学生に対しきめ細かいケアを施すといえば、聞こえはいいが、もう立派な大人である大学生に対しここまでの「サービス」の実施を義務付ける「無名大学」について、読者諸氏はどのようにお考えであろうか。[6]

いくら午前中の授業の出席率が低いからといって、大学教員がここまでしなければならないのか。

他の業種に転職するだけの能力のある人は、子守稼業や無能教授によるいじめに嫌気がさして、大学教授を辞めていく。そして、本来辞めるべき無能教授だけが大学に残る。かくして、日本の大学の知的水準は、底なしのデフレスパイラルに入っていく。

6. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 46.
  2. 古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 51.
  3. 古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 80-81.
  4. 古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 81.
  5. 古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 115.
  6. 古谷浩『大学教授は虚業家か―学園のいびつな素顔』早稲田出版 (2003/07). p. 154.