人間原理とは何か
この宇宙には、なぜ私たち人間のような理性的な存在者がいるのだろうか。人間は偶然この世に現れたのか、それとも現れるべくして現れたのか。人間が存在しない世界は可能だったのか。

1. 人間の存在は奇跡である
人間のような理性的存在者が、否それどころか原始的な単細胞生物であっても、宇宙に生まれてきたことは必然ではなかった。もしもビッグバン初期の膨張速度が実際よりほんの少し速ければ、重元素(水素やヘリウム以外の元素)や銀河が形成されず、低濃度の水素ガスが希薄になるだけの歴史しか展開しなかっただろう。逆にもし膨張速度が実際よりほんの少し遅ければ、宇宙は数分の一秒以内に崩壊しただろう。いずれの場合にも、生命の存在余地はない。生命を育む宇宙を初期の特異点が作る確率は10のマイナス1230乗と試算されている。
宇宙開闢の段階で、生命誕生はもう既に十分偶然的と言えるが、生命が誕生する条件が整うためには、これ以外にも多くの偶然が重なっている。プランク定数、光速度、電子と陽子の質量比などが現在の値と異なっていても生命は存在しなかったはずだ。またこうした基本的な条件がそろっていても、もし太陽系の適正な惑星数、太陽と地球の間の適当な距離、地球の程よい重力、大気の温暖効果、太陽風や紫外線のカットなど様々な偶然のうち一つでも欠いていたら、地球上に人間は誕生していなかっただろう。
2. 結果から原因を説明する
このように、宇宙に人間が現れたのは、奇蹟的な偶然である。この偶然を説明するために科学者が持ち出した仮説が、人間の存在から宇宙を説明する人間原理である。ビッグバンから人間の存在を導こうとすると、奇蹟のオンパレードになってしまうが、人間の存在から宇宙の現状を導こうとすると説明に必然性が出てくる。ただ科学者は原因から結果を説明する因果論的説明に慣れているので、結果から原因を説明する目的論的説明に反発する科学者も少なくない。
人間原理には弱い人間原理と強い人間原理がある。前者は、「宇宙の年齢は100億年以上である。なぜなら、主として重元素からできている太陽系や人間が存在するためには、宇宙の開闢当時存在しなかった重元素が星の内部で合成され、それが星の爆発によって外部に放出され、そこから太陽系ができるまでに100億年以上かかるからだ」といったもので、常識の範囲内である。
強い人間原理はもっと過激である。宇宙の存在は人間のような知的生命の認識にかかっており、もし宇宙に知的生命がなかったとすると、その宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも同然であるとまで主張する。こうした「我思う、ゆえに宇宙は存在する」という主張は、自然科学者にとっては奇妙に思えるかもしれないが、哲学者にとってはおなじみの超越論的観念論である。
3. 超越論的観念論としての人間原理
素朴実在論を信仰する人々は、超越論的観念論に非科学的というレッテルを貼ってきたが、現代科学は、超越論的観念論と親近性をむしろ強めている。宇宙の年齢にしても、観測できる最も遠くにある天体、クェーサーが150億光年の距離にあるので、ビッグバン以後、光が宇宙を進めるようになった宇宙の晴れ上がりは150億年前頃だろうと推定するのである。私たちの認識は光を通じて行われ、そして光の限界が宇宙の限界だとするならば、そこから認識の限界が世界の限界だという超越論的観念論のテーゼが帰結する。
超越論的観念論は、認識主体が存在しなくても存在する、限界のかなたの世界を物自体と名付ける。定義により、物自体を認識することはできないが、その存在を想定することならできる。物自体など存在しないという哲学者もいるが、現在の物理学では、観測可能な宇宙の他に多くの宇宙があるとするマルチバース仮説が有力であり、マルチバースを物自体の物理学的対応物を見出すことができる。

他の宇宙といっても、いろいろなレベルがあり、マックス・テグマークは、宇宙の地平線の外部、異なる物理定数の宇宙、量子力学的な多世界、異なる数学的構造の宇宙という四つのレベルに分けている[2]。もしも宇宙が一つしか存在しないなら、10のマイナス1230乗の確率でしか起きない出来事が起きることは奇蹟だが、もし10の1230乗個以上の宇宙が存在するなら、そのうちの一つに生命が存在しうる宇宙があったとしても驚くに値しない。
哲学の世界では、長らく因果論的機械的世界観と目的論的有機的世界観が対立してきた。多世界解釈に基づく人間原理はこの二律背反を止揚することができる。すなわち、宇宙開闢以来、あらゆる可能性が実在する宇宙として機械的に分岐し、そのうちの一つとして私たちが存在する宇宙が生まれたに過ぎない。しかし、その宇宙一つだけを取ってみるならば、現在の私たちの存在を前提に宇宙の過去を説明する目的論的説明が許される。この因果論的機械的世界観と目的論的有機的世界観との二律背反の調停の仕方はカントの『判断力批判』での方法とは異なるが、カントの超越論的哲学の方法と無関係ということはない。なぜなら、それは、物自体と観測可能な宇宙を区別し、理性的存在者が、自分たちの認識対象が世界のすべてではないという自らの理性の限界を超越論的に自己反省することで得られる結論だからだ。
4. 参照情報
- ↑KronicTOOL. “Cyclic progressions of the universe.” Licensed under CC-0.
- ↑Tegmark, Max. “Parallel Universes." Scientific American 288.5 (2003): 40-51.
ディスカッション
コメント一覧
宇宙に人間などの生命の発生が非常に奇跡的確率に思える説として、この記事での自然主義的な人間原理や量子力学的多世界解釈がよく取り上げられますが、実際にこういう説はオッカムの剃刀の原理に大いに反します。
生命の発生が不思議でないことを説明するのに、無限に近い未知の他宇宙の仮定が必要であるからです。
やはり、機械論的自然主義に基づいたこれらの宇宙論よりも、目的論に近い超自然主義に基づいた宇宙論のほうが、オッカムの剃刀やシンプルな説明の点で、合理的で妥当性があるとして個人的に支持しています。
こういうことを言うと、ID論者かと叩かれがちですが、人間などの生命の誕生を考える時に、簡潔で合理的な哲学的仮説を追求すると、こうした超自然主義的な概念を考えるのもありかと個人的に思うところです。
ちなみに、ID理論などの超自然主義・反機械論的宇宙論の全てが宗教でいう神や天国などの概念が必要というわけでなく、例えば「異次元空間の知的存在たちが我々の宇宙(の一部)を管理している」「この宇宙は実はVR世界か実験場に近いものだ」という説などもあり得ます。
もちろん、機械論的宇宙論が間違いだという証明はできていないし、何らかの未知の自然主義的メカニズムで生命が必然的に発生することもあり得るなら、話は別です。
しかし、今のところそうした機械論的メカニズムは発見されてなさそうですし、もし実際にそれがないとすれば、もはや機械論・自然主義に縛らずに、超自然主義的な考えまで広めていく必要性があるのではないかと思うところです。
「必要なしに実在を多数化してはいけない」というオッカムの剃刀の原理よりももっと重要な原理は、矛盾律です。量子力学で多世界解釈を採らないと、猫は生きていてかつ死んでいるといった矛盾が生じます。この矛盾は何としても解消しなければなりません。マルチバース仮説は、量子力学以外でも様々なレベルで提唱されていますが、それらにはそれぞれ理由があってなされているのであって、必要なしに実在を多数化しているわけではありません。
コメントありがとうございます。
まず、こちらでの訂正です。
「生命の~説明するのに、無限に近い未知の他宇宙の仮定が必要である」
→「生命の~説明するのに、無限に近い未知の他宇宙の仮定を使う」
大変申し訳ございませんでした。
>猫は生きていてかつ死んでいるといった矛盾
シュレーディンガーの猫については一般に誤解されているようですが、実は人間の観察より前段階の検知器の感知時点で猫の生死状態が決定される説の可能性が高いようです。つまり、人間が観察するまで相反する2つの状態が物理的に重なっているという解釈を前提にすると矛盾が生じるという問題提起のための思考実験であるようです。
↓詳しいことはこちらのリンクも参照です。(節操のないサイト様) http://taste.sakura.ne.jp/static/farm/science/schrodinger_cat.html
>マルチバース仮説
誤解を招く表現で申し訳ないですが、マルチバース仮説自体の妥当性についてでなく、生命存在の奇蹟的偶然さの説明に無限に近い数の宇宙を仮定を使う説の妥当性について主張しています。膨大な数・種類の実体を使う仮説よりも、一つ(または少数)の知的存在の行為のみの仮説のほうが妥当性が高いということです。
それは本質的な論点ではありません。量子レベルでの重ね合わせの段階で、矛盾律に反しているということです。
私が言っていることは、マルチバース仮説によって生命の奇跡が説明できるからといって、それだけのためにマルチバース仮説が提唱されているのではないということです。
別の例をあげましょう。マルチバース仮説を使えば、祖父のパラドックス(Grandfather paradox)を解決することができます。このパラドックスで提起されている問題は、もしも私がタイムマシーンで過去に遡って、祖父を殺す(ないしは、両親の結婚を妨げる、過去の自分を殺すなどのことをする)ならどうなるかというものです。マルチバース仮説を使うなら、タイムマシーンで過去に遡った時点で、別の宇宙に分岐するので、そこで、祖父を殺したり、両親の結婚を妨げたり、過去の自分を殺したりしても、理論的な不都合は生じません。しかし、だからといって、このパラドックスを解決するために、マルチバース仮説が提唱されたということはありません。
ただし、いろいろな問題を解決することができるということは、その仮説の価値を高めると言うことならできます。そもそも、オッカムの剃刀は一種の経済原理です。一つの仮説で多くの問題を解決することは経済的であり、オッカムの剃刀の精神に適っていると言うことができます。
一方でオッカムの剃刀を持ち出しておきながら、他方でこうしたシミュレーション仮説を持ち出すのは不可解です。シミュレーション仮説自体がオッカムの剃刀の原理に反していると思わないのですか。
・量子力学の重ね合わせについて
重ね合わせとは何かについても実際には今でも多くの解釈・仮説があるそうです。
物理的に相反する2つの状態が文字通り存在するというのはあくまで解釈の一つであり、それ以外にも例えば、重ね合わせとは単なる波動関数の確率値の性質であるという解釈もあります。
もっとも、本題と大きく逸れる話なので、説明はこの辺にしておきます。
>マルチバース仮説によって生命の奇跡が説明できるからといって、それだけのためにマルチバース仮説が提唱されているのではない
話が正しく伝わってなくて申し訳ないですが、自分はマルチバース説云々の話でなくて、人間原理と、超自然主義的宇宙論自体の妥当性の話をしたかっただけです。
総合的に考えて、膨大数実体の仮定で強引さがある人間原理より、超自然主義宇宙論のほうが仮定の簡潔性(「何かが定数などを調整している」の結論だけで済む)の面で妥当性が高いと言うことです。
>シミュレーション仮説を持ち出すのは不可解
シミュレーション仮説はあくまで一例として出しただけであり、その説自体の妥当性について個人的にどうでもいいことです。
ただ、もしオッカムの剃刀に反しているなら、例としては不適切ということで謝ります。
もちろん多世界解釈は一つの解釈にすぎませんが、問題はこの解釈よりも説得力がある解釈があるのかというところにあります。
次の二つの命題を比較してください。(2) よりも (1) の方が簡潔ですね。
(1) なぜXとなるのかわからない。
(2) なぜXとなるのかわからないが、きっと超自然的な作用因が働いてXとなったに違いない。
どちらでもわからないことには変わりがありません。超自然的な作用因を想定しても、それが何であるのか、どのように作用するのかがわからない以上、何の説明にもなっていません。それならば、そうした不必要な仮定はオッカムの剃刀でそぎ落とすべきではないのですか。生命の誕生にしても、超自然的な何かを持ち出すよりも、偶然そうなったという説明の方が簡潔だし、多くの人に抵抗なく受け入れられるでしょう。
今日もお疲れ様です。
・量子力学の解釈について
結局は、どの解釈も皆が賛同するほど説得力あるものはないのが現状だということに尽きますね。
>生命の誕生にしても、超自然的な何かを持ち出すよりも、偶然そうなったという説明の方が簡潔だし
うーん、例え偶然で機械論的な説明が簡潔そうだとしても、無数の実体を仮定する時点でオッカムの剃刀に合わないことに変わりないし、やはりそれで偶然なことも当然だとするには強引さが残ってしまう欠点もありますね。
結局生命誕生にしても、量子力学の解釈のように、どちらが妥当的で合理的だと言えるかはそれぞれ一長一短あれば、人によって考えが違うのも当然でしょうか。
最も私は相対主義者ではありませんが。
そうでしょうか?
超自然主義宇宙⇒上位の存在⇒その存在を至らしめた更に上位の存在⇒無限に続く…
これはオッカムの剃刀に抵触していませんか?
強い人間原理支持の私からすると、我々の宇宙は「存在せずにはいられない」宇宙です。
1.宇宙の存在条件を満たさない非宇宙
2.宇宙の存在条件を満たすが、観測者を生み出さなかった仮宇宙
3.宇宙の存在条件を満たすが、未だ観測者を生み出していない可能性宇宙
存在と非存在の無限のグラデーションを仮定する might be 宇宙論では、我々の宇宙は
4.宇宙の存在条件を満たし、観測者を生み出した存在宇宙、或いは存在せずにはいられない宇宙
となります。