卑弥呼の墓はどこにあったのか
卑弥呼の墓がどこにあったかは、邪馬台国がどこにあったかを決める上で重要な問題である。畿内説では奈良県桜井市にある箸墓古墳が、九州説では福岡県糸島市にある平原遺跡1号墓が有力候補である。現在歴史学界で最も有力視されているのは箸墓古墳である。しかし、『三国志』魏書東夷伝倭人条の記述との整合性からすれば、平原遺跡の方が、卑弥呼の墓である可能性が高い[1]。

卑弥呼の墓としての平原遺跡
平原(ひらばる)遺跡は、福岡県糸島市にある方形周溝墓を中心とした遺跡で、中心となる1号墓からは、40面もの多数の銅鏡が出て、注目された。従来、平原遺跡は伊都国の女王の墓とみなされてきた。しかし、この墳墓は邪馬台国の卑弥呼の墓かもしれない。平原遺跡は、箸墓(はしはか)古墳ほど有名ではないので、まずは、平原遺跡の紹介から始めたい。
なぜ平原遺跡は有名でないのか
平原遺跡は、1965年1月18日に、地元の農家が蜜柑の木を植えようと溝を掘っている時に鏡の破片を掘り出したことで発見された。その後、在野の考古学者であった原田大六や糸島高教諭の大神邦博らによる発掘調査が行われた。原田によると、遺跡発見直後、糸島新聞のNが現地に急行したが、「面倒になるから、隠したがよかろう」と言って帰り、そのため、農家は、遺跡に溝を掘り続けたとのことである[2]。発見から二週間後に知らされ、前原町教育委員会から管理責任者を委嘱された原田は、破壊された遺跡の修復や銅鏡の復元に私費一千万円を投じたが、学界や文化庁は遺跡の価値を認めることに消極的であった。
その理由は、遺跡発掘の翌年に原田が出版した『実在した神話』にあったようだ。この本の中で、原田は、アマテラス神話がフィクションではなくて、アマテラスのモデルが実在したことを考古学的証拠に基づいて実証しようとしたが、原田の試みは、当時の歴史学者たちの不興を買った。戦後、唯物史観を信奉するマルクス主義者が歴史学界と言論界の主流となっていたために、皇国史観は否定され、日本神話は全くの虚構とされた。当時の「進歩的知識人」たちの目には、原田による日本神話の実証的裏付けは、許しがたい保守反動と映ったらしく、原田によると、文化庁が教育委員会に原田への委嘱を止めるように働きかけた[3]とか、何者かが、売れていた原田の本『日本古墳文化』の出版を取りやめるように版元の東京大学出版会に圧力を加えた[4]といった嫌がらせを受けたとのことである。
原田の話がどこまで本当かはわからないが、平原遺跡を含む曽根遺跡群が史跡に指定されたのが発見後17年経った1982年で、1号墓出土品が国宝に指定されたのがそれからさらに24年経った2006年であることから、文化庁が遺跡と出土品の保護に積極的でなかったのは明らかである。また、平原遺跡が箸墓や吉野ヶ里遺跡よりも一般人の間での知名度がはるかに低いことからもわかるように、主流派の歴史学者たちは、この遺跡を軽視し、あまり取り上げてこなかった。しかし、平原遺跡は、その遺跡の1号墓が卑弥呼の墓かもしれないので、箸墓や吉野ヶ里遺跡よりも重要度が劣るとは言えない。
平原遺跡はいつ作られたのか
平原遺跡の中心にある1号墓の建造時期を決める手がかりは、副葬品にある。中でも棺内から出土した瑪瑙(めのう)管玉とガラス製耳璫(じとう)に注目したい。この管玉と同類のものは、日本からは出土せず、韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から四世紀と考えられている[5]。また、耳璫も晋代(265 – 316年)を挟む時期に特徴的な特殊な形状のもので、漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型である[6]。
棺内から出土した以上、被葬者が死亡時にこのネックレスとピアスを付けていた蓋然性が高い。従来、1号墓は、伊都国王の墓で、伊都国が繁栄した2世紀に造られたとする見解が主流だった。たしかに、銅鏡の中には古いものもあるが、墓の築造年代は、副葬品の中で一番新しいものによって決まる。管玉と耳璫から判断すると、この墓は、3世紀のものであろう。
1号墓から土器は出土しなかったが、周溝の一部を共有して、ほぼ同時期に作られた土壙墓(2号墓)から西新町式土器が出土している[7]。この土器は、弥生時代末期から古墳時代にかけて作られたもので、この点からも、2世紀に作られたという従来の説を否定できる。1号墓が2世紀ではなくて、3世紀の墓だとするならば、それは卑弥呼が死亡したとされる248年前後を含むことになる。
平原遺跡の被葬者は誰か
平原遺跡1号墓の副葬品が他に例を見ないほど豪華であることから、被葬者は、国王クラスと推定される。また、他の伊都国王の墓と比べて、武器が少なく、鏡が多いこと、棺内から出土した耳璫は、中国や朝鮮半島で流行した女性用耳飾りであることなどから、被葬者が女性であることがわかる。このため、従来、平原遺跡1号墓は、伊都国女王の墓と考えられてきた。しかし、この説は、以下の二つの理由から受け入れがたい。
第一に、平原遺跡1号墓は、これまでにそこから伊都国の王墓が発見された三雲遺跡や井原鑓溝遺跡がある怡土(いと)平野の中央部ではなく、その北西側の曽根丘陵の上にある。なぜ伊都国女王の墓が、王都があった怡土平野の中央部やあるいは王都を見下ろせる東側ではなくて、王都を遠望できない低くて平坦な西側斜面に造られたのか。曽根丘陵には、5世紀代の古墳群が造営され、曽根遺跡群を形成しているが、平原遺跡以前にここに造られた墓は、曽根丘陵東側の一つの先端に位置する石ヶ崎支石墓など、ごく少数で、なぜ伊都国女王の墓としてこの場所が選ばれたのか不可解である[8]。
第二に、3世紀の伊都国に女王がいたという仮説は、『三国志』魏書東夷伝倭人条の記述に反する。そこには、伊都国に関して次のような記述がある。
官を爾支(にき)と曰ひ、副を泄謨觚(せもこ)・柄渠觚(へくこ)と曰ふ。千余戸有り。世々王有るも、皆女王国に統属す。[9]
「世々王有る」という記述を根拠に、卑弥呼の時代にも伊都国に王がいたと主張する人もいるが、そう解釈することは無理である。王は男であって、女ではないというだけではない。もしも、今なお王(女王)がいるのなら、官の「爾支」や副官の「泄謨觚・柄渠觚」の前に、最初に王(女王)の紹介があるはずだ。それに、王(女王)が皇帝に従属しているとか、諸侯が王(女王)に臣従しているというのならわかるが、王(女王)が別の女王に従属するというのは、中国の用語法からしておかしい。それゆえ、原文の「世有王皆統屬女王國」は、「代々王がいたが、今は王がおらず、伊都国の民は全員邪馬台国の女王に従属している」と解釈するべきである。
なお、伊都国には代々王がいたという『三国志』魏書東夷伝倭人条の記述は、他の文献での記述や考古学的証拠と整合的である。『後漢書』巻八十五の東夷列伝第七十五によると、107年に、倭国王帥升等が生口160人を後漢の安帝に献じ、謁見を請うたという記述があるが、この「倭国王帥升」も伊都国王ではないかと言われている。事実、三雲遺跡や井原鑓溝遺跡にある伊都国王墓からは、前漢・後漢時代に作られた大陸舶載の鏡が大量に見つかっている。しかし、伊都国に王がいたのは2世紀以前の話であり、倭国大乱以降、伊都国に女王がいたことを示す文献上の証拠はない。多分、倭国大乱のときに、伊都王国は滅び、新たに台頭した邪馬台国に従属することになったのだろう。ゆえに、3世紀に造られた平原遺跡1号墓を伊都国女王の墓とみなすことは困難である。
柳田康雄は、平原遺跡1号墓から出土した前漢鏡に関して、「この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう」[10]と言っている。柳田も平原遺跡1号墓が平原の王の墓と思っているようだが、3世紀に中国からそれほど高い評価を受けていた日本の女性としては、卑弥呼以外に考えられないのではないだろうか。
鏡の大半はなぜ中国製ではないのか
柳田の分析によれば、平原遺跡1号墓から出土した鏡40面のうち、中国本土で生産された舶載鏡は、今述べた前漢鏡1枚と後漢鏡1枚だけであり、それ以外は、仿製鏡、つまり日本製の鏡である[11]。これは、三雲遺跡や井原鑓溝遺跡とは大きく異なる平原遺跡の特徴である。三雲遺跡や井原鑓溝遺跡にある伊都国王墓から出土する鏡は、すべて舶載鏡で、仿製鏡はない。これに対して、平原遺跡1号墓には、多くの仿製鏡が副葬されていたのは、伊都国王にとっての鏡の役割と卑弥呼にとっての鏡の役割が根本的に異なるからであると考えられる。
すなわち、伊都国王にとって、舶載鏡は、自分の権威を周囲に見せびらかすためのたんなる威信財であり、価値の低い仿製鏡は、所有するだけの値打ちがなかった。これに対して、卑弥呼にとっての鏡は、呪術的な儀式を執り行うための道具であり、中国製かどうかということは重要ではなかった。卑弥呼は、晩年(240年)に、魏の皇帝から鏡百枚余をもらったことになっているが、そより遥か以前から、彼女はシャーマン的なセレモニーで人心を掌握していたのであるから、2世紀ごろの古い漢鏡をモデルに日本で独自に製造していたのだろう。中国にない超大型鏡も、儀礼効果を高めるために、卑弥呼が独自に考案したと思われる。
なお、平原遺跡1号墓から舶載鏡がほとんど見つからなかったことから、卑弥呼が魏の皇帝からもらった舶載鏡のうち1枚が魏と卑弥呼との臣従関係の証として卑弥呼の手元に残されたものの、大部分は、邪馬台国連合内部の国々に配布されたと考えられる。実際、『三国志』魏書東夷伝倭人条によると、魏の皇帝は、「還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし[12]」と言って、銅鏡100枚等を下賜している。当事、邪馬台国は、狗奴国と戦争中であり、魏の皇帝が邪馬台国連合と狗奴国との戦いに介入していたことを考慮に入れるならば、卑弥呼が、同盟諸国の離反を防ぐために、威信財である舶載鏡を、同盟諸国に臣従関係の証として配布したと推定することが自然である。
卑弥呼はなぜ平原に葬られたのか
平原遺跡1号墓を卑弥呼の墓とすることに対しては、仿製鏡の問題以外にも、様々な疑問が投げかけられることだろう。なぜ邪馬台国の女王の墓が伊都国に造られたのか。副葬品が女王にふさわしいにもかかわらず、なぜ墓の大きさは、それとは不釣合いに小さいのか。副葬品の銅鏡は、なぜ割られていたのか。これらの謎は、卑弥呼はスケープゴートとして殺されたという、私が「天皇のスケープゴート的起源」などで表明した仮説によって解ける。
卑弥呼は、邪馬台国の民から惜しまれて自然死を迎えたのではなかった。彼女は、太陽の巫女としての呪術的能力により権力を握ったが、晩年は、気候の寒冷化とそれに伴う不作により、その能力が疑問視された。太陽の衰弱と卑弥呼の老衰が同一視されたということである。狗奴国との苦戦を強いられる中、247年3月24日に、部分日食が起き、卑弥呼は、持衰(じさい)と同様に、タブーを犯したという罪を着せられ、スケープゴートとして殺害された。それゆえ、身分が高かった割には、墓の大きさが小さかったと考えられる。
人々は、卑弥呼を殺害後、彼女が愛用した鏡を叩き割り、卑弥呼の墓の棺外に副葬した。平原遺跡1号墓から出土した鏡は40面もあるが、その中でも最大の鏡は、日本では、内行花文(紋)八葉鏡と呼ばれる。卑弥呼が太陽崇拝の儀式に用いたものなのだろう。以下の写真を見ると、たしかに、その名が示すとおり、花や葉をデザインしたもののようにも見える。だがそれは現代の日本人の勝手な解釈で、そう解釈する必然性はない。そのため、中国では、「連弧文鏡」という、たんに弧が連なっている文様の鏡という意味しかない解釈中立的な名称が使われている。

原田は、古代中国における巴文様の変遷を辿りつつ、連弧文鏡が、花や葉をあしらった鏡ではなくて、太陽光線の放射(コロナ)を図案化した文様の鏡であるという結論を出している[14]。そうだとするならば、鏡連弧文鏡が粉砕されたことは、太陽の死を象徴している。
卑弥呼の死を太陽の死と解釈するならば、なぜ卑弥呼が平原に埋葬されたかが理解可能になる。私は、福岡県甘木市にある平塚川添遺跡を邪馬台国中枢の遺跡とみなしているのだが、ここが邪馬台国だとするならば、平原遺跡は、邪馬台国から見て、太陽が沈む方向にある。現在の糸島半島は、卑弥呼の時代、文字通り糸島と言えるほど周囲が海に囲まれており、平原遺跡も海に臨む位置にあった。だから、そこは、太陽が海に沈む場所であり、太陽の巫女の墓にふさわしい場所だったのだ。
平原遺跡には、太陽崇拝の痕跡が見られる。木棺は、頭部が西に、足が東に向けられている。原田は、これを次のように説明する。
平原弥生古墳では、十月の下旬に、太陽が虹のようにかがやいて日向峠から顔をのぞかせたとき、その光が、女性と考えられる被葬者の股間をさすように、墳墓が作られているだけでなく、この女性を一の鳥居から遥拝させるようにしてあった。このばあいに太陽の光線は夫であり、被葬者の女性はその妻であったということができるのである。『日本書紀』には天日矛伝説として新羅の賤女が寝ていて太陽の光線でみごもった話を載せている。古代には、現実に「太陽の妻」という観念が実在したことを、平原弥生古墳は語っているのである。[15]
たしかに、これは重要な指摘であるが、被葬者の足元の方向に、柱を立てた跡があることを無視している。埋葬時には、柱があったから、日向峠から顔をのぞかせた太陽は、その柱で影を作り、その影は、太陽のペニスとして彼女の股間を貫き、太陽が昇るにつれて、ペニスが抜かれていった。これは、死んだ日巫女(卑弥呼)から、第二の日巫女を産み出すための再生の儀式であったと解釈できる。
被葬者の頭の方向には、二つの鳥居の跡があった。鳥居の下部もまた、女の股間の形になっている。太陽の黒いペニスは、日巫女の股間のみならず、鳥居という股間も貫いたことだろう。一の鳥居が、引用文にもあるとおり、日向峠の方向を向いていて、十月の下旬に、この鳥居から日の出を拝められるのに対して、二の鳥居は、下の図にもあるように、高祖(たかす)山の方向に向けられている[16]。

二つの鳥居の方向には、どのような意味があるのか。原田によると、一の鳥居が稲刈の時に日が昇る方向を向いているのに対して、二の鳥居は稲の種が苗代で発芽する時に日が昇る方向を向いている。

要するに、一の鳥居が死の時期を、二の鳥居が生の時期を向いている。一の鳥居の方向に日巫女の遺体があり、二の鳥居の方向には何もないが、そこから昇る太陽に、人々は、日巫女の復活の願いをかけたのだろう。鳥居の上部は、文字通り鳥が居る止まり木であるが、地上と空を往復する鳥はこの世とあの世を往復する霊を象徴する。したがって、日巫女の復活には、鳥居が必要なのである。一の鳥居がこの世からあの世に旅立つための出口だとするならば、二の鳥居は、あの世からこの世に帰還するための入り口なのである。
宇佐神宮とはどのような関係にあるのか
『三国志』魏書東夷伝倭人条によると、卑弥呼の死後、男王が立ったが、国中が男王に従わず、内乱状態になった。内乱を収めるには、かつての倭国大乱の時と同様に、新たな日巫女が必要である。そして、248年9月5日に再生の時が来た。247年3月24日の日食は、太陽が食されながら西のかなたへと沈んでいく日入帯食で、人々はそこに太陽の死の予兆を見た。これに対して、この時の日食は、食された太陽が元に戻りながら上昇する日出帯食で、人々は、そこに死んだ太陽の復活を見たことだろう。こうして、卑弥呼の十三歳の宗女、壱与が、先代の日巫女の生まれ変わりとして立てられ、内乱状態だった邪馬台国の治安が回復した。
卑弥呼は、本来男神であった太陽神に仕える巫女だった。日巫女としての卑弥呼は、罪を着せられ、スケープゴートとして殺害された後、復活を遂げ、日御子、すなわち太陽の女神へと祭り上げられた。その復活のストーリーはイエス・キリストと同じである。太陽神、日巫女、日御子は同じ神格となった。これは日本版三位一体である。
日巫女復活と日御子誕生を記念して、邪馬台国の人々は、248年9月5日に太陽が昇った位置の海岸に神社を作った。それが、今日、大分県宇佐市にある宇佐神宮の起源なのではないか。以下の富山至が作成した図が示すように、248年9月5日に日出帯食の太陽が昇った位置は、邪馬台国があったとされる甘木市を基点とすると、方位角が81.5度で、これは、宇佐神宮上宮の方位角、80.4度とほぼ同じである。

鷲崎弘朋によると、宇佐神宮が祀っている比売(ひめ)大神は、アマテラスの別名、大日靈貴神(おおひるめのむちのかみ)に相当する。
「大日靈貴」の「大(オオ)」は美称で、大日本帝国とか大英帝国の「大」と同じです。また、「大日靈貴」の「貴(ムチ)」は尊貴な人の意味で「・・・の尊(ミコト)」と同じです。そうすると、天照大御神(天照大神)の本名は「日靈」と言うことになりますが、この本名の「日靈」を日本書紀は「ヒルメ」と読ませています。ところが、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、現代語で言えば「日の靈」です。すなわち、本源的には「日靈」=「ヒメ」と言うことになります。この天照大御神の本名「ヒメ」が、宇佐神宮の「ヒメ大神」と同一人物と言うのが私の判断です。[20]
邪馬台国の人々は、自分たちから見て太陽が昇る方向の海岸にアマテラスを祀る神社(宇佐神宮)を造って、太陽が沈む方向の海岸に死の空間(平原遺跡)を造った。この構図は、ヤマト(邪馬台)王朝が畿内に東遷した後も、維持された。すなわち畿内大和から見て太陽が昇る方向の海岸にアマテラスを祀る神社(伊勢神社)を造って、太陽が沈む方向の海岸に死の空間(出雲大社)を造った。
平原遺跡は、伊都王国という、邪馬台国の時代に滅んだ王国があった場所にある。同様に、出雲大社は、出雲王国という、ヤマト王朝によって滅ぼされた王国があった場所である。両者はともに、ヤマトにとっては、死を象徴する空間なのである。卑弥呼が罪を着せられ、旧伊都王国という死の空間に追放されたように、畿内の天皇も、例えば、後鳥羽上皇や後醍醐天皇などがそうだが、罪を着せられると、出雲国の沖合にある隠岐島に流された。
アマテラス神話とはどのような関係にあるのか
アマテラスが卑弥呼だとするならば、平原遺跡は、アマテラスの墓地ということになる。日本神話では、アマテラスは、岩戸隠れの際にイシコリドメが作った八咫鏡(やたのかがみ)に映った自分自身の姿を新しい神と間違って、外に引き出されたということになっており、太陽再生のための儀式に使われた鏡と考えられる。
『説文解字』は、咫(あた)に関して、「中婦人の手の長さ八寸、之れを咫と謂ふ。周尺なり[21]」と述べており、1寸を2.3センチメートルとすると、円周が八咫の鏡の直径は、46センチメートルということになる。上掲写真の鏡連弧文鏡(内行花文八葉鏡)は、直径が46.5センチメートルで、文字通り、円周が八咫の鏡である。ここから、原田は、平原遺跡から出土した超大型鏡は、八咫鏡であると主張している[22]。
平原遺跡からは、この他、五百箇御統玉(いほつみすまる)を連想させる約500個のガラス製丸玉、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を連想させるガラス製勾玉、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を連想させる素環頭太刀(そかんとうたち)一振りが出土している。平原遺跡とアマテラス神話の距離はかなり近いと言える。
卑弥呼の墓は箸墓古墳か平原遺跡か
箸墓古墳は、『日本書紀』によると、第7代孝霊天皇の皇女で、呪術的な能力を持つ巫女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされている。但し、崇神天皇陵という説もある。箸墓古墳は、陵墓参考地に指定されているため、内部調査が禁止されており、被葬者が本当に女性であったと考古学的に実証されているわけではない。

これに対して、平原遺跡は、前節で確認したとおり、1号墓からは、40面の鏡を含む大量の副葬品が発掘され、その豪華さから、被葬者は、国王クラスと推定される。また、副葬品に武器が少なく、棺内から出土した耳璫が女性用耳飾りであることなどから、被葬者が女性であることがわかる。周囲に立てられていた柱や鳥居の方向から、この墓の設計は太陽崇拝の思想に基づいていると考えられている。
卑弥呼に関する確かな情報は、『三国志』魏書東夷伝倭人条にしかない。それゆえ、卑弥呼の墓がどれかを決める上で、そこにおける記述と合致するかどうかが決定的に重要となる。まず、卑弥呼が死んだ時には、次のように書かれている。
卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人[24]。
卑弥呼の墓に関する直接的な記述はこれだけだが、これとは別に、邪馬台国における墓の一般的特徴として、次のような記述がある。
その死するや棺有れども槨無く、土を封じて塚を作る[25]。
中国では、遺骸を納める棺が直接土に触れぬように棺の周りを木の外箱で囲むという習慣がある。これを槨(かく)と言う。それがないという記述は一般の墓に関するものだが、もしも、卑弥呼の墓に槨があったならば、特筆すべきこととして、書かれていたはずだ。実際、「大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人」は、普通の埋葬とは異なるから、わざわざ書いているのである。
以上を踏まえるなら、『三国志』魏書東夷伝倭人条から卑弥呼の墓であるための条件は、以下の通りである。
- 規模:「径百余歩」「大いに冢を作る」
- 槨:「棺有れども槨無く、土を封じて塚を作る」
- 殉葬:「奴婢百余人」
- 築造時期:248年頃
築造時期に関しては、話が長くなるので、次の節で詳しく取り上げることにして、本節では、最初の三つの条件に二つの候補が合致するのか、逐次検討しよう。
規模による比較
『三国志』魏書東夷伝倭人条には、卑弥呼の墓の大きさに関する記述として「徑百餘歩」とある。「径」という字が使われているからといって、卑弥呼の墓が直径百余歩の円墳であったとはかぎらない。「径」という漢字は、差し渡し、すなわち端から端までの長さということであり、円形以外の物の長さを測るときにも使われる。
次に「歩」がどれほどの長さか考えよう。中国には、魏・西晋の時代に使われていたと考えられている1里約76メートルの短里と漢の時代に使われていたと考えられている1里約540メートルの長里という二種類の尺貫法があり、そのどちらを用いるかによって、歩の長さが異なってくる。
『三国志』魏書東夷伝倭人条に出てくる対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国が、対馬島、壱岐島、東松浦半島(港のある唐津市あたり)、糸島市の旧怡土(いと)郡、福岡市の旧儺県(なのあがた)に相当することに関しては、異論がない。距離の取り方に関しても、連続説であろうが、放射説であろうが、これらの地点間に関しては異論の余地がないので、これらの地点間の距離、『三国志』魏書東夷伝倭人条に記載されている距離、短里で換算した距離、長里で換算した距離を照合することで、どちらが使われているかを検証しよう。
地点 | 距離 | 『三国志』魏書東夷伝倭人条 | 短里 | 長里 |
---|---|---|---|---|
対海国~一大国 (対馬市-壱岐島) | 60km | 千余里 | 76km強 | 540km強 |
一大国~末廬国 (壱岐市-唐津市) | 40km | 千余里 | 76km強 | 540km強 |
末廬国~伊都国 (唐津市-糸島市) | 30km | 五百里 | 38km | 270km |
伊都国~奴国 (糸島市-福岡市) | 15km | 百里 | 8km | 54km |
長里だと実際の距離と比べて桁違いに大きくなるが、短里ならば、長里よりもずっと誤差は小さくなる。明らかに『三国志』魏書東夷伝倭人条は、長里ではなくて、短里を採用している。実は、『三国志』は全体として、短里を用いており、倭人の記述に関してだけ断りもなく長里を使うということはありえないことである。
『三国志』魏書東夷伝倭人条が1里約76メートルの短里を用いているとするならば、1里は300歩であるから、100歩は25.3メートル、「百余歩」は、30メートル程度ということになる。平原遺跡1号墓本体は、東西約14メートル、南北約10.5メートルの長方形の方形周溝墓で、径(対角線)は、17.5メートルにしかならない。しかし、1号墓の周囲には、4基以上の土壙墓、柱1本、鳥居2組などの付属施設が配置されており、これらを加えると、径は、30メートル程度となる。
これに対して、箸墓古墳は、墳長が約278メートル、後円部の直径が約150メートルであり、「百余歩」よりも桁違いに大きい。長里なら、「百余歩」は、180メートル強であるから、後円部の直径にほぼ等しいが、墳長としては短い。それゆえ、箸墓古墳は、最初円墳として築造され、後に前方部分が付け加えられたという後円部先行説がかつて唱えられた。しかし、この説は、橋本輝彦などによって否定されている。
築造当初から後円部と同時に構築されている渡り堤や外堤の盛り土内部、あるいはこれに先立つ地山整形時の埋め土内部から出土した土器の何れも布留0式の土器群であり、周濠の埋没時期、前方部での調査成果(墳丘の構築工程や築造時期)などを考え合わせると、箸墓古墳が布留0式期に前方後円墳として築造を開始、完成している事は間違い無く、長らく唱えられてきた後円部先行説は否定される事となろう。[26]
したがって、箸墓古墳は、長里を採用したとしても、『三国志』魏書東夷伝倭人条の記述とは合わない。短里の場合は、論外である。
とはいえ、多くの人にとって、卑弥呼の墓が30メートル程度しかなかったということは信じがたいことだろう。その程度の墓に対して、「大いに塚を作る」という『三国志』魏書東夷伝倭人条の表現が当てはまるのかと疑問を持つ人もいるだろう。実際、この記述にこだわって、卑弥呼の墓は、箸墓古墳のように巨大な墓であったと想像する人が多い。しかし、『三国志』魏書東夷伝倭人条を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が区別されていたことに注意しよう。『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る[27]」という諸葛亮伝の発言や、通常、大君公侯の墓が「墳」であったという記事[28]があり、高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を「冢」というように区別していたことが窺える[29]。
では、どの高さを超えたならば、墳になるのだろうか。『周礼』には「漢律に曰く、列侯の墳は高さ四丈、関内侯以下庶民に至るまで各々差あり[30]」とあり、高さが四丈もあれば、墳として扱われていたことがわかる。一丈の長さは、時代によって2メートルから3メートルの間で変化するが、あまり大きな差ではない。12メートルを超えれば、間違いなく、墳である。箸墓古墳は、高さが30メートルもあるので、魏使が見たら、「大いに塚を作る」ではなくて、「大いに墳を作る」と書いたはずだ。
これに対して、平原遺跡1号墓の高さは、発見時にすでに盛り土が失われていたから、正確な数字は出せないが、東西約14メートル、南北約10.5メートルという規模の方形周溝墓であるから、12メートルは無理である。柳田は、2メートル程度の高さだったと推定している[31]。この程度なら、大きめの塚として認定される。『三国志』魏書東夷伝倭人条に出てくる「大いに塚を作る」という表現は、「塚としては大きいが、墳と言うほど大きくはない」という意味なのである。そして、この記述に合致するのは、箸墓古墳ではなくて、平原1号墓である。
槨の有無による比較
槨(椁)とは、棺(ひつぎ)をその中へと格納する外棺で、「うわひつぎ」とも呼ばれる。槨は、棺と密接していて、棺あるいは槨との間に空間がある墓室は、蔵と呼ばれ、棺や槨から区別される。平原遺跡1号墓では、割竹形木棺という、大木を半分に切って、竹のように中をくりぬいた木棺が、直接土の中に埋められており、「棺有れども槨無く、土を封じて塚を作る」の記述に合致する。箸墓古墳の内部は調査が禁止されているので、内部構造は不明であるが、墳丘の裾に玄武岩の板石があることから、棺と板石の間に角礫を詰め込んだ竪穴式石槨があると推測されている。
『三国志』魏書東夷伝倭人条にある「棺有れども槨無く、土を封じて塚を作る」は、卑弥呼の墓ではなくて、一般の墓に関する記述なので、同時代の墓についても検討する必要がある。平原遺跡に限らず、九州の甕棺墓や箱式石棺などにも槨がない。これに対して、箸墓古墳より前に造られたホケノ山古墳には木槨があり、箸墓古墳より後に造られた黒塚古墳には礫槨がある。箸墓古墳が造られた時代の畿内には、棺を槨で囲む習慣があったから、この点からも、卑弥呼の時代の邪馬台国が畿内にはなかったことが確認される。
殉葬の有無による比較
『三国志』魏書東夷伝倭人条には「徇葬する者、奴婢百余人」とある。卑弥呼の墓かどうかを判定するもう一つの条件は、殉死した奴婢百余人を埋葬した形跡があるかどうかだ。箸墓古墳の場合、内部は調査が禁止されているので、これに関しても不明であるが、周辺にある同時代の、内部が調査された古墳からは、殉葬が行われた証拠が見つかっていない。したがって、箸墓古墳の内部に殉葬墓が設けられている可能性は低い。
これに対して、1965年に発掘調査を開始した原田が早くから指摘しているように、平原遺跡1号墓の内部と周辺には、殉葬墓と思われる墓がいくつかある。特に平原遺跡2号墓は、その可能性が高い。
殉葬墓(殉死者の墓)と考えられる土壙が、墓域内および排水溝の内部に見受けられた。墓域内のは、主人公の方形土壙の南側に土城壁を切ってと、二の鳥居の南側で墳墓の前面のほぼ中央とにひとつづつあり、どちらも楕円形で内部に積石が認められた。排水溝内には殉葬墓と陪葬墓の両者が入り組んでいるらしいが、東部と南部では不整形の大土壙が掘られていて、一緒に数人を埋葬したもののようである。[32]
原田とともに発掘調査に従事した柳田も、「周溝底には四基以上の土壙墓があり、確実に同時埋葬と考えられる土壙墓があることから、殉葬墓の可能性が強い」[33]と言い、1998年に再調査を行った前原市教育委員会も「1号墓と2号墓は接するようにして造られており、さらに周溝の一部を共有していることから造られた年代が近いと考えられ、それぞれに埋葬された人物は深い関係にあったと考えられます」[34]と言っている。
もちろん、本当に平原遺跡に奴婢を百余人も殉葬できたのかどうかに関しては疑問の余地がある。複数の被葬者を同じ方形周溝墓に埋葬する例は、九州では数多く見られるものの、平原遺跡全体の広さから考えて、百余人も殉葬しようとすると、かなり窮屈になったことだろう。それでも、殉葬の痕跡があったということで、平原遺跡が卑弥呼の墓である蓋然性は、高くなった。
三要件の検証による結論
以上、箸墓古墳と平原遺跡のどちらが、『三国志』魏書東夷伝倭人条に描かれている卑弥呼の墓の記述に合致するかを検討してきた。墓の長さや高さという点で、平原遺跡の方が、合致度が高いと言える。槨の有無、殉葬の有無に関しても、不明な点がいくつか残るにしても、平原遺跡の方が、箸墓古墳よりも合致度が高い。
卑弥呼の墓かどうかを判定する上でもう一つ重要なのは、副葬品である鏡の種類だ。詳しいことは、1999年の拙稿「卑弥呼の鏡」に譲るが、魏の時代に中国の北方で流行した鏡は、方格規矩鏡、内行花文鏡、夔鳳鏡(きほうきょう)、獣首鏡、位至三公鏡などであり、これらは、九州から多数出土している。平原遺跡から出土した鏡も、方格規矩鏡や内行花文鏡といった魏様式の鏡である。これに対して、畿内の古墳から多数出土する画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は、呉様式の鏡である。ここからも、卑弥呼時代の邪馬台国が、畿内ではなくて九州にあったことがわかる。
邪馬台国九州説の人の中には、久留米市御井町にある祇園山墳丘墓(通称、祇園山古墳)が卑弥呼の墓だと言う人もいる。墳丘墓の対角線は約30-35メートル、高さは約5メートル、槨はなく、第一号甕棺の周辺には多数の殉葬用の小型墓があった。また、第一号甕棺からは成人女性の人骨が出土している。それゆえ、卑弥呼の墓であるための基本的条件を満たしている。しかし、第一号甕棺内には、画文帯神獣鏡片があったことから、卑弥呼の墓ではないことがわかる。墳裾から土師器や須恵器が出土したことも併せ考えるならば、築造は、3世紀後半以降であろう。ゆえに、現時点で最も有力な卑弥呼の墓の候補は、平原遺跡1号墓であるということになる。
纏向遺跡は卑弥呼の時代の遺跡なのか
従来、箸墓古墳を含む奈良県纏向遺跡の建造時期は3世紀末から4世紀と考えられていた。しかし、1996年に、光谷拓実が、紀元後1世紀末と考えられていた大阪府池上曽根遺跡の柱材の年輪年代を調べ、紀元前52年に伐採されたと発表して以来、考古学的相対年代が1世紀引き上げられ、箸墓古墳の建造時期も3世紀の中ごろにまで引き上げられるようになった。そして邪馬台国畿内論者たちは、箸墓古墳が卑弥呼の墓であると喧伝するようになった。だが、こうした土器編年などの考古学的相対年代の引き上げには大きな問題がある。
ホケノ山古墳の建造時期
2000年3月27日に大和古墳群学術調査委員会は、畿内における最古の前方後円墳であるホケノ山古墳の第4次研査の結果を発表し、マスコミは、ホケノ山古墳が造られたのは3世紀前半と報道した。
3世紀中ごろの築造で、国内最古の前方後円墳とされる奈良県桜井市のホケノ山古墳から出土した木棺の破片を放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果、築造年代が3世紀前半にさかのぼることが分かった。7日発表した大和古墳群学術調査委員会(委員長、樋口隆康・同県立橿原考古学研究所長)は「前期古墳の築造年代を、全体的に引き上げて考える必要がある」と評価。卑弥呼の墓との説がありながら、3世紀後半から末期の築造とされてきた最古の大型前方後円墳・箸墓古墳の築造年代が、卑弥呼の没年とされる247年ごろに近づく可能性も強まり、邪馬台国大和説の補強材料になりそうだ。
出土したのはコウヤマキ製のくりぬき式木棺(長さ5m、幅1m)。加工を容易にし、腐るのを防ぐため、棺の表面は焼かれ、黒く炭化していた。調査委が木棺北側の炭化部分から1センチ角のサンプル5点を採取し、米国フロリダ州の専門機関に分析を依頼した。
測定の結果、サンプルの年代は「西暦120年を中心に、75~215年」「120年を中心に、80~155年」などと判明。調査委は、欧米と日本の自然環境の違いなどからデータを補正し、木棺を加工した際に木材表面が削られていることなどを考慮、伐採年を2世紀末~3世紀前半と推定した。中国で2世紀末~3世紀初めに作られた画文帯神獣鏡が副葬されていたことなどから、築造年代を3世紀前半と判断した。[35]
放射性炭素年代測定法によってわかるのは、木が光合成を止めた時である。それで、その木が木棺製作のために使われ、墓に埋葬された年代を特定することはできない。後でまた取り上げるが、木が成長を止めてから、それが建築資材に使われるまでには、百年、場合によっては数百年という時間が経過する場合もある。また、記事には「欧米と日本の自然環境の違いなどからデータを補正し」とあるが、この補正の仕方が不明確である。後でまた取り上げるが、日本ローカルの較正曲線はまだ確立しておらず、補正の方法自体が論争の的になっている。
墓の築造年代を決める上で重要なのは、墓内部の副葬品、この場合は、画文帯神獣鏡である。画文帯神獣鏡は、記事にあるように、中国では、2世紀末から3世紀初めの鏡とされるが、これを根拠に、ホケノ山古墳が3世紀前半と決まることはない。なぜならば、ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡は同向式で、画文帯同向神獣鏡は、瀬戸内以東の日本と朝鮮半島の楽浪郡(平壌)からしか出土しない。よって、2世紀末から3世紀初めという中国本土での製作時期内に当てはめることはできない。
画文帯神獣鏡は、後漢の終りに流行したが、三国時代では、魏では作られず、もっぱら魏の敵国である呉で作られていた。したがって、三国時代に魏と同盟していた邪馬台国に画文帯神獣鏡が贈られたということは考えられない。280年に呉が滅びると、呉にいた鏡職人が離散し、華北や朝鮮半島にも移住し、これらの地域でも、呉様式の独自の鏡が作られるようになる。画文帯同向神獣鏡もその一つで、平壌市にある貞柏里3号古墳から、ホケノヤマ古墳出土の画文帯同向式神獣鏡と同型式の鏡が出土している。
平壌市貞柏里3号古墳から出土した画文帯同向式神獣鏡は、土器編年上では楽浪Ⅴ期に相当し、その下限は、楽浪が滅びた年、312年である。よってこの鏡が製造され、埋葬されたのは、280年から312年の間で、ホケノ山古墳が建造された時期も、同じ頃、すなわち、3世紀末から4世紀初頭と推測される。箸墓古墳は、ホケノ山古墳よりも相対的に建築時期が後なので、これを卑弥呼の墓とみなすことはできない。
勝山・石塚古墳の建造時期
奈良県立橿原考古学研究所と奈良国立文化財研究所は、2001年に、放射性炭素年代測定法より精度の高いと考えられる年輪年代測定によって、畿内の古墳は3世紀初頭(遅くとも西暦210年)に造られたというレポートを発表した。測定対象となったのは、纒向古墳群に所属する勝山古墳と石塚古墳である。
桜井市東田の前方後円墳「勝山古墳」で見つかった板状の木製品は、残存する最も外側の年輪が199年と分かり、県立橿原考古学研究所と奈良文化財研究所が 30日、発表した。削られた年輪を考慮しても、伐採年代は210年までとみられる。橿考研によると、木製品は墳丘上にあった建物の一部で、同古墳の築造年代は3世紀前半にさかのぼり、確認できる範囲で最古の前方後円墳という。女王・卑弥呼の時代と重なり、邪馬台国畿内説にとって有力な材料となる一方、古墳時代の始まりをめぐる論議にも一石を投じそうだ。
同古墳の木製品は、くびれ部北側の周濠(しゅうごう)から200点以上出土。大半が柱や板などの建築部材で、祭祀用の建物を壊して投棄したとみられている。
橿考研は奈良文化財研究所埋蔵文化財センターに年輪年代の測定を依頼。サンプルはいずれもヒノキ材で、5点の年輪年代が特定できた。
板状の1点(一辺26センチ、厚さ2.5センチ)は樹皮直下の「辺材部」が残っており、最外年輪は199年だった。近畿のヒノキ(樹齢200~300年以上)の辺材部は平均約3センチ。測定した板材の辺材部は約2.9センチで、4センチあったと仮定しても、210年までに収まるという。
木の年輪は中心の髄から心材、辺材の順に形成される。心材部だけの4点は最外年輪が103~131年で、辺材部の年輪を推定すると、5点とも同時期に伐採された可能性が強い。
隣接する纒向石塚古墳の周濠でも、平成元年に木製品が出土。ヒノキの伐採推定年代は200年前後だった。墳丘の盛り土に含まれる土器の様式から、3世紀初めの築造とする見方もある。
中国の史書「魏志倭人伝」によると、女王・卑弥呼の擁立は2世紀末。没年は248年ごろで、勝山古墳の築造が3世紀前半とすれば、卑弥呼の擁立から間もない時期に、2つの前方後円墳が相次いで誕生したことになる。
ホケノ山古墳(桜井市箸中)の調査で3世紀中ごろにさかのぼった前方後円墳の年代は、今回の成果でさらに半世紀近く押し上げられる可能性が出てきた。
ただ、勝山古墳で出土した土器は「布留ゼロ」と呼ばれる様式で、土器編年では3世紀後半が妥当とされる。木材は伐採から時期を置いて使用した可能性や転用も考えられ、築造時期の特定には慎重な姿勢を見せる研究者もいる。[36]
記事の最後で言及されているように、年輪年代測定法も、放射性炭素年代測定法と同様に、木が成長を止めた時点しか特定できないので、それが資材として使われた時期の特定には役立たない。ただし、年輪は、1年ごとに形成されるので、年輪年代測定法は、放射性炭素年代測定法より正確に木が成長を止めた時点を特定できる。それだけに、木が成長を止めてから、建築資材として使われるのにどの程度かかっているかを放射性炭素年代測定法より正確に調べられる。
邪馬台国の会によると、年輪年代測定法が出す年代と文献によって確定される資材使用年代の差は、建築物の場合大きい(最大で600年)が、木像の場合は小さい。邪馬台国の会は、これは、建築物の場合、ヒビが入ったり、ゆがみをさけたりするために、使用の前に、長期間寝かせて水と油を除いたためと考えている。前者の差には、また、古代に遡るほど差が大きくなるという傾向もある。これは、古代には、木材を伐採、加工する道具などが十分に普及発達していないため、木材は貴重で、伐採された木材を、再利用することが多かったためというのだ[37]。
再利用の方はともかく、古代人が、長期間、建築資材を寝かせて保管していたというのはありそうにないことである。むしろ、彼らは、大昔に成長を止めた風倒木や立ち枯れものを見つけ出して、建築資材に利用していたのではなかったのか。今でも、奈良県の春日大社境内の春日杉は伐採が禁止されているが、風倒木や立ち枯れものは、建築素材として使用されている。古代の日本人は、山の神に畏敬の念を抱いていたから、生きている木を切り倒すことに慎重で、その結果、日本は人口密度が高いにもかかわらず、豊かな森林を保全したという見解もある。
箸墓古墳の建造時期
最後に、纒向古墳群の中で最も注目されている古墳、箸墓古墳を取り上げよう。2001年11月30日に、桜丼市教委は、箸墓古墳の周濠から、木製の輪鐙が見つかったと発表した。
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市教委は三十日、「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」と発表した。国内での乗馬の風習は、副葬品の馬具や日本書紀の記述から、四世紀後半以降、朝鮮半島の百済などとの交渉を通じて伝えられたとする見方が有力。実用品である鐙が見つかったことで、定説を五十年以上さかのぼり、乗用馬が四世紀初めに存在した可能性が高くなった。初期ヤマト政権の交通事情や対外交流をさぐる上で重要な資料になりそうだ。
箸墓古墳は卑弥呼の墓とする説もあり、市教委が3年前に後円部の周濠跡を調査した際、埋土の中から輪鐙が出土。アカガシ型で残存長16.3センチ、最大幅10.2センチ。鞍からつり下げるためのほぞ穴(縦1.5センチ、横1センチ)が付いていた。足を掛ける輸の下側が失われているが、復元すると長さ23センチ、幅13センチの台形のつり革に似た形とみられる。輪鐙は落葉などが20~30年にわたってたい積して固く締まった層から、四世紀初めの大量の土器とともに出土。同時期に投棄されたとみられ、後世に混入した可能性は低いという。鐙は、乗馬が得意でなかった農耕民の漢民族が三世紀ごろ、馬にまたがる際の足がかりとして発明したとされる。現存する最も古いものは、天安斗井洞(朝鮮半島・百済時代初期)の木芯鉄板張輪鐙とされている。箸墓の鐙もこれに並ぶ現存最古級とみられる。[38]
輪鐙が四世紀初めのものであるなら、周濠が掘られたのは、三世紀後半で、卑弥呼が死んだ248年前後に近づく。しかし、輪鐙が4世紀初めのものという根拠は、同じ地層から出土した布留1式の土器で、土器の編年が、年輪年代測定法や放射性炭素年代測定法で出した絶対年代に合わせて繰り上げられているから、これまで指摘した問題をそのまま引き継いでいることになる。
最古とみなされている木製鐙としては、記事中に挙げられているものの他には、中国遼寧省の朝陽袁台子墓から出土した木と皮を使ったものもあり、どちらも4世紀前半のものである。これに対して、日本国内最古の馬具は、福岡市にある4世紀後半の老司古墳から出土した鉄製の轡である。それ以前に乗馬が行われた証拠はない。
鐙の形状に関して言うと、箸墓古墳の周濠から出土した鐙は、柄が長くて丸いことが特徴で、このタイプの鐙は、北燕宰相の馮素弗の墳墓から見つかっている。馮素弗が死んだのは、415年なので、箸墓古墳の周濠から出土した鐙も5世紀前半に使われていたと推定される。そこから計算すると、箸墓古墳が築造されたのは、4世紀後半ということになり、卑弥呼の墓である可能性は低くなる。
しかしながら、鐙出土後も、箸墓が卑弥呼の墓だと信じている人たちは、依然として多い。2009年5月31日には、国立歴史民俗博物館(歴博)グループが、箸墓周辺を中心に採取した土器に付着している炭化物の放射性炭素年代測定により、箸墓古墳の築造年代を、卑弥呼の死亡時期に近い、240-260年と発表した。毎日新聞は、その根拠を次のように報道している。
この測定法では、出てくる実年代は幅をもつ。歴博グループはこの幅を考古学のデータで絞り込んでいく。
今回は、弥生時代後期から古墳時代初めにつくられた土器の編年(先後関係)や出土状況を考古学データとして使った。
この時代、土器は……庄内1式→庄内2式→庄内3式→布留(ふる)0式→布留1式→布留2式……と変化する。布留0式が箸墓築造時の土器とされている。歴博は、それぞれの型式の実年代を求め、古い順に実年代上の場所を決めていった。
問題の布留0式は、炭素14年代の測定値(1800BPなど)だけを見れば、実年代は3世紀の中ごろと、3世紀末から4世紀初めごろの両方に当たる可能性がある。
そこで、歴博は前後の型式に注目する。まず、一つ前の庄内3式を3世紀前半までに限定。さらに、一つ後の布留1式を3世紀後半に限定した。これにより、両者にはさまれた布留0式も、240~260年代に入れるのが合理的と結論した。
さて、気になるのは、ほとんどの型式の実年代が、入る可能性のある幅の中の古い方に入れられていることである。
恣意(しい)的な解釈(絞り込み)ではないかと批判の出るところだ。だが、この点では歴博にも裏付けがある。特に重視するのが布留1式。布留1式は炭素14年代が1690BPと、換算データベースの特徴あるカーブ(沈み込み)に当たるため、3世紀後半に絞る大きな根拠になるという。
研究グループの小林謙一・中央大准教授も「(今回の年代推定の)キーポイント」と話す。理論的にはこの布留1式の数値が4世紀の中盤以降に入る可能性があるが、「考古学的にありえない」として退けられた。ただ、この資料を布留1式に位置づけることには異論もある。
他にも気になる点がある。今回、庄内2式の測定ができなかった。歴博の示した図では、庄内2式の入る余地が際立って狭い。庄内2式が他の型式の平均程度に存続したとすれば、玉突き式に庄内3式も布留0式も新しくなりそうだが、「庄内2式の測定ができれば、1式と3式の間(の狭いすき間)に入るはず」とのことだった。
このように歴博は発表に自信を示しているが、ひとつ注目のデータがある。箸墓に近く、箸墓より一時代前とされるホケノ山古墳(庄内式の最新期)の測定値だ。奈良県立橿原考古学研究所の報告書によれば、木材2点の測定値がそろって1700BP前後。歴博が重視した布留1式より2型式ほど前の古墳が同じ数値を示しているわけだ。ホケノ山が3世紀後半ならば、その後の箸墓も新しくなり、歴博発表と矛盾する。
このデータと関連して興味深いのは、歴博が多用する土器付着炭化物は、同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向があることだ。歴博は「土器の外に着いたすすなら問題はない。今回は他の資料の数値とも矛盾しない」と説明するが、この現象には未解明の部分があり、この点から歴博の報告に懐疑的な研究者は多い。
さらに、この時代の土器に詳しい寺澤薫・橿原考古学研究所部長は「日本版の較正曲線(実年代換算のためのデータベース)がまだ完成していない。数年前と今とで、まったく違う実年代が出されており、今後もどう変わるかわからない」と指摘。「将来、炭素年代に頼る時は来るだろうが、今はその段階ではない」と、今回の数字を慎重に評価している。[39]
理論的には布留1式の数値が4世紀の中盤以降に入る可能性があるにもかかわらず、それを「考古学的にありえない」として退けるというのは、乱暴な話である。布留1式の土器が、件の木製の輪鐙といっしょに出土した以上、4世紀の中盤以降とみなす方が、考古学的に正しいのではないのか。
寺澤薫の「日本版の較正曲線(実年代換算のためのデータベース)がまだ完成していない。数年前と今とで、まったく違う実年代が出されており、今後もどう変わるかわからない」という発言にも注目したい。この発表に立ち会った北條芳隆は、以下のように述べて、歴博の較正曲線に疑問を呈した。
放射性炭素年代測定法の較正曲線を導くためには年輪年代測定法の確立が前提条件であり、それなしにはなんら科学性を確保できないのです。だから歴博がこの課題と正面から向き合うためには、年輪年代測定法を独自に開拓するか、すでに開発されたところとのコラボを組むか、それが不可能な場合であっても、伐採年代の判明している木材すなわち暦年代資料を複数確保したうえで、古墳時代にまで相互につなぎ合わせながら遡らせる試みを最初におこなわなければならないのです。
ところが、そうした試みを行ったという明確な説明はなく、しかも弥生の中期や後期から降ってきたので、もはやその時点で、だめだと確信した次第です。
要するに年輪年代測定法との相互連携なしに日本版の較正年代曲線を構築することなど、原理原則上も理屈の上からも不可能なのです。だから会場では最後に「放射性炭素年代測定法の較正をおこなうために放射性炭素年代測定をもちいることがどこまで有効なのか疑問である」と伝えたのでした。[40]
私も同意見である。歴博の内情は知らないので、安本美典が言うように[41]、第二の「旧石器捏造事件」とまで言ってよいのかどうかはわからないが、歴博のこの発表は信用しない方が賢明である。
纒向古墳群は卑弥呼の時代の建造物ではない
以上、見てきたように、纒向古墳群の造成時期を3世紀に遡らせようとする近年の考古学者たちの試みには賛同できない。考古学的証拠から判断して、纒向古墳群は、従来通り、3世紀末から4世紀にかけて造られたとみるべきだろう。時期と場所から判断すれば、纒向古墳群は、水野祐が謂う所の崇神王朝(三輪王朝)の皇族たちが葬られている初期の墓とみなすべきである。纏向古墳群の北には、柳本古墳群と大和古墳群があるが、これらは、崇神王朝の後期の墓ということになる。箸墓古墳は、『日本書紀』にあるとおり、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓である可能性が高い。
箸墓古墳が卑弥呼の墓だと主張している人たちは、ホケノ山古墳、石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳といった、箸墓古墳よりも古い、彼らが3世紀初頭に造られたと主張する前方後円墳の被葬者を誰とみなすのだろうか。倭国大乱の間、「歴年主無し」であったから、卑弥呼には、即位早々、大きな墓を作らなければならない先代の王はいなかった。また、卑弥呼は、「共立」という言葉が示すように、高貴な血統を持つ女性ではない。卑弥呼には男弟がいて、政治を助けていたが、『三国志』魏書東夷伝倭人条は、卑弥呼よりも先に死んだとは書いていない。したがって、卑弥呼が、父親など血縁関係者のために大きな墓を作ったとは考えにくい。こうした問題は、纒向古墳群を崇神王朝の皇族たちの墓とした時には生じない。
追記(2023年)吉野ヶ里遺跡の墓

2023年5月に、吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市)の日吉神社跡地で、邪馬台国時代(約1800年前)の石棺墓が新たに発見された。6月に内部が調査されたが、酸性の土が墓の中に入り込んだため、埋葬されていたはずの人骨は溶けてなくなっていた。副葬品も、弥生土器の破片二つなどを除けば、何もなかった。それでも、墓坑が大きく、見晴らしのよい丘に単独で埋葬されていることから、有力者の墓とみられている。埋葬者の身分が高かったことは、石棺内部全体が、貴重な赤色顔料(硫化水銀)で朱に塗られていたことからもわかる。私が卑弥呼の墓と見なしている平原遺跡1号墓も、赤色顔料で朱に塗られていた。
この墓と平原遺跡1号墓との違いは、豪華な副葬品がないことと"X"のような死者を封じ込める意味があると見られる線刻が石蓋の表と裏に施されていることの二つである。私たちは、今でも、手紙を誰かに送る時に、第三者が勝手に開けないように、封書の口に“〆”あるいは“乄”と記す。江戸時代には、戸〆(とじめ)という出入り禁止の刑があった。門を貫(ぬき)で筋違いに釘打ちするというもので、文字通り“乄”なのである。ヨーロッパ人は、昔から、封書の口を締める時、“X”と記す。洋の東西を問わず、“X”の形をした記号は、封印のシンボルである。石蓋の表と裏にこの記号があるということは、中からも、外からも石蓋を開けるなというメッセージが込められていることになる。
以上からわかることは、被葬者は、生前の身分が高かったのにもかかわらず、敬意を以て葬られず、蘇りも望まれていなかったということだ。きっと、権力闘争に敗れ、非業の死を遂げたのだろう。昔の日本人は、こうした人物が怨霊となって祟ることを恐れたので、封じ込めの線刻を施したに違いない。こうした条件を満たす被葬者は誰か。最も可能性が高い候補は、卑弥呼の死後、邪馬台国を統治しようとした男王である。『魏志倭人伝』には「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人」とある。その後この男王は登場しないので、統治に失敗して、殺された「千餘人」の一人になったと考えられる。
私は、卑弥呼を記紀でのアマテラスに比定している。天岩戸神話によると、弟のスサノヲが乱暴狼藉を働いた結果、アマテラスは天岩戸に隠れてしまった。その後、アマテラスは、天岩戸から再び姿を現すのだが、スサノヲは、罰として、髪を切られ、手足のつめを抜かれ、出雲に追放された。『魏志倭人伝』は、卑弥呼に補佐役の弟がいたと伝える。天岩戸神話は、247年3月24日に日食が起きて、権威を失った卑弥呼を弟が殺害して、自らが王になったが、248年9月5日に再び日食が起きた時に殺され、卑弥呼の生まれ変わりとして台与が女王となったという史実を反映していると思われる。
実際、日吉神社跡地の墓は、邪馬台国の都があったとされる平塚川添遺跡から見て、248年9月5日に日没する方向にある。他方で、同じ日の日出の方向には、アマテラスとスサノヲとの誓約によって誕生したとされる比売大神を祀る宇佐神社がある。比売大神は、しばしばアマテラスと同一視されるが、そもそも台与は卑弥呼の生まれ変わりと位置付けられていたので、同一視されるのも無理はない。宇佐神社は、神功皇后も祀っているが、これは、日本書紀が神功皇后と卑弥呼の年代を重ねた結果である。
吉野ケ里遺跡にあった日吉神社の社殿は、16世紀に日吉城内に造建されたものだが、神社自体の創建年代は、不明である。日吉神社は、オオモノヌシを祀る山王信仰に基づいている。神猿(まさる)を神使とすることでも知られている。記紀は、支配者の神と被支配者の神を天津神と国津神と呼ぶ。オオモノヌシは、国津神の代表である。スサノヲは、もともとは天津神だったが、神逐(かんやらい)の結果、国津神側に追放されてしまった。オオモノヌシは、スサノヲの娘婿である。被支配者は、支配者に滅ぼされたがゆえに、支配者を恨む魔物になると支配者たちは恐れた。その魔が去ることを願って、神猿(まさる)信仰が生まれた。石蓋の封印記号も、さだめしその中に魔物を閉じ込め、邪馬台国から「魔去る」ことを願った結果なのだろう。「日吉」も、実際には日食で日が不吉だったからこそ、日が吉になることを願って付けられた名に違いない。
邪馬台国の人々は、248年9月5日の日食の後、死を意味する日没の方向に《男王=スサノヲ》の墓を作り、誕生を意味する日出の方向に《日巫女=日御子=アマテラス》復活の神社を作ったという構図で今回発見された墓を位置付けたい。その構図は、ヤマト政権が畿内に東遷した後も維持された。東遷後のヤマト政権は、畿内から見て太陽が昇る方向にアマテラスを祀る伊勢神社を建立し、太陽が沈む方向に自分たちが滅ぼした出雲王国の怨霊を鎮めるための出雲大社を建造した。出雲大社は、オオモノヌシ(オオクニヌシ)を祀っている。卑弥呼の弟は出雲と、したがって、スサノヲはオオクニヌシと本来関係を持たない。しかし死を象徴する方向において同じ位置を占めることから、神話において後に関連付けられるようになったと考えられる。
関連著作
- 中村啓信『新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』KADOKAWA (2014/2/15).
- 松本直樹『神話で読みとく古代日本 ── 古事記・日本書紀・風土記 (ちくま新書) 』筑摩書房 (2016/6/10).
- 孫栄健『邪馬台国の全解決 中国「正史」がすべてを解いていた 』言視舎 (2018/2/15).
- 松尾光『現代語訳 魏志倭人伝』KADOKAWA (2014/6/30).
- 渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』中央公論新社 (2012/5/25).
- 安本美典『誤りと偽りの考古学・纒向 ― これは、第二の旧石器捏造事件だ!』勉誠出版 (2019/6/28).
- 安本美典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!! ―「畿内説」における「失敗の本質」』勉誠出版 (2019/9/6).
- 安本美典『日本の建国―神武天皇の東征伝承・五つの謎』勉誠出版 (2020/6/15).
- 安本美典『データサイエンスで解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない』朝日新聞出版 (2021/10/13).
参照情報
- ↑本稿は、2010年7月にオンライン上で公開した「平原遺跡」「卑弥呼の墓」「纒向古墳群」の三つの原稿を2016年1月に一つにまとめたものです。統合するにあたって、若干の加筆と修正を行いましたが、内容はほぼ当時と同じです。
- ↑原田 大六『実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」』東京: 學生社, 1966. p. 92-93.
- ↑原田 大六『銅鐸への挑戦〈2〉殉職の巫女王』六興出版, 1980. p. 92-107.
- ↑原田 大六『日本古墳文化―奴国王の環境』三一書房. 1975. はしがき.
- ↑柳田康雄『伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学』 東京: 大和書房, 2000. p. 33.
- ↑高山純「古代東アジアにおける耳璫の流伝」『考古学研究』第14巻 第2号. 1967年10月.
- ↑柳田康雄『伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学』東京: 大和書房, 2000. p. 31.
- ↑柳田康雄『伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学』東京: 大和書房, 2000. p. 155.
- ↑“官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國” 晉(陳壽撰)『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝. 裴松之註.
- ↑柳田康雄「伊都国と邪馬台国」邪馬台国の会第273回特別講演会. accessed Wed Jul 07 2010 17:17:12 GMT+0900.
- ↑柳田康雄『伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学』 東京: 大和書房, 2000. p. 192-193.
- ↑“還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝” 晉(陳壽撰)『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝. 裴松之註.
- ↑原田 大六『実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」』口絵.
- ↑原田 大六『銅鐸への挑戦〈1〉太陽か台風か』六興出版, 1980. p. 171.
- ↑原田 大六『実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」』東京: 學生社, 1966. p. 209.
- ↑弥生文化の源流は、長江流域にあると考えられている。中国湖南省城頭山遺跡から発見された六千年前の中国最古の祭壇も東門の背後にあり、祭壇で屠られたと考えられる生贄の頭蓋骨は、太陽が昇る東の方角に向けられていた。安田 喜憲.『ミルクを飲まない文明』洋泉社 (2015/5/8). p. 42.
- ↑原田 大六『実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」』東京: 學生社, 1966. p. 134.
- ↑原田 大六『実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」』東京: 學生社, 1966. p. 135.
- ↑富山至「倭国女王卑弥呼の墓についての考察」2008.6.25 作図挿入. 富山至.『弥生の神々の末裔』梓書院 (2007/1/20) の補遺。
- ↑鷲崎弘朋「卑弥呼と宇佐神宮の祭神」accessed Tue Jul 13 2010 13:38:43 GMT+0900.
- ↑『說文解字』卷八下, 中國哲學書電子化計劃.
- ↑原田 大六『実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」』東京: 學生社, 1966. p. 163.
- ↑国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」整理番号:CKK-79-3、地区名:奈良、撮影縮尺:1/10000、撮影コース:C. 昭和54年度.
- ↑“卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、狥葬者奴碑百餘人” 晉(陳壽撰)『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝. 裴松之註.
- ↑“其死、有棺無槨、封土作冢” 晉(陳壽撰)『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝. 裴松之註.
- ↑橋本輝彦.『桜井市立埋蔵文化財センター発掘調査報告書20集』1999年.
- ↑晉(陳壽撰)『三国志』蜀書五, 諸葛亮伝.
- ↑晉(陳壽撰)『三国志』 蜀書十四, 蒋琬費禕姜維伝.
- ↑古田 武彦「邪馬壹国と冢」『歴史と人物』1976年9月号.
- ↑“漢律曰列侯墳高四丈、関内侯以下至庶民各有差”『周礼』春宮. 塚人. 鄭注.
- ↑柳田康雄『伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学』東京: 大和書房, 2000. p. 156 .
- ↑原田 大六『実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」』東京: 學生社, 1966. 東京: 學生社, 1966. p. 107.
- ↑柳田康雄『伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学』東京: 大和書房, 2000. p. 40.
- ↑前原市教育委員会「平原遺跡発掘調査中間報告」『伊都国通信』Vol.3. 1998.10.21. accessed Fri Jul 09 2010 19:07:14 GMT+0900.
- ↑「<ホケノ山古墳>築造年代は3世紀前半 C14年代測定法で」『毎日新聞』2000年4月12日.
- ↑「築造は3世紀前半 伐採の年輪 199年 桜井市・勝山古墳」『奈良新聞』2001年5月31日.
- ↑邪馬台国の会「木材の伐採年代と遺跡の築造年代」accessed Mon Jul 05 2010 09:55:25 GMT+0900.
- ↑「四世紀初めの木製輪鐙 乗馬 定説の50年前から?」『西日本新聞』2001年12月1日.
- ↑“箸墓古墳:「卑弥呼の墓」検証 波紋を呼ぶ歴博発表 懸念される数値の独り歩き"『毎日新聞』 2009年6月9日.
- ↑北條芳隆「歴博の「古墳出現の炭素14年代」へのコメント(2)」accessed Mon Jul 05 2010 16:53:39 GMT+0900.
- ↑安本美典. “「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!" accessed Tue Jul 06 2010 08:57:04 GMT+0900.
ディスカッション
コメント一覧
畿内の弥生時代の遺跡から、韓半島の4世紀中頃に作られた古式新羅伽耶陶質土器が庄内式土器と共に発掘されています。畿内における庄内式土器の時代は、少なくとも4世紀中頃を遡ることは出来ません。箸墓築造時期は4世紀末か5世紀にかかるものではないかと愚考します。古式新羅伽耶陶質土器は、韓半島で楽浪郡が高句麗に滅ぼされた後に、韓半島南部で起こった建国運動と関連して作られた物の筈です。楽浪郡から陶質土器の技術が流出したか、あるいはもっと北の騎馬民族の技術が入ったのか?
『考古学のおやつ』より
韓国の考古学者の申敬澈氏によれば3世紀末~4世紀中葉に、伽耶には突然騎馬民族的集団が現れ、それ以前の墓を壊して大きな墳墓をこしらえた。その中に納められたのが「古式新羅加耶土器」である。(この土器は新羅に高句麗が侵攻してきた5世紀初めまで続き、それ以後は新羅と伽耶の土器はハッキリ分離する)申敬澈氏が「3世紀末~4世紀中葉」としたのは、日本の畿内説の学者が年代を繰り上げようと画策している事に阿った物申敬澈氏は日本に学位論文を提出して博士号を取得していますが、これを審査したのが畿内説白石太一郎博士。本来は「4世紀中葉」という意見の持ち主である可能性が高い。伽耶に騎馬民族的集団が現れたら、陳寿の描いた東夷伝にその事が書かれているはずであるから、AD280以後ならば可能性は皆無ではない」と言う事で、「3世紀末~4世紀中葉」になったのですが、3世紀末としても箸墓は4世紀中葉くらいになります。
以上、参考まで
伽耶に関しては、「任那日本府は存在したのか」も参照してください。半島の南端が邪馬台国連合の一員であったのなら、「畿内の弥生時代の遺跡から、韓半島の4世紀中頃に作られた古式新羅伽耶陶質土器が庄内式土器と共に発掘されています」という事実も合点がいきます。
>寺澤薫の「日本版の較正曲線(実年代換算のためのデータベース)がまだ完成していない。数年前と今とで、
>まったく違う実年代が出されており、今後もどう変わるかわからない」
国立歴史民俗博物館研究報告 第163 集 2011 年3 月「古墳出現期の炭素14年代測定」
172~173頁
「古墳開始期にかかわる桜井市纏向遺跡群出土試料などの炭素14 年代測定を系統的に実施した。 測定結果は日本産樹木年輪の炭素14 年代測定に基づいて較正し,土器型式および出土状況からみた遺構との関係による先後関係から,箸墓古墳の周壕の「築造直後」の年代を,西暦240~260 年と判断した。」
寺澤薫が指摘していた日本版の較正曲線は完成し2011年に改めて測定した結果を報告し、2009年と同じであることが確認されている。
>輪鐙は落葉などが20~30年にわたってたい積して固く締まった層から、四世紀初めの大量の土器とともに出土。
「20~30年にわたってたい積して固く締まった層」というのは誤報である。
桜井市のHPには
「輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20~25㎝の植物層の中層からで、古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。」
とあるので厚さ20~25cmを20~30年と間違ったと思われる。そもそも地層から、このような具体的な年数は算出できない。
この説明文のあるように輪鐙は「箸墓」の周濠が廃絶してからかなりの時間がたっており、「大和・纏向遺跡」学生社2011年によると輪鐙の出土状況について
「その一つ上の層は六世紀ですよね。そうすると、布留1式の土器がたくさん入っている植物層(輪鐙が出土した層)は、もし仮に一気にパックされたとしたら、そこまで植物層として開いていた可能性がある。つまり、水上植物が生える状態で開いていた可能性がある。」
輪鐙は最大限6世紀にさかのぼり混入している可能性があるので「箸墓」の築造とは関係はない。
>邪馬台国の会によると、年輪年代測定法が出す年代と文献によって確定される資材使用年代の差は、建築物の場合大きい
歴博「古墳出現期の炭素 14 年代測定」は誤り (季刊『邪馬台国』 111 号、 201 1年 10 月号。梓書院に掲載) 鷲崎弘朋によるものであろうが
この論文に掲載されている「表9 飛鳥・奈良時代(AD640 年以前の測定値は100 年修正が必要)」は明らかな印象操作がされている。
年輪には年輪年代の特定ができる「樹皮型」「辺材型」と特定できない「心材型」がある。
したがって、年輪年代法の測定結果と建築年代を比較して信頼性について検証したいのなら「心材型」は表から除外すべきであるが、表の半分以上に該当する31例中18例が「心材型」であって年輪年代と建築年代が100年以上違うのは「15例」とほぼ半分近いが「心材型」を除外すると「13例中3例」と激減する。
その3例のうち2例は元興寺禅室、1例は法隆寺心柱であるが、元興寺禅室は平安京への遷都時に「法興寺」から移築された建築部材の一部であり、「法興寺」の創建は592年であるので年輪年代推定時期の「582年」とは矛盾がない。
したがって、年輪年代と建築年代が100年も食い違うのは法隆寺の心柱だけの一例である。(これについても、心柱に使うような巨木はなかなか見つからないので自然災害による焼失等で再建するときのために、あらかじめ巨木を伐採していて貯木していたという見方がある)
13例中1例だけが、明らかに100年食い違うといえるが、この例外的な事例をもって年輪年代法がおかしいという根拠にはなりえない。
うげげっさんが「輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20~25㎝の植物層の中層からで、古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます」を引用した桜井市纒向学研究センターのページには、布留1式期を4世紀初めとしています(ちなみに、通説では、その次の布留2式期も4世紀の前半)。4世紀初めの土器と6世紀近くの(古くても5世紀前半の)輪鐙とが同じ植物層から出土したことをどう説明するのですか。もしも畿内論者の主張する土器編年が間違っていて、布留1式期が4世紀初めよりももっと後で、「古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたもの」が6世紀に近いなら、古墳の築造が3世紀の中頃とは言えなくなるのではないのですか。このように、いっしょに出土した布留1式土器の年代に影響を与えることで、布留0式期とみなされている箸墓の築造時期の問題とかかわってくるのです。
私は「年輪年代法がおかしい」とは言っていません。私は「年輪年代測定法も、放射性炭素年代測定法と同様に、木が成長を止めた時点しか特定できないので、それが資材として使われた時期の特定には役立たない」と言っているのです。
>私は「年輪年代法がおかしい」とは言っていません。私は「年輪年代測定法も、放射性炭素年代測定法と同様に、
>木が成長を止めた時点しか特定できないので、それが資材として使われた時期の特定には役立たない」と言っているのです。
意味は同じです。
要するに「年輪年代法や放射性炭素年代測定法が年代推定に立つかどうか」ですから
放射性炭素年代測定法ついては、寺澤薫氏も北條芳隆氏もあなたも「日本版の較正曲線(実年代換算のためのデータベース)がまだ完成していない」といことを理由にして「役に立たない」としているのですから「日本版の較正曲線」で再測定した2011年の歴博の結果については異論がないはずです。
放射性炭素年代測定法の結果に問題がなければ「箸墓」築造直後に投棄されたとみられる最下層から出土した布留0式土器の付着物から測定した結果が240~260年ですから決着はついています。
このことから西谷正(九州大学名誉教授)は、以下のように述べています。
石油技術協会誌 第75巻 第4号(平成22年7月)227~285頁
「邪馬台国最新事情」
「三角縁神獣鏡を出土する前方後円墳は、大和盆地東南部の三輪山山麓地域で出現し、その相似形が全国各地で築造される。その過程で、纏向石塚のよう前方後円をした墳丘墓が、箸墓古墳のような前方後円墳へと変遷する。その画期こそ邪馬台国がヤマト王権へと大きく成長した時期と考える、箸墓古墳は、周辺から出土した土器などから3世紀中ごろと考えられ、また、その被葬者は卑弥呼の可能性が高く、したがって卑弥呼がヤマト王権の最初の大王であろう」
箸墓の同じ撥形に開いた初期型「前方後円墳」が全国各地に一斉に広がっていることから、3世紀前半には畿内を中心とした「ヤマト王権」が成立したと考えられます。
すなわち、邪馬台国が畿内にあったことは自然科学によって証明されたのです。
広瀬和雄氏(国立歴史博物館教授)「前方後円墳国家」角川選書 2003年 153頁より
「日本列島各地で前方後円(方)墳のネットワークが一気に形成された、ということが重要である。その範囲は旧国でいうと、西と南は確実なところでは筑前や豊前で、東と北は下野あるいは陸奥といって方面まで広がっている」
「大和もしくはその周縁に大・中型の前方後円墳が集中し、そこから東へ西へと遠ざかるにつれて墳丘は小型化していくのであって、墳丘規模からいっても、その基数からいっても、大和に初期前方後円墳分布の中心があるのは決定的で、どこにもそれを否定する要素はない。つまり中央ー地方の関係が、前方後円墳の大きな特性である」
要するに、3世紀半ばに「古墳時代」が始まり、その基盤となる大和を中心とする全国規模の政権の成立はそれより以前ということになります。
それがいつかという話をし始めると長くなるので長くなりますので止めますが、ただ中国の儒教思想で「易姓革命」というのがあって王朝が交代すると国名が変わるというのは中国人の認識です。
したがって後漢書に倭国と書かれているのは107年に使者を出した王からですから、「ヤマト王権」は1~2世紀にさかのぼる可能性があると考えています。
勝山・石塚古墳の建造時期についてですが、勝山古墳の年輪年代について別の記事では伐採・加工・廃棄は同時期にされたという見解を紹介しています。
▼「築造時期は3世紀前半 卑弥呼の時代と一致」毎日新聞2001年5月31日報道
「 奈良県桜井市の勝山古墳から出土した木材の伐採時期が「紀元199年プラス12年以内」であることが、年輪の 分析で分かった
奈良文化財研究所と県立橿原考古学研究所が30日、発表した。3世紀後半とされてきた同古墳 の築造年が、3世紀前半にさかのぼり、邪馬台国を都とした倭国女王、卑弥呼の時代に完全に重なるという。同古 墳を含む纒向古墳群を築造した勢力がヤマト政権の源流とされており卑弥呼時代との一致は邪馬台国大和説を支える第一級の資料といえる。
橿考研が今年1~3月の発掘調査で、廃棄されたとみられる約200点の木材を同古墳 の周濠跡で見つけた。古墳上での葬送儀礼の施設に使われた建築部材らしい。奈文研が、年輪から伐採年を調べる 年輪年代法で、ヒノキ材5点を調べた結果、うち外辺部が残っていた板材1点の伐採年を「199年プラス12年 以内」と断定した。 木材に再利用の跡はない▽古墳祭祀に用いた木材は伐採後間もなく使用、廃棄されたと考えるのが常識的▽紫外線 による劣化が切断面にない――ことなどから、橿考研は「古墳の築造時期は、伐採年に近い3世紀前半」とした。」
ここの記事のポイントは以下の理由で伐採と廃棄が同時期としている点ですよね。
①木材に再利用の跡はない
②古墳祭祀に用いた木材は伐採後間もなく使用、廃棄されたと考えるのが常識的
③紫外線 による劣化が切断面にない
紫外線よる劣化がないということは太陽光に長く当たらなかったということですから伐採して時間を置かずに廃棄された科学的な根拠になります。
「大和・纏向遺跡」2011年学生社315~316pには詳細な結果が書かれています。
「測定結果(西暦199年+α)によれば、資料No1の辺材幅は2.9cmである。一般にヒノキの辺材平均幅は約三センチであり、この資料の辺材最外年輪部は樹皮直下の可能性が高い。ただし、辺材幅が三.六センチを測る例もあるので、樹皮までの欠損幅をあと最大で一センチ程度見積もることもできなくはない。その場合でも、残存辺材幅でカウントできる年輪数は二十二本であるから、平均年輪幅は一・三六ミリである。したがって、仮に最大一センチの欠落があると仮定しても、その中に刻まれた年輪数は七ないし八層である。つまり、この資料の伐採年代は、新しく見積もっても西暦210年は降らないことになる。」
筆者はやけに慎重な書き方をしていますが、平均でいえば200年で一番可能性が高い、最大でも3.6cmですから203~204年です。
先に述べたように伐採年=廃棄された年であれば同じ層から出土した布留0式土器の年代も3世紀前半から3世紀半ばということになります。
本当に決着がついたのかどうか、調べてみたところ、以下のような記事を見つけました。
残念ながら、現時点では私は『箸墓古墳周辺の調査』や『ホケノ山古墳の研究』を入手できません。孫引きで何かを言うのはどうかと思うので、布留0式期の特定は、これらの一次ソースを読むまで留保したいと思います。
同じではありません。何度も同じことを繰り返しますが、「年輪年代測定法も、放射性炭素年代測定法と同様に、木が成長を止めた時点しか特定できないので、それが資材として使われた時期の特定には役立たない」と言っているのです。つまり、年輪年代測定法は、木が成長を止めた時期を測定することには役立つが、その木材がいつ加工されたかとか、いつ周濠に捨てられたかとかいった時期の特定には役立たないということです。
うげげっさんは、周濠に捨てられた時期の特定に役立つ根拠として、
の三つを挙げていますが、これら三つは年輪年代測定法を用いることで分かった事実なのですか。そうではないでしょう。
この三つの事実が周濠に捨てられた時期の特定に役立つと考えているうげげっさんは、たぶん「木が成長を止めた時点」と伐採の時期を同じと考えている(安本美典さんや邪馬台国の会もそう考えている)ようですが、本文で既に書いたとおり、私はそこを疑っているのです。
木が成長を止めてから、つまり死んでから、それを人間が見つけ、切断し、加工するまでの間、長い時間が経過することが可能です。この場合、件の三つの事実は、年輪年代測定法が教えてくれる「木が成長を止めた時点」が、加工され、使用され、破棄された時期と近いという証拠にはなりません。そういう意味で「年輪年代測定法も、放射性炭素年代測定法と同様に、木が成長を止めた時点しか特定できないので、それが資材として使われた時期の特定には役立たない」と言っているのです。
>本当に決着がついたのかどうか、調べてみたところ、以下のような記事を見つけました。
「気まぐれな梟」の書いていることは間違っています。歴年代を「平均値」で求めません。
何を根拠に、こんなことを書いているのか意味不明な文章です。
「弥生時代の開始年代」
―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―
学術創成研究グループ 藤尾 慎一郎・今村 峯雄・西本 豊弘
「炭素14年代には、測定に伴う誤差がつけられている。較正曲線のデータにも誤差が付いているので、両者の重なりを統計的に処理すると、較正年代が確率密度分布と
して与えられる」
「統計誤差を考慮して照合をおこない、全体を95%の確率範囲で表現することによって年代を較正している」
炭素14年代と較正曲線のデータのか重なりを確率計算をして確率密度分布を割り出して較正年代(歴年代)を求めるのです。
「1点では年代を絞り込むことはできないので、同じ型式に属するの複数の較正年代と、前後の土器型式の較正年代を統計処理することで、板付
Ⅰ式の較正年代を算出することができる。」
※較正年代=歴年代
つまり、測定結果を確率計算をして複数の結果で確率範囲を95%まで絞りこんで年代特定しているのです。
平均値で「歴年代」を求めているのではありません。
同じことを繰り返しますが、「日本版の較正曲線(実年代換算のためのデータベース)がまだ完成していない」ことを理由にして2009年の歴博報告を否定していたのですから、日本版の較正曲線で再報告した2011年の歴博報告は正しいとしなければ筋が通りません。
以下、歴博の報告が正しいとなると九州大学名誉教授の西谷正が指摘しているように
「箸墓古墳は、周辺から出土した土器などから3世紀中ごろと考えられ、また、その被葬者は卑弥呼の可能性が高く、したがって卑弥呼がヤマト王権の最初の大王であろう」
となり、邪馬台国は畿内で決着するということになる。
>「年輪年代測定法も、放射性炭素年代測定法と同様に、木が成長を止めた時点しか特定できないので、
>それが資材として使われた時期の特定には役立たない」と言っているのです。
年輪年代に関しては木が成長を止めた時点?だけではなく伐採した時点も樹皮部や辺材部が残っていれば特定することは可能です。
放射性炭素年代測定法は間違いです。
植物や動物が呼吸や光合成をやめた(つまり死んだ)時点の時期を特定できます。
弥生時代には冷蔵庫なんてありませんから収穫した穀物や山菜、狩猟して得た動物の肉などはすぐに調理されたはずです。
弥生時代ミュージアム「弥生時代の生活・食事」によれば
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/foods01.html
「こうした主食はどのように調理されたのでしょうか。弥生時代に煮炊きに使われた甕形土器に残る炭化物などの状態から、穀物は水を加え炊いていたと考えられます。倭人伝には手づかみで食べるとありますが、鳥取県の青谷上寺地遺跡からは木製のスプーンが数多く出土しており、おそらくスプーンを使って食事をしていたと推定できます。これらのことから、弥生時代には主として米や雑穀を炊いて雑炊のようにして食べていたと想像できます。 」
とありますから、土器の吹きこぼれを測定することで年代の絞り込みが可能ですから、放射性炭素年代測定法で得られた「歴年代」は土器が廃棄された年代と同一と考えていいでしょう。
したがって「それ(放射性炭素年代測定法)が資材として使われた時期の特定には役立たない」というのは誤りです。
歴年代を平均値で求めたということは「布留0式再論(2)」のどこにも書かれていません。「サンプルの違いによって、年代測定の結果が異なる」と言っているから、様々なサンプルから様々な年代をAMS法で測定し、その複数の測定値の平均値を求めたということでしょう。
例えば、「桃核(桃の種の固い核の部分)をサンプルにした場合のAMS法による年代測定結果は、平均値でAD324年である」という文章は、複数の桃核のそれぞれにAMS法で年代測定を行い、その複数の歴年代の平均値を求めたところ、AD324年だったというように解釈するべきです。
「平均して歴年代を出す」と「歴年代を平均する」は計算プロセスとして全然違うのにもかかわらず、うげげっさんは後者を前者ととり間違えています。
本文で引用した件の中で、北條芳隆さんは、「放射性炭素年代測定法の較正をおこなうために放射性炭素年代測定をもちいることがどこまで有効なのか疑問である」と言っているから、彼は日本版の較正曲線に対しても不信感を持っているということなのでしょう。
気まぐれな梟さんが書いた記事は、2014年のものですが、やはり国立歴史民俗博物館の年代測定を疑問視しています。リンク先のページで提起されている問題は、以下の三つにまとめることができます。
三番目について補足すると、放射性炭素年代は、生命物質が最後に二酸化炭素を交換した時を示すため、同じ木でも、木が死んだ時期を特定しようとするなら、樹皮、小枝、種実などをサンプルとして選ばなければなりません。木の内部は過去に形成されたものだから、それをサンプルにすると、死んだ時期よりも古い年代が出てしまいます。箸墓古墳やホケノ山古墳で、木材をAMS法で年代測定すると、平均で紀元前の年代になるのはこのためと考えることができます。
気まぐれな梟さんは、こうした問題意識から、桃核や「最外年輪を含むおよそ12年輪の小枝」をサンプルに選び、その結果の平均から、ホケノ山古墳や箸墓古墳の築造を四世紀と推測しているわけです。
以上の気まぐれな梟さんの主張に対して、うげげっさんはどう反論しますか。
生きている木を伐採するなら、木が成長を止めた時期と伐採した時期が同じになるので、年輪によって伐採された時期がわかります。しかし、死んでから長い年月が経った後で立ち枯れ状態の木を伐採する場合は、年輪から伐採した年を知ることはできません。
だから、例えば桃核をサンプルに選ぶべきなのです。
引用されている私の文は木材に対して言ったものであって、吹きこぼれに対して言ったものではありません。話を摩り替えてはいけません。
そもそも、このスレは「卑弥呼」の墓はどこかでしたね。
年代測定に偏りすぎて何の話をしているのかわからなくなってきたので整理しますと
魏志倭人伝には卑弥呼の墓に関して「大いに塚を作る。径百余歩」と書かれているので
3世紀半ばに、直径150m余りの円形の墳墓があれば、そこが「卑弥呼の墓」となります。
現状、「卑弥呼の墓」は奈良県桜井市にある「箸墓」が最有力ですが、私もこの説を支持します。
その理由について整理すると
①周濠の最下層から出土した土器に付着していた炭化物を炭素14年代法で測定すると「240~260年代」という結果で卑弥呼が死去した247年と時期が一致すること。
②明治20年代に宮内庁が陵墓に植林を行ったので墳墓の形がはっきりとわかるが、それ以前の江戸時代の記録には「円形」であると書かれていたり描かれいたりした。
③「箸墓」の円形部は直径150m余で魏志倭人伝に書かれてた規模と一致、3世紀中ごろに日本に存在する墳墓は100m以下なので該当するのは「箸墓」だけである。
それぞれについて詳しく説明すると
①について2009年に歴博が炭素14年代測定の結果を発表したところ学者にの反応
▼寺沢薫氏(奈良市教育委員会)
「日本版の較正曲線(実年代換算のためのデータベース)がまだ完成していない。」
▼北條芳隆(東海大学教授)
「要するに年輪年代測定法との相互連携なしに日本版の較正年代曲線を構築することなど、原理原則上も理屈の上からも不可能なのです。だから会場では最後に「放射性炭素年代測定法の較正をおこなうために放射性炭素年代測定をもちいることがどこまで有効なのか疑問である」と伝えたのでした。」
と「日本版の較正年代曲線」が構築できていないことを理由に有効性に疑問を感じていると述べている。
▼大塚初重(明治大学名誉教授)
「邪馬台国をとらえなおす」講談社現代新書 2011年 220~221頁
「考古学者の多くがこの数値にまだ疑問符をつけているのは、検査方法自体ではなく、おそらく較正値のためと思われる。その後、国立歴史民俗博物館の西本豊弘氏らの報告(「炭素年代測定による高精度編年体系の構築」国立歴史民俗博物館2009年)があり、それによると「紀元前六五〇年付近と紀元後一〇〇年頃から二〇〇年頃に世界標準とずれる部分とずれる部分があることが確実となった」と報告している。」
大塚氏は総括的に書いているが、要するに「日本版の較正年代曲線がないと正しい結果が出ない」という見解であって、永井さんも同意見だったはずですよね。
このような批判にこたえて2011年の歴博の報告で「日本版の較正年代曲線」で再計算を行い、2009年の報告と同じく「箸墓」の築造年代を240年~260年としている。
この報告に関して、元日本考古学協会会長で学会重鎮の大塚初重氏は以下のように述べている。
「邪馬台国をとらえなおす」講談社現代新書 2011年221~222頁
「その後、寺沢氏がご自分で掘り出した土器を、橋本輝彦氏もまたご自分で調査した土器を提供し、春成秀爾らのグループがAMSによる炭素14年代測定法で計測し、それによって得られた数個を日本産樹木年輪によって較正した結果ということである。その壕の最下層から出現した土器に付着していた煤などから得られた測定結果が二四〇年から二六〇年代と出たということなのである。この測定結果はおおむね考古学界が認める方向にあると思う。もっと年代をしぼりこんでいけば、二五〇年くらいになるともいわれる。」
大塚氏は「この測定結果はおおむね考古学界が認める方向にあると思う」と書いています。
②について
▼天明五年(1785年)に刊行された「日本書紀」の注釈書である河村秀根の「書紀集解」
「嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。相伝曰箸墓。無長樹、荊楚成林耳」と書いていて「箸墓」を「円形之丘」としている。
▼寛政三年(1791年)の序のある「大和名所図会」
五段に築成されている円墳状の墳丘として描かれている。
「箸墓」の形状について書かれている一番古い史料で、3世紀の「箸墓」と同じ状態であった(先に述べたように明治20年代の植林で様子が変わっている)ことを鑑みると魏の使者が河村秀根らと同じように「箸墓」を「円形の丘」として報告した蓋然性が高い。
③について
古田氏だけが「長里」「短里」という奇異な説を唱えていますが考古学会では支持されていませんし、そもそも古田氏の意見は当時の人間がわかるはずもない現在の朝鮮半島の距離を根拠に唱えている説なので、いわゆる「トンデモ説」の一つです。
※晋書「斐秀伝」には後漢時代末期に董卓が長安を占領したときの混乱ですべての地図が焼失し、国内の地図でさえまともな地図が残っていないと書かれている。
したがって魏の時代に朝鮮半島がどの程度の規模か知る由もないのである。
ですから定説である「一歩(六尺)=1.447m」を採用すると、144mとなり「箸墓」の円形部と一致する。
以上
炭素14年代法で計測した箸墓の築造年代は卑弥呼が死去した時期と一致している。
倭人伝の記述と「箸墓」の形状、規模が一致している。
3世紀の時代で倭人伝に一致している墳墓は他に存在しない。
これらのことから、必然的に「箸墓」は「卑弥呼の墓」である。
>本文で引用した件の中で、北條芳隆さんは、「放射性炭素年代測定法の較正をおこなうために放射性炭素年代測定をもちいることがどこまで有効なのか疑問である」と>言っているから、彼は日本版の較正曲線に対しても不信感を持っているということなのでしょう。
北條芳隆氏の話を半分切り取って自分に都合のいい解釈をしていますね。
全文を読めばわかる幼稚な歪曲をしないください。
建設的な議論ができませんから。
これが北條芳隆氏が書いていることですよ。
「要するに年輪年代測定法との相互連携なしに日本版の較正年代曲線を構築することなど、原理原則上も理屈の上からも不可能なのです。だから会場では最後に「放射性炭素年代測定法の較正をおこなうために放射性炭素年代測定をもちいることがどこまで有効なのか疑問である」と伝えたのでした。」
年輪年代測定法との相互連携なしに「日本版の較正年代曲線」が構築するのは不可能だ。
↓
だから、放射性炭素年代測定をもちいることの有効性に疑問があると会場で述べた
ということですよね。
こういう幼稚なことをやってまで自己正当化するんですね。
負け惜しみ丸出しです。
既に述べましたが、すでに決着はついているんですよ。
もはや、あなたと議論してもムダですね。
もう少しレベルの高い話をしてください。
低レベルです。
最初に年代測定の話を始めたのは、うげげっさんです。うげげっさんが提起した問題に私はこれまで答えてきたのに、今頃何を言っているのですか。形勢が不利になったから、話題を変えて議論から逃げようとしているのですか。
その年代推定に問題があるということをこれまで指摘したのに、それに対して答えようとしないということは、うげげっさんには、そもそも学問的な議論をしようという気がないということですか。
以下の二つの命題を比較してください。
A.「正しい日本版の較正年代曲線がないと、放射性炭素年代測定は正しい結果を出せない」
B.「正しい日本版の較正年代曲線があると、放射性炭素年代測定は正しい結果を出せる」
たぶん、うげげっさんは、Aが正しいなら、Bも正しく、正しい日本版の較正年代曲線ができた以上、放射性炭素年代測定は正しい結果を出せるはずだという推論を行っているのでしょう。しかし、その推論は論理的に間違っています。
B命題はA命題の裏に相当し、論理的には等値ではありません。つまり、Aが正しいからといって、Bが正しいとは限らないのです。私はAには同意するけれども、Bには同意しないということです。
A命題と論理的に等値なのは、その対偶であるC命題です。
C.「放射性炭素年代測定が正しい結果を出すなら、正しい日本版の較正年代曲線がある」
こう書くとわかる通り、「正しい日本版の較正年代曲線がある」は、「放射性炭素年代測定が正しい結果を出す」の必要条件ではありますが、十分条件ではありません。それは「放射性炭素年代測定が正しい結果を出す」ために必要な条件ではあるが、十分な条件ではないということです。
実は、私は、既に述べた理由から、国立歴史民俗博物館が「完成」した日本版の較正年代曲線が本当に正しいのかどうか疑問に思っているのですが、百歩譲って、仮にそれが正しいと認めても、なおそれが箸墓古墳の築造時期をめぐる論争に決着をつけることはできないと考えています。
その理由を国立歴史民俗博物館研究報告第185集に掲載されている日本版の較正年代曲線を引用して説明しましょう。
較正年代曲線では、箸墓古墳をはじめ、纏向遺跡の建造時期は、三世紀の後半に位置付けられています。しかし、この図を見ればわかる通り、四世紀の前半としても、この較正年代曲線とは矛盾しないのです。本文でも話題にした通り、「布留0式は、炭素14年代の測定値(1800BPなど)だけを見れば、実年代は3世紀の中ごろと、3世紀末から4世紀初めごろの両方に当たる可能性がある」のです。そして、国立歴史民俗博物館の研究者たちは、なぜ後者ではなくて、前者なのかに関して説得力のある説明をしていません。歴博のチームは「布留1式は炭素14年代が1690BPと、換算データベースの特徴あるカーブ(沈み込み)に当たるため、3世紀後半に絞る大きな根拠になる」といっていますが、布留1式土器が輪鐙と同じ植物層から出土したことからすれば、1690BPは四世紀のかなり後の時代に位置付けるべきではないでしょうか。
>最初に年代測定の話を始めたのは、うげげっさんです。
ウソです。
あなたは、本文で
「しかしながら、鐙出土後も、箸墓が卑弥呼の墓だと信じている人たちは、依然として多い。2009年5月31日には、国立歴史民俗博物館(歴博)グループが、箸墓周辺を中心に採取した土器に付着している炭化物の放射性炭素年代測定により」
と年代測定の話を始めて、滔々と歴博の報告について批判的な意見を取り上げて自分も同意見だと主張していましてね。
それに対して、反論しただけのことです。
また、ウソにウソを重ねて正当化しているんですか。
>うげげっさんが提起した問題に私はこれまで答えてきたのに、今頃何を言っているのですか。
>形勢が不利になったから、話題を変えて議論から逃げようとしているのですか。
>その年代推定に問題があるということをこれまで指摘したのに、それに対して答えようとしないということは、
>うげげっさんには、そもそも学問的な議論をしようという気がないということですか。
これは、こっちのセリフですね。
「較正年代曲線がおかしい」という話を、
形勢が不利になると「放射性炭素年代測定そのものがおかしい」という話しをすり替えただけです。
質問という形で矛先を変えて逃げるやり方は「負け犬」の常套手段なんで「その手」にはのりませんよ。
北條芳隆氏の意見の一部を切り取り歪曲するところなんか醜悪の極み、見苦しい。
学問的な議論をしようと思っていないのは、そちらのほうでしょう。
>以下の二つの命題を比較してください。
3、13番目の返信で既に回答している。
何度、同じことを聞かれても答えは同じである。
>較正年代曲線では、箸墓古墳をはじめ、纏向遺跡の建造時期は、三世紀の後半に位置付けられています。
眼鏡を外しているんでしょうか?
一番上の目盛りは西暦、曲線にプロットされている箸墓の測定結果は白と黒の星印ですよ。
わかっています?
バカバカしくて、まともに答える気にもならない。
ことわざで
「非学者論に負けず」というのがある。
「不見識で道理の分からない人間相手と議論をすると、あれこれと詭弁を弄して自らの間違いを認めようとしない。」
という意味で転じて
「不見識な人間との議論は時間の無駄」という意味。
答えなくなったからといって承服したと思うのは間違いですよ。
相手にしてもムダだと思っているだけですから。
これに言いたいがために返信しました。
あなたみたいなタイプは勘違いしている人間が多いですからね。
念のため。
私が言っている「最初」とは、うげげっさんが最初にコメントを投稿した2017年12月4日のことです。私が卑弥呼の墓に関していろいろ論じている中で、最初に年代測定にテーマを絞って、私に質問をしてきたのは、うげげっさんの方だという事実を言っているのです。
私は、国立歴史民俗博物館が完成した日本版の正年代曲線が正しいと仮定しても、箸墓が四世紀に築造されたことを否定することはできないということを主張しているのに、それは無視するのですね。
うげげっさんも、高校時代数学で「命題の裏」とか「対偶」とか「必要条件」とか「十分条件」とか勉強したでしょうから、理解してもらえるかと思ったのですが、そうでもなさそうですね。高校生でも理解できる論理学のイロハが理解できないということなら、これ以上議論しても無駄ですね。
箸墓の出土品は、この図では三世紀のかなり広い範囲に分散しているのですが、三世紀後半の布留1式に着目し、三世紀のかなり早い時期にまで食い込んでいる布留0式を度外視するという、≪箸墓=卑弥呼の墓≫説の立場にたった「改釈」をしました。布留0式に着目して、三世紀の早い時期に箸墓が築造されたとすると、≪箸墓=卑弥呼の墓≫説を否定することになるから、そういう解釈はしないだろうと予想していたのですが、私の忖度はあてが外れたようです。
『三国志』の「魏書」東夷伝の倭人条には、正始八年(247年)に「卑弥呼以って死す。大いに冢を作ること径百余歩、葬に殉ずる者奴婢百余人なり」とあります。これは、卑弥呼が死んだ後、墓を築造したということです。それなら、卑弥呼の墓が築造されたのは、247年以後ということになります。ところが、上掲の図で、箸墓から出土した布留0式の時期を築造した時期とすると、箸墓は、247年よりもだいぶ前に建造されたことになります。したがって、そこに着目して築造時期を決めると、≪箸墓=卑弥呼の墓≫説を否定することになります。
これに関しては、うげげっさんと同意できます。時間を無駄にしたくはないので、私はもうこれ以上うげげっさんとは議論しないことにします。
そもそも女王国連合においては、九州北部の伊都国に一大率を置いて連合を統率していたと魏志倭人伝に書かれている。
また、狗奴国は熊本あたりの国であろうと言う事については畿内説論者の間でも殆ど異論は無い筈。
ならば、九州北部から奈良までを含む大国が、熊本一国に散々悩まされ、魏に泣きついて権威付けをしてもらうと言うような事がある筈がない。
箸墓がどうたら一里の長さがどうたらと言って畿内に女王国を持っていきたい諸氏は、この程度の事も判らない愚か者なのか?
畿内説の論者は、『魏志倭人伝』における記述で方向を反時計回りに90度近く回転させて解釈しているので、それを徹底させると、邪馬台国の南にあったとされる狗奴国は、近畿の東になければいけないことになります。実際、東国説を唱えている畿内説の論者がいます。
妄想だけで語られてもなんら信憑性がないよw
罵倒だけで語られてもなんら信憑性がない。
土器そのものの焼成年代を測定可能な熱ルミネッセンス法を使用しないのはなんでだろうか
大昔に奈良大学がこれを布留式に対して実施して以来、少なくともネットで調べられる範囲では進展がない
C14は特に土器の場合、有機物の付着物を調べるので土器そのものの焼成年代を調べている訳ではないし
補正にも色々議論がある。熱ルミネッセンス法にも補正問題はあるが
土器そのものの焼成年代が判るのはかなり有効だろう
古墳に飾られた特殊器台等の制作年代は古墳の生成時代とほぼ同じだろうし、年代を特定する方法としてはかなり有用だと思うのだが
この論文のことですか。執筆者の所属は奈良教育大学とあります。奈良教育大学は国立大学で、私立大学の奈良大学とは異なります。
市川 米太, 長友 恒人, 正司 富輝子. “熱ルミネッセンス法による布留遺跡並に服部遺跡出土土器の年代測定.” 古文化財教育研究報告 3 (March 31, 1974): 1–6.
この論文は、物理学教室に所属する研究者が縄文時代から古墳時代にかけての土器の年代を測定したものですが、各土器の土器編年上の分類がなされていないので、考古学的な問題解決にはなりません。物理学者と考古学者の協力が必要です。
はじめまして。
失礼ながら無茶です。
馮素弗墓と同型の鞍や鐙が全国3位の大きさの上石津ミサンザイ、全国2位の誉田御廟山の倍塚から見つかっており、両古墳は馮素弗の死亡時期415年まで、5世紀初頭あたりと推定されます。
それら両古墳は箸墓古墳とは時代が大きく違いますので、
「箸墓古墳が築造されたのは、4世紀後半」などとは到底なりえません。
箸墓古墳の建造開始は布留0式古相で年輪年代で258年。
被葬者埋葬時期は葛本弁天塚、椿井大塚山、桜井茶臼山と同型の2重口縁壺が立ち入り調査の際に確認されていますので、4世紀前後という所ではないでしょうか。
もちろん、箸墓は卑弥呼の墓ではありませんし、平原も卑弥呼墓ではありません。
その年輪年代測定値は、2020年8月に改訂された較正曲線、IntCal20 で否定されています。詳しくは、鷲崎弘朋のレポート「炭素14年代:国際較正曲線INTCAL20と日本産樹木較正曲線JCAL」を参照してください。
新しい較正曲線では、箸墓周辺の布留0土器の炭素14年代、1800BPが、AD290~AD340年に変換されます。それゆえ、箸墓築造年代は、従来から通説とされていた4世紀前半ということになります。