このウェブサイトはクッキーを利用し、アフィリエイト・リンクを含んでいます。サイトの使用を続けることで、プライバシー・ポリシーに同意したとみなします。

江戸幕府とブルボン王朝

2002年1月26日

日本とフランスは、18世紀、徳川綱吉とルイ14世という浪費家の君主のおかげで財政が危機に瀕したが、徳川幕府が1868年まで続いたのに対して、ブルボン王朝は、1789年に滅びた。何が両者の明暗を分けたのだろうか。[1]

画像
江戸城(左)とベルサイユ宮殿(右)[2]

1. 綱吉とルイ14世

徳川綱吉(1646-1709)とルイ14世(1638-1715)は、ほぼ同時代の人物である。ルイ14世が即位したのは1643年で、綱吉が将軍職に就いた1680年よりかなり早いが、ルイ14世も親政を始めたのは、1661年からである。この二人に共通していることは、規律を失った財政支出の拡大により先代で築き上げられた政権の経済的基盤を危うくしたことである。

二人が積極財政を行ったことは、必ずしも非難されるべきことではなかった。二人の親政が始まった頃(1661~1680年)は、デフレ傾向にあったから、リフレ政策を行うことは理にかなっていた。しかし二人の治世が終わる頃(1709~1715年)には、インフレの弊害が顕在化した。二人とも治世の前半は評判が良かったが、後半になると悪化した理由として、悪性インフレが人々の生活を苦しめたことを挙げることができる。

ルイ14世がいかに奢侈であったかは、いまさら説明するまでもない。ベルサイユ宮殿の建設(1682年完成)と連日連夜の社交会、スペイン継承戦争(1701-1713年)に代表される一連の戦争事業などにより、ブルボン王朝は、ルイ14世が死去した頃には、歳入1.45億リーブルに対して、国債残高30億リーブルという巨額の債務を抱え込むことになる。

他方、綱吉も、広大な神社造営、臣下へのばらまき、様々な催し物など、戦争こそしなかったものの、金に糸目をつけぬ消費活動により、幕府の財政を大幅な赤字にした。綱吉と言えば、生類憐れみの令で有名だが、綱吉は特に犬を大切にし、飼い犬をけがさせた者を罰したため、飼い犬を捨てる者が続出した。そこで幕府は、各地に犬小屋をつくって10万頭を養うはめになる。犬小屋の工事費用だけで20万両を使い、さらに「お犬様」の養育費として1匹あたり奉公人の給料に匹敵する額を支出した。こうしたばかばかしい浪費のおかげで、1708年(綱吉が死去する前年)には、幕府の歳出が、歳入60-70万両に対して、倍以上の140万両となり、財政は破綻寸前となった。

image
徳川綱吉(左)[3]とルイ十四世(右)[4]の肖像画。両者は同じ時期に散財し、財政を悪化させた。

綱吉時代に財務を担当したのは、荻原重秀だった。重秀は「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし[5]」と語ったと伝えられ、管理通貨制度を採用している現在の私たちの貨幣観に近い考えを持っていた。1695年の元禄の改鋳で、慶長小判の金の含有率を約57%に引き下げた元禄小判を発行し、銀貨の品位も80%から64%に引き下げた。この金融緩和は、優れたリフレ効果を発揮し、元禄時代の経済成長を促した。しかし、1710年に行った宝永の改鋳はタイミングが悪かった。1707年に宝永地震と富士山の噴火(宝永大噴火)があり、凶作が続いていた時期に金融緩和を行ったため、コスト・プッシュ・インフレ(悪性インフレ)を助長してしまったのだ。この責任を取らせる形で重秀は勘定奉行を罷免された。

綱吉とルイ14世が死去したのは、マウンダー極小期と呼ばれる近代小氷期の中でも特に寒かった時期で、フランスでも凶作によってコスト・プッシュ・インフレが起きやすい環境だった。だから日本でもフランスでも、巨額の財政支出による悪性インフレの弊害が大きくなったのだ。ブルボン王朝は、それが遠因となって1789年のフランス革命で滅亡したのに対して、江戸幕府は1868年まで存続した。なぜ、日本では、フランスのような市民革命が起きなかったのか。フランスほどブルジョア階級が成長していなかったからなのか。あるいは、日本人はお上意識が強くて、権力に従順だったからなのか。

日本はフランスほどブルジョア階級が成長していなかったからという説明は、江戸時代の日本が農村社会だったという偏見に基づいている。当時の日本は、大坂・江戸を中心に、フランスと比べても遜色のない商業経済が発達しており、革命の担い手としてのブルジョア階級が不在であったわけではない。日本人はお上意識が強くて、権力に従順だったから、自らの手で革命を起こすことはしなかったという民族気質に基づく説明はいかがなものだろうか。今でもフランスでは、国家官僚は日本の官僚以上に権力を持っており、ENAへの信仰は、日本人が抱く東大法学部への信仰以上である。

そもそも江戸時代の被支配者階級は決して権力に従順ではなかった。幕府の経済運営がうまくいかなくなると、打ちこわしや一揆が各地で起きた。もし幕府の経済政策がきわめて不適切なものでありつづけるならば、そうした民衆の反抗が大きくなって、革命となったかもしれないのである。この点に注意して、以下、財政危機に対するブルボン王朝と江戸幕府の対応の違いを見ていくことにしよう。

2. フランスの財政再建策

1715年にルイ14世が死去した後、ルイ15世が5歳でフランス国王に即位した。財政再建の任にあたったのは、摂政オルレアン公フィリップ2世であった。彼は、知り合いのスコットランド出身のギャンブラー、ジョン・ローが提案した、それこそギャンブル的な案に乗った。

ジョン・ローは、1716年に600万リーブルの資本金で銀行を設立することを許可され、金と兌換できる銀行券を発行し、それで集めた金で、価格が下落していたフランス国債を買い始めた。国債残高は膨大であるから、国債をもっと回収するためには、さらに新たな資本を作って、銀行券を追加発行しなければいけない。そこで彼は、ミシシッピー会社を立ち上げ、金鉱開発など、当時フランスの植民地であったルイジアナ(ミシシッピー川流域)で有望な事業を行うと発表し、会社の株価を吊り上げた。1718年には、彼の銀行は国立銀行(バンク・ロワヤール)となり、1719年には、ミシシッピーの特許事業を拡張し、1720年の1月には、彼の会社の株価は当初の36倍にまで跳ね上がった。国債残高は半減し、金利は低下し、信用不安によるインフレは沈静化した。しかしその代わり資産価格の異常な高騰、すなわちバブルが発生したのである。

image
濃い青の領域がフランス領ルイジアナ(Louisiane Française)ないし新フランス(Nouvelle-France)と呼ばれた地域、青の領域が他のフランス植民地[6]

バブルは、いつかははじける。ミシシッピーでの金鉱開発事業がでたらめであることが暴露され、株価は暴落した。人々は銀行券を金に変えようとバンク・ロワヤールに殺到したため、バンク・ロワヤールは支払い不能に陥ってしまった。1720年の12月に、ジョン・ローは国外に亡命し、フランス経済は深刻な混乱に陥ると同時に財政危機が再浮上した。この事態を収拾するために、1726年に枢機卿となったアンドレ=エルキュール・ド・フルーリーは戦争を避け、緊縮財政を行い、財政再建を果たそうとした。

緊縮財政はデフレをもたらす。フルーリー枢機卿の最晩年は、コンドラチェフ循環の谷底にあたっていたため、戦争を避けようとするフルーリー枢機卿の方針は次第に支持されなくなり、ブルボン朝はポーランド王位継承戦争(1733~35年)、オーストリア王位継承戦争(1740~48年)、7年戦争(1756~63年)といった一連の戦争にかかわるようになった。積極財政は、確かにリフレ効果はあったものの、財政逼迫というもとの問題を再燃させ、かくしてブルボン朝は1789年の破局に向かっていった。

3. 江戸幕府の財政再建策

では、江戸幕府は、綱吉の死後、どのようにインフレと財政再建の問題に立ち向かったのか。1709年に綱吉が死去したあと、家宣(1709~1712年)、家継(1713~1716年)の二代にわたって、実際に政治を担当したのは新井白石だった。新井白石は、倹約によって支出を切り詰め、宝永の改鋳で悪性インフレを招いた重秀を罷免し、金銀の比率を、幕府創設当初の慶長小判の水準に戻した(正徳・享保の改鋳)。元禄・宝永の改鋳では、金銀貨の流通総量が年平均で約5%増加したが、正徳・享保の改鋳では、逆に約2%減少した[7]。要するに、緊縮財政と金融引き締めにより、インフレを抑制したわけである。

1716年に家継が死去すると、吉宗がいわゆる享保の改革を始める。享保の改革の前半は、新井白石のディスインフレ政策の継続だった。しかし、やがて物価、特に幕府の重要な財源であった米の価格が下落し始め、デフレの弊害が出てきたので、1736年には、改鋳によるリフレ政策が採られることになった(元文の改鋳)。宝永の改鋳が、出目(改鋳差益)の獲得による財政支出の増大を動機としていたため、経済を停滞させるインフレを惹き起こしたのに対して、元文の改鋳は、改鋳差益の収得を犠牲にして、貨幣流通量の増大だけを目指したため、経済成長を伴うインフレをもたらした。この改鋳は、江戸時代でも最も成功した改鋳で、景気回復により、1758年には、江戸幕府の財政は最高の黒字額を記録した。

image
徳川吉宗(左)[8]とアンドレ=エルキュール・ド・フルーリー(右)[9]の肖像画。両者は、同じ時期に質素倹約に励み、財政を再建しようとした。

元文小判は文政の改鋳までの約80年にわたり安定的に流通した。良好な財政と貨幣価値の安定という遺産を引き継ぎ、積極財政と商業振興を推し進めたのが田沼意次である。しかし、意次は、重秀と同様、時代に恵まれなかった。1782年に浅間山が噴火し、エルニーニョ現象による冷夏も加わって、1787年まで凶作が続き、天明の大飢饉が起きたのだ。気候の悪化はコスト・プッシュ・インフレをもたらした。かくして田沼の積極財政は頓挫し、寛政の改革と呼ばれる松平定信による緊縮財政が始まる。

定信は保守反動的な思想の持主であったが、コスト・プッシュ・インフレが発生している以上、彼がその時期にディスインフレ政策を行ったことは間違いではなかった。このことはフランスと比較すればはっきりする。浅間山が噴火した1782年に、アイスランドのラキ火山が噴火し、気候が寒冷化した。凶作により小麦価格が高騰し、民衆が飢えに苦しんだのにもかかわらず、ルイ16世は特権階級への課税や歳出削減をしようとしなかった。このため第三身分の民衆の怒りが爆発し、それが1789年のフランス革命となってブルボン王朝を滅ぼした。これと比べるならば、緊縮財政を行った江戸幕府の方が賢明であったと評することができる。

image
松平定信(左)[10]とルイ16世(右)[11]の肖像画。定信は緊縮財政を行ったが、ルイ16世は赤字財政のファイナンスに失敗して、第三身分の支持を失い、フランス革命において処刑された。

ブルボン朝が、フルーリー枢機卿が緊縮財政に努めた例外的な時期を除けば、戦争や宮廷での奢侈など積極財政一辺倒で財政規律を失い破滅したのに対して、江戸幕府は、インフレ局面においては、倹約や増税などのディスインフレ政策を採り、デフレ局面においては、貨幣の改鋳によるリフレ政策を採ることを繰り返して、マネーサプライを適切にコントロールし、200年以上にわたって、平和で安定した社会を実現した。

1730年代に、吉宗の命により大岡越前が米の先物市場(帳合米取引)を大阪堂島に公設したことからもわかるように、江戸時代の金融制度は高い水準にあった。もとより、世界初の私設商品先物取引市場なら16世紀のベルギーのアントワープにあったから、これはそれほど日本の独創性を示すものではない。むしろ管理通貨制度を先取りする発想で量的金融緩和を行い、マクロ経済を安定させ、200年以上もの間、戦争も大きな内乱もないパクス・トクガワーナ(徳川の平和)を実現したことの方が、世界に誇るべき日本の独創的金融技術である。

4. 参照情報

  1. 本稿は、2002年1月26日に「江戸幕府とブルボン王朝」というタイトルでメルマガで公開した記事を大幅に加筆修正して掲載しているものである。原文に関してはリンク先のキャッシュを参照されたい。
  2. Pierre Patel. “Le Château de Versailles en 1668.” +「江戸図」Wikimedia. Licensed under CC-0.
  3. 土佐光起. “徳川綱吉像.” 徳川美術館蔵. Licensed under CC-0.
  4. Hyacinthe Rigaud. “Louis XIV of France.” 1702. Department of Paintings of the Louvre Room 916. Licensed under CC-0.
  5. 東武野史.『三王外記(上)』甫喜山景雄 (1880/10). 9コマ目.
  6. Ursutraide. “Louisiane Française (Nouvelle-France).” 9 November 2008. Licensed under CC-BY-SA.
  7. 大塚英樹. “江戸時代における改鋳の歴史とその評価.”『金融研究』4 (September 1999). p. 80; 岩橋勝「徳川時代の貨幣数量 ― 佐藤忠三郎作成貨幣在高表の検討 ― 」in 梅村又次・新保博・西川俊作・速水融編『日本経済の発展 近世から現代へ』数量経済史論集Ⅰ. 日本経済新聞社. 1976年.
  8. 狩野忠信. “徳川吉宗像.” Licensed under CC-0.
  9. Hyacinthe Rigaud. “Portrait of André-Hercule de Fleury.” Licensed under CC-0.
  10. 松平定信. “絹本着色松平定信像.” 天明7年6月. Licensed under CC-0.
  11. Antoine-François Callet. “Portrait of Louis XVI.” 1788. Licensed under CC-0.