秀吉の朝鮮出兵はなぜ失敗したのか
豊臣秀吉は、晩年、1592年(文禄の役)と1597年(慶長の役)の二回にわたって、明を支配するために朝鮮半島に兵を送ったが、戦果は芳しくなく、秀吉の死後、日本軍は朝鮮半島から撤退した。なぜ、秀吉はこのような出兵を行い、そして失敗したのだろうか。

1. 織田信長の未完のプロジェクト
秀吉の朝鮮出兵については、様々な説が出されているが、全国統一や大坂城の築城と同様、織田信長の未完のプロジェクトを引き継いだというのが真相に近いようだ。
ルイス・フロイスの『日本史』によれば、信長は「毛利を平定して、日本六十六ヶ国を支配したら、一大艦隊を編成して、中国を武力で征服する。日本は我が子たちに分かち与える」と自らの構想を語っていたとのことである。フロイスは直接信長と会見した人物なのだから、この記述は信用してよい。では、信長は、なぜ中国を征服しようと考えたのか。
信長は、日本史研究者の間では、型破りな革命児として認識されている。国内的にはその評価は間違っていないのだが、世界的に見るならば、信長は、当時の先進国のグローバル・スタンダードである絶対王政を目指していたわけで、その意味では、むしろオーソドックスな路線を歩んでいたとみなすことができる。つまり、信長は、ポルトガルやスペインが行ったような海外侵略を企てていたわけだ。実際、フロイスは、信長のことを絶対君主と呼んでいた。
絶対王政とは、中世封建政治から近代民主主義政治への移行期(16-18世紀)に現れた、絶対君主による中央集権政治のことである。気候史的に見れば、絶対王政の時期は近代小氷期の最盛期(マウンダー極小期)と一致している。地方分権的な封建体制から中央集権的な絶対主義を経て個人分権的な民主主義へいたるプロセスは、寒冷化は権力の集中を、温暖化は権力の分散をもたらすという気候史の法則に合致している。
絶対王政は、A. 常備軍、B. 官僚制、C. 重商主義、D. 植民地獲得、E. 王権神授説などを特徴とするが、これらは、信長が実行したかまたは実行しようとしたことである。すなわち、信長は、
- 他の戦国大名に先駆けて兵農分離を行い、農閑期以外でも大軍を動員できるようにして、近代的な常備軍を設立した。
- 家臣を土地から切り離し、安土城下に住まわせ、中央集権的な官僚制を作ろうとした。
- 楽市楽座により国内産業の育成に力を入れ、堺や大坂といった有望な貿易港を支配することに、熱意を示した。
- 中国を植民地化しようと企んでいた。
- 天皇やその他の既存の宗教的権威を否定し、自らを現人神として崇める新宗教を作ろうとした。
AからCは、よく指摘されるので、何もコメントすることはない。Dについてはこれから詳しく述べることにして、Eについて少し補足しておこう。ヨーロッパにおいて、日本の天皇に相当する宗教的権威は、ローマ教皇である。ローマ教皇は、十字軍遠征以降、世俗的権力を失ったものの、宗教的権威は依然として保持していた。同様に、日本の天皇も、建武の新政以降、世俗的権力を失ったものの、宗教的権威は依然として保持していた。スペイン国王は、ローマカトリック教を信奉し続けたが、イギリスのヘンリー8世は、個人的な離婚問題が原因とはいえ、イギリス国教会を設立し、ローマ教皇と決別した。この違いが、イギリスがスペインから世界経済のヘゲモニー(覇権)を奪う一つの要因となるのだが、信長も、天皇の権威を便宜的に利用することはあっても、その傘下に入ることなく、むしろ、自らを現人神として拝ませる摠見寺を建立したぐらいであるから、イギリス型の王権神授説に基づいて、自らの権力を神聖化しようとしたと考えることができる。
2. 朝鮮出兵とアルマダの海戦
織田信長(1534年生まれ)を同時代のイギリスの絶対君主、エリザベス1世(1533年生まれ)と比べてみると、面白い共通点に気が付く。当時のイギリスは、弱小な島国で、これに対してフェリペ2世が君臨するスペイン・ハプスブルク朝は、ポルトガルとその植民地を併合して、世界最強の帝国、所謂「太陽の没することのない国」となっていた。イギリスは、スペイン領のネーデルランドで起きたオランダ独立戦争で、新教側を支援したために、スペインと対立することになるのだが、イギリスがスペインのヘゲモニーに挑戦するということは、東アジアのヘゲモニー帝国である中国に、弱小な島国・日本が挑戦するのと同様に、リスクの大きい冒険だった。
エリザベス1世は、宿敵スペインに打撃を加えるために、海賊に私掠特許状を与え、スペインの商船を襲わせた。イギリスの海賊のなかでも、ドレイクとホーキンズは有名で、彼らは、後にイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破るアルマダの海戦で活躍する。織田信長も、伊勢・志摩を拠点とする海賊だった九鬼嘉隆を織田水軍の総司令官に抜擢し、大安宅船(鉄板を張り、強力な大砲を搭載した当時最強の軍艦)を建造させ、第二次木津河口の海戦で毛利水軍を破ることに成功している。
ところが、豊臣秀吉は、明との戦争で、海賊の力を活用することはなかった。むしろ逆に「海賊法度」を出して、海賊の活動を禁止してしまった。当時、明が倭寇対策に苦心していたことを思うと、敵に塩を送るような愚策なのだが、秀吉がこの「海賊法度」を出した動機は、同時に出した「刀狩令」の場合と同じで、国内における兵農分離と階級制度の固定であった。信長が行った兵農分離とは異なって、秀吉が行った兵農分離は、下克上の世を終わらせるためのものだった。近代的な分業による機能分化と前近代的な身分の固定化は似て非なる政策である。
信長が、旧体制の権威と秩序を無視して、有能で功績のある人材をいくらでも取り立てようとしたのに対して、秀吉は、旧体制の権威と秩序を尊重し、身分の固定化を図った。『川角太閤記』にこんなエピソードがある。賤ヶ嶽の合戦で、柴田勝家側について戦った佐久間盛政は、恩賞目当ての百姓に捕らえられた。すると、秀吉は、盛政を斬るとともに、「百姓には似合はざる事を仕出したるものかな。見せしめのため、褒美のため、はた物にあげよ」と言って、その百姓12人を磔にした。秀吉自身、小作農の子であったが、いったん権力を握ってしまうと、自分たちの既得権益を守るために、身分の壁の越境を認めなくなったわけだ。
信長と秀吉の間にあるこの格差をイギリスとスペインの間にも見つけることができる。エリザベス朝時代のイギリスにも、もちろん、身分制度の壁はあった。しかし、ドレイクがそうであったように、農民の子として生まれても、功績があれば、貴族としての称号が得られたし、逆に貴族の子孫であっても、功績がなければ、称号と土地を失い、平民の身分に没落した。これに対して、スペインの階級制度は厳格で、いくら才能と経験があっても、平民が軍の指導者となることはなかった。
この違いが、アルマダの海戦の勝敗につながった。無敵艦隊に乗り込んだスペインの貴族たちは、陸上戦の経験は豊富だったが、海上戦の経験は少なかったが、だからと言って航海経験のある平民を指導者にすることはできなかった。ドレイクは、海戦における大砲の重要性を認知していたが、スペインの戦士である貴族たちは、大砲を平民の武器として軽蔑し、重歩兵隊を組織して、敵船の甲板に乗り移り、矛槍で肉弾戦をしようとした、つまり海上戦を陸上戦にしようとしたのだ。しかし、イギリス船の大砲の射程距離は長く、スペイン船は、イギリス船に近づく前に、撃破された。こうして、アルマダの海戦は、スペインの完敗に終わった。

秀吉の朝鮮出兵は、アルマダの海戦の4年後に行われた。日本軍は、陸上戦では連戦連勝であったにもかかわらず、海上戦では李舜臣が率いる朝鮮水軍に連敗し、このため補給路が断たれ、明まで攻めることはできなかった。では、なぜ日本の水軍は、連敗したのか。朝鮮の亀甲船が優秀だったからか。そうではない。李舜臣が一時失脚した時、日本の水軍によって朝鮮の艦隊が全滅している。日本水軍が制海権を失ったのは、李舜臣に匹敵する、あるいはドレイクに匹敵する海戦のエキスパートがいなかったからだ。
3. もしも信長が長生きをしていたならば
信長なら、たぶん、朝鮮・中国の沿岸に詳しい倭寇を活用していたであろう。しかし、秀吉はそうしなかった。すでに大名になっていた九鬼嘉隆は、日本国内の海賊の出身だったから、朝鮮沿岸の事情は詳しくなかった。これに対し、李舜臣は、潮の流れの逆転を利用するなど、地元である利点を利用して、少数の亀甲船で日本の大軍を破った。
私は、当時の日本に中国と戦う必要性があったとは思わない。だが、ここでは戦争それ自体の是非を論じることはやめよう。私が問題にしたいのは、戦争のやり方である。もし、日本がエリザベス1世と同じ方法を用いていたらどうなっていたかをシミュレーションしよう。当時の倭寇には、もちろん日本人もいたが、その多くは、明に不満を持つ中国人で、いわば反体制ゲリラ組織だった。もし、日本が倭寇を背後から支援したら、明は、たぶん李氏朝鮮とともに艦隊を率いて日本を征伐しようとしたであろう。信長は、敵を誘き寄せて叩く戦法をよく採ったが、この方法なら、元寇の時と同様、日本が地の利を生かして、勝てただろう。そして、敵の水軍力を削いでからであれば、明に対する侵略戦争は成功したかもしれない。
秀吉は信長のプロジェクトを「猿真似」したが、信長の精神を受け継がなかった。秀吉の朝鮮出兵が失敗したのは、ひとえに秀吉の頭が古かったからである。かくして、日本は海外侵略に失敗し、国レベルでの対外進出を断念し、鎖国への道を歩む。他方、スペインを破ったイギリスは、新たなヘゲモニー国として、対外積極策に出る。こうして、ユーラシア大陸をはさむ二つの島国は、その後、対照的な運命をたどることになる。
4. 読書案内
『乱中日記』は、李舜臣が、乱の最中に記した日記。朝鮮では、文禄の役と慶長の役をそれぞれ壬辰倭乱と丁酉再乱と呼んでいるが、「壬辰倭乱」は総称としても使われている。
アルマダの海戦に関しては、『アルマダの戦い―スペイン無敵艦隊の悲劇』を参考にした。
ディスカッション
コメント一覧
>信長は、日本史研究者の間では、型破りな革命児として認識されている。
>当時の先進国のグローバル・スタンダードである絶対王政を目指してい
>たわけで、その意味では、むしろオーソドックスな路線を歩んでいた
織田信長は自分でスペイン方陣に似た戦闘教義を生み出し浸透戦術や軍団戦略を駆使しています。これは彼の天才性を現していますがイエズス会による硝煙及び知的情報ルートも重要です。柴田勝家のような側近よりもバテレンとの面談の方が多かったとすれば彼が多分に西欧的絶対君主の素養をつける事は間違いなかったと思われます。そうなれば海洋ルートからの大陸封鎖と西欧列強との決戦は必然として発生したでしょう。地図を見れば判るように南アフリカを押さえればインド洋から西太平洋は内海と化します。サン・ファンバウティスタ号を量産すれば人口と銀と鉄砲の生産量と食糧生産量で勝る日本はまるで違った歴史を歩んだと思います。一度目は絶対君主の暗殺によって破綻し、二度目は中央補給システムと海洋戦略の欠如で破れ、三度目はバブルの崩壊と知的エリートの内国引篭もりで状況は非常に苦しい。
>信長なら朝鮮・中国の沿岸に詳しい倭寇を活用していたであろう
信長の水軍担当は九鬼義隆で亡命海賊です。私の母方も瀬戸内水軍の越智家でした。維新後はデパート経営をしていました。西日本は交易、東日本は農業という文化を持つと考えます。信長はその中央である尾張出身でしたが指向性は西へ西へですから西国以上に西国的思考形態であったと思います。カルタゴが産業派と交易派に別れて国論が分断したように日本も鎖国派と開国派に分離し易い文化土壌があります。戦前が西(知的創造時代)だとすれば戦後派東(知的吸収時代)です。犬を封じる時、足を縛るか、首を縛るか、小屋にいれるか、その発想の違いは埋めようがない大きなものです。
あと織田信長を暗殺した黒幕は私は九分九厘、バテレンだと考えています。ノイローゼになった光秀を誑かしたのでしょう。その後の政権が反キリシタンになったのもその危険性を察知したと思います。学問には各種ありますが日本軍学の継承が断絶したのはとても痛い。非対称戦争(マネー戦争、テロ戦争、洗脳戦争)に対応できない。
>十六ヶ国を支配したら、一大艦隊を編成して、中国を武力で征服する。
秀吉は猿智慧の為に「大艦隊」の意味を理解出来ず直接アプローチと言う方法を選択したようです。しかし、大艦隊=輸送船ではなく、大艦隊=制海権(海上交通の優勢)と受け取る方が自然です。少なくとも、フロイスを始めバテレンはそう取ったと私は考えます。明の軍事力がフランキ砲にたよるところが大とすれば、初手で
ポルトガル領マカオを押さえ、そこに倭城を建設種子島を大量配備して中国沿岸部を倭寇を支援する事によって各港の支配権を確保すれば明もポルトガルも自然と衰退したでしょう。
日テレの『時空警察』がそういう説を紹介していましたね。でも光秀とイエズス会との関係は薄いし、布教に寛大だった信長を殺害しなければならない理由もありません。また、秀吉が伴天連追放令を出したのは、キリシタン大名の大村純忠が、長崎をイエズス会に寄進したのがきっかけだったようです。
>布教に寛大だった信長を殺害しなければならない理由もありません。
与力の高山右近はキリシタンで光秀の娘も有名な細川ガラシャです。変の後に洗礼を受けた事にはなっているようですが付き人にキリシタンがいたと考えています。光秀は鉄砲に詳しかったようなので硝石ルートの関連で繋がりを持ってきたのではないかと考えています。あとラディンやノエリガ、マルコスはアメリカに近い存在でしたが必要がなくなれば消されました。物的証拠はないですが信長はポルトガル領マカオを最初に押さえるつもりだった。だから消された。私はそう考えています。当時のマカオは日露戦争の旅順、太平洋戦争のシンガポールに匹敵する戦略的要地でした。李舜臣や明軍からフランキ砲を排除できればかなり有効に戦えます。逆に南蛮商人から言えば朝鮮の役は大量の武器弾薬奴隷貿易の拡大です。南ではなく、西に戦火を向けたと考えています。同じく、現在は極東がきな臭くなってきています。誰がやっているか想像はつきますが日本もロペスピエールの公安委員会的になっていくのでしょう。
光秀は朝廷との結びつきの強い、伝統的価値を重視する人でしたから、朝廷に唆されて、謀反を起こしたと考えるのが自然です。信長は天皇になろうとした人ですから、朝廷にとって、信長の天下統一は死活問題です。バテレンにとって、信長は、少なくともあの時点では差し迫った危機ではありませんでした。
>信長は天皇になろうとした人ですから、
ナポレオンはフランス共和国の皇帝でした。コンスル(執政)からランペルール(皇帝)になりましたがそれはローマ帝国を継承したという事です。信長に直接話した事はないので確証はありません。ただ、安土城跡から私なりに推測します。天守閣ではなく、天主閣に住む。日本人で初めて二階以上で生活したといわれています。この隣下に左右逆の清涼殿を作る。この思想は大ハーンの思想であると思います。つまり、遊牧国家がオアシス都市や農耕国家を内在するのと同じく、信長の帝国もまた、日本、自治港、殖民町、属州を内包する形での構想です。中華の冊封体制に対するアンチテーゼとして存在した海洋国家といえる構想です。ある意味、中華であり、ある意味、遊牧であり、ある意味、西欧絶対君主であり、ある意味仏教的です。ナポレオン皇帝とフランス共和国が共生可能なように天皇家と信長も共生可能です。実際、信長は海外に本拠地を移すでしょうからその時には伝統的権威はローマ教皇のように役立ちます。しかし、優に500年は思想的に先進的に進んだ考え方ですからこれに明智光秀がノイローゼを起した事は考えられます。信長を神と考える勝家や蘭丸、深い洞察をしない秀吉一益などは兎も角、下手に頭が良かったが故の不幸が光秀だったと考えています。
海外に本拠地を移せば、ますます天皇は不要になります。日本の天皇に相当する伝統的権威は、ヨーロッパでは教皇です。エリザベス1世は、1559年に国教会を復活させ、自ら英国国教会の首長となり、このため、1570年に教皇から破門されています。教皇がイギリスのエリザベス1世の統治の転覆を支援したおかげで、イギリスではカトリック教徒が敵視されます。そして、カトリック教徒だったフェリペ2世にアルマダの海戦を決意させた直接のきっかけは、エリザベス1世によるカトリック教徒のメアリ・スチュアートの処刑でした。エリザベス1世は、信長とは違って、伝統的宗教的権威から地理的に遠くにいましたから、内通した側近の裏切りに遭うことなく、宗教的独立を果たすことができたと考えることができます。
>エリザベス1世は、信長とは違って、伝統的宗教的権威から地理的に遠くにいましたから、内通した側近の裏切りに遭うことなく、
明智光秀が朝廷からの指示によって信長の暗殺をしたと仮定した場合、その発覚時における報復を公家は考えるでしょう。つまり彼らにそれだけのリスクを取る覚悟があったとは私は想像する事はできません。貴族の多い上京は足利義昭に味方して一度、信長に灰にされています。次に失敗すればどうなるかというリスクがあります。次に信長下のように語っています。
「織田信長は毛利を征服し日本全国66カ国の領主となったならば、武力で中国を奪うために海を渡る大艦隊を準備させることと、日本の土地を彼の子供たちに分け与えることに意を決していた」
日本は子どもに与える その権威に天皇家を活用する。海外は自分が本拠を移す 新しい権威を創造する。
このように考えています。また、天皇家と自分の親族との婚姻によって太上天皇を目指していたとも考える事が出来ます。
承久の乱とか、正中・元弘の変とか、朝廷が武家政権の転覆を謀ったことは、過去に何回もあります。
信長が天皇の権威を利用しようとしたことは確かですが、それは天下を統一するまでのことで、天下を統一すれば、朝廷は不要になり、捨てられたでしょう。
信長暗殺のミステリーはおもしろいので、また改めて論じることにします。
>信長が天皇の権威を利用しようとしたことは確かですが、それは
>天下を統一するまでのことで、天下を統一すれば、朝廷は不要に
>なり、捨てられたでしょう。
この場合、信長が日本を絶対的に必要としていたかどうかが信長的な判断基準となると考えます。
信長にとって尾張は京を奪い天下に号令する為の踏み台であったように日本それ自体が世界への踏み台に過ぎないと考えています。同じ時代のヌルハチホンタイジの満州(現在の中国東北部)と同じ扱いだったと私は考えています。この認識に立てば朝廷それ自体の存在を残して信長の子どもと引責関係を持たせて無害化するのが一番良いという結論になります。信長は国内においては山賊、海賊、坊主、忍者、農民、浪人から将校集団を集めましたが海外に本拠を移してからは式目人や漢人、南蛮人が新しい将校集団を形成したと考えています。この構想に対して一番理解力があり、また、恐怖を感じたのがイエズス会というのが私の結論です。
ただ、ヌルハチホンタイジが内陸アジア型文明から発生し大陸型アジア文明に帰結したのに対して、信長の構想は島嶼文明から発生し海洋アジア文明に発展した可能性が強くあります。彼は草津、大津、堺を押さえました。光秀は逆説的に言えばアジアと世界の歴史を大きく変えた男だったかもしれません。