10月 212014
 

フォーラムから“景初四年銘卑弥呼の神獣鏡”を転載します。

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1986年に京都府福知山市の前方後円墳、天田広峯(あまだひろみね)遺跡で発見された盤竜鏡(京都府福知山市教育委員会蔵)。三角縁神獣鏡の一種だが、景初四年という魏の年号に無い年号が使われていることから、鏡の製作地をめぐって論争が起きている。写真の引用元:邪馬台国大研究三角縁神獣鏡の謎」。この他、持田古墳からも、景初四年銘の龍虎鏡が出土している。

投稿者:小林 須佐男.投稿日時:2014年10月21日(火) 15:40.

家事野本将軍塚 さんが書きました:

倭国の女王が大人の難升米・他を郡(帯方郡)に派遣した時点(明帝の死後5ヶ月後の6月ゆえ)で既に帯方郡在住の魏の役人は、改元があることを知っていたのであり、一説にある景初4年の存在も、あったとしても、最初から辻褄合わせのために景初3年の閏12月(後12月)1ヶ月のみを「景初4年1月」としたのであって、魏の役人は最初から翌月(翌年元旦)に改元されるのを知っていたのである。ここで、「洛陽で、景初3年に翌4年もあると思い、景初4年5月鏡を特鋳した」との説は、何も歴史を知らない方々が講釈を述べるに過ぎない、奇説・珍説なのである。

景初4年があると思っていたのは、魏から遠く離れた地の人間であり、それが関西に、238年(景初2年)8月の「燕」滅亡後に渡来した(或いは招聘された)鏡工人が該当する。彼らは景初2年に半島を離れているので、景初3年・4年もあると思っていたのである。魏の首都:洛陽に住んでいる鏡工人ならば、こんな間違いをしない。

上文は【珍説では???。】

景初三年中に明皇帝の崩御を中国人民・鋳工は知る筈が無い。

景初三年1月に明皇帝の崩御を“公布”したのは
景初三年12月であり、約一年間も明皇帝の死亡を
“秘密裏”としていたからである。

明皇帝の崩御を知っていたものは特権階級の一部の者
しかいない。三国鼎立の所以であろう。

景初三年に卑弥呼への下賜・神獣鏡の鋳造時には
景初四年銘を入れるのは必然。

魏書 少帝紀条の正しい解釈をすべきと思う。

明帝(曹叡)と三角縁神獣鏡

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年10月21日(火) 16:47.

小林須佐男 さんが書きました:

明皇帝の崩御を“公布”したのは 景初三年12月であり、約一年間も明皇帝の死亡を “秘密裏”としていた

たとえそうだとしても、景初四年が存在しない以上、魏本国で作られたことは否定されます。それとも、年号は、制作した年ではなくて、卑弥呼が受け取ると予想される年と考えているということでしょうか。

なお、三角縁神獣鏡魏王朝特鋳説が成り立たないことに関しては、私が書いた「卑弥呼の鏡」も御覧ください。

Re: 景初四年銘卑弥呼の神獣鏡

投稿者:小林 須佐男.投稿日時:2014年10月28日(火) 15:27.

nagai toshiya さんからの質問回答

景初2年(西暦238年)6月 邪馬台国女王卑弥呼の遣使2名は帯方郡太守に魏国へ朝献の申請。
景初2年(西暦238年)12月 魏国からへ朝献申請の許可が下りたので帯方郡太守と共に洛陽へ上献。
※帯方郡と洛陽の距離は陸路約1700Km

景初3年(西暦239年)正月 明皇帝崩御(棄背天下)
景初3年(西暦239年)12正月 明皇帝崩御の公布。

正始元年(西暦240年)皇帝齋王芳の命令により帯方郡太守は天子からの手紙(詣書)金・帛(絹)・鏡など
          持参のうえ邪馬臺國女王俾弥呼に挨拶にくる。
正始四年(西暦243年)冬12月 皇帝齋王芳から受賜した、手紙(詣書)金・帛(絹)・鏡のなどのお礼のため、
          馬臺國女王俾弥呼の遣使伊馨耆(イホキ)等8名が魏朝へ上献。           
正始六年(西暦245年)邪馬臺國の難升米は皇帝齋王芳から黄幢を帯方郡太守より受賜。

以上、三国志魏書東夷伝には明白な記載があり、景初3年、景初4年、正始元年銘の卑弥呼の銅鏡(計7枚)は
魏朝から受賜の物として出土の判断する事に蓋然性があります。

現地生産説

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年11月01日(土) 14:28.

その説明でなぜ景初四年銘が魏鏡と言えるのですか。魏の鏡職人がわざわざ倭に来て、240年に倭で生産したとでもいうのですか。

Re: 景初四年銘卑弥呼の神獣鏡

投稿者:小林 須佐男.投稿日時:2014年11月02日(日) 21:54.

景初は魏国の年号。

西暦240年(正始元年)齊王芳の命令により、太守の弓遵等は、天子からの手紙(漢文字)と金・帛(絹)・鏡などを
持参のうえ邪馬臺國女王俾彌呼まで挨拶に来る。

西暦243年(正始4年)12月。伊馨耆(イホキ)と共に掖邪狗(イサガ)等8人は正始元年に天子から受賜した手紙と金・帛(絹)・鏡など、
お礼の為に魏朝へ上献(生口・倭錦・他)する。

以上、魏国帯方郡の大守がわざざ邪馬臺國女王俾彌呼に鏡をとどけています。
そして、邪馬臺國女王俾彌呼は正始元年に天子から受賜した鏡などのお礼の為に再び魏朝へ上献している。
何故、この鏡が倭国製なのですか???。

魏書東夷伝を正しく理解すると簡単な事と思います。

曹芳

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年11月03日(月) 10:30.

「齊王芳」とは、魏の第3代皇帝、曹芳のことですね。曹芳は当時幼少だったから、曹爽か司馬懿かが実務を担当したのでしょうが、いずれにせよ、既に出来上がった鏡を倭に持参するとなると、日本にある景初四年銘の鏡がそれであることはありえないという結論になります。仮に職人が無知で、間違って作ったとしても、年号が間違ったまま贈られるということはないからです。

Re: 景初四年銘卑弥呼の神獣鏡

投稿者:小林攻一.投稿日時:2015年3月07日(土) 19:47.

【「魏書」三少帝紀条】翻訳
『12月、詔書を出して曰く、烈祖明皇帝は正月に亡くなった、臣子としてその忌日の哀愁を永遠に忘れられない。
そのため、改めて夏の暦法を復活させる。これは亡くなった皇帝の統一の考えに背くが、礼儀作法はこういうふうに変えるものである。
また夏の暦法の正月は「天の正月」を得ており、そのため、寅の月を以って正始元年の正月とする。そして、丑の月を景初最後の12月とする。』 
翻訳者 趙方任文学博士

【『晋書』天文中 七曜雑星気史翻傳事験】より
『青龍2年十月乙丑,月はまた「填星」を犯す。占い結果は前と同じ。戊寅,月は「太白星」を犯す。
占いの結果「君主が死す。また戦争を起こす」と言う。
景初元年7月,公孫文懿が反乱を起こした。
二年正月,宣帝が討伐させた。
三年正月,天子が崩御(逝去)する。
四年三月已巳,太白星と月はともに昼間に姿を見せた。そして、月は「太白星」を犯す。
占い結果は前回と同じ。
景初元年十月丁未,月は「熒惑星」を犯す。占い結果は「貴人が死んだ」と言う。
二年4月,司徒韓既が死んだ。斎王嘉平元年正月甲午,太白星が月を襲う。
宣帝は永寧太后が曹爽を殺したことを報告した。』

以上、「景初三年正月には天子(明皇帝)が崩御しており、
景初四年(西暦240年)三月已巳に「太白星と月はともに昼間に姿を見せた。」と
占い師が明確に“景初四年”三月の出来事を記述している

『三国志』「魏書」より
丁巳景初元年十月丁未は西暦237年10月14日。
庚申景初四年三月己巳は西暦240年3月6日。

魏鏡説対呉鏡説

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2015年3月12日(木) 10:43.

小林さんは『晋書志第二天文中』に収録されている逸話を「景初四年」の根拠としていますが、『晋書』は、民間で流布していた志怪小説の類を集めた悪名高い史書で、そうしたいかがわしい民間説話を景初四年銘の三角縁神獣鏡が魏で制作された根拠とするのはいかがなものかと思います。そういう議論が成り立たないのは、「昭和65年に昭和天皇が蘇られて、平成の年号をお認めにならなかった」という空想小説を書いた人がいたとしても、それによって日本政府が昭和65年に発行したと称する外交文書が本物であると正当化されるのではないのと同じことです。

ところで、2015年3月2日の朝日新聞の記事「邪馬台国論争に新材料 卑弥呼の鏡?「中国で発見」論文」によると、三角縁神獣鏡と同じ型式の鏡が中国河南省の洛陽市で見つかったとする論文が、地元の研究誌に掲載されたとのことです。論文を書いたのは河南省在住のコレクターで研究者でもある王趁意さんで、王さんは鏡について「2009年ごろ、当時、洛陽最大の骨董市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けた」と説明しているのですが、骨董市で入手したというのであるなら、出土場所は不明で、魏鏡説の根拠にはなりません。三角縁神獣鏡は、呉様式の鏡で、呉と内通していた公孫氏の支配地、遼東地方でも、日本の三角縁神獣鏡とよく似た鏡が見つかっています。そうした呉の職人が作った鏡が、人手を経て、洛陽の骨董市で売られるようになったと考えるのが自然ではないかと思います。

Re: 景初四年銘卑弥呼の神獣鏡

投稿者:小林須佐男.投稿日時:2015年3月14日(土) 18:28.

『晋書』は中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。
二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。
帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。

『晋書』に対する評価

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2015年3月15日(日) 10:52.

『晋書』が正史であることは、もちろん理解しています。しかし、問題は、『晋書』が集めた逸話の質が低いことです。以下はウィキペディアからの引用ですが、この書がどういう評価を受けているかに関して、参考にはなるでしょう。

晋書 – Wikipedia さんが書きました:

『史通』「採撰篇」で劉知幾は、『晋書』が『語林』『世説新語』『幽明録』『捜神記』といった書物に記載された怪しげな話を採用していることを指摘した。「分量さえ多ければいい、資料収集が広ければいいという態度だ。小人は喜ばせられるだろうが、君子のあざ笑うところである。」と手厳しく非難している。また、『旧唐書』の著者劉昫は、「房玄齡伝」[舊唐書]の評語で、「以蔵栄緒晋書為主、参考諸家、甚為詳洽。然史官多是文詠之士、好採詭謬碎事、以広異聞、又所評論、競為綺豔、不求篤実、由是頗為学者所譏。」と、筆を極めて酷評している。つまり、「『晋書』は諸書を参考に詳しく書かれている。ところが、編纂に当たった史官は文士・歌詠みが多く、デマや誤報、くだらないゴシップを喜んで書いているような程度の低い連中で、広く異聞を集め、所々で評論家ぶって美文を書こうとしているが、真実を追求していないので学者はひどくバカにしている」というのである。すなわち、正史であるにもかかわらず後世からあたかもイエロージャーナリズムのような評価しか受けなかった史書、それが晋書であった。この評価は後世も概ね踏襲されており、清朝の考証学者である趙翼なども、晋書はデマや誤報、くだらないゴシップを信じ過ぎると低い評価を行なっている。

また、晋書の部分訳を行った越智重明は「晋書には多くの誤りがあり、敦煌文書に含まれる干宝の晋紀や、世説新語などで校正しなければならない」「占田制・課田制のような重大な歴史学の問題でも、晋書には誤りがあるので鵜呑みにしてはいけない」と批判している。宮川寅雄も「おおかたは逸話や伝承のたぐいで埋められており、枝葉なことがらを洗いおとしてゆくと、家譜や歴任の官職の大まかな推移になってしまう」と述べている。

ところで、『晋書』天文志に登場する「四年」は「青龍二年」や「青龍三年」の占い記事に関する文章で、「景初四年」ではなく、「青龍四年」と理解するべきだという指摘もあります[入倉徳裕;『晋書』に「景初四年」は存在しない,季刊邪馬台国108号]。ちなみに、青龍四年は十一月まで存在する年号なので、青龍四年三月は、実在する月ということになります。これに対しては小林さんはどう反論しますか。

いずれにせよ、『晋書』は、唐の太宗の詔によって房玄齢らが撰した歴史書で、当時の魏の公式見解を記した書でない以上、仮に「四年」が「景初四年」であるとしても、当時の魏が、その占いに基づいて景初四年銘の三角縁神獣鏡を制作したという必然性はないかと思います。

Re: 景初四年銘卑弥呼の神獣鏡

投稿者:小林 攻一.投稿日時:2015年3月25日(水) 11:13.

讖緯説(しんいせつ)
中国漢末期の紀元前一世紀の学説。讖とは予言の意味。緯とは経てに相対するするもの。
“十干十二支”の一巡こと60年を「一環」として“一元”という。
そして政治が七元の420年間に3変改するとされる。
これを3倍の21元こと1260年をもって世界の完結の“一蔀”(いちぼう)と言う。

陰陽道で革令(甲子の年)・革運(戊辰の年)・革命(辛酉の年) これらの年には変事が多いとして改元などが行なわれた。 .
特に辛酉は社会変革の年・天命が改まる年とされ、661年辛酉に天智天皇即位。辛酉901年も延喜と改元。

聖徳太子は西暦604年に暦学を正式に採用。
辛酉年こと西暦601年を歴史の基点として1260年前の辛酉年を神武即位と創作。
従って皇紀年は西暦年より660年多い計算となる。
明治6年(1873年)に太陽暦が採用され2月11日を建国日とした。

讖緯説

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2015年3月25日(水) 16:09.

讖緯説の話と「景初四年銘卑弥呼の神獣鏡」とはどう関係するのでしょうか。

付録

関連トピックとして、フォーラムから“邪馬台国はどこに存在したのか”を転載します。

邪馬台国はどこに存在したのか

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2011年9月27日(火) 18:23.

邪馬台国とは『三国志』魏書東夷伝倭人条に記されている、卑弥呼という女王が治めていた国です。邪馬台国がどこに存在したのか、卑弥呼の墓はどこにあるのか、現代に至るまで、いまだに定説のないこの問題について議論しましょう。

関連ページ

大和 大和(やまと)は、本来「山処」であり、「山のような高い場所」という意味であり、日本神話における「高天原」の概念と同じである。アマテラスが高天原に君臨していたという神話は、卑弥呼が邪馬台国を都としていたという史実に基づいている。

卑弥呼の墓 卑弥呼の墓として、現在もっとも有力視されているのは、奈良県桜井市にある箸墓古墳であるが、魏志倭人伝、すなわち『三国志』魏書東夷伝倭人条の記述との整合性からすれば、福岡県糸島市にある平原遺跡の方が有望である。

平原遺跡 平原遺跡は、福岡県糸島市にある方形周溝墓を中心とした遺跡で、中心となる1号墓からは、40面もの多数の銅鏡が出て、注目された。従来、平原遺跡は伊都国の女王の墓とみなされてきた。しかし、この墳墓は邪馬台国の卑弥呼の墓である可能性がある。

Re: 邪馬台国はどこに存在したのか

投稿者:viharati.投稿日時:2014年5月25日(日) 21:18.

平原遺跡から見つかった内行花文鏡伊勢二所皇太神御鎮座伝記の記述「(八咫の鏡は)八頭花崎八葉形也」を突き合わせれば、これはもう「天照=卑弥呼」説の、「犯人宅から凶器が見つかった」レベルの証拠だと思えるのですが、どうしてこういったことが黙殺されているのでしょうか。

最近マスコミ等は畿内説押しですが、倭人伝の記述「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」を始めとする致命的な矛盾がありながら畿内説を押す人たちはそうすることで何か利益があるのかと疑ってしまいます。

畿内説の動機

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年5月25日(日) 23:00.

viharati さんが書きました:

畿内説を押す人たちはそうすることで何か利益があるのかと疑ってしまいます。

畿内説は、京都帝国大学教授だった内藤湖南によって提唱され、伝統的に京大を頂点とする関西の大学の考古学者によって熱心に支持されています。彼らは、もちろん学問的な根拠に基づいて畿内説を支持しているのですが、その根底には、関西の歴史的伝統の権威をできるだけ強めたいという地域エゴがあるのではないかと推測できます。実際、九州に存在した邪馬台国が東遷して、畿内を征服したというストーリーは関西人のプライドを傷付けます。私も関西の出身だから、本当はそのようなストーリーは信じたくないのですが、そういう非学問的な動機から真実を捻じ曲げることは良くないことであると考え、東遷説を支持しています。

Re: 邪馬台国はどこに存在したのか

投稿者:viharati.投稿日時:2014年5月26日(月) 19:34.

東征を行った人々が邪馬台国の末裔を自称していることは確かだと思いますが、私は邪馬台国そのものが勢力を機内に拡張したわけではないと思います。(何故かと言うと首都になったのは機内だから)そもそも、邪馬台国がトヨの死後、覇権を失ったことが東征の動機だと思います。つまり、かつての邪馬台国のような国を新天地で再建するということです。東征の出発点が日向であることを考えると、東征を担った人々は邪馬台国の人間というよりも、かつての倭国連合に属する国々から集まった有志連合だと思えます。そうすると、北九州の本店が大阪に支店を出すというケースではなく、北九州の店が潰れたから大阪に来て店を開いたという感じになるので、関西の人が北九州に対して何かコンプレックスのようなものを持つ必然性はないと思います。

ヤマト東遷の目的は何であったのか

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年5月27日(火) 09:51.

この問題を考える時、ヤマト東遷の目的は何であったのかを考えなければなりません。阪口豊の『日本の先史・歴史時代の気候-尾瀬ケ原に過去7600年の気候変化の歴史を探る』によると、花粉分析や縄文杉の年輪幅の調査から、西暦240年頃から古墳時代にいたるまで、日本の気候が寒冷化したことが知られています。このいわゆる古墳寒冷期がヤマト東遷の引き金になったと私は思っています。気候が寒冷化して、凶作になれば、より多くの太陽の光を求めて南下するのは自然なことです。魏志倭人伝に描かれている南の狗奴国との戦争も、そうした南下政策に基づいて行われたと考えられます。卑弥呼は戦争の最中に死去しますが、その子孫は九州南部を征服したと考えれば、天孫降臨を史実を反映した伝説とみなすことができます。しかし、いざ南下してみると、九州南部はシラス台地で、農耕に適さないことがわかり、ヤマトの人々はもっと肥沃な大地を求めて東征を開始します。『日本書紀』にも、神武天皇は、塩土老翁から東方に美き(よき)国ありと教えられて四十五歳にして東征を始めたとあります。ヤマト東遷説では、九州から来たヤマトが畿内の豪族を武力で征服したということになっているので、関西の人には抵抗があるのでしょう。なお、ヤマト政権は、その後も遷都を繰り返していますから、遷都を理由に王統の断絶を推測することはできないと思います。

Re: 邪馬台国はどこに存在したのか

投稿者:viharati.投稿日時:2014年5月27日(火) 23:36.

私が邪馬台国が衰退したという説に着目したのは、よく言われる東遷説の弱点に、そもそもなぜ遷都するのか、動機が無いではないか、というのがあったことがひとつあります。しかし、私は無学なので知りませんでしたが、上のお話を考慮すると、さしたる弱点でもないなと思えます。

私がなぜこの問題に興味をもったかというと、最近「皇紀二千六百何年」だとか耳にするようになって、なんか「檀君以来の半万年の歴史」みたいで微妙だなぁと思ったりして、建国の由来がはっきりしていないことが地味に効いてるなと思ったことがひとつです。邪馬台国の所在地論争は東遷の有無・時期や卑弥呼を日本側の資料の誰に当てはめるかという問題と結びついていて、実はそちらのほうが重要だったりします。

大和と邪馬台のつながりを認める説はどういうわけか保守派の間で受けが悪いようです。私などはむしろ、その説を取れば、記紀の神代編は3世紀の北九州の事情を反映していることになり、魏志倭人伝が記紀の信頼性を補強する資料になるから、国の成り立ちに国民の関心が高まっていいことだなと思えます。もしも感情の問題で議論が妨げられているとしたら、自尊心を損なうようなことではないと理解してもらって議論を前進させてほしいものです。

もし「天照=卑弥呼・台与」ということになれば、権力と権威を分置するしくみとして天皇のあり方を考えるときに一つの示唆になるとも思います。

保守派が邪馬台国に無関心な理由

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年5月28日(水) 09:36.

viharati さんが書きました:

大和と邪馬台のつながりを認める説はどういうわけか保守派の間で受けが悪いようです。

日本の保守派は中国が嫌いで、日本の皇室の起源が中国側の史料によって決められることを快く思っていないのでしょう。しかし、歴史の真実を知るためには、国粋主義的な偏見を捨て、当時の中国が日本以上の先進国であったことを認めるべきです。日本書紀の編集者が神武天皇即位紀元の元年を紀元前660年にしたのは、日本の歴史を中国並みに古く見せようと工作した結果ですが、中国の歴史書の権威を無視するわけにはいかないので、日本書紀の編集者は、神功皇后の記述に見られるように、中国の歴史書との整合性に気を配っています。日本書紀には、この他様々な改竄が施されているので、現代の私たちは、その動機にまで遡って、何が真実で、何が改竄なのかを見極めなければなりません。

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