7月 272003
 

私たち人間は、自分の性器が他者、とりわけ異性の他者に見られることに強い羞恥心を感じる。植物は、自分の性器である花を、それこそ「はなばなしく」誇示し、動物も、自分の性器の露出を恥ずかしいとも何とも思っていない。なぜ人間だけが恥ずかしそうに自分の性器を隠さなければならないのか。

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1. 人間だけがセックスをタブーにしている

私たち人間は、自分の性器が他者、とりわけ異性の他者に見られることに強い羞恥心を感じる。植物は、自分の性器である花を、それこそ「はなばなしく」誇示し、動物も、自分の性器の露出を恥ずかしいとも何とも思っていない。なぜ人間だけが恥ずかしそうに自分の性器を隠さなければならないのか。

人間にとって、性器の露出は、恥ずかしいだけの問題ではない。日本では、自分の性器の写真をインターネット上で公開すれば、猥褻図画公然陳列罪で逮捕される。ところが、これはよく考えると奇妙なことではないだろうか。一般に、犯罪行為は、それが他者の利益を損なうから処罰される。利他行為を法で禁止することはナンセンスである。ではなぜ、一方で金を払ってでも異性の性器を見たいという人が多数いるにもかかわらず、その人たちの欲望を満たしてやることが有罪になるのか。

私たちが、性器を隠蔽しなければならないのは、セックスをタブー化するためなのかもしれない。しかし、この推測は、なぜセックスをタブーにしなければならないのかという新たな問いを生じさせる。セックスをタブー視している動物は人間だけである。動物の中には、隠れてセックスをするものもいるが、それは交尾中に捕食動物に狙われないようにするためとか、メスを独占しているアルファオスの目を盗むためといった動機に基づくのであって、恥ずかしいから人目を避けて性交するという動物は人間だけである。文化によっては、人前でのセックスが宗教的儀式として行われるところもあるが、そうした例外は、かえって衆人環視の元にセックスすることの非日常性を証拠立てている。

2. 性フェロモン代替説

結論を先に述べよう。私の仮説は、人間は、失った性フェロモンの機能を代償するために、性器を隠し、セックスをタブーにしているというものである。人間は、発情期を完全に失った唯一の動物であるが、普段隠している性器をあらわにすることにより、人為的に発情期を設定することができる。

一般に、動物は、フェロモンという嗅覚的信号によって発情期であることを知らせる。「嗅覚的」と言っても、フェロモン自体は無臭で、狭義の嗅覚によって感知されるわけではない。フェロモン信号の受信は、鋤鼻器官(ヤコブソン器官)という、人間の場合、鼻孔の内側近くにある小器官によってなされる「第六感」である。フェロモン信号を受けた動物に見られる、目と口を半開きにした、しまりのない放心状態の表情は、フレーメンと呼ばれている。人間が性的な刺激で恍惚状態になったときの表情と似ているのは、気のせいだろうか。

現在の人間においては、「第六感」は、嗅覚と同様に、他の哺乳動物と比べて著しく後退しており、発情をもたらす主要な刺激は、もはや嗅覚的信号ではなくて、視覚的信号である。しかし、かつては人間も、他の動物と同様に、フェロモンによって発情したであろうことは、現在にも残るフェロモンの痕跡的な働きによって推測される。

人間の性フェロモンは、思春期から壮年期にかけて、腋や性器などの特定部位のアポクリン腺から分泌される。女性に男性の性的魅力を格付けさせたイギリスでの実験によると、女性の被験者を、男性の腋の下から分泌される男性フェロモンの中に置くと、全員が、そうでないときと比べて、男性の性的魅力度を高く評価した。とりわけ、排卵期の(つまり、妊娠可能な)女性には大きな効果があった。男性に対する女性フェロモンの影響も、オーストリアの研究者によって確認されている。現に、フランスの娼婦は膣液を耳の裏に塗って、男を誘惑する。

だが、人間において性フェロモンが果たす役割は、決定的に小さくなってしまった。これは、繁殖戦略上不利なことである。私たちは、発情期とかフェロモンとかを動物的だとして軽蔑し、これらを捨てたことを進歩と考えがちである。しかし、フェロモンは、光学的刺激とは違って、夜間でも有効だし、密閉されない限り、障害物を乗り越えるので、コミュニケーションの手段としては優れている。また、発情期がなくなったおかげで、排卵期がわからなくなり、男たちは、自分の子孫を残すという本来の目的からすれば「無駄な」セックスをしなければならなくなった。こうしたデメリットを考えるならば、人間が自発的に、フェロモンを捨てたとは考えられない。いったい、いつから私たちの祖先は、排卵期にだけフェロモンに刺激されて発情するという通常の性生活から逸脱したのか。

3. ボノボとヒトの繁殖戦略

前節の[どうしてヒトは人となったのか]で、人類の進化の起源を説明する仮説として、アクア説を紹介したが、ここでも、アクア説を用いて、人間の特殊性を説明できる。フェロモンは空中でのみ正しく異性に伝わるのであって、水中では流されて機能しない。だから、水中への適応放散でヒトがチンパンジーと分岐して以来、男は、女がいつ発情しているのかわからなくなったと考えることができる。

チンパンジーからヒトが分岐してから250万年ほどして、ヒトと同じように水によって隔離されることにより、ボノボ(ピグミーチンパンジー)はチンパンジーから分岐した。ボノボは、現在、ザイール川に囲まれたコンゴ盆地の熱帯雨林地帯に生息しており、チンパンジーと違って、平気で水の中に入る。人間ほどではないにしても、水中生活にある程度適応した結果、ボノボは、チンパンジーよりもDNA配列が人間に近いわけでもないのに、チンパンジー以上に人間に似ている。

多くの陸棲哺乳類は、後背位で交尾するが、水棲哺乳類は、通常対面位で交尾する。陸棲哺乳類にとって、腹を上にすることは、攻撃に対して無防備になるきわめて危険な行為なので、後背位が好まれる。これに対して、水棲哺乳類の場合、水中で後背位のセックス(マウンティング)をしようとすれば、メスは頭が水中に埋没して呼吸できなくなってしまうので、対面位が好まれる。人間は、対面位を「正常位」と呼んで常用しているが、これもアクア説の一つの根拠となっている。そして、ボノボもしばしば対面位で交尾する。

ボノボと人間との最大の類似点としてよく指摘されることは、メスが排卵期以外でもセックスすることである。そのため、ボノボは人間と同様に、発情期を失っていると言われることがあるが、ボノボの場合、発情期が長いだけで、発情期そのものが消滅したわけではない。ボノボのメスは、ピンク色の性皮を膨らませて、オスに発情していることを知らせるが、人間の女性の身体には、男性に、それどころか女性自身にもはっきりわかるような発情のシグナルがない。

性行動を解発するフェロモンが機能しなくなるということは、種の存続にとって重大な問題である。言うまでもなく、セックスには準備が必要である。男性は、陰茎を勃起させなければいけないし、女性は、小陰唇を充血・膨張させ、バルトリン腺から薄い乳白色の液を分泌して、膣口を挿入されやすいように、なめらかにしなければならない。性フェロモンには、異性を惹きつける働きと性行動を解発する働きがある。たんに異性を見つけるだけなら、通常の光学的刺激で十分だ。しかし、異性を見るたびに、発情してセックスしていたのでは、仕事にならない。オスとメスが別々に行動している動物の中には、たんにメスと出会うだけでオスが発情して、交尾する種もあるが、男女が日常的に混じって生活している人間の場合、それでは困る。性行動の誘発には、もっと非日常的な刺激が必要だ。

そこで人間は、日常的に性器を隠蔽することにより、性器の露出を非日常的な刺激にした。女性の身体は、直接には発情を誘発できない。だから、衣服という媒介を通して、その否定によって、発情を誘発する。セックスをタブーとすることは、セックスの否定ではなくて、むしろ肯定である。刑法第174条に明文化されている公然猥褻の禁止は、猥褻の否定ではなくて、肯定である。もっと正確に言えば、それは否定することによる肯定である。

人間とボノボは、排卵期以外でも発情するという点では同じである。だが、人間が性を非日常化する戦略をとったのに対して、ボノボは性を日常化した。人間の場合、自分の幼い娘が、近所のおじさんと性器を擦り合わせているのを見て平気でいられる親はいない。だが、これはボノボの社会では許容されている。ボノボたちは、相手がコドモであれオトナであれ、同性であれ異性であれ、挨拶代わりに、日常的にセックスまたはセックスもどきの行為を行っている。

日常的にセックスをすることは、一見すると、繁殖に有利であるかのように思える。それゆえに、性を日常化したボノボが、コンゴ盆地で絶滅の危機に瀕しているのに対して、性を禁欲的に非日常化した人間が全大陸で大繁殖していることは不思議に見える。しかし、これは不思議でも何でもない。セックスがタブーだからこそ、私たちはセックスに燃えるような欲望を持つことができるのだ。

4. 人類史における媒介革命

いったい、私たちの祖先は、いつから性器を隠し、セックスをタブーにしたのだろうか。初期人類が住んでいたアフリカでは、300万年前ごろから寒冷化と乾燥化が少しずつ始まり、200万年前からは氷河時代になった。一方では、乾燥化のおかげで、ヒトが住んでいた湖や川の領域が狭くなり、水辺で生活空間を確保する競争が激しくなり、他方では、寒冷化のおかげで、体毛を失ったヒトは、夜は寒さに適応できず、また昼は直射日光からむき出しの皮膚を守ることができず、多くの傍系の猿人が、この時代に滅んでいった。

寒さと直射日光から体を守るためには、衣服を発明する必要があった。そして、それを成し遂げたのが、180万年前に登場したホモ・エルガスターであると推測できる。この初期のホモ・エレクトス(原人)が着ていた動物の毛皮は腐りやすく、服を着た化石の人骨などの直接の証拠は残っていないが、間接的な証拠ならある。顕微鏡を使えば、ホモ・エレクトスが使っていた骨角器に皮を加工した跡があることがわかる。服を発明したからこそ、ホモ・エレクトスは、ヒトとして初めて出アフリカを果たし、アフリカよりも寒いユーラシア大陸に進出することができた。

日常的に衣服を着ることで、異性の性器が珍しくなった。そのため、既に衰退しつつあったフェロモンに代わって、性器の露出という光学的刺激が性行動を解発する機能を持つようになり、そしてフェロモンは、役立たずになったおかげでますます衰退して今日に至るようになったと考えることができる。

フェロモンの衰退がホモ・エレクトスの時代に決定的になったと私が判断するもう一つの根拠は、ホモ・エルガスターより20万年前に現れたホモ・ハビリスに顕著だった性的二形性(男性と女性の体の大きさ、頭蓋の容積などの差異性)が、ホモ・エルガスターでは小さくなっているという事実である。

ホモ・ハビリスは、最初に言語と本格的な道具を使い始めた人類で、ホモ・エルガスターの先祖とされているが、ホモ・ハビリスの男が女よりも大きいということは、当時はまだ一夫多妻制であったということを、そして性的二形性が小さくなったということは、ホモ・エルガスターの時代以降、人類は一夫一婦制になったということを意味している。フェロモンにより発情期がわかるのなら、発情している女とだけセックスをすればよいのだから、一夫多妻制が維持できる。フェロモンが機能しなくなると、男は、女の発情期がわからなくなるので、女を妊娠させるために、複数の女と絶えずセックスをしなければならないが、それは無理な話である。

レヴィストロースは、人間を自然から区別しているのは、近親相姦のタブーだと言った。しかし、人間以外のほかの霊長類も、みな近親相姦を回避している。なぜ、もともと回避している近親相姦をわざわざタブーの意識でもって、さらに禁止しなければならないのか。タブーという人間に特有の現象の起源を考えるのなら、人間に特有の回避現象に着目するべきだ。

ヒトは、水中生活に適応したために、陸上へ戻った時、そのまま無媒介に裸で生活するわけにはいかなかった。そのために、ヒトは、自分と環境との間に道具・言語・衣服・タブーを媒介させざるをえなかった。この意味で、ホモ・ハビリスやホモ・エレクトスの誕生を媒介革命と呼ぶことができるかもしれない。

前文明社会の中には、女が男の前で開脚し、性器を見せて男を誘惑するところもあるが、文明が進むにつれて、男は、露出した乳房や尻などの光学的刺激、さらにはセックスを連想させるたんなる言葉など、より媒介された、間接的な刺激で発情するようになる。文明の歴史は、媒介的否定の歴史だといってもよい。

媒介革命によって、人類は、連続的な動物の世界から自らを分離し、不連続な文化的存在に向けて一歩進めることになった。だが、より高次の文化的存在になるには、もう一つの革命が必要だった。それが次の節のテーマである。

読書案内
書名匂いのエロティシズム
媒体新書
著者鈴木 隆
出版社と出版時期集英社, 2002/02
書名進化の傷あと―身体が語る人類の起源
媒体単行本
著者エレイン モーガン 他
出版社と出版時期どうぶつ社, 1999/01
追記

人が性器を隠すのは、性フェロモンの機能が失われたことの代替だという説を私が出したのは、2002年の11月で、今でも、この仮説は正しいと信じているが、細部の論点に関しては、考えを変えてきたので、その変遷をここに記しておきたい。

2002年当時、性フェロモンの機能は、水中生活でなくなり、その頃から性器を隠蔽し始めたと想定し、次のように書いた。

いったい、私たちの祖先は、いつから性器を隠し、セックスをタブーにしたのだろうか。アクア説によれば、ヒトは水中生活をしているうちに体毛を失った。300万年前ごろから始まった、アフリカの気候の寒冷化・乾燥化に伴って、再び陸上生活を余儀なくされた時、ヒトは、かつて体毛が担っていた保温や直射日光遮断の機能を衣服に代行させた。では、人間は、服を着るようになったから、性器の露出を恥ずかしいと思うようになったのだろうか。そうではない。熱帯雨林地帯に住んでいて、服を着る必要がない、ほとんど全裸の未開社会の人々ですら、性器だけは通常隠蔽している。

ヒトは、水中生活で体毛を失ったと言ったが、人間には、例外的に毛が残っている箇所が三つある。頭部と腋の下と性器周辺である。頭髪や髭などが残存しているのは、呼吸のため、頭が水中に没することが少なかったからである。人間が腋の下と性器周辺に毛を生やしているのは、腋と性器から放出されるフェロモンを毛に付着させることにより、効果的に空中に散布するためである。しかし、それなら、水中ではフェロモンが無効になるのだから、他の体毛と同様に後退してもおかしくないのではないだろうか。

この問いに対しては、次のように答えることができる。腋の下の毛は、通常上腕によって覆われていて、水流に直接晒されないので、残存した。そして、陰部も何かによって覆われていたので、毛が生えたままになったのではないだろうか。もしそうなら、ヒトは水中生活をしていたころから、性器を隠していたことになる。性フェロモンは、微量ではあるが、乳頭や臍の穴からも分泌される。それなのに胸部や腹部の毛が後退したのは、これらの部位が水流に対して保護されていなかったからだと推測できる。

陰毛は、ちょうど睫毛や鼻毛と同じ働きをしていて、性器に異物が混入しないように生えているのではないかと反論する人もいるかもしれない。なるほど、女性の陰毛に対しては、この説明が有効だ。では、男性性器の場合はどうだろうか。保護するべき亀頭は剥き出しで、代わりに、どうでもよさそうな所に陰毛がむじゃむじゃと生えている。男の陰毛には、勃起した陰茎からあふれ出る男性フェロモンを受け止める機能があったが、フェロモンが機能しなくなれば、もはや存在理由はない。

女性にとって、乳房は第二の性器と言われる。乳房の露出が恥ずかしいのは、陰部の露出が恥ずかしいのとは事情が違う。後者の場合は、《恥ずかしいから隠す》であるのに対して、前者の場合、《隠すから恥ずかしい》のである。熱帯雨林地帯の女性は、近代文明の影響を受けるまでは、男性に乳房を見られることを恥ずかしいとは感じなかった。水中生活を送っていたヒトも、そうだったに違いない。その証拠に、乳首からフェロモンが分泌されるにもかかわらず、乳房の毛は完全に失われてしまっている。水中生活をやめ、寒冷化・乾燥化した気候のもと、胸まで覆う服を着て陸上生活をするようになってから、かなりの時間をかけて、乳房は、男女の性差を示す記号として、陰部に準じる扱いを受けるようになったと考えることができる。

しかし、その後、陰毛と腋毛は、アポクリン汗腺から分泌される性フェロモンを効果的に散布するために残ったと考えるようになった。こうした毛が残ったということは、水辺から離れた後も、性フェロモンは、ある程度機能していたということを示唆している。そこで、衣類の発明が性フェロモンの機能を弱めたとしたわけだ。

寒さと直射日光から体を守るためには、衣服を発明する必要があった。そして、それを成し遂げたのが、180万年前に登場したホモ・エルガスターであると推測できる。この初期のホモ・エレクトス(原人)が着ていた動物の毛皮は腐りやすく、服を着た化石の人骨などの直接の証拠は残っていないが、間接的な証拠ならある。顕微鏡を使えば、ホモ・エレクトスが使っていた骨角器に皮を加工した跡があることがわかる。服を発明したからこそ、ホモ・エレクトスは、ヒトとして初めて出アフリカを果たし、アフリカよりも寒いユーラシア大陸に進出することができた。

しかし、コロモジラミの遺伝子解析によると、人類が毛皮の服を着始めたのは今から約7万年前である [Kittler, R., Kayser, M. & Stoneking, M. : Molecular evolution of Pediculus humanus and the origin of clothing, Current Biology 13, 1414-1417 (2003)]。この結果は、現生人類がアフリカを離れて寒冷地に移住した時期と符合しているので、信憑性が高い。

熱帯のアフリカでは、寒さから体を守る必要はない。水中から出た人類の肌を直射日光から守るようになったのは、服ではなくて、全身に広がったエクリン汗腺である。寒さから体を守るために衣類が発明される前に、性器の隠蔽が始まっていたと考えたほうが良さそうだ。

ともあれ、2002年版で書いたように、「熱帯雨林地帯に住んでいて、服を着る必要がない、ほとんど全裸の未開社会の人々ですら、性器だけは通常隠蔽している」のだから、

日常的に衣服を着ることで、異性の性器が珍しくなった。そのため、既に衰退しつつあったフェロモンに代わって、性器の露出という光学的刺激が性行動を解発する機能を持つようになり、そしてフェロモンは、役立たずになったおかげでますます衰退して今日に至るようになった

という説明はおかしいということになる。性器は、隠さなければならないから隠すのであって、衣服の着用と性器の隠蔽は別の目的があると考えなければならない。では、なぜ私たちは性器を隠さなければならないのか。

私は、現在では、「自然排卵動物である人間を人為的に交尾排卵動物にするために性器を隠している」と考えている。詳しくは、[人はなぜ性器を隠すのか]を参照されたい。

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  17 コメント

  1. 私は、猥褻概念は「姦淫概念」から派生して来ている可能性があると考えます。姦淫(ここでは一定のルールを破った性交渉行為を指す事にする)行為が社会的に多発するのを防止するには、性的刺激に直接関係する「性器露出」を取り締まる必要が、政策的に出て来ます。よって、これを「悪いもの」と位置付け、 「猥褻」という概念を立ててこれに当てはめた、と推察します。 
    形式的で偏った姦淫概念がいまだに幅をきかすイスラム圏では、女性がむちむちした太ももを出すだけでも「男性の余計な性欲を喚起するから」との理由でこれを「猥褻」扱いするようです。しかし、太ももを見て いらぬ発情をするなら、発情する方が悪いと言うべきで、それを太もものせいにするのは間違いでしょう。太ももは本来猥褻なものではなくニュートラルな存在でしょう。 
    永井先生の「性器隠蔽 性フェロモン代替補償説」は猥褻概念肯定説に通じる と推察しますが、如何でしょうか? 「禁止」といわれると「破りたくなる」 あの禁断の木の実の寓話で言われるような 「タブーを作れば、そこに欲望も生まれる」的発想ではないでしょうか。 種の繁栄のためにはどんどんタブーを作りましょう とまでは言わないかもしれませんが。そうしたベクトルの説のような気がします。 
    猥褻概念について言うと、私は性器露出に猥褻のレッテルを貼り、検閲する社会と議会の考え方の方がよほど「猥褻」だと考えます。そのむかし、サトウサンペイが四コママンガで裁判所の建物にパンティーを被せた作品が有りましたが、こうすると、裁判所が猥褻に見えてきます。 
    性器自体は本来猥褻なものではなくニュートラルな存在でしょう。 その証拠に、性器だけをみて人は常に発情するわけではありません。性器に対する社会による検閲は、人間社会の後進的未熟性の顕れだと思います。(アツモノに懲りて膾を吹く ような、姦淫抑止目的の、過剰規制でしょう。) 
    仏教の正見の見地からも、ありのままの姿を知ることは大切です。性器をグロテスクな姿とみる感覚が正しいと仮定した場合、性器を猥褻として隠蔽し、検閲することで、見えない事と欲望とで異性の性器を何か素敵できれいなものと一方的に想像するなら、この「不浄を浄」と見る「転倒した見方」が更なる煩悩を生む事になるので、こうした検閲は「悪」と言えます。 
    いらぬ姦淫行為の多発を悪として抑止の対象にするのは肯定しますが、その派生として、猥褻概念を創作し、検閲の理由にするのは間違いだと思います。勿論、永井先生の「性器隠蔽 性フェロモン代替補償説」も、よく分かります。そういう面は大いに有ると思います。しかし、
    (問い)人は何故性器を隠すのか
    (答え)バイアグラの替わりの、脳内発情トリックである。
    これでは、納得する人は少ないのではないでしょうか。 
    人は場違いの所で自分だけ発情していたなら、まずいと感じるものです。 性器が発情のサインを示していれば、これを隠そうとするのは当然です。つまり、性器隠蔽行動は、社会のティーピーオーを弁える事理弁別能力が備わるのに随伴して発生した、と見るべきでありましょう。 人間は発情していない状態の時間の方が圧倒的に長いわけで、発情の性器充血膨張状態は特殊といえます。 
    そもそも 恥ずかしいという感情は 「ティーピーオーを弁える事理弁別能力」から派生している、と私は分析します。人はティーピーオーに「ふさわしくない」と弁別した時に「恥ずかしい」と感じる、と言えるでしょう。 ヌーディストクラブでは、全員全裸でも恥ずかしくはないですが、一人だけ発情して性器充血膨張状態であれば、周囲から冷たい視線で見られ、それを本人も察知して「恥ずかしい」と感じるでしょう。 しかし、全員が発情している乱交パーティーでなら、ティーピーオーに合致しているので、恥ずかしいと思わないでしょう。 
    聖書では善悪判断能力発生の木の実を食べて性器隠蔽行動が発生したことになっていますが、これを「ティーピーオーを弁える事理弁別能力」と見れば、聖書の洞察は当たらずと言えども遠からず、といえましょう。但し、善悪判断能力とティーピーオーを弁える事理弁別能力は同一概念とは言えないのは勿論の事です。

  2. 私は、性器を「本来猥褻なもの」とは考えていません。猥褻だから隠すのではなく、隠すから猥褻なのです。猥褻の対象を性器までとするか、乳房も入れるのか、もっと広い範囲にまで拡張するのかは、人々がどこまで日常的に肌を隠しているかによります。砂漠地方の住人は、日射や砂嵐を避けるために、全身を布で覆うために、猥褻の範囲は広くなります。同じイスラム文化圏の人でも、インドネシアでは、女性が顔を隠すということはしていません。

  3. 永井先生は「猥褻だから隠すのではなく、隠すから猥褻なのです。」 と仰いました。同感です。ここで、では「何故隠すのか」が問題になり、そこで先生の 「人間は失った性フェロモンの機能を代償するために、性器を隠し、セックスをタブーにしている」という「永井仮説」が登場するわけですね。 
    とすると、人間は本能的又は無意識的に異性にたいして禁止を作って破禁の欲望を掻き立てる知的動物だということになる、と思います。そして、この論理は「人間は本能的又は無意識的に異性にたいする 猥褻とエロティシズムを作り出し、この種の検閲を行う知的動物だ」という結論に繋がると思います。 このように永井説を理解して宜しいですか。

  4. 本能的かどうかは、ともかくとして、この結論で良いと思います。ただ、これは、私の説というよりもバタイユの説ですね。

  5. そうすると、永井説では、本能的かどうかは、ともかくとして 人間の奥底の性的エネルギー(欲望)が「隠蔽・検閲」を行わせていることになりましょう。しかし、精神分析学によりますと、検閲を行うのは、欲望と反対のベクトルの「超自我」だったと思います。「超自我」はある種の規範的な心の声だからです。というわけで、「性器隠蔽は性フェロモン減少の代替補償」という永井説には、精神分析学的に矛盾がありそうだと思うのです。 
    これに較べ、大空説は 時や場所柄などの「TPO」を弁える事理弁別能力」即ち、ある種の社会性を理解・弁別する能力が出てきた時点でそれに伴い発生する(未熟な)「超自我」の規範的な声に従い、場違いの性欲を隠蔽し、又、場違いの性欲発生を抑制する目的で、性器を隠し始めたのではないか という説です。 
    ただ勿論、永井先生が色々な講義で指摘しておられるように、抑制しようとすることで、逆に増大を招くパラドックスがここでも働いて、抑制のための隠蔽・検閲が、逆に人間の色欲増大を誘発する結果を招いているのではないでしょうか。

  6. どうして「人間の奥底の性的エネルギー(欲望)が「隠蔽・検閲」を行わせている」という結論が出てくるのですか。私はそのようなことは言っていません。 
    「人間は本能的又は無意識的に異性にたいする 猥褻とエロティシズムを作り出し、この種の検閲を行う知的動物だ」 
    この文の主語は「人間」であって、「性的エネルギー」ではありません。もっと主語を明確にすると、エロティシズムを作り出しているのは、分別=知性です。幼児や例外的な自然民族が性器を自ら隠蔽しようとしないところからわかるように、性器の隠蔽は、遺伝子によってプログラムされた先天的本能的行為ではなくて、知性が後天的に作り上げた文化的行為です。

  7. これはつまり 「人の分別=知性 が猥褻とエロティシズムを作り出し、 検閲を行うのである。」 こういう事で宜しいですね。
    この命題について長考した結果、 御蔭さまで、永井説と大空説の差異(difference)が見えて来た気がします。 恐らくこの命題の「知性」には前半後半で2つの顔があるのでしょう。
    (性欲を動因とした)知性が猥褻とエロティシズムを作り出す。
    (規範的「超自我」たる)知性が検閲を行う。
    私は、前半と後半を同じもの、即ち「性欲を動因とした知性」が猥褻とエロティシズムを作り出し、検閲も行う。 こういう命題と誤解して、永井説批判をしてしまったのです。しかし、私がこう誤解したのも無理はない、とも言えます。何故なら、1も2も当たり前の話で、別段、永井説の特徴を表す命題とは言えないからです。
    永井説の特徴は、知性が 後天的に猥褻やエロティシズムや検閲を作り出すことで、性フェロモンの減少現象について 代替的に補償する作用を営んでいる、と見る点にあります。 つまり、性フェロモンの機能の代償の点から言って先の1,2で言えば1に力点がある説と言えます。 永井説は「喪失分の性フェロモンの代償としてセックスをタブーにして(検閲して)いるのではないか」という仮説です。
    とすると、永井説の本質は1が2をも包摂してしまう、と見る点に有る と洞察できましょう。 つまり、「性欲を動因とした知性」が検閲をも逆手に取って、検閲をも猥褻とエロティシズムの材料として利用してしまう、そういう風に知性が機能するからこそ、性フェロモンの代償として作用するのだ、と見るのが、永井説でありましょう。けだし、2の検閲が額面通りの抑制作用を果たしてしまったなら、減少した性フェロモンを代償することなどできなくなってしまうわけですから。
    一方、私の「TPOを弁える事理弁別能力が性器隠蔽の検閲を行うと見る説」(大空説)では、こうした検閲を性フェロモンの代償作用とは見ませんから、初期段階においては、単純に場違いの性欲を隠蔽し、場違いの性欲発生を抑制する目的で、性器を隠し始めたのであろう、と見ます。永井説の特徴を 以上のように理解し、永井説と大空説の差異(difference)をこのように見ても、間違いは有りませんでしょうか。

  8. 欲望には、フロイトの言葉を使うならば、現実原則に基づく欲望と快楽原則=涅槃原則に基づく欲望の二種類があります。快楽原則と涅槃原則は、本来別個の概念ですが、これが同じだというのがバタイユの洞察です。
    性器の隠蔽は、現実原則に基づく欲望によって行われます。本文に「異性を見るたびに、発情してセックスしていたのでは、仕事にならない。オスとメスが別々に行動している動物の中には、たんにメスと出会うだけでオスが発情して、交尾する種もあるが、男女が日常的に混じって生活している人間の場合、それでは困る」と書いたとおり、性器を隠蔽して、セックスを非日常化するのは、生き延びるための現実的な仕事をするためであって、性欲によって動機付けられていません。
    もしかすると、初期の人類の中には、ボノボのように、フェロモンが機能しなくなって、日常的にセックスをしていた種もあったかもしれません。しかしそうした種がかつて存在したとしても、競争力がありませんから、現生人類の祖先のように、今日まで生き延びなかったことでしょう。
    性器の隠蔽によって、セックスが非日常化し、希少価値が高まって、結果として性欲が高まるとしても、それはあくまでも意図せざる結果であって、はじめからそれを目指していたわけではありません。バタイユが認識していた通り、エロティシィズムには目的合理性がありません。

  9. 現実原則としての欲望、この場合は生存欲求に基づく「性欲抑制の要請」を動因として、人は性器を隠蔽し始め、この衣服などによる隠蔽行為(最初の検閲行為)こそが猥褻概念とエロティシズムを発生させる「装置(システム)」になったのである。 但し、この「猥褻とエロティシズムの発生装置」の故に(これに知性が触発されて)性欲が高まるとしても、それはあくまでも意図せざる結果、又は、副次的な産物に過ぎない。 こういう事ですね。
    ところで、先生は「なぜ人は性器を隠すのか」の講義の中で「なぜセックスをタブーにしなければならないのか」と問題提起し、「結論を先に述べよう。私の仮説は、人間は失った性フェロモンの機能を代償するために、性器を隠し、セックスをタブーにしている、というものである。」と書いて居られます。
    願わくば、ここで、「結論を先に述べよう。私の仮説は、セックスをタブーにするのは、 生き延びるための現実的な仕事をするためである。」と単刀直入に書いて下されば、分かりやすかったのですが。

  10. 生物学者たちは、「たまたま首の長いキリンが、突然変異的に現れたところ、木の高いところに生えている葉を食べることができて、環境に適応的だったために、首の短いキリンを淘汰して、キリンの主流になった」という長たらしい表現を、便宜的に「キリンは、木の高いところに生えている葉を食べるために、首を長く伸ばした」と短く言うことがありますが、それと同じだと思ってください。
    “結論を先に述べよう。私の仮説は、人間は失った性フェロモン の機能を代償するために、性器を隠し、セックスをタブーにして いる、というものである。”
    確かに、この文は、原因-結果関係を手段-目的関係にしているので、御指摘のような誤解を招きますね。『縦横無尽の知的冒険』では、そうした誤解が生じないように、表現を改めます。

  11. 「セックスをタブーとすることは、セックスの否定ではなくて、むしろ肯定である。」という言葉を公的場における性表現の禁止によって、私的な場での、あるいは、潜在的、可能的な性欲を誘発することという風に取ると、おそらく、事実認識自体が私と食い違います。私の考えでは、そもそも、セックスのタブーというのは、セックスの否定=公的な場での性表現の禁止を意味していません。たかだか、性表現の制約でしかありません。こうした食い違いが生じるのは、永井氏の場合、(初期の人類を想定したためか、)性表現をフェロモンや性器の露出に極限しているからだと思います。私の場合、性表現というのは、性的な意味を帯びた表情や行動、全般です。例えば、エロティックな流し目とか、女性的なきわどい衣服とか、女性の身体的特徴と結びついた行動様式とか、「愛している」という言葉とかは、すべて、性表現になります。そうである以上、性表現を禁止している社会などあるわけがない、ということになります。私の場合は、性のタブーというのは、状況や情動に応じた性表現・行為の制約でしかないわけです。公的な場での露骨な性表現・行為こそ禁止されますが、軽度な性表現ならむしろ歓迎されていると思われます。性表現を性器の露出に限定するのは、無理があるのではないでしょうか?例えば、一昔前の猥褻な本など、露骨な性器的な性描写や性表現などないにもかかわらず、猥褻本として摘発されていました。単に性的ニュアンスが露骨なだけでです。性表現を性器の露出に限定しないとすれば、セックスの否定(=公的場における性表現の否定)ということ自体が成り立たっていないことになり、上のロジックは、意味を失うことになると思います。つまり、衣服を着るということは、セックスの否定(=公的場における性表現の否定)ではなく、単に、身体を公的な場に相応しい性的印象を与える表現に変えているだけであり、公的な場における性表現の制約でしかないわけです。(女性の身体は、直接には発情を誘発できず、衣服を着ることによって、裸体よりも、発情を誘発するようになるという論理は、無理があるような気がしますが。せめて、衣服を着るという<行動習慣>が、裸体の性的価値を高める、くらいではないでしょうか?裸体の性的意味に対する衣服の価値は、副次的だと思います。裸体に性的価値を付与するものは、明らかに、衣服ではなく、性行為です。性行為は、裸体で行うのが通常の行動習慣だからです。)
    「猥褻だから隠すのではなく、隠すから猥褻なのです」という言い方がありますが、性器を公的場においては隠すという行動習慣が、エロティシズムと猥褻の差異を形作る、と解釈されるならよいと思いますが、性器を公的場においては隠すという行動習慣が性器の性的意味を作り上げると解釈するならば、基本的に間違っていると思います。子供にとって、異性の性器は、基本的に隠されていますが、異性の性器は、性的意味をもっていません。つまり、隠されたところで、性的意味が発生するわけではありません。性器が、性的意味を持つようになるのは、大人になって、ちょくちょく、それを見るようになってからです。要するに、性衝動や性行動とともに、異性の性器を見ることによって、性器は、性的意味を帯びるようになるのだと思います。したがって、性器が性的意味を持つのは、性的衝動や性行動とともに、それが現れるからであって、公的場において、隠されているか、現わされているかは、2次的問題にすぎません。(ほとんど裸体に近い形で暮らしているような部族にとっては、裸体は、かならずしも性的意味を持たない、ということはあり得るでしょう。私が言っているのは、性器にしろ、裸体にしろ、それが性的意味を帯びる基本的要因は、それらが、性衝動なり、性行動と密接に関与するからだということです。裸体で暮らすようになれば、裸体は、性行動とも、通常の行動とも、関与するわけですから、裸体は、二義的価値を持つようになるでしょう。通常の行動のときには、裸体は、ほとんど性的意味を持たないが、一方、性衝動や性行動とともに異性の裸体が示されれば、おそらく、その身体的特性や行動特性が性的意味を開示することになると思われます。)性器を公的場においては隠すなどという行動習慣が、形作られると、それを基準に適切な性表現(行動)(エロティシズム)と不適切な性表現(行動)(猥褻)の区別が生じます。公的な場においては、女性が胸元を大きく見せるような服を着るのは、適切な性表現(行動)(エロティシズム)と見なされますが、パンツを脱ぐのは、不適切な性表現(行動)(猥褻)と見なされるわけです。
    「性器自体は本来猥褻なものではなくニュートラルな存在でしょう。 その証拠に、性器だけをみて人は常に発情するわけではありません。」という大空氏の説は、私には、説得力がありません。例外的、あるいは、非本質的事例を示しても、本質的特性は、否定できないと思います。例えば、性行動によって、必ずしも、妊娠するわけではない。故に、性行動は、本来妊娠と直接的に関与するような行為ではなく、散歩と同じくらい、無関係だ、とか。<本来>とか、<本質>という意味を誤用していると思われます。すべての知覚対象は、状況や見方によって、様々な意味を持ち得ます。一般に、その対象が最も豊かに、最も適切に捉えられるような典型的な相貌や意味というものがあり、それが、<本来>的とか、<本質>的意味と呼ばれるものでしょう。人間にとって、性行動は、極めて重要なものであり、性行動にとって、性器は、ほとんど欠くべからざる重要な部位であり、中心的な部位である以上、性器を性的象徴物と見なすのは、自然であり、ほとんど、どこの社会、どこの時代にも見られる認識の在り方です。こういう事態を「性器は、<本質>的に性的である」と言うわけでしょう。逆に、性器から性的意味を排除する方が、一般的には難しく、医学的観点から見たり、意識的に排除したりした場合でしょう。大空氏といえども、なんらかのきっかけで、若い女性の裸体を見る僥倖に遭遇すれば、胸や尻や性器の部分に目が行くと思います。性的意味を強く持つ身体的部位は、男性の視線を誘うからです。つまり、そうした視線の動きが裸体や性器が性的意味を持つことを示しているのだと思います。女性の裸体を男性の裸体と同じようにニュートラルに見ることができるとすれば、それはそれで、大したものだとは、思いますが、そのことは、なにも、そうした部位が男性にとって性的意味を持たないことを意味しているわけではなく、通常持つはずの性的意味を拒絶できるようななんらかの訓練、トレーニングを、大空氏が積んでいることが想定されるから、感心したということで、まさに、そうした部位が通常は、性的意味を持っているということだと思います。したがって、異性の性器自体は、本来、性的意味を持っているというべきでしょう。成人の男女にとっては、異性の性器や裸体は、<本来>的に性的意味を持っています。通常の成人の男女においては、性衝動や性行動を持っているので、隠そうが、隠すまいが、異性の性器や裸体は、一定の性的意味を帯びてくるようになるわけです。
    「私の仮説は、人間は、失った性フェロモンの機能を代償するために、性器を隠し、セックスをタブーにしているというものである。人間は、発情期を完全に失った唯一の動物であるが、普段隠している性器をあらわにすることにより、人為的に発情期を設定することができる。」
    私の場合は、性表現というのは、性的意味が現れる行動、表情、表現行動、言語、全般を意味します。人間の主な表現手段である、行動、表情、表現行動、言語は、性フェロモンの表現力と比べると極めて多彩、豊かであると思えます。人間のコミュニケーション手段として、行動、表情、表現行動、言語が主題的になってきたとき、単純に興奮度合いぐらいしか表現できないフェロモンにしがみついている理由はあるでしょうか?表情、行動、表現行動、言語等は、いくらでも、複雑な性を表現できます。視線(流し目)で、性的雰囲気を表現したり、モンローウォークのような女性の身体特性を強調するような歩き方、女性的な仕草、話方等々です。我々は、圧倒的に豊かな性表現を獲得したので、フェロモンの価値が、次第にさがっていったのだと思います。私の考えでは、性フェロモンの機能を代償するものは、性的な意味を帯びた身体、行動、表情、表現行動、言語等であり、性器は、その一部でしかありません。
    「普段隠している性器をあらわにすることにより、人為的に発情期を設定することができる」というのは、おもしろい指摘だと思いました。確かに、人間には、発情をある程度コントロールする<自由>があるようです。しかし、その<自由>は、もう少し複雑ではないかと思います。つまり、我々は、任意の対象(といっても、完全に任意ではない)を性的対象に選び、任意の場所で、任意の性行為のバラエティーを営む<自由>があります。人間の場合、性的対象の選択には、<人格>がある程度関与しているようです。となると、<人格>を表現している、身体の形態、肌の色、行動パターン、表情、言語パターンといったものが、性的判断において、重要度を増してくるということだと思います。発情のある程度のコントロールできる能力が、性的意味の一般化を招いたのかもしれません。動物の場合、性衝動と特定の性表現(行動)とが、強度に結びついています。人間の場合は、その結び付きが緩くなったのだと思います。発情をある程度コントロールする<自由>を獲得した人間は、様々な表現に性的意味を込め、また、読みとることができるような<自由>も獲得したのだと思います。
    私の考えでは、性表現には、異性を誘う、性的信頼関係を形作る、性的に興奮させる、性行動を発動させる、といった状況に応じた様々な役割があると思います。つまり、人間においては性表現が非常に豊かに発達したため、性的興奮度や状況に相応しい性表現の構造化といったものが生じ、そうした性表現の体系のなかでは、性器の露出というものは、もっとも露骨なもの、もっとも興奮した状況で(それは、しばしばプライベートな状況ですが)、もっとも性的信頼関係のある相手に示すもの、といった価値づけを受けたのだと思います。そのため、公的場では、その状況に相応しい性的表現が使われ、性器の露出は、排除されたわけです。そのため、我々は、性器の露出を限定された状況、限定された対象に対して、一定の興奮度を伴う場合にしかしないのだと思います。実際の我々の生活においても、性器の露出は、性表現の一種ですが、扱いが難しいとされています。通常、その露出は、限定的な環境で、限定的な対象に対してしか、しないものですが、その一定の性的信頼関係を持った相手に対する場合ですら、状況を選びます。例えば、いきなり、妻に性器を露出しても、ほとんどの場合は、無視されるか、馬鹿にされるだけだと思います。(つまり、性器の露出は、一定の興奮度と結びついていないと、幼児的、露骨(単純で直接的)、野蛮(単純で、非構造的)といった印象(要は、猥褻です)ぐらいしか与えないものだと思います。)両者が一定の興奮度に達したとき、性器の露出は、その状況に相応しい肯定的な性的意味(エロティック)を持つものとして受け止められ、受け入れられると思います。私の考えでは、このように性表現、性行動につきまとう、強い規範的構造が、性のタブーを形成しているのだと思います。従って、上の場合のように、性のタブーは、私的な場でも、見いだせるものだと思います。大空照明さん:「私は、猥褻概念は「姦淫概念」から派生して来ている可能性があると考えます。姦淫(ここでは一定のルールを破った性交渉行為を指す事にする)行為が社会的に多発するのを防止するには、性的刺激に直接関係する「性器露出」を取り締まる必要が、政策的に出て来ます。よって、これを「悪いもの」と位置付け、「猥褻」という概念を立ててこれに当てはめた、と推察します。」
    大空氏の説で、問題だと思われるのは、姦淫の禁止というルールが社会的な行動習慣から派生したものだとするならば、上でいったように、私的な場でも、性的タブー(規範)が維持されているのは、なぜか?さらに、その姦淫に対する規範が他の行動規範よりも<強い>ものに見えるという点の説明が抜け落ちていると思います。性的タブーには、殺人や暴力に対するタブーに近いような<強い>規範構造が見られると思います。つまり、性的認識、性的衝動、性的行動、それ自体が、姦淫の禁止やタブーを形成する要素を持っているのではないか、と思われることです。その要素というのは、私の考えでは、素朴かもしれませんが、性行動には、強い情動性と強い主観性が見られ、混乱を引き起こし易いという点だと思います。私の考えでは、<恋愛>は、人間特有の性的関係だと思います。<恋愛>というのは、一定の対象に対する、幻覚的(妄想的)な、強い性衝動が、一定期間続く状態です。人間は、仮想的に様々な意味構造を想定できますが、(おそらく、動物には、こうした能力は、ほとんどない)、それが、性的衝動と結びついて、強い、性的<世界>をねつ造してしまうような状態が、<恋愛>だと思います。これは、ある程度、任意に発動できますが(任意でない場合もある)、いったん、その衝動にとりつかれるとなかなか、コントロールが利きません。このコントロールが利かないという性質は、やっかいなものであり、典型的に<恋>を<患った>人は、しばしば、<狂人>扱いされたりします。
    しかし、性行動に見られる強い情動性や主観性は、程度の差こそあれ、動物にも見られるではないかというかもしれません。にもかかわらず、動物には、性的タブーは、なく、人間には、あるのは、なぜか?そのような<反論>は、動物と人間との間に見られる、(認識的、行動的)秩序構造の違いという点を無視していると思います。例えば、動物の場合、発情した牡が、ライバルの牡を半殺しにしたところで、<なんてことはない>と思われますが、人間社会では、たいへんなことです。殺人となったら、さらに、大変です。下手をすると、報復のための殺人が次々に引き起こされ、拡大再生産される可能性があります。人間のタブー(掟)と動物の行動規範の違いは、人間は、タブーを破る能力があるのに対し(再構築もできます)、動物の行動規範は、ほとんど例外的にしか、それが破られることはないという点だと思います。つまり、人間の場合、タブー(掟)を破る能力があるからこそ、タブー(掟)を積極的、能動的に維持していかないと、その秩序を維持することは、難しいと思われます。そのためタブー(掟)を破ることは、しばしば、強い制裁を伴うのだと思います。(浮気する能力があるからこそ、それを禁止するタブーを作る必要があるわけです。そうでないと、家の中は、大騒ぎになってしてしまいます。動物の場合、果たして、浮気をする能力があるか?浮気と本気の区別が付くか?)
    というわけで、性行動の強い情動性、主観性と大脳の発達により<恋愛>が派生した。性行動は、その特性のため、人間社会においては、暴力沙汰や混乱を引き起しやすく、それと<恋愛>を維持するために、身近な者に対する姦淫禁止のタブーが、まずは、生じたのだと思います。性器を公的場でなぜ隠すのか。人間の行動一般がそうであるように、性行動にも、その相手に応じ、状況に応じ、情動に応じた社会的規範が見られる。そしてその規範は、性行動が持つ特性により、人間社会においては、非道い混乱を引き起こす可能性があるため、通常の行動規範よりも、強いものとなっている。公的場における性器の露出が一般に禁止されているのは、性器の露出は、特定の対象に、一定の興奮度の元で、露出されるという規範があり、それから、大きく外れているからである。実際、性器の露出は、多くの場合、女性には、表現の露骨さ、野蛮さから、かなり強い嫌悪感を喚起する。男性の場合には、それを単純に、幼稚な表現とみて、笑う人もいるだろうが。しかし、男性の場合でも、混雑している電車のなかで、オナニーをしている男がいたら、かなり、強めの嫌悪感を感ずるだろう。ともかく、一般に、性的行動規範は、外れると強く情動的な反応を誘う場合が多い。性的表現、行動は、強い情動と連動しているため、激しい賞賛や激しい嫌悪といった感情的評価と結びつきやすい。というわけで、隠した方が無難なので、隠すのだと思います。
    永井氏は、性器の露出を「利他行為」と断定されていますが、これは、いかがなものでしょうか?確かに、美人が、それなりにエロティックに露出しているのならば、私とても、それを「利他行為」と認めるのに吝かではありません。むしろ、<激しく>同意したいと思います。しかし、そうではないと主張する人たちもいます。
    例えば、女子高生です。時として、女子高生に対して、自らの性器を露出して喜んでいる男性が現れることがあります。彼はむろん、自らの行為を「利他行為」とみなし、賞賛されこそすれ、非難される謂われはないと主張するでしょう。しかし、女子高生の方は、おそらく、それを認めないでしょう。女子高生は、そうした行為は他人の迷惑を顧みない、完全に「利己的行為」だと主張すると思います。そして、おそらく、世間も女子高生に同意すると思います。
    性器の露出は、利他行為でしょうか、それとも利己的行為でしょうか?以前、あるカメラマンが猥褻物陳列罪とかいった法律で、捕まったとき、朝日の夕刊に載っていたコラムだったと思いますが、性表現の規制がヨーロッパでは、どうなっているかが、紹介されていました。それによると(うろ覚えなのですが)、規制は、以下のように考えて決められたそうです。まず、原則としては、1:表現の自由は、民主社会の原則なのでなるたけ尊重する。2:性行為および性表現のタブーは、いかなる時代、いかなる社会においても、程度の差こそあれ成り立って構造なので考慮する。具体的に規制の在り方を考える上で考慮すべきは、性表現の価値が、見る人によって異なるという点である。法律の規定に必要になる、大まかな分け方としては、3つのパターンに分けられる。つまり、猥褻な図画を示したとき、
    「おおお!」というタイプ----->男性
    「あら、嫌だ」というタイプ---->女性
    「これ、なあに?」というタイプ-->子供
    上の原則を考慮しつつ、これら、3者の利害を調節するような規制が求められているわけである。結論としては、極めて単純で、公的場(女性や子供も自由に出入りする場)においては、状況に応じた規制を行う。(本屋で、そういった本の売り場を囲うとか、TVで、夜のゴールデンタイムには、過度な性表現は、流さないとか)。そして、公的場以外においては、原則自由ということらしいです。
    日本の性表現の規制の法律は、現実に合わなくなっている、と思われます。かなり、古い法律なようで、いい加減に、法律を改正しろ、というのがコラムの主張だったようです。
    私として、おもしろいと思ったのは、性表現の間主観性の在り方です。性差、年齢によって、かなり異なるので。(もちろん、間主観性といっても実態的には、個々の主観によってかなりばらつきがあるのが普通でしょうが)。そのことを考慮せずに、発言する人も多いと思います。ずいぶん、昔のことですが、あるタレントの書いた本を立ち読みしていたとき、女性器は、猥褻か?という意味のエッセイを読んだことがあります。そのタレントによると、自分で、性器を見たときには、猥褻(性的印象のなかでも粗悪なもの)感は、感じない。従って、猥褻ではない、というような書き方をしていたと思います。一般に、性的印象というのは、異性の身体および象徴物に接したとき、受ける印象だと思います。通常、同性から、性的印象を受けることは、ほとんどないと思われます。まして、自分の性器を見て、性的印象(それが、粗悪なものか、上質なものかは問わず)を受ける人は、希だと思います。要するに、このタレントは、自分で自分の性器を見たところで、それが、猥褻か否かの根拠には、ならないということが分かっていないと思います。性器の性的印象の間主観性を実在的に解釈しているから、このような奇妙な主張がされるのだと思います。私に在るものが同様に他者にも在ると解釈されているのだと思います。通常の知覚物のレベルですら、そんな<間主観性>は、成り立たないと思いますが、性的対象の場合の<間主観>的構造は、性差によって、ばらつきが顕著に現れると思われます。自らの性器の性的価値は、私には、無くとも、他者には、あり得るわけです。男性には、なくとも、女性にはあり得るわけです。その逆もあり得るわけです。子供にとっては、一般に、ないでしょうが。
    さて、性器の露出が、利他行為か利己的行為かというと、基本的には、一般的な解はない。性器が男性のそれであるか、女性のそれであるか、そして、それを判断する主観が、男性の主観か、女性の主観か、子供の主観かに基本的には依存する。一般的に、法的に判断する場合は、その社会の習慣や常識によって妥当だとみなされる性表現における適切度に依存する。通常の社会では、はっきりと明示的に示されていなくとも、性により、年齢により、状況により、このように行動するというパターン、このような感情を引き起こすというパターンがあり、それが、その社会の<人>の通常パターンと見なされる。その通常パターンに準じて、混乱を引き起こさない(起こし難い)行動パターンが規範であり、適切な表現、行動であると見なされる。
    例1【男性が自らの性器を女性に見せたりした場合】
    公的場所で、明らかに、相手が嫌がるのが想定されるにもかかわらず、自らの性器を開陳したとするならば、猥褻である。私の判断では、禁固10年。
    例2【女性のストリップなどの場合】
    一定の閉じられた会場において、明らかに、見るものが好むということが想定される状況において、自らの性器を開示したとするならば、日本の現行法では、違法であるが、西洋では、多分(?)、合法、つまり、猥褻ではなく、肯定的性的価値を持つ(エロティックな)表現とみなされる。私の判断では、道徳的な模範的行為として賞賛に値すると考えます。こうした立派な方は、小学校の校庭にでも、銅像を建てるべきではないかと思います。

  12. たとえ性器を隠蔽しなくても、性器はセックスや排泄を意味するシニフィアンであり続けることでしょう。しかし、セックスを意味するということと、セックスを解発するということは同じではありません。TaFuさんは、両者を混同しています。性表現が日常化すれば、それはもはや性的興奮を惹き起こさなくなります。なお、シニフィアンの連鎖により、さまざまな表現が、セックスのシニフィアンとなるでしょうが、源泉が性器であるという事実は変わりません。
    フェロモンは、性的コミュニケーションのメディアとしては、人間の言語よりも優れているので、「我々は、圧倒的に豊かな性表現を獲得したので、フェロモンの価値が、次第にさがっていった」という仮説は成り立ちません。「効率が悪くても、表現が豊かなら優れている」というのは人間の勝手な価値観にすぎません。
    私が性器の露出一般を利他行為と断定していると解釈したのは、たんなる読み間違えです。私が利他行為としているのは、自分の性器の写真をインターネット上で公開して、金を払ってでも異性の性器を見たいという人の欲望を満たしてやることです。

  13. ケジラミはゴリラから?
    http://ghop.exblog.jp/5358904/
    >>コロモジラミの遺伝子解析によると、人類が毛皮の服を着始めたのは今から約7万年前
    との事ですが、コロモジラミの誕生の時期を調べる事でヒトが衣服を発明した時期が分かるなら、ケジラミの誕生の時期を調べたらヒトの体毛が薄くなった時期(裸になった時期)が分かるのでは?
    ただ、以前も同じ質問をした気が・・・・・・。

  14. “The two species of Pthirus (Pthirus gorillae and Pthirus pubis) last shared a common ancestor ca. 3?4 million years ago, which is considerably younger than the divergence between their hosts (gorillas and humans, respectively), of approximately 7 million years ago.” [Reed D, Light J, Allen J,Kirchman J (2007) Pair of lice lost or parasites regained: the evolutionary history of anthropoid primate lice]
    この事実自体は興味深いですが、“Gorillas Gave Pubic Lice to Humans, DNA Study Reveals”がほのめかしているような、ゴリラとアウストラロピテクスのセックスは、まず考えられないことです。
    ケジラミは、セックス以外の方法でも感染するし、まつげのような陰部以外の部位にも寄生します。ゴリラから感染した時、他の体毛に寄生していたが、人の体毛が減るにつれて、陰毛やまつげといった残存体毛に特化して進化したということも考えられます。だから、本件を考える手がかりにはならないでしょう。

  15. 返答ありがとうございます。
    人類学の本(『ヒトはおかしな肉食動物』?)にシラミ関連の記述があったはずなので図書館で借りる事にします。

  16. シラミ関連の記述があったのは『ヒトはおかしな肉食動物』ではなく『ヒト 家をつくるサル』でした。
    第4章の「巣と寄生虫」の”シラミと人類進化”の項によれば、
    ・ヒトジラミには、形や系統では区別できない、一一八万年前に分岐した(現生人型シラミと原人型シラミの)二系統がある(後者はアメリカ大陸に住む人の間にだけ見られる)。
    ・(上記が正しければ)分岐したのはホモ・エルガステルの時代。
    ・シラミは宿主特異性が厳密である(宿主が一種類に限定されている)為、宿主の動物の系統が枝分かれすると同じ様に分岐し、系統樹を描くと宿主とシラミのそれはそっくりになる。
    ・リードらはヒトジラミの系統が分岐した一一八万年前にホモ・エルガステルのそれも二つに分かれたと推定し(2004年時)、一つがホモ・エレクトゥスに、もう一つがヒト(ホモ・サピエンス)の直接の祖先になったという。
    ・ ホモ・エレクトゥスはヒトと接触(←どこで?)してから程なく絶滅した為に宿主をヒトに乗り換え、その地域でヒトについていた現生人型シラミの系統を駆逐して生き残り、その原人型シラミがついたヒトがアジアからベーリング地峡を通ってアメリカへ移っていった。
    ・ケジラミがヒトジラミと共存しているのは、ヒトが「裸のサル」になって頭髪から独立した陰毛の「島」ができた後に、ケジラミが近縁の類人猿から(捕食等で)移ってきた為だと考えられる。
    ・その為、その時期が分かればヒトが裸になった時期を推定する根拠になる。
    ・ケジラミとヒトジラミは遺伝子の分析により今から1150万年ほど前に分岐したが、その時期は、ヒト、チンパンジー、ゴリラの共通祖先がオランウータンの系統と分岐した1400万年前に近い。
    ・しかし、チンパンジーとゴリラのシラミは系統が違い(チンパンジーのシラミはヒトジラミと同じペディクルス属だが、ゴリラのシラミはケジラミと同じプティルス属)、単純にオランウータンからヒトにケジラミが移ったとは言い難い。
    ・これを説明し得る仮説(の段階的な説明)は、
    ①一一五〇万年前にヒト・ゴリラ・チンパンジーの共通祖先の系統と未知の類人猿の系統が分岐し、それに伴いシラミの系統もこの時ヒトジラミの祖先の系統と(未知の類人猿につく)ケジラミの祖先の系統に分岐。
    ②今から七〇〇万年前に、ゴリラの祖先とヒトとチンパンジーの共通祖先が分岐。
    ③その後にゴリラとケジラミの祖先を持つ類人猿が接触して元々ゴリラについていたシラミをケジラミの祖先が駆逐。
    ④その後にヒトが毛を失ってから(ヒトになってから)ヒトとゴリラが接触。
    というものが考えられる。
    だそうです。
    これなら、手がかりになるのでは。

  17. ヒト 家をつくるサル』を読みました。榎本知郎さんは、この本の中で「同じ場所で同じような生活をする近縁の二種の動物は同居できないというのが、生物界の大原則だ」(p.86)。と言って、頭髪から独立した陰毛の島ができた後に、ケジラミが移ってきたと推測していますが、この推測には問題があると思います。というのは、シラミは、たとえ他の部位に移住することができても、特定部位にしか寄生しないということがあるからです。そのためなのか、同じ動物に15種類ものシラミが共存しているという事例すらあるそうです。だから、陰部と頭髪が体毛で連続しているからといって、ヒトジラミとケジラミが共存できなかったとは言えません。

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