なぜ私たちは時間を意識するのか
「時間とは何か」は永遠の哲学的問題とこれまでは考えられてきた。しかし、物理的な時間は、物理学的に定義できる。では、意識の流れとしての時間はどう考えたらよいだろうか。

1. エントロピーの増大としての時間
時間と呼ばれている現象を特徴付けているのは、不可逆性であり、そして孤立系としての宇宙のエントロピーも、不可逆的に増大する。ここから、一部の物理学者は、このエントロピーの法則をエントロピーに関する法則としてではなくて、時間の定義と捉えている。つまり、時間とともにエントロピーが増大するのではなくて、時間とはエントロピーの増大だというわけである。
しかし哲学者が問題としている時間は、そうした物理的時間ではなく、意識の流れとしての時間である。レアールな世界での熱エントロピーだけでなく、イデアールな世界での意味エントロピーも時間とともに増大していくのだろうか。
情報システムは、意味に対する無意味、真理に対する誤謬を排除することで、自らを維持する。時間の経過とともに、経験と思索は量的に増大し、意味エントロピー、すなわち解釈における他の可能性も増えていく。この点では、意味エントロピーも不可逆的に増大していくように見える。
だが、増大する意味の過剰は、忘却によって減少するから、イデアールな世界では、エントロピーが常に増大し続けるとは言えない。そもそもエントロピーの法則は、孤立系においてしか成り立たないので、開放系である情報システムにまでこの法則が適用できなくても、当然なのである。
2. 意識はエントロピーの増大に抵抗する
では、私たちの時間意識を分析する上で、エントロピー概念は不要なのか。そうではない。私は、意識においてはエントロピー増大の法則が成り立たないということに、むしろ逆に積極的な意味を見出したいと考えている。すなわち、エントロピーの増大が時間であるのに対して、時間意識とは、増大するエントロピーに対する抵抗であると考えることによって、ネゲントロピーとしての意識を時間から区別しようというわけだ。
時間はしばしば川の流れに喩えられる。川は時間と同様に、一方向に不可逆的にしか流れないからなのだろう。今、この川に橋がかかっていて、その橋脚に、一匹のかえるが、川の流れに逆らってしがみついているとしよう。かえるが、川の流れを肌で感じることができるのは、かえるが川の流れに逆らっているからで、橋脚にしがみつくという努力を放棄し、川の流れに身を委ねるならば、かえるは川の水と動きをともにするから、もはや肌で川の流れを感じることはない。
私たちが時間意識を持つのは、かえるが川の流れを肌で感じることとアナロガスである。私たちは、生命システムとして、あるいは情報システムとして、環境におけるエントロピーの増大に逆らう努力を続けている。この努力を放棄することは、システムの消滅、すなわち死を意味し、そして死んでしまえば、私たちは、時間意識をもはや持つことはないであろう。
もっとも、すべてのシステムがネゲントロピーとしてエントロピーの増大に抵抗しているにもかかわらず、すべてのシステムに時間意識があるとは限らない。迷わない存在者には意識がないから、当然時間意識もない。川のメタファーで言うならば、川の流れに抵抗しているが、その抵抗の仕方に不確定性がない橋脚がこれに相当する。橋脚は、かえるとは違って、川の流れを感じていない。
3. 時間意識を持つことの意味
時間意識を持つ存在者には、どのような条件が必要なのだろうか。遺伝子によってあらかじめ選択がプログラムされている存在者や偶然に身を委ねる刹那的存在には時間意識など必要がない。時間意識を持つことができるのは、過去の経験をもとに未来の予測を行う、つまり学習することができる存在者である。
学習する存在者は、なんらかの失敗すると、未来においてその失敗を繰り返さないために、その原因を突き止めようとして、現在から過去へ遡って思索する。この現在から過去に因果連鎖を遡るという思惟の運動こそ、学習能力を持った存在者に特有な、エントロピー増大に対する抵抗である。イデアールな世界が可逆的であるからこそ、そこに普遍的で超時間的な学問を築くことができる。たとえ実際には学問が歴史相対的で、超時間的ではないにしても、である。
現実の世界では、赤インクを水槽に落とすと、インクの分子が拡散し、やがて水槽が薄いピンクになることを観察することをできても、その逆の現象を観察することはできない。しかし映写機を逆回転させれば、バーチャルな世界で、エントロピー増大の法則に違反する現象を観察することができる。もちろん映写機は電気を消費するから、実際にはエントロピーを増大させている。だからエントロピーの法則は決して破られることはない。それは、かえるが水流に抵抗しても、川の流れの向きが逆になるわけでないのと同じことである。
私たちは、時間的に有限な存在者であるにもかかわらず、過去と未来に向かって、今という時間的限界を超越しようとする。完全に時間を超越しているわけでもなく、また完全に時間に埋没しているわけでもない中間的な超越論的存在者だけが時間を意識することができるのである。
ディスカッション
コメント一覧
「宇宙のエントロピーは不可逆的に増大する」とおしゃいましたが、たしか宇宙っていうのは振動しているのじゃなかったでしたっけ(へんな日本語)? それに宇宙って孤立系として扱えるものなのですか?
「宇宙は孤立系(外界と物質やエネルギーだけでなく、情報をも交換しないシステム)である」というのは、宇宙という言葉の定義です。すなわち認識の限界によって与えられる時空間が宇宙なのです。科学者の中には、ホーキングのように、熱力学第二法則の例外を探し求めている人がいます。宇宙がビッグバン以降膨張を続け、エントロピーも増大し続けているというのが現代の宇宙論の定説ですが、ホーキングは、100億年後に宇宙が収縮に向かうと、宇宙のエントロピーは減少し始め、「割れたコップがもとどおりに戻って、テーブルの上に飛び上がる」という時間の逆転現象が見られると考えていました。しかし彼が提唱する無境界条件によれば、エントロピーは収縮期においても増加しつづけるということが、彼の学生レイモンド・ラフラムによって指摘されました。ホーキングは、高エントロピー物質をブラックホールに投げ込めば、宇宙のエントロピーは減少するとも考えました。しかし物質をブラックホールに投げ込めば、ブラックホールの面積が増え(つまりブラックホールのエントロピーが増大し)、さらに、従来何も放出することがないと考えられていたブラックホールから粒子が放出されるということが確認されたために、ブラックホールも熱力学第二法則の例外でないことが明らかになりました。というわけで、熱力学第二法則は、現時点ではまだ破られていません。
時間は二つの時刻の間に定義される。そして時計には、今という時刻しか存在しない。過去の時刻も未来の時刻も、時計には存在しない。しかし、人間は時計を見て時間が分かる。
刹那的存在であるはずの人間の意識が、なぜ刹那的でないのかは、私のテーマでもあります。
時間とは、宇宙に存在するエネルギー・素粒子のアットランダムな不可逆的な動きでありその一部である人間が自分も含めアットランダムな動きを五感を通じ認識しているだけとは捉えられないでしょうか。
仮にタイムマシンが実用化されたとします。その場合の日常会話はどうなるでしょう。単純に考えると、おそらく
「私は、【今日】の夜、タイムマシンで《明後日》に行く予定です。」
といった感じになるように思います。つまり、タイムマシンで移動可能な《時間=明後日》とは別に、今までと同様に固定された物差しとしての【時間=今日】を想定しなければ私たちはやっていけないでしょう。
「大人になると時間が経つのが速くなった。」
と言うとき、年齢とともに変化しうるものとして《時間》が考えられているわけですが、同時に、その《時間》が「速くなった」ことを実感する物差しとして、均一で固定化された【時間】が前提されているはずです。
パソコン画面上のドットや筆記用具の跡が面積を持つ限り、我々が目にする《正三角形》が真の【正三角形】であることは不可能です。3つの辺はそれぞれ長さが厳密には異なっているはずです。それでも【正三角形】を考えるとき、【3つの辺が等しい三角形】と言えるのは、紙に書かれた《正三角形》を見ながら、頭の中では固定化された正確な【正三角形】を描いているからです。その【正三角形】については、それぞれの辺が等しいことは自明です。仮にそれが異なっていれば、それは【正三角形】ではなく《正三角形》になるだけです。
同様に【時間】については、その速さは真の意味で一定であり、それが止まることはありません。私たちの頭の中にしか存在しないからです。
時間とは、物質が移動した「単位」に過ぎない。
エントロピーの法則が無かったら、時間は無いんじゃないかな?
エントロピー増大の法則は、結局は自然現象には一定の方向性があるということだと思うんだけど、例えば全ての現象が可逆で、いつ時計の針が逆回転してもおかしくないような世界に時間はあると言えるでしょうか?
意識においてエントロピーの法則は成り立たないというものですが、成り立たないとすると、熱力学第二法則と矛盾する機関が作れてしまうそうです。これは「マクスウェルの悪魔」と呼ばれる問題だそうです。それによると情報の忘却によって必ず熱が発生し、それによりエントロピーが増大するということにしないとこの機関が成立してしまうらしいのです。
熱力学第二法則、あるいは一般的に言って、エントロピーの法則は、孤立系にしか当てはまりません。人間の情報システムは、孤立系ではないので、情報システムのエントロピーが減っても、エントロピーの法則とは矛盾しません。
エントロピーの増大が、縮減された認識であるというようなことはあるのでしょうか?