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なぜ私たちは時間を意識するのか

2000年11月12日

「時間とは何か」は永遠の哲学的問題とこれまでは考えられてきた。しかし、物理的な時間は、物理学的に定義できる。では、意識の流れとしての時間はどう考えたらよいだろうか。

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1. エントロピーの増大としての時間

時間と呼ばれている現象を特徴付けているのは、不可逆性であり、そして孤立系としての宇宙のエントロピーも、不可逆的に増大する。ここから、一部の物理学者は、このエントロピーの法則をエントロピーに関する法則としてではなくて、時間の定義と捉えている。つまり、時間とともにエントロピーが増大するのではなくて、時間とはエントロピーの増大だというわけである。

しかし哲学者が問題としている時間は、そうした物理的時間ではなく、意識の流れとしての時間である。レアールな世界での熱エントロピーだけでなく、イデアールな世界での意味エントロピーも時間とともに増大していくのだろうか。

情報システムは、意味に対する無意味、真理に対する誤謬を排除することで、自らを維持する。時間の経過とともに、経験と思索は量的に増大し、意味エントロピー、すなわち解釈における他の可能性も増えていく。この点では、意味エントロピーも不可逆的に増大していくように見える。

だが、増大する意味の過剰は、忘却によって減少するから、イデアールな世界では、エントロピーが常に増大し続けるとは言えない。そもそもエントロピーの法則は、孤立系においてしか成り立たないので、開放系である情報システムにまでこの法則が適用できなくても、当然なのである。

2. 意識はエントロピーの増大に抵抗する

では、私たちの時間意識を分析する上で、エントロピー概念は不要なのか。そうではない。私は、意識においてはエントロピー増大の法則が成り立たないということに、むしろ逆に積極的な意味を見出したいと考えている。すなわち、エントロピーの増大が時間であるのに対して、時間意識とは、増大するエントロピーに対する抵抗であると考えることによって、ネゲントロピーとしての意識を時間から区別しようというわけだ。

時間はしばしば川の流れに喩えられる。川は時間と同様に、一方向に不可逆的にしか流れないからなのだろう。今、この川に橋がかかっていて、その橋脚に、一匹のかえるが、川の流れに逆らってしがみついているとしよう。かえるが、川の流れを肌で感じることができるのは、かえるが川の流れに逆らっているからで、橋脚にしがみつくという努力を放棄し、川の流れに身を委ねるならば、かえるは川の水と動きをともにするから、もはや肌で川の流れを感じることはない。

私たちが時間意識を持つのは、かえるが川の流れを肌で感じることとアナロガスである。私たちは、生命システムとして、あるいは情報システムとして、環境におけるエントロピーの増大に逆らう努力を続けている。この努力を放棄することは、システムの消滅、すなわち死を意味し、そして死んでしまえば、私たちは、時間意識をもはや持つことはないであろう。

もっとも、すべてのシステムがネゲントロピーとしてエントロピーの増大に抵抗しているにもかかわらず、すべてのシステムに時間意識があるとは限らない。迷わない存在者には意識がないから、当然時間意識もない。川のメタファーで言うならば、川の流れに抵抗しているが、その抵抗の仕方に不確定性がない橋脚がこれに相当する。橋脚は、かえるとは違って、川の流れを感じていない。

3. 時間意識を持つことの意味

時間意識を持つ存在者には、どのような条件が必要なのだろうか。遺伝子によってあらかじめ選択がプログラムされている存在者や偶然に身を委ねる刹那的存在には時間意識など必要がない。時間意識を持つことができるのは、過去の経験をもとに未来の予測を行う、つまり学習することができる存在者である。

学習する存在者は、なんらかの失敗すると、未来においてその失敗を繰り返さないために、その原因を突き止めようとして、現在から過去へ遡って思索する。この現在から過去に因果連鎖を遡るという思惟の運動こそ、学習能力を持った存在者に特有な、エントロピー増大に対する抵抗である。イデアールな世界が可逆的であるからこそ、そこに普遍的で超時間的な学問を築くことができる。たとえ実際には学問が歴史相対的で、超時間的ではないにしても、である。

現実の世界では、赤インクを水槽に落とすと、インクの分子が拡散し、やがて水槽が薄いピンクになることを観察することをできても、その逆の現象を観察することはできない。しかし映写機を逆回転させれば、バーチャルな世界で、エントロピー増大の法則に違反する現象を観察することができる。もちろん映写機は電気を消費するから、実際にはエントロピーを増大させている。だからエントロピーの法則は決して破られることはない。それは、かえるが水流に抵抗しても、川の流れの向きが逆になるわけでないのと同じことである。

私たちは、時間的に有限な存在者であるにもかかわらず、過去と未来に向かって、今という時間的限界を超越しようとする。完全に時間を超越しているわけでもなく、また完全に時間に埋没しているわけでもない中間的な超越論的存在者だけが時間を意識することができるのである。