聖徳太子とは誰のことか

2003年1月3日

『日本書紀』には、聖徳太子という理想の聖人が登場するが、近年、聖徳太子の実在が疑われ始めている。聖徳太子はフィクションなのか。もしフィクションならば、なぜそのようなフィクションが作られなければならなかったのかを考えてみよう。→[振り仮名付きのページ

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1. なぜ聖徳太子の実在は疑われるのか

聖徳太子は、日本史上最も有名で、最も尊敬されている人物の一人であり、かつては1万円札の顔でもあった。しかし、歴史家の中には、聖徳太子の実在を疑う人が少なくない。その急先鋒が、大山誠一である。

「聖徳太子」の誕生』の中で、大山誠一は、

  1. 用明天皇と穴穂部間人王の間に生まれた
  2. 601年に斑鳩宮を造って、そこに住んだ
  3. 現在の法隆寺のもととなる寺を建立した

という属性を持つ厩戸皇子(厩戸王)の実在を認めつつ、その厩戸皇子が

  1. 冠位十二階を定めて、門閥主義を排し、有能な人材を登用した
  2. 十七条憲法を制定して、天皇中心の国家理念と道徳を提示した
  3. 小野妹子を隋へ派遣し、隋と対等な国交を開くことに成功した
  4. 『三経義疏』を述作し、蘇我馬子とともに国史の編纂を行った

という属性を持つ聖徳太子であったことを否定する。要するに、厩戸皇子は実在したが、聖徳太子は実在しなかった。聖徳太子は、ヤマトタケルと同様に、『日本書紀』が捏造した、たんなる神話的存在に過ぎない。なぜなら、聖徳太子の実在を保証する、信頼に足る史料が何もないからだと言うのだ。

聖徳太子に関する伝説は、荒唐無稽なものまで含めて、たくさんある。だが、あらゆる伝説の基となった最古の史料は、法隆寺金堂の薬師像光背銘・釈迦像光背銘・中宮寺天寿国繍帳の銘文などの法隆寺関連史料と『日本書紀』の二つに限られる。通説では、薬師像は607年に、釈迦三尊像は623年に、天寿国繍帳は622年以降の7世紀前半に作られたとされている。もしそれが正しいとするならば、720年に完成した『日本書紀』よりも古い、したがって最も信用できる史料ということになる。果たしてそうだろうか。

今日、法隆寺は、現在の伽藍より古い若草伽藍跡が発掘されたことから、厩戸皇子が建立したままの姿でないと考えられている。もしも、『日本書紀』が伝えるように、厩戸皇子の死後、法隆寺が全焼したとするならば、現在法隆寺内にある釈迦三尊像や薬師如来像なども、推古朝時代のオリジナルではないことになる。もちろん、仏像が複製でも、銘文が当初の内容を正確に伝えているのなら、それによって、聖徳太子の実在を確認することができる。ところが、薬師像光背銘も釈迦像光背銘も天寿国繍帳銘文も、使われている言葉の新しさから、厩戸皇子の時代の文章とは考えにくい。

具体的に言うと、薬師像光背銘と天寿国繍帳銘文には、「天皇」という称号が使われている。天皇という称号を最初に使ったのは、唐の高宗で、674年のことである。これが日本に伝わり、689年の飛鳥浄御原令において正式に採用され、天武天皇に対して最初の天皇号が捧げられた。この時代を遡る、「天皇」の語を記した木簡も出土されていない。万葉集でも、持統帝以前の歌には、天皇という時には、大王という称号が使われている。『隋書倭国伝』が伝えているように、推古朝時代の天皇は、「大王」と呼ばれていたはずだ。釈迦像光背銘には、「法皇」という称号が見られるが、これは、「天皇」と仏典で釈迦を表す「法王」との合成語と考えられるので、釈迦像光背銘も天皇号の成立以降に書かれたとみなすことができる。

この他、これら三つの法隆寺関連史料には、「法興元」のような年号や推古天皇の和風諡号や「東宮」「仏師」など、当時使われていないはずの言葉が使われているという点をも考慮に入れると、法隆寺関連史料は、『日本書紀』以降に成立したと推定できる。実際、『日本書紀』は、これらの史料について、何も言及していない。

ゆえに、聖徳太子伝説の最古の史料は、『日本書紀』ということになる。成立時期を詐称しているからといって、書かれていることがすべて間違いというわけではないが、やはり信憑性は大幅に落ちる。そこで、以下、『日本書紀』を主要史料として、これまで聖徳太子の偉業とされてきた1から4までの業績が、本当に聖徳太子のものであるのかどうかを、検討してみよう。

2. 聖徳太子の業績は誰の業績か

2.1. 冠位十二階

まずは、冠位十二階であるが、実は、『日本書紀』にも、聖徳太子がこれを始めたとは書かれていない。「始めて冠位を行ふ」と主語なしの文で書かれている。冠位十二階という制度は、日本を訪れた隋の使者も言及していることから、当時存在したことは間違いない。では、誰が制定したのだろうか。

私は、聖徳太子が制定者だとは思わない。もし聖徳太子が、冠位十二階を制定したとするならば、なぜ、当時の最高権力者、蘇我馬子が官位を授与されなかったのかが説明できない。しかし、もしも蘇我馬子が制定したとするならば、自分で自分に官位を与えることはナンセンスだから、馬子が対象外になったことが説明できる。

馬子が冠位十二階の制定者であったことは、その動機からも説明することができる。厩戸皇子は、父が用明天皇で、母が欽明天皇の娘だったのに対して、馬子は、父が先祖不明の蘇我稲目で、母が当時すでに没落していた葛城氏の娘だった。厩戸皇子の血統が高貴だったのに対して、馬子の方は、かなり格が低かった。だから、馬子は相当な血統コンプレックスの持ち主だったと私は想定している。

コンプレックスとは、日本語で言えば、複合体である。精神分析学では、憧れと反感の複合体をコンプレックスと呼ぶ。馬子は、一方で高貴な血に憧れていたからこそ、娘を皇族に嫁がせ、天皇の外戚になろうとしたのであり、他方で、血統のランクがものを言う社会に反感を持っていたからこそ、冠位十二階の制度により、有能な人材を出自とは無関係に抜擢しようとした。これに対して、高貴な出自の厩戸皇子は、冠位十二階を制定する動機に欠けている。

冠位十二階は、高句麗や百済にあった類似の制度を模倣したもので、日本独自の制度ではない。伝統的権威を持たない蘇我氏が、権力の頂点を極めることができたのは、彼らが渡来人とのかかわりが深く、日本と大陸の先進文化の架け橋として大きな役割を果たしたからである。冠位十二階制度の日本への導入も、仏教の導入とともに蘇我氏らしい功績である。

2.2. 十七条憲法

次に十七条憲法であるが、これに関しては、『日本書紀』は「皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ」と、聖徳太子の作であることを明言している。だが、十七条憲法には、古くから偽作説がある。後の律令制度を先取りしたような規範が含まれていて、氏族制であった推古朝の時代にはふさわしくないからだ。特に、第十二条に登場する、大化改新以降の官制である「国司」が、問題視されている。

しかし、私がそれ以上に問題にしたいのは、聖徳太子、即ち厩戸皇子は、あのような命令を有力豪族に対して発することができるだけの権力を持っていたのかどうかという点である。例えば、第十二条にある「国に二(ふたり)の君なし。民に両(ふたり)の主なし」は、推古天皇に勝るとも劣らない権力者であった蘇我馬子に対する当てこすりと受け取られかねない。実は中大兄王もこれと似たようなセリフを吐いている。中大兄王が大化の改新でやったように、蘇我氏の有力者を武力で排除でもしなければ、このような天皇親政の理念を口にできなかったのではないだろうか。

十七条憲法は、第三条において、天皇家とそれ以外の豪族との間には、絶対的な君臣関係があると主張している。曰く、「詔を承りては必ず慎め。謹しまざれば自らに敗れなむ。」 厩戸皇子は、これから有力豪族の支持を得て、天皇になろうとしているところである。それなのに、天皇になる前から、「自分が大王(天皇)になったら、お前たちに絶対的な服従を求める。命令に従わなければ、身を滅ぼすことになるぞ」と有力豪族たちに脅しをかけることができただろうか。そのようなことを言えば、天皇になれないどころか、命すら狙われかねない。

こう言うと、読者の中には、聖徳太子は皇太子だから、天皇になることは確定していたし、摂政の地位についていたのだから、馬子以上の権力を持っていたのではないかと反論する向きもあるかもしれない。しかし、厩戸皇子は、摂政でもなければ皇太子でもなかった。『日本書紀』では、「よりて録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ」というように、「摂政」という言葉は動詞として使われており、地位を表す名詞としては使われていない。最初に摂政の職に就いたのは、藤原良房で、858年のことであり、それ以前には、摂政などという官職はなかった。また、立太子制度は、689年の飛鳥浄御原令において初めて採用された制度で、「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とす」という『日本書紀』の記述は間違っている。なぜ、『日本書紀』の編者が、立太子制度が神武以来存在したと偽ったかに関しては、後で説明しよう。

厩戸皇子は、当時多数いた次期天皇候補の一人に過ぎなかった。そのような弱い立場にある厩戸皇子が十七条憲法を公表できたとは考えられない。十七条憲法は、『日本書紀』が編集されていた当時、支配的だった律令国家の倫理を、飛鳥時代に投射することにより捏造した偽作とみなすことができる。

2.3. 遣隋使の派遣

続いて、遣隋使の派遣を考察しよう。607年に、日本が小野妹子を隋に派遣し、翌年、隋が裴世清を日本に派遣したことは、『隋書』『日本書紀』双方に記載されているので、史実である。問題は、この隋との外交の主導者が、聖徳太子、即ち厩戸皇子であったかどうかである。実は、『隋書』も『日本書紀』も、聖徳太子ないし厩戸皇子には、まったく何も言及していない。『日本書紀』は、冠位十二階の時と同様に、「大礼小野臣妹子を大唐に遣す」といった主語なしの文で、記述している。

遣隋使派遣における厩戸皇子の役割を論じる前に、もう一つの謎、即ち、当時の日本の天皇は、推古天皇という女帝であったにもかかわらず、隋側は、男王と記録している問題を取り上げよう。『隋書倭国伝』には、第一回遣隋使派遣に関して、次のような記述がある。

開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。上、所司に其の風俗を訪わしむ。使者言う「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便ち理務(つとめ)を停め、云う、我弟に委ねん」と。高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改めしむ。王の妻、彌(きみ)と号す。後宮に女六、七百人有り。太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。[1]

日本の天皇には姓がない。また、当時はまだ立太子制度がなかった。しかし、隋は、中国式のスタンダードに当てはめようとしている。『隋書倭国伝』は、日本の天皇の固有名を「アメ・タリシヒコ」と認知したわけだが、当時の日本人にとって、天皇の実名を口にすることはタブーだったから、日本の使者が口にしたであろう「アメノタラシヒコ」は、絶対に天皇の実名ではない。それは天皇を意味する普通名詞、あるいはせいぜい、見本などによく書かれる「山田太郎」のような、天皇のデフォルトの名前である。だから、この天皇が誰であるかはわからないが、「山田太郎」と同様に、少なくとも男であることはわかる。妻がいるのだから、明らかに男だ。

「和歌彌多弗利」の方は、隋も普通名詞であることを認識している。「わかみたほり」は、後に音韻変化により、「わかんどほり」となる。この言葉の意味は、古語辞典を引けばわかるように、「皇族」である。隋は、たんなる皇子を皇太子と誤解したわけだ [多利思北孤と利歌彌多弗利] 。なお、どうこじつけても、「和歌彌多弗利」は、厩戸皇子や山背大兄王に結びつかない。

この、謎の男の天皇が誰であるかは、後で考えることにして、日本の使者と隋の皇帝・文帝との対話の解釈に入ろう。日本の風俗を問われた日本の使者が「わが国の王は、天を兄とし、日を弟としている。天は、まだ明けない時、出かけて政務を行い、あぐらをかいて座り、日が出ればやめて、弟に政務をゆだねる」と答えたので、皇帝は、「これはまったく理屈に合わない」と言って、教えてこれを改めさせたと書かれている。

日本側がばかげた風俗を紹介したので、皇帝が「ばかなことを言うな」と怒って、愚かな風俗を是正するように教育したのだろうか。そうではない。隋の皇帝は、中華思想の持ち主だから、辺境の野蛮人がばかげた習慣を持っていると聞けば、文化的優越を感じて満足することはあっても、怒ることはないし、ましてやその是正を指導するなどということはない。そもそも、もし、日本の使者が意味不明のことを言ったとしたなら、隋はそれを記録にとどめないはずだ。614年の遣隋使のように、注目に値しないと判断されれば、『隋書』には書かれない。

現代人は、隠喩に鈍感になっているが、ここで、古代のディスクールにおいては、メタファーが重要な役割を果たしていることを思い出さなければならない。中国の皇帝は、自分を天子、即ち「天の子」と認識し、日本の天皇は、自分を太陽神であるアマテラスの子孫と認識している。だから、日本の使者が言う「天」とは中国のことで、「日」とは日本のことと解釈できる。

すると、日本の使者のメッセージは、「わが国の王は、中国と日本の関係を兄と弟の関係と考えている。日の出の勢いの新しい文明国、日本が登場するまでは、中国は東アジアの盟主として、あぐらをかいで安閑としていられた。しかし、今や、中国は、国際政治の主導権を日本にゆだねる時が来た」ということになる。これを聞いた、隋の皇帝は、「ばかなことを言うな」と怒り、かつ軽蔑し、「隋と倭の関係は、兄弟ではなくて君臣の関係だ」と訂正を迫ったのではないだろうか。

『日本書紀』は、この1回目の遣隋使に触れていない。それはなぜだろうか。『日本書紀』は、『旧唐書東夷伝』に書かれている631年の遣唐使にも触れていない。『旧唐書東夷伝』によれば、この時、唐の使者が王子と礼を争ったとある。このような外交的失敗は、記載しないというのが『日本書紀』の編集方針のようだ。

1回目は、失敗に終わったが、「タラシヒコ」と称する謎の男は、隋との対等外交をあきらめなかった。こうして、607年に、2回目の遣隋使が派遣される。隋の二代目皇帝・煬帝は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という、前回にもまして対等な関係を要求する国書を見て、不快感を示すが、日本に使者を派遣することにした。2回目は成功した。『日本書紀』も、隋の使者・裴世清の日本訪問について詳しく述べている。

『日本書紀』によれば、隋の国書は、「大門の前の机の上に」置かれただけである。だから、裴世清は、奥の内裏にいる天皇に直接会っていないと主張する人もいるが、『隋書倭国伝』には、裴世清が倭王(天皇)と会話を交わしたことがはっきり書かれているので、「大門(みかど)」は「大きな門」ではなくて、「天皇」と理解しなければならない。さらに、この時、裴世清が倭王と思って言葉を交わした相手は、『隋書倭国伝』によれば「タラシヒコ」であるから、女性である推古天皇ではない。では、この倭王と称する謎の男は誰なのか。

候補は二人しかいない。蘇我馬子か聖徳太子かのどちらかである。『日本書紀』は、参列者に関しても詳しく述べているが、「皇子・諸王・諸臣」が参列しているのに、「臣」より上の「大臣」(蘇我馬子)も「皇子」より上の「皇太子」(聖徳太子)もいないということになっている。しかし、隋使謁見の儀のような重要なセレモニーに、この二人がともに姿を見せないということは考えられない。

いったい、遣隋使の責任者は、どちらなのか。私は、馬子だと思う。2年後に新羅使が来日した時も、『日本書紀』の記事には、推古天皇と蘇我馬子大臣は登場するが、聖徳太子は登場しない。やはり、外交の主導権を握っていたのは、厩戸皇子ではなくて、馬子だったのだ。『日本書紀』に登場する「大門(みかど)」が馬子であることは、馬子の屋敷が「御門(みかど)」とよばれていたことからも裏付けられる。

ところで、なぜ馬子は、隋に対しては自分が大王だと詐称し、新羅に対しては推古天皇が大王であることを隠さなかったのか。それは、中国では、女性が天子となることが論外だったのに対して、新羅では、善徳や真徳といった女王が擁立されたことからもわかるように、女王に対する抵抗感は少なかったからだ。後に、唐の太宗は、新羅の善徳女王にたいして、女性を王にすると、周辺諸国から軽蔑されると警告している。日本を隋と対等な文明国として認めてもらおうとした馬子は、隋に対しては、女性が天皇であることを隠そうとしたのだ。

超大国・隋と対等な立場で国交を結ぼうとすることは、一見無謀な試みのように見える。しかし、馬子は、598年に隋が高句麗遠征に失敗し、そのため、北東アジアにおける軍事的パートナーを見つけなければならなくなったというタイミングを見計らって、強気の外交に出た。そして、それは成功した。

2.4. 文化的事業

聖徳太子は優れた政治家であるだけでなく、優れた文化人でもあるということになっている。特に、『勝鬘経』、『法華経』、『維摩経』の注釈書である『三経義疏』は、聖徳太子の高度な仏教理解を示すものだと言われてきた。だが、『三経義疏』は、聖徳太子が著したとは言いがたい。『勝鬘経義疏』は、敦煌出土の『勝鬘義疏本義』と7割同文で、日本製ではなくて中国製と考えられている。『法華義疏』は、『東院資財帳』が示唆しているように、8世紀に行信が捏造したものである。『維摩経義疏』に関しては、『日本書紀』に言及がない上、内容的にも、聖徳太子よりも後代の杜正倫『百行章』からの引用があるなど、問題が多い。

聖徳太子は、馬子とともに、国史の編纂を行ったと言われるが、その成果である『天皇記』も『国記』も残存していないので、その真偽を確かめる術はない。ただ、『日本書紀』によると、乙巳の変の時、『天皇記』も『国記』も蘇我蝦夷の邸宅内にあったとされているので、仮に、馬子と厩戸皇子の共同編纂だとしても、主として馬子が編集していたのであろうと推測される。

2.5. 結論

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聖徳太子像と称するものはたくさんあるが、いずれも信憑性が高いとは言い難い。左の絵は、菊池容斎『前賢故実』に描かれている聖徳太子像。中央は、聖徳太子及び二王子像として知られる唐本御影で、かつて日本銀行券にも使われた聖徳太子の肖像だが、別人説が有力。一番右は、飛鳥寺にある聖徳太子立像。[2]

以上の考察から導くことができる結論は、聖徳太子の偉大な功績の一部はフィクションであり、一部は蘇我馬子の功績であるということである。では、『日本書紀』の編者は、なぜ、馬子の業績を馬子の業績と明記しなかったのか。なぜ、厩戸皇子を聖徳太子として聖人化しなければならなかったのか。この問いに答えるためには、誰が何のために『日本書紀』を書いたのかを次に考えなければならない。

3. なぜ聖徳太子は作り上げられたのか

『日本書紀』の編者は、舎人親王であるということになっている。しかし、本当の編集責任者は、藤原不比等だという説が有力である。『日本書紀』では不比等の父である鎌足の功績がことさらに粉飾されていること、最初は「フヒト」に「不比等」ではなくて、史書編集とのつながりを示す「史」という字が当てられていたこと、『日本書紀』が編集されていた頃、不比等が、その名のごとく、他に並ぶものがないほどに権力の絶頂にあったことを考えると、不比等が、『日本書紀』の内容に口をはさまなかったと考えることは非現実的である。

では、藤原不比等は、なぜ『日本書紀』の編集責任者であることを名乗らなかったのだろうか。実は、これは極めて藤原氏らしいやり方なのである。藤原一族というのは、現代の日本の政界で言えば、経世会のような、自らは権力の表舞台に立つことなく、傀儡を背後で操るキングメーカー型の政治家集団である。鎌足も不比等も、生前は最高位の太政大臣になっていない。しかし、それ以上に、不比等には、『日本書紀』の編集責任者であることを表立って名乗ることができない事情がある。

『日本書紀』によれば、馬子の孫・入鹿は、人望を集めていた聖徳太子の子・山背大兄王の一族を殺害した。そのため入鹿は、父蝦夷とともに、乙巳の変において、中大兄皇子と鎌足たちから、正義の報復を受けて、殺された。私たちは、この勧善懲悪のストーリーをそのまま受け入れてよいだろうか。

『日本書紀』をもっと詳しく読もう。そこには、山背大兄王を直接襲撃したのは巨勢徳太だと明記されている。もしも乙巳の変が、聖徳太子の子孫を絶滅させたことに対する正義の報復ならば、入鹿とともに、巨勢徳太も乙巳の変で処罰されてもおかしくないはずだ。ところが、この巨勢徳太は、大化の改新で、処罰されるどころか、左大臣にまで昇進している。これは一体どういうことなのか。

『日本書紀』と同時代の史料『藤氏家伝』によると、入鹿は、「諸皇子」とともに謀って山背大兄王を殺害したとあるが、この諸皇子とは誰のことなのか。一人は、入鹿が、山背大兄王に代えて、天皇にしたいと考えていた古人大兄皇子であろうが、「諸皇子」は複数形であるから、少なくとも、もう一人必要である。巨勢徳太が、軽皇子の側近であることを考えるならば、軽皇子も一味であったはずだ。

『上宮聖徳太子伝補闕記』は、蘇我蝦夷、入鹿、軽皇子、巨勢徳太、大伴馬甘連、中臣塩屋牧夫を主謀者として列挙している。『上宮聖徳太子伝補闕記』は、平安時代前期に書かれた本だが、『日本書紀』や『四天王寺聖徳王伝』に疑問を持った匿名の著者が、古書を調査して書いた本であり、無視できない。このリストを見ると、蘇我氏以外は、大化の改新で権力の座についた人物であることがわかる。即ち、大化の改新によって、軽皇子は孝徳天皇として即位し、大伴馬甘連は、巨勢徳太が左大臣になった時に右大臣となった。

中臣塩屋牧夫は、中臣(藤原)氏であること以外は何もわからないが、この男の正体は何か。大化の改新で、軽皇子が天皇になることができたということは、軽皇子と中大兄皇子の双方と親しくしていた媒介者がいたということである。そのような人物は、中臣(藤原)鎌足以外考えられない。だとするならば、中臣塩屋牧夫は、鎌足ということになる。

鎌足は、『六韜』を愛読したマキャベリストで、蘇我氏内部の争いを利用しながら、蘇我氏を弱体化させ、蘇我氏に代わって権力を手にした。即ち、入鹿を味方にして蘇我系の山背大兄王一族を殺害し、蘇我倉山田石川麻呂を味方にして入鹿と蝦夷を殺害し、蘇我日向に讒言させて、石川麻呂に謀叛の疑いをかけ、自殺に追い込み、後にこの讒言が嘘であるとして日向を筑紫大宰師へと左遷する。この鎌足の謀略により、蘇我氏は完全に没落する[3]

その中でも、クライマックスは蘇我入鹿の暗殺である。石川麻呂は三韓貢進の日だと言って入鹿を内裏に誘き寄せ、石川麻呂が上表文を読み上げている時に、中大兄皇子自らが、入鹿を切りつけた。鎌足も弓矢を携えて、暗殺に参加した。『日本書紀』は、そう書いている。しかし、これは、中大兄皇子と鎌足を英雄と印象付けるための脚色ではないだろうか。

もし本当に、当日、新羅、百済、高句麗の使者が来ていたならば、彼らは目撃したこのショッキングな事件を本国に報告するはずだが、三韓の歴史書はどれもこの事件を記録していない。それならば、三韓の使者が来たというのは、入鹿を誘き寄せるための嘘で、入鹿は、三韓の使者を装った刺客によって殺されたと考えることができる。こう考えれば、従来、不可解とされてきた古人大兄皇子の目撃証言「韓人、鞍作臣(入鹿のこと)を殺しつ」を理解することができる。

『日本書紀』の執筆者は、政治的思惑を持たない官吏である。編集責任者である不比等は、自分に都合の良いように、部分的に修正を加えただけに違いない。部分的な捏造は不整合を生み出す。その不整合を解消するべく、整合的な歴史解釈を再構成する時、不比等がどのような思惑で歴史を歪曲しようとしたかが見えてくる。

不比等が目指したのは、大化の改新の正当化である。中大兄皇子と鎌足の功績を美化するためには、二人によって排除された蘇我氏を悪玉にしなければならない。蘇我氏を悪玉にするには、入鹿によって殺害された山背大兄王の兄弟や子供たちを、したがってその祖である厩戸皇子を聖徳太子として善玉にしなければならない。こうして、おなじみの勧善懲悪のストーリーが生まれた。

しかしながら、この説明は、なぜ『日本書紀』が、聖徳太子という人物を捏造し、それを神のごとく崇めるのかという問いに対する答えとしては、不十分である。聖徳太子信仰の萌芽は、712年に完成した『古事記』に登場する「上宮之厩戸豊聡耳命王」という言葉に見て取れる。それゆえ、712年から『日本書紀』が成立する720年にかけて、不比等がどのような状況に置かれていたかを見なければならない。

鎌足は、得意の権謀術数により、晩年は天智天皇のもとに強大な権力を握る。ただ、鎌足にとって、一つ計算外のことが起きる。壬申の乱である。天武天皇の勝利により、天智側と結びついていた藤原家は一時没落の危機に晒されたのだ。しかし、鎌足の子・不比等は、我が子(草壁皇子)を次の天皇にしたいと願う鵜野讃良皇女(天智天皇の娘で天武天皇の后)に接近し、権力の中枢と結びつくことに成功した。天武天皇の死の翌月、有力な天皇候補だった大津皇子が、冤罪により自殺させられている。明らかに不比等の謀略である。ところが、草壁皇子は、天武天皇の喪が明ける前に、28歳の若さで死亡する。

そこで、鵜野讃良は、草壁皇子の遺児である軽皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、自ら持統天皇として即位する。4年後、藤原京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。不比等は、皇位継承を確実にするために、689年の飛鳥浄御原令において皇太子制度を作り、軽皇子を最初の皇太子にした。『日本書紀』が、立太子制度が神武以来存在したように書いているのは、立太子制度を既成事実化するためである。天武天皇の第一皇子で、持統朝で太政大臣を務めていた、つまり有力な天皇候補だった高市皇子が死亡した(暗殺された?)翌年、持統天皇は皇位を孫の軽皇子に譲った。これが文武天皇である。ところが、文武天皇は、25歳の若さで死んでしまった。

そこで、やむなく文武天皇の母が、文武天皇の遺児である首皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、元明天皇として即位する。3年後、平城京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。この時、不比等は、こう考えたはずだ。自分の孫・首皇子は病弱で、先が不安だ。持統系皇族の外戚となって、権力を掌握しようとする自分の計画は、なぜこうもうまくいかないのか。これは、きっと怨霊のたたりがなせる業に相違ないと。

不比等の父は鎌足で、持統の父は天智天皇(中大兄皇子)である。鎌足と中大兄皇子は、蘇我一族を滅亡させた。だから、「子孫断絶となった蘇我一族の怨霊は、鎌足と中大兄皇子の子孫を断絶させることにより、復讐をしている。白村江の戦いや壬申の乱での敗北も草壁皇子や文武天皇の夭折も、すべて蘇我氏のたたりだ」と不比等は考えたに違いない。

怨霊の災いから逃れるには、遷都のような消極的な方法ではなくて、鎮魂という積極的な方法が必要である。歴史書を執筆し、蘇我氏の功績を絶賛し、彼らの魂を慰めなければならない。だが、そうすれば、蘇我氏を滅ぼした鎌足と中大兄皇子が悪玉になってしまう。そこで、蘇我氏を悪玉と善玉に分割し、善玉の中に、蘇我氏全体を象徴する架空の人物を入れ、その人を神として崇め奉ろう。そうすれば、一方で藤原氏の面子をたてながら、他方で蘇我氏の供養をすることができる。不比等は、こう考えたわけだ。

かくして、聖徳太子伝説が誕生する。聖徳太子伝説が誕生したのは、文武天皇死没の5年後にあたる712年頃である。法隆寺が再建されるのもこの頃である。梅原猛は、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺であると主張したが、この見解に対しては、従来、なぜ山背大兄王や入鹿ではなくて、厩戸皇子が怨霊とされなければならないのかという批判が投げかけられてきた。だが、もしも、聖徳太子を厩戸皇子という特定の個人ではなくて、蘇我一族全体を祭った神と考えるならば、そうした疑問は氷解する。

古くから日本には、子孫断絶となった政治的敗者は、たたりをなすと考える怨霊信仰がある。その際、複数の被害者が、一つの神へと祭り上げられるという現象がしばしば起きる。例えば、『古事記』や『日本書紀』は、大和三輪山のオオモノヌシと出雲のオオクニヌシを同一神としているが、両者は本来、別々の神だったはずだ。それが、邪馬台(やまと)の東征の被征服者という共通項によってくくられ、同一視されてしまった。

藤原氏の怨霊に対する恐怖心は、不比等の四人の子が相次いで死亡するという737年の劇的な出来事を境に、エスカレートしていく。その頃になると、怨霊に対して、恥も外聞もなく自分たちの非を認め、高位高官を追贈するなど、怨霊鎮魂のサービスも過大になる。だが、不比等の時代には、藤原氏はまだ面子にこだわっていたので、聖徳太子伝説が怨霊信仰の産物であることが非常にわかりにくくなっている。

『日本書紀』は、天皇の命を受けて、舎人親王が編集したことになっている。しかし実際には、『日本書紀』は、中立的な立場から編集された歴史書ではなく、藤原氏の政治的思惑によって、歪曲されている。不比等は、それをもカムフラージュするために、自分を『日本書紀』の編集者であることを公言しなかった。

私たちは、藤原氏による歴史の歪曲と怨霊信仰のからくりを理解し、聖徳太子の正体を正しく認識しなければならない。特にこれまで極悪人扱いされてきた蘇我馬子を再評価するべきだ。蘇我馬子は、野蛮だった日本を、国際的に通用する文明国にした有能な政治家だったのだから。

4. 読書案内

聖徳太子非実在論の代表は、『「聖徳太子」の誕生』である。本書は、実証史学の立場から<聖徳太子>が実在しないことを論証して、話題を集めた。著者はもともと長屋王家木簡の専門家で、長屋王のライバルで『日本書紀』の編者である藤原不比等とは異なる視点から歴史を見ているうちに、『日本書紀』が絶賛する<聖徳太子>の実在に疑問を持つようになったとのことである。ただ、本書は、なぜ<聖徳太子>というフィクションが捏造されなければならなかったのかに関して、説得力ある説を提供していない。そこに実証史学の限界を感じる。なお、続編として書かれた『聖徳太子と日本人』は、本書とほとんど内容が同じである。

聖徳太子崇拝が怨霊崇拝であるという説に関しては、『隠された十字架―法隆寺論』が原点である。本書は、後に井沢元彦などにも影響を与えた、怨霊史観のバイブルとでも言うべき名著である。法隆寺の七つの謎を著者とともに解いていく体験は、下手な推理小説を読むよりもずっとスリリングである。最初、どうして、「隠された十字架」などというタイトルが付いているのか、不思議に思ったが、第三部第七章で、著者の真意がわかった。聖徳太子の等身像である救世観音は、十字架に釘付けにされたイエスのように、光背に釘で打ち付けられているのである。イエスと聖徳太子という馬小屋で生まれた二人に共通しているイメージは、理不尽な死ゆえの神聖さだ。無味乾燥なたんなる実証史学に飽きた人には、ぜひ本書を読んでもらいたい。

5. 参照情報

  1. 石原 道博. 新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉』岩波書店; 新訂版 (1985/5/16).
  2. Asuka dera Prince Shotoku" by Chris 73. Licensed under CC-BY-SA
  3. 梅原 猛.『隠された十字架―法隆寺論』第二部第二章. 新潮社; 改版 (1981/4/28).