聖徳太子とは誰のことか
『日本書紀』には、聖徳太子という理想の聖人が登場するが、近年、聖徳太子の実在が疑われ始めている。聖徳太子はフィクションなのか。もしフィクションならば、なぜそのようなフィクションが作られなければならなかったのかを考えてみよう。→[振り仮名付きのページ]
目次
1. なぜ聖徳太子の実在は疑われるのか
聖徳太子は、日本史上最も有名で、最も尊敬されている人物の一人であり、かつては1万円札の顔でもあった。しかし、歴史家の中には、聖徳太子の実在を疑う人が少なくない。その急先鋒が、大山誠一である。
『「聖徳太子」の誕生』の中で、大山誠一は、
- 用明天皇と穴穂部間人王の間に生まれた
- 601年に斑鳩宮を造って、そこに住んだ
- 現在の法隆寺のもととなる寺を建立した
という属性を持つ厩戸皇子(厩戸王)の実在を認めつつ、その厩戸皇子が
- 冠位十二階を定めて、門閥主義を排し、有能な人材を登用した
- 十七条憲法を制定して、天皇中心の国家理念と道徳を提示した
- 小野妹子を隋へ派遣し、隋と対等な国交を開くことに成功した
- 『三経義疏』を述作し、蘇我馬子とともに国史の編纂を行った
という属性を持つ聖徳太子であったことを否定する。要するに、厩戸皇子は実在したが、聖徳太子は実在しなかった。聖徳太子は、ヤマトタケルと同様に、『日本書紀』が捏造した、たんなる神話的存在に過ぎない。なぜなら、聖徳太子の実在を保証する、信頼に足る史料が何もないからだと言うのだ。
聖徳太子に関する伝説は、荒唐無稽なものまで含めて、たくさんある。だが、あらゆる伝説の基となった最古の史料は、法隆寺金堂の薬師像光背銘・釈迦像光背銘・中宮寺天寿国繍帳の銘文などの法隆寺関連史料と『日本書紀』の二つに限られる。通説では、薬師像は607年に、釈迦三尊像は623年に、天寿国繍帳は622年以降の7世紀前半に作られたとされている。もしそれが正しいとするならば、720年に完成した『日本書紀』よりも古い、したがって最も信用できる史料ということになる。果たしてそうだろうか。
今日、法隆寺は、現在の伽藍より古い若草伽藍跡が発掘されたことから、厩戸皇子が建立したままの姿でないと考えられている。もしも、『日本書紀』が伝えるように、厩戸皇子の死後、法隆寺が全焼したとするならば、現在法隆寺内にある釈迦三尊像や薬師如来像なども、推古朝時代のオリジナルではないことになる。もちろん、仏像が複製でも、銘文が当初の内容を正確に伝えているのなら、それによって、聖徳太子の実在を確認することができる。ところが、薬師像光背銘も釈迦像光背銘も天寿国繍帳銘文も、使われている言葉の新しさから、厩戸皇子の時代の文章とは考えにくい。
具体的に言うと、薬師像光背銘と天寿国繍帳銘文には、「天皇」という称号が使われている。天皇という称号を最初に使ったのは、唐の高宗で、674年のことである。これが日本に伝わり、689年の飛鳥浄御原令において正式に採用され、天武天皇に対して最初の天皇号が捧げられた。この時代を遡る、「天皇」の語を記した木簡も出土されていない。万葉集でも、持統帝以前の歌には、天皇という時には、大王という称号が使われている。『隋書倭国伝』が伝えているように、推古朝時代の天皇は、「大王」と呼ばれていたはずだ。釈迦像光背銘には、「法皇」という称号が見られるが、これは、「天皇」と仏典で釈迦を表す「法王」との合成語と考えられるので、釈迦像光背銘も天皇号の成立以降に書かれたとみなすことができる。
この他、これら三つの法隆寺関連史料には、「法興元」のような年号や推古天皇の和風諡号や「東宮」「仏師」など、当時使われていないはずの言葉が使われているという点をも考慮に入れると、法隆寺関連史料は、『日本書紀』以降に成立したと推定できる。実際、『日本書紀』は、これらの史料について、何も言及していない。
ゆえに、聖徳太子伝説の最古の史料は、『日本書紀』ということになる。成立時期を詐称しているからといって、書かれていることがすべて間違いというわけではないが、やはり信憑性は大幅に落ちる。そこで、以下、『日本書紀』を主要史料として、これまで聖徳太子の偉業とされてきた1から4までの業績が、本当に聖徳太子のものであるのかどうかを、検討してみよう。
2. 聖徳太子の業績は誰の業績か
2.1. 冠位十二階
まずは、冠位十二階であるが、実は、『日本書紀』にも、聖徳太子がこれを始めたとは書かれていない。「始めて冠位を行ふ」と主語なしの文で書かれている。冠位十二階という制度は、日本を訪れた隋の使者も言及していることから、当時存在したことは間違いない。では、誰が制定したのだろうか。
私は、聖徳太子が制定者だとは思わない。もし聖徳太子が、冠位十二階を制定したとするならば、なぜ、当時の最高権力者、蘇我馬子が官位を授与されなかったのかが説明できない。しかし、もしも蘇我馬子が制定したとするならば、自分で自分に官位を与えることはナンセンスだから、馬子が対象外になったことが説明できる。
馬子が冠位十二階の制定者であったことは、その動機からも説明することができる。厩戸皇子は、父が用明天皇で、母が欽明天皇の娘だったのに対して、馬子は、父が先祖不明の蘇我稲目で、母が当時すでに没落していた葛城氏の娘だった。厩戸皇子の血統が高貴だったのに対して、馬子の方は、かなり格が低かった。だから、馬子は相当な血統コンプレックスの持ち主だったと私は想定している。
コンプレックスとは、日本語で言えば、複合体である。精神分析学では、憧れと反感の複合体をコンプレックスと呼ぶ。馬子は、一方で高貴な血に憧れていたからこそ、娘を皇族に嫁がせ、天皇の外戚になろうとしたのであり、他方で、血統のランクがものを言う社会に反感を持っていたからこそ、冠位十二階の制度により、有能な人材を出自とは無関係に抜擢しようとした。これに対して、高貴な出自の厩戸皇子は、冠位十二階を制定する動機に欠けている。
冠位十二階は、高句麗や百済にあった類似の制度を模倣したもので、日本独自の制度ではない。伝統的権威を持たない蘇我氏が、権力の頂点を極めることができたのは、彼らが渡来人とのかかわりが深く、日本と大陸の先進文化の架け橋として大きな役割を果たしたからである。冠位十二階制度の日本への導入も、仏教の導入とともに蘇我氏らしい功績である。
2.2. 十七条憲法
次に十七条憲法であるが、これに関しては、『日本書紀』は「皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ」と、聖徳太子の作であることを明言している。だが、十七条憲法には、古くから偽作説がある。後の律令制度を先取りしたような規範が含まれていて、氏族制であった推古朝の時代にはふさわしくないからだ。特に、第十二条に登場する、大化改新以降の官制である「国司」が、問題視されている。
しかし、私がそれ以上に問題にしたいのは、聖徳太子、即ち厩戸皇子は、あのような命令を有力豪族に対して発することができるだけの権力を持っていたのかどうかという点である。例えば、第十二条にある「国に二(ふたり)の君なし。民に両(ふたり)の主なし」は、推古天皇に勝るとも劣らない権力者であった蘇我馬子に対する当てこすりと受け取られかねない。実は中大兄王もこれと似たようなセリフを吐いている。中大兄王が大化の改新でやったように、蘇我氏の有力者を武力で排除でもしなければ、このような天皇親政の理念を口にできなかったのではないだろうか。
十七条憲法は、第三条において、天皇家とそれ以外の豪族との間には、絶対的な君臣関係があると主張している。曰く、「詔を承りては必ず慎め。謹しまざれば自らに敗れなむ。」 厩戸皇子は、これから有力豪族の支持を得て、天皇になろうとしているところである。それなのに、天皇になる前から、「自分が大王(天皇)になったら、お前たちに絶対的な服従を求める。命令に従わなければ、身を滅ぼすことになるぞ」と有力豪族たちに脅しをかけることができただろうか。そのようなことを言えば、天皇になれないどころか、命すら狙われかねない。
こう言うと、読者の中には、聖徳太子は皇太子だから、天皇になることは確定していたし、摂政の地位についていたのだから、馬子以上の権力を持っていたのではないかと反論する向きもあるかもしれない。しかし、厩戸皇子は、摂政でもなければ皇太子でもなかった。『日本書紀』では、「よりて録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ」というように、「摂政」という言葉は動詞として使われており、地位を表す名詞としては使われていない。最初に摂政の職に就いたのは、藤原良房で、858年のことであり、それ以前には、摂政などという官職はなかった。また、立太子制度は、689年の飛鳥浄御原令において初めて採用された制度で、「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とす」という『日本書紀』の記述は間違っている。なぜ、『日本書紀』の編者が、立太子制度が神武以来存在したと偽ったかに関しては、後で説明しよう。
厩戸皇子は、当時多数いた次期天皇候補の一人に過ぎなかった。そのような弱い立場にある厩戸皇子が十七条憲法を公表できたとは考えられない。十七条憲法は、『日本書紀』が編集されていた当時、支配的だった律令国家の倫理を、飛鳥時代に投射することにより捏造した偽作とみなすことができる。
2.3. 遣隋使の派遣
続いて、遣隋使の派遣を考察しよう。607年に、日本が小野妹子を隋に派遣し、翌年、隋が裴世清を日本に派遣したことは、『隋書』『日本書紀』双方に記載されているので、史実である。問題は、この隋との外交の主導者が、聖徳太子、即ち厩戸皇子であったかどうかである。実は、『隋書』も『日本書紀』も、聖徳太子ないし厩戸皇子には、まったく何も言及していない。『日本書紀』は、冠位十二階の時と同様に、「大礼小野臣妹子を大唐に遣す」といった主語なしの文で、記述している。
遣隋使派遣における厩戸皇子の役割を論じる前に、もう一つの謎、即ち、当時の日本の天皇は、推古天皇という女帝であったにもかかわらず、隋側は、男王と記録している問題を取り上げよう。『隋書倭国伝』には、第一回遣隋使派遣に関して、次のような記述がある。
開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。上、所司に其の風俗を訪わしむ。使者言う「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便ち理務(つとめ)を停め、云う、我弟に委ねん」と。高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改めしむ。王の妻、彌(きみ)と号す。後宮に女六、七百人有り。太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。[1]
日本の天皇には姓がない。また、当時はまだ立太子制度がなかった。しかし、隋は、中国式のスタンダードに当てはめようとしている。『隋書倭国伝』は、日本の天皇の固有名を「アメ・タリシヒコ」と認知したわけだが、当時の日本人にとって、天皇の実名を口にすることはタブーだったから、日本の使者が口にしたであろう「アメノタラシヒコ」は、絶対に天皇の実名ではない。それは天皇を意味する普通名詞、あるいはせいぜい、見本などによく書かれる「山田太郎」のような、天皇のデフォルトの名前である。だから、この天皇が誰であるかはわからないが、「山田太郎」と同様に、少なくとも男であることはわかる。妻がいるのだから、明らかに男だ。
「和歌彌多弗利」の方は、隋も普通名詞であることを認識している。「わかみたほり」は、後に音韻変化により、「わかんどほり」となる。この言葉の意味は、古語辞典を引けばわかるように、「皇族」である。隋は、たんなる皇子を皇太子と誤解したわけだ [多利思北孤と利歌彌多弗利] 。なお、どうこじつけても、「和歌彌多弗利」は、厩戸皇子や山背大兄王に結びつかない。
この、謎の男の天皇が誰であるかは、後で考えることにして、日本の使者と隋の皇帝・文帝との対話の解釈に入ろう。日本の風俗を問われた日本の使者が「わが国の王は、天を兄とし、日を弟としている。天は、まだ明けない時、出かけて政務を行い、あぐらをかいて座り、日が出ればやめて、弟に政務をゆだねる」と答えたので、皇帝は、「これはまったく理屈に合わない」と言って、教えてこれを改めさせたと書かれている。
日本側がばかげた風俗を紹介したので、皇帝が「ばかなことを言うな」と怒って、愚かな風俗を是正するように教育したのだろうか。そうではない。隋の皇帝は、中華思想の持ち主だから、辺境の野蛮人がばかげた習慣を持っていると聞けば、文化的優越を感じて満足することはあっても、怒ることはないし、ましてやその是正を指導するなどということはない。そもそも、もし、日本の使者が意味不明のことを言ったとしたなら、隋はそれを記録にとどめないはずだ。614年の遣隋使のように、注目に値しないと判断されれば、『隋書』には書かれない。
現代人は、隠喩に鈍感になっているが、ここで、古代のディスクールにおいては、メタファーが重要な役割を果たしていることを思い出さなければならない。中国の皇帝は、自分を天子、即ち「天の子」と認識し、日本の天皇は、自分を太陽神であるアマテラスの子孫と認識している。だから、日本の使者が言う「天」とは中国のことで、「日」とは日本のことと解釈できる。
すると、日本の使者のメッセージは、「わが国の王は、中国と日本の関係を兄と弟の関係と考えている。日の出の勢いの新しい文明国、日本が登場するまでは、中国は東アジアの盟主として、あぐらをかいで安閑としていられた。しかし、今や、中国は、国際政治の主導権を日本にゆだねる時が来た」ということになる。これを聞いた、隋の皇帝は、「ばかなことを言うな」と怒り、かつ軽蔑し、「隋と倭の関係は、兄弟ではなくて君臣の関係だ」と訂正を迫ったのではないだろうか。
『日本書紀』は、この1回目の遣隋使に触れていない。それはなぜだろうか。『日本書紀』は、『旧唐書東夷伝』に書かれている631年の遣唐使にも触れていない。『旧唐書東夷伝』によれば、この時、唐の使者が王子と礼を争ったとある。このような外交的失敗は、記載しないというのが『日本書紀』の編集方針のようだ。
1回目は、失敗に終わったが、「タラシヒコ」と称する謎の男は、隋との対等外交をあきらめなかった。こうして、607年に、2回目の遣隋使が派遣される。隋の二代目皇帝・煬帝は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という、前回にもまして対等な関係を要求する国書を見て、不快感を示すが、日本に使者を派遣することにした。2回目は成功した。『日本書紀』も、隋の使者・裴世清の日本訪問について詳しく述べている。
『日本書紀』によれば、隋の国書は、「大門の前の机の上に」置かれただけである。だから、裴世清は、奥の内裏にいる天皇に直接会っていないと主張する人もいるが、『隋書倭国伝』には、裴世清が倭王(天皇)と会話を交わしたことがはっきり書かれているので、「大門(みかど)」は「大きな門」ではなくて、「天皇」と理解しなければならない。さらに、この時、裴世清が倭王と思って言葉を交わした相手は、『隋書倭国伝』によれば「タラシヒコ」であるから、女性である推古天皇ではない。では、この倭王と称する謎の男は誰なのか。
候補は二人しかいない。蘇我馬子か聖徳太子かのどちらかである。『日本書紀』は、参列者に関しても詳しく述べているが、「皇子・諸王・諸臣」が参列しているのに、「臣」より上の「大臣」(蘇我馬子)も「皇子」より上の「皇太子」(聖徳太子)もいないということになっている。しかし、隋使謁見の儀のような重要なセレモニーに、この二人がともに姿を見せないということは考えられない。
いったい、遣隋使の責任者は、どちらなのか。私は、馬子だと思う。2年後に新羅使が来日した時も、『日本書紀』の記事には、推古天皇と蘇我馬子大臣は登場するが、聖徳太子は登場しない。やはり、外交の主導権を握っていたのは、厩戸皇子ではなくて、馬子だったのだ。『日本書紀』に登場する「大門(みかど)」が馬子であることは、馬子の屋敷が「御門(みかど)」とよばれていたことからも裏付けられる。
ところで、なぜ馬子は、隋に対しては自分が大王だと詐称し、新羅に対しては推古天皇が大王であることを隠さなかったのか。それは、中国では、女性が天子となることが論外だったのに対して、新羅では、善徳や真徳といった女王が擁立されたことからもわかるように、女王に対する抵抗感は少なかったからだ。後に、唐の太宗は、新羅の善徳女王にたいして、女性を王にすると、周辺諸国から軽蔑されると警告している。日本を隋と対等な文明国として認めてもらおうとした馬子は、隋に対しては、女性が天皇であることを隠そうとしたのだ。
超大国・隋と対等な立場で国交を結ぼうとすることは、一見無謀な試みのように見える。しかし、馬子は、598年に隋が高句麗遠征に失敗し、そのため、北東アジアにおける軍事的パートナーを見つけなければならなくなったというタイミングを見計らって、強気の外交に出た。そして、それは成功した。
2.4. 文化的事業
聖徳太子は優れた政治家であるだけでなく、優れた文化人でもあるということになっている。特に、『勝鬘経』、『法華経』、『維摩経』の注釈書である『三経義疏』は、聖徳太子の高度な仏教理解を示すものだと言われてきた。だが、『三経義疏』は、聖徳太子が著したとは言いがたい。『勝鬘経義疏』は、敦煌出土の『勝鬘義疏本義』と7割同文で、日本製ではなくて中国製と考えられている。『法華義疏』は、『東院資財帳』が示唆しているように、8世紀に行信が捏造したものである。『維摩経義疏』に関しては、『日本書紀』に言及がない上、内容的にも、聖徳太子よりも後代の杜正倫『百行章』からの引用があるなど、問題が多い。
聖徳太子は、馬子とともに、国史の編纂を行ったと言われるが、その成果である『天皇記』も『国記』も残存していないので、その真偽を確かめる術はない。ただ、『日本書紀』によると、乙巳の変の時、『天皇記』も『国記』も蘇我蝦夷の邸宅内にあったとされているので、仮に、馬子と厩戸皇子の共同編纂だとしても、主として馬子が編集していたのであろうと推測される。
2.5. 結論
以上の考察から導くことができる結論は、聖徳太子の偉大な功績の一部はフィクションであり、一部は蘇我馬子の功績であるということである。では、『日本書紀』の編者は、なぜ、馬子の業績を馬子の業績と明記しなかったのか。なぜ、厩戸皇子を聖徳太子として聖人化しなければならなかったのか。この問いに答えるためには、誰が何のために『日本書紀』を書いたのかを次に考えなければならない。
3. なぜ聖徳太子は作り上げられたのか
『日本書紀』の編者は、舎人親王であるということになっている。しかし、本当の編集責任者は、藤原不比等だという説が有力である。『日本書紀』では不比等の父である鎌足の功績がことさらに粉飾されていること、最初は「フヒト」に「不比等」ではなくて、史書編集とのつながりを示す「史」という字が当てられていたこと、『日本書紀』が編集されていた頃、不比等が、その名のごとく、他に並ぶものがないほどに権力の絶頂にあったことを考えると、不比等が、『日本書紀』の内容に口をはさまなかったと考えることは非現実的である。
では、藤原不比等は、なぜ『日本書紀』の編集責任者であることを名乗らなかったのだろうか。実は、これは極めて藤原氏らしいやり方なのである。藤原一族というのは、現代の日本の政界で言えば、経世会のような、自らは権力の表舞台に立つことなく、傀儡を背後で操るキングメーカー型の政治家集団である。鎌足も不比等も、生前は最高位の太政大臣になっていない。しかし、それ以上に、不比等には、『日本書紀』の編集責任者であることを表立って名乗ることができない事情がある。
『日本書紀』によれば、馬子の孫・入鹿は、人望を集めていた聖徳太子の子・山背大兄王の一族を殺害した。そのため入鹿は、父蝦夷とともに、乙巳の変において、中大兄皇子と鎌足たちから、正義の報復を受けて、殺された。私たちは、この勧善懲悪のストーリーをそのまま受け入れてよいだろうか。
『日本書紀』をもっと詳しく読もう。そこには、山背大兄王を直接襲撃したのは巨勢徳太だと明記されている。もしも乙巳の変が、聖徳太子の子孫を絶滅させたことに対する正義の報復ならば、入鹿とともに、巨勢徳太も乙巳の変で処罰されてもおかしくないはずだ。ところが、この巨勢徳太は、大化の改新で、処罰されるどころか、左大臣にまで昇進している。これは一体どういうことなのか。
『日本書紀』と同時代の史料『藤氏家伝』によると、入鹿は、「諸皇子」とともに謀って山背大兄王を殺害したとあるが、この諸皇子とは誰のことなのか。一人は、入鹿が、山背大兄王に代えて、天皇にしたいと考えていた古人大兄皇子であろうが、「諸皇子」は複数形であるから、少なくとも、もう一人必要である。巨勢徳太が、軽皇子の側近であることを考えるならば、軽皇子も一味であったはずだ。
『上宮聖徳太子伝補闕記』は、蘇我蝦夷、入鹿、軽皇子、巨勢徳太、大伴馬甘連、中臣塩屋牧夫を主謀者として列挙している。『上宮聖徳太子伝補闕記』は、平安時代前期に書かれた本だが、『日本書紀』や『四天王寺聖徳王伝』に疑問を持った匿名の著者が、古書を調査して書いた本であり、無視できない。このリストを見ると、蘇我氏以外は、大化の改新で権力の座についた人物であることがわかる。即ち、大化の改新によって、軽皇子は孝徳天皇として即位し、大伴馬甘連は、巨勢徳太が左大臣になった時に右大臣となった。
中臣塩屋牧夫は、中臣(藤原)氏であること以外は何もわからないが、この男の正体は何か。大化の改新で、軽皇子が天皇になることができたということは、軽皇子と中大兄皇子の双方と親しくしていた媒介者がいたということである。そのような人物は、中臣(藤原)鎌足以外考えられない。だとするならば、中臣塩屋牧夫は、鎌足ということになる。
鎌足は、『六韜』を愛読したマキャベリストで、蘇我氏内部の争いを利用しながら、蘇我氏を弱体化させ、蘇我氏に代わって権力を手にした。即ち、入鹿を味方にして蘇我系の山背大兄王一族を殺害し、蘇我倉山田石川麻呂を味方にして入鹿と蝦夷を殺害し、蘇我日向に讒言させて、石川麻呂に謀叛の疑いをかけ、自殺に追い込み、後にこの讒言が嘘であるとして日向を筑紫大宰師へと左遷する。この鎌足の謀略により、蘇我氏は完全に没落する[3]。
その中でも、クライマックスは蘇我入鹿の暗殺である。石川麻呂は三韓貢進の日だと言って入鹿を内裏に誘き寄せ、石川麻呂が上表文を読み上げている時に、中大兄皇子自らが、入鹿を切りつけた。鎌足も弓矢を携えて、暗殺に参加した。『日本書紀』は、そう書いている。しかし、これは、中大兄皇子と鎌足を英雄と印象付けるための脚色ではないだろうか。
もし本当に、当日、新羅、百済、高句麗の使者が来ていたならば、彼らは目撃したこのショッキングな事件を本国に報告するはずだが、三韓の歴史書はどれもこの事件を記録していない。それならば、三韓の使者が来たというのは、入鹿を誘き寄せるための嘘で、入鹿は、三韓の使者を装った刺客によって殺されたと考えることができる。こう考えれば、従来、不可解とされてきた古人大兄皇子の目撃証言「韓人、鞍作臣(入鹿のこと)を殺しつ」を理解することができる。
『日本書紀』の執筆者は、政治的思惑を持たない官吏である。編集責任者である不比等は、自分に都合の良いように、部分的に修正を加えただけに違いない。部分的な捏造は不整合を生み出す。その不整合を解消するべく、整合的な歴史解釈を再構成する時、不比等がどのような思惑で歴史を歪曲しようとしたかが見えてくる。
不比等が目指したのは、大化の改新の正当化である。中大兄皇子と鎌足の功績を美化するためには、二人によって排除された蘇我氏を悪玉にしなければならない。蘇我氏を悪玉にするには、入鹿によって殺害された山背大兄王の兄弟や子供たちを、したがってその祖である厩戸皇子を聖徳太子として善玉にしなければならない。こうして、おなじみの勧善懲悪のストーリーが生まれた。
しかしながら、この説明は、なぜ『日本書紀』が、聖徳太子という人物を捏造し、それを神のごとく崇めるのかという問いに対する答えとしては、不十分である。聖徳太子信仰の萌芽は、712年に完成した『古事記』に登場する「上宮之厩戸豊聡耳命王」という言葉に見て取れる。それゆえ、712年から『日本書紀』が成立する720年にかけて、不比等がどのような状況に置かれていたかを見なければならない。
鎌足は、得意の権謀術数により、晩年は天智天皇のもとに強大な権力を握る。ただ、鎌足にとって、一つ計算外のことが起きる。壬申の乱である。天武天皇の勝利により、天智側と結びついていた藤原家は一時没落の危機に晒されたのだ。しかし、鎌足の子・不比等は、我が子(草壁皇子)を次の天皇にしたいと願う鵜野讃良皇女(天智天皇の娘で天武天皇の后)に接近し、権力の中枢と結びつくことに成功した。天武天皇の死の翌月、有力な天皇候補だった大津皇子が、冤罪により自殺させられている。明らかに不比等の謀略である。ところが、草壁皇子は、天武天皇の喪が明ける前に、28歳の若さで死亡する。
そこで、鵜野讃良は、草壁皇子の遺児である軽皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、自ら持統天皇として即位する。4年後、藤原京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。不比等は、皇位継承を確実にするために、689年の飛鳥浄御原令において皇太子制度を作り、軽皇子を最初の皇太子にした。『日本書紀』が、立太子制度が神武以来存在したように書いているのは、立太子制度を既成事実化するためである。天武天皇の第一皇子で、持統朝で太政大臣を務めていた、つまり有力な天皇候補だった高市皇子が死亡した(暗殺された?)翌年、持統天皇は皇位を孫の軽皇子に譲った。これが文武天皇である。ところが、文武天皇は、25歳の若さで死んでしまった。
そこで、やむなく文武天皇の母が、文武天皇の遺児である首皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、元明天皇として即位する。3年後、平城京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。この時、不比等は、こう考えたはずだ。自分の孫・首皇子は病弱で、先が不安だ。持統系皇族の外戚となって、権力を掌握しようとする自分の計画は、なぜこうもうまくいかないのか。これは、きっと怨霊のたたりがなせる業に相違ないと。
不比等の父は鎌足で、持統の父は天智天皇(中大兄皇子)である。鎌足と中大兄皇子は、蘇我一族を滅亡させた。だから、「子孫断絶となった蘇我一族の怨霊は、鎌足と中大兄皇子の子孫を断絶させることにより、復讐をしている。白村江の戦いや壬申の乱での敗北も草壁皇子や文武天皇の夭折も、すべて蘇我氏のたたりだ」と不比等は考えたに違いない。
怨霊の災いから逃れるには、遷都のような消極的な方法ではなくて、鎮魂という積極的な方法が必要である。歴史書を執筆し、蘇我氏の功績を絶賛し、彼らの魂を慰めなければならない。だが、そうすれば、蘇我氏を滅ぼした鎌足と中大兄皇子が悪玉になってしまう。そこで、蘇我氏を悪玉と善玉に分割し、善玉の中に、蘇我氏全体を象徴する架空の人物を入れ、その人を神として崇め奉ろう。そうすれば、一方で藤原氏の面子をたてながら、他方で蘇我氏の供養をすることができる。不比等は、こう考えたわけだ。
かくして、聖徳太子伝説が誕生する。聖徳太子伝説が誕生したのは、文武天皇死没の5年後にあたる712年頃である。法隆寺が再建されるのもこの頃である。梅原猛は、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺であると主張したが、この見解に対しては、従来、なぜ山背大兄王や入鹿ではなくて、厩戸皇子が怨霊とされなければならないのかという批判が投げかけられてきた。だが、もしも、聖徳太子を厩戸皇子という特定の個人ではなくて、蘇我一族全体を祭った神と考えるならば、そうした疑問は氷解する。
古くから日本には、子孫断絶となった政治的敗者は、たたりをなすと考える怨霊信仰がある。その際、複数の被害者が、一つの神へと祭り上げられるという現象がしばしば起きる。例えば、『古事記』や『日本書紀』は、大和三輪山のオオモノヌシと出雲のオオクニヌシを同一神としているが、両者は本来、別々の神だったはずだ。それが、邪馬台(やまと)の東征の被征服者という共通項によってくくられ、同一視されてしまった。
藤原氏の怨霊に対する恐怖心は、不比等の四人の子が相次いで死亡するという737年の劇的な出来事を境に、エスカレートしていく。その頃になると、怨霊に対して、恥も外聞もなく自分たちの非を認め、高位高官を追贈するなど、怨霊鎮魂のサービスも過大になる。だが、不比等の時代には、藤原氏はまだ面子にこだわっていたので、聖徳太子伝説が怨霊信仰の産物であることが非常にわかりにくくなっている。
『日本書紀』は、天皇の命を受けて、舎人親王が編集したことになっている。しかし実際には、『日本書紀』は、中立的な立場から編集された歴史書ではなく、藤原氏の政治的思惑によって、歪曲されている。不比等は、それをもカムフラージュするために、自分を『日本書紀』の編集者であることを公言しなかった。
私たちは、藤原氏による歴史の歪曲と怨霊信仰のからくりを理解し、聖徳太子の正体を正しく認識しなければならない。特にこれまで極悪人扱いされてきた蘇我馬子を再評価するべきだ。蘇我馬子は、野蛮だった日本を、国際的に通用する文明国にした有能な政治家だったのだから。
4. 読書案内
聖徳太子非実在論の代表は、『「聖徳太子」の誕生』である。本書は、実証史学の立場から<聖徳太子>が実在しないことを論証して、話題を集めた。著者はもともと長屋王家木簡の専門家で、長屋王のライバルで『日本書紀』の編者である藤原不比等とは異なる視点から歴史を見ているうちに、『日本書紀』が絶賛する<聖徳太子>の実在に疑問を持つようになったとのことである。ただ、本書は、なぜ<聖徳太子>というフィクションが捏造されなければならなかったのかに関して、説得力ある説を提供していない。そこに実証史学の限界を感じる。なお、続編として書かれた『聖徳太子と日本人』は、本書とほとんど内容が同じである。
聖徳太子崇拝が怨霊崇拝であるという説に関しては、『隠された十字架―法隆寺論』が原点である。本書は、後に井沢元彦などにも影響を与えた、怨霊史観のバイブルとでも言うべき名著である。法隆寺の七つの謎を著者とともに解いていく体験は、下手な推理小説を読むよりもずっとスリリングである。最初、どうして、「隠された十字架」などというタイトルが付いているのか、不思議に思ったが、第三部第七章で、著者の真意がわかった。聖徳太子の等身像である救世観音は、十字架に釘付けにされたイエスのように、光背に釘で打ち付けられているのである。イエスと聖徳太子という馬小屋で生まれた二人に共通しているイメージは、理不尽な死ゆえの神聖さだ。無味乾燥なたんなる実証史学に飽きた人には、ぜひ本書を読んでもらいたい。
5. 参照情報
- ↑石原 道博. 新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉』岩波書店; 新訂版 (1985/5/16).
- ↑“Asuka dera Prince Shotoku" by Chris 73. Licensed under CC-BY-SA
- ↑梅原 猛.『隠された十字架―法隆寺論』第二部第二章. 新潮社; 改版 (1981/4/28).
ディスカッション
コメント一覧
初めて投稿させていただきます。
私も先日の毎日新聞の記事でこの問題について知りました。そして、関心に任せて色々調べていくうちに永井さんのサイトにも辿り着いたわけですが、厩戸皇子が「摂政」という役職には就いていなかったということは驚きです。
ただ、「日本書紀」が不比等の指令で編纂されていたというのは勿論想像もつく事でそのあたりはNHKラジオドラマ「古事記」においても不比等が直接の指令を出していたというシーンにも表されています。勅令といいつつも実質的には不比等が行った史書”改正”の事は、当然正当化の意図があるものと推察できます。ただし、不比等といえば藤原氏。藤原氏は鎌足が馬子・蝦夷の時代に何をしたかといえば、蝦夷・入鹿を誅滅した張本人。藤原氏にとって敵にあたる蘇我氏の功績として記録を残させたとなると、あれれという感じではないかなとも思います。勿論、そういう視点だけでは狭いのかも知れず、単に不比等が時の権力情勢において自己の都合の良いように編纂させたという側面があることも看過出来ないとは思いますが・・・。
ともかくもまだまだ謎の多い話ですね。歴史の研究をしていると、次第に本当は何が正しいのか正しくないのかがわからなくなってしまいます。あれこれの思想があるかとは思いますが、偏りの無い形の歴史教養を子どもたちに伝えていく必要があると思います。永井さんがどういったお立場の方か存じ上げませんが、これからも御研究の方、頑張って欲しいと思っています。
怨霊を慰撫するために、かつての敵を書物において賞賛するというのは、その後においてもよく見られることです。
聖徳太子が隋の煬帝に送った国書『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや・・・云々』の事は有名ですが、その事が載った書物を、何時頃日本の(学者・僧侶・朝廷・役人)何方が知り得、調査し、皆が知ったのでしょうか。
その点の事を記したURLが見つかりません、何時頃、誰が発表したのでしょうか、よろしくお願い致します。
本文と関係のない一般的な質問は、OKWaveなどでしてください。
当時の日本は、日本語なのか、韓国語なのか、中国語なのか。聖徳太子の先生は、韓国の僧侶とされているが、日本語ではない。百済の皇子も日本にいたので、そのことも聞きたいです。
当時の百済は、支配者はツングース系で、住民は倭人系であったと考えられています。百済の言語は、高句麗の言語と同様に、夫余系諸語に属し、当時の日本語との親和性は高かったようです。このため、大和朝廷の支配者は、百済の支配者と通訳なしで話ができましたが、新羅の支配者とは通訳がなければ話ができませんでした。ですから、百済の言語と後に韓国語(朝鮮語)となる新羅の言語は区別して考える必要があります。朝鮮人が朝鮮半島の大部分を支配するようになったのは、新羅が朝鮮半島を統一した後からであって、それ以前の朝鮮半島に、現在の常識を当てはめることはできません。
関裕二氏と井沢元彦氏の著作物から私なりにも推理させてください。まだ論理的に説明できないので、通説からのあくまでも推理です。どう解釈していただいても構いません。『日本書紀』が藤原不比等の影響で部分的に捏造されていることは最近の研究で明らかになってきましたので。
1.蘇我氏は新羅系の帰化人(あえて渡来といわない)の可能性が高く、当然ながら中国(北魏?)の文化的影響を受けている。仏像や建築様式に反映。慶州国立博物館の仏像や半跏思惟像は奈良や京都広隆寺を髣髴させる。
2.蘇我入鹿は実在しなかったのではないか?これを同じく実在していない山背大兄王の殺害者として捏造し、蘇我氏を悪人に位置づけた。もし入鹿が実在するとしたら厩戸皇子の息子なので山背大兄王その人。
3.蘇我入鹿の父蝦夷こそが厩戸皇子ではないか。馬子の息子になるので律令制導入や国政改革、そして仏教(十七条憲法は仏教を装って儒教色が強い 津田左右吉氏の後世捏造説を支持)普及の旗振り役として適任。厩戸皇子の生誕は574年、622年に没している。聖徳太子と接点のある秦河勝も帰化系で6世紀から7世紀ごろの生没年不詳の謎の人物。新羅の使者を向かえる役割を果たしている。
4.その兄善徳(蝦夷兄 飛鳥寺初代寺司)が仏教布教に関連する人物。善徳は生没年不詳で兄と限定できない蘇我氏一族にとってのキーマン。大阪で捨てられた仏像を拾って長野へ向かった本多善光かとも思ったが、この点は飛躍しすぎ。
5.厩戸皇子の没年に不思議な順序が見られる。妻の膳大郎女の死の翌日になくなっている不自然な死。後追い自殺?感染症??暗殺???もし厩戸皇子=蝦夷であれば645年まで生きたことになり、父馬子を石舞台古墳に祀ることもできる。
6.厩戸皇子が574年に誕生したのは馬小屋の前であったという暗示。また、キリスト教ネストリウス派の影響を受けたともいえるので父の馬子の名前もこの伝説から作られた?また、釈迦誕生の伝説の影響も受けていると思われる。
7.結論としては梅原氏同様、法隆寺は蘇我氏の怨霊信仰を具体化した建造物であり、日本書紀を捏造した不比等以降の藤原氏が参拝する理由もこの点で説明できる。
梅原氏と異なるのは関氏の蘇我氏を新羅王朝の末裔とする位置づけと井沢氏の鎌足=百済王子豊璋説をあわせて百済VS新羅の構図を描いたこと。親父が馬子ならば推古女帝を支える人物としてこれ以上の立場はない。法隆寺に百済観音などがあるのは新羅観音と名乗れば法隆寺の役割(蘇我氏の鎮魂)がわかってしまうため、藤原氏が管理したためだと思われる。
個人的には中国(隋から唐への混乱期の亡命者)も含みたいのですが、これらの亡命者を含んでしまうと更に糸が絡んでいくので、単純化して現段階ではここまで。現実はドラマ以上にドロドロしているんでしょうね。
蘇我氏は、大陸や半島の人々と交流があり、臣下には帰化人が多かったようですが、蘇我氏自体の出自は日本ではないかと考えています。外国の文化の影響を受けているから外国人とは言えません。また、蘇我入鹿、山背大兄王、厩戸皇子は実在の人物です。その人物に関してフィクションが作られているからといって、その人物自体までがフィクションであるわけではありません。
永井俊哉さん、ご指摘ありがとうございます。
弥生人が朝鮮半島や中国大陸から渡ってきて“原日本人”となっていることを指摘するのを忘れました。
日本の歴史バイブル(受験バイブル?)ともいえる山川出版社の古墳時代及び飛鳥時代の記述が最近変更されています。『改訂版新日本史』(著者 大津透・・・東京大学准教授 久留島典子・・・東京大学教授 藤田寛・・・東京大学教授 伊藤之雄・・・京都大学教授)の記述を転載します。ここ数年の高校日本史の教科書の記述は大幅に変更していますので、新年度版もご覧いただければと思います。平成21年版は任那がなくなり、“皇太子で摂政の聖徳太子”は後世の創作と記述されています。とりあえず平成20年度版(p.20)からの抜粋。
<農耕社会の形成>
(途中から)弥生時代は、水稲耕作を基礎とし、鉄や青銅などの金属器、大陸系の磨製石器や機織り技術を伴う文化である。木器をつくるための磨製石斧や稲穂をつむための石包丁は、朝鮮半島南部の磨製石器ときわめて似ており、九州西北部に縄文晩期から弥生前期にみられる支石墓も朝鮮半島の墓制であり、朝鮮半島南部から稲や金属器をたずさえて多くの人々が渡来したと考えられる。
そのころ大陸では中国で農耕文明が成立し、紀元6世紀ころには鉄器も実用化され、やがて春秋戦国時代から前5世紀には戦国動乱の時代となり、秦による統一へとむかっていく。こうした大陸での動乱が多くの流民を生み、朝鮮半島を経て日本にも至ったのである。(中略 このあたりp21)
このことから、弥生文化は新技術を持って朝鮮半島から渡来した人びとが、在来の縄文人とともに生み出したものと考えられる。両者の同化や混血が進み、現在の日本人の原型が形づくられたのであろう。
ここまでは史実ですが、秦の始皇帝が不老不死の薬を探せと命じた「徐福」なる人物。東方の彼方へ良家の出3000人の少年少女、数々の金銀珠玉、さらに五穀と機材を積んで前219年数十艘の船団で東方の海へと旅立つ。このストーリーはともかく佐賀県立博物館美術館に『徐福採薬図』なる翁の姿がいるのはやはりこれも捏造なのか?
厩戸皇子から800年もさかのぼってすいません。
なるほど、学校の教科書もようやく、“皇太子で摂政の聖徳太子”は後世の創作と認めるようになりましたか。蘇我氏の出自が日本といっても、それは、先祖をそこまで遡っての話ではありません。
蘇我氏と厩戸皇子の関係はあくまでも推論なので、「聖徳太子=蘇我蝦夷」説を身近な方に話したところ、面白い反応がありました。
「聖徳太子は8人(10人説もある)の話を一度に聞き理解できた」という有名なエピソードは人々の話の中で歪曲もしくは暗喩として別の形で伝えられえ、「聖徳太子は1人ではなく8人(10人)いた」だったのでは、とのこと。なるほど、聖徳太子が8人(10人)いれば一度に人々の話を聞くことができると納得。
この方の説を採用させていただき、「飛鳥の聖徳太子=蘇我蝦夷(自邸を上宮門と呼ぶ 息子は山背大兄王ともいう)」「大阪の聖徳太子=崇峻天皇(四天王寺建立推進・創建直前に暗殺される)」「京都の聖徳太子=秦河勝(弥勒菩薩を朝鮮より賜る)」「暦法の聖徳太子=観勒(天文・地理なども伝える)」「学問の聖徳太子=南淵請安(唐の情勢をよく知る中大兄皇子と中臣鎌足の家庭教師 十七条憲法のGHQ役はこの人物か?)」「三経義ショの聖徳太子=恵慈(高句麗の僧 なぜか帰国後聖徳太子と同じ日に死にたいといって1年後殉死)」「仏像の聖徳太子=鞍作鳥(司馬達等の孫)」「本当の聖徳太子=中臣鎌足(儒教でいう“孝”から考えて、お父様万歳!)」あと2人どうしよう・・・
絶対学説にはならない支離滅裂な推論ですが、根底にあるのは藤原不比等という古代のアル=カポネ。この中国かぶれの男、事実など書くわけがない。『日本書記』の編集責任者(当然クレジットなし)であり、父とともに「六韜」を暗記したこの男。漢(特に後漢)で盛んに行われていた「外戚政治」つまり「傀儡政権」というパターンを蘇我氏から奪い取り、母が百済系の桓武天皇に引き離されそうになりながらも陰謀の数々で再び返り咲き、平安時代に絶頂期を迎えた一族。五摂家となったあとも、昭和に入って大東亜共栄圏(中国・朝鮮・日本など一緒になろう・・・こちらの方が支離滅裂)などという暴論をぶち上げた近衛文麿が末裔のこの一族。
横浜市大国際文化学部長の今谷明先生が『象徴天皇の発見』(文春新書)を著されています。第三章に「律令制のグランドデザイナー」と不比等を呼んでいますが、特別措置法の連発で現代同様、複雑すぎます。
現代日本に聖徳太子よ、「我蘇れ!」と降臨しないかと思う毎日。
9人目と10人目の聖徳太子がみつかりました。
古人大兄皇子
生年不詳~645年皇極天皇の次期候補者だった。なぜか(母が馬子の娘だからイジメを受けて)辞退して軽皇子(第36代孝徳天皇)に皇位を譲る。出家して吉野に隠遁したが謀反の疑いで中大兄皇子に殺害される。まるで劉備の嫉妬に怯える韓信のようだ。中大兄皇子というよりも進言したのは鎌足であろう。
孝徳天皇
596~654年 在位645年~古人大兄皇子にかわって皇極天皇の同母弟として即位。難波遷都をし652年に完成するも、なぜか翌年中大兄皇子や皇后、臣下の大部分が飛鳥に戻る。寂しく残された翌年失意のうちに病死。乙巳の変(何があったのか)に即位したのに蘇我氏系の臣下を重用したり、新羅の金春秋(武烈王 唐と同盟)が息子の金多遂とともに来日(647年)して鎌足の反感をかったのか。 金春秋は帰国するが、649年金多遂は人質(?)として日本へ。百済の皇子扶余豊璋(この方も人質?)のように在日。豊璋は663年白村江の戦いで敗れ、唐南部へ流刑。彼は中臣鎌足自身であるという説があるので、この説によると中大兄皇子いたく動揺。その後の行動は防人が示すとおり。ブレーンを失った中大兄皇子の迷走ぶりが理解できる。話は戻って金多遂が大阪に残ったのか飛鳥へ拉致されたか不明。佐々木克明氏によると金多遂は生年不詳の大海人皇子=天武天皇であるという。井沢元彦氏は金多遂は大海人皇子の父親であるという。私は蘇我氏の祖先を新羅出身者としましたが、大海人皇子が新羅皇子とは大胆。孝徳天皇はなぜ大阪に取り残されたのか?なんでやねん??
ついでにもう一人。日本人ではないので聖徳太子伝説の伝播であろう隣国の王。
聖徳王
新羅第33代在位702~737年の王 『三国史紀』より 武田幸男東大名誉教授が『朝鮮史』で取り上げています。もちろん武田氏は日本の聖徳太子と同一人物とは述べておりません。慶州仏国寺(525年創設とされる)近くに聖徳王陵があります。8世紀の人物なので日本の聖徳太子伝説が伝播したのでしょう。
もう一度、藤原不比等(もともとは“史”でフヒトと読むらしい)と7世紀の中国・朝鮮半島・そして日本を検証しよう。『日本書紀』のバイアスを外して。
とても興味のある分野を詳しく知ることが出来ました。有難う御座いました。聖徳太子の複数存在する説は、またロマンがあるものですね。
日本古代史の中で 石渡信一郎&林順治氏の『倭韓交差王朝説』はきわめて理論的な説であると思いますが、どうして、異端説 扱いなのでしょうか?(注:私は石渡教授&林先生と呼びます)
『倭韓交差王朝説』とは
①崇神は加羅から渡来し、九州のヤマタイ国を滅ぼし、350頃、纏向に第1倭国『加羅(南加羅))』を建て、箸墓に眠る。
②5世紀の中国に遣使した倭国王『讃珍済興』は 崇神の子孫になる。大きな前方後円噴に眠る。
③昆支と余紀は百済の蓋鹵王の弟。ともに崇神王家の済(ホムタマワカ)に入婿。昆支は応神になる。余紀は継体になる。
④応神は倭国王武として宋に遣使。491年に第2倭国『大東加羅(あすから=飛鳥ら)」を建てた。八幡大名神になった。
⑤継体は仁徳陵に眠る。仁徳から武烈の間は架空天皇。継体の息子の娘の石姫は欽明との間に敏達を生む。
⑥欽明は応神の息子で 531年継体の息子を討つ(辛亥の役)。ワカタケル大王となる。蘇我稲目と同一人物。
⑦蘇我馬子と用明と聖徳太子の3名は同一人物で、欽明の息子。隋に遣使したアメノタリシホコのこと。
⑧蘇我蝦夷はアメノタリシホコと敏達の娘の貝蛸(フツ)姫との息子。子の入鹿とともに天皇。崇峻、推古、舒明、皇極は架空天皇。
⑨馬子に殺された物部守屋は敏達の息子の押坂彦人大兄と同一人物。その息子が天皇になれなかった田村皇子。
⑩天智も天武も田村皇子の息子。但し、異母兄弟。天武の母は馬子(聖徳天皇)の娘で 天武は古人大兄と同一人物。
以上 10個は私の子供(小5)はウソだウソだと言っており、確かに、驚くべき説で、内容も難しく、すぐには理解できないもの(特に記紀信者には)ですが、石渡教授が論理的に証明された真実です。
ただちに、石渡教授は東大か京大の日本古代史の教授に推挙されるべきです。そしてこの『倭韓交差王朝説』で 日本史の教科書は書きかえられるべきです。私の子共もウソをマークシートしなければいけない不幸をだれか救ってください。どうして、当たり前のことが、できないのでしょうか??
>>蘇我氏を悪玉と善玉に分割し、善玉の中に、蘇我氏全体を象徴する架空の人物を入れ、その人を神として崇め奉ろう。そうすれば、一方で藤原氏の面子をたてながら、他方で蘇我氏の供養をすることができる。
怨霊を鎮魂するために、架空の人物を崇め奉ることが有効なんですか?相手は怨霊でしょ?ごかましが通用する相手ではないですよね。不比等が本当にそう考えてしまったとしたらそれはそれで仕方ないわけですが、ちょっと無理な考え方という気がします。
日本書紀が聖徳太子のモデルとして想定している厩戸王は、架空の人物ではなくて、実在の人物です。厩戸王の父母は、共に蘇我の血を引いており、厩戸王は蘇我一族の一部です。蘇我氏の功績を厩戸王に集約し、それを賞賛することは、蘇我氏全体を悪者扱いにするよりも、蘇我氏の怨霊を鎮魂する効果があったと考えられます。
>>蘇我氏の功績を厩戸王に集約し、それを賞賛することは
私が言ってるのは、こういうごまかしが怨霊鎮魂に効果があると想定するのは変ではないかということです。単純に厩戸王を聖徳太子と呼び、その功績を賞賛するなら効果があると思えますが、モデルとして想定して云々と実体からかなり離れてしまったら、怨霊を「ふざけるな」と怒らせかねないものであり、怨霊を信じてる人間がそんな危惧を犯すだろうかということです。
聖徳太子で蘇我氏全体を象徴させる外延的提喩を「ごまかし」とか「変」とか「ふざけている」とかと感じることは現代人の感覚で、この時代の教養人たちは、むしろ「スペードをスペードと呼ぶ」ストレートな表現の方こそ野暮だと感じていたということを理解するべきでしょう。『万葉集』などに見られる、この時代の比喩技法は、韻文に限定する必要はないのであって、『日本書紀』に隠された怨霊の鎮魂も、分かる人には分かるように暗号的に書かれていると考えることができます。
それで本当に怨霊が満足したかどうかといったことは、科学的に実証しようがありませんが、少なくとも、怨霊鎮魂は成功したと藤原氏に確信させるだけの効果があったことは確かです。そして、その効果とは、首皇子が天皇として即位し、かつ長生きしたという事実です。『日本書紀』は、草壁皇子や文武天皇の夭折という不幸の中で、首皇子を無事に即位させたいと願っていた藤原不比等によって、720年に完成されました。それから4年後に首皇子が聖武天皇として即位し、かつ749年までその治世が続いたのだから、蘇我氏の怨霊は慰撫されたと藤原氏は受け取ったでしょう。
もしも、首皇子が、即位前または即位後すぐに夭折していたならば、鎮魂は失敗だったと受け止められ、もっと露骨なやり方で、場合によっては、藤原氏の体面をかなぐり捨ててでも蘇我氏の名誉回復をしようとしたかもしれませんが、実際の歴史はそうはならなかったということです。
「聖徳太子で蘇我氏全体を象徴させる外延的提喩」のようなものを怨霊鎮魂に用いることが当時としてはおかしくないというのであれば、その例をひとつでもあげてくだされば説得力も出てくるわけですが。
また、蘇我氏全体の怨霊を恐れたのか、それとも蘇我氏の中の誰かの怨霊を恐れていたのかの区別がつかない状態で、怨霊鎮魂の効果があったからやはり聖徳太子で蘇我氏全体を象徴させていたのだとするなら、それは無理のある主張です。
本文に既に別の例を挙げています。
これと比べたら、蘇我氏の方がまとまりのある単位だと思います。
もしも一人だけを挙げるとするならば、蘇我馬子でしょう。聖徳太子の偉業とされるものの大半は、馬子の業績ですし、生前の権力が大きいほど怨霊としての力も強いと信じられていましたから。しかし、馬子自身は天寿を全うしているので、馬子が恨むとするならば、それは、自分の子孫が滅ぼされ、没落したことでしょう。
『聖徳太子傳暦』という、917年に藤原兼輔によって編集された聖徳太子伝説の集大成によると、聖徳太子は「此處必斷 彼處必切 欲令應絶子孫之後」と言って、自分の子孫が断絶することを望んでいたということになっていますが、実際には、聖徳太子が子孫断絶を願望していたのではなくて、聖徳太子(蘇我馬子)が子孫断絶を願望し、それを恨んでいないことを藤原氏が願望していたということなのでしょう。
大国主は多くの別名を持つとされていますから、例としてはちょっとどうかという気がします。ある架空の人物(モデル)をつくり、蘇我氏全体を集約して反映させるという考え方は、要するに観念操作ですから、当時の感覚というよりもむしろ現代的な思考法のひとつではないかという印象を受けています。
聖徳太子は蘇我馬子という意見は他でも見たことがあります。蘇我馬子が天寿を全うしたというのは確実なのでしょうか。どこかで聖徳太子はじつは暗殺されたというのを見たことがあるのですが、何で見たかはちょっと思い出せないので。
蘇我馬子にも、嶋大臣や蘇我葛城臣や大門などの別名がたくさんあります。厩戸王の方も、上宮王、豊聡耳、上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、厩戸豊聰耳聖徳法王などたくさんあります。当時、実名(諱)を語ることははばかれたので、様々な別名があることが普通なのです。
この時代、事実をありのままに語ることしかできなかったとあなたが考える根拠は何ですか。
いつどこで誰がそう言ったのかを明記してください。私は、この見解を2003年1月にメルマガで発表しています(リンク先に証拠あり)。
蘇我馬子や聖徳太子が暗殺されたというのであれば、その根拠を示してください。根拠もなく自説を主張することは学問的ではありません。
古事記の大国主と大物主の話は、大物主が大国主に我は汝の幸魂・奇魂だから祀れと言っていて、つまり一方が他方に自分を祀れと言ってるわけで、しかも一方は他方の幸魂・奇魂という関係ですからこれは一方が他方の別名みたいなものです。この話が、この両者以外の別の人間が大国主と大物主という別々の人物を統合して祀ったことになるとは、とても納得できません。
>>この時代、事実をありのままに語ることしかできなかったとあなたが考える根拠は何ですか。
なぜそのように受け取られたのかわかりませんが、そういうふうに考えたりしてません。近代科学の影響で、科学以外のことまで要素に分解したり、その要素を組みあわせたりと複雑に考えるのが現代の特徴だと思うのですが、蘇我氏を集約した存在を想定するとなると、現代の複雑な観念操作と同じなわけで、だから現代的という印象を言ったまでで、それは怨霊鎮魂に関して当時の感覚は現代と違うから、という話を受けたものです。
>>いつどこで誰がそう言ったのかを明記してください。私は、この見解を2003年1月にメルマガで発表しています(リンク先に証拠あり)。
歴史にちょっと興味があるだけで研究者ではありませんから、聖徳太子は蘇我馬子という意見をいつどこで誰が言ったのかを記録してないですし、覚えてもいません。聖徳太子が暗殺されたという主張もしていません。そういう話を見たと言っただけです。そう書いたのは、もしかしたら蘇我馬子が殺された可能性もあるという話が聞けるかもしれないと思ったからです。
なお、リンク先のメルマガを拝見しましたが、聖徳太子の功績の一部は蘇我馬子であると書かれておられますが、聖徳太子は蘇我馬子であるとはおっしゃっていないように思えますが。
私はこのサイトを荒らそうと思って書き込みしているわけではないので、これにて投稿はやめます。
怨霊に自分で鎮魂させることは、怨霊による祟りが第三者に及ぶことを防ぐためのテクニックの一つです。以前取り上げた『聖徳太子傳暦』の「此處必斷 彼處必切 欲令應絶子孫之後」などもその例の一つです。藤原氏は、蘇我氏同士の抗争を利用し、蘇我氏に蘇我氏を殺させるということを繰り返し、蘇我氏を滅ぼし、実権を握りました。そして、蘇我氏は自滅することを望んでいたということにして、藤原氏が蘇我氏を滅ぼしたとするならば藤原氏に及びそうな蘇我氏の祟りを内部に封じ込めようとしているわけです。
多分、あなたは、分析される対象の思考と分析している対象の思考を混同しているのでしょう。例えば、構造主義の文化人類学者が、未開社会の思考を構造主義的に分析したからといって、その未開社会の人々が構造主義者であるとか、分析的な能力を持っているとかということにはなりません。
このページでも同じことを主張しています。なお、「この見解」というのは、「このページに書かれている私の見解」という意味で、あなたが言っている「聖徳太子は蘇我馬子という意見」ではありません。ともあれ、「聖徳太子の偉大な功績の一部はフィクションであり、一部は蘇我馬子の功績である」という主張は、他人の受け売りではなくて、自分の頭で考えて出した結論であるということは念のために付言しておきましょう。
誤解されてしまったのでまた書き込みますが、「分析される対象の思考と分析している対象の思考を混同」してはいません。わかりにくい書き方だったのかもしれませんが、要は現代人である永井さんが現代的な思考で当時の怨霊鎮魂を見ていることはないのだろうかという疑問を持ったということです。
怨霊鎮魂に関してとてもひっかかりを感じるのは、たぶん怨霊鎮魂についての捉え方が、永井さんの解釈なのか、それとも怨霊鎮魂に直接たずさわった先人が記した怨霊鎮魂の方法(文書としてあるのかどうか知りませんが)を踏まえて言っているものなのか、どうもはっきりしないところです。そこがはっきりすればとてもすっきりするわけなのですが。
現代人の大半は、そもそも怨霊の存在自体を信じていません。また、蘇我馬子の子孫や親族を馬子の一部とみなし、一つの人格として扱うことも、親族意識が後退した個人主義的な現代人の感覚からは遠いものです。
もちろん、私の解釈です。この時代の人たちは、マニュアルの公開どころか、そもそも、怨霊の祟りを恐れて政治的敗者を崇拝しているということ自体を明言していません。これは怨霊崇拝の性格から言って当然のことです。
あなたは、「これはお世辞ですけれども、あなたは聡明で、人格高潔、容姿端麗で、最高の人ですね」とお世辞を言われて、うれしく感じますか。お世辞というのは、相手を誉めそやして、ご機嫌を伺うことなのですが、こんなお世辞だと逆効果です。だから、お世辞は、それがお世辞だと明言したとたんお世辞ではなくなります。
同じことは、怨霊崇拝についても当てはまります。「あなたは立派な人ではなかったけれども、祟りが怖いから、あなたを神として祀ります」などと言って、怨霊崇拝をしたら、怨霊が怒るでしょう。だから、お世辞の時と同様に、怨霊崇拝をする人たちは、それが怨霊崇拝であることを隠してするのです。また、怨霊崇拝のためのマニュアルを当事者が公開するなどということは、さらに非常識なことです。
ところで、なぜ『日本書紀』は、一方で聖徳太子の一族を除く蘇我氏を悪人扱いしながら、他方で蘇我氏の怨霊崇拝をしたのかという問題についてですが、これに関して補足的なコメントをしておきましょう。私は、本文で「不比等の時代には、藤原氏はまだ面子にこだわっていたので」と書きましたが、これ以外にも原因がありそうです。
森博達の『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』によると、『日本書紀』は、もともと日本の捕虜になった中国人によって書かれたものでした。そのため、武烈天皇の記述などはその典型ですが、易姓革命的な観点から、滅びる王朝の末代は徹底的に悪く書くという中国的な傾向が見られます。没落した蘇我氏も、徹底的に悪く書かれて当然なのです。
ところが、『日本書紀』崇峻天皇四年から舒明天皇までの記述は、森博達によるとβ群に属するので、聖徳太子伝説が書かれている箇所は、原著者の中国人が引退した後、日本人の手によって書かれたか改竄された箇所と考えられます。だから『日本書紀』は、没落者を悪く書く中国的様式と没落者の怨霊を崇拝する日本的様式との妥協の産物になっていると考えることができます。
「現代的な思考」で意味したのは、現代人の怨霊に対する見方・思考や感覚という意味ではありません。現代的な思考方法(ツール)のひとつという意味です。
なお、ご紹介の書籍はとても面白そうです。ただ、怨霊崇拝という面から考えると日本書紀は整合性がないことになります。日本的妥協という言葉で片付けられるものなのか疑問に感じます。
天武天皇と藤原不比等では意図が異なるのだから、整合性が取れないところがでてくるのは当然でしょう。なお、私が言っているのは、「没落者を悪く書く中国的様式と没落者の怨霊を崇拝する日本的様式との妥協」であって、「日本的妥協」ではありません。
聖徳太子とは聖武天皇(倭桜彦)の創作した人物で本名は倭聖大王
父倭峻大王が、葛城摩理勢の葛城領を没収した為暗殺されると峻の弟孝(茅ヌ王)が大王になり都を難波におきます。
初の遣隋使を出した2年後孝は、新羅へ遠征軍を送らせる為、弟の久米を将軍にして遣わしますが、双方摩理勢の刺客に暗殺され翌年聖は大王として即位されます。
翌年五憲法十七条を制定します。
翌年斑鳩の宮に移ります。
臣下20人と毒殺される前の年倭舒(舒明)に百済救援出来ねば王位を帰せと迫られ、葛城領を奪われた葛城氏一族も彼に加わり戦が行われた。
倭聖大王側には、将軍の物多治見(多治髪とも言う物部守屋)邇波広高(秦川勝)等
倭舒側には、将軍の鞍作刀禰(鞍作鳥とも言う巨勢徳太)葛城烏那羅等
倭聖大王は、将軍を失い臣下の三輪文屋に尾治氏の元で再起を計るように諭されますが聞き入れず宮に戻り拘束され毒殺されます。
葛城摩理勢(蘇我馬子)は、聖大王の暗殺した舒に憤ります。
聖大王には、身ごもっていた佐富が居り彼女は男子建(天武)を産みます。
8歳になると建は母と引き離され三川に邇波広高の子頼利と共に隠棲させられます。
摩理勢は、聖の姉錦代(推古)に葛城領返還を求めますが拒否されます。
佐富はついに舒の后となり友(天智)を産みます。
使用は厳禁
どうしていまの古代日本史の大学の先生は 物語 日本書紀&古事記を信じるのでしょうか?たしかに 記紀 読むとおもろいですよね。
ボクもほんとのことだったらいいなあなんて憧れたこともあったですよ。しかし それは所詮 人の書いた物語だからおもしろいのですよね。で、麻痺させられますね。
でも、物語を真実だと思うことはおかしい。現代でも たかが100年まえのことでさへ わかったものじゃない。自分のじいさんのじいさんのじいさん 名前言える人 愛子様だけでしょ。
700年ごろに 600年のことわかるわけがない。ましてや4.5.6世紀のことなんて。いくらでもぶっ飛んで そして架空の人物やできごと なんぼでも 都合良く 創造できるよね。。。。。
3世紀の日本はきっとまだ 卑弥呼や豊与さまをふくめ はじめ人間ギャートルズの世界だったに違いない。4世紀前半も弥生時代だった。4世紀後半から古墳時代だ。
4世紀の中ごろ初めて支配者がまず南加羅からやってきた。箸墓は はじめに 半島からきて奈良県を支配した大王 崇神サンの墓だったのですね。卑弥呼の墓であるはずがない。
そして記紀では重要視されてないけど尾張も物部や息長もあなどれないですね。この人たちは 崇神様のなかまで きっと4&5世紀を支配していたのでしょう。
5世紀の中国にいろいろ手紙だした倭の5王さんたちはその崇神王朝そのものだったのですね。仁徳から武烈までの架空の河内王朝に こたえ求めても 無駄ですね。
で、応神こと昆支さんは その崇神王朝に 百済からきてムコ入りした 愛子様の直接のご先祖だったのですね。そして 倭王武と名乗り 八幡[アスカラ]の神になり 誉田山古墳にねむる。この推理はすごい。。。
そのお母さん神功皇后は日本史のなかで僕の大好きなヒロインでしたが 架空の人物。卑弥呼や豊与との関係疑ってたのに 実在してないなんて 本当に残念です。。。
さらに わかたけるなんてかっこいいので ヒーローだった雄略さまも 架空の人でした。考えてみれば大悪党ブレツがいそうにないのに そのじいさんの代のユウリャクもいないよなあ。
で、ぶっ飛びますが、6世紀初期の大山古墳は その昆史さんの弟 継体の墓。これで 記紀の言う 5世紀の河内王朝10人天皇ぶっとびました。そして 彼もまた 崇神王朝へムコ入りしてたなんて。
そして その兄弟のあととり合戦が 6.7世紀の間 極めておもしろく 続行されてたなんて。 鋭すぎる推理に しびれてしびれて。なかなかついていけません。。
欽明天皇は はじめ日本書紀読んだときあんまりおもしろくなく 重要人物でなかったけど 昆支(=応神)の子供だったとは。そして 継体大王の子供たちと531年に戦ったのですね【辛亥の変】
しかし、欽明(=蘇我稲目)は やっつけた継体の子供の子供(石姫サン)と結婚して 敏達誕生で いったんは昆支家と継体家はなかよしになったのですね。
ですが 欽明には石姫の後妻の堅塩姫との間にも子供ありで この子こそ 蘇我馬子であり 聖徳太子であり 用明天皇だったのですね。そして、蘇我物部戦争で、敏達の子供の彦人大兄(=守屋)をやっつけたのですね。
もう一度かきます。聖徳太子と蘇我馬子と用明大王は 一人の人物が3人に分けられていたのですね。彼が隠れたヒーロだ。ボクは小学校の修学旅行は法隆寺でしたが 校長先生は嘘を教えてくれていたんですよね。
悲しいですよ。聖徳天皇だったのですね。そして アメノタリシホコとして 隋に 手紙出したのですね。で、その妻 貝タコ姫こそ 彦人大兄の妹であり 日本史のヒロインですよね。
でで 7世紀 その聖徳天皇の子と孫は 蘇我王朝そのものであり 蘇我蝦夷天皇であり 蘇我入鹿天皇だったのですね。皆さん ついてきてますか。多分 無理でしょうね。でも 史実ですよ。
で、小学生でも知っている大化の改新ですが その真実とは 中大兄皇子は 聖徳天皇にやられた じいさん彦人大兄のかたき討ちをしたのですね。結局 崇峻・推古・舒明・皇極は架空ですね。
天武天皇は天智天皇の兄さんだったのですね。しかも 聖徳大王の娘(ホホテノイラツメ)を母に持つ人物だったのですね。いいですねえ。楽しいですよね。感動しますよね。
以上の事実を 物語記紀のなかから 極めて論理的に推理され 拾い上げた探偵さんこそ 石渡信一郎さん(ぼくはこことのそこから教授とよばせてもらいます)です。異端児あつかいは それこそ日本古代史学会の不幸です。
石渡教授は真の歴史研究者です。 飛鳥は アスカラ【大東加羅】 の ラが 落ちたものだなんて。すじが通ってます!。極上の推理ですよね。在野の歴史家ではもったいない!
石渡教授はもうお年みたいですね。東大か京大は 石渡教授を古代史の教授に ただちに推挙すべきです。そして、国は 古代史ノーベル賞(もしくは国民栄誉賞)を 教授にさしあげるべきです。
税金で お勉強している国立大学の古代史研究の先生は 今からでも遅くありません。1988年に自家出版された先生の本 『日本古代王朝の成立と百済』を すぐにでも購入され よく読まれ、その本を学生にも購入させ 石渡学説を中心にして 講義をすべきです。どうして 古代史学会(本当はすぐに解散すべきです)が 先生の説と向き合おうとしないのでしょうか?
センタ試験で日本史選択した自分が悲しいです。真実でないことをマークシートして 大学入試で通る国は 日本の国立大学だけでしょうね。税金の無駄使いです。
山川出版の日本史の教科書すきだったんですけどね 本当に悲しいです。3世紀から8世紀の内容を書き直せ。創造作文はもういいですよ。。。。。。
でで、以上のことを 普及に努めておられる 林順治先生も偉大です。『アマテラス誕生』を図書館で 読んでよかった。読んでいなかったら僕は麻痺したままで ウソを信じたままでしたから。
関さん森さん古田さんの歴史本もおもろいですが 石渡&林コンビのほうが 絶対に楽しい。それは 理論的な推理を伴った頭を使う真実追究だから。あまりにに天才的なコペルニクス的大発見であり、最初は なにをいっているのか こんがらがって わけわからなかった。ウソつけ。変な人たちだなあと思いましたよ。無理もないですね。最初に記紀という創造作文を読んで麻痺させられているから。。
山川出版の日本史の教科書すきだったんですけどね 本当に悲しいです。3世紀から8世紀の内容を書き直せ。創造作文はもういいですよ。。。。。。
で、マスコミももっともっと先生たちの説をみんなに紹介すべきです。真実は真実。物語は物語。その区別くらい小学生でもできます。先生の説が真実であればあるほど 天皇さんの価値は上がります。
記紀は それはそれで 物語としては 極めて価値あるものです。そして 事実をまげて 都合よく 創造作文し広めることができるたのは征服者 王様すなわち天皇様だけだからです。
だから、天皇様は偉大なのです。アマテラスさまをつくることができたのですから。そして だから アマテラスさんの子孫でいいのですよね 愛子様。。
で、日本語は半島からきた言葉だったのですね。われわれの先祖は1600年前に民族大移動した大陸からきた人たちだったのですね。日本民族はゲルマン民族と同じ行動をしたのですね。
では、新羅に出されたのでしょうか。追い出されて 実はいいところに住んでるなんて われわれのご先祖様はえらいとおもいませか?出されたのではなく きっと新羅を置いてきたのですね。
40代が 実は16代程度だった。それでも それはそれでいいじゃないですか。ねえ愛子様 じいさんのじいさんのじいさんのじいさんのほんとのことが知りたいよね !!!古代史は真実を追求するおもしろい学問ですよね。ボクも真実が知りたいだけです。創造作文して書き直した人たちがいたのですから また書き直されて 当然です。
みなさん真実を追求する 林先生&石渡教授を応援しましょう。
ぜひ、俊哉さんの石渡論の感想ききたいです。
一般的な謎としては、
・蘇我蝦夷・入鹿を退治した中大兄皇子が、中々天皇になれない。
・天智天皇と天武天皇に時代に多く見られた八角形の古墳の謎が、不明なままだ。
・天皇を殺し、天皇の地位を簒奪した天武天皇に関しても、不明なことが多すぎる。子供で無く、弟が皇太子の理由は?
宗教的な流れから見ると、面白い部分が見えるでしょう。
1.物部氏等が重要視した神道・八百万の神の宗教が中心だが、
各氏族は自らの氏神を重要視している。
2.蘇我馬子が作った仏教寺が、生存中に焼き討ちに合う。
3.推古天皇の時「仏教興隆の詔」が出される。
4.聖徳太子が作った仏教寺が、死後、焼き討ちに合う。
5.聖武天皇が国を上げて、大仏を建立する。
3.の「仏教興隆の詔」だけが、流れ的に違和感が有る。
神道から仏教への宗教改革で、
天皇の一族が変わったと見るのが、正しいのだろう。
京都には、北野天満宮が残っているので、
仏教で退治できない怨霊による神道の信仰も続いていたのだろう。
初めて投稿させていただきます。聖徳太子関連の書では、古田武彦著、『法隆寺の中の九州王朝』(朝日文庫)、『古代は沈黙せず』(駸々堂)がもっとも論理的と思いますので是非一読下さい。上記の種々の謎も明らかにされ、さらに現在、究明が進んでいます。
私は、中学2年の女子です。今、ちょうど聖徳太子について勉強しています。このサイトを運営している方に質問があります。聖徳太子は、10人の人の話を一度に聞いて理解できるといわれていますが本当なんですか?おしえてください。ご返事まってます。
厩戸王(聖徳太子)が、一度に十人ないし八人の請願を精確に聞き取ったという伝説があることは確かですが、それが史実だったかどうかはまた別の問題です。偉人の偉大さを誇張するエピソードが後世になって捏造されるということはよくあることで、数多くある聖徳太子伝説の大半もその類のものと見てよいでしょう。
ご返事ありがとうございます。もう一つきいてもいいですか?冠位十二階の冠色で一番高いくらいの色は、何色でしたっけ?おしえてください?永井さんに教えていただいたことを友達に話したら、友達がほめてくれました。またなにかあったら教えてください。
ここは、本文に対するコメントをする場所であって、一般的な質問をする場所ではありません。冠位十二階の最高位は大徳で濃紫色ですが、そういうことはネットで調べればすぐに分かることでしょう。
私の信じる 石渡信一郎説では
聖徳太子と蘇我馬子と用明大王とアメノタリシホコは
たった一人の同一人物であります。
この点だけでも みなさん真剣に論じてみてください。
結局聖徳太子って誰なの?
聖徳太子は、いろいろな顔と名前があり、それは、年齢によりちがうのですか?