このウェブサイトはクッキーを利用し、アフィリエイト(Amazon)リンクを含んでいます。サイトの使用を続けることで、プライバシー・ポリシーに同意したとみなします。

聖徳太子とは誰のことか(振り仮名付き)

2006年6月25日

2003年に私が書いた「聖徳太子とは誰のことか」には、読みにくい漢字があるので、別途振り仮名付き版を作成しました。漢字が苦手な方は、こちらをお読みください。

画像の表示

1. なぜ聖徳太子の実在は疑われるのか

聖徳太子(しょうとくたいし)は、日本(にほん)史上(しじょう)(もっと)有名(ゆうめい)で、(もっと)尊敬(そんけい)されている人物(じんぶつ)一人(ひとり)であり、かつては1(まん)(えん)(さつ)(かお)でもあった。しかし、歴史(れきし)()(なか)には、聖徳太子(しょうとくたいし)実在(じつざい)(うたが)(ひと)(すく)なくない。その急先鋒(きゅうせんぽう)が、大山(おおやま)誠一(せいいち)である。

大山(おおやま)誠一(せいいち)は、

  1. (よう)(めい)天皇(てんのう)(あな)()()間人(はしひと)(おう)(あいだ)()まれた
  2. 601(ねん)斑鳩(いかるがの)(みや)(つく)って、そこに()んだ
  3.  現在(げんざい)法隆寺(ほうりゅうじ)のもととなる(てら)建立(こんりゅう)した

という属性(ぞくせい)()厩戸皇子(うまやどのみこ)厩戸王(うまやどのきみ))の実在(じつざい)(みと)めつつ、その(うまや)()(おう)

  1. 冠位十二階(かんいじゅうにかい)(さだ)めて、門閥(もんばつ)主義(しゅぎ)(はい)し、有能(ゆうのう)人材(じんざい)登用(とうよう)した
  2. 十七条(じゅうしちじょう)憲法(けんぽう)制定(せいてい)して、天皇(てんのう)中心(ちゅうしん)国家(こっか)理念(りねん)道徳(どうとく)提示(ていじ)した
  3. 小野妹子(おののいもこ)(ずい)派遣(はけん)し、(ずい)対等(たいとう)国交(こっこう)(ひら)くことに成功(せいこう)した
  4. 三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を述作(じゅっさく)し、蘇我馬子(そがのうまこ)とともに国史(こくし)編纂(へんさん)(おこな)った

という属性(ぞくせい)()聖徳太子(しょうとくたいし)であったことを否定(ひてい)する。(よう)するに、厩戸皇子(うまやどのみこ)実在(じつざい)したが、聖徳太子(しょうとくたいし)実在(じつざい)しなかった。聖徳太子(しょうとくたいし)は、ヤマトタケルと同様(どうよう)に、『日本書紀(にほんしょき)』が捏造(ねつぞう)した、たんなる神話(しんわ)(てき)存在(そんざい)()ぎない。なぜなら、聖徳太子(しょうとくたいし)実在(じつざい)保証(ほしょう)する、信頼(しんらい)()史料(しりょう)(なに)もないからだと()うのだ。

聖徳太子(しょうとくたいし)(かん)する伝説(でんせつ)は、荒唐無稽(こうとうむけい)なものまで(ふく)めて、たくさんある。だが、あらゆる伝説(でんせつ)(もと)となった最古(さいこ)史料(しりょう)は、法隆寺(ほうりゅうじ)金堂(こんどう)薬師(くすし)(ぞう)光背(こうはい)(めい)釈迦(しゃか)(ぞう)光背(こうはい)(めい)中宮寺(ちゅうぐうじ)天寿(てんじゅ)(こく)繍帳(しゅうちょう)銘文(めいぶん)などの法隆寺(ほうりゅうじ)関連(かんれん)史料(しりょう)と『日本書紀(にほんしょき)』の(ふた)つに(かぎ)られる。通説(つうせつ)では、薬師(やくし)(ぞう)は607(ねん)に、釈迦三尊(しゃかさんぞん)(ぞう)は623(ねん)に、天寿(てんじゅ)(こく)繍帳(しゅうちょう)は622(ねん)以降(いこう)の7世紀(せいき)前半(ぜんはん)(つく)られたとされている。もしそれが(ただ)しいとするならば、720(ねん)完成(かんせい)した『日本書紀(にほんしょき)』よりも(ふる)い、したがって(もっと)信用(しんよう)できる史料(しりょう)ということになる。()たしてそうだろうか。

今日(こんにち)法隆寺(ほうりゅうじ)は、現在(げんざい)伽藍(がらん)より(ふる)若草(わかくさ)伽藍(がらん)(あと)発掘(はっくつ)されたことから、厩戸皇子(うまやどのみこ)建立(こんりゅう)したままの姿(すがた)でないと(かんが)えられている。もしも、『日本書紀(にほんしょき)』が(つた)えるように、厩戸皇子(うまやどのみこ)死後(しご)法隆寺(ほうりゅうじ)全焼(ぜんしょう)したとするならば、現在(げんざい)法隆寺(ほうりゅうじ)(ない)にある釈迦三尊(しゃかさんぞん)(ぞう)薬師如来像(やくしにょらいぞう)なども、推古(すいこ)(ちょう)時代(じだい)のオリジナルではないことになる。もちろん、仏像(ぶつぞう)複製(ふくせい)でも、銘文(めいぶん)当初(とうしょ)内容(ないよう)正確(せいかく)(つた)えているのなら、それによって、聖徳太子(しょうとくたいし)実在(じつざい)確認(かくにん)することができる。ところが、薬師(やくし)(ぞう)光背(こうはい)(めい)釈迦(しゃか)(ぞう)光背(こうはい)(めい)天寿(てんじゅ)(こく)繍帳(しゅうちょう)銘文(めいぶん)も、使(つか)われている言葉(ことば)(あたら)しさから、厩戸皇子(うまやどのみこ)時代(じだい)文章(ぶんしょう)とは(かんが)えにくい。

具体(ぐたい)(てき)()うと、薬師(やくし)(ぞう)光背(こうはい)(めい)天寿(てんじゅ)(こく)繍帳(しゅうちょう)銘文(めいぶん)には、「天皇(てんのう)」という称号(しょうごう)使(つか)われている。天皇(てんのう)という称号(しょうごう)最初(さいしょ)使(つか)ったのは、(とう)高宗(こうそう)で、674(ねん)のことである。これが日本(にほん)(つた)わり、689(ねん)飛鳥(あすか)(きよ)()(はら)(れい)において正式(せいしき)採用(さいよう)され、天武天皇(てんむてんのう)(たい)して最初(さいしょ)天皇(てんのう)(ごう)(ささ)げられた。この時代(じだい)(さかのぼ)る、「天皇(てんのう)」の()(しる)した木簡(もっかん)出土(しゅつど)されていない。『(ずい)(しょ)東夷(とうい)(でん)』が(つた)えているように、推古(すいこ)(ちょう)時代(じだい)天皇(てんのう)は、「大王(おおきみ)」と()ばれていたはずだ。釈迦(しゃか)(ぞう)光背(こうはい)(めい)には、「法皇(ほうおう)」という称号(しょうごう)()られるが、これは、「天皇(てんのう)」と仏典(ぶってん)釈迦(しゃか)(あらわ)す「法王(ほうおう)」との合成(ごうせい)()(かんが)えられるので、釈迦(しゃか)(ぞう)光背(こうはい)(めい)天皇(てんのう)(ごう)成立(せいりつ)以降(いこう)()かれたとみなすことができる。

この(ほか)、これら(みっ)つの法隆寺(ほうりゅうじ)関連(かんれん)史料(しりょう)には、「(ほう)(こう)(げん)」のような年号(ねんごう)推古天皇(すいこてんのう)和風(わふう)諡号(しごう)や「東宮(とうぐう)」「仏師(ぶっし)」など、当時(とうじ)使(つか)われていないはずの言葉(ことば)使(つか)われているという(てん)をも考慮(こうりょ)()れると、法隆寺(ほうりゅうじ)関連(かんれん)史料(しりょう)は、『日本書紀(にほんしょき)以降(いこう)成立(せいりつ)したと推定(すいてい)できる。実際(じっさい)、『日本書紀(にほんしょき)』は、これらの史料(しりょう)について、(なに)言及(げんきゅう)していない。

ゆえに、聖徳太子(しょうとくたいし)伝説(でんせつ)最古(さいこ)史料(しりょう)は、『日本書紀(にほんしょき)』ということになる。成立(せいりつ)時期(じき)詐称(さしょう)しているからといって、()かれていることがすべて間違(まちが)いというわけではないが、やはり信憑(しんぴょう)(せい)大幅(おおはば)()ちる。そこで、以下(いか)、『日本書紀(にほんしょき)』を主要(しゅよう)史料(しりょう)として、これまで聖徳太子(しょうとくたいし)偉業(いぎょう)とされてきた1から4までの業績(ぎょうせき)が、本当(ほんとう)聖徳太子(しょうとくたいし)のものであるのかどうかを、検討(けんとう)してみよう。

2. 聖徳太子の業績は誰の業績か

2.1. 冠位十二階

まずは、冠位十二階(かんいじゅうにかい)であるが、(じつ)は、『日本書紀(にほんしょき)』にも、聖徳太子(しょうとくたいし)がこれを(はじ)めたとは()かれていない。「(はじ)めて(かん)()(おこな)ふ」と主語(しゅご)なしの(ぶん)()かれている。冠位十二階(かんいじゅうにかい)という制度(せいど)は、日本(にほん)(おとず)れた(ずい)使者(ししゃ)言及(げんきゅう)していることから、当時(とうじ)存在(そんざい)したことは間違(まちが)いない。では、(だれ)制定(せいてい)したのだろうか。

(わたし)は、聖徳太子(しょうとくたいし)制定(せいてい)(しゃ)だとは(おも)わない。もし聖徳太子(しょうとくたいし)が、冠位十二階(かんいじゅうにかい)制定(せいてい)したとするならば、なぜ、当時(とうじ)最高(さいこう)権力(けんりょく)(しゃ)蘇我馬子(そがのうまこ)官位(かんい)授与(じゅよ)されなかったのかが説明(せつめい)できない。しかし、もしも蘇我馬子(そがのうまこ)制定(せいてい)したとするならば、自分(じぶん)自分(じぶん)官位(かんい)(あた)えることはナンセンスだから、馬子(うまこ)対象(たいしょう)(がい)になったことが説明(せつめい)できる。

馬子(うまこ)冠位十二階(かんいじゅうにかい)制定(せいてい)(しゃ)であったことは、その動機(どうき)からも説明(せつめい)することができる。厩戸皇子(うまやどのみこ)は、(ちち)(よう)(めい)天皇(てんのう)で、(はは)(きん)(めい)天皇(てんのう)(むすめ)だったのに(たい)して、馬子(うまこ)は、(ちち)先祖(せんぞ)不明(ふめい)蘇我稲目(そがのいなめ)で、(はは)当時(とうじ)すでに没落(ぼつらく)していた葛城(かつらぎ)()(むすめ)だった。厩戸皇子(うまやどのみこ)血統(けっとう)高貴(こうき)だったのに(たい)して、馬子(うまこ)(ほう)は、かなり(かく)(ひく)かった。だから、馬子(うまこ)相当(そうとう)血統(けっとう)コンプレックスの()(ぬし)だったと(わたし)想定(そうてい)している。

コンプレックスとは、日本語(にほんご)()えば、複合(ふくごう)(たい)である。精神(せいしん)分析(ぶんせき)(がく)では、(あこが)れと反感(はんかん)複合(ふくごう)(たい)をコンプレックスと()ぶ。馬子(うまこ)は、一方(いっぽう)高貴(こうき)()(あこが)れていたからこそ、(むすめ)皇族(こうぞく)(とつ)がせ、天皇(てんのう)外戚(がいせき)になろうとしたのであり、他方(たほう)で、血統(けっとう)のランクがものを()社会(しゃかい)反感(はんかん)()っていたからこそ、冠位十二階(かんいじゅうにかい)制度(せいど)により、有能(ゆうのう)人材(じんざい)出自(しゅつじ)とは無関係(むかんけい)抜擢(ばってき)しようとした。これに(たい)して、高貴(こうき)出自(しゅつじ)厩戸皇子(うまやどのみこ)は、冠位十二階(かんいじゅうにかい)制定(せいてい)する動機(どうき)()けている。

冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、高句麗(こうくり)百済(くだら)にあった類似(るいじ)制度(せいど)模倣(もほう)したもので、日本(にほん)独自(どくじ)制度(せいど)ではない。伝統(でんとう)(てき)権威(けんい)()たない蘇我(そが)()が、権力(けんりょく)頂点(ちょうてん)(きわ)めることができたのは、(かれ)らが渡来(とらい)(じん)とのかかわりが(ふか)く、日本(にほん)大陸(たいりく)先進(せんしん)文化(ぶんか)()(はし)として(おお)きな役割(やくわり)()たしたからである。冠位十二階(かんいじゅうにかい)制度(せいど)日本(にほん)への導入(どうにゅう)も、仏教(ぶっきょう)導入(どうにゅう)とともに蘇我(そが)()らしい功績(こうせき)である。

2.2. 十七条憲法

(つぎ)十七条(じゅうしちじょう)憲法(けんぽう)であるが、これに(かん)しては、『日本書紀(にほんしょき)』は「皇太子(こうたいし)(みずか)(はじめ)めて憲法(けんぽう)十七条(じゅうしちじょう)(つく)りたまふ」と、聖徳太子(しょうとくたいし)(さく)であることを明言(めいげん)している。だが、十七条(じゅうしちじょう)憲法(けんぽう)には、(ふる)くから偽作(ぎさく)(せつ)がある。(のち)律令(りつりょう)制度(せいど)先取(さきど)りしたような規範(きはん)(ふく)まれていて、氏族(しぞく)(せい)であった推古(すいこ)(ちょう)時代(じだい)にはふさわしくないからだ。(とく)に、(だい)(じゅう)()(じょう)登場(とうじょう)する、大化(たいか)改新(かいしん)以降(いこう)官制(かんせい)である「国司(こくし)」が、問題(もんだい)()されている。

しかし、(わたし)がそれ以上(いじょう)問題(もんだい)にしたいのは、聖徳太子(しょうとくたいし)(すなわ)厩戸皇子(うまやどのみこ)は、あのような命令(めいれい)有力(ゆうりょく)豪族(ごうぞく)(たい)して(はっ)することができるだけの権力(けんりょく)()っていたのかどうかという(てん)である。(たと)えば、(だい)(じゅう)()(じょう)にある「(くに)(ふたり)(きみ)なし。(たみ)(ふたり)(しゅ)なし」は、推古天皇(すいこてんのう)(まさ)るとも(おと)らない権力(けんりょく)(しゃ)であった蘇我馬子(そがのうまこ)(たい)する()てこすりと()()られかねない。(じつ)中大兄(なかのおおえの)(おう)もこれと()たようなセリフを()いている。中大兄王(なかのおおえのおう)大化(たいか)改新(かいしん)でやったように、蘇我(そが)()有力(ゆうりょく)(しゃ)武力(ぶりょく)排除(はいじょ)でもしなければ、このような天皇(てんのう)親政(しんせい)理念(りねん)(くち)にできなかったのではないだろうか。

十七条(じゅうしちじょう)憲法(けんぽう)は、(だい)(さん)(じょう)において、天皇(てんのう)()とそれ以外(いがい)豪族(ごうぞく)との(あいだ)には、絶対(ぜったい)(てき)君臣(くんしん)関係(かんけい)があると主張(しゅちょう)している。(いわ)く、「(みことのり)(うけたまわ)りては(かなら)(つつし)め。(つつ)しまざれば(みずか)らに(やぶ)れなむ。」
厩戸皇子(うまやどのみこ)は、これから有力(ゆうりょく)豪族(ごうぞく)支持(しじ)()て、天皇(てんのう)になろうとしているところである。それなのに、天皇(てんのう)になる(まえ)から、「自分(じぶん)大王(おおきみ)天皇(てんのう))になったら、お(まえ)たちに絶対(ぜったい)(てき)服従(ふくじゅう)(もと)める。命令(めいれい)(したが)わなければ、()(ほろ)ぼすことになるぞ」と有力(ゆうりょく)豪族(ごうぞく)たちに(おど)しをかけることができただろうか。そのようなことを()えば、天皇(てんのう)になれないどころか、(いのち)すら(ねら)われかねない。

こう()うと、読者(どくしゃ)(なか)には、聖徳太子(しょうとくたいし)皇太子(こうたいし)だから、天皇(てんのう)になることは確定(かくてい)していたし、摂政(せっしょう)地位(ちい)についていたのだから、馬子(うまこ)以上(いじょう)権力(けんりょく)()っていたのではないかと反論(はんろん)する()きもあるかもしれない。しかし、厩戸皇子(うまやどのみこ)は、摂政(せっしょう)でもなければ皇太子(こうたいし)でもなかった。『日本書紀(にほんしょき)』では、「よりて録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ」というように、「摂政(せっしょう)」という言葉(ことば)動詞(どうし)として使(つか)われており、地位(ちい)(あらわ)名詞(めいし)としては使(つか)われていない。最初(さいしょ)摂政(せっしょう)(しょく)()いたのは、藤原(ふじわら)(よし)(ふさ)で、858(ねん)のことであり、それ以前(いぜん)には、摂政(せっしょう)などという官職(かんしょく)はなかった。また、立太子(りったいし)制度(せいど)は、689(ねん)飛鳥(あすか)(きよ)()(はら)(れい)において(はじ)めて採用(さいよう)された制度(せいど)で、「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)()てて皇太子(こうたいし)とす」という『日本書紀(にほんしょき)』の記述(きじゅつ)間違(まちが)っている。なぜ、『日本書紀(にほんしょき)』の編者(へんしゃ)が、立太子(りったいし)制度(せいど)神武(じんむ)以来(いらい)存在(そんざい)したと(いつわ)ったかに(かん)しては、(あと)説明(せつめい)しよう。

厩戸皇子(うまやどのみこ)は、当時(とうじ)多数(たすう)いた次期(じき)天皇(てんのう)候補(こうほ)一人(ひとり)()ぎなかった。そのような(よわ)立場(たちば)にある厩戸皇子(うまやどのみこ)十七条(じゅうしちじょう)憲法(けんぽう)公表(こうひょう)できたとは(かんが)えられない。十七条(じゅうしちじょう)憲法(けんぽう)は、『日本書紀(にほんしょき)』が編集(へんしゅう)されていた当時(とうじ)支配(しはい)(てき)だった律令(りつりょう)国家(こっか)倫理(りんり)を、飛鳥(あすか)時代(じだい)投射(とうしゃ)することにより捏造(ねつぞう)した偽作(ぎさく)とみなすことができる。

2.3. 遣隋使の派遣

(つづ)いて、遣隋使(けんずいし)派遣(はけん)考察(こうさつ)しよう。607(ねん)に、日本(にほん)小野妹子(おののいもこ)(ずい)派遣(はけん)し、翌年(よくねん)(ずい)裴世清(はいせいせい)日本(にほん)派遣(はけん)したことは、『(ずい)(しょ)』『日本書紀(にほんしょき)双方(そうほう)記載(きさい)されているので、史実(しじつ)である。問題(もんだい)は、この(ずい)との外交(がいこう)主導(しゅどう)(しゃ)が、聖徳太子(しょうとくたいし)(すなわ)厩戸皇子(うまやどのみこ)であったかどうかである。(じつ)は、『(ずい)(しょ)』も『日本書紀(にほんしょき)』も、聖徳太子(しょうとくたいし)ないし厩戸皇子(うまやどのみこ)には、まったく(なに)言及(げんきゅう)していない。『日本書紀(にほんしょき)』は、冠位十二階(かんいじゅうにかい)(とき)同様(どうよう)に、「大礼(たいらい)小野臣妹子(おののおみいもこ)大唐(もろこし)(つかわ)す」といった主語(しゅご)なしの(ぶん)で、記述(きじゅつ)している。

遣隋使(けんずいし)派遣(はけん)における厩戸皇子(うまやどのみこ)役割(やくわり)(ろん)じる(まえ)に、もう(ひと)つの(なぞ)(すなわ)ち、当時(とうじ)日本(にほん)天皇(てんのう)は、推古天皇(すいこてんのう)という女帝(にょてい)であったにもかかわらず、(ずい)(がわ)は、(だん)(おう)記録(きろく)している問題(もんだい)()()げよう。『(ずい)(しょ)東夷(とうい)(でん)』には、(だい)(いっ)(かい)遣隋使(けんずいし)派遣(はけん)(かん)して、(つぎ)のような記述(きじゅつ)がある。

(かい)(こう)()(じゅう)(600)(ねん)()(おう)(せい)阿毎(あめ)(あざな)多利思比孤(たりしひこ)阿輩鶏彌(おおきみ)(ごう)す、使(つかい)(つかわ)して(みや)(いた)る。(しょう)所司(しょし)()風俗(ふうぞく)()わしむ。使者(ししゃ)()う『倭王(わおう)(てん)()って(あに)()し、()()って(おとうと)()す。(てん)(いま)()けざる(とき)()でて(まつりごと)()き、跏趺(あぐら)して()し、日出(ひい)ずれば便(すなわ)理務(つとめ)()め、()う、(われ)(おとうと)(ゆだ)ねん』と。高祖(こうそ)(いわ)く『これ(おお)いに義理(ぎり)()し』と。(ここ)(おい)(くん)して(これ)(あらた)めしむ。(おう)(つま)(きみ)(ごう)す。後宮(こうきゅう)(おんな)(ろく)(なな)(ひゃく)(にん)()り。太子(たいし)()和歌彌多弗利(わかみたほり)()す。」

日本(にほん)天皇(てんのう)には(せい)がない。また、当時(とうじ)はまだ立太子(りったいし)制度(せいど)がなかった。しかし、(ずい)は、中国(ちゅうごく)(しき)のスタンダードに()てはめようとしている。『(ずい)(しょ)東夷(とうい)(でん)』は、日本(にほん)天皇(てんのう)固有(こゆう)(めい)を「アメ・タリシヒコ」と認知(にんち)したわけだが、当時(とうじ)日本人(にっぽんじん)にとって、天皇(てんのう)実名(じつめい)(くち)にすることはタブーだったから、日本(にほん)使者(ししゃ)(くち)にしたであろう「アメノタラシヒコ」は、絶対(ぜったい)天皇(てんのう)実名(じつめい)ではない。それは天皇(てんのう)意味(いみ)する普通(ふつう)名詞(めいし)、あるいはせいぜい、見本(みほん)などによく()かれる「山田(やまだ)太郎(たろう)」のような、天皇(てんのう)のデフォルトの名前(なまえ)である。だから、この天皇(てんのう)(だれ)であるかはわからないが、「山田(やまだ)太郎(たろう)」と同様(どうよう)に、(すく)なくとも(おとこ)であることはわかる。(つま)がいるのだから、(あき)らかに(おとこ)だ。

和歌彌多弗利(わかみたほり)」の(ほう)は、(ずい)普通(ふつう)名詞(めいし)であることを認識(にんしき)している。「わかみたほり」は、(のち)音韻(おんいん)変化(へんか)により、「わかんどほり」となる。この言葉(ことば)意味(いみ)は、古語(こご)辞典(じてん)()けばわかるように、「皇族(こうぞく)」である。(ずい)は、たんなる皇子(おうじ)皇太子(こうたいし)誤解(ごかい)したわけだ。なお、どうこじつけても、「和歌彌多弗利(わかみたほり)」は、厩戸皇子(うまやどのみこ)山背大兄(やましろのおおえの)(おう)(むす)びつかない。

この、(なぞ)(おとこ)天皇(てんのう)(だれ)であるかは、(あと)(かんが)えることにして、日本(にほん)使者(ししゃ)(ずい)皇帝(こうてい)(ぶん)(てい)との対話(たいわ)解釈(かいしゃく)(はい)ろう。日本(にほん)風俗(ふうぞく)()われた日本(にほん)使者(ししゃ)が「わが(くに)(おう)は、(てん)(あに)とし、()(おとうと)としている。(てん)は、まだ()けない(とき)()かけて政務(せいむ)(おこな)い、あぐらをかいて(すわ)り、()()ればやめて、(おとうと)政務(せいむ)をゆだねる」と(こた)えたので、皇帝(こうてい)は、「これはまったく理屈(りくつ)()わない」と()って、(おし)えてこれを(あらた)めさせたと()かれている。

日本(にほん)(がわ)がばかげた風俗(ふうぞく)紹介(しょうかい)したので、皇帝(こうてい)が「ばかなことを()うな」と(おこ)って、(おろ)かな風俗(ふうぞく)是正(ぜせい)するように教育(きょういく)したのだろうか。そうではない。(ずい)皇帝(こうてい)は、中華(ちゅうか)思想(しそう)()(ぬし)だから、辺境(へんきょう)野蛮(やばん)(じん)がばかげた習慣(しゅうかん)()っていると()けば、文化(ぶんか)(てき)優越(ゆうえつ)(かん)じて満足(まんぞく)することはあっても、(おこ)ることはないし、ましてやその是正(ぜせい)指導(しどう)するなどということはない。そもそも、もし、日本(にほん)使者(ししゃ)意味(いみ)不明(ふめい)のことを()ったとしたなら、(ずい)はそれを記録(きろく)にとどめないはずだ。614(ねん)遣隋使(けんずいし)のように、注目(ちゅうもく)(あたい)しないと判断(はんだん)されれば、『(ずい)(しょ)』には()かれない。

現代(げんだい)(じん)は、隠喩(いんゆ)鈍感(どんかん)になっているが、ここで、古代(こだい)のディスクールにおいては、メタファーが重要(じゅうよう)役割(やくわり)()たしていることを(おも)()さなければならない。中国(ちゅうごく)皇帝(こうてい)は、自分(じぶん)天子(てんし)(すなわ)ち「(てん)()」と認識(にんしき)し、日本(にほん)天皇(てんのう)は、自分(じぶん)太陽(たいよう)(しん)であるアマテラスの子孫(しそん)認識(にんしき)している。だから、日本(にほん)使者(ししゃ)()う「(てん)」とは中国(ちゅうごく)のことで、「()」とは日本(にほん)のことと解釈(かいしゃく)できる。

すると、日本(にほん)使者(ししゃ)のメッセージは、「わが(くに)(おう)は、中国(ちゅうごく)日本(にほん)関係(かんけい)(あに)(おとうと)関係(かんけい)(かんが)えている。()()(いきお)いの(あたら)しい文明(ぶんめい)(こく)日本(にほん)登場(とうじょう)するまでは、中国(ちゅうごく)(ひがし)アジアの盟主(めいしゅ)として、あぐらをかいで安閑(あんかん)としていられた。しかし、(いま)や、中国(ちゅうごく)は、国際(こくさい)政治(せいじ)主導(しゅどう)(けん)日本(にほん)にゆだねる(とき)()た」ということになる。これを()いた、(ずい)皇帝(こうてい)は、「ばかなことを()うな」と(おこ)り、かつ軽蔑(けいべつ)し、「(ずい)(やまと)関係(かんけい)は、兄弟(きょうだい)ではなくて君臣(くんしん)関係(かんけい)だ」と訂正(ていせい)(せま)ったのではないだろうか。

日本書紀(にほんしょき)』は、この1(かい)()遣隋使(けんずいし)()れていない。それはなぜだろうか。『日本書紀(にほんしょき)』は、『(きゅう)(とう)(しょ)東夷(とうい)(でん)』に()かれている631(ねん)遣唐使(けんとうし)にも()れていない。『(きゅう)(とう)(しょ)東夷(とうい)(でん)』によれば、この(とき)(とう)使者(ししゃ)王子(おうじ)(れい)(あらそ)ったとある。このような外交(がいこう)(てき)失敗(しっぱい)は、記載(きさい)しないというのが『日本書紀(にほんしょき)』の編集(へんしゅう)方針(ほうしん)のようだ。

1(かい)()は、失敗(しっぱい)()わったが、「タラシヒコ」と(しょう)する(なぞ)(おとこ)は、(ずい)との対等(たいとう)外交(がいこう)をあきらめなかった。こうして、607(ねん)に、2(かい)()遣隋使(けんずいし)派遣(はけん)される。(ずい)()代目(だいめ)皇帝(こうてい)煬帝(ようだい)は、「日出(ひい)づる(ところ)天子(てんし)(しょ)日没(ひぼっ)する(ところ)天子(てんし)(いた)す」という、前回(ぜんかい)にもまして対等(たいとう)関係(かんけい)要求(ようきゅう)する国書(こくしょ)()て、不快(ふかい)(かん)(しめ)すが、日本(にほん)使者(ししゃ)派遣(はけん)することにした。2(かい)()成功(せいこう)した。『日本書紀(にほんしょき)』も、(ずい)使者(ししゃ)裴世清(はいせいせい)日本(にほん)訪問(ほうもん)について(くわ)しく()べている。

日本書紀(にほんしょき)』によれば、(ずい)国書(こくしょ)は、「大門(だいもん)(まえ)(つくえ)(うえ)に」()かれただけである。だから、裴世清(はいせいせい)は、(おく)内裏(だいり)にいる天皇(てんのう)直接(ちょくせつ)()っていないと主張(しゅちょう)する(じん)もいるが、『(ずい)(しょ)東夷(とうい)(でん)』には、裴世清(はいせいせい)倭王(わおう)天皇(てんのう))と会話(かいわ)()わしたことがはっきり()かれているので、「大門(だいもん)」は「(おお)きな(もん)」ではなくて、「天皇(みかど)」と理解(りかい)しなければならない。さらに、この(とき)裴世清(はいせいせい)倭王(わおう)(おも)って言葉(ことば)()わした相手(あいて)は、『(ずい)(しょ)東夷(とうい)(でん)』によれば「タラシヒコ」であるから、女性(じょせい)である推古天皇(すいこてんのう)ではない。では、この倭王(わおう)(しょう)する(なぞ)(おとこ)(だれ)なのか。

候補(こうほ)二人(ふたり)しかいない。蘇我(そがの)馬子(うまこ)聖徳(せいとく)太子(たいし)かのどちらかである。『日本書紀(にほんしょき)』は、参列(さんれつ)(しゃ)(かん)しても(くわ)しく()べているが、「皇子(おうじ)諸王(しょおう)(しょ)(しん)」が参列(さんれつ)しているのに、「(しん)」より(うえ)の「大臣(だいじん)」(蘇我馬子(そがのうまこ))も「皇子(おうじ)」より(うえ)の「皇太子(こうたいし)」(聖徳太子(しょうとくたいし))もいないということになっている。しかし、(ずい)使()謁見(えっけん)()のような重要(じゅうよう)なセレモニーに、この二人(ふたり)がともに姿(すがた)()せないということは(かんが)えられない。

いったい、遣隋使(けんずいし)責任(せきにん)(しゃ)は、どちらなのか。(わたし)は、馬子(うまこ)だと(おも)う。2(ねん)()新羅(しらぎの)使(つかい)来日(らいにち)した(とき)も、『日本書紀(にほんしょき)』の記事(きじ)には、推古天皇(すいこてんのう)蘇我馬子(そがのうまこ)大臣(だいじん)登場(とうじょう)するが、聖徳太子(しょうとくたいし)登場(とうじょう)しない。やはり、外交(がいこう)主導(しゅどう)(けん)(にぎ)っていたのは、厩戸皇子(うまやどのみこ)ではなくて、馬子(うまこ)だったのだ。『日本書紀(にほんしょき)』に登場(とうじょう)する「大門(みかど)」が馬子(うまこ)であることは、馬子(うまこ)屋敷(やしき)が「御門(みかど)」とよばれていたことからも裏付(うらづ)けられる。

ところで、なぜ馬子(うまこ)は、(ずい)(たい)しては自分(じぶん)大王(おおきみ)だと詐称(さしょう)し、新羅(しらぎ)(たい)しては推古天皇(すいこてんのう)大王(おおきみ)であることを(かく)さなかったのか。それは、中国(ちゅうごく)では、女性(じょせい)天子(てんし)となることが論外(ろんがい)だったのに(たい)して、新羅(しらぎ)では、善徳(ぜんとく)(しん)(とく)といった女王(じょうおう)擁立(ようりつ)されたことからもわかるように、女王(じょうおう)(たい)する抵抗(ていこう)(かん)(すく)なかったからだ。(のち)に、(とう)(たい)(そう)は、新羅(しらぎ)善徳(ぜんとく)女王(じょうおう)にたいして、女性(じょせい)(おう)にすると、周辺(しゅうへん)諸国(しょこく)から軽蔑(けいべつ)されると警告(けいこく)している。日本(にほん)(ずい)対等(たいとう)文明(ぶんめい)(こく)として(みと)めてもらおうとした馬子(うまこ)は、(ずい)(たい)しては、女性(じょせい)天皇(てんのう)であることを(かく)そうとしたのだ。

(ちょう)大国(たいこく)(ずい)対等(たいとう)立場(たちば)国交(こっこう)(むす)ぼうとすることは、一見(いっけん)無謀(むぼう)(こころ)みのように()える。しかし、馬子(うまこ)は、598(ねん)(ずい)高句麗(こうくり)遠征(えんせい)失敗(しっぱい)し、そのため、北東(ほくとう)アジアにおける軍事(ぐんじ)(てき)パートナーを()つけなければならなくなったというタイミングを見計(みはか)らって、強気(つよき)外交(がいこう)()た。そして、それは成功(せいこう)した。

2.4. 文化的事業

聖徳太子(しょうとくたいし)(すぐ)れた政治(せいじ)()であるだけでなく、(すぐ)れた文化(ぶんか)(じん)でもあるということになっている。(とく)に、『勝鬘経(しようまんきょう)』、『法華経(ほっけきょう)』、『維摩経(ゆいまきょう)』の注釈(ちゅうしゃく)(しょ)である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』は、聖徳太子(しょうとくたいし)高度(こうど)仏教(ぶっきょう)理解(りかい)(しめ)すものだと()われてきた。だが、『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』は、聖徳太子(しょうとくたいし)(あらわ)したとは()いがたい。『勝鬘経(しようまんきょう)()(しょ)』は、敦煌(とんこう)出土(しゅつど)の『勝鬘義疏本義(しょうまんぎしょほんぎ)』と7(わり)同文(どうぶん)で、日本(にほん)(せい)ではなくて中国(ちゅうごく)(せい)(かんが)えられている。『法華(ほっけ)()(しょ)』は、『東院(とういん)資財(しざい)(ちょう)』が示唆(しさ)しているように、8世紀(せいき)行信(ゆきのぶ)捏造(ねつぞう)したものである。『維摩経(ゆいまきょう)()(しょ)』に(かん)しては、『日本書紀(にほんしょき)』に言及(げんきゅう)がない(うえ)内容(ないよう)(てき)にも、聖徳太子(しょうとくたいし)よりも後代(こうだい)杜正倫(とせいりん)百行(ひゃっこう)(しょう)』からの引用(いんよう)があるなど、問題(もんだい)(おお)い。

聖徳太子(しょうとくたいし)は、馬子(うまこ)とともに、国史(こくし)編纂(へんさん)(おこな)ったと()われるが、その成果(せいか)である『天皇(てんのう)()』も『(こっ)()』も残存(ざんそん)していないので、その真偽(しんぎ)(たし)かめる(すべ)はない。ただ、『日本書紀(にほんしょき)』によると、乙巳の変(いっつしのへん)(とき)、『天皇(てんのう)()』も『(こっ)()』も蘇我蝦夷(そがのえみし)邸宅(ていたく)(ない)にあったとされているので、(かり)に、馬子(うまこ)厩戸皇子(うまやどのみこ)共同(きょうどう)編纂(へんさん)だとしても、(しゅ)として馬子(うまこ)編集(へんしゅう)していたのであろうと推測(すいそく)される。

2.5. 結論

以上(いじょう)考察(こうさつ)から(みちび)くことができる結論(けつろん)は、聖徳太子(しょうとくたいし)偉大(いだい)功績(こうせき)一部(いちぶ)はフィクションであり、一部(いちぶ)蘇我馬子(そがのうまこ)功績(こうせき)であるということである。では、『日本書紀(にほんしょき)』の編者(へんしゃ)は、なぜ、馬子(うまこ)業績(ぎょうせき)馬子(うまこ)業績(ぎょうせき)明記(めいき)しなかったのか。なぜ、厩戸皇子(うまやどのみこ)聖徳太子(しょうとくたいし)として聖人(せいじん)()しなければならなかったのか。この()いに(こた)えるためには、(だれ)(なに)のために『日本書紀(にほんしょき)』を()いたのかを(かんが)えなければならない。

3. なぜ聖徳太子は作り上げられたのか

日本書紀(にほんしょき)』の編者(へんしゃ)は、舎人親王(とねりしんのう)であるということになっている。しかし、本当(ほんとう)編集(へんしゅう)責任(せきにん)(しゃ)は、藤原不比等(ふじわらのふひと)だという(せつ)有力(ゆうりょく)である。『日本書紀(にほんしょき)』では不比等(ふひと)(ちち)である鎌足(かまたり)功績(こうせき)がことさらに粉飾(ふんしょく)されていること、最初(さいしょ)は「フヒト」に「不比等(ふひと)」ではなくて、史書(ししょ)編集(へんしゅう)とのつながりを(しめ)す「(ふひと)」という()()てられていたこと、『日本書紀(にほんしょき)』が編集(へんしゅう)されていた(ころ)不比等(ふひと)が、その()のごとく、(ほか)(なら)ぶものがないほどに権力(けんりょく)絶頂(ぜっちょう)にあったことを(かんが)えると、不比等(ふひと)が、『日本書紀(にほんしょき)』の内容(ないよう)(くち)をはさまなかったと(かんが)えることは()現実(げんじつ)(てき)である。

では、藤原不比等(ふじわらのふひと)は、なぜ『日本書紀(にほんしょき)』の編集(へんしゅう)責任(せきにん)(しゃ)であることを名乗(なの)らなかったのだろうか。(じつ)は、これは(きわ)めて藤原(ふじわら)()らしいやり(かた)なのである。藤原(ふじわら)一族(いちぞく)というのは、現代(げんだい)日本(にほん)政界(せいかい)()えば、経世会(けいせいかい)のような、(みずか)らは権力(けんりょく)(おもて)舞台(ぶたい)()つことなく、傀儡(かいらい)背後(はいご)(あやつ)るキングメーカー(がた)政治家(せいじか)集団(しゅうだん)である。鎌足(かまたり)不比等(ふひと)も、生前(せいぜん)最高(さいこう)()太政大臣(だじょうだいじん)になっていない。しかし、それ以上(いじょう)に、不比等(ふひと)には、『日本書紀(にほんしょき)』の編集(へんしゅう)責任(せきにん)(しゃ)であることを表立(おもてだ)って名乗(なの)ることができない事情(じじょう)がある。

日本書紀(にほんしょき)』によれば、馬子(うまこ)(まご)入鹿(いるか)は、人望(じんぼう)(あつ)めていた聖徳太子(しょうとくたいし)()山背大兄(やましろのおおえの)(おう)一族(いちぞく)殺害(さつがい)した。そのため入鹿(いるか)は、(ちち)蝦夷(えみし)とともに、乙巳の変(いっつしのへん)において、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)鎌足(かまたり)たちから、正義(せいぎ)報復(ほうふく)()けて、(ころ)された。(わたし)たちは、この勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のストーリーをそのまま()()れてよいだろうか。

日本書紀(にほんしょき)』をもっと(くわ)しく()もう。そこには、山背大兄(やましろのおおえの)(おう)直接(ちょくせつ)襲撃(しゅうげき)したのは巨勢徳太(こせのとこだ)だと明記(めいき)されている。もしも乙巳の変(いっつしのへん)が、聖徳太子(しょうとくたいし)子孫(しそん)絶滅(ぜつめつ)させたことに(たい)する正義(せいぎ)報復(ほうふく)ならば、入鹿(いるか)とともに、巨勢徳太(こせのとこだ)乙巳の変(いっつしのへん)処罰(しょばつ)されてもおかしくないはずだ。ところが、この巨勢徳太(こせのとこだ)は、大化(たいか)改新(かいしん)で、処罰(しょばつ)されるどころか、左大臣(さだいじん)にまで昇進(しょうしん)している。これは一体(いったい)どういうことなのか。

日本書紀(にほんしょき)』と(どう)時代(じだい)史料(しりょう)(ふじ)()家伝(かでん)』によると、入鹿(いるか)は、「(しょ)皇子(おうじ)」とともに(はか)って山背大兄(やましろのおおえの)(おう)殺害(さつがい)したとあるが、この(しょ)皇子(おうじ)とは(だれ)のことなのか。一人(ひとり)は、入鹿(いるか)が、山背大兄(やましろのおおえの)(おう)()えて、天皇(てんのう)にしたいと(かんが)えていた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)であろうが、「(しょ)皇子(おうじ)」は複数(ふくすう)(かたち)であるから、(すく)なくとも、もう一人(ひとり)必要(ひつよう)である。巨勢徳太(こせのとこだ)が、軽皇子(かるのみこ)側近(そっきん)であることを(かんが)えるならば、軽皇子(かるのみこ)一味(いちみ)であったはずだ。

上宮(じょうぐう)聖徳太子(しょうとくたいし)(でん)()(けつ)()』は、蘇我蝦夷(そがのえみし)入鹿(いるか)軽皇子(かるのみこ)巨勢徳太(こせのとこだ)大伴(おおとも)(うま)馬甘連(みまかいのむらじ)中臣塩屋牧夫(なかとみのしおやのひらふ)主謀(しゅぼう)(しゃ)として列挙(れっきょ)している。『上宮(じょうぐう)聖徳太子(しょうとくたいし)(でん)()(けつ)()』は、平安(へいあん)時代(じだい)前期(ぜんき)()かれた(ほん)だが、『日本書紀(にほんしょき)』や『四天王寺(してんのうじ)聖徳(しょうとく)(おう)(でん)』に疑問(ぎもん)()った匿名(とくめい)著者(ちょしゃ)が、古書(こしょ)調査(ちょうさ)して()いた(ほん)であり、無視(むし)できない。このリストを()ると、蘇我(そが)()以外(いがい)は、大化(たいか)改新(かいしん)権力(けんりょく)()についた人物(じんぶつ)であることがわかる。(すなわ)ち、大化(たいか)改新(かいしん)によって、軽皇子(かるのみこ)孝徳天皇(こうとくてんのう)として即位(そくい)し、大伴(おおとも)(うま)馬甘連(みまかいのむらじ)は、巨勢徳太(こせのとこだ)左大臣(さだいじん)になった(とき)右大臣(うだいじん)となった。

中臣塩屋牧夫(なかとみのしおやのひらふ)は、中臣(なかとみ)藤原(ふじわら)()であること以外(いがい)(なに)もわからないが、この(おとこ)正体(しょうたい)(なに)か。大化(たいか)改新(かいしん)で、軽皇子(かるのみこ)天皇(てんのう)になることができたということは、軽皇子(かるのみこ)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)双方(そうほう)(した)しくしていた媒介(ばいかい)(しゃ)がいたということである。そのような人物(じんぶつ)は、中臣(なかとみの)藤原(ふじわらの)鎌足(かまたり)以外(いがい)(かんが)えられない。だとするならば、中臣塩屋牧夫(なかとみのしおやのひらふ)は、鎌足(かまたり)ということになる。

鎌足(かまたり)は、『六韜(りくとう)』を愛読(あいどく)したマキャベリストで、蘇我(そが)()内部(ないぶ)(あらそ)いを利用(りよう)しながら、蘇我(そが)()弱体(じゃくたい)()させ、蘇我(そが)()()わって権力(けんりょく)()にした。(すなわ)ち、入鹿(いるか)味方(みかた)にして蘇我(そが)(けい)山背大兄(やましろのおおえの)(おう)一族(いちぞく)殺害(さつがい)し、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)味方(みかた)にして入鹿(いるか)蝦夷(えみし)殺害(さつがい)し、蘇我(そがの)日向(ひむか)讒言(ざんげん)させて、石川(いしかわの)()()謀叛(むほん)(うたが)いをかけ、自殺(じさつ)()()み、(のち)にこの讒言(ざんげん)(うそ)であるとして日向(ひむか)筑紫(つくしの)大宰師(だざいのそつ)へと左遷(させん)する。この鎌足(かまたり)謀略(ぼうりゃく)により、蘇我(そが)()完全(かんぜん)没落(ぼつらく)する。

その(なか)でも、クライマックスは蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺(あんさつ)である。石川(いしかわの)()()(さん)(かん)貢進(こうしん)()だと()って入鹿(いるか)内裏(だいり)(おび)()せ、石川(いしかわの)()()上表(じょうひょう)(ぶん)()()げている(とき)に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(みずか)らが、入鹿(いるか)()りつけた。鎌足(かまたり)弓矢(ゆみや)(たずさ)えて、暗殺(あんさつ)参加(さんか)した。『日本書紀(にほんしょき)』は、そう()いている。しかし、これは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)鎌足(かまたり)英雄(えいゆう)印象(いんしょう)()けるための脚色(きゃくしょく)ではないだろうか。

もし本当(ほんとう)に、当日(とうじつ)新羅(しらぎ)百済(くだら)高句麗(こうくり)使者(ししゃ)()ていたならば、(かれ)らは目撃(もくげき)したこのショッキングな事件(じけん)本国(ほんごく)報告(ほうこく)するはずだが、(さん)(かん)歴史(れきし)(しょ)はどれもこの事件(じけん)記録(きろく)していない。それならば、(さん)(かん)使者(ししゃ)()たというのは、入鹿(いるか)(おび)()せるための(うそ)で、入鹿(いるか)は、(さん)(かん)使者(ししゃ)(よそお)った刺客(しかく)によって(ころ)されたと(かんが)えることができる。こう(かんが)えれば、従来(じゅうらい)不可解(ふかかい)とされてきた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)目撃(もくげき)証言(しょうげん)(かん)(じん)鞍作臣(くらつくりのおみ)入鹿(いるか)のこと)を(ころ)しつ」を理解(りかい)することができる。

日本書紀(にほんしょき)』の執筆(しっぴつ)(しゃ)は、政治(せいじ)(てき)思惑(おもわく)()たない官吏(かんり)である。編集(へんしゅう)責任(せきにん)(しゃ)である不比等(ふひと)は、自分(じぶん)都合(つごう)()いように、部分(ぶぶん)(てき)修正(しゅうせい)(くわ)えただけに(ちが)いない。部分(ぶぶん)(てき)捏造(ねつぞう)()整合(せいごう)()()す。その()整合(せいごう)解消(かいしょう)するべく、整合(せいごう)(てき)歴史(れきし)解釈(かいしゃく)(さい)構成(こうせい)する(とき)不比等(ふひと)がどのような思惑(おもわく)歴史(れきし)歪曲(わいきょく)しようとしたかが()えてくる。

不比等(ふひと)目指(めざ)したのは、大化(たいか)改新(かいしん)正当(せいとう)()である。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)鎌足(かまたり)功績(こうせき)美化(びか)するためには、二人(ふたり)によって排除(はいじょ)された蘇我(そが)()悪玉(あくだま)にしなければならない。蘇我(そが)()悪玉(あくだま)にするには、入鹿(いるか)によって殺害(さつがい)された山背大兄(やましろのおおえの)(おう)兄弟(きょうだい)子供(こども)たちを、したがってその()である厩戸皇子(うまやどのみこ)聖徳太子(しょうとくたいし)として善玉(ぜんだま)にしなければならない。こうして、おなじみの勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のストーリーが()まれた。

しかしながら、この説明(せつめい)は、なぜ『日本書紀(にほんしょき)』が、聖徳太子(しょうとくたいし)という人物(じんぶつ)捏造(ねつぞう)し、それを(かみ)のごとく(あが)めるのかという()いに(たい)する(こた)えとしては、不十分(ふじゅうぶん)である。聖徳太子(しょうとくたいし)信仰(しんこう)萌芽(ほうが)は、712(ねん)完成(かんせい)した『古事記(こじき)』に登場(とうじょう)する「上宮之厩戸豊聡耳命王(うえのみやのうまやどのとよとみみのみこと)」という言葉(ことば)()()れる。それゆえ、712(ねん)から『日本書紀(にほんしょき)』が成立(せいりつ)する720(ねん)にかけて、不比等(ふひと)がどのような状況(じょうきょう)()かれていたかを()なければならない。

鎌足(かまたり)は、得意(とくい)権謀術数(けんぼうじゅっすう)により、晩年(ばんねん)天智天皇(てんぢてんのう)のもとに強大(きょうだい)権力(けんりょく)(にぎ)る。ただ、鎌足(かまたり)にとって、(ひと)計算(けいさん)(がい)のことが()きる。壬申(じんしん)(らん)である。天武天皇(てんむてんのう)勝利(しょうり)により、天智(てんじ)(がわ)(むす)びついていた藤原家(ふじわらけ)一時(いちじ)没落(ぼつらく)危機(きき)(さら)されたのだ。しかし、鎌足(かまたり)()不比等(ふひと)は、()()草壁皇子(くさかべのおうじ))を(つぎ)天皇(てんのう)にしたいと(ねが)鵜野讃良(うののさらら)皇女(のひめみこ)天智天皇(てんぢてんのう)(むすめ)天武天皇(てんむてんのう)(きさき))に接近(せっきん)し、権力(けんりょく)中枢(ちゅうすう)(むす)びつくことに成功(せいこう)した。天武天皇(てんむてんのう)()翌月(よくげつ)有力(ゆうりょく)天皇(てんのう)候補(こうほ)だった大津皇子(おおつのみこ)が、冤罪(えんざい)により自殺(じさつ)させられている。(あき)らかに不比等(ふひと)謀略(ぼうりゃく)である。ところが、草壁皇子(くさかべのおうじ)は、天武天皇(てんむてんのう)()()ける(まえ)に、28(さい)(わか)さで死亡(しぼう)する。

そこで、鵜野讃良(うののさらら)は、草壁皇子(くさかべのおうじ)遺児(いじ)である軽皇子(かるのみこ)成長(せいちょう)するまでの時間(じかん)(かせ)ぐために、(みずか)持統(じとう)天皇(てんのう)として即位(そくい)する。4(ねん)()藤原(ふじわら)(きょう)遷都(せんと)しているが、これも()()(きら)ってのことである。不比等(ふひと)は、皇位(こうい)継承(けいしょう)確実(かくじつ)にするために、689(ねん)飛鳥(あすか)(きよ)()(はら)(れい)において皇太子(こうたいし)制度(せいど)(つく)り、軽皇子(かるのみこ)最初(さいしょ)皇太子(こうたいし)にした。『日本書紀(にほんしょき)』が、立太子(りったいし)制度(せいど)神武(じんむ)以来(いらい)存在(そんざい)したように()いているのは、立太子(りったいし)制度(せいど)既成(きせい)事実(じじつ)()するためである。天武天皇(てんむてんのう)(だい)(いち)皇子(おうじ)で、持統(じとう)(ちょう)太政大臣(だじょうだいじん)(つと)めていた、つまり有力(ゆうりょく)天皇(てんのう)候補(こうほ)だった高市皇子(たけちのみこ)死亡(しぼう)した(暗殺(あんさつ)された?)翌年(よくねん)持統(じとう)天皇(てんのう)皇位(こうい)(まご)軽皇子(かるのみこ)(ゆず)った。これが文武(もんむ)天皇(てんのう)である。ところが、文武(もんむ)天皇(てんのう)は、25(さい)(わか)さで()んでしまった。

そこで、やむなく文武(もんむ)天皇(てんのう)(はは)が、文武(もんむ)天皇(てんのう)遺児(いじ)である首皇子(おびとのみこ)成長(せいちょう)するまでの時間(じかん)(かせ)ぐために、元明(げんめい)天皇(てんのう)として即位(そくい)する。3(ねん)()平城京(へいじょうきょう)遷都(せんと)しているが、これも()(けがれ)(きら)ってのことである。この(とき)不比等(ふひと)は、こう(かんが)えたはずだ。自分(じぶん)(まご)首皇子(おびとのみこ)病弱(びょうじゃく)で、(さき)不安(ふあん)だ。持統(じとう)(けい)皇族(こうぞく)外戚(がいせき)となって、権力(けんりょく)掌握(しょうあく)しようとする自分(じぶん)計画(けいかく)は、なぜこうもうまくいかないのか。これは、きっと怨霊(おんりょう)のたたりがなせる(ごう)相違(そうい)ないと。

不比等(ふひと)(ちち)鎌足(かまたり)で、持統(じとう)(ちち)天智天皇(てんぢてんのう)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ))である。鎌足(かまたり)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、蘇我(そが)一族(いちぞく)滅亡(めつぼう)させた。だから、「子孫(しそん)断絶(だんぜつ)となった蘇我(そが)一族(いちぞく)怨霊(おんりょう)は、鎌足(かまたり)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)子孫(しそん)断絶(だんぜつ)させることにより、復讐(ふくしゅう)をしている。白村江(はくすきのえ)(たたか)いや壬申(じんしん)(らん)での敗北(はいぼく)草壁皇子(くさかべのおうじ)文武(もんむ)天皇(てんのう)夭折(ようせつ)も、すべて蘇我(そが)()のたたりだ」と不比等(ふひと)(かんが)えたに(ちが)いない。

怨霊(おんりょう)(わざわ)いから(のが)れるには、遷都(せんと)のような消極(しょうきょく)(てき)方法(ほうほう)ではなくて、鎮魂(ちんこん)という積極(せっきょく)(てき)方法(ほうほう)必要(ひつよう)である。歴史(れきし)(しょ)執筆(しっぴつ)し、蘇我(そが)()功績(こうせき)絶賛(ぜっさん)し、(かれ)らの(たましい)(なぐさ)めなければならない。だが、そうすれば、蘇我(そが)()(ほろ)ぼした鎌足(かまたり)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)悪玉(あくだま)になってしまう。そこで、蘇我(そが)()悪玉(あくだま)善玉(ぜんだま)分割(ぶんかつ)し、善玉(ぜんだま)(なか)に、蘇我(そが)()全体(ぜんたい)象徴(しょうちょう)する架空(かくう)人物(じんぶつ)()れ、その(ひと)(かみ)として(あが)(まつ)ろう。そうすれば、一方(いっぽう)藤原(ふじわら)()面子(めんつ)をたてながら、他方(たほう)蘇我(そが)()供養(くよう)をすることができる。不比等(ふひと)は、こう(かんが)えたわけだ。

かくして、聖徳太子(しょうとくたいし)伝説(でんせつ)誕生(たんじょう)する。聖徳太子(しょうとくたいし)伝説(でんせつ)誕生(たんじょう)したのは、文武(もんむ)天皇(てんのう)死没(しぼつ)の5(ねん)()にあたる712(ねん)(ごろ)である。法隆寺(ほうりゅうじ)再建(さいけん)されるのもこの(ころ)である。梅原(うめはら)(たけし)は、法隆寺(ほうりゅうじ)聖徳太子(しょうとくたいし)怨霊(おんりょう)鎮魂(ちんこん)するための(てら)であると主張(しゅちょう)したが、この見解(けんかい)(たい)しては、従来(じゅうらい)、なぜ山背大兄(やましろのおおえの)(おう)入鹿(いるか)ではなくて、厩戸皇子(うまやどのみこ)怨霊(おんりょう)とされなければならないのかという批判(ひはん)()げかけられてきた。だが、もしも、聖徳太子(しょうとくたいし)厩戸皇子(うまやどのみこ)という特定(とくてい)個人(こじん)ではなくて、蘇我(そが)一族(いちぞく)全体(ぜんたい)(まつ)った(かみ)(かんが)えるならば、そうした疑問(ぎもん)氷解(ひょうかい)する。

(ふる)くから日本(にほん)には、子孫(しそん)断絶(だんぜつ)となった政治(せいじ)(てき)敗者(はいしゃ)は、たたりをなすと(かんが)える怨霊(おんりょう)信仰(しんこう)がある。その(さい)複数(ふくすう)被害(ひがい)(しゃ)が、(ひと)つの(かみ)へと(まつ)()げられるという現象(げんしょう)がしばしば()きる。(たと)えば、『古事記(こじき)』や『日本書紀(にほんしょき)』は、大和(やまと)三輪山(みわやま)のオオモノヌシと出雲(いずも)のオオクニヌシを同一(どういつ)(しん)としているが、両者(りょうしゃ)本来(ほんらい)別々(べつべつ)(かみ)だったはずだ。それが、邪馬台(やまと)東征(とうせい)()征服(せいふく)(しゃ)という共通(きょうつう)(こう)によってくくられ、同一(どういつ)()されてしまった。

藤原(ふじわら)()怨霊(おんりょう)(たい)する恐怖(きょうふ)(しん)は、不比等(ふひと)()(にん)()相次(あいつ)いで死亡(しぼう)するという737(ねん)劇的(げきてき)出来事(できごと)(さかい)に、エスカレートしていく。その(ころ)になると、怨霊(おんりょう)(たい)して、(はじ)外聞(がいぶん)もなく自分(じぶん)たちの()(みと)め、高位(こうい)高官(こうかん)追贈(ついぞう)するなど、怨霊(おんりょう)鎮魂(ちんこん)のサービスも過大(かだい)になる。だが、不比等(ふひと)時代(じだい)には、藤原(ふじわら)()はまだ面子(めんつ)にこだわっていたので、聖徳太子(しょうとくたいし)伝説(でんせつ)怨霊(おんりょう)信仰(しんこう)産物(さんぶつ)であることが非常(ひじょう)にわかりにくくなっている。

日本書紀(にほんしょき)』は、天皇(てんのう)(いのち)()けて、舎人親王(とねりしんのう)編集(へんしゅう)したことになっている。しかし実際(じっさい)には、『日本書紀(にほんしょき)』は、中立(ちゅうりつ)(てき)立場(たちば)から編集(へんしゅう)された歴史(れきし)(しょ)ではなく、藤原(ふじわら)()政治(せいじ)(てき)思惑(おもわく)によって、歪曲(わいきょく)されている。不比等(ふひと)は、それをもカムフラージュするために、自分(じぶん)を『日本書紀(にほんしょき)』の編集(へんしゅう)(しゃ)であることを公言(こうげん)しなかった。

(わたし)たちは、藤原(ふじわら)()による歴史(れきし)歪曲(わいきょく)怨霊(おんりょう)信仰(しんこう)のからくりを理解(りかい)し、聖徳太子(しょうとくたいし)正体(しょうたい)(ただ)しく認識(にんしき)しなければならない。(とく)にこれまで極悪(ごくあく)(にん)(あつか)いされてきた蘇我馬子(そがのうまこ)(さい)評価(ひょうか)するべきだ。蘇我馬子(そがのうまこ)は、野蛮(やばん)だった日本(にほん)を、国際(こくさい)(てき)通用(つうよう)する文明(ぶんめい)(こく)にした有能(ゆうのう)政治家(せいじか)だったのだから。