9月 092005
 

アブダビは、ペルシャ湾南部に面するアラブ首長国連合(UAE)の首都である。日本人の中には、アラブ首長国連合という国名すら知らない人も少なくないが、アラブ首長国連合からの原油輸入量は、日本の全原油輸入量の24%を占め、国単位では最も多い(1991年度現在)。だから、アラブ首長国連合は、実は、日本にとってきわめて重要な国である。ムハンマド・アル・ファヒム著の『ぼろから富へ:アブダビ物語』を読んで、この有名でない国の有名でない歴史を学ぼう。

1. 遊牧民族ベドゥインの習慣

アブダビ近辺では、もともとベドゥインが遊牧で生計を立てていた。ヨーロッパ人がこの地に進出するまでは、キャラバンと呼ばれるイスラム系の商隊がラクダに乗って砂漠を横断するということがよくあった。ベドゥインたちは、歓迎するべきキャラバンを自分たちの野営地に泊まらせ、彼らを保護する義務を負った。

では、キャラバンたちは、歓迎されているかどうかをどうやって判断したのだろうか。それは、ホストから飲み物(例えば、コーヒー)が出されるかどうかでわかる。

If, for example, someone visited another’s house and was not offered a refreshment, it was a clear sign of the host’s displeasure with the visitor and an indication that he was not welcome. If coffee was withheld, it meant the host was annoyed with the visitor. Similarly, if the guest did not drink the refreshment he was offered it was an indication that he was displeased with the host.

もしも、例えば、ある人が他の人の家を訪問して、飲み物が出されなかったら、それは、ホストが訪問者を不快に思っている明確な印で、歓迎されていないことを示した。もしもコーヒーが保留になれば、それは、ホストが訪問者を迷惑がっているということを意味した。同様に、もしも客が出された飲み物を飲まなかったなら、それは、客がホストを不快に思っていることを示した。

[Mohammed Al Fahim:From Rags to Riches: The Story of Abu Dhabi, p.27]

中東では、飲み物が貴重だから、こうした習慣ができるのだろうか。この習慣は、今でも続いている。たんにコーヒーが嫌いなだけで、飲むのを断ると「ホストの態度が気に入らない」と言うのと同じことになる。アラブ人には、親日家が多いので、日本人が行けば、たいがいコーヒーを出してくれるのだが、こういうルールがあることを知らないと、誤解されて大変なことになる。

2. ザイード・ビン・ファリファの支配

大航海時代になると、イスラム商人に代わって、ヨーロッパ人がこの地方の通商を担うようになる。アブダビ周辺諸国は、1853年に締結された休戦協定に因んで、「休戦国家」と呼ばれていた。

インドを植民地化したイギリスは、インドと中東との交易を安全にするために、ペルシア湾内のシーレーンを確保しようとした。そして、アラブの原住民が、一致団結してイギリスに抵抗しないように、部族どうしが争い合うように画策していた。

アブダビで権力闘争に勝利したのは、シェイフ・ザイード・ビン・ファリファである[s]。彼は、1855年から1909年にかけて、長期間にわたって、アブダビとその周辺の支配者となった。

[s] シェイフ(Sheikh)は、アラブ諸国で、指導者につける敬称である。

He defeated Sheikh Khalid bin Sultan, ruler of Sharjah, in 1868, by killing him in one-on-one combat thus gaining much prestige and respect among the bedouin tribes.

彼は、1868年に、シャルジャの支配者であるシェイフ・ファリド・ビン・スルタンを一対一の格闘で殺害することで、打ち負かし、かくして、ベドゥインの部族の間で大きな名声と尊敬を獲得した。

[Mohammed Al Fahim:From Rags to Riches: The Story of Abu Dhabi, p.34]

トップ同士の決闘で権力闘争にけりをつけたというのだから、19世紀であるにもかかわらず、この地域はまだ前近代的な段階にとどまっていたということがわかる。

シェイフ・ザイード・ビン・ファリファは、フランスと手を結んで、イギリスの支配に対抗しようとしたが、うまくいかなかった。シェイフ・ザイード・ビン・ファリファの死後、後継者の地位をめぐって、暗殺が連続的に起きている。アルファヒンは、イギリスの陰謀だと言っている。イギリスは、原住民の支配者が言うことを聞かなくなると、その親戚を応援するということをしていたようだ。

3. 真珠生産から石油生産へ

石油を輸出する前のペルシャ湾岸地帯の主要な輸出品は、真珠であった。天然真珠の採取は、苛酷な労働であったが、これによって、人々が豊かになることはなかった。

Unfortunately, the only people who really benefited from pearling were the merchants, most of whom were Indians. They bought the pearls and re-sold them in India to wholesalers who then distributed them to the rest of the world.

不幸なことに、真珠産業で本当に儲けた人々は、商人に限られており、その大部分はインド人であった。商人たちは、真珠を買って、インドで、世界の他の地域に配給する卸業者に転売した。

[Mohammed Al Fahim:From Rags to Riches: The Story of Abu Dhabi, p.40]

インドは、イギリスの植民地だから、実際に儲けているのはイギリス人ということになる。その証拠に、直接取引きを禁止していたのは、イギリス軍だった。もっとも、宝石の売買は、伝統的にユダヤ商人が強いから、ユダヤ系のイギリス人が捌いていたのかもしれない。

1930年代になると、日本の安い養殖真珠が世界市場を席巻し、真珠の価格の暴落により、湾岸地帯の天然真珠産業は崩壊する。アブダビは、真珠に代わる輸出品を求めたが、石油で国家財政が潤うようになるまでには、長い時間が必要だった。

4. イギリスの植民地統治

It is disappointing that the British, despite their presence in the Trucial States for almost two centuries, never lifted a finger to help us in the areas of education and  health care. Not a single brick was laid by the British before 1959 to help the people of Abu Dhabi better their lives; they never built a school, a medical clinic or a mosque.

嘆かわしいことに、イギリスは、ほぼ二世紀にわたって休戦国家に君臨していたにもかかわらず、この地域の教育と医療にまったく貢献しなかった。イギリスは、1959年までは、アブダビの人々の生活改善のために何も造らなかった。彼らは、学校、診療所、モスクを一軒も建てなかった。

[Mohammed Al Fahim:From Rags to Riches: The Story of Abu Dhabi, p.58]

これは、イギリスの植民地統治と日本の併合地統治の大きな違いである。日本人は、併合地を内地と同等視し、インフラを整備し、学校を造り、人材を育て、産業を興した。その結果、日本が統治した台湾や韓国は、独立後、近代的な工業国家になることができた。

これに対して、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国は、愚民政策で植民地を統治をしようとした。教育を行わないことで被支配者をできるだけ無知蒙昧な状態に放置し、支配者階級にならないようにした。さらに被支配者内部の対立を煽って、植民地統治への叛乱が起きないようにしようとした。こうした愚民政策のおかげで、ヨーロッパが統治した国々のほとんどが、近代的な工業国家になることができなかった。

日本は、南洋諸島でも教育に力を入れ、製糖工場などを造ったが、太平洋戦争後、アメリカが統治するようになると、観光産業だけの島になってしまった。もちろん、工業化には、環境破壊などの負の側面もあった。しかし、島民たちは、日本の近代化の努力をおおむね評価している。

イギリスは、第二次世界大戦後は福祉国家となり、そのため、1960年以降は、植民地にも学校を作るようになった。しかし、1962年に、著者の母が30歳で死亡した時には、湾岸地帯に医者も看護士も一人もいなかったというから、この地域の福祉がいかに遅れていたかがわかる。

5. UAEの独立

1968年1月に、イギリスは、湾岸地方の植民地支配から撤退することを表明した。理由は財政的なものなのだが、アラブ民族主義の高揚という政治的な理由もあったようだ。

イギリスが撤退すると、かつてイギリスが独占した市場に、日本、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカなど他の先進国がなだれ込んできた。

例えば、日本人は、エアコンの付いた、より小型でコンパクトな車を提供した。日本人は、また、四輪駆動の車を安い価格で作った。日本人が作った可動発電機は、イギリスの類似の機械よりも動かすのが容易であった。

The Japanese, for example, offered smaller more compact cars equipped with air conditioning. They also produced more affordable four-wheel driver vehicles as well as portable generators  which were  easier to move than similar British machines.

[Mohammed Al Fahim:From Rags to Riches: The Story of Abu Dhabi, p.147]

イギリスはイスラエルを支持したために、アラブ人の間でイギリス製品に対するボイコット運動が起きた。このため、湾岸地域の市場が拡大したにもかかわらず、イギリスはあまり利益を受けることがなかった。

イスラム圏の映像を見ていると、走っている車のほとんどがトヨタの車であることに気付く。英米がイスラム圏を敵に回したおかげで、日本企業は、いろいろと得をしている。逆に言うと、英米は、イスラムを敵に回す損害を覚悟の上で、イスラエルを支持しているということである。

6. 石油立国の繁栄と将来

アブダビは距離的に離れていることもあって、第三次中東戦争までは、イスラエルとの紛争に関わらずにきた。しかし、独立後に起きた第四次中東戦争のときには、UAEは、アラブの団結のために積極的に行動した。

1973年にイスラエルと闘っていたアラブの同胞を支持するために、シェイフ・ザイードは、アラブの国家元首としては最初に石油の全面輸出禁止という英断を下した。その後すぐに、サウジアラビアがそれに倣った。

In support of our Arab brothers who were engaged with Israel in 1973, Sheikh Zayed was the first Arab head of state to take the courageous decision to stop the export of oil completely. Saudi Arabia followed suit immediately

[Mohammed Al Fahim:From Rags to Riches: The Story of Abu Dhabi, p.158]

原油価格の高騰で、OPEC諸国は一時的に潤ったが、石油輸入国が不況に陥り、石油の輸入量が減り、80年代になると原油価格は暴落した。現在も石油の価格が上昇しているが、石油の恩恵にいつまでも頼っているわけにはいかない。では、中東諸国は、石油で稼いだ金を何に投資したらよいのだろうか。ムハンマド・アル・ファヒムは、それは教育だと言う [Mohammed Al Fahim:From Rags to Riches: The Story of Abu Dhabi, p.188]。代替エネルギーが主流になったり石油が枯渇しても、国内に人的資源と知的拠点を作ることができれば、UAEはその豊かさを失わずにすむだろう。

読書案内
書名From Rags to Riches: The Story of Abu Dhabi
媒体ハードカバー
著者Mohammed Al Fahim
出版社と出版時期London Ctr of Arab Studies, 1995/11
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