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第一哲学としての一般システム論

2005年9月30日

生物学者のルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィが提唱した一般システム理論は、世間では哲学とは見なされていない。しかし、もしもアリストテレスが謂う所の第一哲学が、アリストテレスの時代にそうであったような万学の女王であろうとするなら、一般論としてのシステム論は、現代における第一哲学の一つの候補になりうる。このページでは、第一哲学としての一般システム論の構想を示すとともに、それがなぜ必要であるかを論じる。

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1. 一般システム論の構想

日本では「システム論」という呼称が一般に使われているが、英語圏で最もよく使われている呼称は「システム理論(systems theory)」である。この名称は、超領野的なシステム研究のパイオニアであるルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィが1968年に出版した『一般システム理論(General System Theory)』の書名に由来している。ベルタランフィは、科学の専門化と研究領域の細分化が、科学者間のコミュニケーションを妨げている現状を憂い、システム一般に適用可能な普遍的原理の理論を求めた。

かくして我々は、一般システム理論と呼ばれる新しい領域を要求する。その主題は、「システム」一般に当てはまるような原理を形成し、導き出すことである。[1]

ベルタランフィの専門は生物であり、彼は、細胞と有機体などのアナロジーに基づいて、システムを要素的部分に対する有機的全体と考えていた。私は、こうした構造的定義は不毛であり、システムを選択の主体と捉える機能的定義を重視するべきだと考える。このように、私は、個別的な議論に関しては、必ずしもベルタランフィに賛同しないが、科学の限界を超えてシステムの普遍的法則を求めた彼の志には共鳴し、それを受け継ごうとする者である。

但し、「一般システム理論(General System Theory)」という名称をそのまま受け継ごうとは思わない。私は、この表現に代えて「システム論」という名称を使いたい。そして「システム論」に相当する英語として、“systemics”という単語を選びたい。それにはいくつか理由がある。以下、「一般システム理論」の「システム理論」と「一般理論」という二つの側面について、私の見解を述べたい。

1.1. システム理論について

まず「システム理論」について検討しよう。ベルタランフィはドイツ語圏の出身であるから、“System Theory”は、おそらくドイツ語の“Systemtheorie”を英語に直訳した表現なのだろう。しかし、英語圏ではこうした合成ができないので、可算名詞の“system”を複数形にして、“systems theory”という連語にしなければならない。ドイツ語の場合、“systemtheoretisch”という一単語を形容詞や副詞として使うことができるが、“systems theory”だと、ドイツ語のように簡単に形容詞句や副詞句にすることができない。

要するに“System Theory”はドイツ語向けの表現であって、英語向けの表現ではないのである。そのためなのか、英語圏では“systemics”という名称も一部の学者の間で使われている。“systemics”は、一単語なので、“systems theory”とは異なって、形容詞“systemical”や副詞“systemically”を簡単に作ることができる。日本語でも「システム理論的な」とか「システム理論的に」といった言い回しは、重々しくてぎこちないが、「システム論的な」や「システム論的に」といった言い回しなら、違和感なく使える。

もとより、この言葉が作られたのは、そうした実用的なメリットからではない。“systemics”という名称を最初に提唱したのは、マリオ・ブンゲであるが、彼は、フォン・ベルタランフィが単数形で語った“System Theory”が、実際には複数の理論の集合であることから、これらの諸理論を包括する学問として“systemics”という呼称を考案した。

諸システムの構造的特徴に焦点を当て、それゆえ、諸学問領域間に立ちはだかる、大概は人為的な障壁を乗り越えることができる諸理論のこの集合をシステム論と呼ぶことにしよう。[2]

語源的に分析するならば、“systemics”は、“system”に学問名であることを表示する接尾語“-ics”が付いていた語で、“-ics”は、さらに、形容詞を作る接尾語“-ic”と複数形を作る接尾語“-s”からできており、したがって、“systemics”は、「システムに関する諸理論」という意味になる。“systemics”は、単数扱いであるが、もともとは複数概念であるから、一般システム理論が、複数の理論の集合であるならば、単数形の“system theory”よりも“systemics”の方がふさわしいということになる。

日本の翻訳業界は、まだ市民権を得ていない“systemics”の定訳を確立していないが、私は、「システムに関する諸理論」の略称としての「システム論」を“systemics”の訳語に指定したい。「システム論」という名称は、日本ではよく使われるにもかかわらず、それに相当する英語表現はないとされてきたので、“systemics”を「システム論」と訳すことは、孤児と里親を結び付けるようなものなのだが、言語学では、“semantics”を「意味論」あるいは「記号論」と訳し、“pragmatics”を「語用論」あるいは「運用論」と訳すという慣行があるので、私の提案はそれほど無理があるものではないだろう。

1.2. 一般理論について

次に「一般」の方の検討に入ろう。ベルタランフィは「一般/特殊」の関係を「全体/部分」の関係と捉えていた。

そこで、一般システム理論は、つい最近まで、科学の限界を超える形而上学的な観念と考えられていた「全体」や「全体性」の科学的探究であるということになる。

General system theory, then is scientific exploration of “wholes" and “wholeness" which, not so long ago, were considered to be metaphysical notions transcending the boundaries of science. [3]

ブンゲも、同様の観点から、システム論は、その一般性ゆえに、形而上学的性格を帯びると指摘する。

システム論ないし一般システム理論は、科学的技術的研究領域であり、かつ、哲学にとってかなり関心を惹く対象の一つである。その一般性ゆえに、それは、我々の科学的存在論という意味でと同時に、ヘーゲル以前の伝統的意味で解釈された存在論や形而上学とかなり重複している。[4]

この引用に見られるに、ブンゲはシステム論と一般システム理論を同一視しているが、これには賛成しかねる。「一般的(general)」の対概念は、「類(genus)」と「種(species)」の概念対立から、「特殊(special)」であり、科学理論においても、一般相対性理論と特殊相対性理論というように、対にして使われる。ブンゲのように、システム論と一般システム理論とを同一視すると、特殊システム論は形容矛盾ということになるが、語源的に見て、システム論には、一般という意味は無い。システム論は、システムに関する諸理論という意味であるのだから、例えば情報システム論とか社会システム論などといった特殊システム論は、特定のシステムに関する特殊な諸理論、すなわち、特定領域に関する専門科学に相当することになる。

そこで「一般システム理論」は「一般システム論(General Systemics)」に相当するということになる。私も、これを自分の理論の名称にしようと思ったこともあったが、これだと、個別の特殊システム論(諸科学)を捨象した抽象的な存在論や形而上学しか扱わないという印象を与えてしまうと考え、止めることにした。私が目指しているのは、一般システム論と特殊システム論としての諸科学を一つのシステム論として集大成する広い意味での哲学である。

アリストテレスの時代、哲学は学問全般を意味した。そこで、アリストテレスは、形而上学を「第一哲学」と呼び、それ以外の自然学など学問を「第二哲学」と呼んで区別した。近代になって、実証科学が哲学から独立したため、「哲学」は、アリストテレスが謂う所の「第一哲学」しか意味しなくなったが、あえてアリストテレスの用語法を用いて言うなら、一般システム論が狭義の哲学、すなわち第一哲学に相当するのに対して、個別の特殊システム論は第二哲学で、一般システム論に基づいたシステム論の普遍的な理論が、広義の哲学としてのシステム論ということになる。

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私がシステム論で目指していることは、古代においてアリストテレス(左)が、中世においてトマス・アクィナス(中央)が、近代においてヘーゲル(右)がやろうとした学の統一を現代において行うことである。

システム論は、ともすれば個よりも全体を重視するホーリズムであると思われがちであるが、私のシステム論は、哲学的にも政治的にもホーリズム(全体主義)を否定する立場にある。学問は、学問であるためには、普遍的でなければならないが、その普遍性は、個の特殊性を捨象した抽象的普遍性ではなくて、特殊性を包摂する具体的普遍性でなければならない。

1.3. 専門の垣根を越えた知的冒険へ

最後に、システム論のシステムがなぜ必要なのかについて述べよう。フォン・ベルタランフィが指摘したように、科学の専門分野は、科学の進歩と共にますます細分化され、「木を見て森を見ず」とでも言うべき弊害が深刻化している。一般的に言って、学問を専門化すればするほど、個別的な情報の量は増えるが、普遍的な法則は発見されにくくなる。「全体は部分の総和以上である[5]」である以上、部分についての科学とは別に、「“全体性”の一般的科学[6]」としての「一般システム理論」が必要になる。このサイトを通じて、私は、第一哲学としての一般システム論およびそれに基づく普遍的システム論の構築を目指したい。

2. 補論(1)システムの研究はなぜ必要なのか

2005年9月30日

Toki Pona: 永井俊哉氏について」に対するコメント。システムの超領野的研究が必要なのは、部分について知るには、全体を知らなければならないからであり、また、部分を改善するには、全体を変えなければいけないからです。

長沼さん曰く、「彼の理論は正しい点もありますけど、正誤以前に面白くないですね」とのことです。[7]

多分長沼さんは、私が書いた『無形化世界の力学と戦略』の書評の部分だけをお読みになって、そうおっしゃったのでしょう。私自身、あの書評が面白いものだとは思っていません。

吉岡さんも不満そうながら永井氏のルーマンの理論の解釈に一定の評価を与えていることからも明らかなように、横断的な知識が豊富な人だと思います。問題は「で、結局何がやりたいの?」というところに尽きると思います。長沼さんが「面白くない」と言われたのは多分そういう意味だったのではないかと想像します。[8]

私の研究の目標はシステムについての包括的研究で、その目的は、抜本的かつ整合的な社会システム変革のための理論的基礎を提供することです。

システムは、一つをいじると、他が狂ってくるというように、相互依存性が高いので、社会システムを変革する時、専門家が、一面的な知見に基づいて、部分的な修正を加えるやり方は、しばしば好ましくない結果を帰結したり、一時的な弥縫策に終始することがあります。同じことは、変革されるべきシステム(社会システム)についてだけでなく、変革するシステム(知のシステム)についても言えます。社会システム、さらにはシステム一般についての包括的(システム的)知識が必要なゆえんです。

3. 補論(2)普遍的理論を構築するにはどうすればよいのか

2005年10月11日

Toki Pona: 永井氏の自分の評論への応答について」に対するコメント。普遍的で包括的な理論を構築するにはどうすればよいかという質問に対する答え。

永井氏のサイトに記述されているほど豊富な知識が、システムの包括的研究に必要不可欠なものなのでしょうか? そして、もし必要不可欠なのであれば、それらの知識をどのように利用してシステムの包括的研究を行なうべきなのでしょうか?永井氏の各文章を読むと、逆にシステムの包括的研究成果を通して各分野を分析されているように感じます。自分自身様々な知識を吸収することにより(もちろん永井氏の知識の脚元にも及ばないほど狭量で稚拙な知識ですが)何か包括的な成果を得たいと思ってきましたが、具体的にどうすればよいのか悩んでいる故の疑問です。[9]

システム論を研究するとき、システム論を研究しているという意識をまず捨てることが重要です。目標を立てて、計画通り進める研究ほどつまらないものはありません。むしろ、計画通り行かないところが学術研究の醍醐味です。

ある成果を得ようと実験をしたところ、思わぬ発見をしたり、ある知識を得ようと本を読んだところ、別のテーマで新しいアイデアが閃いたりするということがよくあります。

学校教育がガイド付きのパッケージツアーだとするならば、在野での自由研究は、ジャングルの中の冒険といったところです。興味のおもむくまま、縦横無尽に冒険しながら、後で包括的な地図を描けばよいのです。前者では、不確定性が小さい分、それを縮減する価値も小さくなるのに対して、後者では、不確定性が大きい分だけ、それを縮減する価値は大きくなります。

方法としては、哲学を勉強することをお勧めします。哲学それ自体は、抽象的で無味乾燥ですが、具体的な経験科学をいろいろ勉強することと哲学の勉強をすることとを交互に繰り返しているうちに、普遍的な理論を作ることができるようになります。

4. 補論(3)システム一般をどう定義するべきか

2005年12月17日

数学屋のメガネ:機能としてのシステムの定義」に対するコメント。システムの定義において、機能が先か、構造が先かという問題を取り上げます。

僕は、システムのイメージを宮台氏の説明で頭に描いていた。それは、部分要素を持った集合体で、その部分の間に「互いの存在の前提を供給する」というループの構造を持ったものとして登場してきた。これは集合体としての実体に構造がプラスされて考えられていると受け取った。実体と機能の両方が統一されているものがシステムという感じがしていた。[10]

たしかに、宮台さんは、

「システム」とは複数の要素が互いに相手の同一性のための前提を供給し合うことで形成されるループ(の網)です。最単純にはAがBのための前提を供給し、BがAのための前提を供給する「前提循環」ないし「交互的条件」づけがあるときシステムが存在します。[11]

と言っています。しかし、これは「社会システム理論がシステムをどう概念化しているのか」に関してのルーマンの「有機体的システム概念」の紹介という文脈で出てきています。そして、前後を読んでわかることは、ここで謂う所の「有機体的システム概念」とは、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラのオートポイエーシスのことであって、システム一般の定義ではありません。

ただ、宮台さんの説明を読むと、この定義は、有機体的なオートポイエーシスというよりも、むしろ、ダブル・コンティンジェントな社会システムのあり方の説明ではないかと思います。オートポイエーシスというのは、「三つ子の魂百まで」というような、自己準拠的な自己再生産であって、環境との相互作用とは逆の概念ですから。

そう断った上で、「複数の要素が互いに相手の同一性のための前提を供給し合うことで形成されるループ」の最単純なケースを数学的な対応例で考えてみましょう。

y=2x
x=2y+1

という二つの関数では、x=1とすると、y=2となり、y=2とすると、x=5となり、x=5とすると、y=10となり…というように、いつまでたっても関数の値が決まりません。変数によって関数が一意的に決まるがゆえに、一意的に決まらないというパラドックスが生じます。

もちろん、時系列にそって、x1=1, x2=5, x3=21… というように、番号振って、差別化すれば、矛盾もパラドックスも生じなくてすむのですが、xやyが人間の場合、超時間的な同一性が社会的責任として要求されます。約束を破った人が、自分の言動に番号を振って、「それは“私1”の発言であって、今の“私2”とは関係がない」などとは言えません。ですから、社会学においては、相互に相手の選択が自己の選択の前提となっているダブル・コンティンジェンシーは、パラドキシカルな様相を呈して、学問的関心を惹きます。

私は、以上のようなダブル・コンティンジェントな社会システムを「他者準拠型の複雑系」と名付けました[12]。それは、複雑系全体を包括するわけでもなければ、ましてや、システム一般と同一視することはできません。相互に相手を変数として含むことが、関数一般の特徴でないように、「複数の要素が互いに相手の同一性のための前提を供給し合うことで形成されるループ」は、システム一般の特徴ではありません。

5. 補論(4)2ちゃんねるの哲学板への反論

2013年11月25日

グーグルで「永井俊哉」を検索すると、“【最強の男】 永井俊哉 Part1 【リバタリアン】”というページが上位に掲載されていた。何なのかと思ってクリックしてみたら、2ちゃんねるの哲学板に立てられたスレッドだった。

【最強の男】 永井俊哉 Part1 【リバタリアン】 (media) 2ちゃんねる (author) 考える名無し さんが書きました:

1 :考える名無しさん:2013/09/30(月) 09:17:40.37 0
システム論アーカイブ
http://www.systemicsarchive.com/ja/

システム論フォーラム
http://www.systemicsforum.com/ja/

2 :考える名無しさん:2013/09/30(月) 09:24:49.03 0
嘗てコメント欄にて永井に挑みかかった者が多数いたが
永井俊哉を論破した者は誰一人としていない

故にスレタイにて「最強」とさせてもらった

3 :考える名無しさん:2013/09/30(月) 09:32:22.76 0
永井の論考する学問は多岐にわたる

哲学・数学・言語学
物理学・化学・地学
生物学・生理学・人類学
心理学・精神分析学・教育学
民俗学・宗教学・芸術学
社会学・社会史学
経済学・経済史学
政治学・政治史学
倫理学・法学・思想史学
政策提言・時事評論

>>2(※)現状最強でも今後も最強とは限らない
はたして論破できる人は出てくるのであろうか?

4 :考える名無しさん:2013/09/30(月) 09:41:21.23 0
哲学に興味持ち始めた頃この人のブログにお世話になってたわ
かなり薄く広くだけど知識すごいよね。

5 :考える名無しさん:2013/10/01(火) 14:06:50.14 I
確かにすごい
ああいう問題の切り込み方ができたらいいんだけどなぁ

6 :考える名無しさん:2013/10/10(木) 18:47:40.60 0
頭の良い人の考える事はよくわからん
凡人とは視点が違いすぎる
ゆえにコメント欄で一般人とチグハグな論になるんだろうな
まあ一般人の最低限の知識が追いついてないこともあるのだろうがな

7 :考える名無しさん:2013/11/18(月) 17:59:12.30 0
ここまで全て自演

>>1から>>4の流れなんか特に酷い

胡散臭え野郎だ

誰が立てたスレッドか知らないが(もちろん私ではない)、このスレッドのタイトルにある「最強の男」には違和感を覚える。まるで格闘家みたいだ。「現状最強でも今後も最強とは限らない」「はたして論破できる人は出てくるのであろうか?」などとあるが、私がコメント欄をオープンにしているのは、ボクシングのチャンピオンが挑戦者にタイトルマッチを呼びかけるような意図によるものではない。学問的議論はどうあるべきかに関する私の見解は既に述べたので、それを再掲しよう。

日本の大学は英語で授業を行うべきか (date) 2013年8月02日 (author) 永井俊哉 さんが書きました:

議論は、しばしば論争とか論戦と呼ばれることもありますが、しかし、それは戦争やスポーツのように、勝ち負けを決めることが目的ではありません。議論において重要なことは、議論を通じて双方が認識を深めることです。戦争やスポーツにおいては、勝った側が喜び、負けた側は悔しがります。しかし、学問的議論においては、勝負がついたとしても、勝った側が喜び、負けた側が悔しがる理由はありません。それどころか、むしろ負けた側の方が、勝った方よりも多くのものを得るのだから、真の勝者だとすら言えます。勝った側は自分の正しさを再確認しただけであるのに対して、負けた側は、自分の間違いを修正することによって、知的進歩を遂げることができるのですから。

私が同調的な意見よりも批判的な意見を歓迎するのはそういう理由によります。但し、私が歓迎しているのは、学問的批判であって、感情的な非難ではありません。学問的議論が互恵的であるのに対して、感情的な喧嘩は、戦争と同じで、お互いを傷付けるだけで、マイナスサム・ゲームですから、学問的議論が感情的な喧嘩に変質する時には、私は議論を打ち切ることにしています。

「最強の男」である根拠として、「嘗てコメント欄にて永井に挑みかかった者が多数いたが、永井俊哉を論破した者は誰一人としていない」と書かれているが、何をもって論破とみなしているのだろうか。過去のコメント欄の記録を見ればわかる通り、私が議論した読者の中で「自分が間違っていました」と言って議論を終了する人はあまりいない。たいていの場合、議論が平行線を辿ったまま終了になる。それを読んだ第三者の中には「永井が論破したから議論が終了になった」と思う人もいるかもしれないが、それはあくまでもその人の判断である。私自身は、自分が間違っている可能性に対して謙虚でありたいと思っている。

スレッドのタイトルに併記してあるもう一つのメルクマール、「リバタリアン」は、政治思想的な立場を表す用語であって、私の哲学の本質を表す言葉ではない。哲学はより根本的な原理を求める学問であって、哲学板なら、なぜリバタリアンなのかとその源泉をさらに探るべきである。私の哲学の研究テーマは、システム論である。そして私のシステム論における最も根本的な原理は、「システムは、その存在を維持するためには、自らの増大するエントロピーを縮減しなければならないが、そのためには、環境においてより多くのエントロピーを増大させなければならない」というエントロピーの法則である。リバタリアニズムはこの法則から帰結する副次的な原理にすぎない。

リバタリアニズムは、人々にできる限り多くの自由を認めるという政治思想的な立場である。生産活動の自由を認めれば、供給の多様性が増大する。この増大した多様性は、消費者によるこれまた多様な選択によって、縮減される。エントロピーを縮減させる供給の多様性を増大させつつ、その多様性を縮減する消費者の選択の多様性を増大することで、環境適応と変化適応という二律背反的な課題を両立させた、システムの生存戦略の最適化が可能となる。所謂リバタリアニズムの中には、自由を自己目的化する無政府主義的な極端な立場もあるが、私はそのような本末転倒の立場は採らない。リバタリアニズムは、それがシステムの生存力の向上に貢献するがゆえに正当化されるのであって、そうでないなら、その自由は制限されるべきだということになる。

私が最初に提示した、学問的議論に関する私の見解もエントロピーの法則から導出される。「私自身は、自分が間違っている可能性に対して謙虚でありたいと思っている」と書いたのは謙遜のためではない。哲学者は、自分の信念を含めてあらゆるものを疑わなければならない。あらゆるものを疑い、新たな可能性を探れば、理論的な多様性が無際限に増大する。そして、その増大した可能性を縮減することで、誰も思いつかなかったような新しい仮説を立てることができようになる。コメントをオープンにして、私とは異なるアプローチを求めているのも同じ理由による。議論を重ねても同じ結論にたどり着けないということが大半だし、第三者から見て「チグハグな論」と思われることも少なくないかもしれないが、それでも自分とは異質の視点を持った人と対話を行うことは、有意義だと思っている。

私のようなマイナーな哲学者をテーマにしたスレッドで Part2 ができるとは思わないが、もしも次にスレッドを立てる人がいたなら、「【システム論】 永井俊哉 Part2 【エントロピーの法則】」といったように、もっと本質的なタイトルで立ててくださるようお願いしたい。いずれにせよ、私は2ちゃんねるには書き込まないので、返事を求める人は、こちらのフォーラムに書き込んでもらいたい。

追記:雑学エッセイ
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年1月10日(金) 11:06.

今日見たら、少しスレッドが伸びていた。

【最強の男】 永井俊哉 Part1 【リバタリアン】 (media) 2ちゃんねる (author) 考える名無し さんが書きました:

8 :考える名無しさん:2013/11/25(月) 20:29:56.68 0
晒されてますよ
http://www.systemicsforum.com/ja/viewtopic.php?f=18&t=147

9 :考える名無しさん:2013/11/27(水) 18:17:13.01 0
哲学板でいうことじゃないけど雑学エッセイ書いてほしいなぁ

縦横無尽の知的冒険面白かったし

縦横無尽の知的冒険』は、たしかに当時ブームとなっていた『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』に便乗した雑学エッセイで、学術版トリビアといった感じなのですが、私としてはそれで著作活動を終わらせるつもりはなく、あくまでも体系的な理論を構築する途上での断片的な中間報告という位置付であります。『トリビアの泉』がそうであるように、雑学の役割は、新しい事実を読者に提供することですが、私としてはむしろ既知の事実に対する新しい見方を提供することを目指しています。

追記:神の存在しないシステム論
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年5月06日(火) 12:14.

今日のぞいてみたら、2月14日に三つの投稿があったことに気が付きました。遅まきながら、コメントしておきましょう。

【最強の男】 永井俊哉 Part1 【リバタリアン】 (media) 2ちゃんねる (author) 考える名無し さんが書きました:

10 :考える名無しさん:2014/02/14(金) 06:07:47.73 0
[投稿者:takuamu]この人は
由らしむべし知らしむべからず的な考えに基づいて
投稿しているから行政官僚なのかもしれない

ああいう知識ある層でも下品な言葉を使うということを知って
落胆したのだが知識がある故に他者を見下しているのかもしれない
それに行政官僚ならシステム構築するだけなので純粋さは関係ないか

まさに「由らしむべし知らしむべからず」だな

これは以下の takuamu さんの発言に関するコメントのようです。

社会福祉は必要か – コメント (date) 2004年4月1日 (media) システム論アーカイブ試論編 (author) takuamu さんが書きました:

私が重視したいのはいわゆるバカの壁に象徴されるように、国民ないしは一般大衆が必ずしも全員賢明なわけではなく、また同様に理性的に行動するわけではないという経済モデルの構築などにありがちな前提の落とし穴について言及したかったのですが、ややこれは運用面での実務的な話に過ぎたようです。

むしろ論考を再読して、国家がなすべきこととは何か?という深遠なる問いに対して、社会保険事業も決して聖域であるわけではないというテーゼなのであると理解しました。当然ご承知のように、いわゆる警察業務もまた民間にアウトソーシングできる部分があるでしょう。「19世紀のアメリカの警察は、街路に落ちている馬糞を拾う一方で犯罪捜査は民間に任せていた」(警察のことがよく分かる事典 日本実業出版社 P40)論考のタイトルを見る限りではこれまで警察業務を取り扱っていないようにも見受けられますが、いつか警察業務のアウトソーシングについても言及していただけたらと思います。

takuamu さんは「バカの壁」という言葉を誤解しているようです。「バカの壁」はキャリア官僚のような知的エリートにも存在しており、すべての人に「バカの壁」があり、“「話せばわかる」なんて大うそ”だからこそ、全体主義的な統制経済ではなくて、個人分権的な市場経済が必要なのです。もちろん、私がこう主張しても、まさに「バカの壁 」のおかげで統制主義者を説得させることができないので、多数決による民主主義という政治版市場原理が必要になります。なお、警察業務のアウトソーシングの話は、市場原理至上主義の限界を悟らせようとして出しているのでしょうが、「公務員人件費の見直し」で既に取り上げたとおり、できないことではありません。

【最強の男】 永井俊哉 Part1 【リバタリアン】 (media) 2ちゃんねる (author) 考える名無し さんが書きました:

11 :考える名無しさん:2014/02/14(金) 06:50:34.49 0
>>8
どんな目的があったのかは知らないが
「永井俊哉」とグーグルで検索したらしい

>それがシステムの生存力の向上に貢献するがゆえに正当化されるのであって、
>そうでないなら、その自由は制限されるべきだということになる。

その考えが急進的だから永井から棘を感じるのだろうな
いじめに関しても基本的に「行動」で片付けていて
擁護しようとする気なんて全くないよな

「各サイトのタイトルに明記してある通り、システム論である」

まあ神(システムを構築する者)に道徳なんて必要ないよな

もしも当事者同士の話し合いでいじめが解決するなら、それは最もコストのかからない理想的な解決策と言えます。しかし、それが無理な時は、学校を変えるというのが抜本的な方法です。少なくとも、自殺するよりかはその方がましでしょう。学校に限らず、問題が起きたなら、まずは話し合いで解決することを目指し、それができない時に「足による投票」という「行動」が必要になるのです。

なお、私のシステム論には、システムを構築する神は存在しません。たぶんこの投稿者は takuamu さんの意見と私の考えを混同しているのでしょう。もしも神がシステムを構築してくれるなら、その神にすべて任せればよい。無謬主義に基づく官僚支配の社会は、そういう理念に基づいています。しかし、官僚は神ではないし、頻繁に間違いを起こします。神は存在せず、不完全な認識能力しか持たない人間がシステムを運営するがゆえに、そのリスクを最小限にする市場原理が必要になるというのが私の社会システム論の基本的な主張なのです。

【最強の男】 永井俊哉 Part1 【リバタリアン】 (media) 2ちゃんねる (author) 考える名無し さんが書きました:

12 :考える名無しさん:2014/02/14(金) 06:57:50.01 0
行政官僚にしても庶民(愚民)は欠陥ロボットという認識なのだろう
だから自分達(神)がその欠陥ロボットを生み
出さないようにすべくシステムを再構築するのだろう

自分は神には従う気は全くないのだが
サイトやコメントを読んでいると振り回されてしまう
自分はどちらかと言うと振り回されるより
振り回すほうが好きなのだけど
自分の人生を歩めればどんなにいいことか・・・・・

そすれば余計なことに感ける必要はないのに

市場原理が機能している社会は、神も完全な奴隷も存在しない社会です。すべての選択する者は選択される存在でもあり、振り回す存在であると同時に振り回される存在でもあります。

6. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. “In this way we postulate a new discipline called General System Theory. Its subject matter is the formulation and derivation of those principles which are valid for “systems” in general." ― Ludwig Von Bertalanffy. General System Theory: Foundations, Development, Applications. George Braziller (2015/6/1). p. 32.
  2. “We shall call systemics this set of theories that focus on the structural characteristics of systems and can therefore cross the largely artificial barriers between disciplines." ― Mario Bunge, Treatise on Basic Philosophy: Volume 4: Ontology II: A World of Systems. Springer; 1979th edition (April 30, 1979). p. 1.
  3. Ludwig Von Bertalanffy. General System Theory: Foundations, Development, Applications. George Braziller (2015/6/1). Preface to the Revised Editon XX.
  4. “Sysiemics, or general system theory, is a field of scientific and technological research and one of considerable interest to philosophy. Because of its generality it has a sizable overlap with ontology or metaphysics construed in the traditional, pre-Hegelian sense as well as in our own sense of scientific ontology." ― Mario Bunge, Treatise on Basic Philosophy: Volume 4: Ontology II: A World of Systems. Springer; 1979th edition (April 30, 1979). p. 3.
  5. Ludwig von Bertalanffy. General System Theory: Foundations, Development, Applications. Revised edition. New York: George Braziller Inc., 1969. p. 55.
  6. Ludwig von Bertalanffy. General System Theory: Foundations, Development, Applications. Revised edition. New York: George Braziller Inc., 1969. p. 37.
  7. Toki Pona: 永井俊哉氏について
  8. Toki Pona: 永井俊哉氏について
  9. Toki Pona: 永井氏の自分の評論への応答について
  10. 数学屋のメガネ:機能としてのシステムの定義
  11. 連載第三回:システムとは何か? – MIYADAI.com Blog
  12. 複雑系としての社会システム