3月 162010
 

崇峻天皇は、蘇我馬子が放った刺客、東漢直駒に弑逆されたと『日本書紀』は伝えている。人臣が天皇を殺害したことは、空前絶後であり、このため、蘇我馬子は稀代の逆臣と謗られてきた。だが、実際には、この事件は東漢直駒の個人的犯行にすぎず、馬子黒幕説は、馬子を悪者に仕立て上げようとする政治的意図から、藤原不比等によって捏造されたものである可能性が高い。

1 : 崇峻天皇弑逆事件の通説

この事件に関して、『古事記』では何の言及もないが、『日本書紀』には、以下のように書かれている。

蘇我馬子が、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を用明天皇の後嗣にしようとする物部守屋と抗争した際、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)は、馬子側の筆頭皇子として活躍した。この抗争が馬子側の勝利に終わった後、泊瀬部皇子は、炊屋姫(かしきやひめ)、後の推古天皇と群臣の勧めで、587年9月9日に、崇峻天皇として即位した。馬子は、大臣の職に再任された。

592年10月4日に、山猪が献上された時、崇峻天皇はその山猪の目を指差して、「いつの日か、この猪の首を斬るように、私の嫌いな人を斬りたいものだ」と言った。ある本によると、妃の大伴小手子は、天皇の寵愛が衰えたことを恨んで、蘇我馬子に人を遣って、この発言を密告した。また、崇峻天皇が内裏に多くの武器を集めているとも告げた。馬子は、天皇が自分を嫌っているのではないかと恐れ、11月3日に、東国の調(みつき)を進上すると偽って、臨御した天皇を、部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺させた。崇峻天皇は、その日のうちに、倉梯岡陵に葬られた。

崇峻天皇は、前年に、任那再建のため、紀男麻呂、巨勢猿、大伴囓(くい)、葛城烏奈良(おなら)を大将軍とする二万余人の部隊に出陣を命じていた。馬子は、筑紫に駐在する将軍たちのもとに使者を遣わし、「内乱のために、外事を怠ってはならない」と言った。刺客の東漢直駒は、河上娘(かわかみのいらつめ)を攫って、妻にした。河上娘は、崇峻天皇の嬪で、馬子の娘である。東漢直駒が河上娘を汚したことを知り、東漢直駒を殺害した。

2 : 通説に関する疑問点

以上が『日本書紀』に記されている崇峻天皇弑逆事件の概要である。崇峻天皇が、殯(もがり)なしで、崩御当日に葬られたということは、その死が自然死ではなくて、異常な死であったことを示している。だが、弑逆事件の黒幕が馬子であったとする『日本書紀』のストーリーには、いろいろと首を傾げたくなる点がある。それを列挙しよう。

2.1 : なぜ馬子は失脚しなかったのか

最大の疑問点は、天皇の弑逆という、この当時の価値基準からして最も非難されてしかるべき犯罪を敢行しながら、なぜ馬子は失脚しなかったのかというところにある。『日本書紀』には、誰かがこの件で馬子を非難したという記事が全くない。炊屋姫は、崇峻天皇の即位を勧めた本人だが、自分が選んだ天皇の弑逆を咎めることなく、その後継の天皇になり、馬子を大臣として重用した。

馬子が絶大な権力を持っていたから、誰も馬子を倒すことができなかったというわけでもなかった。そもそも蘇我氏というのは、自前では強大な軍事力を持っておらず、門衛などは、渡来系の東漢(やまとのあや)氏に依存していた。だから、物部氏を倒す時にも、他の豪族の軍事力を借りざるを得なかった。入鹿が暗殺された後、蘇我氏が、ほとんど何の軍事的抵抗もせずに滅びたことからもわかるように、その軍事的基盤は、はなはだ脆弱であった。だから、崇峻天皇弑逆をきっかけに、蘇我氏が、他の豪族の支持を失って、失脚することは十分ありえたことなのである。

この点、不可解なのは、事件当日筑紫に集結していた任那復興軍の動向である。二万人の大軍を率いていた紀男麻呂、巨勢猿、大伴囓、葛城烏奈良は、なぜ、本能寺の変を知った時の秀吉のような行動をとらなかったのか。彼らにしてみれば、蘇我氏を排除し、自分たちが権力を掌握する絶好のチャンスではなかったのか。大義名分は、天皇弑逆犯に天誅を加える彼らの側にあったはずだ。それなのに、なぜ彼らは動かなかったのか。

2.2 : なぜ馬子は公然と天皇を弑逆したのか

もう一つの疑問点は、なぜ馬子は、衆人環視の中、これ見よがしに天皇を殺すという露骨な手法をわざわざ用いたのかというところにある。『日本書紀』の記事によれば、馬子は、東国の調を進上すると偽って、儀式を開き、そこに臨席した天皇を、東漢直駒に殺させたということになっている。東漢氏は、蘇我氏の配下にあった渡来人であったから、出席者たちは、蘇我氏が天皇を殺害したのではないかと思ったことであろう。これでは、まるで、蘇我氏による天皇弑逆を世間に宣伝したかのようである。馬子ほどの政治家が、このような稚拙な手段を用いるだろうか。

あるいは、馬子は、事件をすべて直駒のせいにして、彼を口封じのために殺したということも考えられなくはない。しかし、その場合、直駒は、馬子の命令を忠実に実行した上で殺されたわけであるから、東漢氏は、強い不満を抱くであろう。さらには、馬子の部下は、誰も馬子の命令に従わなくなったかもしれない。しかし、東漢氏は、その後も蘇我氏に仕え続けているから、実際は、そうではなかったのだろう。『日本書紀』によれば、馬子が直駒を殺害したのは、河上娘を犯したためとしているが、これは事前に予想できる事態ではないから、馬子が、そこまで計算に入れて、直駒に殺害を命じたということも考えられない。

臣下が主人を弑逆することは、どのような理由があるにせよ、周囲から非難されることである。馬子の場合、崇峻天皇が自分の意のままにならないということであるのなら、天皇を退位させるか、あるいはそれが不可能なら、病死に見せかけて、天皇を毒殺するなどの方法を採ることが最も合理的ではなかったのか。天皇や将軍が、病死に見せかけて毒殺されたのではないかと疑われている事例なら、他にも多数ある。それは、臣下が主人を弑逆する最も賢明な方法である。

2.3 : なぜ崇峻天皇は馬子を殺害しようとしたのか

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天皇系図 26~37代。この図に見られるとおり、崇峻天皇は蘇我馬子と密接な血縁関係にある。

崇峻天皇は、馬子の妹である蘇我小姉君の子で、馬子の娘である河上娘を嬪としていた。崇峻天皇が、天皇になれたのは、彼の個人的資質によるものではなく、蘇我氏とのこうした血脈ゆえである。この当時、蘇我氏の血を引かない、石姫や広姫が産んだ皇族が皇位を狙っており、もしも馬子を中心とする蘇我氏が没落したら、皇位は、非蘇我氏系の皇族に奪われてしまうかもしれない。崇峻天皇が、自らの権力基盤の崩壊につながる馬子の殺害を計画していたということは、当時の政治力学上ありそうにないことである。崇峻天皇が、正妃の小手子とは別に、馬子の娘である河上娘を嬪としたことは、権勢を誇る蘇我氏との関係を強化したいという意志の表れと解釈できる。これについては、次の項で改めて取り上げよう。

2.4 : なぜ大伴小手子は馬子に密告したのか

『日本書紀』には、「或る本に云はく」という形で、妃の大伴小手子は、天皇の寵愛が衰えたことを恨んで、蘇我馬子に密告したというエピソードを載せている。では、糟糠の妻である小手子に代わって、天皇の寵愛を受けた女性は誰か。『先代旧事本紀』によれば、夫人の物部布都姫であるが、『先代旧事本紀』は物部贔屓の偽書だから、その記述を信用するわけにはいかない。そうすると、残る候補は、河上娘しかないだろう。

『日本書紀』は、河上娘が崇峻天皇の後宮であるとはっきり書いているわけではない。しかし、『日本書紀』の他の箇所での「嬪」の語法からして、「蘇我娘嬪河上娘」という表現は、河上娘が天皇の後宮であったことを示していると解釈せざるを得ない。律令制における天皇の後宮には、皇后、妃、夫人、嬪という序列があったが、この時代は、まだ律令制が確立する前なので、そうした上下関係があったかどうかわからない。『日本書紀』は、小手子を、妃としたり、嬪としたりしているので、おそらく、名称による厳密な区別はなかったのだろう。よって、小手子は、河上娘と天皇の寵愛を奪い合う関係にあったと考えてよい。

小手子は、大伴氏の出身であった。大伴氏は、雄略天皇の時代に全盛期を迎えたが、百済へ任那四県を割譲した事件をきっかけに没落した。そうした没落豪族の娘とよりも、旭日昇天の勢いであった蘇我氏の娘との間に子を儲けた方が、確実に皇位を自分の子孫に継がせることができると思って、崇峻天皇が小手子よりも河上娘を愛するようになったのであろう。

糟糠の妻が、出世した夫の新妻に嫉妬を感じるのは当然としても、そのために、新妻の父親に、夫を失脚させるような密告をするというのは、不可解なことである。そのようなことをしても、新妻の父親が権力者ならば、自分は、夫とともに不利益を被ることとなり、新妻とその父親には不利益にはならない。実際、崇峻天皇の死後、妃としての地位を失った小手子は、都落ちして、最後には自殺したと伝えられている。小手子にとって、崇峻天皇による新妻の父親の殺害計画は、その成就が新妻の権力基盤を崩すという点で、望ましかったはずだ。にもかかわらず、なぜ、自らの権力基盤を崩すことになることが事前に予想できた密告をしたのか、大いに疑問である。

3 : 崇峻天皇弑逆事件の真相

『日本書紀』のストーリーを史実として受け取るには、以上のような数々の問題点がある。この事件の真相は、実際のところどうだったのか。謎を解く鍵は、東漢直駒にある。『日本書紀』は、直駒を馬子の刺客として描いているが、他方で、直駒は、河上娘を犯したために、馬子によって殺されたとも書いている。直駒のこの行動は、崇峻天皇弑逆の本当の動機が、馬子の命令に従うことではなくて、河上娘を取り戻すことであったということを示している。この仮説に基づいて、事件を再構成してみよう。

小手子が馬子に馬子暗殺計画を密告したというのは、既に述べた理由から史実とは考えられない。もとより、小手子が、崇峻天皇の寵愛を河上娘に奪われたことに嫉妬したことは史実として受け入れることができる。では、この時、小手子が、河上娘から崇峻天皇を取り戻すための合理的手段は何だったのだろうか。それは、河上娘の恋人である直駒に、崇峻天皇が河上娘を後宮に取り入れたということを密告し、彼女を取り戻すように唆すことではなかったのか。

小手子は、直駒が河上娘と駆け落ちしてくれることを期待していたのだろうが、直駒は、小手子の期待以上の行動に出てしまう。直駒は、恋人を奪った憎き恋敵を殺した上で、河上娘を取り戻し、彼女と駆け落ちしたのである。日本人にとって、天皇は、政治的権威であるのみならず、宗教的権威でもあり、弑逆など畏れ多くて、なかなか実行できることではないが、直駒は渡来人であり、彼にはそうした感情はなかったのであろう。『日本書紀』は、どのように直駒が崇峻天皇を殺害したのかについては、何も伝えていないが、殺害現場からの逃走に成功していることを考慮に入れるならば、調進上の儀式に臨席すべく、公の場に姿を現した天皇を、遠方から矢で射殺したということが考えられる。

駆け落ちした直駒と河上娘は、馬子が放った追っ手に捕らえられ、直駒は、河上娘を犯した罪ではなくて、天皇を弑逆した罪により、殺害された。馬子にとって、崇峻天皇は、用明天皇、穴穂部皇子亡き後、数少ない蘇我系皇族であり、崇峻天皇にとっても、馬子は最も信頼できる身内であり、当時、両者の関係悪化を疑う者はいなかったので、馬子黒幕説の存立余地はなかった。だからこそ、当時は、馬子を糾弾する者は誰もいなかったし、筑紫に集結していた任那復興軍も馬子誅殺のために動かなかったのである。

4 : 馬子黒幕説誕生の背景

馬子黒幕説に基づく崇峻天皇弑逆事件の記述は、もともと『日本書紀』にはなかった。『日本書紀』は、681年に天武天皇が川島皇子らに帝紀と上古諸事の編纂を命じたことがきっかけとなって始まった修史事業の結実である。森博達によると、『日本書紀』は、音韻や文法などの観点から、続守言や薩弘恪といった唐代北方音の中国語を母語とする中国人によって書かれたα群と唐代北方音に通暁していない日本人によって書かれたβ群に分けられ、前者は、後者よりも、編集時期が先行する

森博達の分析では、巻二一の崇峻紀の前半はα群の述作者の手になるが、崇峻天皇四年以降の記載には、誤用や特殊な筆癖が見られ、α群の述作者によるものではない[1]。例えば、以下の箇所には、日本人独特の漢文(倭習)が見られる。

蘇我馬子宿禰は、天皇の詔の内容を聞いて、自分嫌っておられるのではないかと恐れ、郎党のものを招集して、天皇を弑逆することを謀った。

蘇我馬子宿禰聞天皇所詔。恐嫌己招聚儻者謀弑天皇。

[…]馬子宿禰は、群臣偽って、「今日、東国の調を進上する」と言って、東漢直駒に天皇弑殺させた。

馬子宿禰詐羣臣曰。今日進東國之調。乃使東漢直駒弑天皇。[2]

動詞と直接目的語の間に「於」や「于」といった置字が挿入されているが、これは、日本語の助詞に惑わされた用法である。このように、崇峻天皇弑逆事件への馬子の関与を示す箇所に倭習が見られるということは何を意味するのだろうか。

森博達は、続守言が巻一四の雄略紀からの述作を担当し、巻二一の崇唆紀の修了間際に、突然筆を擱いて、日本人が後に書き継いだと推測している[3]。しかし、続守言が執筆した原文に、後になって日本人が大幅な書き換えを行ったという可能性も否定できない。

森博達の分類では、巻一四の雄略紀から巻二十六の斉明紀までα群だが、途中の巻二一の崇唆紀(四年)から巻二三の舒明紀までがβ群である。続守言や薩弘恪にとって時代が新しすぎる時代と、古すぎて情報が不確かな時代がβ群であるというのは、理解できるが、途中の、蘇我氏が活躍した時代に、倭習の強い文章が多く見られるのは、たまたま、続守言が急死してできた空白を補うためだけだったのだろうか。

実は、使われている暦から判断すると、雄略紀以前のβ群とそれ以降のβ群との間に違いがある。安康三年より前には、儀鳳暦(ぎほうれき)という新しい暦が使われ、安康三年から持統四年までは元嘉暦(げんかれき)という古い暦が使われ、持統五年からは、再び儀鳳暦が使われている。安康三年から持統四年までの範囲にβ群が含まれるということは、これらのβ群が、新たに書かれたものではなく、先行するα群の原稿のうち、暦はそのままにして、内容だけを大幅に改竄・加筆した結果、成立したものであると推測できる。

森博達は、α群で、編集者が勝手に修正できない引用文以外で誤用がある場合は、後人による加筆と判断している。α群で、誤用がはなはだしいのは、巻二五の孝徳紀に掲載されている、大化の改新の詔勅群である。今日、乙巳の変の直後に大化の改新という大規模な政治的変革が行われたとする『日本書紀』の記述に疑問を持つ学者が増えている。おそらく、大化の改新と呼ばれる政治的大改革は、後世に捏造されたもので、史実とは認めがたい。

続守言と薩弘恪が、死亡もしくは引退した後、『日本書紀』の編集が最終局面を迎えた時の権力者は、藤原(中臣)不比等であった。不比等は、蘇我氏を逆臣と貶めることで、蘇我氏を滅ぼした父、中臣鎌足の功績を過大に描こうとしたのだろう。『日本書紀』が、政治的意図から歪曲されているとするならば、『日本書紀』を読むとき、その歪曲を是正して読まなければならない。

5 : 参照情報

  1. 森博達. 『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』. 中央公論新社, 1999. p.168
  2. 『日本書紀』巻二一崇峻天皇五年. in 『新編日本古典文学全集 (3)』p.523-525
  3. 森博達. 『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』. 中央公論新社, 1999. p.212
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