天照大神とは誰か
『古事記』や『日本書紀 』(この二つを記紀という)によれば、天皇、そして日本民族の大御祖(おおみおや)は天照大神(あまてらすおおみかみ)である。天照大神は、いかなる歴史上の人物に相当するのだろうか。

神話の中の天照大神
日本神話によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が国土を整え、万物を育て、最後に天照大神(あまてらすおおみかみ)・月読命(つきよみのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)の三貴子を生んだことになっている。高天原(たかまのはら)を治めた天照大神は、いよいよ皇孫(こそん)瓊々杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に降りるとき、皇位の璽(しるし)を授け、「この鏡は、もはら我が御魂(みたま)として、吾が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」と神勅を下したと言われる。瓊々杵尊(ににぎのみこと)の三代下の子孫が神武天皇とされている。
神話上の人物、天照大神は、実在の人物としては、『魏志倭人伝』に伝えられる邪馬台国の卑弥呼である可能性が最も高い。『日本書紀』は卑弥呼を神功皇后に比定しているが、卑弥呼の時代(3世紀前半)には、神功皇后が征討したとされる新羅も高句麗もまだ存在しなかったのだから、神功皇后とは、神武天皇の即位を紀元前600年代にまで引き伸ばした『日本書紀』の編者が、『魏志倭人伝』とつじつまを合わせるために捏造した架空の権力者と見るべきである。神功伝説と天照神話の間には構造上の類似性がある [倭の五王の謎―王権神話の謎を探る]。このことは、天照のモデルが、神功皇后のモデルと同様に、卑弥呼であったことを意味している。
読者の中には、「神話は、知的水準の低い古代人が勝手な想像で作ったのだから、史実としては信用できない」という方もおられるであろう。しかし勝手な想像で純然たる神話を作るということは、よほどの独創的天才でなければ不可能である。古代人は知的水準が低いというよりも個人の主体性を確立していないから、純粋なフィクションは作れないのである。記紀は国威発揚のために編集された官製の正史であるから、編集者の都合でかなり改竄されていることは確かだとしても、材料となった伝説は何らかの形で事実を反映しているはずである。ちょうど一見無意味に見える夢が、検閲によって歪められてはいるが、無意識の反映であるように。
卑弥呼の語源は何か
卑弥呼は、当時の中国語の発音から推測すると、“pimiho”、狗奴国の男王・卑弥弓呼は“pimikuho”の音写であったと考えられる。当時のp音は現在のh音に相当する。h音は奈良時代の畿内には存在しないが、弥生時代の北九州では、中国大陸や朝鮮半島の言語の影響を受けて、h音がk音と等価な音として使われていたことが考えられる。現代の日本人が、“ビーナス”と“ヴィーナス”、“チモール”と“ティモール”を、音は異なるが意味は同じとして、両方を使うようなものである。
「卑弥弓呼」の意味について、『原始日本語はこうして出来た―擬音語仮説とホツマ文字の字源解明に基づく結論』の著者である大空照明さんに問うたところ、次のような回答を得た。私もこの解釈に賛成である。
岩波文庫の『魏志倭人伝』を編訳している石原さんは註の中で「ひこみこ」の誤りであろう、としています。卑弥呼を「ひめ(姫)みこ(命)」の縮約形と見て、男王を「ひこ(彦)みこ(命)」と解する説です。しかし、本当に「誤記」なのでしょうか。通常、「卑弥弓呼」は「ひみここ」又は「ひみくこ」と読むとされますが、私の単音節重視の解釈で行けば、ある程度の意味の推測ができます。
そもそも、「みこ」で、何故「巫女」の意味になるのでしょうか?『字訓』には「みこ」の項がありません。使用例となる古代文献がないのだと思います。しかし「みこと(命)」の項はあり、
尊貴な人の仰せ言をいう。「御言」の意味。
とあります。また、
「大君のみこと(命)」という用法よりも以前に、神託を意味する時期があったのではないかと思われる。
ともあります。私も、その通りだと思います。つまり、「みこ」の語源は「神」の「み」と言葉の「こ」で、「みこ(神言)」でありましょう。これなら「神の言葉を言う人」のことも、男女を問わず「みこ」と呼んだと推測しても無理がありません。勿論、「御子」も「みこ」と言ったでしょうから、混同はあったでしょうが。
「ひみこ」も「日の御子」の略称と解釈して、男女を問わず、太陽から王権を授権された王様の意味、つまり「地位」の呼び名であった可能性もあると思います。(天孫的な位置付けです)。勿論、シャーマンとして「日の神の言(葉を言う人)」=「ひ(日)み(神)こ(言)」の意味かもしれませんが。
では、「ひみここ」又は「ひみくこ」は何でしょうか。『字訓』の「く」の項には、「く(所・処)」とあり、「いずく(何処)」の「く」である、という説明が有ります。また、「もと、神聖な場所を指す語であったらしい」とも。この説を採るなら、(そして私はこれかなと思いますが)「ひみくこ」は「ひ(日の)み(神の)く(処)こ(言)」という意味になり、「日の神の聖所(聖殿)の言」転じて「それを宣(の)る人」の意味になります。であれば、「ひみくこ」も男女を問わない、日の神の神託をのべる治者の地位の名称である、との推察も可能になります。[1]
「ヒミコ」に対して男の国王は、「ヒコ」と呼ばれた。「ヒコ」には、彦という字が当てられることが多いが、「ヒコ」は「日子」なのかもしれない。天皇の家系は、太陽の子孫と信じられていたわけである。古代日本人は自分たちの国を「ワ」と呼んだが、倭あるいは和とは、輪や環のことであり、それは日輪、太陽の換喩でもある。卑弥呼のヒの語源をユーラシア大陸に求めると、シュメール語のピリグ(pirig 王)にまで辿り着く。王を意味する言葉を、太陽を表す言葉に使うのは、倭人の太陽崇拝のゆえである。
天岩屋戸神話の解釈

卑弥呼と天照大神の共通点は、女性、それも太陽の女神であるということである。『魏志倭人伝』は、卑弥呼がシャーマンとしての性格を持っているということ、「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」ことは書いているが、彼女が太陽の巫女(神子)だったとは書いていない。しかし卑弥呼と太陽との関係を強く示唆する事実が最近指摘されている。
天文学者によると、紀元前138年、158年、247年、248年、454年に日本で皆既日食が観測されたというのである。なおこれ以外にも部分日食は起きているが、部分日食は太陽が雲に隠れた程度の効果しかなく、古代人に与えた影響は大きくなかった。このうち邪馬台国と関係があるのは、158年、247年、248年の日食である。特に卑弥呼が死んだ頃、二回も皆既日食が起きていることは注目すべきことである[2]。
よく知られているように、天照には次のような天岩戸神話がある。天照の弟、素戔嗚尊(すさのをのみこと)が数々の乱暴をした時、天照はけがをし、怒って天岩屋戸に隠れてしまった。このため天下は暗闇となってしまった。
この時に、天照大神、驚動きたまひて、梭(ひ)を以て身を傷ましむ。これに由りて、いかりまして、すなわち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。故、くにの内常闇にして、昼夜の相代も知らず。[3]
『古事記』では、「天の服織女見驚きて、梭に陰上(ほと)を衝きて死にき」とある。素戔嗚尊の乱暴で「天の服織女」が死んだということになっているが、この天の服織女は天照の分身と考えられる。
この箇所を根拠にして、陰部を箸で突いて死んだと伝えられている倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が天照大神、さらには卑弥呼であり、倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が「卑弥呼の墓」だと主張する人もいる。しかし、倭迹迹日百襲姫は、孝霊天皇の皇女にすぎず、皇祖的性格を持っていない。
天下が暗くなった後、八百万(やおよろず)の神々は、天宇受売(あめのうずめ)に歌舞をさせ、天宇受売が踊りながら陰部を露出させたのを見て大笑いした。ここに、笑いのカタルシスの働きを見ることができる。世界的に見て、笑いは豊饒儀礼と結びついている。また、笑いの祭りが行われる日は、同時に性の解禁日でもあり、祭りはそのまま男女のオルギーとなる。太陽の復活は、作物の豊作だけでなく、人間の豊作ももたらす。
天照が笑い声を怪しんで戸を少し開いたところを手力雄(たちからを)が強引に開けて彼女を引き出し、天下が再び明るくなったという話である。天照が岩宿から出てきて、太陽が再生することは、台与が卑弥呼の地位を引き継ぐことの隠喩である。
中には「天の岩戸神話は冬至の日における太陽再生儀式の神話化」と主張する人もいる。
毎年、冬至の日に、その年に新しく採れた穀物を神に供えて、「天照大神」及び天神地祇を奉り、天皇自らも新穀を食する「新嘗祭」が執り行われるが、このことから見ても、農耕と「天照大神」との密接な関係が推察される。[…]日の神たる「天照大神」を引き出すため、「天宇津女命」の踊りは、母なる大地が生殖力を再生し、停止していた性器が息吹を取り戻し、樹木の芽吹く春を迎える神事的所作で、また神々の笑いは、春を招く笑いの神事的所作なのである。[4]
だが、神話では、毎年定期的に行われる行事としてではなく、偶発的に起きた一回限りの事件として描かれているのだから、「太陽の死」は冬至ではなくて、日食と考える方が自然である。また、新嘗祭(今の勤労感謝の日)は、収穫に感謝する祭りであって、太陽再生が主題ではない。さらに、一般に言って、神話に基づいて儀式が行われるのであって、儀式に基づいて神話が作られるわけではない。その意味で、この仮説は本末転倒ではないだろうか。
関連著作
- 中村啓信『新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』KADOKAWA (2014/2/15).
- 井沢元彦『逆説の日本史1 古代黎明編/封印された「倭」の謎』小学館 (1997/12/1).
- 松本直樹『神話で読みとく古代日本 ── 古事記・日本書紀・風土記 (ちくま新書) 』筑摩書房 (2016/6/10).
- 孫栄健『邪馬台国の全解決 中国「正史」がすべてを解いていた 』言視舎 (2018/2/15).
- 松尾光『現代語訳 魏志倭人伝』KADOKAWA (2014/6/30).
- 渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』中央公論新社 (2012/5/25).
- 安本美典『誤りと偽りの考古学・纒向 ― これは、第二の旧石器捏造事件だ!』勉誠出版 (2019/6/28).
- 安本美典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!! ―「畿内説」における「失敗の本質」』勉誠出版 (2019/9/6).
- 安本美典『日本の建国―神武天皇の東征伝承・五つの謎』勉誠出版 (2020/6/15).
参照情報
- ↑大空照明. 永井への私信.
- ↑安本 美典『邪馬台国の真実―卑弥呼の死と大和朝廷の成立前夜』PHP研究所 (1997/03).
- ↑小島 憲之他.『新編日本古典文学全集 (2) 日本書紀 (1)』小学館 (1994/3/25).
- ↑「天の岩戸神話の真相」8 Oct 1999.
ディスカッション
コメント一覧
いろいろな興味深い議論を、楽しく拝見させていただいております。私は歴史学を専門にし、西洋古代の宗教を専攻しているものですが、主に比較神話学や宗教学の視点から、あなたのこの説に反論させていただきます。
まず、具体的な批判の前に、この文章の中であいまいな点を確認させていただきたいのですが、
最初に(1)で、「語源的に天照も卑弥呼も太陽に深いかかわりがある」という主張をされた上で、(2)で「卑弥呼の頃に日本で皆既日食があった」という天文学上の事実を示され、その上で「天照が岩宿から出てきて、太陽が再生することは、台与が卑弥呼の地位を引き継ぐことの隠喩である」と書かれておりますが、これは、参考文献に挙げられていた井沢元彦の本(私も昔読みました)で展開されていた、
「日食によってその呪術的力が衰えたと見なされた卑弥呼は殺され、台与にその地位が移った、という歴史的事実が、天岩戸神話に反映されている」
という説を大筋で受け入れていると理解してよろしいのでしょうか?(殺されたか引退したか、細部はともかく)
そして、それをもって、「天照=卑弥呼」の最大の根拠とお考えなのでしょうか?(違う場合は、訂正してください)
もしそうならば、残念ながらこの説には、致命的な欠陥があります。
A)天岩戸神話と、古代ギリシアのデメテル神話との類似
まず、あなたは神話というものの捉え方について、以下のように書かれておりました。
「勝手な想像で純然たる神話を作るということは、よほどの独創的天才でなければ不可能である。古代人は知的水準が低いというよりも個人の主体性を確立していないから、純粋なフィクションは作れないのである」
これはおっしゃるとおりでしょう。ただそこで「材料となった伝説は何らかの形で事実を反映しているはず」と限定されるとは限りません。なぜなら、材料となったモチーフ自体が作者の独創ではない代わりに、既存の神話や異文化の神話からの借り物であった可能性もあるわけです。
例えば、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』が、中世イタリアを舞台とした物語でありながら、その基本的な設定(対立する2家の子供同士が恋をし、駆け落ちを試みるが不幸な行き違いで死ぬ、というモチーフ)が、古代ギリシアの「ピュラモスとティスベ」のモチーフの借り物であるように。
天岩戸神話の場合も、よく似た神話が古代ギリシアにありました。穀物の女神デメテルが、冥界の神ハデスに誘拐され妻とされた娘ペルセポネーを探したが見つからず、悲しみにくれていると、ある女が卑猥な冗談で笑わせた、という話です。
さらに言うと、アマテラスが姿を隠した直接のきっかけは、弟スサノオの乱暴により、侍女の一人が女陰に傷を受けて死んだことですが(あなたも書かれた様に、この侍女はアマテラスの分身でしょうから、アマテラスが犯されたことの隠喩であろうとされています)、デメテルも娘コレー(コレーとデメテルはペアで信仰されるものなので、ここではデメテルの分身と見なせます)を、弟であるハデスに誘拐され妻にされ(つまり犯された)、ふさぎこんだわけなのです。
また別の古い神話では、デメテルは弟にあたるポセイドンに襲われ、馬に変身して逃げようとしたら、ポセイドンも馬に変身し、そのまま犯された、とされています。スサノオが皮をむいた馬の死体を投げ込んだのと重なります。
このデメテル神話は、卑弥呼より800年以上前の「デメテル賛歌」に登場します。さらにさかのぼると、ヒッタイトのテリピヌ神話も、同様のモチーフです。もし、卑弥呼の頃に起こった日食の際の出来事を神話にしたのなら、卑弥呼の方が異邦の神話のモチーフを真似て行動したか、偶然そういうことが起きたことになります。あまりにも不自然です。
これに関しては、吉田敦彦が『ギリシア神話と日本神話』などで解説しているように、インド・ヨーロッパ語系の民族のもっていた神話が、ギリシア神話やヒッタイト神話に残っていた一方で、スキタイ人などの遊牧系民族により極東にも伝来し、それが渡来系の人々と共に日本に伝わり、記紀神話の編纂の際に取り入れられたと考えるのがやはり妥当でしょう。少なくとも、卑弥呼=アマテラスの根拠にはなりにくいです。
B)儀礼から生まれる神話
それから、あなたは「天岩戸神話=冬至の儀式」説への反論のひとつとして、
「一般に言って、神話に基づいて儀式が行われるのであって、儀式に基づいて神話が作られるわけではない」
と書かれておりましたが、この根拠は何でしょうか?
おっしゃる「一般」というのは、多くの神話・伝説が、「神々がこうしたから、それにちなんでこういう祭りを
行うようになった。」(すなわち、「神話に基づいて儀式が行われる」)という終わり方をしていることを指しておられるように見受けられますが、それはあまりにも、神話や昔話を表面的にしか見ておられない結果です。
現在の神話学・宗教学では、儀礼の起源を説明する神話は逆に、既存の儀礼の本来の意味が忘れられ、形式だけが伝統として受け継がれていったので、新たに儀礼を意味づけるために作られたものである、と見なすのが、一般です。現に、古ローマ宗教のように、神話はなくても儀礼があり、それを中心とする信仰も存在します(いわゆる「ローマ神話」のほとんどは、ギリシアからの借り物です)。
もっとも、だからといって私は「天岩戸神話=冬至の儀式」だと強く主張するわけではありませんが、少なくともあなたの議論の中に、この説を否定することのできる根拠は見当たりません。
<最後に>
卑弥呼と日食=アマテラスと天岩戸、という発想はとてもロマンがあって面白いですが、まず最初に思いつきがあり、その思いつきを補強するために、都合のいい材料だけを集めておられる傾向があります(おそらくあなたの発想の原点であろう、井沢元彦がまさにそうです)。哲学に傾倒されている方が、歴史などを見る際にしばしばなさる過ちです。
私は哲学にはうといですが、あえて哲学用語を使わせていただければ、このような場合は、最初の思いつきから議論を広げていく演繹的手法だけではなく、この問題に関わるデータを多く集めて比較検討していく帰納的手法が欠かせないはずです。そうすれば、比較神話学の視点からこの問題を見る吉田敦彦などの議論にも必ず出合い、井沢の説の不自然さに思い至ったはずです。
(なお、アマテラスという神の神格の形成に注目すると、また別の反論ができますが、ここでは省略します。)
デメテルは、地母神で、太陽神ではないから、アマテラスに比定することはできません。日本神話で地母神的なイメージの女神と言えば、イザナミではないですか。私は、もちろん、日本神話が外国の神話の影響を受けていることを否定するつもりはありません。例えば、世界最古と言われるシュメール神話にある「イシュタルの冥界下り」は、イザナミの黄泉の国行きの話と多くの要素を共有しており、前者が何らかの経路で後者になったと考えることができます。
ただ、アマテラスは、海外から直輸入したとは考えられません。世界には、太陽神と結婚する女性の神話はたくさんあるのですが、太陽神はほとんど例外なく男性で、女性の太陽神というのは、日本固有だからです。私は、井沢元彦さんの本から多くを学びましたが、その井沢さんもなぜ日本では太陽神が女性であるかを説明することができませんでした。私は、スケープゴート論でならば、説明できると思い、「天照大神とは誰か」「卑弥呼の鏡」「天皇のスケープゴート的起源」という卑弥呼三部作を書いた次第です。
神話に史実が反映されているとみなすことは、聖書解釈などでも盛んに行われています。例えば、出エジプト記に記されているモーセの十災や割れた海の話をサントリニ島の噴火によって惹き起こされた一連の自然現象で説明するとか、旧約聖書やギルガメシュ叙事詩に描かれている大洪水を氷河期の終了で説明するとか。日本の神話学者も、もっと神話と史実との接点を積極的に探せばよいのにと思っています。
デメテルのエピソードと、アマテラスのエピソードが一致しているからといって、デメテル=アマテラスという論法になる
わけではありません。もっと言えば、私は天岩戸神話が海外から取り入れたモチーフだからと言って、アマテラスが海外から来た神だと言っているわけではありません。
デメテルという女神の神話に使われているモチーフが、日本ではアマテラスという女神の神話に使用された、ということです。
神話のあるモチーフは、必ず似た性格の神に当てはめられるというわけではありません。イシュタルとイザナミの冥界下りのモチーフは、ギリシア神話のオルペウス神話にも明らかに利用されていますが、オルペウスは神でも女でもありません。
ですから、記紀神話の作り手(当然、渡来系の学問の素養がある)が、皇祖神としてのアマテラスに、デメテル神話型モチーフを当てはめたわけです。議論すべきはむしろ、なぜアマテラスにそのような役割を神話内で演じさせたか、でしょう。
それから、前回省略した、アマテラス信仰の面からの観点ですが、アマテラスはむしろかつては男神であった可能性が高いのです(アマテルという神)。ですから、伊勢神宮でアマテラスに仕える斎宮は、アマテルの后で、その斎宮の下に神が蛇の形で通ってくるという話が残っています。これらは、記紀神話ではない現地の伝承ですが、記紀神話でも、スサノオが高天原に上ってくるときにアマテラスが男装するエピソードに、その痕跡があると言われています。
そして、そんなアマテラスが天皇家の祭祀に登場するのは、実は七世紀後半になってからなのです。卑弥呼どころか、聖徳太子よりも後なのです。つまり、アマテラスは、伊勢の土着の神と天皇家の皇祖神とを合わせて7世紀に作り出した、新しい神の可能性が高いのです。
このあたりのことは、筑紫申真『アマテラスの誕生』(講談社学術文庫)が、平易に解説しております。あなたが疑問とされている「女性の太陽神」という特殊な神格の成り立ちも、ここで明快に説明されております。現在は入手しやすくなっていますから、まずはこれをお読みになるのをお奨めします。実はここで筑紫氏は、アマテラスが女なのはむしろ、持統天皇の時期に作られた神だからだ、という説を展開しておりまして、こちらは私もかなり納得しております。つまり、あなたの「アマテラスとは誰か」というテーゼに強いて答えるとしたら、持統天皇なのです。(なぜアマテラスの子ではなく孫が「天孫降臨」をするのかという問題も、持統天皇の子草壁皇子が早世し、その子の文武天皇へ持統天皇から地位が譲られたことを反映している、という解釈です)
歴史や神話などの場合、哲学とは違い、理解できない問題は、自分の頭の中だけで必死に考え、既存の知識だけで何とかしようと格闘しても、無駄なときはとことん無駄です。逆に言えば、広く先行研究をあたって見ると、ちゃんとその問題を説明している史資料にあっさり出会うことが多いのです。前回も書きましたが、あくまでこういう問題は、手当たりしだい先行研究・史資料に目を通されてから、考えることをお奨めします。
<付記>
それから、聖書解釈において、様々な奇跡を天災などで説明する、というのも、あくまでも、そう解釈すれば合理的に説明できる、というだけで、具体的な証拠によって裏付けられたわけではありませんから、「史実から神話をつくった」例にはなりません。ですから、純粋に論理的な意味から、「卑弥呼=アマテラス」説を支持する材料にはなりえていないと思われます。
江戸時代、忠臣蔵を歌舞伎や浄瑠璃で上演する時は、幕府の検閲を避けるためなのか、室町時代の古典『太平記』の世界を舞台とした『仮名手本忠臣蔵』が使われました。そこでは、吉良上野介は足利氏家臣の高師直、浅野内匠頭は塩治高貞判官に置き換えられています。これを観た、AとBが、次のように言ったとします。
A:忠臣蔵は、『太平記』をもとに作られたフィクションにすぎない。浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけたのは史実ではない。
B:いやいや、浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけたのは史実であり、高師直と塩治高貞こそ、吉良上野介と浅野内匠頭を過去に投射しただけの架空の人物にすぎない。
浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけようとして、切腹するはめになったことも、塩治高貞が、高師直のために、無念の自刃を迫られたことも史実であり、どちらか一方を否定することは誤りです。そして、テイレシアスさんの議論には、Aの論法とBの論法が見られます。
論法Aについて:私は、日本神話が海外の神話の影響を受けていることを否定するつもりはありません。実際、世界の神話は、似たような要素と似たような構造を持っています。しかし、だからといって、どのような構造のもとに、どのような要素を組み合わせるかに関して、独自性がないとは言えません。特に「太陽の女神」が日本に特有である以上、日本の特殊事情を反映していると考えざるをえません。ただ、テイレシアスさんが、二回目の投稿で、説の代わりに説を持ち出し、アマテラス直輸入説の否定に同意してくれたので、私とテイレシアスさんとの間には、対立がなくなりました。
論法Bについて:「アマテラス」がもともと男神であるとか、『日本書紀』の編集者が、アマテラスと持統天皇を重ね合わせ、文武天皇の即位を正当化しようとしたとする説があることは知っています。たしかその説は『逆説の日本史』でも好意的に引用されていたと思います。そして、これらの説は、私の説と矛盾するどころか、むしろ補強材料になると考えています。ただし、説が、論法Bで主張されるならば、私はそれに反対します。もしもアマテラス神話が、記紀編集当時に作られた純粋なフィクションなら、アマテラス神話には権威がないから、正当化には役に立ちません。神話は、由来が古いから権威があるのです。
そこで、アマテラス神話のもととなった古い神話はどのようなものだったかが問題になるわけですが、それを考える前に、アマテラス神話が、持統天皇のいかなる行為を正当化しようとしていたかを考えてみましょう。候補は二つあります。
1. 女性が天皇であること
2. 子ではなく、孫が皇位を受け継いだこと
2は違うと思います。草壁が生きているならともかく、草壁が死んだ以上、天智天皇の正当な血を受け継ぐ文武天皇が15歳で即位することには、問題がありません。問題は、それまでの間、女性が天皇の位についでいてよいのかということです。記紀が作られていた頃、文武天皇の後を、文武天皇の子である聖武天皇が継ぐまでの間、元明・元正という二人の女性が天皇の位にありましたが、ここでも問題となるのは、2ではなくて1です。
持統天皇は、同じ年に即位した中国の則天武后の真似をしていました。ここからもわかるように、持統天皇は、自分が女性であることを意識していました。「中国の皇帝ですら女がなれるのだから、日本の天皇が女で何が悪いのか」と言いたかったのでしょう。
持統天皇は、同時代の外国の権威だけでは不十分と考え、過去の権威を活用することも忘れませんでした。そこで引き合いに出されたのがアマテラスです。もしも、アマテラスがこの当時男として表象されていたならば、持統天皇の正当化には役に立たないはずです。アマテラスは、この時代、既に女神として意識されていなければなりません。
持統天皇が、則天武后と自己同一をしようとしたのは、日本の天皇より中国の皇帝の方が、権威があるからです。権威が低ければ、正当化には役立ちません。持統天皇がアマテラスとの自己同一を試みたということは、アマテラスの方が、持統天皇よりも権威があったということです。日本では、生前の身分が同じならば、持統天皇のように、自然死を迎えた人よりも、非業の死を遂げたスケープゴートの方が、神格が高くなるので、アマテラスは、非業の死を遂げた女帝ということになります。その条件に一番合うのは、卑弥呼というわけです。なお、なぜ、男だったアマテラスが女になったかに関しては、「天皇のスケープゴート的起源」の最後を読んで下さい。
最後に、神話には一つの意味しかないと考えることは、近代実証主義の偏見というものです。前近代社会においては、一つの言葉に複数の意味を重ね合わせるということが好んで行われていました。そうした意味の重層性という豊かさを読み取ることが、神話解釈では必要だと思います。
「天照大神は女神か男神か?」という論点に関し、一情報を提供致しますので、どうか参考にして下さい。
ほつま学者の間では「天照大神は男神」というのが(絶対的な)通説ですが、これは近年見直されつつあるホツマ文字文献『ほつまつたゑ』が「天照大神を男神」として記述していることを論拠にするものです。しかし、そもそも、ほつま文字や「ほつまつたゑ」が後世に偽造された代物であるならば、偽造文書を論拠にした「天照大神=男神」説など話にならない、ということになりましょう。
しかし、『秘められた古代史ホツマタタヘ』(毎日新聞社刊 松本善之助 著)の中で、松本さんは、天照大神が女神とされた経緯について以下のように述べています。
「女帝第一号だった推古天皇と密接な関係がある(・・・)にわかに女性が帝位につくということは朝廷内外に非常な抵抗と衝撃を与えないはずはありません。推古天皇自身も何か合理的な支柱を必要としたことでしょう。その意を汲んで作為したのが、馬子と聖徳太子だったと思います。今日ならさしずめ憲法改正ということになるのでしょうが、当時はそれを、日本書紀の推古天皇二十八年のところにある天皇紀、国紀の編纂に求めたのです。そこで試みられたのが天照大神を女性に仕立てるということでした。」(60~61頁)
これだけなら、松本さんの単なる推測ですが、続いて、江戸時代初期の伊勢外宮の神官であった度会延経(ワタライノブツネ)の説を挙げています(64~67頁)。
延経は『内宮男体考証』『国学弁疑』の二冊を著し、この中で、平安時代初期に書かれた『江家次第(こうけしだい)』という、朝廷の公事や儀式を詳細に書き記した書物の記述内容の中に、「天照大神のご装束一式」についての言及があり、この装束一式を見ると間違いなく「男性の装束」である、という事を発見し、これを理由にして、延経は「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と結論付けている、ということです。
恐らく、伊勢神宮には「天照大神=男神」の伝承は今でも残っているのではないか、と思います。
また、「ほつま文字は日本に渡来した易経の影響で創案された文字である」(大空説)という新説を唱える私の立場からも、乾坤思想では「太陽は乾」つまり「陽気の塊」と理解されますから、陰陽道では「太陽は男性」に配当されることになります。そして、ご存じの通り、陰陽道は神道においてもコアの部分を形成する思想と言えるでしょうから、であれば、陰陽道規定のルールに反して「天照大神が女神」という位置付けは、極めてイレギュラーであると認識すべきだと考えます。ゆえに、「なぜ、こうしたイレギュラーな位置付けになったのか?」と探るのが、正しい方向性ではないかと考えています。
また、古神道に伝わる呪言「トーカミエミタメ」について私は「古代の八卦図」を復原し、これと照合してその語源を解き明かしましたが(前出の拙著参照)、呪言の最初の「と」が「乾」に当たり、「陽気極盛」を意味します。そして、偶然なのか 『ほつまつたゑ』には天照大神が「と」の教えを説いたとされる記述が有ります。
こうした天照大神に纏わる「陽気」繋がりからしても、天照大神は本来男神だった可能性が極めて高いと、私は考えます。果たして真相は如何・・・。
松木さんの推論も、説得力がありません。例えば、現在でも、「愛子様」を天皇にする、つまり女性天皇を認めるかどうかをめぐって、賛成派と反対派の間で論争がありますが、政府内の賛成派が、女性天皇を正当化するために、「神武天皇を女性にしよう」と言い出し、神武天皇を女性と明記しなければ、教科書検定を不合格にするぞと圧力をかければ、男性至上主義の反対派は納得するどころか、むしろ怒り出すでしょうから、逆効果です。つまり、権力者が、女性天皇を正当化するために、アマテラスを男から女に変えるということはナンセンスだということです。
ホツマツタヱの研究者の間で「天照大神は男神」というのが通説と説明している方がおられますが、後世になって記紀が改竄されているという説明を加えることで成り立っている説のようです。ところが近年になって、『男神・女神両立説』や『天照皇朝執権政治説』が唱えられ、「ホツマツタヱと古事記の記述に認められる、男神と女神の矛盾点は、ワカ姫が天照カミの替え玉を勤めていたからだと解釈することで、綺麗に解決されてしまう」ため、ホツマツタヱも記紀もどちらもが真実を伝えており、後世改竄が行われたといった、根拠が定かでない無理な説明を付け加える必要は一切ないとする、新たな見解が示されています。
詳細は『弥生時代史誕生』などのサイトを閲覧して御確認ください。
「後世になって記紀が改竄されている」ではなくて、記紀が本来の神話を改竄しているのではないかという点が問題になっているのです。
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永井さんの天照大神=卑弥呼という説は、なかなか面白い説だと思います。この説は、いわゆるアマチュアの歴史愛好家系の学者や歴史小説家に人気があり、安本氏(彼は心理学が専攻)なんかがその代表です。
彼がその根拠にした一つに、市販の天文学系ソフトで、247年、248年に、皆既日食があったという説が大きく影響しています。これでは、皆既日食は九州であったということになっており、この2年立て続けに起こった皆既日食を、天の岩戸神話に見立てる説です。
が、この説は、市販の天文学系ソフトを根拠にしている時点で終了なのです。何故なら、その時代に日本では皆既日食は、248年の一回だけであり、しかも、畿内や九州などの西日本では皆既日食は観測されてないのです。何故なら、市販の天文学ソフトでは、2000年ほど前に遡ることで生じる誤差まで計算されておらず、皆既日食というのは、ある程度、誤差が生じてしまうと、もう、それは皆既日食とは、ほど遠い状態になってしまうのです。
Total and Annular Solar Eclipse Paths: 0241-0260
そんなわけで、最近では、彼はこの根拠を引っ込めていますw むろん、彼はアマテラス=卑弥呼説と邪馬台国九州説を信じているので、別の根拠を持ち出して主張していますが...
で、私は、おそらく、アマテラスの神話は、なんらか卑弥呼のことも影響したかもしれませんが、基本的に、アマテラスと卑弥呼は別ものと考えて良いと思います。
そして、上のほうでも、アマテラスは、元々は女神ではなく、アマテルという男神だったという説が提唱されていますが、これは、日本にはアマテルという男の太陽神の神社が多く存在していることから出た説だと思います。
ただ、上のほうでは触れてないんですが、この男の太陽神・アマテルというのは、日本書紀や古事記などにも登場する、アメノホアカリという神様なんですよね。
続きは後ほど。
リンク先の画像を見ました。この図では、247年3月24日の皆既日食観測可能地帯は、対馬あたりまでしか来ていないし、248年9月4日の皆既日食観測可能地帯は、出雲沖合いの北の方までしか来ていません。したがって、この図が正しいならば、北九州で皆既日食が見られたという安本氏の主張は成り立たなくなります。しかしながら、二回とも北九州の近くにまで皆既日食観測可能地帯があったということから、北九州では、部分日食が見られたであろうということが推測できます。皆既日食観測可能地帯の周辺には、部分日食観測可能地帯が広がっています。この写真は、その様子をよく写しています[Digital Movie Gallery]。そして、タイムリーに現れた部分日食が、当時の人々に、太陽の死を予感させたという可能性はあると思います。本文に書いたように、皆既日食と比べると、インパクトは小さかったでしょうが。