このウェブサイトはクッキーを利用し、アフィリエイト(Amazon)リンクを含んでいます。サイトの使用を続けることで、プライバシー・ポリシーに同意したとみなします。

日本書紀はどのようにして成立したのか

2010年3月15日

『日本書紀』は、もともと天武天皇が、自らの権力の継承が正当であること、自分の称号として定めた「天皇」が、雄略朝の時期から続く由緒あるものであることを国内外に誇示するために、編纂された。しかし、後に修史事業を受け継いだ藤原不比等は、聖徳太子という聖人を捏造し、蘇我氏を聖徳太子の子孫を滅ぼした悪役にし、その悪役を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足を英雄にし、天皇親政の中央集権国家の建設という天武天皇の業績を、二人の業績にすり替えるべく、改竄を加えて、『日本書紀』を完成させた。

日本書紀と藤原不比等の画像の表示
日本書紀と藤原不比等。

1. 『日本書紀』のα群とβ群

養老4年5月21日(グレゴリオ暦720年7月5日)に成立した『日本書紀』の原文は、中国語(漢文)で書かれているが、歌謡は、日本語の音が漢字で表記されている。日本語の歌謡を漢文で書く時、日本語の音を中国の音に対応させなければならないが、日本人と中国人では、弁別できる音が異なるので、その結果、使用する漢字に違いが出てくる。森博達は、『日本書紀』を、この観点から、中国語の原音の区別に基づいている部分とそうではない部分に分け、前者をα群、後者をβ群と名付けた。

森博達は、α群を書いたのは、当時の中国原音、すなわち、唐代北方音の中国語を母語とする中国人で、β群を書いたのは、中国原音に不案内な日本人であると主張した。以下は、『古代の音韻と日本書紀の成立』や『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』に書かれている、その根拠の要約である。

  1. β群では、カ行の仮名に、牙音、つまり[k-]系統の漢字のみならず、喉音、つまり[h-]系統の漢字も用いられているが、α群では、喉音は、一切使われていない。これは、当時の日本人が、カ行とハ行を区別していなかったのに対して、中国人は、そうではなかったからである。
  2. α群では、カ行にのみ有気音(次清音)を使っているが、β群では、有気音と無気音(全清音)の区別に無頓着である。これは、中国語では、有気音と無気音の区別が意味の違いをもたらすので、中国人は、日本人が発音するカ行子音の気息音を聞き取っていたが、日本人はそうではなかったからである。
  3. α群では同一列音に対して同一韻類が、同一行音に対して同一声類が使われるが、β群では、互いに対立する複数の列音に同一韻類を、互いに対立する複数の行音に同一声類を混用する例が多い。これは、日本人が、漢音系のみならず、呉音系の仮名まで使っているからである。
  4. α群では、日本人が容易に識別できる「マ」と「バ」、「ナ」と「ダ」の区別がない。これは、唐代北方音には、濁音と鼻濁音との間に、意味の相違を担う音韻論的対立がなかったからである。
  5. α群では、高平調のアクセントを持っている日本語の濁音を清音の漢字で写し取っている。その結果「水」が「ミツ」となり、「枝」が「エタ」となっている。これは、高平調の音節はその発端高度が高く、有声要素が減殺する結果、日本語の高平調の濁音を中国人が清音に聞き誤ったからである。

以上は、音韻論的観点からのα群とβ群の違いであるが、統語論的観点からしても、α群にはβ群よりも倭習(和製漢文)が少ないという違いがある。α群にも倭習の大半は、執筆者/編集者が修正を加えることができない引用文の内部に含まれているが、中には、そうでないものもある。例えば、α群に属する巻十七継体天皇元年二月に「寡人敢不乖」という箇所があるが、「寡人敢不乖」だと、「われ、敢へて乖かざらんや」という反語表現になってしまう。これは、後続の「乃ち璽符を受けたまふ(乃受璽符)」に矛盾するから、おかしい。「われ、敢へて乖かじ」と訓ませるには、「寡人不敢乖」としなければならない[1]。森博達は、このα群における誤用の原因を後人の加筆に求めている。継体天皇の即位記事は、史実ではなく、『漢書』文帝紀と『呉史』孫休伝の即位記事をもとにして作られていることが、その根拠である。

α群が中国人によって書かれたとする根拠は、他にもある。巻十四雄略天皇即位前紀の記事に、「妻を妹というのは、思うに古の俗語か(稱妻爲妹盖古之俗乎)」という分注がある。血縁上の妹ではない「妻」を「妹」と呼ぶことは、過去の廃れた習慣ということではなくて、当時の習慣であった。ここから、述作者は、当時の日本の習俗に通じていなかった渡来人であったことがわかる。

α群がβ群に時期的に先行したことは、使われている暦からわかる。『日本書紀』の記述には、安康三年より前では儀鳳暦(ぎほうれき)が使われ、安康三年から持統四年までは元嘉暦(げんかれき)が使われ、持統五年からは、再び儀鳳暦が使われている[2]元嘉暦は、南北朝時代の南朝で使われていた暦で、日本には百済を通じて6世紀頃に伝えられた古い暦である。これに対して、儀鳳暦は、唐の時代に採用された麟徳暦(りんとくれき)が元になっており、日本では、持統四年(690年)から元嘉暦と並用され始め、文武二年(696年)から儀鳳暦が単独で用いられるようになった。だから、持統五年からは、儀鳳暦が使われているのは自然なことだが、安康三年より前の記述に新しい暦が使われているのは、不自然である。これも、安康三年より前のβ群が、持統四年(690年)以降に書かれたと考えれば、納得がいく。なお、安康三年から持統四年までの範囲にβ群が含まれるが、このことは、これらのβ群が、新たに書かれたものではなく、先行するα群の原稿のうち、暦はそのままにして、内容だけを大幅に改竄・加筆した結果、成立したものであると推測できる。

2. 『日本書紀』の著者の特定

森博達は、α群の「述作者」を、唐人で、音博士の続守言と薩弘恪と推定した[3]。もとより、続守言と薩弘恪は、日本の歴史については何も知らない。『日本書紀』巻二九天武天皇十年三月の記事によると、「帝紀」と「上古諸事」の筆録を命じられたのは、中臣連大島と平群臣子首であり、続守言と薩弘恪は、筆録された「帝紀」をもとに『日本書紀』を編集しただけであろう。「述作」という言葉は「先人の学を承けて著作する」という意味だが、森博達が謂う所の「述作」をこの意味で理解したい。

続守言は、660年の唐・新羅連合軍と百済との戦いで捕虜となり、663年に日本の都へ護送された。薩弘恪の来朝の経緯は不明である。続守言と薩弘恪は、飛鳥浄御原令が頒布される十日前の689年6月19日に賞賜を受けている。これは、両者が飛鳥浄御原令の作成に功績があったことを示している。彼らは、さらに、691年9月に最初の音博士を拝命し、賞賜を受けている。それゆえに、彼らはα群の述作者の最も有力な候補である。なお、続守言・薩弘恪の「守言・弘恪」は、実際の名前ではなく、音博士になってから命名されたものと考えられている。「守言弘恪」は、「言葉を守り、その規範を弘める」という意味であり、2字目と4字目の平仄も整っている[4]

『続日本紀』巻一文武四年六月の記事には、大宝律令の撰定奉勅者として、薩弘恪の名のみがあり、続守言の名がない。だから、続守言は、文武四年、すなわち700年には死亡もしくは引退していた。また、薩弘恪の名は、701年に大宝律令が完成したのにもかかわらず、700年以降、『続日本紀』に登場しないことから、彼もまた、それまでに死亡もしくは引退したと推測できる。そう考えるならば、α群は、天武天皇が修史事業を命じた681年から700年ごろまでに書かれ、その後、β群が書かれるようになったということになる。

では、β群を書いたのは誰か。森博達は、文章博士だった山田史御方(やまだのふひとみかた)がβ群の主要な述作者と推定した[5]。山田史御方は学問僧として新羅に留学したが、唐に留学した経験がないため、唐代北方音に暗かったこと、『続日本紀』巻三慶雲四年四月の記事によると、『日本書紀』β群が編集されていた頃の707年に、「学士をめぐまむ(優學士)」ということで、従六位下を賜り、『日本書紀』撰上の年である720年には、従五位上に昇叙されていることがその根拠である。

森博達は、さらに、『続日本紀』巻六和銅七年(714年)二月の記事に「従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂に詔して、国史を撰せしめたまふ(詔從六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂、令撰國史)」とあることから、714年以降、清人が「持統紀」の撰述を担当し、藤麻呂はそれ以外の箇所への加筆を担当したと考えている。だが、ここで謂う所の『国史』が『日本書紀』であるとは限らない。友田吉之助によると、この時の日付、和銅七年二月戊戌は、異種の干支紀年法においては、和銅五年正月戊戌、つまり、『古事記』序文に記されている『古事記』選上の年月日、和銅五年正月二十八日と完全に合致する[6]。したがって、この『国史』を『古事記』とみなすこともできる。

もっとも、仮にそういうように『国史』を解釈したとしても、紀朝臣清人は、『古事記』完成後も学士としての功績により二度も賞賜されているのだから、紀朝臣清人が『日本書紀』の述作にも従事したと考えることができる。森博達によると、『古事記』において日本語の歌謡の音表記を行っている万葉仮名、126字種のうち、11字種において、相互に対立する複数の列音に同一韻類を混用するという唐人がすることがない間違いが見出され、さらにそのうち8字種の混用は、『日本書紀』β群と同種の混用である[7]。だから、『日本書紀』β群の述作者が『古事記』の述作者と同じである可能性が高い。

なお、従来、『日本書紀』の述作者として、道慈の名が挙がることがあった。しかし、道慈は、山田史御方のように還俗はしなかった。『続日本紀』巻八養老三年(719年)十一月の記事では、道慈が賞賜された理由が「有徳」となっており、「優學士」が理由の山田史御方とは異なる。また、道慈が唐から帰朝したのが718年で、『日本書紀』の編集にかかわるには遅すぎること、唐に留学したから、唐代北方音にある程度通じていたであろうことなどを考えると、β群の述作者とは考えにくい。

3. 『日本書紀』編集の目的

修史事業は、681年の天武天皇の詔勅から始まり、712年に完成した『古事記』と720年に完成した『日本書紀』という形で結実する。『日本書紀』が何の目的で撰上されたのかという問題を考える時、なぜ同時期に、同じような内容を持った歴史書が編纂されたのかという問題を同時に考えなければいけない。この問題を考える上で、重要な手がかりを与えてくれているのが、『古事記』序文にある以下の記述である。

今上陛下は、旧辞の誤り違っているのを惜しまれ、帝紀の誤り乱れているのを正そうとして、和銅四年九月十八日に、臣安万侶に、「稗田阿礼が誦ずるところの勅語の旧辞を選録して献上せよ」と仰せられたので、謹んで仰せのままに事細かに採録した。[8]

『古事記』の序文によれば、天武天皇が、記定を命じた先行史書は二冊あって、両者は、『帝紀』と『本辞』、『帝紀』と『旧辞』、『先紀』と『旧辞』、『帝皇日継』と『先代旧辞』というように、さまざまな名称で連称されている。『日本書紀』巻二九天武天皇十年三月の記事では、両者の書名は、『帝紀』と『上古諸事』となっており、両史書は、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したと『日本書紀』が伝えるところの最古の歴史書、『天皇記』と『国記』に対応していると思われる。

ところが、引用文が示すように、『古事記』が完成する前年に元明天皇が太安万侶に選録を命じた史書は『旧辞』だけで、『帝紀』は含まれていない。『帝紀』は省略されているとみなす人もいるが、『古事記』の序文では、ここ以外では、そうした省略がないから、不自然である。だから、元明天皇が太安万侶に選録を命じたのは、『旧辞』だけで、それは、『古事記』として完成したが、『帝紀』の選録は、別の者に命じて、『日本書紀』として完成したという推測が成り立つ。『続日本紀』巻六和銅七年二月の記事に登場する『国史』が『古事記』だとするならば、この名称は、『天皇記』ではなくて『国記』の方であるという意識で使われたのだろう。

『天皇記』と『国記』のうち、『天皇記』の方は焼失したことになっているので、『天皇記』と『帝紀』は同じではないだろう。にもかかわらず、天皇の歴史とそれ以外が区別されるのは、中国における正史の標準的な形式、紀伝体の影響である。紀伝体とは、その名が示すとおり、帝王の事跡を年毎に記述した本「紀」と帝王以外の人物の生涯や異民族の民俗を記録した列「伝」から成り立つ史書の編集形式である。『帝紀』、『先紀』、『帝皇日継』、『天皇記』といった、書名に「紀」や「皇」の字が入った方が本紀で、そうでない方が列伝という、区分が成り立つ。

『日本書紀』のα群は、雄略紀から始まるが、『古事記』は、雄略天皇以前の扱いが大きい反面、それ以降の歴代天皇の記述が簡素で、いかにも後から取って付けたような感じである。ここから、両者の原形がどのような史書であったのか推測がつく。雄略天皇は、日本で最初に「大王」と名乗った王であり、またその名にふさわしい権力者であった。天武天皇は、最初に「天皇」を名乗った天皇で、天皇を由緒あるものとするべく、雄略以降の大王の歴史書である『帝紀』を天皇の歴史である本紀として、そして、それ以前の雑多な伝承を扱った『上古諸事』を列伝として編集し、紀伝体の正史、『日本書』を完成させることを681年の詔勅で命じたと考えることができる。

もしもこの推測が成り立つのなら、天武天皇は、なぜ中国の標準的な正史の形式である紀伝体で日本の正史を編纂させようとしたのかが問題となる。この問題は、なぜ正史の監修者として、続守言と薩弘恪という中国人を用いたのかという問題と併せて考えなければいけない。読者が日本人に限定されるのであれば、「水」を「ミツ」、「枝」を「エタ」と聞き取る中国人に述作させる必要はない。中国人を音博士に任じて、日本語を唐代北方音の中国語で表記させたことや、紀伝体で正史を編纂させたことは、中国人を読者とすることを想定していたということである。

では、なぜ天武天皇は、中国人が読むに堪えるような正史を編纂しようとしたのか。ここで、681年に天武天皇の詔勅が出された当時の日本が置かれていた状況を振り返ってみよう。東アジアにおける日本の威信は、白村江の戦で失墜した。天智天皇は、唐と新羅の連合軍が日本に侵攻することを恐れて、遷都までして、防御体制を整えた。だが、それは杞憂に終わった。百済と高句麗が滅亡した後、朝鮮半島の支配権をめぐって、それまで同盟の関係にあった唐と新羅の関係が悪化したからだ。676年に、新羅が唐軍を追放して、朝鮮半島を統一すると、新羅は、唐による報復を恐れて、背後の脅威を取り除くために、日本との同盟を望むようになり、日本への朝貢を熱心に行うようになった。これは、日本にとっては、失われた威信を取り戻すチャンスであった。天武天皇が681年に律令編修と正史記定の詔勅を下したのは、日本が、新羅の宗主国として、唐に勝るとも劣らない文明国家、すなわち律令国家であることを対外的に誇示することが目的だったと考えられる。天武天皇が、天子を自称する唐の皇帝に対抗して、自らを「天皇」と名乗ったのも、このためにちがいない。

681年に制定が命じられた律令は、689年に令のみが飛鳥浄御原令として頒布され、最終的には701年の大宝律令として完成する。律は刑罰法令で、令は律以外の法令であるから、令だけを先行して飛鳥浄御原令として公布するのは、本末転倒だが、このあたりは、紀伝のうち伝だけを先行して『古事記』として選上したのとよく似ていて、最も重要な部分の編纂には時間がかかったから公表が遅れたということであろう。飛鳥浄御原令が頒布される十日前に、唐人の続守言と薩弘恪が賞賜されていることから、両者は、律令の監修にもかかわったと思われる。律令は、国内向けの法律であるから、日本人だけが読めればよいのであって、唐人の監修など受けなくてもよさそうなものだが、そうではなかったということは、対外的に律令の制定を誇示する意図があったということである。

ところが、天武天皇崩御後、東アジアの情勢に変化が現れる。696年頃から、大祚栄が唐からの独立を画策し、698年には、唐を破って、震国(後の渤海)を建国した。この新勢力の台頭により、新羅は、もはや唐による侵略を憂慮する必要がなくなったし、日本も新羅とともに唐と戦う可能性がなくなった。かくして、正格漢文で書かれた律令と紀伝体の正史を対外的な誇示のために完成する必要がなくなってきた。大宝律令が完成する701年までに、続守言と薩弘恪が死亡もしくは引退するが、736年に帰国の遣唐使とともに来日した袁晋卿(えんしんけい)が音博士に任じられるまで、後任となる唐人の音博士は補充されなかった。これは、後任が見つからなかったからというよりも、後任を置く必要がなくなったからではないだろうか。もしも、どうしても唐人の音博士が必要ということであるのなら、702年に日本を出発した第八回遣唐使が、誰かを招聘したはずだ。

続守言と薩弘恪が死亡もしくは引退する時期は、藤原不比等が権力者として頭角を現す時期でもある。この頃から、修史事業の目的が変質してくる。当初、天武天皇は、自らの権力の継承が正当であること、自分の称号として定めた「天皇」は、雄略朝の時期から続く由緒あるものであることを国内外に誇示するべく、正格漢文で書かれた紀伝体の『日本書』の編纂を命じた。修史事業を受け継いだ不比等は、この当初の目的を放棄し、国内向けに、藤原家の権力簒奪を正当化する歴史書にしようと企み始めた。かくして、不比等は、『上古諸事』を『古事記』として先行的に完成させ、その際集めた史料を基に、『帝紀』の雄略紀以前の歴史を継ぎ足し、天皇の歴史を中国皇帝の歴史並みに長いものとして、権威付けをしつつ、完成していたα群をも、藤原家にとって有利になるように、部分的に改竄した。こう考えれば、α群とβ群の分布を理解することができる[*]

[*] しかし、だからといって、β群の記述はα群の記述よりも史書としての信憑性が落ちるとは限らない。河鰭(かわばた)公昭名古屋大名誉教授と谷川清隆国立天文台助教授らによると、天文現象に関する記述では、α群よりもβ群の方が正しい。この研究者によると、α群に出てくる643年の月食が、日本では見られないものだった。彗星や超新星を表す記述は中国では記録されていないなど、事実と確認できる天文現象はない。逆に天智天皇の代に中国で見えた彗星2個が記録されていない。これに対して、β群にある628年から681年の5回の日食は、年代の誤記とみられる1例はあるが、いずれも日本で観測できたと認められた。月食と火星食各1例も事実で、684年のハレー彗星など6個の彗星も、5個が中国の記録と一致したとのことである[9]

『日本書紀』は、『日本書』の紀という意味である。だが、もし紀伝体の本紀なら、冒頭にある神代は除外するべきだし、列伝に属するような挿話も削除するべきである。結局のところ、『日本書紀』は、紀伝体風の編年体史書となってしまい、海外に贈呈されることもなかった。それでも、 聖徳太子という聖人を捏造し、蘇我氏を聖徳太子の子孫を滅ぼした悪役にし、その悪役を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足を善玉にし、天皇親政の中央集権国家の建設という天武天皇の業績を、二人の業績にするという不比等による歴史の歪曲は、その後長く日本人によって信じられることになるのだから、不比等の計略は成功したということができる。

4. 参照情報

関連著作
修史事業関連年表
  • 620年:『日本書紀』によると、聖徳太子と蘇我馬子が、最古の歴史書、『天皇記』と『国記』を執筆した。
  • 645年:乙巳の変。蝦夷は舘に火を放ち、『天皇記』と『国記』を焼いて自殺しようとしたが、船史恵尺が、『国記』を回収して、中大兄皇子へ献上した。
  • 660年:百済滅亡。百済遺臣の鬼室福信らが唐に反乱を起こし、唐人の続守言を補えた。
  • 663年:白村江の戦。続守言が、倭の都へ護送された。
  • 668年:高句麗滅亡。第一回目の遣新羅使。
  • 672年:壬申の乱。天武天皇が即位。
  • 676年:新羅、唐軍を追放して、朝鮮半島を統一。第四回目の遣新羅使。日本と新羅の同盟関係が緊密になる。
  • 681年:天武天皇、律令編修の詔勅を下す。さらに、川島皇子以下12名に詔して、『帝紀』と『上古諸事』を記定させ、中臣連大島と平群臣子首に筆録させた。
  • 686年:天武天皇死去。皇后の鵜野讃良と皇太子の草壁皇子による共同統治が始まる。
  • 689年:草壁皇子が死去し、鵜野讃良が持統天皇として即位。飛鳥浄御原令が頒布される。その十日前、編纂に功績があったためか、唐人の続守言と薩弘恪が賞賜された。両者は、唐朝の正音(唐代北方音)に通暁していたため、最初の音博士を拝命した。
  • 690年:唐で武則天が即位。日本では、儀鳳暦が元嘉暦と並用され始める。
  • 691年:続守言と薩弘恪が賞賜された(二回目)。
  • 692年:続守言と薩弘恪が賞賜された(三回目)。これらは、『日本書紀』や大宝律令の監修の功績を称えるためと思われる。
  • 696年:大祚栄が営州地方で唐からの独立を画策。
  • 697年:持統天皇が退位。藤原不比等、軽皇子を文武天皇として擁立することに成功し、文武天皇に娘の宮子を嫁がせた。これをきっかけに、藤原不比等が朝廷で権力を握り始める。
  • 698年:儀鳳暦が単独で使われ始める。渤海国建国。
  • 700年:大宝律令がほぼ完成。それ以前に続守言が、その直後に薩弘恪が死去または引退。『日本書紀』α群が完成。
  • 701年:大宝律令完成。文武天皇、藤原不比等の孫に当たる首皇子(後の聖武天皇)を産む。藤原不比等、正三位大納言となる。
  • 702年:持統上皇死去。巻三〇「持統紀」の撰述が計画される。道慈、唐へ渡る。
  • 707年:4月、山田史御方、学士としての功績により従六位下を賜る。『日本書紀』β群の述作の功績によるものか。7月、文武天皇死去。文武天皇の母が、元明天皇として即位。この頃から、蘇我氏の怨霊が意識され、聖徳太子伝説が生まれたか。
  • 708年:藤原不比等、右大臣となる。
  • 711年:元明天皇、太安万侶に「稗田阿礼がよむところの勅語の旧辞を選録して献上せよ」と命じる。
  • 712年:太安万侶が『古事記』を元明天皇に献上。玄宗が唐の皇帝に即位。
  • 714年:元明天皇、紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に『国史』を撰述させる。
  • 715年:紀朝臣清人、学士としての功績により賞賜された。
  • 717年:紀朝臣清人、学士としての功績により賞賜された。このころから、藤原不比等らが中心と成って養老律令の編纂を始める。
  • 718年:道慈、帰朝。
  • 719年:道慈、有徳により賞賜された。
  • 720年:1月、山田史御方、従五位上を賜る。5月、『日本書紀』三十巻が完成し撰上された。8月、藤原不比等死去。
森博達によるα群とβ群の区別と述作者の特定
  • 卷第一 → β群(述作:山田史御方)
    • 神代上
  • 卷第二 → β群(述作:山田史御方)
    • 神代下
  • 卷第三 → β群(述作:山田史御方)
    • 神武天皇
  • 卷第四 → β群(述作:山田史御方)
    • 綏靖天皇(倭習なし。太安万侶著?)
    • 安寧天皇
    • 懿徳天皇
    • 孝昭天皇
    • 孝安天皇
    • 孝霊天皇
    • 孝元天皇
    • 開化天皇
  • 卷第五 → β群(述作:山田史御方)
    • 崇神天皇
  • 卷第六 → β群(述作:山田史御方)
    • 垂仁天皇
  • 卷第七 → β群(述作:山田史御方)
    • 景行天皇
    • 成務天皇
  • 卷第八 → β群(述作:山田史御方)
    • 仲哀天皇
  • 卷第九 → β群(述作:山田史御方)
    • 神功皇后
  • 卷第十 → β群(述作:山田史御方)
    • 応神天皇
  • 卷第十一 → β群(述作:山田史御方)
    • 仁徳天皇
  • 卷第十二 → β群(述作:山田史御方)
    • 履中天皇
    • 反正天皇
  • 卷第十三 → β群(述作:山田史御方)
    • 允恭天皇
    • 安康天皇
  • 卷第十四 → α群(述作:続守言+加筆:三宅臣藤麻呂)
    • 雄略天皇。
  • 卷第十五 → α群(述作:続守言)
    • 清寧天皇
    • 顕宗天皇
    • 仁賢天皇
  • 卷第十六 → α群(述作:続守言)
    • 武烈天皇
  • 卷第十七 → α群(述作:続守言+加筆:三宅臣藤麻呂)
    • 継体天皇
  • 卷第十八 → α群(述作:続守言)
    • 安閑天皇
    • 宣化天皇
  • 卷第十九 → α群(述作:続守言+加筆:三宅臣藤麻呂)
    • 欽明天皇
  • 卷第二十 → α群(述作:続守言+加筆:三宅臣藤麻呂)
    • 敏達天皇
  • 卷第二十一 → α群(述作:続守言)
    • 用明天皇
    • 崇峻天皇 → 四年以降はβ群(述作:三宅臣藤麻呂)
  • 卷第二十二 → β群(述作:山田史御方)
    • 推古天皇
  • 卷第二十三 → β群(述作:山田史御方)
    • 舒明天皇
  • 卷第二十四 → α群(述作:薩弘恪+加筆:三宅臣藤麻呂)
    • 皇極天皇
  • 卷第二十五 → α群(述作:薩弘恪+加筆:三宅臣藤麻呂)
    • 孝徳天皇
  • 卷第二十六 → α群(述作:薩弘恪+加筆:三宅臣藤麻呂)
    • 斉明天皇
  • 卷第二十七 → α群(述作:薩弘恪)
    • 天智天皇
  • 卷第二十八 → β群(述作:山田史御方)
    • 天武天皇 上
  • 卷第二十九 → β群(述作:山田史御方)
    • 天武天皇 下
  • 卷第三十 → α群ではないが、倭習なし。(述作:紀朝臣清人)
    • 持統天皇
注釈一覧
  1. 森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』中央公論新社, 1999. p. 162-163.
  2. 内田正男「日本書紀の暦年に就いて」 in 上田正昭『「古事記」「日本書紀」総覧』新人物往来社, 1990.
  3. 森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』中央公論新社, 1999. p. 209.
  4. 森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』東京: 大修館書店, 1991. p. 154.
  5. 森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』中央公論新社, 1999. p. 216.
  6. 友田吉之助『日本書紀成立の研究』増補版. 風間書房, 1969. p. 611-613.
  7. 森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』中央公論新社, 1999. p. 35.
  8. 「惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭、以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。」『新編日本古典文学全集 (1) 古事記』小学館 (1997/5/22). p. 23-25.
  9. 朝日新聞「日本書紀に、信頼に差がある2種の筆者 天文現象で分析」2006年12月6日.