フロギストン説はなぜ支持されたのか
フロギストン説とは18世紀に支持されていた化学の仮説である。この理論によると、可燃物にはフロギストンと呼ばれる可燃元素があって、ある物質が燃えると、フロギストンがその物質から放出され、燃えた後に残る灰は、その物質本来の形であると考えられた。フロギストン説が流行した時代背景には、魔女狩りや瀉血に典型的に表われているカタルシス願望があった。すなわち、前者に関しては、魔女たちを火炙りにすると、彼女たちから悪魔主義が追い出され、彼女たちが軽い灰となることでその罪も同様に軽くなり、悪魔に魂を売る前の本来の健全な姿に戻ると考えられており、後者に関しては、血液を放出することで病気の原因が体から追い出され、その症状は軽くなり、患者は本来の健康な姿に戻ると考えられていた。

1. フロギストン説の盛衰
フロギストン説とは、なぜ燃焼が物質を変化させるのかを説明しようとした、かつて存在した化学の仮説である。この理論によると、可燃物にはフロギストンと呼ばれる可燃元素があって、ある物質が燃えると、フロギストンがその物質から放出され、燃えた後に残る灰は、その物質本来の形であると考えられた。
フロギストン説は、最初、ドイツの化学者にして内科医のヨハン・ベッヒャー(Johann Joachim Becher)によって、1667 年に提唱され[1]、1697 年には、さらにドイツの化学者にして内科医のゲオルク・シュタール(Georg Ernst Stahl)によって継承され、一般に広められた[2]。ベッヒャーは可燃物に含まれている可燃要素に、ラテン語で「肥えた土」を意味する“terra pinguis”という名前を与えたが、シュタールは、それを、ギリシャ語で「可燃要素」を意味する「フロギストン」と名付け、こちらの呼称が人口に膾炙した。フロギストン説は、18世紀の終わりまで、西洋の科学者たちに幅広く支持された。

フロギストン説によれば、物質が燃えて灰になると質量が減るのは、それがフロギストンを失ったからである。もっとも、金属は、燃やすとむしろ質量が増えるということが実験結果からわかるようになった。フロギストン説の支持者は、その場合、フロギストンには負の質量があると主張したが、燃える物によってフロギストンの質量を正にしたり負にしたりするのは、恣意的である。
1783年に、質量保存の法則を発見したアントワーヌ・ラヴォアジエは、フロギストン説の矛盾を突き[4]、燃焼とはフロギストンを放出することではなく、酸素と結び付くことだと主張した 。それでもなお、ジョゼフ・プリーストリーのように、フロギストン説に固執する科学者はいた。酸素の発見後も、フロギストンという概念は、今日私たちがエネルギーと呼んでいるものを説明するために使われた[5]。フロギストン説はなぜ18世紀の人々にとってそれほど魅力的だったのだろうか。
2. 魔女狩りとの関係
フロギストン説の時代背景を調べると、ベッヒャーがフロギストン説を提唱した 1667 年頃のドイツでは、魔女狩りが最高潮に達していたことに気が付く。ベッヒャーが生まれ、住んでいたドイツ南西部においては、魔女狩りの最盛期は、1561年から1670年までの時期である[6]。ドイツにおける大規模な魔女の裁判と処刑はその後衰退し、ドイツにおける魔術に対する死刑宣告は1775年が最後となった。フロギストン説もヨーロッパでの魔女狩りも18世紀の末に終焉を迎えた。
魔女と認定された者たちは、ドイツをはじめとする大部分の地域では火刑に処せられた。以下の図は、16世紀のスイスで行われた魔女の処刑の様子を描いている。18世紀の人々は、この煙にフロギストンが含まれていると考えたに違いない。

火刑は、1184年のベローナ宗教会議以来、異端に対するローマカトリック教会公式の刑として定められている。イギリスでは、女性の反逆(夫の殺害)に対する伝統的な刑でもある。15世紀にドミニコ会士で異端審問官であったハインリヒ・クラマーらによって書かれた魔女に関する最も有名な論文『魔女に与える鉄槌』も、魔女が火刑に処せられるのは、その大部分が女性だからだ[8]と言っている。
古代においては、止血と殺菌のために傷口を火で焼く救急医療が行われていた。犯罪は社会システムの傷口を広げる行為であるから、権力者が、これを阻止し、社会システムの「健康」の回復をアピールするために、犯罪者を焼き殺すことは、一般的に言って、象徴的に意味のある行為である。また火は、古来より男性原理の象徴であり、父権宗教であるキリスト教が、母権宗教を崇拝する異端や反逆の罪を犯した女性、なかんづくその両方を兼ねている魔女を火炙りにすることは、さらに象徴的な意味を持つことであった。
浄化する火(purgatorius ignis)という考えは、カトリック教会における煉獄の教義にも見て取ることができる。すなわち、生前の罪が軽いのであれば、その罪は、煉獄の炎で浄化され、天国に入るに十分な神聖性に到達できるというわけだ。

魔女は悪魔主義によって汚染されていると考えられていて、迫害者たちは、彼女たちを悪魔主義から浄化しようとして火刑に処した。ということは、魔女の火刑は、一種の悪魔祓い(エクソシスム)であったということである。悪魔祓いとは、悪魔や悪霊に憑かれた人からそれらを追い払う行為で、キリスト教では宗派を問わず幅広く行われている儀式である。

魔女の火刑をエクソシスムと解釈するならば、私たちはここに燃焼一般に関するフロギストン説の原形を見て取ることができる。魔女たちを火炙りにすると、彼女たちから悪魔主義が追い出され、彼女たちが軽い灰となることでその罪も同様に軽くなり、悪魔に魂を売る前の本来の健全な姿に戻る。これを一般化するなら、物体を燃やすと、そこからフロギストンが追い出され、軽い灰というフロギストンと結び付く前の本来の姿に戻るというフロギストン説になる。
3. 消炎瀉血との関係
フロギストン説のもう一つの注目するべき時代背景として、当時盛んに行われていた瀉血(治療目的で血液を体外に除去すること)を挙げることができる。

フロギストン説の提唱者、ベッヒャーとシュタールが、ともに内科医であったことに注目しよう。当時の内科医たちは、様々な病気の原因を血液の過剰に求め、外科医や床屋は瀉血を治療方法として頻繁に用いていた。
局所的な感染が患部の開裂と出血で治療されることが観察されていたので、ランセットによる切開が、充満あるいはヒポクラテス的な意味での「多血症」と呼ばれていた局所的な感染の治癒のために使われていた。同様に、過度の発熱を下げるために瀉血が使われており、消炎瀉血と呼ばれていた。消炎瀉血と定期的な健康維持のための瀉血は、多くの初期の伝統的な医療システムに共通している。病が重ければ重いほどより多くの瀉血をという慣行が過熱しすぎた反動で、瀉血は、西洋では20世紀の初頭に行われなくなった。[12]
発熱や炎症は燃焼と類比的であり、その場合フロギストンに相当するのは血液である。ちょうど血液を放出すれば発熱や炎症が軽くなり、患者が健康な本来の姿に戻るように、フロギストンを放出すれば可燃物はそれ以上燃えない軽い灰となり、本来の姿に戻るとベッヒャーやシュタールは考えたのではないだろうか。
生体が細菌やウイルスといった病原体に感染すると炎症が起きるが、これは感染によって惹き起こされる症状というよりも病原体を取り除くための生体防御反応で、血漿と白血球が血液から感染した細胞へと移動することで起きる。こういう知識のない時代の人が、患部が赤く腫れ上がっているのは血液が過剰になったためと考え、瀉血で炎症を沈静化しようとしたことは理解できなくもない。血液と一緒に病原体が体外に放出されることで、感染症が治ったという成功例が過去にあったのかもしれない。そうなれば、熱を帯びる症状に有効ということで、消炎瀉血(antiphlogistic bloodletting 抗フロギストン瀉血)が発熱一般に対する療法としても使われるようになったことは自然な流れである。
もちろん、瀉血が発熱一般に対して有効であるという医学的根拠はない。今日では瀉血は、血鉄素症や赤血球増加症の治療といった少数の場合を除いて、行われていない。それにもかかわらず、瀉血という療法が長い間行われたのは、それがもたらす、たんなるプラセボ効果以上のカタルシス効果が、精神的にポジティブな影響を患者に与えたからと考えることができる。高熱にうなされている患者は、火と同じ色の血液が体外に放出されるのを見て、熱がそれと共に体から去っていくかのような錯覚に陥ったことだろう。病気の原因とされるものが熱以外の場合でも同じ考えが適用され、瀉血は万能の治療方法として濫用された。
4. カタルシス渇望の時代
魔女狩りがヨーロッパで最も熱狂的に行われたのは17世紀であり、フロギストン説が流行したのは18世紀であり、瀉血ブームのピークは19世紀の初頭である。17世紀から19世紀の初頭という時期は、欧米においては近代小氷期の時期と重なる。寒冷化による凶作は社会不安を増大させた。人々は、魔女というスケープゴートを見つけ出し、彼女たちをコミュニティから(正確に言えば、彼女に取り憑いている悪魔主義を彼女たちの体から)追放するカタルシス効果により、増大した社会システムのエントロピーを縮減しようとした。魔女狩りが、あまりにも非科学的すぎて、下火になっても、人々のカタルシスへの熱望は衰えることはなく、病気という目に見えない不安の対象を血液という目に見えるスケープゴートに移し変え、それを体外に追放する瀉血という疑似科学的な療法が、熱心に行われた。フロギストン説が流行した時代背景には、魔女狩りや瀉血に典型的に表われているこうしたカタルシス願望があったと言うことができる。
5. 参照情報
- ↑Johann Joachim Becher. Physica subterranea, 6.5 De Decompositis terreis, siccis & liquidis, pinguibus & macris. 1667. Universitäts- und Landesbibliothek Sachsen-Anhalt.
- ↑Georg Ernst Stahl. Zymotechnia fundamentalis sive fermentalionis theoria generalis. 1697.
- ↑The Engines of Our Ingenuity and Polarlys.
- ↑Antoine-Laurent Lavoisier. Réflexions sur le phlogistique pour servir de suite à la théorie de la combustion et de la calcination. publiée en 1777, Paris : Académie des sciences, 1783.
- ↑Allchin, Douglas. “Phlogiston After Oxygen." Ambix 39.3 (1992): 110-116.
- ↑H. C. Erik Midelfort. Witch Hunting in Southwestern Germany, 1562-1684: The Social and Intellectual Foundations. Stanford University Press (1972/6/1). p. 71.
- ↑Johann Jakob Wick. “Dietegen Guggenbühl: Hexen." Sandoz-Bulletin 24. 1971. p. 38.
- ↑Heinrich Kramer, Jacob Sprenger. The Malleus Maleficarum. Part I, Question I.
- ↑Peter Schmelzle. “Predella am Hochaltar der Stadtkirche Bad Wimpfen“. Licensed under CC-BY-SA.
- ↑Francisco Goya. “St. Francis Borgia Helping a Dying Impenitent." circa 1788.
- ↑Ryan Tracy. “Rare and Unusual Photos and Images From the Burns Archive." Newsweek. October 05 2010 8:00 AM.
- ↑“It was observed that local infections healed when they burst and bled, so lancing was used to reduce local infection, referred to as an excess or “plethora" in Hippocratic terms. Similarly, bloodletting used to reduce extreme fevers was called antiphlogistic bloodletting. Antiphlogistic bloodletting and therapeutic seasonal bloodletting were common to many early traditional systems. Bloodletting fell out of practice in the West in the early twentieth century as a consequence of overzealous practice: the sicker the patient, the more the letting." Benjamin Kligler, Roberta Lee. Integrative Medicine. McGraw-Hill Education/Medical (2003/12/12). p. 184.
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