3月 152013
 

フォーラムから“日本の大学は英語で授業を行うべきか”を転載します。

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日本の公立大学でありながら、ほとんどの授業を英語で教授している国際教養大学(Akita International University,秋田県秋田市雄和椿川字奥椿岱193-2)。”国際教養大学、入口バスロータリーとカフェテリア棟” by 掬茶 is licensed under CC-BY-SA

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年3月15日(金) 12:38.

日本の大学生は、中学と高校で6年間英語を学んだ後、大学でもさらに英語の授業を履修している。にもかかわらず、日本の大学生の大半がまともに英語を話せないのはなぜだろうか。それは、日本の学生は、英語を勉強しても、英語で勉強をすることをしないからだ。

日本の伝統的な英語教育では、英語はコミュニケーションのツールではなくて、解読するべき暗号のようなものであり、大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある半面、それらを解くことができるエリート受験生の中には、ネイティブに英語で道案内すらできない者がいるということがこれまで日本の英語教育の弊害として指摘されてきた。これは、日本人が英語を研究の道具としてではなくて研究の対象として扱ってきた結果である。

もちろん、英語学者のように英語を研究対象とする人がいてもよい。しかし、ちょうどコンピュータを使いこなすことが多くの人に求められるのに対して、コンピュータを研究することはごく一部の人にしか求められないように、英語を使いこなすことが多くの人に求められるのに対して、英語を研究することはごく一部の人にしか求められない。

英語を学ぶが英語では学ばないことによる弊害は、しかしながら、徐々に克服されつつある。秋田県の公立大学法人、国際教養大学は、日本語で授業を行うというそれまでの慣行を破って、成功し、にわかに注目を浴びている。この大学に入学した日本人学生は、EAP(English for Academic Purposes)で学術的な英語力を身につけた後、原則としてすべて英語で授業を受け、さらには海外の大学に留学することが義務付けられている。こうした英語漬け教育のおかげで、卒業生の英語によるコミュニケーション能力は高い水準に達しており、そのため、就職状況は極めて良好である。

国際教養大学の成功に触発されてか、最近、京都大学が教養科目の講義の半分を英語で行うことを決めた。

京大:教養科目の講義 半分を英語で…5年かけ教員増 (date) 2013年3月12日 (media) 毎日新聞 さんが書きました:

京都大は13年度から5年間で、欧米などの外国人教員を約100人増員し、主に1、2年生が学ぶ教養科目の講義の半分を英語で行う方針を決めた。文部科学省によると、国立大では全国初の試み。同大学が取り組む教養教育改革の柱と位置づけ、国際的に活躍できる人材育成を目指す。学内の教員からは「物事の本質を理解させるためにも日本語での授業を減らすべきではない」と反対の声も出ており、議論を呼びそうだ。

京大によると、現在1、2年生が履修できる教養科目(人文・社会・自然科学)は約1100科目あり、うち約5%の60科目は外国人教員11人が英語で講義している。13年度から国の補助金を活用して英語を母語とする外国人教員を海外の大学などから招き、段階的に英語による講義を増やす。

京大は93年、「教養部」を廃止し、新たに教養科目を担う総合人間学部を創設した。しかし、学生の学力低下に加え、教養教育が軽んじられる傾向もあり、教養教育の改革に着手。松本紘学長は昨年、改革の目標を「専門分野だけでなく、幅広い教養を身につけ、英語で語ることができる研究者を育成する」とし、教養科目の充実と英語教育の強化を打ち出した。今春、新組織「国際高等教育院」を設置し、教養科目のカリキュラム作成や講義の英語化を進める。

こうした構想に対し、総合人間学部の広野由美子教授(英文学)は「大学入学直後に日本語ですら難しい教養の講義を英語で理解できるのか。逆に英語コンプレックスを抱きかねず、真の国際人育成につながらない」と疑問を投げかける。

学生の反応はさまざまだ。工学部3年の中尾和也さん(22)は「今の教養科目の英語の授業は高校の焼き直しのような内容。それなら一般科目の一部を英語でやる方がためになるような気がする」と前向きに受け止める。農学部1年の長尾光洋さん(19)は「構想としては良いと思うが、教える側の準備が間に合うのか。本当にできるのか、少し心配になる」と話した。

英文学の教授が言っていることと工学部の学生が言っていることが相反しているところに注目したい。京都大学には国際教養大学よりも高偏差値の学生が入学しているのだから、国際教養大生にできることが京大生にできないということは考えらえない。たぶん英文学の教授が心配していることは、言っていることとは別のところにあるのだろう。もしも「英語を教える」から「英語で教える」へとトレンドが変わるなら、一番仕事が減るのが英文学の教師である。しかし自分たちの利権が脅かされるという理由では説得力がないから、別の理屈にしているのだろう。

日本の大学では、英文学系の大学院の修了者が英語の授業を担当するのが一般的である。しかし、例えば、経済学部の学生までが、英文学の教師が英文学の教材を用いて行う英語の授業を受けなければならないというのは不合理である。それよりも、英語を母語とする経済学者が英語で行う経済学の講義を受けた方が、専門を深めるという点でも、使える英語を身につけるという点でも有益である。

もし京大が本格的に英語で講義を行うことを推進するのであれば、英語の入試問題を抜本的に変えた方がよい。京大は、昔から英語の入試問題として、英文和訳と和文英訳しか出題しない。他の大学も、京大ほど極端ではないにしても、英文和訳と和文英訳の問題を頻繁に出すが、これだと受験生たちは、“英語の学力=翻訳力”と誤解してしまう。実際、教科書の英文の全文を和文に翻訳するという時代錯誤な英語学習法を行っている高校生は依然として少なくない。しかし、和訳しないと英文が理解できないようでは、いつまでたっても英文の速読力やリスニング力は身につかない。

個人的な話になるが、私も高校生だった時、教科書の英文の全文を和訳するという、当時標準的だった勉強方法を実践していたが、高校二年生になって、同時通訳方式(SIM)の存在を知り、その方式で英文を読む訓練を積むようになってから、急速に英語の成績が向上したという経験を持つ。こうした類の直読直解方式は、現在、様々な名称のもとで英語教育に用いられているが、必ずしも完全に普及しているとは言い難い。

“英語の学力=翻訳力”ではないことは、翻訳力が全くない英語のネイティブが問題なく英語を使っている事実を指摘するまでもなく、明らかである。もちろん、仕事で翻訳をしなければならない人は、翻訳の技術を磨かなければならないが、それはすべての英語学習者に求められる技術ではない。英語を英語として理解する能力がなければ、英語による講義を聞いても理解できないのだから、京大は、翻訳力とは異なる英語力を持った受験生を選抜するべく、日本人に英語の入試問題を作成させることを止め、英語のネイティブに、問題にも解答にも日本語が全く含まれていない純粋な英語の問題を作らせるべきである。

産業競争力会議の提案

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年3月16日(土) 12:00.

京大の取り組みはローカルなものだが、2013年3月15日に配布された産業競争力会議の資料には、全国レベルで外国語(英語に限定されない)による授業の比率を高めることが提案されている。

人材力強化・雇用制度改革 (author) 長谷川主査 さんが書きました:

大学の数のあり方も視野に入れつつ運営交付金を見直す。特に選択的に配分される部分(現在約9%)の比率を大幅に高めると同時に、その配分基準に、第3者による大学評価や、国際化(外国人教員、外国人留学生、外国語による授業などの比率)の状況、卒業生の就職率、研究成果、産学連携の実績等を加える。

外国人教員、外国人留学生、外国語による授業などの比率を高めた国立大学法人には、税金を原資とする運営交付金を優先的に配分するということである。外国語による授業が増えるというのはけっこうなことだが、運営交付金を使って促進させる社会主義的な方法には反対である。英語漬けの授業に効果があるなら、使える英語を身につけたいという需要が学生にある以上、補助金をばらまかなくても、それは普及するはずだ。

補助金行政の弊害は、需要を無視した供給を作り出すというところにある。長谷川が提案した方法だと、中国や韓国の歴史研究者が、日本の国立大学で自国に有利な歴史の講義を母国語で行うことが促進されるだろう。個人が私費で自発的に講義を受けるというのなら問題はないのだが、そうした類の講義が日本の税金を使って公教育で行われることが多くなるなら、政治問題化するのではないか。やはり公教育は様々な問題を孕んでいるので廃止するべきだろう。

Re: 日本の大学は英語で授業を行うべきか

投稿者:田舎の高校教師.投稿日時:2013年3月16日(土) 15:16.

こんにちは、永井先生。いつも大変興味深くご意見やら引用やら拝見させて頂いております。

さて、入試問題を英語のネイティブスピーカーが作成して、全く日本語を含まないものにするのは良い考えだと思います。

しかし永井先生はこれまでの他の文章の中で、「入学試験を偏重して卒業試験(卒業論文も含む)を厳格に客観的に行わないと、業績を挙げる組織ではなく存在することに第一義的な意味を見出す"村社会"ができてしまう。」と述べておられたかと記憶しております。高校の現場では英語で授業を行うことがお題目的であれ掲げられていますが、偏差値の高い学校では、相変わらず大学入試問題対策のため訳読中心の授業を進める教師が多いようです。今後大学入試に変化があったとしてもせいぜい自由英作文の量と配点がやや増えるくらいのことだろうとタカをくくっています。気持ちは解るのです。彼ら自身も英語で授業を受けて来なかったし、彼らを選抜した試験も当然ですが英文和訳中心だったでしょう。教師となったあとも使える英語を意識的に研鑽し、教授方法もタスク型を研究してきたなら格別、大概は特に修練を積んでいないでしょう。私個人的には英検1級を取得したり、Skypeでネイティブスピーカーと会話練習をしたりと英語力は磨き続けて来ましたが。また偏差値の低い学校では、学習規律の確立と生活指導に重点を置かざるを得ないし、国内中小企業や介護関連などの進路先を考慮すると職場で英語を使う機会は少なさそうで、学習動機としては希薄でしょう。実際に職場アンケートして英語の需要を調べてみる必要はあるかもしれませんが。やはりお説のように高校も大学も公教育廃止と合わせて、授業実施者と卒業試験実施者を分離するというお話がここでも真っ先に論じられるべきではないでしょうか。しかし、このように極端な制度変更は現実的には危険を伴いましょう。制度がたとえ未完成でも不備があっても子供達は毎年1つずつ年を取ります。文革のような惨事を避けるためにも、そろそろ公教育廃止に向けてより具体的にリスクヘッジしていく方法論を述べて頂ければ幸いです。面倒くさいでしょうけど、お願いします。

公教育廃止論と英語漬け授業論との関係

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年3月16日(土) 17:08.

田舎の高校教師 さんが書きました:

しかし永井先生はこれまでの他の文章の中で、「入学試験を偏重して卒業試験(卒業論文も含む)を厳格に客観的に行わないと、業績を挙げる組織ではなく存在することに第一義的な意味を見出す"村社会"ができてしまう。」と述べておられたかと記憶しております。

私が提案していることは、教育機関と評価機関の分離で、いったん分離してしまうと、評価機関が実施する試験は、英検がそうであるように、入学試験でも卒業試験でもなくなります。試験の結果をどう利用するかは教育機関の自由で、入学試験として活用することもできれば、進級あるいは卒業試験として活用することもできるでしょう。現在の学習塾の中には、入塾試験を実施し、基準以下の生徒の入塾を認めないようなところもありますが、だからといって、その学習塾が機能的組織ではなくなり、共同体的組織になるということはありません。なぜなら、私塾は、所属それ自体が評価されるということがないからです。なお、私が京大の入試問題に行ったアドバイスは、公教育を廃止しないという制限のもとでの改善策です。

田舎の高校教師 さんが書きました:

高校の現場では英語で授業を行うことがお題目的であれ掲げられていますが、偏差値の高い学校では、相変わらず大学入試問題対策のため訳読中心の授業を進める教師が多いようです。

私がこのトピックで行っている提言は、大学レベルの教育における話で、中学・高校レベルの教育でも、英語で授業をせよとは言っていません。日本語しかわからない生徒に英語を教えようとするならば、少なくとも最初の段階では、日本語で英語を教えるしかないでしょう。ただ、英文和訳や和文英訳が英語教育の最終目標のように位置付けられている一部の教育現場の現状は改められなければいけません。

田舎の高校教師 さんが書きました:

やはりお説のように高校も大学も公教育廃止と合わせて、授業実施者と卒業試験実施者を分離するというお話がここでも真っ先に論じられるべきではないでしょうか。しかし、このように極端な制度変更は現実的には危険を伴いましょう。制度がたとえ未完成でも不備があっても子供達は毎年1つずつ年を取ります。文革のような惨事を避けるためにも、そろそろ公教育廃止に向けてより具体的にリスクヘッジしていく方法論を述べて頂ければ幸いです。面倒くさいでしょうけど、お願いします。

変革には、抜本的な改革と暫定的な改善があり、後者には、本格的な問題解決にはならないというデメリットはあるものの、簡単に実行できるというメリットがあります。現行の英語の大学入試問題から日本語を排除し、純粋に英語の試験にすることはそれほど難しいことではないし、実施のハードルは低いと思いますが、それだけでも高校での英語教育のあり方を少なからず変えることができると思います。

公教育の廃止は抜本的な改革で、それだけに実施は困難です。市場原理を導入するのですから、文革とは方向が逆ですが、リスクがあるのは確かです。しかしそのリスクは、教わる側よりも教える側に発生します。生徒にとっては、選ぶ自由が増えるのですから、迷いが増えるということはあるにしても、より柔軟に自分に合った学習計画を立てることができます。

消費者の自由が増えるということは、生産者の競争が激しくなるということを意味します。あなたのように、「英検1級を取得したり、Skype でネイティブスピーカーと会話練習をしたり」して、英語力の研鑽に励んでいる方は仕事に困ることはないでしょうし、今以上の収入を得ることも可能かもしれませんが、能力のない教師の中には失業したり収入が減ったりする人も出てくるでしょう。

このように、部分的に損失を被る人が出てくるにしても、消費者に選択の自由がある社会は、そうでない社会よりも社会全体ではデメリット以上のメリットがあります。いじめやモンスター・ペアレントなどの問題も、学校選択が自由になれば大幅に小さくなるでしょう。そして、何よりも学習者から評価されない学習方法がより速やかに淘汰されることが期待されます。

公教育を廃止するということは、また、政府による教育への干渉の度合いが減ることを帰結します。その結果、国策として民族教育を強制するといったことも難しくなるでしょうし、国粋主義の政治家が英語で授業を行うことを阻止するといったこともより困難になるでしょう。これらは、しかしながら、あくまでも副次的効果です。

Re: 日本の大学は英語で授業を行うべきか

投稿者:田舎の高校教師.投稿日時:2013年3月16日(土) 19:25.

早速のお返事本当にありがとうございました。いつも永井先生と他の読者の方々とのやり取りを読むだけでしたが、今回は自分の意見を述べた上に丁寧なお返事まで頂いて驚くやら嬉しいやらです。私のまとまりのない文章に対して論点を絞ってお返事頂けたので、自分の考えをまとめて行くのに大変役に立ちます。ありがとうございました。

自民党の教育再生本部が大学入試への TOEFL の導入を検討

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年3月21日(木) 15:09.

自民党の教育再生実行本部が、すべての大学受験生に TOEFL を課す方針を決めたと産経新聞が報道している。

大学受験資格にTOEFL 国内全大学対象 自民教育再生本部、1次報告へ (date) 2013年3月21日 (media) 産経新聞 さんが書きました:

自民党の教育再生実行本部(遠藤利明本部長)が国内全ての大学の入学試験を受ける基準として、英語運用能力テスト「TOEFL(トーフル)」を活用する方針を固めたことが20日、分かった。月内にまとめる第1次報告に明記し、夏の参院選の政権公約に盛り込む。

対象は、全ての国公立大学と私立大学。大学の学部ごとに点数基準を定め、クリアした者に受験を認める。たとえば、東京大学文科一類(主に法学部に進学)の受験資格は「TOEFL○○○点以上を獲得した者」と定め、公表する。点数基準は各大学に自由に定めさせる。TOEFLは英語圏の大半の大学で留学志願者の英語能力証明として使われており、留学の活発化を通じて国際社会に通用する人材を育成する狙いがある。

TOEFLの導入は、実行本部が、安倍政権の大学入試改革の目玉に位置づける施策の一つ。英文読解を中心とした現在の高校の英語教育のスタイルを一変させる可能性もある。このため、教育現場に混乱を来さないよう平成30年度ごろからの導入を想定している。

日本では英語能力試験としてTOEFLのほか、受験者が最も多い「実用英語技能検定(英検)」や、英語によるコミュニケーション能力を測る「TOEIC(トーイック)」などが実施されている。実行本部は、結果がそのまま海外留学の申請に転用できるTOEFLを採用することにした。

TOEFLは、東京大学大学院の大半の研究科で入試の際に成績の提出を義務付けられている。また、政府は15日の産業競争力会議で、平成27年度から「キャリア」と呼ばれる国家公務員総合職の採用試験にTOEFLを導入する方針を打ち出している。

実行本部では、英語で意思疎通できない日本人が多いことを問題視する議論が出ている。2月の会合では楽天の三木谷浩史社長兼会長が「英語ができないため日本企業が内向きになる」と述べ、大学入試へのTOEFL導入を提案していた。

この産経新聞の報道はどこまで正しいのだろうか。自民党のサイトにある「基本政策分科会」の中の「入試の抜本改革と高校教育の質保証」には、以下のように書かれている。

基本政策分科会 (media) 自由民主党(座長:遠藤利明) さんが書きました:

① 高校在学中も何度も挑戦できる達成度テスト(「日本版バカロレア」 (※) ) の創設 。(※)5~6科目程度の大括り。英語は TOEFL 等を活用。

② 日本版バカロレアを前提にした論文、面接、多様な経験重視で潜在力を評価する入試改革 。

③ 国際バカロレアに日本語を追加し、国際スタンダードのもとでの海外留学の促進。

「等」と付いているので、TOEFL だけを採用するということではなさそうだ。運営交付金を使って、全国の国立大学における外国語による授業の比率を一律に高めるという政策に関しても言えることだが、政府が特定の教育方法を偏重し、教育サービスの消費者から選択の自由を奪うことはできるだけ避けるべきだ。

自民党が構想する日本版バカロレアがどういうものになるのかは、まだわからないが、バカロレアとは、フランスにおける大学入学資格を得るための統一国家試験のことで、評価機能を教育機能から切り離す方向を打ち出しているという点で評価できる。

文中にある国際バカロレアとは、スイスの財団法人、国際バカロレア機構が定める教育課程修了を認定する資格試験である。

国際バカロレアとは (media) 文部科学省 さんが書きました:

国際バカロレアには、3歳~19歳の子どもの年齢に応じて3つのプログラムがある。

(1) PYP (Primary Years Programme:初等教育プログラム) 3歳~12歳

(2) MYP (Middle Years Programme:中等教育プログラム) 11歳~16歳

(3) DP (Diploma Programme:ディプロマ資格プログラム) 16歳~19歳

DPの課程を修了し、ディプロマ資格取得のための統一試験に合格することで、国際バカロレア資格を取得することができる。国際バカロレア資格は、国際的に認められている大学入学資格の1つであり、日本においても昭和54年に「スイス民法典に基づく財団法人である国際バカロレア事務局が授与する国際バカロレア資格を有する者で18歳に達したもの」について、大学入学に関し高等学校を卒業したものと同等以上の学力があると認められる者として指定された。

日本が日本版バカロレアを独自に作るよりも、国際バカロレアに日本語を追加し、留学生や帰国子女だけでなく、日本国内の大学受験生もが、その英語版と日本語版を選択的に利用できるようにした方がよい。また、国際バカロレアだけでなく、米国で採用されている大学進学適性試験の SAT(Scholastic Assessment Test)や ACT(The American College Testing Program)にも日本のテスト市場に参入してもらおう。そうすれば、独立行政法人の大学入試センターは従来の独占的地位を失い、評価機関の間で競争が起きることになる。

例えば、国際教養大学は、現在一次試験として日本語によるセンター試験を課しているが、センター試験の代わりに国際バカロレアや SAT や ACT の英語による試験を選ぶことができる。京都大学も、英語による講義をするならば、英語でアカデミックな能力を試す試験を一次試験に指定した方がよいだろう。但し、政府が英語による授業をすべての大学に強制することはするべきではない。従来通り日本語で授業を行う学校があってもよいし、その割合も政府が決めるのではなくて、自由な選択に基づく市場原理に委ねるべきである。

私は、以前「成果を上げた生徒に対して、現金を支給するという方法」[世代を超えた格差の固定化を防ぐ方法 (author) 永井俊哉]を提案をしたが、試験やコンテストを民間の業者が実施するとなると、こうした方法の実施は難しいくなるのではないかという意見もあることだろう。たしかに、税金を原資とした補助金を政府が配分するということになると、どのように配分するかが大きな問題となる。しかし、この問題も、教育の成果の受益者に選択する自由を与えることで解決する。

企業は、教育の成果の受益者の一つである。だから、雇用している人材の質と量に応じて、評価機関に一定の寄付をすることを義務付ける。寄付先を選ぶ自由を企業に与えると、企業は欲しい人材の育成に寄与している試験やコンテストに寄付するようになる。その寄付金は、全額賞金として使われるものとする。こうすれば、時代錯誤な知識や技能に学習者が縛られるということはなくなり、時代が要求する知識と技能に金と人が集まるようになる。

TOEFL 必須化見送り

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年3月29日(金) 11:21.

TOEFL 必須化は、やはり見送られたようだ。

「入試のTOEFL、理数必須」異論続出、了承見送り 自民教育再生本部 (date) 2013年3月28日 (media) 産経新聞 さんが書きました:

自民党の教育再生実行本部(遠藤利明本部長)は28日の会合で、すべての大学入学と卒業に英語運用能力テスト「TOEFL(トーフル)」を活用することなどを柱とした第1次提言案を提示した。だが、TOEFL活用などに異論が相次ぎ、予定していた同日の提言案了承を見送った。

提言案は「グローバル人材育成のための世界最高水準の学力の実現」を前面に掲げた内容。英語教育の抜本改革、技術立国を支える理数教育の刷新、国家戦略としての情報通信技術(ICT)教育を「教育再生3本の矢」と位置づけた。

具体的には、TOEFLの成績を大学の受験資格、卒業要件にする▽私立文系も含めた大学入試での理数科目必須化▽2010年代に小中高すべての児童・生徒に情報端末(タブレットPC)を配布する-など。「グローバル人材育成推進法(仮称)」を策定して1兆円規模の集中投資を行うことも提案している。

遠藤氏は了承を経て近く安倍晋三首相に提言を渡す予定だった。しかし出席者からはTOEFLが米国の非営利団体が運営する試験である点などを問題視する声が上がり「英語よりも日本の歴史が大事だ」といった異論も続出。TOEFL導入推進派からも「入試では選択肢にするべきだ」との注文が出た。

会合は提言案を改めて議論することを確認。今後の対応は遠藤氏に一任された。遠藤氏は記者団に「認識に大きな差はない」と述べた。

選択肢の一つにするべきだというのは当然であるが、同時に、改革としてのインパクトは小さくなる。実は、これまでの入試においても、英検や TOEIC が、出願条件、出願優遇、学科試験免除、点数加算、判定優遇などの対象となっており、改革案では、このリストに TOEFL が加わるだけのことだからだ。

英語で行われる授業の弊害

投稿者:こうもり.投稿日時:2013年7月23日(火) 22:33.

私は(我が国の英語環境が現状のままならば)という括弧付きで、反対の立場をとります。その理由を以下に列挙いたします。

1.授業効率の低下。

京大のように教養科目の講義を英語で行うとなれば、必ずその授業内容を平易化するか、量を減らすかしなければならなくなることは明白です。

2.単なる英会話能力の向上のためならば、別枠でやれば良い。

永井俊哉 さんが書きました:

日本の大学生の大半がまともに英語を話せないのはなぜだろうか。それは、日本の学生は、英語を勉強しても、英語で勉強をすることをしないからだ。

英語で展開される大学の講義が、必ずしもコミュニケーションスキルの向上に適切だとは言えません。少人数教室でディベート中心の授業ならともかく、階段教室での座学ではヒアリングの向上しか見込めないでしょう。日常会話なら留学でもベッドの中でも身に付きます。大学内でも、会話能力向上だけに特化した講座やプログラムを充実させた方が早い。専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる。後は鍛えた会話能力とその専門用語を組み合わせるだけで、会議やプレゼンなどで困ることもないでしょう。学生にとっては、自分に必要なスキルを選択する自由も確保されます。

3.英語で行われる授業は、単一の価値観の押しつけである。

学生の中には、英語は苦手だが理数や人文の専門には高い能力を持つという者も必ずいます。強制的に英語で画一化された授業は、そういった人材資源をスポイルしかねません。彼らには自分の得意分野における能力を存分に発揮してもらう必要があるし、実際、会話のようなその場における瞬発的なコミュニケーションが必要な場がそれほどある訳でもありません。もちろんネット会議などの機会は増えるでしょうが、肝心な交渉や契約は書面や電子メールで行われるでしょうし、論文作成に必要な能力もまさしく永井さんがおっしゃるような翻訳能力の方になります。半端な英会話能力を開陳させる政治家も散見されますが、求められるべきは交渉力と判断力の高い政治家と有能な通訳であるーーと喩えても良いでしょう。

4.従来(現在)の大学入試ではかられているのは「翻訳力」だけではない。

永井俊哉 さんが書きました:

大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある

文法問題だけでなく、長文読解問題であっても中堅大学以上の入試問題をネイティヴは解くことができません。これは以前、実際に知り合いの欧米人に訊いてみたことがあることです。日本の入試長文の語彙・イディオムレベルは、あちらの7年生前後だと言われましたが、設問の方になると数問解けないものがあったそうです。これはちょうど、ふだん日本語を使っているはずの日本人が、国語の現代文問題に正答できないのと同じ現象です。

英語の入試で問われるのは「読解力」「論理構成力」「思考力」とでもいうべきものです。TIMSSよりもPISAに必要なリテラシー、知識活用能力の方です。実際、難関大学や国公立二次では文法問題でさえ比重は軽く、リスニングにいたってはほとんど出題されないのが現状です。今の日本の学生において低下している一方で、トフラーの第三の波時代、国際競争力にとって希求されるべきはこちらの力です。会話力ではありません。

5.外国語教育の効用は、その実用性にあるのではない。

自分が学生の頃なので正確ではないかもしれませんが、大英帝国の繁栄はラテン語教育にあったという話を読んだことがあります。つまりグラマースクールから、当時誰も使用していなかったラテン語能力により選抜されたエリートたちが、世界に散らばり植民地支配に辣腕をふるったということです。国語とは違い外国語の習得には、語彙やイディオムをおぼえる「地道さ」、文法を使用する上での「正確さ、慎重さ」、他国の歴史や地理、習慣などあらゆる側面についての「知識」なども、上記の「読解力」などに加えて必要になります。植民地を制圧、支配、統治する上で必須の能力ですし、現在の企業でも正に求められている力でしょう。

永井俊哉 さんが書きました:

英語のネイティブに、問題にも解答にも日本語が全く含まれていない純粋な英語の問題を作らせるべきである。

ネイティヴは日本の高校生の弱点や欠点を把握していません。よって、日本人が苦手とするような語法や表現、論理展開や背景知識など、選抜における急所が分かっておりません。

以上、思いつくままに羅列してみましたが、冒頭にあげた(我が国の英語環境が現状のままならば)という括弧が、(日本の公用語や生活用語が英語となった)という風に変わった暁には、たとえそれが小中高であろうと、私は英語で行われる授業に異存はありません。ただし、なんらかの外国語教育は上記「5」の理由により必要だと考えます。たとえそれがラテン語であっても。

大学に必要な語学力とは会話力ではない

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年7月24日(水) 08:36.

こうもり さんが書きました:

京大のように教養科目の講義を英語で行うとなれば、必ずその授業内容を平易化するか、量を減らすかしなければならなくなることは明白です。

英語の授業がなくなるのだから、その分授業の時間を増やすことができます。

こうもり さんが書きました:

日常会話なら留学でもベッドの中でも身に付きます。

私が言っている「英語を話す能力」というのは日常的な英会話力に限定した能力ではありません。仕事で使えるもっと高度な英語運用能力です。日常的な英会話力なら、民間の英会話教室に行けば身に付くでしょうが、後者の能力はそうではありません。

こうもり さんが書きました:

大学内でも、会話能力向上だけに特化した講座やプログラムを充実させた方が早い。

それはまさにこれまでの大学における英語教育のあり方です。

こうもり さんが書きました:

専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる。後は鍛えた会話能力とその専門用語を組み合わせるだけで、会議やプレゼンなどで困ることもないでしょう。

日本語の単語と英語の単語は一対一の対応関係にはないので、辞書的な知識だけでは、翻訳すらできません。また、日本語で考えてから英語に翻訳するということをやっていると、通訳を介する時のように、コミュニケーションに時間がかかります。

こうもり さんが書きました:

学生の中には、英語は苦手だが理数や人文の専門には高い能力を持つという者も必ずいます。強制的に英語で画一化された授業は、そういった人材資源をスポイルしかねません。

私は画一的に強制しろとは言っていません。既に書いたとおり、

自民党の教育再生本部が大学入試への TOEFL の導入を検討 (author) 永井俊哉 さんが書きました:

政府が英語による授業をすべての大学に強制することはするべきではない。従来通り日本語で授業を行う学校があってもよいし、その割合も政府が決めるのではなくて、自由な選択に基づく市場原理に委ねるべきである。

というのが私の考えです。

こうもり さんが書きました:

永井俊哉 さんが書きました:

大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある

文法問題だけでなく、長文読解問題であっても中堅大学以上の入試問題をネイティヴは解くことができません。

引用した箇所の全文が「日本の伝統的な英語教育では、英語はコミュニケーションのツールではなくて、解読するべき暗号のようなものであり、大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある半面、それらを解くことができるエリート受験生の中には、ネイティブに英語で道案内すらできない者がいるということがこれまで日本の英語教育の弊害として指摘されてきた」となっていることからもわかるように、それは私の主張ではなくて、世間でよく行われる英語教育批判で、私が全面的に肯定しているものではありません。私自身は、従来の英語教育の弊害は、文法教育よりも翻訳教育の方にあると思っているし、英語教育の目標は、道案内のような日常的な英会話だけであってはいけないと思っています。

日本の入試現代文の設問が、読解力を試す上で本当に必要なのかどうかは、疑問のあるところです。私が大学在学中、海外から来た研究者が、あのような問題は出題者の恣意的な解釈を強制するもので、試験の設問として不適切であるといった批判をしているのを聞いたことがあります。

こうもり さんが書きました:

自分が学生の頃なので正確ではないかもしれませんが、大英帝国の繁栄はラテン語教育にあったという話を読んだことがあります。つまりグラマースクールから、当時誰も使用していなかったラテン語能力により選抜されたエリートたちが、世界に散らばり植民地支配に辣腕をふるったということです。国語とは違い外国語の習得には、語彙やイディオムをおぼえる「地道さ」、文法を使用する上での「正確さ、慎重さ」、他国の歴史や地理、習慣などあらゆる側面についての「知識」なども、上記の「読解力」などに加えて必要になります。植民地を制圧、支配、統治する上で必須の能力ですし、現在の企業でも正に求められている力でしょう。

米国では、ラテン語教育は必須ではありません。また、米国人の大半は英語しかしゃべることができず、エリートですら外国語の知識がない人が多数います。それにもかかわらず、米国が世界の覇権国として君臨することができるのはなぜでしょうか。

こうもり さんが書きました:

ネイティヴは日本の高校生の弱点や欠点を把握していません。よって、日本人が苦手とするような語法や表現、論理展開や背景知識など、選抜における急所が分かっておりません。

日本の高校生の弱点や欠点を把握していなければいけないのは、出題者ではなくて教育者の方でしょう。出題者は、グローバルに要求される普遍的な能力を試す問題を作ればよいだけのことです。

Re: 大学に必要な語学力とは会話力ではない

投稿者:こうもり.投稿日時:2013年7月24日(水) 23:55.

半日も経たない迅速な解答に驚いております。ありがとうございます。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

京大のように教養科目の講義を英語で行うとなれば、必ずその授業内容を平易化するか、量を減らすかしなければならなくなることは明白です。

英語の授業がなくなるのだから、その分授業の時間を増やすことができます。

おっしゃる通りです。すると「削除された英語の時間数」と「英語で行われる授業で低下した効率分」を天秤にかければ良い事になります。永井さんが例に出された国際教養大学の卒業生には、すでに企業側からの「英語はできるかもしれないが、大卒としての知識、教養に欠ける」という不満の声が上がっているようです。加えて、同大学では「英語の授業がなくなる」どころか、永井さんの書かれている通りのEAPプログラムなど、逆に増加しているのではないですか(詳細にその時間数を調べてはいませんが)。

私は、今回のトピック「英語で授業をすること」に反対してはおりますが、かといって現行の英語教育を擁護、肯定している訳ではありません。問題点は山積されています。例えばその一つに「ディベート力」があります。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

日常会話なら留学でもベッドの中でも身に付きます。

私が言っている「英語を話す能力」というのは日常的な英会話力に限定した能力ではありません。仕事で使えるもっと高度な英語運用能力です。日常的な英会話力なら、民間の英会話教室に行けば身に付くでしょうが、後者の能力はそうではありません。

私も同じ、「高度な英語運用能力」を意識しながら意見を述べています。私の文中でも「後は鍛えた会話能力とその専門用語を組み合わせるだけで、会議やプレゼンなどで困ることもないでしょう。」というディベート力を要求される場を想定しているのですが、伝わらなかったようですね。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

大学内でも、会話能力向上だけに特化した講座やプログラムを充実させた方が早い。

それはまさにこれまでの大学における英語教育のあり方です。

ですから「充実」させることを提案しております。特にディベート形式の授業は、これまで以上に充実させるべきです。しかし京大の「教養科目を英語化した授業」では、既述した通りのヒアリング能力か、専門用語の運用法を知るぐらいの学習にしかならないでしょう。かといって、理数や人文(科)学の専門分野の分だけディベートの授業を用意するのは非現実的です。専門と英語の教育は分化させて行い、その結合の方は学生本人にまかせても、なんら難しくはないことです(この分化と結合についても、次にあるとおり、前回の私の文に書かれております)

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる。後は鍛えた会話能力とその専門用語を組み合わせるだけで、会議やプレゼンなどで困ることもないでしょう。

日本語の単語と英語の単語は一対一の対応関係にはないので、辞書的な知識だけでは、翻訳すらできません。また、日本語で考えてから英語に翻訳するということをやっていると、通訳を介する時のように、コミュニケーションに時間がかかります。

私が「会話力を高め」それを「英語の専門用語」と組み合わせると説明しているのは、「辞書的な知識だけで翻訳」しようとする行為でも、「日本語で考えてから英語に翻訳する」という行為でもありません。そうお読みになったのなら、私の文章がまずかったか、永井さんの誤読(というか恣意的な読解)ということになると思うのですが……。

我々両者の齟齬を避けるため、具体的な状況を想定してここに再記しますと……英会話の授業ではよく環境、人権、国際、政治、経済問題などを討議しますよね。そこで議論の進め方、理論の組み立て方、相手の意見の聞き方(特に重要です)、弁証法や説得、交渉力などのスキルを高めます。逆に自分の専門である量子物理学や文化人類学などの議題がディベートにかかることはめったにないでしょう。しかしそちらの専門用語や表現は、学生ならば既に多くの英語文献を読まされて知っているものです。知らなくても単語集や用語集で定着させることはできます。そうすれば、次に専門に関わるディベートの機会があったなら、その学生は何の苦もなく、自らのディベート力を発揮できることでしょう。私の言う「分化と結合」とはこういう意味です。決して「辞書的な知識だけで翻訳する」ことでも「日本語で考えてから翻訳する」ということではありません。

しかしこのことは、永井さんご自身にも思い至る所があるのではないでしょうか。(留学経験をお持ちなのかは存じ上げませんが)専門に関する授業を特に英語で受けたりされてはいなくても、ご自分の書かれる英文中に専門知識を織り込むことは、苦もなくなされているのではありませんか。あるいは授業で受けた事などない、最新の学識に関する用語であっても、容易に自分の英文、会話に反映できるのではありませんか。

「コミュニケーションに時間がかか」る問題についても、もちろんネット会議などの機会は増えるでしょうが、肝心な交渉や契約は書面や電子メールで行われるでしょうし、論文作成に必要な能力もまさしく永井さんがおっしゃるような翻訳能力の方になります。半端な英会話能力を開陳させる政治家も散見されますが、求められるべきは交渉力と判断力の高い政治家と有能な通訳であるーーと喩えても良いでしょう。と既に指摘していたつもりになっていたのですが……。私は「ディベート力が重要」と言っても、それをすべての学生に課すことを主張してはいません。これは例えば『身体的障害を持つ宇宙物理学者がいたとしても、その本人に不可能な能力を周囲の人物が補う事で、彼の優れた学識を人類は享受し得る』ということです。彼に運動能力を求めることは間違っています。社会のあり方は「英語も専門もできる凡才」よりも、「ディベートの天才」と「専門の天才」の分業によりなされるべきだという考えが、上記の政治家の喩えを書かせました。なんだか、同じ事を何度も書き重ねることになってしまって申し訳ありません。私の文章が拙いようでしたら、どうぞご指摘ください。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

学生の中には、英語は苦手だが理数や人文の専門には高い能力を持つという者も必ずいます。強制的に英語で画一化された授業は、そういった人材資源をスポイルしかねません。

私は画一的に強制しろとは言っていません。既に書いたとおり、

自民党の教育再生本部が大学入試への TOEFL の導入を検討 (author) 永井俊哉 さんが書きました:

政府が英語による授業をすべての大学に強制することはするべきではない。従来通り日本語で授業を行う学校があってもよいし、その割合も政府が決めるのではなくて、自由な選択に基づく市場原理に委ねるべきである。

というのが私の考えです。

それは読んでいますので存じておりますが、私が問題にしているのは「政府が大学に授業の英語化を強制」することではなく、「大学が生徒に英語と抱き合わせにした授業を強制」することです。またまた齟齬が生じてしまっているようで、やはり私の書き方に問題があるのでしょう。「3.英語で行われる授業は、単一の価値観の押しつけである。」という見出しからも、「英語は苦手だが高い専門能力を持つ学生をスポイルしてしまう」という後に続く文からも、「政府が大学に強制」することでなく「大学が生徒に強制」することだと、お察し頂けないでしょうか。

「生徒への強制」に限って話しますと、そもそもほとんどの学生が大学を選べる立場にはありません。1校の合格をどうにか勝ち取るのがやっとです。しかも地理、経済、自分の進みたい分野、偏差値などの制約から、受験可能な大学も限られます。不本意ながら併願校へ進学する生徒も多数います。そういった学生たちに「英語で行われる教養科目」と同じ内容の「日本語で行われる教養科目」を提供できるのなら、それは強制でも、英語という価値観の画一的な押しつけでもありませんが、あまりにも非効率でしょう。京大1100の教養科目のうち半分、550を英語化して、同時に550の同科目を日本語の授業で提供すると1650の科目数になってしまいます。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

永井俊哉 さんが書きました:

大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある

文法問題だけでなく、長文読解問題であっても中堅大学以上の入試問題をネイティヴは解くことができません。

引用した箇所の全文が「日本の伝統的な英語教育では、英語はコミュニケーションのツールではなくて、解読するべき暗号のようなものであり、大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある半面、それらを解くことができるエリート受験生の中には、ネイティブに英語で道案内すらできない者がいるということがこれまで日本の英語教育の弊害として指摘されてきた」となっていることからもわかるように、それは私の主張ではなくて、世間でよく行われる英語教育批判で、私が全面的に肯定しているものではありません。私自身は、従来の英語教育の弊害は、文法教育よりも翻訳教育の方にあると思っているし、英語教育の目標は、道案内のような日常的な英会話だけであってはいけないと思っています。

もちろん「指摘されてきた」と明記されていますから、それが永井さんの主張でないことは分かっておりました。逆に私の文の方に「永井さんの主張である」と論じている箇所がございましたでしょうか。ましてや私は「英文法にネイティヴですら解けない難問がある」という事実に対して異論も、反論も表明しておりません。「英文法に難問があることを認めた上で、長文問題にもネイティヴに解けない問題がある事実」をお伝えしたかっただけなのですが、私の文章はそうは読めないのでしょうか。

「それは私の主張ではなくて、私が全面的に肯定しているものではありません。」と指摘されてしまう理由が本当に分かりません。お手数でなければお教えください。コミュニケーションスキルについて論じていて、自分のコミュニケーション力不信に陥ってしまいそうです。

ここまでのほとんどが、一度書いたことの焼き直しになり、しかもやたらと冗長な書き込みになってしまいました。しかし、次の箇所だけは有意義な議論にもなり得そうです。

永井俊哉 さんが書きました:

日本の入試現代文の設問が、読解力を試す上で本当に必要なのかどうかは、疑問のあるところです。私が大学在学中、海外から来た研究者が、あのような問題は出題者の恣意的な解釈を強制するもので、試験の設問として不適切であるといった批判をしているのを聞いたことがあります。

他トピック『言語教育と文学教育は分離するべきである』においての永井さんの意見からも感じていたのですが、ここは私たちの意見の大きな相違点となるでしょう(念のため誤解のないように、教育内容の分離そのものについては賛成です。今回の私の主張も英語と専門科目の分離ですし)

私はどんな形の試験であっても、それは出題者の「恣意(言い方が悪ければ『出題意図』)」に対して解答するものだと考えています。たとえそれが理数系の試験であっても、そこには必ず恣意が織り込まれます。永井さんの理想とされる「グローバルに要求される普遍的な能力を試す」試験にも必ず出題者の意図は反映されます。逆に出題者の主観の入り込まない試験など存在するのでしょうか(コンピューターの乱数によって生成される数学の問題を今思いつきましたが、それさえ厳密には主観に支配されていますし)。

私にはその「海外から来た研究者」さんの指摘がてんでお門違いのように思えます(その意見を取り上げられた永井さんも同意見だということだとは思いますが)。特にそれが英文読解や現文読解の試験となればなおさらのことです。よく言われる「作品は作者の手を離れれば……」という考え方となりますが、読解の入試問題は出題者の恣意的解釈であって当然で、作品自体の鑑賞や作者の執筆意図をさぐるものではありません。ロラン・バルトの「作者の死」で論じると早いのでしょうが、即ち「出題者の死」となって、メタメタの堂々巡りになってしまいそうなのでやめておきます。

対象が純文学であっても、詩でも、論説でも、ビジネス文であっても、政治演説であっても良いのですが、それを出題者が論理的に解釈して出題すれば、その解答には私が前回重要視したような「読解力」「論理構成力」などの能力が要求されます。対して、あちらのトピックで永井さんが「文学作品の鑑賞力」と述べられているのは、「音楽や絵画などの芸術作品の鑑賞と同じだ」と論じられているようにも受け取れます。ここに大きな相違があると思うのですがどうなのでしょう。

誤解のないように、それは恣意的と言っても、一人の出題者の意図を全受験生に画一的に強制するものではありません。受験問題は多数存在するからです。受験生はそういう恣意で固められた入試問題と、それこそ何百と付き合います。もちろん悪い意味で恣意的な悪問も存在しますが、そういう出題者は淘汰されるものですし、この状態はまるで、この人の世界の縮図であると言っても大袈裟ではないかもしれません。理論が飛躍するかもしれませんが、大航海時代や今のグローバル時代に共通する世界の縮図です。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

自分が学生の頃なので正確ではないかもしれませんが、大英帝国の繁栄はラテン語教育にあったという話を読んだことがあります。つまりグラマースクールから、当時誰も使用していなかったラテン語能力により選抜されたエリートたちが、世界に散らばり植民地支配に辣腕をふるったということです。国語とは違い外国語の習得には、語彙やイディオムをおぼえる「地道さ」、文法を使用する上での「正確さ、慎重さ」、他国の歴史や地理、習慣などあらゆる側面についての「知識」なども、上記の「読解力」などに加えて必要になります。植民地を制圧、支配、統治する上で必須の能力ですし、現在の企業でも正に求められている力でしょう。

米国では、ラテン語教育は必須ではありません。また、米国人の大半は英語しかしゃべることができず、エリートですら外国語の知識がない人が多数います。それにもかかわらず、米国が世界の覇権国として君臨することができるのはなぜでしょうか

植民地支配には、現地の言語や文化や習慣、価値観や考え方を把握するという、前回私が羅列した能力が必要ですし、そのまったく異なる民族を統治するには単なる武力だけではなく、宣教や文明化、人心掌握や「生かさず殺さずの政策」なども必要でしょう。「アメリカの場合、それを多民族・多文化国家である段階で前提条件からクリアしている」と指摘するだけでご理解いただけるでしょう。もちろん覇権国家になるためには、その国の人口、生産力、資源、科学力、軍事力など多数の要素が絡みますので、あくまでその一面を説明している説にすぎませんが。

「出題者の恣意、意図」「植民地、他民族支配」「多民族国家における各種国内問題の解決」「国際競争力」「企業内の人事、リーダーシップ」「ジェンダー、世代間を超える力」これらは、他のどの教科よりも、そして国語よりも外国語教育によって育成、選別できる資質であると私は考えます。市場価値もあるはずです。決して現行の日本の入試問題が完全な訳ではありませんが、少なくともTOEFL、TOEICよりはその意味で機能できる内容になっています。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

ネイティヴは日本の高校生の弱点や欠点を把握していません。よって、日本人が苦手とするような語法や表現、論理展開や背景知識など、選抜における急所が分かっておりません。

日本の高校生の弱点や欠点を把握していなければいけないのは、出題者ではなくて教育者の方でしょう。出題者は、グローバルに要求される普遍的な能力を試す問題を作ればよいだけのことです。

ただでさえ閉鎖的な単一民族だと指摘される日本は特殊です。加えて昨今のテキスト文化による若者のコミュ力低下、活字離れ、PISAの結果を考慮すれば、まず教育者がそれを憂慮するべきなのは同意します。しかし、テストの方も「グローバルに普遍的な能力を試す試験」よりも、「高校生の急所を突くような試験」にした方が、その教育者は必死になります。

——と、論じながらも今回、何より自分にその肝心な力がないような心持ちになりました。これだけ永井さんに真意の伝わらない駄文を書いているようでは、こちらのフォーラムにお邪魔するには、時期早々だったのかもしれません。

教育自由化後の選択肢としての英語漬け教育

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年7月25日(木) 12:46.

こうもり さんが書きました:

国際教養大学の卒業生には、すでに企業側からの「英語はできるかもしれないが、大卒としての知識、教養に欠ける」という不満の声が上がっているようです。

既に申しあげたとおり、私は日本の大学をすべて国際教養大学のようにしろとは言っていません。「英語はできるかもしれないが、大卒としての知識、教養に欠ける」と言っている企業は、従来型の大学の卒業生を採用すればよいだけのことです。ただ現状では、国際教養大学の卒業生は、引く手あまたで、明らかに供給が需要に追い付いていません。教育を自由化すれば、市場のニーズを満たす程度に国際教養大学型の大学が増えるだろうと予想されます。

こうもり さんが書きました:

同大学では「英語の授業がなくなる」どころか、永井さんの書かれている通りのEAPプログラムなど、逆に増加しているのではないですか

たしかに、今の中学と高校での英語教育が変わらないという前提でなら、そういうことになるでしょう。しかし、自民党の一部が検討しているように、大学受験生に TOEFL を課すことが一般化するなら、状況は変わるかもしれません。国際教養大学の EAP プログラムは、TOEFL スコアを主要な基準にしており、入学時点で TOEFL スコアが十分高ければ、大学入学後の英語教育は省略できます。

英語集中プログラム (media) 公立大学法人 国際教養大学 さんが書きました:

高いレベルの英語能力を持つ新入生(過去に長期間英語で教育を受けたことがあるなど一定の条件を満たす場合)はEAP1~3の履修を免除され、代わりに高校から大学教育への橋渡しとなる導入教育「ブリッジ・コース」で、大学生としての学習スキルを学びながら、基盤教育の科目を履修します。

国際教養大学はこう言っていますが、長期間英語で教育を受けていなくても、TOEFL スコアが高ければ、いきなり「英語による授業」に移行しても問題はないと思います。

こうもり さんが書きました:

理数や人文(科)学の専門分野の分だけディベートの授業を用意するのは非現実的です。

全然非現実的ではありません。教養教育だけでなく、学部や大学院で行っている専門教育もすべて英語で行えばよいだけのことです。

こうもり さんが書きました:

私の文章がまずかったか、永井さんの誤読(というか恣意的な読解)ということになると思うのですが……。

では、もう一度、根拠となった文章を引用しましょう。

こうもり さんが書きました:

大学内でも、会話能力向上だけに特化した講座やプログラムを充実させた方が早い。専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる。後は鍛えた会話能力とその専門用語を組み合わせるだけで、会議やプレゼンなどで困ることもないでしょう。学生にとっては、自分に必要なスキルを選択する自由も確保されます。

私がこの中で特に問題にしたのは、「専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる」の部分です。言葉の意味は、背景となる理論やその語の運用と切り離して理解できるものではなく、専門に必要な用語や表現を、単語集と確認試験だけで定着させるというのは学習方法として間違っていると思います。

こうもりさんは、今回「専門用語や表現は、学生ならば既に多くの英語文献を読まされて知っているものです」と書きましたが、これは、引用した箇所にはない新しい内容です。日本の大学生は、例えば経済学の学生なら、ゼミで英文の経済学の論文を読むといったことをしていますが、ここで行われていることは、まさに「英語を学ぶ」ではなくて、「英語で学ぶ」ということです。もちろん討論とかは日本語で行うわけだから、「英語で学ぶ」という点では不十分なのですが、部分的には実践しているということができます。

私の提案は、この不完全な形で行われていることをもっと完全にやってみてはどうかということです。英語の専門論文を読むだけでなく、英語で討論を行ったり、英語でレポートを書いたりといったことです。専門に必要な個々の用語や表現は、英語の論文全体を理解することで理解されるのであり、またそれらを使って討論をしたりレポートを書いたりするといった運用によりはじめて身に付くものなのです。「単語集と確認試験だけで定着させられる」ものではないのです。

こうもり さんが書きました:

しかしこのことは、永井さんご自身にも思い至る所があるのではないでしょうか。(留学経験をお持ちなのかは存じ上げませんが)専門に関する授業を特に英語で受けたりされてはいなくても、ご自分の書かれる英文中に専門知識を織り込むことは、苦もなくなされているのではありませんか。あるいは授業で受けた事などない、最新の学識に関する用語であっても、容易に自分の英文、会話に反映できるのではありませんか。

私には留学経験はありませんが、「外国語を学ぶ」のではなくて、「外国語で学ぶ」という方針をこれまで実践しています。大学に入学した時、英語の授業に関しては、できるだけネイティブが母国語で行っている授業を選択しました。日本人教師の英語の授業は高校の授業の焼き直しのような内容で、あまり学ぶところがありませんでしたが、ネイティブが母国語で行っている授業には新鮮なものを感じました。

もっとも、私は純粋な語学の勉強が嫌いだったので、ドイツ語もフランス語も、文法を一通り学んだあとは、ドイツ語とフランス語の学術書を大量に読むことで、これらの言語を身につけていきました。もちろん、こういう方法では、読み書きの力しかつかないので、英語に関しては、衛星放送(その後は、Podcast や YouTube など)で英語のドキュメンタリー番組を視聴したりしています。こうもりさんは座学に意味がないと考えているようですが、英語の番組を見るだけでも、英語で考える習慣が身に付くものですよ。

だから、私自身は「外国語を学ぶ」のではなくて、「外国語で学ぶ」という手法をこれまで実践してきたのですが、それは完全ではなかったし、グローバル志向のある未来の世代にはもっと完全な教育を受けてもらいたいものだと思っております。

こうもり さんが書きました:

私が問題にしているのは「政府が大学に授業の英語化を強制」することではなく、「大学が生徒に英語と抱き合わせにした授業を強制」することです。[…]「生徒への強制」に限って話しますと、そもそもほとんどの学生が大学を選べる立場にはありません。

それは、教育機能と評価機能を分離していない現在の大学で起きる問題であり、二つの機能を分離すれば、そういう問題は全く起きなくなります。どこの大学に行っても、取る単位や資格に差はないし、入学定員という制限すらなくなり、大学は純粋にその教育方法だけで選ばれます。選択の主導権は完全に学生側の手に渡るのです。

こうもり さんが書きました:

「それは私の主張ではなくて、私が全面的に肯定しているものではありません。」と指摘されてしまう理由が本当に分かりません。お手数でなければお教えください。

引用する時には、読者が誤解しないように、適切な範囲で切り取ってくださいということです。

こうもり さんが書きました:

たとえそれが理数系の試験であっても、そこには必ず恣意が織り込まれます。永井さんの理想とされる「グローバルに要求される普遍的な能力を試す」試験にも必ず出題者の意図は反映されます。逆に出題者の主観の入り込まない試験など存在するのでしょうか

どのような試験問題も、それが言語表現を用いて表されている以上、そこには主観的な恣意性が何らかの程度入ります。しかし、そこには程度の差があるのであって、その程度を低くすることが重要であるということです。

こうもり さんが書きました:

対象が純文学であっても、詩でも、論説でも、ビジネス文であっても、政治演説であっても良いのですが、それを出題者が論理的に解釈して出題すれば、その解答には私が前回重要視したような「読解力」「論理構成力」などの能力が要求されます。対して、あちらのトピックで永井さんが「文学作品の鑑賞力」と述べられているのは、「音楽や絵画などの芸術作品の鑑賞と同じだ」と論じられているようにも受け取れます。ここに大きな相違があると思うのですがどうなのでしょう。

これは出口汪が言っていることと同じですね。出口は、国語の問題はセンスの問題ではなくて、論理の問題だと主張して有名になった予備校講師ですが、彼が正解を導く論理なるものに必然性があるとはとても思えません。そもそも論理だから必然的で、正解が一義的に導けるという考え自体が二値論理の神話に基づいており、正しくないのですが、長くなるからここではその話は止めておきましょう。

ともあれ、国語教育のプロからですら、センター試験の国語の正解に対して毎年異論が出るありさまですから、入試の国語の出題に主観的恣意性がないとはとても言えません。板野博行のように、国語の入試問題で試されているのは、出題文の筆者の意図を読み取ることよりもむしろ出題者(および採点者)の意図を読み取ることであるとすら言う人もいるのですが、そういう視点の転換でもって「主観的読解から客観的読解へのコペルニクス的転回を果たす」[ゴロゴ板野の現代文解法565パターン集 (page) 171]と言えるのかどうか。権力者を忖度する能力で受験生の選抜をすると、主体性のない学生ばっかりになるのではないかと危惧します。

こうもり さんが書きました:

「アメリカの場合、それを多民族・多文化国家である段階で前提条件からクリアしている」と指摘するだけでご理解いただけるでしょう。

アメリカは、多民族国家であっても、言語的には英語で統一されています。それなのに、なぜ多民族・多文化国家であるからといって“語彙やイディオムをおぼえる「地道さ」、文法を使用する上での「正確さ、慎重さ」、他国の歴史や地理、習慣などあらゆる側面についての「知識」”が身に付くのでしょうか。ちなみに、米国人は一般的に他国の歴史、地理、習慣には無知だし、英国民の大半は日本がどこにある国かすら知りません。

こうもり さんが書きました:

テストの方も「グローバルに普遍的な能力を試す試験」よりも、「高校生の急所を突くような試験」にした方が、その教育者は必死になります。

受験生の急所を突く、所謂ひっかけ問題は、多数の志願者を一定の定員に絞る入学試験には必要だと言えるでしょう。しかし、教育機能と評価機能を分離すると、試験は到達度確認試験となるので、受験生を落とすための意地悪いひっかけ問題を作る必要はなくなります。

「教育自由化後の選択肢としての英語漬け教育」への返答

投稿者:こうもり.投稿日時:2013年7月27日(土) 02:13.

永井俊哉 さんが書きました:

既に申しあげたとおり、私は日本の大学をすべて国際教養大学のようにしろとは言っていません。「英語はできるかもしれないが、大卒としての知識、教養に欠ける」と言っている企業は、従来型の大学の卒業生を採用すればよいだけのことです。ただ現状では、国際教養大学の卒業生は、引く手あまたで、明らかに供給が需要に追い付いていません。教育を自由化すれば、市場のニーズを満たす程度に国際教養大学型の大学が増えるだろうと予想されます。

私たちは今「価値」についての議論をしているはずです。それを結局このような市場原理に帰結させるのならば、我々の議論は意味をなさなくなります。

市場原理にまかせれば、永井さんの理想とする教育法も「市場のニーズを満たす程度に増える」でしょうし、私の理想とする教育法も「市場のニーズを満たす程度に増える」でしょう。あたりまえのことです。こういった物言いは、せっかくの議論と、それに費やす労力や時間を水泡に化してしまうものです。おやめください。

今回は『‪教育自由化後の選択肢としての英語漬け教育‬』と、タイトルの方にも「自由化」や「選択肢」という言葉が踊っていますが、それならば私も「英語漬け教育」の存在には全面的な賛意を表明いたします。私が心配している「英語は苦手だが自分の専門には高い能力の生徒」だって、自由に別の選択肢を選べば救われる話ですから。‬‬‬

今回の永井さんは、私の言に対して

永井俊哉 さんが書きました:

こうもりさんは、今回「専門用語や表現は、学生ならば既に多くの英語文献を読まされて知っているものです」と書きましたが、これは、引用した箇所にはない新しい内容です。

と、「新しい内容を」書き足したことを指摘をされています(しかもその箇所は私が「我々両者の齟齬を避けるため、具体的な状況を想定してここに再記します」とした部分にありますから、元の文に新しい内容を書き足すのは当然です。しかしこのような書かれ方をすると、永井さんにその意図がなくても、新たに書き足したことを非難されているように読まれてしまうものですよ)。

翻って今回の永井さんは、それどころでなくタイトルから議論の前提条件をひっくりかえしてしまっています。私は初回の書き込みで、

こうもり さんが書きました:

私は(我が国の英語環境が現状のままならば)という括弧付きで、反対の立場をとります。

と、はっきり私の意見の立場をお伝えしていました。同じ初回の投稿の文末では、

こうもり さんが書きました:

冒頭にあげた(我が国の英語環境が現状のままならば)という括弧が(日本の公用語や生活用語が英語となった)という風に変わった暁には、たとえそれが小中高であろうと、私は英語で行われる授業に異存はありません。

とも、明確に書き添えてあります。この前提条件が変われば、たとえば前述の「英語の苦手な生徒」などがいない状況になれば、もちろん私の意見も変わってきます。

確かに永井さんが望まれているとおり、「受験生にTOEFLを課すことが一般化」され、「TOEFL スコアが高ければ、いきなり「英語による授業」に移行しても問題はない」ような状況が生まれるようになれば、「教養教育だけでなく、学部や大学院で行っている専門教育もすべて英語で行え」るようになるでしょうし、それは理想でしょう。ただいまの部分はかなり乱暴な引用をしましたが、次はしっかりと引用しましょう。

永井俊哉 さんが書きました:

私の提案は、この不完全な形で行われていることをもっと完全にやってみてはどうかということです。英語の専門論文を読むだけでなく、英語で討論を行ったり、英語でレポートを書いたりといったことです。専門に必要な個々の用語や表現は、英語の論文全体を理解することで理解されるのであり、またそれらを使って討論をしたりレポートを書いたりするといった運用によりはじめて身に付くものなのです。

このご提案はまさに英語教育の理想です。私でも憧れますし、異存などまったくございません。しかし、現状の英会話を苦手とする日本の学生と、このような理想的な教育法をこなせる学生の間に、どれほどの隔たりがあるかお考えください。

私は、(英語が公用語や生活用語になれば)小中高からでも授業の英語化に賛成していたわけですから、(大学入学時の英語力が上がれば)大学での授業の英語化には、もちろん賛成します。こちらがそういった立場を初回から明文化していたにも関わらず、今回の永井さんはタイトルから、そして本文でも、するりとその前提条件を逆転させておいて、誰が読んでも理想と思えるような英語学習法を謳い、私がそれに反対しているかのような印象を与える文を書かれています。

永井俊哉 さんが書きました:

引用する時には、読者が誤解しないように、適切な範囲で切り取ってくださいということです。

永井さん同様、私もこの文の読者さんに誤解されたくはないのです。

TOEFLはまだ検討段階なんですよね。それも自民党の一部で。しかも必須化は見送られ、一般化の見通しなどまだまだ立ってもいない。たとえそうなっても、それが受験生の力を本当に伸ばすのかどうかも確証はない。さらに教育の自由化や教育機能と評価機能の分離が達成され、現在のような大学の入学定員もなくなり、東大、早慶、MARCH、日東駒専、大東亜帝国など、どの大学で学んでも取る単位や資格に差がなくなる。永井さんは今回の文だけでも、これほど多くの(しかも実現はまだまだ遠い)条件を設定されながら、すばらしい英語の教育観を展開されているんですよね。

一方私が論じているのは、今の現実いる学生を対象とした英語教育のあり方です。

私は実質的な問題について永井さんと話したいのです。永井さんが引く手あまただと説明される国際教養大学についても、学生からは「英語で行われる授業のレベルが低い」「多数いる留学生からも母国の高校レベルだと言われた」「中には小学レベルの内容を英語で行っているだけの講義がある」「学生の半分は4年で卒業できない」「新卒枠採用のために、単位は足りているけど卒業を延ばす学生もいる」「確かに半数は一流企業に行くが、就職率100%を達成するために不本意な就職をする生徒もいる」などの声が上がっています(数分ネットを調べるだけで、知恵袋や掲示板で確かめられます)。生の声だけあってその裏付けは難しいですが、私が気になるのはこういった現状です。そもそも「就職率100%」という数字に、通常の感覚の持ち主なら不自然さをおぼえるはずです。「明らかに供給が需要に追い付いてい」ないとまで判断し、市場原理に理論を展開させるなんてことは私にはできません。

私は中身のあるお話がしたくて、初回の書き込みから1.2.3.4.5.という小題に焦点を絞っていました。しかし永井さんから頂けるお返事は、私の部分的な記述に対する反論が多く、それも多くが私から見て誤読か曲解にしかならないものでした。前回はその誤読をつごう6箇所に渡り説明しました(それぞれ「私がこう書いていた」のを「永井さんはこう誤読」されていますよと明示しながら)。しかもそのうちの2つは、先に永井さんが「私の読み落とし」や「引用間違い」として指摘されたものです。「政府が大学に強制するのかor大学が生徒に強制するのか」という箇所と「下にあげる全文引用が問題となった」箇所の2つですね。そして、今回の永井さんからは、私が挙げた6箇所のうち2箇所についてのご返答を頂いております(残りの4箇所は何だったのでしょう?)。本来なら、もっと中身のある話をしたいところなのですが、こちらにもお答えしなくてはなりません。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

「それは私の主張ではなくて、私が全面的に肯定しているものではありません。」と指摘されてしまう理由が本当に分かりません。お手数でなければお教えください。

引用する時には、読者が誤解しないように、適切な範囲で切り取ってくださいということです。

それならば最初からその通り書かれるべきだったのです。「それは私の主張ではなくて」と書かれていれば、私が問題の箇所「大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある」という命題を永井さんの主張だとして、しかもそれを根拠に糺弾したかのような錯覚を呼び起こすでしょう。読者の誤解を招いているのは永井さんのほうですよ。前回も説明しましたが、私の立場はまったくその逆で、その命題に同意しているのです。同意した上で「長文読解の問題にもネイティヴに解けない問題がありますよ」と持論を展開しただけです。

そもそも私は「その命題が永井さんの主張である」というような誤読などしてもいませんでしたが、仮にそれが永井さんの主張であると、読者に受け取られて何か不都合があるのでしょうか。永井さんはトピック本文の冒頭から、この「世間でよく言われる教育批判」を事実と認めた上で、続く「これは、日本人が英語を研究の道具としてではなくて研究の対象として扱ってきた結果である。」という文を記載されているではないですか。これがどうして「私が全面的に肯定しているものではありません。」となってしまうのか理解不能です。

前回も、(その意見を取り上げられた永井さんも同意見だということだとは思いますが)と但し書きをした箇所がございましたが、ふつう持論の根拠や前提として取り上げた他者の意見は、その筆者が同意しているものとして見なされるものです。「大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある」という命題を「全面的に肯定しているものではない」とするのも、どのような状態なのかさっぱり分かりません。「ネイティヴに解けない難問はない」ということではありませんよね。「全面的」でないなら「ネイティヴに解けない問題は部分的にある」ということですか。それって「ある」っていうことになりますよね。理解不能です。

しかも「解けない問題がある」なんて事実は、ほぼ一般化された「事実」ではありませんか。永井さんが「指摘されてきた」と言っているぐらいですから、多くの人がその認識にあるでしょうし、その真偽を問うような命題ではないでしょう。それをいまさら「読者に誤解」される恐れもなにもないのではありませんか。失礼ですが、言葉を重ねるたびに瑕疵を広げているようですよ。「文法教育よりも翻訳教育の方にあると思っている」ことを読者に印象付けたいのなら、逆に全文を引用されない方がよいでしょうしね。

この状態はもう「反論のための反論」になってしまっていると思います。次に、6箇所のうちの2つ目にまいります。こちらの方でも、永井さんがこういった書き方を意図的にされているのか、無意識でされているのかは分かりません。聡明な方であることを考慮すると、きっと自覚的にされているんでしょうね(前述の前提条件のすげ替えも含めて)。こちらはさらに細かく検証する必要があります。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

私の文章がまずかったか、永井さんの誤読(というか恣意的な読解)ということになると思うのですが……。

まずこの部分で私の文中の肝心な部分が削ぎ落とされています。これは永井さんが私に要求された「適切に引用する」に、さっそく自ら反している行為です。私の元の文は、

こうもり さんが書きました:

私が「会話力を高め」それを「英語の専門用語」と組み合わせると説明しているのは、「辞書的な知識だけで翻訳」しようとする行為でも、「日本語で考えてから英語に翻訳する」という行為でもありません。そうお読みになったのなら、私の文章がまずかったか、永井さんの誤読(というか恣意的な読解)ということになると思うのですが……。

——でした。つまり私は「辞書的な知識だけで翻訳」、「日本語で考えてから英語に翻訳する」と曲解されたことに対して説明を求めていたのです。その部分を削ぎ落してしまったら、読者は何の誤読だったのかも意識せずに、以下を読むことになるでしょう。

永井俊哉 さんが書きました:

では、もう一度、根拠となった文章を引用しましょう。

こうもり さんが書きました:

大学内でも、会話能力向上だけに特化した講座やプログラムを充実させた方が早い。専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる。後は鍛えた会話能力とその専門用語を組み合わせるだけで、会議やプレゼンなどで困ることもないでしょう。学生にとっては、自分に必要なスキルを選択する自由も確保されます。

「では、もう一度、根拠となった文章を引用しましょう。」という但し書きは、これから永井さんが「辞書的な知識だけで翻訳」、「日本語で考えてから英語に翻訳する」と誤読された「根拠」が示されるようで非常に期待が高まります。しかも冷静沈着であり、分析的であり、誠実な姿勢も感じられる言葉です。続く引用個所も適切だと思います。しかし……

永井俊哉 さんが書きました:

私がこの中で特に問題にしたのは、「専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる」の部分です。言葉の意味は、背景となる理論やその語の運用と切り離して理解できるものではなく、専門に必要な用語や表現を、単語集と確認試験だけで定着させるというのは学習方法として間違っていると思います。

続く記述はこのようなものでした。ふつう誤読の「根拠」を指摘する場合は「あなたはこう書かれています。これはこう読まれても仕方のない表現です」といような指摘の形をとるものでしょう。永井さんも「特に問題にした」箇所を抜き出されてはいますが、後に続いたのは、誤読の説明ではなく、ご自分の述べられたいご自分の意見でした。誤読の説明をする場から、ご自分の意見を展開する場に、みごとに誘導されてしまっています。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもりさんは、今回「専門用語や表現は、学生ならば既に多くの英語文献を読まされて知っているものです」と書きましたが、これは、引用した箇所にはない新しい内容です。日本の大学生は、例えば経済学の学生なら、ゼミで英文の経済学の論文を読むといったことをしていますが、ここで行われていることは、まさに「英語を学ぶ」ではなくて、「英語で学ぶ」ということです。もちろん討論とかは日本語で行うわけだから、「英語で学ぶ」という点では不十分なのですが、部分的には実践しているということができます。

そして私が「新しい内容」を加えたことを指摘しながら、主眼はもうすっかりご自分の意見を展開することに向けられているようです。そして最後には、

永井俊哉 さんが書きました:

私の提案は、この不完全な形で行われていることをもっと完全にやってみてはどうかということです。英語の専門論文を読むだけでなく、英語で討論を行ったり、英語でレポートを書いたりといったことです。専門に必要な個々の用語や表現は、英語の論文全体を理解することで理解されるのであり、またそれらを使って討論をしたりレポートを書いたりするといった運用によりはじめて身に付くものなのです。「単語集と確認試験だけで定着させられる」ものではないのです。

と、先ほども取り上げたすばらしい英語の学習状況を謳い上げて、ご自分の説を書き上げられています。「根拠」と言っていたものはどこに行ったのでしょう。この箇所をさらっと流し読みしているだけの読者さんだったら、この誰もが理想と思えるような学習法に賛同の意をおぼえるだけで、私の主張そのものが間違っているような印象を持たれるでしょう。

以上QEDです。でもこの2つ目の分析と解説は、よく入試の模擬試験後に配られていた「正答と解説」の現文の解説のようですよね。まさしく永井さんの非難されていた「恣意的な解釈」への取り組み方を解説するものです。はからずも、私が主張していた「ディベート力向上」と「恣意的な問題に対峙する力」の必要性を証明してしまったのかもしれません。生き馬の目を抜くようなその先の社会を生きなくてはならない学生たちには、さまざまな甘言や、一見正しく思えるような詭弁などを見抜く力が必要です。

このような「試験の在り方」についてのお話も、私は大いに興味を持っているのですが、もう今回は語るのをやめておきましょう。今回のこの投稿にも、永井さんは私の意見に対して、さまざまな反論をお返ししてくれるかもしれません。しかし私が今問題視しているのは永井さんの「ご意見」ではなく、議論を進める上でとられる永井さんの「姿勢」です。

永井俊哉 さんが書きました:

アメリカは、多民族国家であっても、言語的には英語で統一されています。それなのに、なぜ多民族・多文化国家であるからといって“語彙やイディオムをおぼえる「地道さ」、文法を使用する上での「正確さ、慎重さ」、他国の歴史や地理、習慣などあらゆる側面についての「知識」”が身に付くのでしょうか。

これなんか特に、永井さんとも思えない子供っぽい反論のされ方です。口げんかで子供がよく言う「何時? 何分? 何十秒? 地球が何回まわった時?」のような。

もう少し、実のある議論をしませんか。

このサイトは学術的議論の場所であって喧嘩をする場所ではありません

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年7月27日(土) 13:32.

こうもり さんが書きました:

私たちは今「価値」についての議論をしているはずです。それを結局このような市場原理に帰結させるのならば、我々の議論は意味をなさなくなります。

市場原理にまかせれば、永井さんの理想とする教育法も「市場のニーズを満たす程度に増える」でしょうし、私の理想とする教育法も「市場のニーズを満たす程度に増える」でしょう。あたりまえのことです。こういった物言いは、せっかくの議論と、それに費やす労力や時間を水泡に化してしまうものです。おやめください。

日本には、その「あたりまえのこと」に異論を唱える人がたくさんいるのです。社会主義者たちは「教育格差が広がる」と言って、教育の自由化に反対するし、国家主義者は、「日本人のアイデンティティが失われる」と言って、英語漬け教育が広がることに懸念を示しています。しかし、こうもりさんは、教育自由化、あるいは同じことですが、教育への市場原理の導入という私のメタレベルの価値に賛同してくれているようなので、制度設計に関して私との間に意見の対立がないと言ってよさそうです。この点が確認できただけでも私たちの議論には十分な収穫があったのではないでしょうか。

こうもり さんが書きました:

今回の永井さんは、それどころでなくタイトルから議論の前提条件をひっくりかえしてしまっています。私は初回の書き込みで、

こうもり さんが書きました:

私は(我が国の英語環境が現状のままならば)という括弧付きで、反対の立場をとります。

と、はっきり私の意見の立場をお伝えしていました。同じ初回の投稿の文末では、

こうもり さんが書きました:

冒頭にあげた(我が国の英語環境が現状のままならば)という括弧が(日本の公用語や生活用語が英語となった)という風に変わった暁には、たとえそれが小中高であろうと、私は英語で行われる授業に異存はありません。

とも、明確に書き添えてあります。この前提条件が変われば、たとえば前述の「英語の苦手な生徒」などがいない状況になれば、もちろん私の意見も変わってきます。

私の前提条件は、教育の自由化であって、日本の公用語や生活用語が英語となるということではありません。教育を自由化しても、国際教養大学型の教育は不評で、日本語による教育を選ぶ人がいるというのがこうもりさんの予想なのだから、教育の自由化と英語の公用語化あるいは生活用語化が同じではないことには同意できると思います。

なお、私は、今回の提言が教育自由化という抜本的な改革がなければ、無意味になるとは言っておりません。そのことを示す引用をしておきましょう。

日本の大学は英語で授業を行うべきか (date) 2013年3月16日 (author) 永井俊哉 さんが書きました:

変革には、抜本的な改革と暫定的な改善があり、後者には、本格的な問題解決にはならないというデメリットはあるものの、簡単に実行できるというメリットがあります。現行の英語の大学入試問題から日本語を排除し、純粋に英語の試験にすることはそれほど難しいことではないし、実施のハードルは低いと思いますが、それだけでも高校での英語教育のあり方を少なからず変えることができると思います。

公教育の廃止は抜本的な改革で、それだけに実施は困難です。市場原理を導入するのですから、文革とは方向が逆ですが、リスクがあるのは確かです。しかしそのリスクは、教わる側よりも教える側に発生します。生徒にとっては、選ぶ自由が増えるのですから、迷いが増えるということはあるにしても、より柔軟に自分に合った学習計画を立てることができます。

現行の英語の大学入試問題から日本語を排除し、それを TOEFL のような純粋な英語の試験にしたとしても、それぐらいで、小中高の授業から日本語が完全になくなるということはありません。実際、日本で売られている TOEFL 対策本は日本語で書かれています。

こうもり さんが書きました:

私は、(英語が公用語や生活用語になれば)小中高からでも授業の英語化に賛成していたわけですから、(大学入学時の英語力が上がれば)大学での授業の英語化には、もちろん賛成します。こちらがそういった立場を初回から明文化していたにも関わらず、今回の永井さんはタイトルから、そして本文でも、するりとその前提条件を逆転させておいて、誰が読んでも理想と思えるような英語学習法を謳い、私がそれに反対しているかのような印象を与える文を書かれています。

ここを読むと、まるで私が「英語が公用語や生活用語になれば」という前提条件で議論をしているかのようです。そうではないことを示す過去の発言を引用しておきましょう。

日本の大学は英語で授業を行うべきか (date) 2013年3月16日 (author) 永井俊哉 さんが書きました:

私がこのトピックで行っている提言は、大学レベルの教育における話で、中学・高校レベルの教育でも、英語で授業をせよとは言っていません。日本語しかわからない生徒に英語を教えようとするならば、少なくとも最初の段階では、日本語で英語を教えるしかないでしょう。ただ、英文和訳や和文英訳が英語教育の最終目標のように位置付けられている一部の教育現場の現状は改められなければいけません。

もちろん、教育を自由化すれば、早い段階から英語漬け教育をする学校も一部で出てくることでしょうが、すべての学校がそうなるわけではないから、英語が公用語や生活用語になるということはありません。

こうもり さんが書きました:

永井さんが引く手あまただと説明される国際教養大学についても、学生からは「英語で行われる授業のレベルが低い」「多数いる留学生からも母国の高校レベルだと言われた」「中には小学レベルの内容を英語で行っているだけの講義がある」「学生の半分は4年で卒業できない」「新卒枠採用のために、単位は足りているけど卒業を延ばす学生もいる」「確かに半数は一流企業に行くが、就職率100%を達成するために不本意な就職をする生徒もいる」などの声が上がっています(数分ネットを調べるだけで、知恵袋や掲示板で確かめられます)。生の声だけあってその裏付けは難しいですが、私が気になるのはこういった現状です。そもそも「就職率100%」という数字に、通常の感覚の持ち主なら不自然さをおぼえるはずです。「明らかに供給が需要に追い付いてい」ないとまで判断し、市場原理に理論を展開させるなんてことは私にはできません。

私は「国際教養大学型の大学が増えるだろう」と予想しましたが、国際教養大学と同じ大学が増えるとは予想していません。国際教養大学に関してはいろいろな批判があるから、それを改善しようとして、新種の国際教養大学型の大学が増えると予想します。例えば、理工系の専門的な科目を英語で教える大学とか、英語圏の大学院に入学するための予備校的な大学とか、いろいろ出てくると思います。だから、御指摘のような問題は、市場原理によって解決されるべき問題ということができます。

こうもり さんが書きました:

そして、今回の永井さんからは、私が挙げた6箇所のうち2箇所についてのご返答を頂いております(残りの4箇所は何だったのでしょう?)。

私が十分に答えていないと感じる質問がまだあるのなら、改めて箇条書きにして問い直してください。

こうもり さんが書きました:

永井さんはトピック本文の冒頭から、この「世間でよく言われる教育批判」を事実と認めた上で、続く「これは、日本人が英語を研究の道具としてではなくて研究の対象として扱ってきた結果である。」という文を記載されているではないですか。これがどうして「私が全面的に肯定しているものではありません。」となってしまうのか理解不能です。

日本の英語教育で使える英語力が育まれないのは、文法偏重が原因であるという主張は古くからあります。このため、最近の大学入試の英語の問題からは文法問題が姿を消すようになり、中学や高校でも文法教育が軽視されるようになっています。しかし、私は文法教育が不要とは考えていません。私の経験から言って、ネイティブでない大人が外国語を効率よく学ぶ上で、文法を体系的に学ぶことは、有意義なことだと思います。

しかしながら、従来の日本の英語教育において、文法的分析があまりにも重視され過ぎたというのは事実です。昔は、英語を使う上でどうでもよいような文法解釈の議論が受験生向けの英文法書にまで書かれていたものです。だから文法偏重論は、私が全面的に肯定しているものではありませんが、同時に全面的に否定しているものでもありません。

現在の日本の英語教育における問題は、文法分析偏重よりも翻訳偏重にあるというのが私の考えですが、この二つの弊害は、本来英語学習の手段にすぎなかったものが、自己目的化することで発生したという点で、同じような現象と考えることができます。だから、「日本人が英語を研究の道具としてではなくて研究の対象として扱ってきた結果」には文法分析重視だけでなく、翻訳重視も含まれます。そして手段の自己目的化、道具の対象化を避けるためには、英語を学ぶのではなくて、英語で学ぶ教育が必要になるという主張につながっていくのです。

件の部分引用に関して、こうもりさんが私の発言を誤解をしているとか、引用が私の主張と全く逆であるとか言っているわけではありません。直接主張していないことをあたかも直接主張しているかのように切り取って引用することは、一般的な引用のエチケットに反するということを言おうとしたのです。はっきりそう注意しなくても伝わるかと思ったのですが、そうではなかったようですね。

こうもり さんが書きました:

ふつう誤読の「根拠」を指摘する場合は「あなたはこう書かれています。これはこう読まれても仕方のない表現です」といような指摘の形をとるものでしょう。永井さんも「特に問題にした」箇所を抜き出されてはいますが、後に続いたのは、誤読の説明ではなく、ご自分の述べられたいご自分の意見でした。誤読の説明をする場から、ご自分の意見を展開する場に、みごとに誘導されてしまっています。

そういうようにくどくど書かなくても伝わるかと思ったのですが、そうではなかったようですね。「私がこの中で特に問題にした」「専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる」の部分は、“日本語の単語と英語の単語は一対一の対応関係にはないので、辞書的な知識だけでは、翻訳すらできません。また、日本語で考えてから英語に翻訳するということをやっていると、通訳を介する時のように、コミュニケーションに時間がかかります。”と言って問題にした根拠のコアということで、私の批評の根拠は引用した箇所全体です。それでは、もう一度その根拠全体を引用しましょう。

こうもり さんが書きました:

大学内でも、会話能力向上だけに特化した講座やプログラムを充実させた方が早い。専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる。後は鍛えた会話能力とその専門用語を組み合わせるだけで、会議やプレゼンなどで困ることもないでしょう。学生にとっては、自分に必要なスキルを選択する自由も確保されます。

この文章を素直に読めば、次のように解釈できます。

  1. 大学は一般的な英会話能力の向上だけに特化した講座やプログラムを充実させる。
  2. 専門的な教育は日本語で受ける。
  3. 単語集と確認試験で、専門に必要な用語や表現の日本語と英語の一対一の対応を定着させる。
  4. 外国人が相手の会議やプレゼンでは、上記の三つの教育成果の組み合わせで、頭の中で英訳と和訳を行い、英語でコミュニケーションする。

「日本語で考えてから英語に翻訳するということをやっていると、通訳を介する時のように、コミュニケーションに時間がかかります」というのは、二次的な問題で、私の批判の主眼点は「日本語の単語と英語の単語は一対一の対応関係にはないので、辞書的な知識だけでは、翻訳すらできません」というそれ以前の一次的な問題の方にあります。前者は4番目、後者は3番目に関するものです。2番目に関しては、後から「学生ならば既に多くの英語文献を読まされて知っている」というのが追加されたから、正しくはないのかもしれませんが、引用した箇所には書かれていないから、それを読み取ることは無理です。だから、誤読とは言えないでしょう。

こうもり さんが書きました:

私が今問題視しているのは永井さんの「ご意見」ではなく、議論を進める上でとられる永井さんの「姿勢」です。

そうやって議論の対象をすりかえることは学術的議論が感情的な喧嘩に変質する時によく見られる兆候です。そういうつもりではないのかもしれませんが、念のため。このサイトは、サブタイトルとして掲げているように、「学術的議論のための掲示板」であって、私は読者さんと非学問的な喧嘩などしたくはありません。だから、反論に答える時も、できるだけ理性的になり、できるだけ相手の気分を害さないように努めているつもりなのですが、何か至らぬ点があったというのでしょうか。

こうもり さんが書きました:

これなんか特に、永井さんとも思えない子供っぽい反論のされ方です。口げんかで子供がよく言う「何時? 何分? 何十秒? 地球が何回まわった時?」のような。

それも、喧嘩をするための揚げ足取りではなくて、古典語や外国語の習得に力を入れることが世界制覇に資するという仮説の真偽を学問的に検証しようとして聞いていることです。覇権国家になるためには、他にもたくさん要素があるとのことですが、一要素としても本当に妥当なのかどうなのかということを問題提起しているのです。

こうもり さんが書きました:

国語とは違い外国語の習得には、語彙やイディオムをおぼえる「地道さ」、文法を使用する上での「正確さ、慎重さ」、他国の歴史や地理、習慣などあらゆる側面についての「知識」なども、上記の「読解力」などに加えて必要になります。植民地を制圧、支配、統治する上で必須の能力ですし、現在の企業でも正に求められている力でしょう。

これがこうもりさんが挙げている理由であり、その理由が妥当であるかどうかを検証することがなぜ「子供っぽい反論」とか「口げんか」とかと評されなければならないのでしょうか。

覇権国家の条件は何かという問題は興味のあるテーマであり、私も「日本は米国に代わって世界を支配できるか」で、私なりの仮説を提示しました。興味があれば読んでください。

すみません。また「姿勢」の話になります

投稿者:こうもり.投稿日時:2013年7月31日(水) 21:26.

今回のお返事をするにあたって、「英語教育についての本題」のみを語るべきか、「議論をする上での姿勢」のようなものを話すべきか、本当に悩みました。が結局、後者についてもう一度だけお話してみようと決心しました。永井さんは嫌がられるでしょうが、メタなお話はこれを最後にいたしますので、ご容赦ください。

こうもり さんが書きました:

永井さんがこういった書き方を意図的にされているのか、無意識でされているのかは分かりません。聡明な方であることを考慮すると、きっと自覚的にされているんでしょうね

と、前回は書きましたが、今回のお返事を読んで「どうやら無意識でされているらしい」と思うに至りました。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

私が今問題視しているのは永井さんの「ご意見」ではなく、議論を進める上でとられる永井さんの「姿勢」です。

そうやって議論の対象をすりかえることは学術的議論が感情的な喧嘩に変質する時によく見られる兆候です。そういうつもりではないのかもしれませんが、念のため。このサイトは、サブタイトルとして掲げているように、「学術的議論のための掲示板」であって、私は読者さんと非学問的な喧嘩などしたくはありません。だから、反論に答える時も、できるだけ理性的になり、できるだけ相手の気分を害さないように努めているつもりなのですが、何か至らぬ点があったというのでしょうか。

「気分を害さないように」と、おっしゃって下さっているので、おそらく悪気はないのでしょう。もう少し広い範囲で前回の私の言葉を抜き出させてください。

こうもり さんが書きました:

私は中身のあるお話がしたくて、初回の書き込みから1.2.3.4.5.という小題に焦点を絞っていました。しかし永井さんから頂けるお返事は、私の部分的な記述に対する反論が多く、(以下中略)

このような「試験の在り方」についてのお話も、私は大いに興味を持っているのですが、もう今回は語るのをやめておきましょう。今回のこの投稿にも、永井さんは私の意見に対して、さまざまな反論をお返ししてくれるかもしれません。しかし私が今問題視しているのは永井さんの「ご意見」ではなく、議論を進める上でとられる永井さんの「姿勢」です。
永井俊哉 が書きました:
アメリカは、多民族国家であっても、言語的には英語で統一されています。それなのに、なぜ多民族・多文化国家であるからといって“語彙やイディオムをおぼえる「地道さ」、文法を使用する上での「正確さ、慎重さ」、他国の歴史や地理、習慣などあらゆる側面についての「知識」”が身に付くのでしょうか。

これなんか特に、永井さんとも思えない子供っぽい反論のされ方です。口げんかで子供がよく言う「何時? 何分? 何十秒? 地球が何回まわった時?」のような。

もう少し、実のある議論をしませんか。

「中身のあるお話がしたくて」「試験の在り方についてのお話も興味を持っているのですが」「実のある議論をしませんか」と再三お願いしている人間が、「学術論議」をしたがっているのか、「感情的な喧嘩」をしたがっているのか、普通の読解力をお持ちの方なら分かると思います。ところが、永井さんはその表現に挟まれた「私が問題視しているのは姿勢です」の部分に注目されてしまう。こういう所を見ると、おそらく永井さんは文意全体を掴んだり、文脈を追ったりするよりもむしろ、自分の注目したところに集中してしまい、持論を展開させてしまう癖があるのかもしれないと推測されます。

「そういうつもりではないのかもしれませんが、念のため」などと念をおすまでもなく、私が「学術論議」をきちんとしたがっていることは明白なはずです。それなのにタイトルまで「‪このサイトは学術的議論の場所であって喧嘩をする場所ではありません‬」という注意書きのような文句。これも「相手の気持ちを害さないように」されている永井さんですから、問題は別のところ、相手の気持ちを斟酌できないところにあるのかもしれません。ですから責めるのではなく、簡潔に説明いたします。人の気持ちは三者三様ですから一概には言えませんが、このような書き方をされれば人は「気分を害する」ものです。屈辱に感じる人もいれば、怒りを憶える人もいるでしょう。私はただただ虚無感におそわれました。‬‬‬‬‬‬‬‬

永井俊哉 さんが書きました:

日本には、その「あたりまえのこと」に異論を唱える人がたくさんいるのです。社会主義者たちは「教育格差が広がる」と言って、教育の自由化に反対するし、国家主義者は、「日本人のアイデンティティが失われる」と言って、英語漬け教育が広がることに懸念を示しています。しかし、こうもりさんは、教育自由化、あるいは同じことですが、教育への市場原理の導入という私のメタレベルの価値に賛同してくれているようなので、制度設計に関して私との間に意見の対立がないと言ってよさそうです。この点が確認できただけでも私たちの議論には十分な収穫があったのではないでしょうか。

こちらの記載を見ても「私の気持ちや立場がお分かりにならないのかもしれない」と感じました。永井さんが「十分な収穫」とおっしゃっているものは、永井さんにとってだけの収穫ですよ。私は永井さんが市場原理を大切に思われていることを前から存じ上げております。このトピックを読めば、文のあちこちから推し量られます。おそらく市場原理をライフワークのように訴えられているのだろうとも予想できます。ですから元より私にとってはこの点を確認する必要などありませんでした。反対に私は自分の思想的立場を永井さんに理解していただく必要性は現在の所まったく感じておりません。今回は教育論のお話ですから。これは相手の立場を考えれば簡単に分かることです。その必要ないことを確認するために、これだけ多くの文面を浪費したことは単なる徒労です。

逆にこの議論で市場原理を持ち出して頂きたくないことは前回ご説明した通りです。上の文から察するに、「価値の議論を市場原理に帰結させるなら、話し合う意味がなくなる」という私の意見は、永井さんも理解なさっているのでしょう。にも関わらず、「あたりまえのこと」の一言に注目されてしまったようで、社会主義者や国家主義者を糺弾されながら、その後も数段落にわたって、市場原理とそれにまつわる説明に腐心されてしまっています。私が「市場原理を理解していること」が分かったのが前回の「十分な収穫」なら、その私に市場原理の説明をする必要はありません。せっかくの十分な収穫が生かされておりません。

かわりに今回も誤読が前半だけでも4箇所ありました。もうキリがないので一つ一つ指摘は致しません(求められればまた改めていたしますが)。しかしその中でも大きかったものを一つだけ。私の前提条件として明記していた「我が国の英語環境が現状のままならば」を「日本の公用語や生活用語が英語にならないこと」と読み違われていますよ。この前提条件の間違いも意図的ではないのでしょうが、両者はまったく別物ですから、ここから読み間違われて論をすすめられてしまった前半の文は、もったいないですが無用の長物となってしまいました。

ちなみに私の立場を説明しておきますと、市場原理(リバタニアンやアナルコキャピタリズムなども)については一応知っている程度の浅い知識です。同様に社会主義についても、共産主義についても、ケインズ主義、ネオリベについても一通り知っている程度で、それぞれのメリット・デメリットを自分の中で整理しています。よって、特に何主義者でもありません。強いて言うなら「近い将来お金はなくなるかも主義者」です。もし必要でしたら、そういう者としてお付き合いください。

最後には国際教養大学について「だから、御指摘のような問題は、市場原理によって解決されるべき問題ということができます。」と、再度、市場原理に帰結されてしまっています。また「話し合う意味がなくなる」ことの上塗りをされています。やはり部分に注目すると、前後の文脈や議論の流れが飛んでしまうのでしょうか。あるいはもしかすると「私たちは今『価値』についての議論をしているはずです」という言葉の意味がお分かりにならなかったのでしょうか。

ここまで来ると、本当に我々は話が噛み合いませんね。このように議論に齟齬や誤読などが多発する場合、
1.私の書き方に不備があるor永井さんの読み方に不備がある。
2.永井さんの書き方に不備があるor私の読み方に不備がある。
3.あるいはその両方か組み合わせ。
ということになりますね。その判定には書かれたテキストを検証するしかないのですから、私は何度も「私が◎◎と書いたところを、永井さんは△△と読まれていますよ」と、自分のテキスト中の箇所を指摘しながら、その誤読を説明してまいりました。対して、永井さんが今回されている「はっきりそう注意しなくても伝わるかと思ったのですが」「そういうようにくどくど書かなくても伝わるかと思ったのですが」というご解答は、その正反対になりますね。

言うまでもないことですが、基本的にテキストに書かれていないことは相手に伝わりません。もちろん前後の文脈に書かれていれば推測は可能ですが、前後にも書かれていなければ不可能です。以前も指摘したように、テキストは執筆者の手を離れれば、それは独立した別個の存在となります。心の中ではこう思っていたのに、と後から後悔しても仕方がありませんし、「書かなくても伝わる」などと言うことは期待しない方が良いでしょう。私なんかは、書いていても伝わっていないのですから。

このようなネットを介してのコミュニケーションは特に難しいですよね。もちろん人はエラーを起こすものですから、些細なミスならば拘泥せずに、相手の気持ちや意図をお互い歩み寄りながら斟酌していきたいものです。さすがに初回から6箇所も誤読あれば、さすがに看過できませんでしたが。それも悪意はなかったということで、私も書き間違い、読み間違いを極力起こさないように注意していきたいと思います。

それでは後半について。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

そして、今回の永井さんからは、私が挙げた6箇所のうち2箇所についてのご返答を頂いております(残りの4箇所は何だったのでしょう?)。

私が十分に答えていないと感じる質問がまだあるのなら、改めて箇条書きにして問い直してください。

残り4箇所については「十分に答えていない」どころか一言もお答えになられていませんよ。ですが今回も新たに4箇所も誤読が加えられてしまう現状なので、もう諦めることにします。代わりに解答いただいた以下の2箇所について検証したいと思います。

永井俊哉 さんが書きました:

だから文法偏重論は、私が全面的に肯定しているものではありませんが、同時に全面的に否定しているものでもありません。

この説明でわかりました。永井さんが「全面的に肯定しているものではない」のは「文法偏重論」だったのですね。しかし元の説明では以下のように書かれていました。部分的に抜き出しますが、

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

永井俊哉 さんが書きました:

大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある

文法問題だけでなく、長文読解問題であっても中堅大学以上の入試問題をネイティヴは解くことができません。

引用した箇所の全文が「日本の伝統的な英語教育では、英語はコミュニケーションのツールではなくて、解読するべき暗号のようなものであり、大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある半面、それらを解くことができるエリート受験生の中には、ネイティブに英語で道案内すらできない者がいるということがこれまで日本の英語教育の弊害として指摘されてきた」となっていることからもわかるように、それは私の主張ではなくて、世間でよく行われる英語教育批判で、私が全面的に肯定しているものではありません。

このやりとりを国語の受験問題のように分析すると、「それは私の主張ではなくて、」の「それは」が指示しているのは、「大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある」という命題の方になります。引用個所全文の主旨である「文法偏重論」の方ではありません。そしてその1つの主語に3つの述語が連鎖していますから、「私が全面的に肯定しているものでは」ないのも、こちらの命題の方になります。ここで私たちの齟齬が生まれたんですね。私の方は正確に読み取っていたという証明してみました。永井さんが正確にお考えを伝えたいのなら主語を「これは」にするか、「それは私の主張ではなくて、世間でよく行われる英語教育批判で、そのような英語批判を私が全面的に肯定しているわけではありません。」というように書くべきでしたね。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

私が「会話力を高め」それを「英語の専門用語」と組み合わせると説明しているのは、「辞書的な知識だけで翻訳」しようとする行為でも、「日本語で考えてから英語に翻訳する」という行為でもありません。そうお読みになったのなら、私の文章がまずかったか、永井さんの誤読(というか恣意的な読解)ということになると思うのですが……。

では、もう一度、根拠となった文章を引用しましょう。

続いてこちらは、削ぎ落されていた部分を補って抜き出しました。永井さんの「根拠」という言葉には指示語が特にありませんが、これも国語の入試問題の様に読み解けば、私の説明を永井さんが「辞書的な知識だけで翻訳」、「日本語で考えてから英語に翻訳する」と読み取られた根拠と言う意味を持つことになります。しかし、

永井俊哉 さんが書きました:

そういうようにくどくど書かなくても伝わるかと思ったのですが、そうではなかったようですね。「私がこの中で特に問題にした」「専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる」の部分は、“日本語の単語と英語の単語は一対一の対応関係にはないので、辞書的な知識だけでは、翻訳すらできません。また、日本語で考えてから英語に翻訳するということをやっていると、通訳を介する時のように、コミュニケーションに時間がかかります。”と言って問題にした根拠のコアということで、私の批評の根拠は引用した箇所全体です。それでは、もう一度その根拠全体を引用しましょう。

こちらの文を見ると、その「読み取りの根拠」であるべきだったはずのものが、「私の批評の根拠は……」に姿を変えています。そして続く文では、

永井俊哉 さんが書きました:

この文章を素直に読めば、次のように解釈できます。
1. 大学は一般的な英会話能力の向上だけに特化した講座やプログラムを充実させる。
2. 専門的な教育は日本語で受ける。
3. 単語集と確認試験で、専門に必要な用語や表現の日本語と英語の一対一の対応を定着させる。
4. 外国人が相手の会議やプレゼンでは、上記の三つの教育成果の組み合わせで、頭の中で英訳と和訳を行い、英語でコミュニケーションする。

このように永井さんがご自分の読み方を整理してくださったので、大変わかりやすくなりました。原因は4番ですね。この4番は私の考え方にはありませんし、考えもしなかったのですから当然記述にもなかった内容となります。一言で言えば4番は永井さんの拡大解釈ということになります。その拡大解釈を元に、

永井俊哉さん さんが書きました:

日本語の単語と英語の単語は一対一の対応関係にはないので、辞書的な知識だけでは、翻訳すらできません。また、日本語で考えてから英語に翻訳するということをやっていると、通訳を介する時のように、コミュニケーションに時間がかかります。

と書かれてしまったので、まるで私が翻訳を前提としたコミュニケーションを想定していたかのような文章になってしまったのですね。永井さんは私の想定したコミュニケーション法に異議を唱えていたのではなく、ご自分で拡大解釈されたご自分の意見に、ご自分で反論をされていたのです。このようなストローマンに近い誤読も議論の場ではよく起こるものですね。今回も長くなってしまいましたが、それでは最後に、

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

自分が学生の頃なので正確ではないかもしれませんが、大英帝国の繁栄はラテン語教育にあったという話を読んだことがあります。つまりグラマースクールから、当時誰も使用していなかったラテン語能力により選抜されたエリートたちが、世界に散らばり植民地支配に辣腕をふるったということです。国語とは違い外国語の習得には、語彙やイディオムをおぼえる「地道さ」、文法を使用する上での「正確さ、慎重さ」、他国の歴史や地理、習慣などあらゆる側面についての「知識」なども、上記の「読解力」などに加えて必要になります。植民地を制圧、支配、統治する上で必須の能力ですし、現在の企業でも正に求められている力でしょう。

米国では、ラテン語教育は必須ではありません。また、米国人の大半は英語しかしゃべることができず、エリートですら外国語の知識がない人が多数います。それにもかかわらず、米国が世界の覇権国として君臨することができるのはなぜでしょうか

こちらの「覇権国家の条件」についてですが、これについては私に原因があったと言えます。私が多くを語らずに、「他民族・多文化国家と説明するだけで良いでしょう」とか「子どもっぽい反論」などと失礼なことを申し上げるだけで済ませてしまっていたからです。それもすべて、永井さんが意図的にこのような反論をされていると思っていたからです。今回、悪意によるものではないと判明しましたので、改めてご説明します。

これは所謂「合成の誤謬」に近い「早まった一般化」と呼ばれる誤謬に端を発する齟齬となります。私が読んだ「ラテン語教育説」は単にイギリスが覇権国と成り得た一要因を説明しているにすぎず、十分条件でも必要条件でもありません。永井さんほどの人が無自覚にこのような初歩的なミスをおかすとは思ってもいませんでしたので、意図的に反論のための反論をされているかのように思い、「子どもっぽい」や「口げんか」という言い方をさせて頂いたのです。悪意がなかったのにも関わらず、申し訳ありませんでした。

永井俊哉 さんが書きました:

覇権国家の条件は何かという問題は興味のあるテーマであり、私も「‪日本は米国に代わって世界を支配できるか」で、私なりの仮説を提示しました。興味があれば読んでください。

リンク先の方も興味深く読ませて頂きました。普段、覇権国家の条件について考えたりもしていませんでしたので、大変勉強になりました。私の読んだ「ラテン語、外国語教育の効用」は当時の英国にはあてはまるかもしれませんが、永井さんの論じられている「覇権国家の条件」と横並びにできるものではありませんね。日本のようなほぼ単一民族の国家には必要とされる要件だとは思いますが。

意見の相違は誤読が原因なのか

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年8月02日(金) 17:44.

こうもり さんが書きました:

「中身のあるお話がしたくて」「試験の在り方についてのお話も興味を持っているのですが」「実のある議論をしませんか」と再三お願いしている人間が、「学術論議」をしたがっているのか、「感情的な喧嘩」をしたがっているのか、普通の読解力をお持ちの方なら分かると思います。

こうもりさんが“私が今問題視しているのは永井さんの「ご意見」ではなく、議論を進める上でとられる永井さんの「姿勢」です”とか“これなんか特に、永井さんとも思えない子供っぽい反論のされ方です。口げんかで子供がよく言う「何時? 何分? 何十秒? 地球が何回まわった時?」のような。”と言って、私の意見から私の姿勢へと攻撃対象を変えようとしたことに対して、もう一度本来の学問的議論に戻りましょうと呼びかけるために「このサイトは学術的議論の場所であって喧嘩をする場所ではありません」と書いたのです。

それでも相変わらずこうもりさんが「議論をする上での姿勢」を問題としているようなので、改めてこうもりさんが何に不満を持っているのか、私なりに考えてみることにしました。たぶん、私とこうもりさんの議論がかみ合わないのは、こうもりさんが「議論」に求めているものが、私が議論に求めているものと異なるからだろうと思います。

おそらく、こうもりさんが実際に求めているのは、議論よりもむしろ同調なのでしょう。こうもりさんは「自分の考えは正しいのだから、正しく理解されるなら、相手は必ず自分に同調するはずだ。自分に同調せずに、自分を批判するものは、自分が言っていることを理解していないからに違いない」と考えるタイプの人のようです。だから、私がこうもりさんを批判すると、それはすべて誤読が原因のような言い方をするのでしょう。

しかし、私がこうもりさんを批判するのは、私がこうもりさんの日本語の表現を正しく読解していないからというよりも、私がこうもりさんとは異なる見解を持っているからと考えるべきです。そして、見解が異なるということは、嘆かわしいことではなく、むしろ学問的議論が出発する上で必要であるとすら言えます。学問的議論において重要なことは、無理やり見解を統一することではなく、その見解を支持する根拠が何であるかを明らかにすることです。どちらの方がより説得力があるかといったことは読者がそれぞれ判断すればよいことであって、議論の末に結論に達する必要はありません。

議論は、しばしば論争とか論戦と呼ばれることもありますが、しかし、それは戦争やスポーツのように、勝ち負けを決めることが目的ではありません。議論において重要なことは、議論を通じて双方が認識を深めることです。戦争やスポーツにおいては、勝った側が喜び、負けた側は悔しがります。しかし、学問的議論においては、勝負がついたとしても、勝った側が喜び、負けた側が悔しがる理由はありません。それどころか、むしろ負けた側の方が、勝った方よりも多くのものを得るのだから、真の勝者だとすら言えます。勝った側は自分の正しさを再確認しただけであるのに対して、負けた側は、自分の間違いを修正することによって、知的進歩を遂げることができるのですから。

私が同調的な意見よりも批判的な意見を歓迎するのはそういう理由によります。但し、私が歓迎しているのは、学問的批判であって、感情的な非難ではありません。学問的議論が互恵的であるのに対して、感情的な喧嘩は、戦争と同じで、お互いを傷付けるだけで、マイナスサム・ゲームですから、学問的議論が感情的な喧嘩に変質する時には、私は議論を打ち切ることにしています。

以上、議論についての私の意見を述べました。これも一つの意見ですから、他にもいろいろな意見があることでしょうし、あえて同調は求めません。ただ、私が何を考えて議論しているのかを理解する上での参考にはなろうかと思います。

こうもり さんが書きました:

私の前提条件として明記していた「我が国の英語環境が現状のままならば」を「日本の公用語や生活用語が英語にならないこと」と読み違われていますよ。この前提条件の間違いも意図的ではないのでしょうが、両者はまったく別物ですから、ここから読み間違われて論をすすめられてしまった前半の文は、もったいないですが無用の長物となってしまいました。

読み間違いと言うのなら、最初の文をもう一度引用しましょう。

こうもり さんが書きました:

私は(我が国の英語環境が現状のままならば)という括弧付きで、反対の立場をとります。

[中略]

冒頭にあげた(我が国の英語環境が現状のままならば)という括弧が、(日本の公用語や生活用語が英語となった)という風に変わった暁には、たとえそれが小中高であろうと、私は英語で行われる授業に異存はありません。

これは、つまり

我が国の英語環境が現状のままならば、反対。
日本の公用語や生活用語が英語となったならば、賛成。

ということであり、賛否の分かれ目となる「我が国の英語環境が現状のままならば」という前提条件が「日本の公用語や生活用語が英語ではないならば」という前提条件であることがわかります。

こうもり さんが書きました:

国際教養大学について「だから、御指摘のような問題は、市場原理によって解決されるべき問題ということができます。」と、再度、市場原理に帰結されてしまっています。また「話し合う意味がなくなる」ことの上塗りをされています。やはり部分に注目すると、前後の文脈や議論の流れが飛んでしまうのでしょうか。あるいはもしかすると「私たちは今『価値』についての議論をしているはずです」という言葉の意味がお分かりにならなかったのでしょうか。

私はメタレベルの価値のみを取り上げ、対象レベルの価値を取り上げませんでした。それは対象レベルの価値は議論しても仕方がないからです。

例えば、ある人はネイティブ並みの英語力を身につけて、外交官になりたいという夢を持っているとしましょう。またある人は、国語学者となって、日本語の伝統文化を研究したいと思っているとしましょう。この二人は、それぞれ異なった対象レベルの価値を追求していますが、どちらの価値がより優れているということはできません。

私は、前者のような人には、私が提案したような学習法を採用することを勧めますが、後者のような人が比較言語学的な関心から外国語を学ぶときには勧めません。

一般的に言って、自由主義者は、対象レベルの価値を他者に押し付けることはしません。自由主義者が他者に押し付ける価値は、自由選択や市場原理といったメタレベルの価値です。そしてこのメタレベルでの価値という点で同意するのであれば、社会制度改革という点ではそれ以上議論することはなくなります。

こうもりさんは、この合意は私にとっての収穫にすぎないと言いますが、私はそうは思いません。こうもりさんは、最初の投稿で、「英語で行われる授業は、単一の価値観の押しつけである」と題して、「学生の中には、英語は苦手だが理数や人文の専門には高い能力を持つという者も必ずいます。強制的に英語で画一化された授業は、そういった人材資源をスポイルしかねません」と書いていましたが、こうした批判が的外れであるということを認識できたのですから。

こうもり さんが書きました:

言うまでもないことですが、基本的にテキストに書かれていないことは相手に伝わりません。もちろん前後の文脈に書かれていれば推測は可能ですが、前後にも書かれていなければ不可能です。

はっきり書かなかったというだけで、一応書いてはいます。たしかに最初から「引用する時には、読者が誤解しないように、適切な範囲で切り取ってください」とはっきり注意するべきだったのかもしれませんが、あまりあからさまに注意すると相手の気分を害することになるかなと思って、遠回しのほのめかすような言い回しにしておきました。でもそれでは真意が伝わらないと言うので、その後は、こうもりさんが気分を害するかどうかといったことは考えずに、例えば「このサイトは学術的議論の場所であって喧嘩をする場所ではありません」というように、はっきり注意することにしました。

こうもり さんが書きました:

このやりとりを国語の受験問題のように分析すると、「それは私の主張ではなくて、」の「それは」が指示しているのは、「大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある」という命題の方になります。引用個所全文の主旨である「文法偏重論」の方ではありません。そしてその1つの主語に3つの述語が連鎖していますから、「私が全面的に肯定しているものでは」ないのも、こちらの命題の方になります。ここで私たちの齟齬が生まれたんですね。私の方は正確に読み取っていたという証明してみました。永井さんが正確にお考えを伝えたいのなら主語を「これは」にするか、「それは私の主張ではなくて、世間でよく行われる英語教育批判で、そのような英語批判を私が全面的に肯定しているわけではありません。」というように書くべきでしたね。

「大学入試で出題される英文法の問題の中には、ネイティブですら解けないような難問がある」というのは、文法偏重の結果なのだから、それで何も問題はないでしょう。国語表現上の厳密さを要求するのであれば、まずは自ら「私の方は正確に読み取っていたという証明してみました」といったおかしな日本語を書かないようにしなければいけませんね。

こうもり さんが書きました:

こちらの文を見ると、その「読み取りの根拠」であるべきだったはずのものが、「私の批評の根拠は……」に姿を変えています。

私がやっていることは、たんなる「読み取り」ではなくて、批評です。もう一度最初のやり取りを引用しましょう。

永井俊哉 さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

専門に必要な用語や表現ならば、単語集と確認試験だけで定着させられる。後は鍛えた会話能力とその専門用語を組み合わせるだけで、会議やプレゼンなどで困ることもないでしょう。

日本語の単語と英語の単語は一対一の対応関係にはないので、辞書的な知識だけでは、翻訳すらできません。また、日本語で考えてから英語に翻訳するということをやっていると、通訳を介する時のように、コミュニケーションに時間がかかります。

素直に読めば、ここで私が批判をしていることは明らかです。もちろん、批判をする時には、まず相手の言っていることを読み取らなければいけませんが、たんに読み取るだけでは批判にはなりません。

こうもり さんが書きました:

原因は4番ですね。この4番は私の考え方にはありませんし、考えもしなかったのですから当然記述にもなかった内容となります。一言で言えば4番は永井さんの拡大解釈ということになります。

批判とは、相手が認識していない欠陥を指摘し、それを相手に認識させる行為です。こうもりさんが考えていなかった欠陥だからこそ、それを指摘した私の批判は批判たりうるのです。

もちろん、私の批判に対して、こうもりさんが再批判をすることは可能です。しかし、その場合、議論の対象となるべきなのは教育方法についてであって、言葉の読み取り方であってはいけません。こうもりさんは、「中身のあるお話がしたくて」「試験の在り方についてのお話も興味を持っているのですが」「実のある議論をしませんか」と再三お願いしていると言いますが、こうもりさんが中身のある議論をしようとしているとは到底思えません。私が教育について実質的な議論をしているのに、こうもりさんはそれを言葉の読み取り方という形式的で非本質的な問題にすり替え、私たちを本来の話題から遠ざけているからです。

こうもり さんが書きました:

私が読んだ「ラテン語教育説」は単にイギリスが覇権国と成り得た一要因を説明しているにすぎず、十分条件でも必要条件でもありません。

でも、こうもりさんは「植民地を制圧、支配、統治する上で必須の能力です」と書きましたね。唯一の必須の能力でないなら、十分条件ではないと言えますが、必須の能力というのであれば、少なくとも必要条件であるということになります。

なお、私は、外国語の習得は覇権国の国民にとって必須の能力とは考えていません。そもそも外国語の習得は、文化的に劣位にある国民ほど熱心にやるものなのです。

もちろん、覇権国も、覇権国になる前は、文化的な先進国あるいは先進時代から学ぶために、外国語や古典語を熱心に学んでいたということなら言えるでしょう。イギリスに限らず、ヨーロッパの名門校や大学は古典語教育に力を入れていますが、これは、ヨーロッパが暗黒時代だった中世において、文化的に先進的であった古代から学ぶために古典語の習得に力を入れたことが、今日まで伝統として続いているからと考えることができます。

この仮説に基づけば、米国の場合、先行する覇権国家である英国と同じ言語を標準語としていたので、古典語や外国語の習得に力を入れる必要がないと解釈できます。

Re: 日本の大学は英語で授業を行うべきか

投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年8月02日(金) 22:39.

二人のやりとりを横から見ていて気になったのでひとつ質問してもいいですか?永井さんは感情をまったく文章に出しませんが、それはなぜでしょう。また、わざとですか。

私は永井さんの文章は質量ともに高く、こういった文の書き方を習得できないかと思っているのですが、気がかりな点として、永井さんの書く文章に永井さんの感情が表れた文をこれまでにひとつも見れてません。永井さんがウェブ上で公開している文書の大半を読んだと思いますが、それだけの文の中からひとつも見つからないのは驚異的なことです。

どうも永井さんは、感情というものの存在を消滅させて書いているように感じます。永井さんは今回の書き込みで、要約するとこうもりさんは感情的になっていると批判し、感情的ではなくもっと理性的になれと理性的に批判しています。

しかし、この対応の仕方は問題を抱えています。それは議論において感情的になっている人に論理を説いても説得にはまったくの逆効果だということです。議論において感情的になっている、つまり自分と相手の意見との相違に怒っている人間に論理を突きつけるのは火に油を注ぐようなものです。相手をますます怒らせます。これを永井さんが知らないはずがありません。

しかし永井さんは相手にも理性的になるように諭しています。これは良く考えるとおかしいです。行動として矛盾しています。相手をさらに怒らせるような文章を書いた上で、相手に理性的になれと言っているのです。普通、相手が怒っていることが分かったら、多少は飾りでも相手に同調するそぶりを見せるだとか、相手の意見を尊重していることを書いたりするものです。例え飾りでもそれは無いといけません。相手を理性的に説得するのであれば、まず相手が理性的な思考が出来るように誘導すべき・・・いや、こんなのは理屈を述べるでもありません。一般人、普通の人はそういう対応をするものです。無意識に、相手が怒っているなと思ったら場をなだめるためにそういう行動を取ります。

上記から察するに、永井さんは感情というものの存在をそもそも思考から排除しようという考えの人であり、しかもそれを徹底しているのかもしれません。感情など思考においては無意味であり、むしろ感情がこもった文は理性的では無いと考えている節があります。

初めにもどって、こういう文の書き方はわざとですか。それとも無意識ですか。無意識だとしたらそれを認識したほうがいいでしょう。こういった問題点を認識してそれでもわざとやっているのならそれでいいですが。

最後に、これは本筋とまったく関係なく、わたしは永井さんの味方でもこうもりさんの味方でもないので勘違いする人が居ないように。

学術的議論はどうあるべきなのか

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年8月03日(土) 10:04.

秋刀魚刺身 さんが書きました:

永井さんは感情をまったく文章に出しませんが、それはなぜでしょう。また、わざとですか。

私は普通の人間ですから、普通の人間と同じように喜怒哀楽の感情を持っています。しかし、ここは学術系サイトを目指しているので、そうした感情をできるだけ表に出さないようにしています(それでも、所々で出てしまうものですが)。感情的になってはいけないというのは、学問の世界における暗黙のルールのようなもので、私が特別ということはないと思います。

商業メディアの討論番組などでは、タレント学者が感情をむき出しにして論争をすることがありますが、あれは視聴率を上げるための演出(一種のプロレスのようなもの)ですから、真似をしてはいけません。ネットでもわざと炎上を起こして、アクセス数を増やす炎上商法というのがあるらしいけれども、そういう邪道に走ってもいけません。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

永井さんは今回の書き込みで、要約するとこうもりさんは感情的になっていると批判し、感情的ではなくもっと理性的になれと理性的に批判しています。

私がこうもりさんに対して行っている批判は学問的な批判であって、感情的になっていることを批判しているわけではありません。たしかに、2013年7月27日(土) 02:13 の投稿の終わりには、「学術的議論が感情的な喧嘩に変質する時によく見られる兆候」があったから、そうならないように警告しておいたのですが、結局その後の投稿の内容を見る限り、そうはならなかったようです。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

議論において感情的になっている、つまり自分と相手の意見との相違に怒っている人間に論理を突きつけるのは火に油を注ぐようなものです。相手をますます怒らせます。これを永井さんが知らないはずがありません。

学術的議論が感情的な喧嘩に変質した場合、どのように対処したらよいかということですが、これに関しては既に書きました。

永井俊哉 さんが書きました:

学問的議論が互恵的であるのに対して、感情的な喧嘩は、戦争と同じで、お互いを傷付けるだけで、マイナスサム・ゲームですから、学問的議論が感情的な喧嘩に変質する時には、私は議論を打ち切ることにしています。

例えば、カオスと決定論にコメントした石黒ティナさんのように、途中から学問的な議論はどうでもよくなって、自分のプライドを守るためなら何でもありになってしまった場合には、強制終了とするほかはありません。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

普通、相手が怒っていることが分かったら、多少は飾りでも相手に同調するそぶりを見せるだとか、相手の意見を尊重していることを書いたりするものです。例え飾りでもそれは無いといけません。

それが日本の慣例であることは認識していますが、そもそもなぜ相手に同調することが相手を宥めることになるのか、なぜ違った意見を持つことがいけないことなのかという根本的なところを疑ってみる必要があります。

日本では、カルト信者のように「先生のおっしゃる通りです」と言って完全に服従するか、「この野郎!こん畜生!」と悪態をついて喧嘩別れするかという不毛な二者択一しかなく、立場の異なる者が建設的な相互批判を通じて、認識を深め合うという、欧米では当たり前の対話弁証法的な議論を行う思想的土壌がありません。

そのため、日本の学界では、ボス教授に弟子たちが盲従する一方で、異なる学派どうしは、互いに無関心を装い、口もきかないという閉塞的な状況が伝統的に続いています。このようなことでは、日本はいつまでたっても学術二流国から脱却できないことでしょう。私は、微力ながら、このサイトを通じて、生産的な批判を行う議論のスタイルを日本に定着させたいと思っています。

私は、多分、標準的な日本人から見て、かなり傲慢な人間と思われていることでしょうから、本当はもっと腰を低くして人と接しなければいけないと思いつつも、同時に自分の学問的理想を捨てることはあってはならないと考えています。その点のご理解をお願いします。

初回の書き込みに戻ります。

投稿者:こうもり.投稿日時:2013年8月05日(月) 20:25.

ご返答ありがとうございます。秋刀魚刺身さんからも書き込みを頂きましたが、前回宣言した通り「姿勢」についての話は終わりにします。「誤読」についての話も未解決のままですが終了にして、本題の「学術的論議」に話を戻したいと思います。

永井俊哉 さんが書きました:

議論は、しばしば論争とか論戦と呼ばれることもありますが、しかし、それは戦争やスポーツのように、勝ち負けを決めることが目的ではありません。議論において重要なことは、議論を通じて双方が認識を深めることです。

このお言葉には私も全面的に同意します。もう前口上やご挨拶はやめにして、早速本題に入りましょう。

私は(我が国の英語環境が現状のままならば)という括弧付きで、反対の立場をとります。

この括弧書きをした前提条件は、現実に今いる学生たちに配慮をしてのものですから、(英語が日本の公用語や生活用語にならないかぎりは)と同義ではありません。より具体的言えば、(現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のままならば)という意味になります。教育が自由化されたり、TOEFLが導入されることも想定していません。しかし、だからといって私が教育の自由化に反対しているというわけではありませんし、それによって解決される問題も多いことは理解しています。あくまでもあらゆる環境が現時点のままであるとした上で、初回の書き込み時同様にその理由を以下に挙げたいと思います。

1.授業効率の低下。

現在の道案内の英会話すらできない大学生たちに、京都大学のように教養科目から英語による授業を導入すれば、必然的にその授業内容の質を落とすか、量を減らすかしなければならなくなります。永井さんからは「英語の授業がなくなる分、時間を増やすことができる。」という旨のご回答を頂きましたが、それでは追いつかないでしょう。東大、京大のような偏差値70を数える学生たちであっても、語彙力、ヒアリング力は向こうの高校生以下です。その高校生以下の生徒に質の高い大学の授業内容を英語で提供することは、時期早々だと考えます。それ以前に、大学までの英語教育や受験制度の改革が必要でしょう。

2.英会話能力の向上のためならば、別枠でやれば良い。

英会話や英語によるディベートの授業を増強したり、TOEFLを目指した強化カリキュラムなどはどんどん取り入れるべきだと思います。永井さんの「道具としての英語力を強化するべき」というご意見に反対しているのではありません。英語と教養・専門科目を抱き合わせにすることにだけ反対なのです。もちろん私は英和、和英の翻訳を主体としたコミュニケーション能力ではなく、英語で思考し、英語で話す能力の育成の方を前提としています。永井さんが何度もしてくださっている反論を、今一度3点に分けて整理してみますと、

  1. 日本語の単語と英語の単語は一対一の対応関係にはない
  2. 辞書的な知識だけでは、翻訳すらできない
  3. 日本語で考えてから英語に翻訳すると、通訳を介する時のようにコミュニケーションに時間がかかる

──となるかと思います。これに対する私の考え方をこれまであまり述べてきませんでしたので、あらためて説明いたします。

まず A に関して。確かに一体一の対応関係にない単語も存在します。しかしそれらは日常生活用語の方に多く、学術的・専門的用語になると一対一になるものが多いと思います。元来学問の多くが西洋伝来のものですから、その概念から含めて、日本語に訳出されているものがほとんどですし、外来語としてカタカナで表記されたままの語も多数あります。少しの例外を除いてはこの問題で困る場面はそれほどないかと想定されます。

B に関しては、あるひとつの単語に対する知識がその意味・定義だけだとすれば、永井さんの指摘される通りでしょう。しかし実際には、その単語に関する知識や理解は、日本語の講義で十分に深められているのですから、問題はないかと思います。辞書であっても、単語集・用語集であっても、単なる意味、定義が記載されているだけでなく、例文・コーパスなども充実しているものです。昔Z会出版から出ていた「リンガメタリカ」という単語集はその意味では理想的でした。しかも私は何も、単語集・用語集だけにこだわっている訳でもありません。日本語で講義を受けた専門知識を、学会などの場での英語運用能力に結びつける方法は、他にもあるでしょう。永井さんの実践されている勉強法もその一つでしょうし、永井さんは「グローバル志向のある未来の世代にはもっと完全な教育を受けてもらい」とのご意見ですが、それで専門科目の効率が落ちてしまうよりは、分けたままにしておく方が良いかと思うだけです。元から日本の学生の英語力が英米並みに高ければ、永井さんのご提案される学習法の方が理想的だと思います。

C については、前回永井さんの区分にあった「4番」の齟齬にあたるものだと思いますが、一番お伝えするのが難しい問題になるかと思います。私自身の経験を言うと、(1年間だけですが)米国への留学時に、よく言われる「英語で夢を見る」ようにもなりましたし、「英語で考え、英語で話す」姿勢も自然と身に付きました。その後、大人になってから日本語で仕入れた知見について話す時に、その該当する単語を自分の英会話に組み込むことに困難は特に感じておりません。が、この感覚はいたって主観的な経験に基づくものですから、永井さんにご理解いただくのは難しいかもしれません。逆の幼稚な思考実験で説明を試みますと、

ある日本人が、当然ふだんから日本語で考え、日本語で話しています。その彼が新しい専門知識(例えば「市場原理」について)を英語のテキストや英語の講義を通して得たとします。彼は、その新しい概念を伝える新しい単語(例えば「小さな政府」や「民営化」)を英和辞書や用語集と首っ引きで理解しようとするでしょう。その結果、彼が次の日から友人との日本語による会話中で「市場原理」や「小さな政府」や「民営化」という用語を使う事は難しくないはずです。依然として日本語で考え、日本語で話しているはずです。英語の講義で習ったからといって、一度英語で考えたものを頭の中で和訳して話すなんてことをしないでしょう。

この逆の状態が私の主張していた『「会話力を高め」それを「英語の専門用語」と組み合わせる』になるのですが、ご想像いただけるでしょうか。母国語の日本語を前提にしている時点で、この喩えは妥当ではないかもしれませんが。

3.英語と教養・専門科目を組み合わせた講義は、英語という単一の価値観の押しつけである。

永井さんはこの問題を市場原理によって解決されようとしていますが、その解決法は私も最初から理解しておりますし、その点では教育の自由化を歓迎してもいます。しかし私はあくまでも現実的な問題について論じたいので、冒頭から(我が国の英語環境が現状のままならば)という条件づけをしたのです。

既に述べたことですが、今実際に存在している学生のほとんどが、大学を自由に選べる立場にありません。1校の合格を勝ち取るのがやっとであり、地理、経済、自分の進みたい分野、偏差値などの制約から、受験可能な大学も限られます。不本意ながらも併願校へ進学するしかない生徒も多数です。そんな自由選択の余地がない学生たちの中に、前回永井さんが例に出された「外交官になりたい生徒」や「国文学者になりたい生徒」や、私の「英語は苦手だが理数や人文の専門には高い能力を持つ生徒」が含まれており、私はその生徒たちを懸念しているのです。

この現状で、英語で行われる講義が導入され、その割合も大半を占めるようになれば、生徒からすればそれは「単一の価値観の押しつけ」になってしまうことでしょう。永井さんは「‪言語教育と文学教育は分離するべきである」の方では、現在の国語教育を抱き合わせだと批判されていますが、こちらの英語で行われる授業の方は「抱き合わせ」に当てはまらないのでしょうか。

以上、初回の書き込み時の3点について、再度補正を加えながら論じてみました。こうして見ると、初回時から私の主張の根本はほとんど変化がありませんし、大した進展もなかったようです。ですが、すべての意見が永井さんと対立している訳でもありません。我々の違いは、永井さんがまず教育の自由化ありきで論じられているのに対して、私が「学生たちの現状にもっと着目しませんか」と提案していることだけにあるのかもしれません。それでも私は自分の意見への「同調」を求めたりはしませんので、私の杞憂を一刀両断するような鮮やかなご回答を、どなたからでもお待ちしております。

また、初回の書き込みにありました

4.従来(現在)の大学入試ではかられているのは「翻訳力」だけではない。
5.外国語教育の効用は、その実用性にあるのではない。

の方も、永井さんの考え方と大きく対立しているようですし、お付き合いいただけるのならばさらに論じてみたいと思っております。が、ここまでだけでも議論が錯綜しすぎていることと、先ほどの「‪言語教育と文学教育は分離するべきである‬‬」というトピックの方が、その内容から論じるにふさわしい場であるかもしれないと思い始めてもおります。今回は保留とさせておいてください。

言語教育の最高段階は文学教育なのか

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年8月06日(火) 18:19.

こうもり さんが書きました:

この括弧書きをした前提条件は、現実に今いる学生たちに配慮をしてのものですから、(英語が日本の公用語や生活用語にならないかぎりは)と同義ではありません。より具体的言えば、(現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のままならば)という意味になります。

前提条件が「英語が日本の公用語や生活用語にならないかぎりは」なら理解できるのですが、「現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のままならば」というのは、文字通り解釈するなら、前提条件としてはナンセンスです。

私は、現在の教育制度や受験制度を改革し、学生たちの英語力を向上させる提案をしているのですから、「現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のままならば」というのを前提条件にすると、私がどのような改革案を語っても、それはすべて必然的に前提条件と矛盾することになってしまいます。

こうもりさんは「学生たちの現状にもっと着目しませんか」と提案していますが、もしも現状が現状のままだと仮定すると、現状が現状のままであるというのは、トートロジーであり、あたりまえのことです。

こうもり さんが書きました:

現在の道案内の英会話すらできない大学生たちに、京都大学のように教養科目から英語による授業を導入すれば、必然的にその授業内容の質を落とすか、量を減らすかしなければならなくなります。永井さんからは「英語の授業がなくなる分、時間を増やすことができる。」という旨のご回答を頂きましたが、それでは追いつかないでしょう。東大、京大のような偏差値70を数える学生たちであっても、語彙力、ヒアリング力は向こうの高校生以下です。その高校生以下の生徒に質の高い大学の授業内容を英語で提供することは、時期早々だと考えます。それ以前に、大学までの英語教育や受験制度の改革が必要でしょう。

これは「現在の中学や高校の教育制度や大学受験制度や中学・高校の生徒たちの英語力が現状のままならば」という前提条件での話で、これに対する回答はもう既に行っているので、その繰り返しは避けることにします。

ミニマムな改革を前提としても、日本の名門進学校は、一流大学進学のための予備校のようになっているので、上流(一流大学の入試)が変われば、下流(高校以下の教育)も、それに応じて変わると予測できます。高卒で就職する人や、所謂Fランクの大学(授業の水準が中学か高校程度の大学)の卒業生に関しては、企業が最初から高度な英語力を期待していないので、あまり変化はないでしょう。

こうもり さんが書きました:

確かに一体一の対応関係にない単語も存在します。しかしそれらは日常生活用語の方に多く、学術的・専門的用語になると一対一になるものが多いと思います。

学術的・専門的用語は、背景となる理論と不可分の関係にあり、背景となる理論によってその意味が異なってきます。つまり、たんに日本語と英語で意味が違うだけでなく、同じ英単語でも、背景となる理論によって意味が異なってきます。理工系では、基本的な用語に関してコンセンサスが出来上がっていますが、人文・社会科学系では、それすらなく、基本的な用語ですら、学派によって意味が違うのが普通です。人文・社会科学系の学問で、原書購読によって、専門用語をその背景となる理論ごと理解する授業が行われるのはそのためです。

こうもり さんが書きました:

私自身の経験を言うと、(1年間だけですが)米国への留学時に、よく言われる「英語で夢を見る」ようにもなりましたし、「英語で考え、英語で話す」姿勢も自然と身に付きました。その後、大人になってから日本語で仕入れた知見について話す時に、その該当する単語を自分の英会話に組み込むことに困難は特に感じておりません。

つまり、こうもりさんは、私が提案している学習方法を実践したということですね。私の提案は、自宅から通える海外留学というオプションを日本の消費者に与えようというものですから。留学経験のある人は、その成果にあまりありがたみを感じないのかもしれませんが、留学経験のない人は、その水準に到達するのに苦労するものです。

こうもり さんが書きました:

英語の講義で習ったからといって、一度英語で考えたものを頭の中で和訳して話すなんてことをしないでしょう。

それは、ネイティブ並みの英語力があるだけでなく、ネイティブ並みの(というかネイティブとしての)日本語力があるからです。ネイティブ並みの日本語力がない英語のネイティブなら、一度英語で考えたものを頭の中で和訳して話すということをするでしょう。そういう人は、私たちから見ておかしな日本語をしゃべるものです。

日本人が書いた英語の論文の中には、外国人が読んでもよくわからないけれども、翻訳力がある日本人が読むと理解できるというものが少なくありません。日本語で考え、日本語で書いた論文を単語レベルあるいは熟語レベルで英語に翻訳すると、そうなることが多いのです。翻訳の弊害は、たんに時間がかかることに限定されないのです。

一般的な英会話力を磨く訓練を受け、専門教育を日本語で受け、専門用語の英訳を単語集で覚えただけの人が、英語で論文を書いたり、学会で口頭発表をしても、日本の学問状況に詳しくないネイティブにはよくわからないような内容になっている可能性が高い。そうならないようにするには、少なくとも、その専門分野の英語論文を英語で読むという訓練が必要です。もちろん海外留学やそれに等しい教育を国内で受けることができるなら、もっと良いことは言うまでもありません。

こうもり さんが書きました:

今実際に存在している学生のほとんどが、大学を自由に選べる立場にありません。

現在、全国の四年制の私立大学の半数近くが定員割れで、短大にいたっては七割が定員割れです。現状において、既に選ぶ権利は大学から受験生に移りつつあります。

こうもり さんが書きました:

永井さんは「言語教育と文学教育は分離するべきである」の方では、現在の国語教育を抱き合わせだと批判されていますが、こちらの英語で行われる授業の方は「抱き合わせ」に当てはまらないのでしょうか。

「言語教育と文学教育は分離するべきである」で“英文学の研究者が大学における英語教育を担うことによる弊害は「日本の大学は英語で授業を行うべきか」で既に行っているので、ここで取り上げることはやめ、代わりに国語の方を取り上げよう”と書いた通りのことで、取り扱っている教科が違うだけで、主張していることは同じです。

もちろん、国語の授業では、日本語で日本語が教えられているのに対して、英語の授業では、日本語で英語が教えられているという違いが両者の間にあるものの、言語教育を文学教育の中にだけ閉じ込めるべきではないという点では、両トピックでの私の主張は同じです。

日本の大学で英語教育を担当している日本人教員のほとんどは、英文科の出身者です(非常勤講師はそうでもないようですが、専任にはその傾向があります)。そして、学生の所属が工学部であっても、経済学部であっても、英文科出身の英語教師が文学作品を教材にして英語の授業を行うのは、英語の授業は専門とは切り離して独自に行うべきであるという考えに基づいています。

日本の大学では、日本語学と日本文学、英語学と英文学が同じ研究室、ないしは隣接する研究室で行われていることからもわかるように、純粋な言語研究は文学研究として行われるというのが慣例です。高校の国語の授業でも、大学の英語の授業でも、文学作品が優先的に取り上げられるのは、純粋な言語教育は文学を教材とするべきだという考えに基づいています。

なお、小学校や中学校での国語、中学校や高校での英語など、学習者の言語能力が未熟で、文学作品を鑑賞するレベルに達していない時には、もっと日常的なレベルのテクストが教材として使用されますが、高校の国語や大学の英語では、文学作品が好んで取り上げられます。その背景には、純粋な言語教育の最高段階は文学教育であるべきだという考えがあるとみることができます。

私は、初学者が純粋な日本語教育や英語教育を受けることの意義を否定するものではありません。私が言っていることは、言語教育の最高段階は、文学教育である必要はなく、むしろその抱き合わせを解き、専門教育のツールとして使いこなすことで行われるべきだということです。

だから、高校での日本語教育も、生徒の学力水準が高いなら、例えば、政経の授業にディベート形式を取り入れ、政経の勉強をするだけでなく、討論能力も磨くとか、日本史の史料を読み解きながら古文の勉強もするとか、漢文の歴史書を読みながら、世界史(東洋史)の勉強もするとか、様々な組み合わせで行われてもよいと思います。これは「総合学習はなぜ失敗したのか」でも主張したことなので、興味があれば、リンク先を読んでください。なお、これは学力が高い高校生の場合の話で、漢字もろくに書けない、敬語の使い方も知らないといった学力レベルの高校生は、そういうことをする前に、もっと専門性が低いテクストで、純粋な日本語教育を受けるべきでしょう。

こうもり さんが書きました:

ここまでだけでも議論が錯綜しすぎていることと、先ほどの「言語教育と文学教育は分離するべきである」というトピックの方が、その内容から論じるにふさわしい場であるかもしれないと思い始めてもおります。

ここは国語教育のあり方を論じる場所ではないので、私の国語教育批判に関して議論を続けるのであれば、「言語教育と文学教育は分離するべきである」の方に書き込んでください。

前提条件についてのみ確認させてください

投稿者:こうもり.投稿日時:2013年8月07日(水) 21:54.

前回、あらためて我々の議論をリセットするかのように、初回の私の書き込みまで立ち戻りましたが、するとその前提条件から議論が成り立っていなかったことが浮き彫りになったようです。そもそもこの点においてのコンセンサスが取れなければ、話し合いのしようもありませんので、今一度確認させてください。

永井俊哉さん さんが書きました:

こうもり さんが書きました:

私は(我が国の英語環境が現状のままならば)という括弧付きで、反対の立場をとります。
この括弧書きをした前提条件は、現実に今いる学生たちに配慮をしてのものですから、(英語が日本の公用語や生活用語にならないかぎりは)と同義ではありません。より具体的言えば、(現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のままならば)という意味になります。教育が自由化されたり、TOEFLが導入されることも想定していません。しかし、だからといって私が教育の自由化に反対しているというわけではありませんし、それによって解決される問題も多いことは理解しています。あくまでもあらゆる環境が現時点のままであるとした上で、初回の書き込み時同様にその理由を以下に挙げたいと思います。

前提条件が「英語が日本の公用語や生活用語にならないかぎりは」なら理解できるのですが、「現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のままならば」というのは、文字通り解釈するなら、前提条件としてはナンセンスです。

私は、現在の教育制度や受験制度を改革し、学生たちの英語力を向上させる提案をしているのですから、「現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のままならば」というのを前提条件にすると、私がどのような改革案を語っても、それはすべて必然的に前提条件と矛盾することになってしまいます。

こうもりさんは「学生たちの現状にもっと着目しませんか」と提案していますが、もしも現状が現状のままだと仮定すると、現状が現状のままであるというのは、トートロジーであり、あたりまえのことです。

ここでの永井さんの論点が理解出来ません。特に「現状」を前提条件とした時に、『私がどのような改革案を語っても、それはすべて必然的に前提条件と矛盾することにな』るという考え方が特異に思えます。「現状」はあくまでも前提条件であり、それに対する「改革案」までもがその前提条件に包括されるわけではありません。永井さんの文は、あらゆる改革案、改善案をはねのけ、英語力の向上を拒絶する前提条件を私が設定しているかのように読めます。

現実問題として、ある改革案に異議を唱える際に「現状に着目しましょう」という提案をすることは、ナンセンスであったり、トートロジーに陥ったりするものでしょうか。財源問題もクリアしていない政治家のマニフェストに、現実を見ましょうと提案することは、極めて普通の有効な批判となるのではありませんか。

今回の場合でも、例えば私は「現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のまま」であっても、大学入試へのTOEICやTOEFLの導入という改革案ならば、賛同致します。「どのような改革案を語っても、それはすべて必然的に前提条件と矛盾する」というような主張はしておりませんし、そのような前提条件を設定しているわけでもありませんよ。「英語で授業を行う」ことだけに反対しているのです。

しかし永井さんが想定されている、入試制度にTOEICの導入されて、TOEICが一般化され、それに伴い高校や予備校の授業が改善され、学生たちの英語力が上がり、教育が自由化され、教育機能と評価機能の分離が達成され、現在のような大学の入学定員もなくなるようになった上で、「英語で授業を行う」という改革案は非現実的すぎます。非現実的な理想を前提とした改革案の方がよほどナンセンスであり、英語力が向上した学生を前提に英語力向上案を語るほうがよほどトートロジカルだと思います。大学の高度な講義を英語で受ける十分な英語力のある学生たちに、英語で授業を行った方が効率が良いのはあたりまえですからね。

先ほど書いた通り、TOEICやT0EFLの導入のような暫定的な改革ならば、実現可能だし、反対もいたしません。しかし永井さんがトピック本文で肯定的に取り上げてられている国際教養大学や京都大学の例は、現状・現実を無視した改革案のように私には思え、このような前提条件を設定したのです。

時間のかかる改革は無意味なのか

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年8月08日(木) 08:47.

こうもり さんが書きました:

例えば私は「現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のまま」であっても、大学入試へのTOEICやTOEFLの導入という改革案ならば、賛同致します。「どのような改革案を語っても、それはすべて必然的に前提条件と矛盾する」というような主張はしておりませんし、そのような前提条件を設定しているわけでもありませんよ。

大学入試に TOEIC や TOEFL を導入するなら、それは受験制度を現状とは異なるものにすることなのだから、明らかに、受験制度が「現状のまま」という前提条件に反しています。もちろん、これは「文字通り解釈するなら」の話であって、想像力を働かせるなら、別の解釈の仕方も見つけることができますが、そういうことをすると、またこうもりさんは誤読とかなんとか言うだろうと思って、それ以上のことは書きませんでした。

「現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のままならば」という前提条件が、改革前に限定され、改革後は現状をどのように変えてもよいということであるなら、その前提条件は何も言っていないのに等しく、私はどんな抜本的な改革を提案してもよいということになります。だから、多分そういうことではないのでしょう。

あるいは、こうもりさんはたんに私の抜本的な改革案が非現実的であると言っているだけなのかもしれません。たしかにそれは、抜本的であるがゆえに、瞬時にできることではありませんが、長期的には実現可能だし、改革は時間がかかるから無意味だとは言えないでしょう。

では、表現を変えてみます。

投稿者:こうもり.投稿日時:2013年8月09日(金) 23:48.

幾度にもわたるご返答ありがとうございます。今回のご回答を読ませて頂いても、いまだ「前提条件」の問題がクリアされていないようなので、永井さんの読み方を自分なりに想像して、2つの仮説を立ててみました。

Nagai Toshiya さんが書きました:

大学入試に TOEIC や TOEFL を導入するなら、それは受験制度を現状とは異なるものにすることなのだから、明らかに、受験制度が「現状のまま」という前提条件に反しています。もちろん、これは「文字通り解釈するなら」の話であって、想像力を働かせるなら、別の解釈の仕方も見つけることができますが、そういうことをすると、またこうもりさんは誤読とかなんとか言うだろうと思って、それ以上のことは書きませんでした。

前回、私は『「現状」はあくまでも前提条件であり、それに対する「改革案」までもがその前提条件に包括されるわけではありません』とお断りしましたが、今回の永井さんは変わらずその通りの読み方をされているようです。このような考え方をされてしまう理由を私なりに考えてみましたが、もしかすると永井さんは哲学者ですから「前提」という言葉を、アリストテレスの「大前提」「小前提」という三段論法における「大前提」としてお読みになっているのではありませんか。もしそうならば、「大前提」の中に改革案という命題も含まれることになりますから、永井さんのおっしゃる通り私の言っている事はナンセンスだということになりますね。

ですが、私が設定している前提条件は「大前提」でも「小前提」でもなく、また三段論法を展開している訳でもありません。『文字通り解釈するなら』というお言葉が何を意味しているのか良くわかりませんが、少なくとも私は「前提条件」などという(あえて)曖昧な造語を、そのような論理学的な狭義で使っているのではありませんし、そう使いたいのなら最初から「大前提」と表記したことでしょう。私はあたりまえのことですが、もっと一般的な、日常的な用法、辞書の定義や言語学で分析の対象となるような用法で使っています(多くの人もそうだと思いますが)。

Nagai Toshiya さんが書きました:

「現在の教育制度や受験制度や学生たちの英語力が現状のままならば」という前提条件が、改革前に限定され、改革後は現状をどのように変えてもよいということであるなら、その前提条件は何も言っていないのに等しく、私はどんな抜本的な改革を提案してもよいということになります。だから、多分そういうことではないのでしょう。

しかしこちらの説明を読むと、あるいはひょっとして「改革前」「改革後」というような時間的な捉え方の食い違いがあったのかもしれないとも推測しました。つまり「現在の制度が現状のままならば」の「現在の」を「将来も、永遠にわたって現状のままならば」というように永井さんはお読みになっていたのかと。すると確かに、私の前提条件はどんな改革案をも受けつけないことになりますからね。ですから、そうです。永井さんが推測してくださった通り「前提条件が、改革前に限定され、改革後は現状をどのように変えてもよい」という意味で私は使っていたのです。あくまでも「前提条件」ですから、その「現状」は改革後に変化して当然です。

ただ厳密には「どのように変えてもよい」ということではありません。「どのように変えるか」が大切なのです。「その前提条件が何も言っていないのに等し」いからではなく、「どのように変えるか」という命題こそが、話し合うに値する論点となるからです。私は、「英語で授業を行う」という改革案の是非を話し合いたいのですから。

Nagai Toshiya さんが書きました:

あるいは、こうもりさんはたんに私の抜本的な改革案が非現実的であると言っているだけなのかもしれません。たしかにそれは、抜本的であるがゆえに、瞬時にできることではありませんが、長期的には実現可能だし、改革は時間がかかるから無意味だとは言えないでしょう。

と、ここまで2通りの読み方を挙げて、永井さんの考え方を考察してみましたが、どちらも間違っているような気もします。永井さんも私の考え方を斟酌してくださり「こうもりさんはたんに私の抜本的な改革案が非現実的であると言っているだけなのかもしれません」とおっしゃってくださっていますが、残念ながらこれも微妙に違います。しかしここまでの考察で、私が「前提条件」とか「現状のまま」という言葉を使っていること自体が齟齬の原因になっているように思えて来ましたので、あらためて別の表現で同じ事の説明を試みたいと思います。言葉にこだわっているわけではなく、私の伝えたいことの真意がご理解いただければ良いのですから。

・私は今の学生たちに、国際教養大や京大のような「英語で行う授業」を実施することだけに反対なのです。
・しかし将来、入試制度の改革や教育の自由化、市場原理化が達成された上ならば、問題は生じないと思います。
・そして入試制度の改革や教育の自由化のような「抜本的な改革」に反対しているわけではありません。
・そのような「抜本的な改革」が非現実的だとも考えていません。現実に即していない訳ではなく、実現も可能でしょう。
・同様に「英語で行う授業」の場合も実現は可能ですが、こちらは学生たちの現実に即してはいなく、弊害の方が大きいと考えています。
(その弊害を初回から1〜3と列挙しました)

いかがでしょうか。この様に箇条書きにした方が、私の立場をご理解頂けるのではないかと思ったのですが、未だ不安は残ります。前々回も書きましたが、私の考え方は真っ向から永井さんに反対しているのではありません。価値観を共通にしている点の方が多いぐらいだと思います。例えば他にも「英語で学ぶ」メリットについても私は同意しております。永井さんが私への反論として書かれていることのうち結構な割合が、私が既に理解していることか、私が同意していることにあたります。永井さんは、わたしが「ストローマン」だとか「合成の誤謬(早まった一般化)」だと指摘した箇所についても「誤読ではない」と主張されていますので、私の文章力ではこちらのサイトへの投稿は不可能なのかもしれませんね。

教養教育はどうあるべきか

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年8月10日(土) 21:13.

つまり二番目の解釈が一番近いということですね。でも、それだと前提条件なるものがほとんど何も意味しません。そもそも、過去と過去の結果である現在は変えることができません。もしも「あの時こうすればよかった」といった議論を私がしているのなら、そういう前提条件を出して話を未来に限定することには意味がありますが、私はそういう発言はしておりません。

解釈に関する話はこれで終わりにして、実質的な教育の話に移りましょう。京大がやろうとしていることは、教養科目の半分を英語で教えるということであり、教養科目の半分と専門科目の全部は日本語で行うという中途半端なものですから、利益も弊害もともにあまり大きくないだろうと予想されます。ともあれ、日本の大学で行われている教養教育は、これ以上悪化することはありえないと言っても過言ではないぐらいに教育的に無価値なので、いろいろ改革を試みることは良いことだと思います。京大は今後、英語を母語とする外国人教員を海外の大学などから招くということなので、京大生は、これまで以上に日本人教員とは異なる価値観、思想、授業スタイルと接することになるでしょう。そして、それ自体が一つの教養教育と言えなくはありません。誰が言ったのか忘れましたが、教養とは自分の観点とは異なる観点から物事を多元的に見る能力を養うことだという人もいます。

それなら、日本語が堪能な外国人教員を招聘すればよいと思うかもしれませんが、そういう外国人はたいがい日本と同化しているので、日本人教員とあまり変わらないでしょう。やはり外国の文化は、その言語と切り離せない関係にあるので、その国の言語で学ぶのが最も本格的なやり方です。従来の外国語教育が、外国語という窓から異世界を眺めるだけの教育だったのに対して、外国語による教育は異世界に住む教育と言ったところでしょうか。もっとも学部段階では、英語以外の外国語でこれを実践することは困難ですが。

なお、TOEFL を大学入試に活用することに関しては、以下のような問題も指摘されています。

TOEFLを大学入試で義務づけるとどうなるか? (media) 統計学+ε: 米国留学・研究生活 さんが書きました:

TOEFLのライティングは、私が受験した当時、出題されうる問題は200題程度に限定されており、原理的には全ての問題を「予習」しておけば解答できるようになっていた。実際には200のエッセイを準備する時間はないので、典型的なパターンを練習をするだけで終えるのが普通だが、英語力が足りない子が何とか高得点を取ろうと思えば、200のエッセイを暗記させる塾が現れることは想像に難くない。しかし、それでは英語力向上の点では本末転倒である。

その他のセクションにしても、基本的には同じ問題が繰り返し使われる。TOEFL受験者は守秘義務にサインする必要があるが、他の受験者に問題を漏らしたとしても、その捕捉は容易でない。また受験者個人だけとっても、何度も受験すれば、同じ問題が出題されることもあるのである。

留学熱が高い中国や韓国では試験問題の情報交換が頻繁に行われ、ETS社は、これらの国で受けたコンピューターベースの試験スコアを無効にしたことがある。その結果、裕福な韓国人などは、わざわざ大阪までTOEFLを受けにやって来ていたのである。韓国人の友人によれば、大阪の受験会場の近くのスタバは、韓国人受験生の溜まり場になっていたそうだ。

この他、要求されるボキャブラリの多さなどから日本の高校生あるいは大学受験生には、TOEFL は難しすぎるという指摘もあるようです。だから、自民党が検討しているような TOEFL そのものの採用ではなくて、大学入試の英語の TOEFL 化、すなわち「日本人に英語の入試問題を作成させることを止め、英語のネイティブに、問題にも解答にも日本語が全く含まれていない純粋な英語の問題を作らせる」ことの方が望ましいと思います。

長々とお付き合いありがとうございました。

投稿者:こうもり.投稿日時:2013年8月11日(日) 18:35.

Nagai Toshiya さんが書きました:

つまり二番目の解釈が一番近いということですね。でも、それだと前提条件なるものがほとんど何も意味しません。そもそも、過去と過去の結果である現在は変えることができません。もしも「あの時こうすればよかった」といった議論を私がしているのなら、そういう前提条件を出して話を未来に限定することには意味がありますが、私はそういう発言はしておりません。

確かにそういう発言はされていませんね。私の方も「あの時こうすればよかった」というように過去とその結果である現在を変えることを制限する目的で、あの「前提条件なるもの」を設定したのではありません。未来に限定するために設定したのではないのです。逆です。未来を前提にしないで、現在の状況を前提とするために条件付けをしたのです。永井さんがかつて書かれた「‪教育自由化後の選択肢としての英語漬け教育‬」というタイトルのように、まだ実現されていない未来の状況を元に語るよりも、現在の状況を見据えて「英語で行う授業」の是非を問いたかったものですから。この機能を果たしている以上、「ほとんど何も意味し」ない前提条件だということにはならないのではありませんか。

本当に何度もお返事頂いて、申し訳ないほどに有り難く感じております。「解釈に関する話はこれで終わりにして、実質的な教育の話に移りましょう。」の先の文も興味深く読ませていただきました。同意できる箇所も多かったです。しかし、上記のように議論の前からすれ違いを繰り返し、「英語で授業を行う」ことの是非を問う1〜3の議題に入れないようでは、この先どれほど両者の時間と労力を使う事になるのか計り知れません。ですので、このトピックへの書き込みは、申し訳ありませんが、ここらで切り上げようかと考えています。

既述した通り、私は同調を求めている訳でもなく、また素晴らしい反論が寄せられることにも期待しておりました。が、書き込みを行い、私の考えている問題点を指摘し、それを永井さんをはじめその他の方に読んで頂くだけでも目的の半分は達成されているとも思っています。違う分野でのトピックを立てて、意見をお伺いしたいこともございますので、近日中に次へ移ろうかと考えています。もちろん永井さんがお望みであれば、こちらの議論も続ける意志はありますので、お申し付けください。

議論終了

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年8月11日(日) 22:50.

そうですね。同じような話の繰り返しが多くなってきたので、そろそろ終わりにするべきだと私も思います。

俺は英語が嫌いだ

投稿者:ペンペン.投稿日時:2013年8月20日(火) 22:07.

知能指数の低い者には、外国語の習得は不可能だ。だから、初等中等教育で、英語を必修にするな。

言語の習得に特別な才能は不要です

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年8月22日(木) 09:24.

ペンペン さんが書きました:

知能指数の低い者には、外国語の習得は不可能だ。だから、初等中等教育で、英語を必修にするな。

言語の習得に特別な才能は不要です。早い段階での言語習得はとりわけそうです。早い段階に複数の言語を教えると混乱すると思うかもしれませんが、日本人は、目上の人と話す時に使う敬語と友達と話す時に使う通常の日本語という二つの言語をマスターするバイリンガルとして育っているという事実に注目してください。方言と標準語の両方を使うことができる人もいます。早期から訓練を受けることで、話し相手に応じて言語を使い分けるということは、特別な才能がなければ実現不可能な離れ業ではないということがわかるかと思います。

国際化拠点校

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年3月23日(日) 17:05.

文部科学省は、東北大学、筑波大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学、慶應義塾大学、上智大学、明治大学、早稲田大学、同志社大学、立命館大学の十三の大学を国際化拠点校に選び、英語だけで学位取得できるコースを開設させている。以下の報道にあるように、大阪大学でも、英語だけで学位を取得できるコースができている。

阪大も京大も講義は「日本語から英語へ」の時代に突入…“英語化”既に死活問題、躊躇の時代は終わった (date) 2014.3.22 (media) 産経新聞 さんが書きました:

大阪大学の吹田キャンパス。人間科学部の山本ベバリーアン教授は、英語でジェンダー論の講義を行う。

[中略]

これまでの制度では、日本人並みの日本語能力を持って日本人と同様に学ぶか、1年程度の交換留学がせいぜいだった。

「日本人と別のプログラムが用意され寮も違うような制度は、江戸時代に長崎に設けられた出島のよう」

英国出身で日本人と結婚し、長く日本で暮らす山本教授はそう言う。背景にあるのは言葉の壁だが、「いくら留学生が来ても国際的になれない」と厳しい。

「帰化か客人か」しかなかった状況に加わった別の選択が、英語だけで学位を取得できるコースだ。人間科学部のプログラムは一般の日本人学生にも講義が開放されており、受講する日本人も増えてきている。

20年以上も前のことだが、私の在学中にも、語学の授業に限定すれば、ネイティブによる授業は存在したし、無意味な授業が多い教養課程で最も受けたかいのある授業だったという記憶がある。外国人留学生のためというよりも、日本人学生のためにも、国際化拠点校をもっと増やすべきだろう。

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