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『カントの超越論的哲学』を出版しました

2014年12月4日

私の著作『カントの超越論的哲学』の書誌情報、販売場所、概要、冒頭抜粋、改訂履歴をまとめます。誤字脱字の指摘、内容に関する質問などありましたら、このページのコメント・フォームに投稿してください。

1. 表紙画像

画像
横幅360ピクセルに圧縮した『カントの超越論的哲学』表紙画像(クリックすると拡大できます)

2. 書誌情報

  • Title :: カントの超越論的哲学
    • Furigana :: カントノチョウエツロンテキテツガク
    • Romaji :: Kant no Choetsuronteki Tetsugaku
  • Author :: 永井俊哉
    • Furigana :: ナガイトシヤ
    • Romaji :: Nagai, Toshiya
  • Author bio :: 著作家。インターネットを主な舞台に、新たな知の統合を目指す在野の研究者。専門はシステム論。1965年8月、京都生まれ。1988年3月、大阪大学文学部哲学科卒業。1990年3月、東京大学大学院倫理学専攻修士課程修了。1994年3月、一橋大学大学院社会学専攻博士後期課程単位修得満期退学。1997年9月、初めてウェブサイトを開設。1999年1月、日本マルチメディア大賞受賞。電子書籍以外に、紙の本として『縦横無尽の知的冒険』(2003年7月, プレスプラン)、『ファリック・マザー幻想』(2008年12月, リーダーズノート)を出版。
  • Language :: jpn
  • Page :: 333ページ
  • Publisher :: Nagai, Toshiya
  • ISBN :: 9781311722218 (Smashwords, Inc.)
  • BISAC :: Book Industry Standards and Communications
    • Philosophy / Criticism
    • Philosophy / Epistemology
    • Philosophy / Ethics & Moral Philosophy
  • Tags :: キーワード
    • Japanese :: 認識論, 時間論, 人間原理, 目的論, 倫理学, 形而上学, コスモロジー
    • English :: philosophy, metaphysics, ethics, cosmology, epistemology, anthropic principle, teleology, immanuel kant, transcendental idealism, noumenon

3. 販売場所

販売価格は小売店によって異なります。リンク先で確認してください。

4. 短い概要

超越論的哲学は、超越的哲学や経験的哲学とどう異なるのか。超越論的哲学における超越とは、どこからどこへと超越することなのか。理論理性と実践理性は別なのか。イマヌエル・カントの構成主義を行為論として解釈し、その行為の目的を問いつつ、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書全体を超越論的哲学という観点から再構築する。

5. 長い概要

たんに感性的所与を記述しただけの「今、私には、かくかくのように見える」という命題は、間違うことはない。また「AかつAでないということはない」という矛盾律も絶対的に正しい。なぜならば、それは誤謬を誤謬と判断する基準そのものであるからだ。しかし、こうした「真理」は、真理の名に値しない最も貧しい真理である。真理の名に値する真理を獲得するには、確実だが、狭い真理の領域から《超越》しなければならない。そのような超越が可能かどうかを論じる哲学が、超越論的哲学である。

超越論的哲学の源泉となったイマヌエル・カントの哲学では《超越論的 transzendental》は《超越的 transzendent》から区別される。ドイツ語の接尾辞“-al”には、「…に関する」という意味があり、したがって、超越論的哲学における認識とは超越に関する認識ということになる。全知全能の存在者が限界を持たず、したがって限界を認識することもないので、端的に超越的であるのに対して、有限な存在者は自己の限界を意識せざるをえず、その認識の様態は超越論的になる。

ソクラテスは、「無知の知」ゆえに、すべてを知っていると僭称する他の人々よりも優れていた。「生兵法は大怪我の基」という諺にある通り、自分の能力の限界を知らない人ほど、大失敗をするものだ。自分の無知を心得ている人は、無理をしないし、その限りでは利口なのである。この意味で、自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。カントもまた、「無知の知」ゆえに、たんなる無知以上の智者だった。

カント以前の哲学者たちは、認識とは物自体の認識であると考えていた。大陸における合理論的哲学者たちは、それが可能であるとする独断論的主張を行い、英国における経験論的哲学者は、それを疑問視する懐疑論的な結論を下した。カントは、合理論的独断論者と経験論的懐疑論者が共有していた「認識とは物自体の認識である」という大前提を否定し、物自体から区別された現象を認識の対象とすることで、アプリオリな総合判断が可能であると考えた。

私たちは、不完全であっても、世界を理性的に認識しようとするし、道徳法則に従って理性的に行為しようとする。理論的ならびに実践的な意味で人間理性によって理性的に創られた現象界は、理性を究極目的としているとみなすことができる。この歴史観は、人間原理の哲学バージョンと名付けることができる。人間原理とは、宇宙において人間に特殊な地位を与えない宇宙原理とは対照的に、観測可能な宇宙における観測者に特別な地位を与える原理である。マルチバース全体を物自体、観測可能なこの宇宙を現象界なぞらえるなら、人間原理とカントの超越論的哲学との間に類似性を見出すことができる。したがって、カントの超越論的哲学は、超越論的目的論として特徴付けることができる。

6. 冒頭抜粋

私たちは、日々個人的に経験を重ね、様々な発見をしているが、そうした発見は、そのままでは科学的な発見とは言えない。「今、ここで、私には、こうなった」といった一回限りの個人的な経験の事実を集めたところで、科学的な知にはならない。科学では、「いつでも、どこでも、誰にとっても、必ずこうなる」といった普遍的に妥当する命題を定立しなければならないからだ。では、そうした命題が普遍的に妥当することをどうやって証明すればよいのだろうか。

ここでは、獲得形質の遺伝という遺伝の法則を例にして考えよう。獲得形質の遺伝といえば、ラマルクの説が有名であるが、ダーウィニズムがラマルキズムに代わって抬頭するよりも前に、カントは獲得形質の遺伝、さらには種の進化を否定する考えを示していた。経験的可変性を否定するアプリオリストにふさわしい考えだが、「獲得形質は遺伝しない」は経験科学の命題だから、その普遍妥当性をアプリオリに証明することはできない。

獲得形質が遺伝しないことを実証しようとした科学者としては、ヴァイスマンが有名である。1887年以降、ヴァイスマンは、人為的に短くしたしっぽが子孫に遺伝するかどうかを実験で確かめようとした。人工的にしっぽを切除したマウスの親から生まれた5世代901匹の子どもたちのしっぽを調べたところ、すべて正常で、短くなることもなければ、それ以外の異常すら発生しなかった。5世代901匹も調べたのだから、これで十分かと言えば、そうではない。実際、ヴァイスマンも、世代数をもっと増やさないといけないと言っている。

では、実験を続けて世代数を増やせば、それで十分かといえば、そうではない。「獲得形質は遺伝しない」という普遍命題を証明しようとするなら、マウスのしっぽ切り以外の様々な獲得形質に関しても遺伝するかどうかを調べなければならない。そもそも、ラマルクの用不用説で想定されていた獲得形質は、しっぽの切断といった事故で生じた偶発的形質ではなくて、環境に適応するために獲得された有用な形質であって、そうした形質に関しても調べなければ、ラマルキズムが間違いであることを示せない。今日、エピジェネティクスの分野で獲得形質が遺伝することがあることがわかって、ラマルキズムは部分的に正しいという結論になっている。

「獲得形質は遺伝しない」という普遍妥当的な命題を否定するには、一つの反証事例があればよい。しかし、その肯定を証明しようとすると、無限の数の証拠が必要になる。だが、そうした完璧な実証は不可能だ。人間は、有限な寿命において有限の体験しかできない。しかも、体験を理解する能力も完全ではなく、普遍妥当的な命題を完全に証明する能力などない。

それならば、「今、ここで、私はかくかくの体験をした」という普遍性のない単称命題に甘んじてはどうだろうか。その場合でも、幻覚や勘違いなどによって間違う可能性が残存するとはいえ、普遍性のある全称命題よりも間違うリスクは格段に小さくなる。その代わりに、その命題の市場価値は下がる。「いつでも、どこでも、誰にとっても、必ずこうなる」という普遍妥当的な命題なら、その適用範囲の広さゆえに、すべての人が将来の行動を決める上で利用することができる。その市場価値の高さゆえに、私たちは、敢えて間違うリスクを冒してでも、有限な立場から「飛躍」して、普遍妥当的な命題を定立しようとする。その「飛躍」を、超越論的哲学における「超越」であるとみなしてよい。

超越論的哲学の源泉となったカントの哲学では《超越論的 transzendental》は《超越的 transzendent》から区別される。両者は、英語で言えば、"transcendent" と “transcendental" に相当する。ドイツ語や英語の接尾辞“-al”には、「…に関する」という意味があり、したがって、超越論的認識とは超越に関する認識ということになる。全知全能の存在者が限界を持たず、したがって限界を認識することもないので、端的に超越的であるのに対して、有限な存在者は自己の限界を意識せざるをえず、その認識の様態は超越論的になる。「今、ここで、私はかくかくの体験をした」という慎重な判断からどれだけ普遍的な認識へと人は超越することができるのか、自らの認識能力を反省することで、できることとできないことを確定しようというのが超越論的哲学の課題である。

カントの主著『純粋理性批判』は、批判(Kritik)の書である。クリティークは、「分離する」を意味するギリシャ語のクリノー(κρίνω)に由来している。つまり、カントは、「批判」によって、ここまでなら超越できるが、ここから先は超越できないという限界線を引き、認識可能な現象界と認識不可能な物自体を「分離」した。カントの『純粋理性批判』の「超越論的論理学」は、「超越論的分析論」と「超越論的弁証論」の二つの「部門 Abteilung」に「分け abteilen」られているのも、「批判」という言葉の本来の意味での分離なのである。

認識能力の限界を探ろうとするカントの批判の姿勢は、ソクラテスの「無知の知」を連想させる。ソクラテスは、アポロンの託宣で最も知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを知っており、その「無知の知」ゆえに、すべてを知っていると僭称する他の無知な人々に比べて優れていると考えた。「生兵法は大怪我の基」という諺にある通り、自分の能力の限界を知らない人ほど、大失敗をするものだ。自分の無知を心得ている人は、無理をしないし、その限りでは利口なのである。この意味で、自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。カントもまた、「無知の知」ゆえに、たんなる無知以上の智者だったのだ。

7. 改訂履歴

本書は、1990年に東京大学大学院人文科学研究科に提出した同名の修士学位論文をベースとしている。その後、これに大幅に手を加えて、一橋大学大学院博士後期課程に編入学する際に提出し、1991年10月31日に、『一橋研究』通巻93号(197-220頁)に「カントの超越論的哲学における《超越》の問題 」と題して、その要約を公刊した。全文を初めて公開したのは、1997年で、この時のバージョン 1.0 とする。それ以降の改訂履歴は、以下の通り。

  • 1.0(1997年09月):: ウェブサイト「超越論的システム論」の第一巻『カントの超越論的哲学』として、ウェブ上で公開。
  • 1.1(2005年03月):: ブログ「永井俊哉ドットコム」の書籍編の第一巻『カントの超越論的哲学』として、ウェブ上で公開。
  • 2.0(2014年12月):: 電子書籍として出版。導入節の全面的な書き換え、第一章第三節と第三章第二節でのアップデートなど。
  • 2.1(2015年01月):: 若干の内容訂正、CSS やフォーマットの変更など。
  • 2.2(2015年03月):: 第三章冒頭部の改変、表の画像化、表紙画像の改変、前付けの追加など。
  • 2.3(2015年11月):: 文中引用から文末引用への変更。ePub 3.0 対応。人名索引と用語解説を掲載。本文の加筆と修正。
  • 2.4(2019年12月):: 一部の図の入れ替えと若干の加筆と修正。