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西ローマ帝国はなぜ滅亡したのか

2017年10月7日

古代ローマ帝国は、いわゆる五賢帝時代に最盛期を迎えた後、徐々に衰え、大移動を開始したゲルマン民族に蹂躙され、滅んだ。なぜ古代ローマ帝国は持続不可能になったのか。諸説を検討しながら、私の仮説を提示したい[1]

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1. ローマ帝国はいつ滅びたのか

ローマ帝国はトラヤヌス帝(在位:98年-117年)の時に版図が最大となった後、徐々に衰退し、終わりがはっきりしない。だから、ローマ帝国がいつ滅びたのかという問いに答えることは難しい。しかし、特定の時点で区切らないと教科書的に不都合なので、歴史学界はいくつかのエポック・メイキングな出来事を候補として挙げている。

1.1. 時期に関する定説

395年にローマ帝国が東西に分裂した後、すぐに消滅した西ローマ帝国とは異なり、東ローマ帝国は、オスマン帝国のメフメト2世が首都コンスタンティノポリスを陥落させた1453年まで続く。そこで、ローマ帝国が最終的に滅んだのは、1453年ということができる。しかし、首都がローマではなく、七世紀以降公用語がラテン語からギリシャ語になった帝国をローマ帝国と呼ぶことは本来適切ではなく、このため、後世の歴史家の中には、東ローマ帝国のことを、首都の旧名ビュザンティオンに因んで、ビザンツ帝国と呼ぶ者もいる。

ローマを首都とする本来の意味でのローマ帝国、西ローマ帝国は、幼帝ロムルス・アウグストゥルスが、ゲルマン人オドアケルの圧力で退位し、オドアケルが西ローマ帝国皇帝ではなくて、イタリア領主を名乗った476年に滅亡したというのが定説である。

ロムルス・アウグストゥルスの画像の表示
オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス[2]。19世紀の作品。

レオナルド・ブルーニ以来の説[3]では、476年から中世が始まったということになっているので、それ以前のローマ帝国が古代ローマ帝国であるのに対して、その後も存続した東ローマ帝国は中世ローマ帝国として別扱いすることもできる。だから、西ローマ帝国はなぜ滅亡したのかという問いは、なぜ古代が終わり、中世が始まったのかという問いと同じと言うこともできる。

1.2. 時期に関する異説

もっとも、476年というのは、ローマ帝国の歴史にとって特別に画期的な年ではなかった。そもそも、ロムルス・アウグストゥルス帝は、正統な西ローマ皇帝であるネポス帝をクーデターで追放したゲルマン人オレステスが擁立した、傀儡皇帝(実の息子)で、東ローマ帝国皇帝をはじめ、周囲は正当な皇帝とは認めていなかった。だから、最後の正統な西ローマ帝国皇帝であるネポス帝が殺害された480年を西ローマ帝国が滅んだ年とみなす学者もいる。

他方で、それ以降も西ローマ帝国は存続したとする見解もある。800年に、フランク王国のカール大帝が、ローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得たことで、西ローマ帝国が復活し、それは神聖ローマ帝国として引き継がれたという事実がその根拠である。1453年に東ローマ帝国が滅びた後も、オスマン帝国やロシア帝国がローマ皇帝の継承を主張した。もちろん、それは形式的な継承に過ぎないが、こうした事情もあって、ローマ帝国がいつ滅びたかに関しては、明快に答えることができない。

1.3. 社会的経済的変化

政治的イベントで区切る代わりに、社会的経済的な構造変化に着目して時代を画する方法もある。中世の社会と経済を特徴付けているのは、封建制と農奴制である。ローマ帝国の最盛期においては、皇帝が強力なローマ軍によって帝国内のローマ市民の安全を保護していた。ところが、帝国領内に蛮族が移住してくる四世紀末以降、ローマ市民はもはや身の安全を皇帝とローマ軍に期待することができなくなる。ちょうど応仁の乱以降、戦国大名が群雄割拠して室町幕府が有名無実化したように、西ローマ帝国も、蛮族が帝国内で我が物顔に振る舞うようになったことで、有名無実化したのだ。

かつては自律的に独立していたローマ帝国内の自作農たちは、ますます激しくなる蛮族による収奪とますます重くなるローマ帝国の税金という二つの搾取に耐えかねるようになった。その結果、彼らは土地を地域の有力者に寄進し、自由を放棄して、農奴となって働くことで、身の安全と経済的保護を有力者(封建領主)に委ねるようになった。かくして、中世を特徴付ける封建制と農奴制が誕生した。

こうした社会的経済的な構造変化は、表層的な政治的イベントよりも歴史の変化を考える上で重要である。476年という年で区切るかどうかは別として、西ローマ帝国ないし古代ローマ帝国は、辺境の蛮族の攻撃を受け、段階的に衰退し、有名無実化し、五世紀ごろに事実上消滅し、中世的な社会に移行したと結論付けてよい。本稿では、以下、その段階的衰退の原因を探りたい。

2. 滅亡原因に関する様々な説

古代ローマ帝国滅亡の原因としては、様々なものが挙げられている、中には、結果と原因を混同しているものもあるのだが、ここでは、代表的なものを挙げて、論評しよう。

2.1. 蛮族侵入説

最もポピュラーな説は、古代ローマ帝国は、周辺の蛮族、特にゲルマン民族に滅ぼされたという説である。西進してきたフン族に襲撃された東ゴート族が南西の方角に逃げ、その東ゴート族に圧迫される形で、西ゴート族が376年にドナウ川を渡り、378年にアドリアノープル(ハドリアノポリス)の戦いでローマ軍を破ったのが、ゲルマン民族の大移動の始まりだった。その後、東ゴート、ヴァンダル、アングロ・サクソン、ランゴバルドな様々なゲルマン民族がローマ帝国領に侵入した。それ以前にも蛮族がローマ帝国を襲来することはあったが、彼らは略奪を終えると本拠地に戻った。だが、四世紀末以降、蛮族は本拠地を捨て、女子供を含めて、民族全体で移動を開始し、ローマ帝国内に居座り続けた。この違いはなぜ起きたのだろうか。

ローマ帝国崩壊時のヨーロッパにおける民族移動の画像の表示
ローマ帝国崩壊時のヨーロッパにおける民族移動[4]。画像クリックで拡大。

これが西ローマ帝国滅亡の直接の原因であったことは、私も否定しない。問題は、なぜ、ゲルマン民族の大移動が惹き起こされ、なぜ西ローマ帝国は、東ローマ帝国とは異なり、それを撃退し続けることができなかったかである。それを説明するために、三世紀にゲルマニアで蹄鉄が発明され、ゲルマン民族の騎馬勢力が強力となり、歩兵中心のローマ軍を圧倒したという説があるが、当時のゲルマン民族には歩兵も多かったし、またこれと戦っていたローマ軍の中にも、大量のゲルマン人の傭兵がいたから、あまり説得力はない。

2.2. 士気低下説

ローマ帝国衰亡史』の著者として有名なエドワード・ギボンは、ローマ市民の道徳の低下が、根本的な原因だと見ていた。ローマ市民は、国防をゲルマン傭兵に頼るようになり、それが軍紀の乱れをもたらして、命取りになったというわけである。

勝ち誇るローマ軍は、遠隔地で戦争をしているうちに、外国人や傭兵の悪徳に染まり、まず共和国の自由を抑圧し、その後は皇帝の威厳を踏みにじった。 皇帝は、自分の身の安全と国家の平和を心配するあまり、軍紀を乱すことになる卑屈な急場しのぎに甘んじ、その結果、ローマ軍は、敵に対してだけでなく、統治者にとっても手に負えない存在になった。軍政の活力は陰りを見せ、最終的には、コンスタンティヌス大帝の不公平な制度によって失われた。そして、ローマの世界は蛮族の大洪水によって圧倒された。[5]

これもあまり説得力のない説明である。ローマ帝国が、領土を拡張するにつれて、被征服民を軍団に参入させていくことは不可避的である。ゲルマン民族と一口に言っても、ローマ帝国の国境近くにいる文明化された近蛮族とその背後にいる遠蛮族がいて、文明化された近蛮族の中にはローマ人以上に文明的になった者もおり、彼らを使って遠蛮族を攻撃するという戦略は決して悪くはなかった。むしろ、フラウィウス・スティリコのような、蛮族出身でありながら、ローマ人以上にローマ的だった有能な司令官を不当に扱ったことが、ローマ帝国滅亡の原因だったという説もある。それが次の節であるである。

2.3. 蛮族差別説

弓削達は、『ローマはなぜ滅んだか』において、ローマ滅亡の原因を、ローマ人がゲルマン人を蔑視し、中心と周辺の逆転を受け入れることができなかった所に求めている。

四世紀以後のローマ人たちが、ローマに入ってローマのために働いている上下のゲルマン人たちを殺戮したり、追い出したりすることなく(これらのゲルマン人なくしてローマはすでに立ちゆかなかったのだ)、彼らと共に、ありのままのゲルマン的生活文化によってギリシア・ローマ文明を変成させてゆく度量を大きく持てなかったことにたいして、深い遺憾の意をいだかざるをえないのである。このようにローマ人に対して苦言を呈することは、ボートピープルを笑顔で受容れよ、とか、外国人労働者を大切にせよ、とか、在日韓国・朝鮮人を差別的に扱うな、というのと同じくらい、今の日本人には非現実的な勧告に響くかもしれない。しかし、文明世界の永続は、ニーズの世界や第三世界との平和的共栄なくしては不可能であることは、現代世界もローマ世界も変わりはないと思うのである。[6]

ローマ人が蛮族を軽蔑していたのは事実である。しかし、それと日本における外国人差別を同等に扱うことはできない。日本は、民族や文化という点で等質性の高い国なので、外国人差別は民族差別ということになるが、ローマ帝国は多民族国家であり、ローマ人の蛮族差別は、民族差別と同一視できない。そもそも、ローマ帝国では、ゲルマン人は蛮族と必ずしも同じではない。蛮族、すなわちバルバロイ(βάρβαροι)とは、ギリシャ語で「聞きづらい言葉を話す人々」という意味だが、ローマ帝国では、ローマ人であるためには、ラテン語を話す必要はない。血統がゲルマン人で、ゲルマン的生活文化を持っていても、法律を守って文明的に振る舞う限り、ゲルマン人はローマ人とみなされる。この点で、ローマ帝国は同時代の民族国家よりもずっと包容力があり、多様性に対して寛大であったと評することができる。

ローマの法律を守るならローマ人という定義に従って言うなら、ローマ人が蛮族を軽蔑したり、排除したりすることは不当ではない。法律を遵守しない人々がローマ帝国内で増えれば、ローマ帝国の秩序は瓦解するのだから、ローマ人がそうした人々を軽蔑し、「周辺」へと排除しようとしたことを西ローマ帝国滅亡の原因と見做すことはできない。むしろ、排除できなかったからこそ西ローマ帝国は法的秩序を維持することができずに、崩壊したと言うべきだ。

もとより、弓削が指摘するように、古代末期のローマの支配者階級の間で、偏狭な排他主義の感情が高まったのは事実だ。一般的に言って、生活にゆとりが無くなると、心にもゆとりが無くなるものだ。現在の米国のラストベルトにいるトランプ大統領の支持者にその傾向がみられる。しかし、もともとローマ帝国が異民族と異文化に対して比較的寛大であったことを考慮に入れるなら、排他的感情を持つようになったから衰退したのではなくて、衰退したから排他的感情が生まれるようになったというように因果関係を定めるべきだ。実際、蛮族の攻撃を受けて、同時期の東ローマ帝国でも排他的な感情が高まったが、こちらは西ローマ帝国と同時に滅びることはなかった。

2.4. キリスト教説

ギボンは、『ローマ帝国衰亡史』において、キリスト教の国教化をローマ帝国衰退の原因の一つとして挙げている。キリスト教が普及するに連れて、人々の関心がこの世からあの世に行き、この世での支配を維持しようとする人々の熱意を失わせることになったというのである。

来世の幸福が宗教の一大目的であるのだから、キリスト教の導入、あるいは少なくとも濫用がローマ帝国の衰退と崩壊にいくらか影響を及ぼしたことは驚くに足りない。 聖職者の説教の結果、人々は辛抱強い小心者となり、積極的であることをよしとする社会の美徳が廃れ、戦闘精神の最後の痕跡も修道院の中で埋没した。公私の富の大きな割合が、慈善や信仰といったもっともらしい口実のもとに奉献され、兵士の給料までが、禁欲と貞操の価値を訴えることしかできない、役立たずな多数の男女のために惜しげもなく使われた。[7]

キリスト教が常に帝国を衰退させるとは限らない。大航海時代のポルトガルとスペインは、カトリック教を世界に広めようとする情熱に駆られて、世界帝国を作った。とはいえ、キリスト教国教化により、ローマ帝国の富が宗教という非生産的な活動に浪費されたことがローマ帝国を衰退させる一因になったことは確かだ。ギボンは触れていないが、キリスト教国教化で起きたもう一つの不都合は、それまで有能な軍人が軍の支持によって皇帝に選ばれていたのが、おおよそ皇帝にはふさわしくない無能な前皇帝の親戚(場合によっては幼い子供)が、神意のもと皇帝に選ばれるようになったということだ。

これらはローマ帝国を衰退させた原因の一つではあるが、決定的な役割を果たしたとは言い難い。東ローマ帝国には、西ローマ帝国よりもキリスト教徒が多かったが、西ローマ帝国よりも長く存続することができたからだ。

2.5. 貨幣改悪説

経済的側面から、ローマ帝国の滅亡を説明しようとする人もいる。例えば、三世紀以降、貨幣の銀含有率が大幅に低下し、これがインフレをもたらしたという事実がよく指摘される。歴史家のジョセフ・ペデンは次のように言う。

ここで彼が謂う所の正義とは課税制度のことだ。私はサルウィアヌスが誇張しているとは思わないのだが、彼が言うには、五世紀にローマ帝国が崩壊した理由の一つは、ローマ帝国の一般大衆が、蛮族の支配下に入った後、ローマの官僚制の支配下に二度と入りたくないとひたすら願ったところにある。

言い換えれば、ローマ帝国は敵で、蛮族は解放者だったのだ。そして、これは間違いなく、三世紀のインフレに起因している。国家の支配者は、自分たちの選挙区民[官僚と軍隊]のために貨幣問題を解決したが、大衆のためにそれを解決することはできなかった。ローマは、支配階級である官僚や軍隊の金庫を満たすために、抑圧的な課税制度を使い続けたのだ。[8]

大衆が使っていた貨幣は、銀含有率の低下によりインフレを起こしたが、支配階級は価値が下がらない金貨を使うという二重構造があり、これが大衆を苦しめたというのである。しかし、もし国家財政が豊かなら、発行している通貨に銀が一分子も含まれなくても、悪性のインフレを惹き起こさないはずである。銀が不足したから、商品経済が衰退したわけではなかった。

問題は、蛮族侵入の頻発化で、歳出は増える一方なのに、農作物が不作で、歳入が落ち込んでいたことである。古代ローマ時代も末期になると、ローマの軍隊は、 かつての三十万から六十万に倍増し、借地料は、10%から50%以上に跳ね上がっていた。このため、耕作を放棄する農民が続出し、農地が荒れ果て、収入の不足を補うために、さらに借地料が上げられるという悪循環が続いた。

古代ローマ時代末期のインフレは、経済成長をもたらすインフレではなくて、スタグフレーション、つまり物不足によるコスト・プッシュ・インフレの様相を呈していた。

なぜなら、三世紀後半になって、金利の低下現象が起こっているのだ。「パクス・ロマーナ」が完璧に機能していた時代の金利は年率十二パーセントが普通であったのが、この時代四パーセントにまで下がっているのである。これも、投資意欲の減少傾向の反映ではなかったか。[9]

スタグフレーションは、物不足が深刻になった、敗戦や石油危機のときの日本に起きたような、景気後退をもたらすインフレで、実質金利は低くなる。インフレにおいては、信用貨幣の名目金利は上昇する。しかし、商品貨幣で計測した金利は、実質金利(潜在成長率)を表していると考えられるので、スタグフレーションでは低下する。では、なぜスタグフレーションの原因となる物不足が起きたのか、この点が問われなければならない。

2.6. 疫病流行説

古代ローマ帝国では、疫病の流行が原因で、二世紀から七世紀にかけて人口が減少したと言う人がいる[*]。144年から146年、171年から174年にエジプトの人口が2/3になり、165-180年には、マケドニアから始まって、ローマ帝国のほぼ全土に「アントニヌスの疫病」が、251-266年には、一日に5千人が死ぬ、より悪質な「キプリアヌスの疫病」が流行した。こうした疫病が人口を減少させ、それが税収の不足をもたらしたという説が唱えられることがある。

[*] 但し、ローマ帝国の人口については、詳しいことはよくわかっていない。紀元前後のアウグストゥスの時代で、五千四百万人程度[10]と推定され、アントニヌスの疫病前にピークに達した後減少に転じ、紀元後350年で三千九百三十万人程度になった[11]と考えられている。西ローマ帝国崩壊以後のヨーロッパの人口はさらに減少に転じ、ローマ帝国時代の人口を完全に超えるようになったのは十五世紀半ば以降である[12]

しかし、古代ローマ帝国の衰退が決定的になる三世紀から五世紀には、大きな疫病の流行はなかった。もしも農作物が十分実っていたのなら、疫病で一時的に人口が減っても、すぐに回復することができたはずである。問題は、なぜ、人口を回復させるだけの食料が生産できなくなったかである。

3. ローマ帝国盛衰の気候的背景

以上、様々な説を検討したが、どの説でも、その原因を根本的に問い詰めていくと、二つの重要な原因に突き当たる。本節では、その根本原因を説明する仮説を提示したい。

3.1. 根本的原因は何か

ローマ帝国を衰退させた二つの原因のうち、一つは、ゲルマン民族の侵入の頻繁化とそれに伴う軍事支出の増大であり、もう一つは、作物の不作による税収入の減少である。歳入が減り続け、歳出が増え続ければ、当然のことながら、国家財政は破綻する。西ローマ帝国の場合、この二つの現象は、一つの原因で説明できる。気候の寒冷化である。気温が下がると農業は凶作となる。また、北方の蛮族は、南の暖かい気候を求め、本拠地を捨てて南下してくる。

振り返ってみると、ローマ帝国は、温暖化により膨張し、寒冷化により収縮したと言えそうである。紀元前800年から紀元前400年の寒冷期において花開いたギリシャ文明は、ローマ帝国に受け継がれ、その後の温暖化とともに、ローマ帝国の版図は拡大し、トラヤヌス帝の時に最大になった。しかし、トラヤヌス帝が死去したあたりから、気温は再び下がり始めた。

以下の図は、古代ギリシャの黎明期から中世初期にいたるまでのヨーロッパの気候の変遷を説明したものである。

ヨーロッパにおける生態系の変化の画像の表示
古代から中世にかけてのヨーロッパにおける生態系の変化[13]。キャロル・クラムリー編『歴史的生態学』掲載の図をブライアン・ファガンの『長い夏』より間接引用。Mediterraneanは、地中海性気候、Atlanticは、西岸海洋性気候で、温帯気候に属する。Continentalは、湿潤大陸性気候で、冷帯気候に属する。

四つあるうち、左上は、紀元前1200年から紀元前300年、つまり古代ギリシャ文明が出現した頃から共和政ローマが成立した頃のヨーロッパの気候である。地中海性気候の北限を示すライン(Mediterranean)が、現代よりも南にある寒冷な気候であったことがわかる。右上の図は、紀元前300年から紀元後300年、つまりローマ帝国が全盛期を迎えていた頃のヨーロッパの気候である。地中海性気候のラインが、現代よりも北にある、かなり温暖な気候であったことがわかる。ローマ人たちは、地中海性気候の北上に合わせるかのように、ケルト人を駆逐して、北方へと膨張して行ったということだ。そして左下の図は、紀元後500年から紀元後900年、ローマ帝国が滅んだ後、南下したゲルマン民族が各地で建国した中世初期のヨーロッパの気候である。地中海性気候のラインは再び南下している。あたかもこのラインの南下に合わせて、ゲルマン民族は南下したかのようである。

もしも、寒冷化が西ローマ帝国を滅ぼしたのだとするならば、なぜ東ローマ帝国は、同じ原因で滅びなかったのかと読者は訝しく思うかもしれない。東ローマ帝国は、西ローマ帝国とは異なって、高度な文明国であるペルシアと国境を接していた。このため、税源を農作物のみに頼る必要はなく、交易による富にも依存することができた。つまり、凶作による税収入の落ち込みが、西ローマ帝国ほどひどくはなかったと考えられる。ギリシャ語圏の人口密度は、20.9人/km2と推定され、ラテン語圏の人口密度、10.6人/km2のほぼ二倍で[14]、西ローマ帝国よりも東ローマ帝国の方が資源豊かで、蛮族を撃退する人手に比較的困らなかったことが窺える。

気温が低下すると、体力がなくて、免疫が機能しない人は風邪をひきやすくなるが、そうではない人は平気というように個人差が出る。ローマ帝国への侵入を試みる蛮族は、体内に侵入しようとするウィルスのようなもので、東ローマ帝国のように、体力(経済力)があって、免疫(軍隊)が機能する国は、寒冷化という悪条件下でも、これを跳ね返すことができるが、西ローマ帝国のようにそうではない国は、ウィルス(蛮族)の餌食となり、死に至るということである。

3.2. 気候と文明の関係

気候が文明に影響を与えることは、様々な事例で確認できることだが、ここで少し復習をしよう。一般的に言って、寒冷化はイノベーションを惹き起こし、温暖化はそれを継承した文化や文明が拡大、普及する。以下の図は、紀元前五千年以降の北半球における気温変化を表したもので、中央にある紀元前2600年頃を谷底とする亜氷期では、所謂四大文明が最盛期を迎えている。この亜氷期に定まった名称はないので、ここでは、花粉層序の名称から借用して、サブボレアル寒冷期と名付けることにしたい。

気温の420年移動平均線の表示
グリーンランドの氷床コアから復元された完新世における気温の420年移動平均線[15]。縦軸は、酸素同位体比の標準化された変異、横軸は時間軸で、単位は西暦。紀元前は負の値で表示。

サブボレアル寒冷期で始まった都市革命は、紀元前1800年ごろから始まる温暖湿潤化の中で衰退し、都市から地方へと拡散していった。図では、この温暖期をサブボレアル温暖期と名付けたが、ヨーロッパなどでは、ミノア温暖期(Minoan Warm Period)と呼ばれることがある。ミノア文明(クレタ文明)が栄えた時期と一致するからだ。ミノア文明もまた、寒冷期に南下してきたアカイア(アケーア)人によって破壊され、崩壊した。

花粉層序の名称に従うならば、サブボレアルの次はサブアトランティックであるが、紀元前500年から現代までをこの名称で一括するのは、歴史時代を語る上で大雑把過ぎるので、古代・中世・近代というヨーロッパの伝統的な三区分法で分割しよう。面白いことに、古代と中世、中世と近代はいずれも寒冷期で画期されている。古代も中世も近代も、前半の寒冷期で革命が起き、後半の温暖期で成熟する。古代寒冷期と私が名付けた時期は、枢軸時代と呼ばれている時代で、宗教革命が起きた時期である。その後の古代温暖期に、ヨーロッパと中国では、ローマ帝国と漢という二大帝国が成立した。この二つの帝国は、同じような運命をたどる。

3.3. ローマ帝国と漢

古代温暖期が終わった後、中世寒冷期が始まる。これに関しては、以下の西暦200年以降の気温の偏差を表すグラフを見ていただきたい。西暦100年から700年にかけての谷間を、私は中世寒冷期と名付けたが、日本の学界では古墳寒冷期と呼ばれる[16]。中央の山が中世温暖期(Medieval Warm Period)で、この名称は一般的に用いられている。右の谷間の近代小氷期(Little Ice Age)も、それ以上に定着している。

北半球での気温の変化の表示
西暦200年から1980年までの北半球での気温の変化[17]。縦軸は、1961-1990年を基準(0)とした気温の偏差。

中世寒冷期(古墳寒冷期)は、古代寒冷期で生まれた去勢宗教が世界に普及していく時期である。多神教を信仰し、一神教であるキリスト教を弾圧していたローマ帝国は、キリスト教を公認し、最終的には国教にまでした。それは、解体し始めた帝国を一神教で統一しようとする試みであった。やがて中東ではイスラム教が、中国では仏教が普及し、プリミティブな自然宗教は、ほとんど姿を消すようになる。ヨーロッパ人にとって中世は暗黒時代だが、この寒冷期は、古代ギリシャの文化遺産がサーサーン朝ペルシアやイスラム帝国によって受け継がれ、中東でイノベーションを起こした時期でもある。

中世寒冷期が日本で「古墳寒冷期」と呼ばれるのは、この時期が日本国内で古墳が造成された時代と重なるからである。しかし、世界的な寒冷化で起きた現象に着目するなら、「民族大移動寒冷期」と呼ぶこともできるかもしれない。なぜなら、この時代、北方騎馬民族が南下するという現象がユーラシア大陸全土で見られたからである。

江上波夫氏の有名な騎馬民族征服王朝説は、この世界史的出来事を背景に、4世紀の日本における大和朝廷の成立を説明したものである。彼は、古墳時代後期の副葬品に、前期とは異なって、馬具類が見られることなどから、ユーラシア大陸の騎馬民族が、朝鮮半島を南下して、北九州に上陸し、さらに畿内に遠征して、大和政権を樹立したのではないかという仮説を立てた。私はこの仮説を支持しないが、いわゆる神武東征は、気候悪化を原因とする一種の民族大移動であったと解釈している。

他方で、中国では、地中海世界とパラレルな現象が起きた。精神革命が起きた古代寒冷期において、ギリシャのポリスが争いながらも高度な哲学や学問が栄えていた頃、中国では、春秋戦国時代で、諸子百家が様々な思想を唱えていた。アレクサンドロス大王、続いて、ローマがギリシャ文明を継承して、広大な帝国を築いていた温暖期には、秦の始皇帝、続いて漢が高度な中国文明を継承して広大な帝国を築いた。

紀元前後のユーラシア大陸の表示
紀元前後のユーラシア大陸[18]。匈奴は、後漢による攻撃を受け、西進し、フン族となって、ヨーロッパに出現したという説があるが、真相は不明。中国北部では、匈奴に代わって、鮮卑が台頭し、五胡十六国時代には、華北へ移住した。

しかし、民族大移動寒冷期になると、ローマ帝国にゲルマン民族が移住を開始したように、中国の華北地方に北方遊牧民族が移住を開始した。そして、旧西ローマ帝国の領土が、ゲルマン民族の群雄割拠状態となっていた頃、華北は、五胡十六国時代と呼ばれる、北方遊牧民族による群雄割拠状態となっていた。700年以降の温暖期にフランク王国による統一王国ができた頃、中国には唐という統一王朝ができた。

最後に、もう一つ類似性を示そう。凶作と治安の悪化という絶望的な時代に、ヨーロッパでキリスト教が普及した頃、中国では仏教が普及しだした。キリスト教の原型である古代ユダヤ教と仏教の原型である原始仏教が精神革命寒冷期において誕生し、民族大移動寒冷期において、ヨーロッパと中国という新天地で信者を獲得したことは、偶然とはいえない。キリスト教と仏教は、ともに去勢宗教である。母なる自然が冷たくなった時、去勢が行われるのだ。

4. 参照情報

4.1. 関連著作

4.2. 注釈一覧

  1. 本稿は、2006年12月13日に公開した「古代ローマ帝国はなぜ滅んだのか」を改訂したものである。私と同じ考えは、Büntgen, Ulf, et al. “2500 Years of European Climate Variability and Human Susceptibility." Science 331.6017 (2011): 578-582.でも示されているが、私の方が公表時期は早い。
  2. Romulus Augustulus resigns the Roman crown to and Odoacer.” 19th century illustration. Licensed under CC-0.
  3. Leonardo Bruni. History of the Florentine People. p.xvii. First published in 1442. Cf. History of the Florentine People, Volume 1: Books I-IV (The I Tatti Renaissance Library) . Harvard University Press (2001/4/26).
  4. Novarte. “Late Roman Empire Migration Period Barbarian Invasion schematic map.” Licensed under CC-BY-SA and modified by me.
  5. “The victorious legions, who, in distant wars, acquired the vices of strangers and mercenaries, first oppressed the freedom of the republic, and afterwards violated the majesty of the purple. The emperors, anxious for their personal safety and the public peace, were reduced to the base expedient of corrupting the discipline which rendered them alike formidable to their sovereign and to the enemy; the vigour of the military government was relaxed, and finally dissolved, by the partial institutions of Constantine; and the Roman world was overwhelmed by a deluge of Barbarians.” Edward Gibbon. “The History of the Decline and Fall of the Roman Empire”. Volume III. Chapter XXXVIII. “Reign Of Clovis.” Part VI. “General Observations on the Fall of the Roman Empire in the West."
  6. 弓削 達.『ローマはなぜ滅んだか (講談社現代新書) 』. 講談社 (1989/10/20). p.228.
  7. “As the happiness of a future life is the great object of religion, we may hear without surprise or scandal that the introduction, or at least the abuse of Christianity, had some influence on the decline and fall of the Roman empire. The clergy successfully preached the doctrines of patience and pusillanimity; the active virtues of society were discouraged; and the last remains of military spirit were buried in the cloister: a large portion of public and private wealth was consecrated to the specious demands of charity and devotion; and the soldiers’ pay was lavished on the useless multitudes of both sexes who could only plead the merits of abstinence and chastity.” Edward Gibbon. “The History of the Decline and Fall of the Roman Empire”. Volume III. Chapter XXXVIII. “Reign Of Clovis.” Part VI. “General Observations on the Fall of the Roman Empire in the West."
  8. “The economy of the West was perhaps more fatally weakened than that of the East. The early 5th century Christian priest Salvian of Marseille wrote an account of why the Roman state was collapsing in the West — he was writing from France (Gaul). Salvian says that the Roman state is collapsing because it deserves collapse; because it had denied the first premise of good government, which is justice to the people. By justice he meant a just system of taxation. Salvian tells us, and I don’t think he’s exaggerating, that one of the reasons why the Roman state collapsed in the 5th century was that the Roman people, the mass of the population, had but one wish after being captured by the barbarians: to never again fall under the rule of the Roman bureaucracy. In other words, the Roman state was the enemy; the barbarians were the liberators. And this undoubtedly was due to the inflation of the 3rd century. While the state had solved the monetary problem for its own constituents, it had failed to solve it for the masses. Rome continued to use an oppressive system of taxation in order to fill the coffers of the ruling bureaucrats and soldiers.” Joseph R. Peden. “Inflation and the Fall of the Roman Empire ― 50-minute lecture given at the Seminar on Money and Government in Houston, Texas, on October 27, 1984.” Mises Institute.
  9. 塩野 七生.『ローマ人の物語 (12) 迷走する帝国』. 新潮社 (2003/12/13). p.254.
  10. Beloch, Karl Julius. Die Bevölkerung der griechisch-römischen Welt. 1886. p.507.
  11. Russell, Josiah Cox. “Late Ancient and Medieval Population." Transactions of the American Philosophical Society 48.3 (1958): 1-152.
  12. Scheidel, Walter. “Demography", in The Cambridge Economic History of the Greco-Roman World. Walter Scheidel, Ian Morris, Richard P. Saller (Editor). Cambridge University Press; Reprint (2012/11/22). p.43.
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