機能的システム論と超越論的目的論
ルーマンは、1973年の著書『目的概念とシステム合理性』で、目的論的合理性とシステム合理性を区別し、彼の機能システム論を前者からではなくて後者から説明しようとする。通常我々は、「機能」と聞いて目的に対する手段的有用性を連想するし、「合理性」でもって最も適切な手段の選択を理解している。ルーマンは、なぜこのような伝統的な目的合理性による解釈を拒否するのか。このページでは以下、第一節で「機能」、第二節で「合理性」についてのルーマンの理解を検討し、第三節でシステムが目的論的合理性に基づかなければならないことを主張する。[1]

1. 機能概念の関数論的理解
まず、機能概念の検討から始めよう。ルーマンに言わせれば、パーソンズによって最も典型的に次のような「目的自由的機能概念 einen zweckfreien Funktionsbegriff」が展開されてきた。曰く「ある働きは、それが複雑に構造化された統一体、即ちシステムの維持に役立つ限り、機能的として妥当する[2]」。だがそのような構造機能主義は、要するに「システムの維持」を目的とした目的論ではないのか。
機能概念の脱目的論化への重要な一歩とルーマンが考えるのは、むしろ「機能 Funktion」は、数学的論理学的な「関数」でもあることを洞察するところにある。
論理学が不完全な命題、例えば “ … は青い” を命題関数として扱う時、このことは、限界付けられた比較の領域が、空所を補充する、そして命題を真なる言明へと完成させる特定の諸可能性から成り立ちつつ、それでもってその領域が開かれるということ以外の何物をも意味しない。“空” “私の車” “スミレ” は、この関数にとって等値な充填可能性である。[3]
そこで「機能[関数]とは、そのもとである働きが、他の機能的[関数的]に等値な働きの可能性と比較されるような視点へとそれらの働きを関係付けることである[4]」ということになる。ルーマンのこの Funktion の定義は、フレーゲの定義と一致する。
ある表現(それは必ずしも判断可能なものである必要はない)において、単純であろうが複雑であろうが、一つの記号が一つ以上の場所で出現しており、我々がその記号をこれらの場所のすべてあるいはいくつかで、他の記号で(但しどこでも同一のもので)置き替えうると考えるならば、その時もとの表現中の変化せずに現れている部分を関数と呼び、置換可能な部分を変項[Argument]と呼ぶ。[5]
もっとも普通論理学では、等値は変項ではなくて関数について言われる。例えば、p⇒q と ¬p∨q は真理値に関して等値(equivalent)であるというように。しかし関数は2階の関数の変項となりうるので、結局同じことである。現に命題「p⇒qと¬p∨q は真理値 に関して等値である」において「p⇒q」と「¬p∨q」は、関数ではなくて変項である。実はシステム論的な機能等値説自体が高階のメタ理論であるのだが、この論点には後でまた戻ることにする。
さて変項として置換可能(ersetzbar)な諸個体は、同一性の観点から比較されるのだが、全く同じもの、例えば“空”と“空”、“私の車”と“私の車”等々は比較できない。
ただ差異するもののみが比較可能である。どの比較もそれゆえ、そのもとで差異するものが等しいものとして評定されるべき、あるいはそれどころかそのように取り扱われるべき視点を確定するある抽象的なパースペクティブを前提している。[6]
“空”、“私の車”、“スミレ”は、差異するものではあるが、《有色なもの》の地平内にあり、「等しいものとして評定される」。これに反して“目的論”“システム論”等々は有色ではないからパースペクティブ、論理学で謂う所の論議領域(universe of discourse)、第一章第一節で使った言葉だと、地平の外にあり、したがって命題関数「 … は青い」の空所を補充すれば無意味な命題を作る。他方“夕焼け”、“彼女の車”、“バラ”(これらは赤色であるとする)は、有色物のパースペクティブ上にあるが、空所を補充すれば偽の命題を作る。
有色物のパースペクティブのもとで、複数の可能性から青いものを選び、それ以外の選択肢を排除することが、青色を識別するシステムが形成されることであり、そしてこの複雑性の縮減を通して排除された他の可能性、またはその可能性を選ぶことが当のシステムの環境となる。「それゆえシステムは、差し当り極めて形式的には、複雑で変化する環境の中で、内/外の差異の安定化を通して自己を維持する同一性として 理解されなければならない[7]」。「この意味で、境界を維持すること(boundary maintenance)がシステムを維持することである[8]」。《機能=関数》が変動する諸個体を等値なものとして同定するのに対して、システムは等値でない個体を環境として排除する。二つの働きは同じ《選択》という働きの両面であるから、ここに機能的[関数的]システム理論(funktionale Systemtheorie)が成り立つことになる。
関数的に等値なすべての可能性のクラスは、一般に変項[Variable]と呼ばれる。変項とは計画的に未規定なままになっている概念である。[9]
もちろん変項(Variable)自体は可変的(variabel)ではないし、定項(Konstante)も、それが何であるかに関して一定(konstant)ではない。しかし個体変項は個体定項とは異なって量化可能である。
機能主義的分析で重要なことは、存在を本質定項の形で確定することではなく、複雑なシステムの枠内での変項の変動である。定項はわずかに変動の制約として機能するのであって、この特殊な機能への適応という観点のもとでそれ自体変動する。[10]
かくしてルーマンは、実体概念から関数概念へというカッシーラーによって指摘された「精密科学」が行う概念転換を行うことになる。実体概念に基づいた伝統的な学的説明として、因果的説明と目的論的説明とを挙げることができる。人文社会科学では相変わらず目的論的説明が成されている。行動科学や生物学では目的論的説明は“擬人的”であるとして因果的説明への転換が図られる。しかし実は因果的説明も実践的関心によって複雑性が縮減された目的論的説明の裏返しであって、生活世界的説明の域を出ない。そこで物理学などの純自然科学においては、因果的説明は法則的/関数的説明へと転換される。それも「関数が因果関係の一つの特殊様式なのではなく、因果関係が関数的秩序の一つの適用事例なのである[11]」。
例えば、力Fが物体の位置xの関数として F=f(x) で与えられる時、物体をx軸上にx=aからx=bまで動かす(但しa<b)時の仕事の量は、
となる。この「関数的秩序」が、《仕事Wが原因となって、物体のaからbへの移動が結果として生じて来る》と定式化されると因果関係になるし、この左辺と右辺の関係をひっくりかえして《物体をaからbへと移動させる目的のためには、仕事Wが手段として必要である》と定式化すれば、それは目的手段関係を表すことになる。
目的は未来へと企投されているのだが、実行の段階を考えてみればわかるように、動機として手段より時間的に先行する。因果関係においても原因は結果よりも時間的に先行するものとして考えられている。仕事Wという物があって、それが物体のaからbへの移動という結果に惹き起こしているというわけである。だが関数表現の方を見れば分かるように、左辺と右辺の等号による結合は時間超越的な妥当性を持つので、aからbへの移行は時間概念を含むにしても、関数関係はこのプロセス全体に当てはまる。それは時間的変化についての法則であって、時間的に変化する法則ではない。原因/結果関係や目的/手段関係も、その関係性において時間超越的である。静止的なシステムは、いかにして時間のダイナミズムにおいて変化するのか、などというしばしば立てられる問いは、システム概念に対する誤解に基づいている。
それゆえルーマンが次のような目的論批判をするとき、彼もまた今述べたような通俗的なプロブレマーティクに捕らわれていたと判断できる。
全体/部分の図式が複雑な事態の静態的な秩序モデルであるのに対して、目的/手段図式は直線的に表象された行為の動態的な因果モデルに基づいている。それゆえ一方を他方で“定義”するならば、本質的な相違を見失い、かくして理論の適用に際しては仕返しを受けることになる。[12]
ルーマンは、これでもって目的/手段関係を全体/部分関係として捉えるアリストテレスの目的論を攻撃しているのだが、目的は直線的な行為系列の最後に現れるものではなくて、むしろ全体を動機付け、意味付けているのだから、「手段は目的の“部分”ではなく、せいぜいその中で目的もまた部分機能を満たすだけの行為システムの部分である[13]」というルーマンの目的概念理解の方こそ修正されるべきである。
もっともルーマンは、14年後の著作においては、より洗練された時間理解を示している。
構造とプロセスの本来的な時間性はより厳密に規定される必要がある。単純に構造を無時間的、プロセスを時間的と把握することは間違っているであろう。同様に静態学と動態学あるいは恒常と変化の対立も適切ではない。構造とプロセスの差異はむしろ、不可逆的に形成された時間における可逆性と不可逆性の根源的な(つまり環境被制約的な)差異の再構成に役立つ。[14]
不可逆的に転変する与件を変項として持ちながらも、機能的=関数的構造は、可逆的におのれを反復しつつ、部分に対する全体として時間的多様を超越する。ルーマンの目的論批判から超越論的目的論を救い上げる糸口はここにある。
件の機能的=関数的等値説に戻るが、前に述べたように等値には二つの位階の区別が必要である。先ほどの式における物体の質量mは、個人が日常行うようなレヴェルの小さな値であれ、工場レヴェルの大きな値であれ、同じ関数関係を持つ以上は等値である。このような一階の量化での変項の等値性とは別に、二階の量化でのメタ理論的な等値性が示されなければならない。
ルーマンは、目的論的説明を行為決定の格率としては目的プログラミング(Zweckprogrammierung)と名付け、因果律的説明の 方はやや規範論的に変形させながら、条件プログラミング(konditionale Programmierung)と名付けた上で、二つのプログラミングが機能的=関数的に等値であると主張する[15]。
合理性は目的概念からも、条件化する規範、即ち条件/結果規則(Wenn/Dann-Regel)によっても理解されえない[ … ]。これらのどちらに眼差しを向けても、二つのプログラム形式の間にある等値関係は明らかにはされえない。そのためには包括的で融通性のある理論が必要なのであって、それは差し当り、結果に固定された考察様式から原因に固定された考察様式へと[目的プログラミング的に]眼差しを振り向けることも、また[条件プログラミング的に]その逆にすることもでき、両者の関係を合理化することもできる理論でなければならない。この可能性を提供するのは、(これは翻訳困難であるから、そのまま書くけれども)インプット/アウトプットーモデルという名称で周知のシステムモデルである。[16]
要するに目的プログラミングも条件プログラミングも、自分達の機能的等値性を示せないという点で機能的等値理論と機能的に等値ではないのである。
2. システム合理性と目的論的合理性
では目的プログラミングによっても条件プログラミングによっても理解されないとルーマンが主張するところの合理性とは何か。ウェーバーは目的合理性と価値合理性という二つの合理性概念を提出したが、両者はそれぞれ目的プログラミングと条件プログラミングに対応している。もっともウェーバーの場合、どちらの合理性も目的志向行為をモデルにして説明される。
ルーマンによれば、そのような「合理性概念を、我々はなお余りにも個別的な行為の正しさについての判断と結び付けすぎている - 依然として倫理学に頼っている限りでの話だが[17]」。「システム目的の理論は、目的概念が根本的に個別行為から把握されているがゆえに、問題を孕んだものであり続けたのではないかという嫌疑[18]」をルーマンは持っているのである。しかし目的論を全体部分関係論として理解する目的論者は、このような目的論批判はすでに克服済みである。
しかしそれでもまだ、ルーマンの目的論的行為説明に対する批判点は残っている。目的論的行為説明は複雑性の縮減の結果であって、複雑性の縮減そのものではないという点である。システム論的な「存立モデルが、いわば始めと基礎を作るのであり、これに対して目的モデルが導入されるのは、問題が既に特殊な構造を獲得してしまっている場合、つまり複雑性がすでに大幅に吸収されている場合である[19]」。
ある目的に対してある手段を選ぶとき、行為者の注意の眼差しがその二項に注がれるとき、図に対する地として無限に多くのことが、意識の地平構造において背景へと沈んで行く。その目的を達成するには他にも多くの手段があるし、その各々の手段の行使には無数に多くの条件が前提されている。またそれらの手段の行使は、当の期待された目的以外に随伴的副次的結果をもたらすものである。しかるにシステムは、複数の可能性の中から一つを自分が用いる手段として選択し、それ以外の手段を、そしてその維持には自分の意志を必要とはしない自明な条件や、トリヴィアルな随伴的副次的結果をシステムの境界の外部すなわち環境へと選択的に排除する。
境界の固定化を通して、システムは無限な世界からある断片を《自分の》内的な出来事として特徴付け、この今や見渡し可能な領域のために特別な選択基準を作り上げる。と同時に環境においては、関連する自分の行為の原因や結果の領域は、途方もなく縮小される。システムを環境と結び付ける因果プロセスのどの原因/結果[つまり関心のある結果と結び付いた関心のない原因、関心のある原因と結び付いた関心のない結果]も、そのシステムにとって全く関心がないのである。[20]
ルーマンによれば、合理性とは「何よりもまず複雑性の縮減である[21]」から、目的概念によっては合理性概念を理解することができないことになる。ルーマンが目的論的説明を批判するのはこのためなのであって、目的論をシステム論と同格に並べた上で、目的論ではなくシステム論を、と主張しているわけではない。彼は、目的概念によって行為が正当化できることを否定しているわけではないのである。だから彼は『目的概念とシステム合理性』の序論で次のように言う。
行為の本質は、目的において存立を得て、真理でありうるようになるように見えるし、今日流に言えば、その結果の価値を通して正当化されるように見える。我々が目指すところは、この見解を《論駁する》ことではない。我々はこの見解をある他の理解の基礎の上へと措定することになるであろう。[22]
謂う所の「ある他の理解の基礎」が、機能的=関数的等値説である。機能的=関数的等値説は、「目的/手段計算の外部にシステムとし て立つ。それは目的/手段計算の《基体=主体 Subjekt》であり、その 根底に横たわっている。このシステムが根底に横たわっていること、システムの基体性=主体性を、人はよく考えなければならなくなるであろう[23]」。
システム論は、目的論のメタ理論としてこれを基礎付け、可能ならしめる点で優位を持つ。機能的=関数的等値理論としてのこの優位を認めた上で、しかしシステム論の認識論としてのその妥当性あるいは行為論としてのその当為性を問題にするや否や、かえってシステム論の方が目的論によって基礎付けられなければならなくなるのである。とはいえ、これはたんなる逆転ではない。
混乱を避けるために、システム論によって基礎付けられる目的合理的行為論とシステム論を基礎付ける目的論的行為論というこれまでの論述では明確に区別して来なかった区別を導入することにしよう。前者が所与の目的に対して最適の手段を選択する、つまり仮言命法的・分析判断的に制約から被制約へと下降するのに対して、後者は所与の行為からそれの目的が何であるのかを問う、つまり、定言命法的・総合判断的に被制約から制約へと遡る。複雑性の縮減をも被制約としてその制約を[縮減の結果得られるが・縮減を超越する]目的に求める超越論的目的論が求められる。しかし「超越論的目的論」が何であるかは、第三節で考察することにする。
先ほど引用したように、合理性とは複雑性の縮減である。しかしどのような体験/行為であってもそれは複雑性の縮減であるから、もしこれが定義だとしたら、合理性を非合理性から区別することはできないはずだが、ルーマンによれば、「例えば魔術のような余りにもどぎつくて短絡的な縮減様式は、複雑性の縮減に際して、少なくとも公式に制度化可能な社会的行動の形式としては排除される[24]」のだから、非合理な(排除されるべき)縮減もあることになる。
進化という明らかに価値概念を含んだ現象に関して、ルーマンは次のように述べている。
進化を導く社会システム、つまり社会[ゲゼルシャフト]が更なる発展に対して潜在的可能性を提供しうるのは、高度に複雑化された世界において選択肢の諸可能性を適切な精確さでもって限定することができる時、不満足を宗教や魔術に吸収させたり、蕩尽で紛らわせたりすることなく、その代わりに到達可能な選択肢へと振り向けることができる時、リスクを適切に制度化できる時、不規則なゆらぎに対して十分な現在の安全性を提供できる時、[過去の]決定を覆して学習することができる時、要するに十分に差異化された否定[選択肢]を実践することができる時にのみである。[25]
「適切な安定性と適切な柔軟性を持つように制度化された社会が望ましい」ではあまり答えになっていない。問題は適切/ 不適切をいかなる基準で決めるかである。ルーマンはこれには答えようとしない。それどころか「経験的研究と規範的研究の分離に向けて」が『目的概念とシステム合理性』の「結論」となっているぐらいである。
システム論には「規範的研究」が本当に不要であろうか。
物価の上昇によって必要となった青少年保護施設の養育費の引き上げは、早くかつ的確に指令されうる。大蔵大臣との交渉は長引くかもしれないが、いずれにせよその際、青少年の施設での教育の意味と目的についての問いが新たにじっくり考えられ、答えられる必要はないのである。[26]
養育費は実質的には引き上げられていないのだから、たしかにこのようなトリヴィアルなことならいちいち目的を考えるに及ばないであろう。目的を考慮することなしに「機能的に等値な」手段で置換すればよい。しかるに、もし政府当局が企業の業績悪化を懸念しつつ、当面する景気対策に投資を急いで福祉関係費の切り下げを図るなら、この青少年保護施設の関係者は、「人材こそは国民経済にとって最も貴重な資源であり、また政府が教育等の公共サーヴィスへの投資を通じて所得の平等な再分配を行うことが、ひいては内需の拡大をもたらすのであって」云々と自らのレゾンデトルを、目的概念を用いて説明し、その目的が《経済の活性化》という政府の目的に適合する手段であることを説くことになるであろう。
このように目的を問う必要性は、危機的状況において生じて来る。逆に言えば、トリヴィアルで日常的な行為については、いちいち目的を問う必要はない。我々は普段目的を意識することなく、「かくかくのときはこうせよ」という規則に従って、それもこの規則に従っていることを意識することなく、行為している。このことは目的論の内部で、自己関係的に正当化できる。即ち、「目的を問う」ことは一つの行為であり、したがってそれは「行為の当為性を基礎付ける」という目的によって正当化されるのであり、この目的がないところでは、その行為は行われる必要はない。
システム論から目的論への転換は、実体概念から関数概念へのパラダイム転換に逆らうものではなく、むしろそれの徹底化である。まず価値概念から考察すれば、価値は「Mは目的Zにとってよい」という変項MとZを持つ関数的関係であることになる。「よい」の評価的意味を記述的意味で“定義”するならば自然主義的誤謬に陥ってしまう。価値は事物に内在する実体ではなくて、目的/手段の事象関係の 差異化として存立する。それは手段にはもちろんのこと目的にも内在しない。目的が価値を持つのはより高次の目的との関係においてのみである。目的-手段の連鎖を上昇して行った結果、最高の目的に到達するわ けではない。しかし諸目的の総体概念としての最包括的目的ならある。それはシステムの維持/発展である。
『現象学的に根拠を問う』で確認した通り、価値実体主義の典型とされる、シェーラーの価値倫理学においても、価値はもはや自体的に直観されるものではなくして、対他的な比較の地平において、先取(Vorziehen)と後置(Nachsetzen)の作用によって位階付けられて理解されていた。この先取と後置は、経験的な先取と後置である選択(Wahl)から区別される。
すべての《選択》は、ある行為と他の行為との間で生じる。これに対して先取は何らかの財と価値に関しても生じる。[…]先取は《財》から独立に、価値それ自身のうちに既にある。[27]
ルーマンのテキストから例を一つ取ろう。
私は昼食をとるために仕事を中断することができるが、だからといって仕事の価値を否定するわけではないし、仕事の価値を食事の価値に後置するわけではない。仕事をしながらの食事はうまくないし、食事をしながらの仕事もうまくは成されないから、交互の価値利用の戦略にしたがっているだけなのである。[28]
ここで仕事と食事の二つの行為のレアールな選択ではなくて、二つの価値のイデアールな先取の問いを立てることには余り意味がないように思われる。食事をとるためには(収入がなければならないので)仕事をしなければならないし、仕事をするためには(生き続けなければならないので)食事をしなければならない。両者は、システムの維持というそのシステムにとっての最包括的目的の構成手段としてアレンジされるべきなのである。先取/後置されるべき 選択肢は、仕事に重点を置いた生活と食事(などの快楽)に重点を置いた生活とであろう。
シェーラーの場合、「どの価値が《より高次の価値》であるかは、先取と後置の作用によってそのつど新たに統握されるべきである。このためには論理的演繹では決して置換することができない直観的な《先取の明証》がある[29]」のであった。このように「現象学的価値倫理学は、直観と本質観取で価値システムないしは価値のヒエラルヒーの構築の要求に答えられるとさえ主張していた。だがこの原理の信念は極めて容易に揺るがされうる[30]」。
要するに先取/後置の基準はないのである。どちらを先取するべきかではなくて、具体的行為として(つまり目的被制約的行為として)どちらを選択すべきかだけが問題である。そして、私の結論を言わせてもらえば、どちらを選択するべきであるかは、どちらを選択することが選択されるかということである。
次に当為概念における実体的概念から関数的概念への移行を確認しておこう。目的論(teleology)は、(特に英米系の)倫理学で は義務論(deontology)と対比されるが、後者はメタ倫理学的には直観主義者なのであって、成すべき行為を目的との関係から切り離して考察し、それ自体において価値を具有すると思念する点で非関係論的である。
だがなかには、義務論者カントは、主体性概念を機能的=関数的に理解していたのではなかったのかと反論する人もいるであろう。このように反論する人は、カントの倫理学を目的論と対比された義務論と規定する点において誤りを犯している。カントの倫理学が攻撃しているのは経験的な“目的合理的”倫理学(後に現れた学説で言えば功利主義)であって、カントの倫理学は、むしろそれ自体超越論的に目的論的ですらある。以下この点を三批判書にわたって確認しよう。
『純粋理性批判』において、カントは、「機能=関数(Funktion)でもって、様々な諸表象を一つの共通した表象のもとへと秩序付ける行為の統一性を理解[31]」している。もっともこれは悟性についての説明であって、実践哲学で主題となる能力(理性)についての叙述ではない。理性の方は「本来専ら、悟性とその合目的的配列を対象とするのであり、悟性が客観における多様なものを、概念を通して統合するように、理性は理性で概念の多様を、理念を通して統合する[32]」のだから、理性は悟性なる関数を変項とする二階の関数であることになる。そして理念は「経験の領野へと適用された我々の理性に、目的論的な法則にしたがって世界の諸事物を結合し、このことを通して諸事物の最大のシステム的統一へと至る全く新しい展望を開くのである[33]」。
ここで理性にこだわるのは他でもない、「合理性 Rationalität」の 《ratio》のドイツ語訳が「理性 Vernunft」であるからである。今の引用文から明らかなように、カントはシステム合理性と目的論的合理性を等置している。『実践理性批判』では、理論理性と実践理性が同一であるとされる[34]。
実践理性(善意志=定言命法)は、結局のところ「いかなる理性的存在者も、あたかもその格率を通して常に普遍的な目的の国[Reich der Zwecke]の立法成員であるかのように行為しなければならない[35]」と定式化されるが、カントは「国[Reich]でもって、共通の法則を通しての様々な理性的存在者のシステム的結合を理解して[36]」いる。人間はその感性的側面において様々であるが、理性的存在者という《観点》において《機能的=関数的に等値》である。ここでも目的論はシステム間の秩序ではなくて、目的の国と言う一つのシステムであることに注意したい。
カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』では、それぞれ「目的論は自然を目的の国として考察し、道徳は可能的な目的の国を自然の国として考察する[37]」。『純粋理性批判』と『実践理性批判』の関係を論じた『判断力批判』では、自然が「目的論的システム[38]」と名付けられるに至る。ただ、カントは依然としてキリスト教の伝統に拘束されていた。彼は目的論的連関をただ一つの(つまり環境を持たない)システムにしてしまい、内部の諸対立を予定調和的に調停してしまった。全てを包括するシステム(それは最終的には神である)を拒否し、超越論的目的論をシステム論のメタ理論として位置付ける、つまりシステム間の秩序の学的反省とするとき、不確定的な超越論的目的論が徹底化された形で現れてくる。
3. 超越論的目的論への移行
超越論的哲学の創始者であるカントにおいては、「対象にではなく、むしろそれがアプリオリに可能であるかぎりでの対象についての我々の認識様式一般に携わる認識」が「超越論的」とされることから明かなように、「超越論的」とは、第一義的に自己関係的・自己反省的の謂いである。ところで自己認識は非自己の認識(主観の客観への超越)を媒介としなければならない。主観にとって客観は他のものであるがゆえに、その認識は他のようでありうる。この他なるものへと超越しうる超越可能性が不確定性である。
超越論的主体性は、《自我=自我》の自己同一性から《超越》して、しかし同時に「私には今かくかくに思われる」という認識(この認識は決して誤ることなく、したがって不確定ではない)、つまりたんなる感性内在性からも《超越》し、みずからを不確定性の地平に晒す。それは不確定的な存在であるがゆえに、不確定性を克服しようと努力するのであるが、完全に克服してしまうことはない。
カントにおいても現象と物自体は架橋されることはなかったし、純粋実践理性には物自体的英知的存在者としての性格が与えられたにしても、実践理性と理論理性はフィヒテ以降のドイツ観念論において成されたようなあり方では統合されなかったし、歴史哲学においても「最高の政治的善、すなわち永遠平和への連続的接近[39]」がイデーとして掲げられるに終わった。カントは諸能力の差異を弁証法的に止揚することなく、差異を差異として肯定した哲学者であった[40]。カントの超越論的哲学は、学の必当然性の基礎付けを企てたにもかかわらず、いやそれゆえに不確定性のもとに留まったのである。「ここで機能的=関数的システム論と超越論的ならびに弁証法的伝統との関係についての真剣な議論を開始することができる[41]」とルーマンは言う。
我々は、超越論的理論を、たった一つだけのシステム言及を誤って絶対化したもの(とはいえ同時にまた自己言及理論にとって良いモデル)だと、そして弁証法は、(一方では理論における移行と接続は常に差異性から出発しなければならないのだが)その根底にある同一性を考慮するならば、余りにもリスクが大きいと思う。この問題圏における二つの最も重要な理論の提案から距離を取るならば、機能的=関数的システム論へと移行することになる。[42]
カントの超越論的哲学は、主観の自己反省を《絶-対-化 Ver-ab-solutierung》、つまり他なるもの(客観)との“対=差異の関係”を“絶って”、上空飛行的に自己同一性を保つ悟性として、意識を抽象するわけではないから、ル-マンの超越論的哲学の批判は当らない。同一性と同一性との同一性(大陸合理論)でも、非同一性と非同一性との同一性(イギリス経験論)でもなく、はたまた同一性と非同一性との非同一性(カント)や同一性と非同一性との同一性(ヘーゲル)とも同一ではない《非同一性と非同一性との非同一性》、この差異が差異を差異として差異化する差異の自己反省がルーマンの自己(他者)言及的システム論ということになるのだろうが、しかし非同一性と非同一性は同一であるから(と同時に非同一でもあるのだが)、同一性のモメントを含まなければなるまい。
ところでルーマンによれば「合理性は、差異の概念が自己言及的に役立つとき、すなわちそれが差異の統一性[Einheit 単一性]へと反照されるときに初めて与えられる[43]」。合理性概念は、以前はたんに複雑性の縮減(つまりたんなる差異化)として理解されていたのだが、今の引用文では差異の自己言及性として把握されている。しかし彼が Einheit を持ち出したとき、彼は、ヘーゲル批判に際して斥けた、差異の根底に横たわる、それを包括する同一性概念を暗に想定していることにならないであろうか。
次に目的論の方であるが、カントによれば「哲学とは、全ての認識を人間理性の本質的目的(teleologia rationis humanae)へと関係付け ることについての学である[44]」から、超越論的哲学を超越論的目的論と名付ける十分な根拠があることになる。ただしその目的論の関係付けは、《目的なき合目的性》を統制的理念とする緩やかなものである。「かつて目的論は、自然の運動は、そこにおいて完成状態に到達する自然の《終末=目的》を見出すと想定していた[45]」。
しかし今や不確定的目的論においては、「完成の代わりに完成しうること[Perfektibilität]が登場する。完成しうることは同時に完成の不可能性をも意味する。それゆえにそれはポジティヴに評価されるのだ。というのも、もしも我々が完成に到着してしまうならば、我々には改善の余地がなくなってしまうが、それはあってはならないことなのだ![46]」。
かくして《終わり=目的 end, fin, End》なき目的論が帰結する。絶対者=究極目的の現前をそのつど差延しつつ、超越可能性と超越不可能性の可能性という未規定性の地平のもとで、超越論的目的論は《超越への努力》を統制する。「そこでここでは目的は、統制的理念として新たに定式化されてよい。つまりプロセスの任意の(時間での)始まりと終わりに適合しうる理念としてである[47]」。もし目的論を構成的原理とするならば 再び形而上学的・実体論的目的論へと回帰することになるであろう。
従来の(例えばアリストテレスの)形而上学的・実体論的目的論は、究極目的として完成された必然的なエンテレケイアを想定してきた。 「テロス[終わり=目的]に達したものは、望ましいテロスである場合、またテレイオン[全うしたもの・完成したもの]と言われる。なぜならものがテレイオンと言われるのは、そのテロスに達したことによってだからである[48]」。ルーマンによれば、「必然性とはオートポイエーシス的再生産それ自身に他ならない。その必然性は、再生産にとってたった一つの選択肢しかないこと、システムの中止と終焉にある。この意味において、全ての秩序は反目的論的に整序されている。全ての秩序はまさにこの目的を欲していないのだ![49]」。
オートポイエーシス的「再生産とは、生産されたものからの生産を専ら意味する[50]」のであり、社会システムは、行為のシステムではなくて行為の予期のシステムであり、予期はまさに過去にそのように予期が満たされたがゆえにそう予期されるのであり、その予期が満たされることによって新たな予期とその実現が再生産されて行くのである。しかし予期は常に裏切られる可能性を持っており、オートポイエーシス的再生産の必然性は相対的なものに過ぎない。絶対的な必然性を持つことはシステムにとって定義上不可能なのである。《システム》は《構造》とは異なって境界を、それゆえ環境を必要とする[51]。システムはその複雑性の縮減の地平において、自分が選択する選択肢とは別の選択肢を選択可能性として自分の環境とする。しかるに必然性とは、その反対が不可能な様相であるから、そこにおいてシステムは消滅することになるのである。逆に言えば、不確定的目的論においては、システムは存立し続けるのである。
我々は、複雑性を縮減しなければ、つまり世界を単純化して解釈しなければ少しも行為することはできないであろうが、どのように解釈してもかまわないわけではない。例えば選択肢が二つあって、その両方を選ぶなら矛盾を犯すことになる場合、どちらか一方を選択“しなければならない”。ここにおいて(認識を含めた)行為の規範性、当為性、妥当性が問題となる。もし他のシステムが、自分が選ばなかった選択肢を選ぶならば、相手を認めることがそのまま自分を否定することになるのだから、自分とそのシステムは、システムとしての存立を賭けて闘争状態に入ることになる。
第二節で用いた例をもう一度用いると、青少年保護施設と財界に肩入れする政府当局との“闘争”は、政府予算という希少財の分配を巡るものである。施設の養育費を切り上げることと政府の景気対策とは、本来決して矛盾する関係にない。もし政府予算が十分にあるならば、両者は決して闘争することはないであろう。しかるに予算額の有限性は、二つのシステムに《教育福祉関係費を上げる/上げない》の選択を迫る。施設関係者のシステムは左側の選択肢を選び、行政システムは右側を選ぶ。二つの選択肢を同時に選ぶことができない非両立性が、二つのシステムの対立に他ならない。施設設関係者は、右側を選ぶ政党に対しては選挙で報復するであろうし、政府は、もしそのような報復に出るのなら、今度は教育福祉関係費を切り下げると態度を硬化させるであろうというダブル・コンティンジェンシーの状況下で、どちらのシステムの選択が選択として存立するかは、どちらの選択がシステム間の目的論的権力秩序によって選択されるかにかかっている。
この選択の重層構造を理解するためには、ルーマン謂う所の「ゲセルシャフト Gesellschaft」とシステム間の「相互行為 Interaktion」を 区別しなければならない。ゲゼルシャフトは「相互作用の結果である。それは自分が選ぶところのものとは独立に設立される審級ではない。ゲゼルシャフトは神ではないのだ。[…]ゲゼルシャフトは相互作用を選択し、相互作用はゲゼルシャフトを選択する。どちらの選択も、ダーウイン的な選択概念の意味で、つまり創造主なしで成される。[…]そして選択の選択はゲゼルシャフトと相互作用との差異を通して成されるのだ[52]」。
ルーマンによれば、ゲゼルシャフトは「すべての社会的なものを内に含み、それゆえなんら社会的環境を知らない包括的な社会システム[53]」である。全てを包括するシステムはない[54]のだから、ゲゼルシャフトをシステムと見なすことには問題がないのだが、選択の選択をシステムとすると無限後退に陥る。なぜなら、高次の選択の目的/当為性を問題にすると振り出しの問題に戻ってしまうからである。当為の超越論的基礎付けは、その限界において脱システム論化され、真理=権力の目的論的秩序に委ねられなければならないのである。
4. 参照情報
- 永井俊哉.『システム論序説』Kindle Edition (2015/05/07).
- ニクラス・ルーマン 『目的概念とシステム合理性』勁草書房 (1990/10/1).
- ニクラス・ルーマン『社会システム 上』勁草書房 (2020/1/1).
- ニクラス・ルーマン『社会システム 下』勁草書房 (2020/1/1).
- アリストテレス. 『形而上学』岩波書店 (1959/12/5). 出隆訳.
- ↑本稿の初出は、永井俊哉 “現代社会の成立と複雑性"『現代社会学研究』(第9号 9-19頁 経営社会学会編 1993年3月31日)である。その後、大幅に改訂して、『システム論序説』の第二章第二節になったが、それを再びブログ用の記事にしたのがこのページである。
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