蕩尽と至高性
ニーチェは、父なる神を殺した。その意味で、ニーチェには、エディプス・コンプレックスがあったと言ってよい。父・君主・神は、「呪われた部分」である限り、打倒すべき権威という疎外態である。このページでは、ニーチェのキリスト教批判が何を意味したのかを、バタイユの蕩尽と至高性に関する議論を手掛かりに考えてみたい。

1. 超自我とエロティシズム
発生論的に見て、幼児に最初に権威として立ち現れるのは父親である。人類史の幼児的段階である原始時代においては、父親が氏族社会の政治的指導者であり、クランの空想上の父親が宗教的権威であるトーテムとなっている。国家/文明が成立し、社会が脱血縁化しても、神権政治のファラオは父親的な性格を持っている。さらに時代が進むと、政教が分離されるが、深層心理的には、父親と政治的権力者と神は、等しく欲望を抑圧すると同時に行為を秩序付ける超自我なのである[1]。
超自我は、リビドーの赴くままに振る舞おうとする自我に対して、禁止の命令を下す。これが《快楽原則 Lustprinzip》と《現実原則 Realitätsprinzip》との対立/葛藤である。だがこの対立は見かけだけのものである。欲望を満たすために衝動的に行為すればかえって衝動は満たされないし、しばしば身の破滅を導くので、自我は現実原則に従わなければならない。その意味で、現実原則とは延期された快楽原則である。
フロイトによれば、自我は、外界・超自我・エスの三者の要求を同時に聞かなければならない。簡単に言えば、行為は Sein, Sollen, Wollen の三つの要素によって決まる。だが、自我が聞かなければならない要求は、最終的にはエスのそれだけである。つまり我々は、現実を認識し、普遍的規範にしたがってしか欲望を満たすことができないのである。このように初期のフロイトは、性的快楽一元論である。
しかしフロイトは、臨床的な症例研究を重ねるにしたがって、快楽原則では説明できないような現象、苦痛で不快な外傷的体験の反復強迫(Wiederholungszwang)を見出すようになる。彼自身老いて、関心が性から死に移ったからかどうかは分からないが、後期のフロイトは、“快楽原則の彼岸”に《涅槃原則 Nirvanaprinzip》を想定するようになり、現実原則と快楽原則の対立とは地平を異にした「自我(死の)本能と生(性)の本能の対立[2]」を主題とするようになる。
フロイトは死の本能の方が性/生よりも根源的であるとすら考えていたようである。「本能[Trieb]とは、それゆえ生きた有機体に内在する、以前のある状態を回復しようとする衝動であろう[3]」。「以前のある状態」とは有機体生成以前の無機的状態、つまり生命体にとっては死のことである。そのような生の円環構造は、例えば渡り鳥/産卵期の魚の帰郷・胎児の進化過程の反復・老人の幼年回帰の中に見られる。かくして「全ての生の目標は死である[4]」ということになる。
生命とは、システム論的に言えば、エントロピーの増大によって維持されるネゲントロピーである。それなのに、生命はネゲントロピーの生成なきエントロピーの増大への欲望を持つ。この点に関しては、バタイユはフロイトと違わない。バタイユに特徴的な点は、快楽原則と涅槃原則の近似性を強調して、これを現実原則に対立させる点にある。バタイユによれば、性交は一種の死の体験であり、エロティシズムは《死に至る性の高揚》である。「エロティシズムが全体を全うするのは、愛が一種の殺戮[immolation 供犠]であるかぎりにおいてのみである[5]」。
エディプス・コンプレックスの男の子が去勢のリスクを犯しながら父親の権威に挑むとき、主人と奴隷が承認をめぐる争いをするとき、《死》が小文字の他者を獲得する媒介となっており、それの魅力を際立たせる。《死》こそ《生》の若返りである。実際、バタイユを援用するまでもなく、性/生の本能(エロス)と死の本能(タナトゥス)は対立するというよりもむしろ表裏一体の関係にある。《性》が《生》を生み出す必要があるのは、《生》と《死》が隣り合わせだからである。もし生物の個体が不死ならば、生殖は不要である。それゆえ、死の危険が迫ると生物は性に目覚めるというのは、自然の合目的性である。
論文『快楽原則の彼岸』の終わりの方で、フロイトは「我々は生の本能と死の本能という大きな対立から出発した。対象愛自体も第二のそれのような両極性を我々に示す。愛(親和)と憎(攻撃)の両極性がそれである。もしこれらの両極を相互に関係付け、一方を他方に還元することができたなら![6]」と書いているが、三年後の論文『自我とエス』の中では、この二元論を崩してバタイユに近い主張をしている。曰く、「破壊本能は通常エロスに奉仕し、放出の機能を果たしている[7]」。「完全な性的満足の後の状態と死とは類似しているし、[分裂で増殖する]下等動物では生殖行為と死は一致する[8]」。
2. 呪われた部分としての至高者
フロイトの術語をバタイユの言葉に翻訳すると、現実原則は禁欲と労働による富の蓄積を命じるのに対して、《快楽原則=涅槃原理》は、その富の蕩尽を命じる。マルクスの剰余価値学説が教えるように、人間の労働は、常に消費する富以上の《過剰 excès》を生産するだが、過剰は蓄積されるか蕩尽されるか二つに一つである。
バタイユは富の蕩尽の例として、未開(原始)社会における供犠を挙げる。アステカ人が行う人身御供は、人間という資源の無駄使いであって、何の役にも立たないたんなる蕩尽である。同じことは女の蕩尽にも当てはまる。
少なくとも性的活動(sexualité)は何かの役に立つ[例えば子供の生産に]。しかしエロティシズムは、[…]こちらのほうでは、問題となっているのはある至高な形態であって、何の役にも立ちえない。[9]
“合理的な”近代人は、何の役にも立たないことをするのは非合理だと思うかもしれない。だが役に立つことしかしないほうが、自己目的化した蓄積のための蓄積のほうがずっと非合理なのである。役に立つことは、目的に対する手段の有用性であるから、全く何の役にも立たないことこそが人間にとって究極目的であるということになる[10]。
供犠は、生贄の人間(あるいは動植物)を、そしてさらに供犠執行者をも、有用性の原則が支配する《俗》の世界から引き離し、《聖》の世界へと高める。
供犠に捧げられた動物が、司祭に屠られる場に入るとき、その動物は、人間には閉ざされ、人間にとって何物でもなく、人間はただ外部から知りうる事物の世界から、人間に内在的で親密な世界へと移行し、女性が肉体的な消尽において知られるように[その内奥が]知られるのだ。[11]
この内的体験をバタイユは至高性と名付ける。至高者は、スケープゴートが一般にそうであるように、人々から尊敬される神聖な存在者であると同時に、《呪われた部分》でもある。
至高性は、かつて前近代社会においては、酋長、国王、皇帝、神などに属していた。「至高者[le souverain 君主/主人]は消尽し、労働しない。そのような至高性とは対照的に、奴隷、すなわち持たざる人間は労働して、消尽を、それなくしては生存も労働もできなくなるような必要最小限の生産物の消尽までに切り詰める[12]」。ヘーゲルにおける主人と奴隷の議論を思い出されたい。
「大衆は、至高者の中に、自分たちが客体となるような主体を見る[13]」。そうして「彼等は、至高者と自己同一することができ、彼等の犠牲にされた至高性を至高者に移し置いて、至高者の人格において至高性を凝視することによって、彼等の目的である宗教的法悦に浸る[14]」。至高者はある個人と彼の小文字の他者との間の媒介者である。個人[小文字の主体]の目から見れば、至高者は小文字の他者の意味を引き受けている[15]」。だから至高者は、コミュニケーション・メディアとして大文字の他者の位置を占めている。
もちろんそのような至高者の前近代的君臨形態は、近代社会の成立とともに姿を消していった。それは過剰の蕩尽から過剰の蓄積の優位へという人類史の流れの中で理解される。原始社会においては、労働によって蓄積された富と、供犠によって蕩尽される富とが均衡を成していて、単純再生産が繰り返されていた。社会内部の暴力を外部へと向け、成長を目指して富の蓄積を行うとき、帝国(軍事秩序)が現れ、歴史が始まる。
帝国が行う対外戦争は、人的資源の蕩尽という点で供犠と共通点を持っているが、快楽原則ではなく現実原則に支配されている点で、供犠とは異なる。「戦士の高貴さは、売春婦の微笑のようなもので、その真実は利益にある[16]」。対外戦争を本質とする帝国では、共同体内部での不文律である道徳に代わって、外的で普遍的な法が生まれ、此岸に内在していたアニミスティックな神々は、彼岸へと超越する理性神となる。そして、帝国の膨張が限界に達すると、過剰は蓄積され、さらなる過剰の生産(労働)へと費やされ、産業社会が成立する。
バタイユは、有用性の原理が全てを支配する産業社会、人間を手段に貶しめる資本主義社会に嫌悪感を示す。面白いことに、バタイユはそのような資本主義社会から人間を解放するはずだった共産主義社会に対してもそれ以上の嫌悪感を示す。なぜならば、バタイユにとって共産主義社会とは、資本主義社会とは別の手段を以って成し遂げられた産業社会であるからである。「共産主義は、貧しい国々にとっては、豊かな国々がだいぶ前から成し遂げてきた《産業革命》を行う唯一の手段である[17]」。
ソ連ではスターリンの指導のもとで飛躍的に工業が発展したが、スターリンという人物は、抑圧された人民を解放する革命家というよりは、資本主義社会によく見られる辣腕の経営者に近かった。ソ連は国内的には社会主義社会であっても、世界システム全体から見れば、国家全体がスターリン株式会社であったと考えられる。「ソヴィエトの工業化のためにくたくたになるような労働をさせた後で、一日の労働時間を5時間ないし6時間に短縮し、そうしてできた余暇を、様々な技術を修得するための義務[obligatoire 強制的な]教育に割り当てることを企てる[18]」スターリンの計画は、蓄積のための蓄積を奨励する《プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神》に基づいている。
ここからバタイユは、なぜ社会主義(共産主義)革命が、マルクスが予言したように先進資本主義諸国においてではなく、発展途上国にのみ起こったのかも説明する。
古典的マルクス主義に逆らって、また同時に現代マルクス主義にも逆らって私は強調しておきたいのだが、イギリスやフランスでの革命を始めとして、現代の大革命は全て、崩壊する封建的秩序に関するものである。これまでに確立されたブルジョワの支配を打倒するような大革命は一度も起こっていないのだ。[19]
「古典的マルクス主義」では、資本主義社会でのブルジョワによるプロレタリアートの階級支配も、封建社会での封建領主による農奴の階級支配も、同じような搾取的階級支配とされている。しかしバタイユは両者の間に決定的な差を付ける。
封建的世界においては、富の至高な使用、つまり非生産的な使用が優先された。これとは正反対に、ブルジョワ世界では、蓄積が優先された。ブルジョワジーの間で支配的な価値の感情は、もっとも裕福な階級をして、彼等の資源を生産のために、作業所や工場や鉱山などの設立に投下せしめた。封建的世界は、教会や城館や宮殿を建造したが、その目的は人を驚嘆させることであった。[20]
ルイ14世は、フランス全土から集めた富でベルサイユ宮殿を築き、その豪華さで「人を驚嘆させ」たが、ベルサイユでの日々の蕩尽は、フランスの第三身分から「呪われた部分」となり、革命で有閑階級は打破された。現代の支配階級は勤勉なブルジョワジーであり、彼等が経営/管理労働によって分業の一端を担っているので、寄生虫的な封建領主のように容易に排除できない。「これまでに確立されたブルジョワの支配を打倒するような大革命は一度も起こっていない」所以である。
前著で、発展途上国(周縁/半周縁)での社会主義諸国の誕生は、世界システム全体の中で階級闘争の意味を持っていると主張したが、それはバタイユも認めるところである。
アメリカ合衆国とソヴィエト連邦の敵対関係は、原理的には結局のところ、最も豊かな国と最も貧しい国との敵対関係である。これは疑いもなく、階級的対立の一つの変形であって、米ソ両国では、全社会階層が上から下まで一体となって争っている。[21]
今、無能で寄生虫的な経営者のもとで、低賃金悪待遇に苦しむ労働者が、団結してその経営者を会社から追放し、労働組合主導の“自主管理”企業を経営したとしよう。その際、労働者はもはや生産労働のみに携わるわけには行かず、営業・企画・広報・商品管理・経理・人事等々、ホワイトカラー系の仕事を自ら行わなければならない。
仮に資本を自分たちで調達したとしても、そのような自主管理企業の誕生は資本主義の否定にはならず、資本主義の枠組を前提にしたままでの経営陣の交替でしかない。ライバルの同業企業との関係から、彼等も好むと好まざるとに係わらず、資本主義の論理に巻き込まれていく。自主管理企業といえども、経営でつまずけば倒産することになる。譬話ではあるが、ソヴィエト連邦などの社会主義諸国がたどった運命とはそのようなものではなかったのか。
3. ニーチェによる神の殺害
共産主義と並ぶ20世紀の(そしてバタイユにとっては同時代の)全体主義的政治体制はファシズムである。ファシズムは、共産主義以上に個人の自由を奪い、遊戯空間を圧殺し、搾取した富を対外戦争で蕩尽する至高性である。バタイユはニーチェを模範として思索したが、このことは、彼のファシズム批判と矛盾しない。バタイユが主張するには、ニーチェはファシズムの先駆者どころか反ファシズム的でさえある。実際、ニーチェは、反ユダヤ主義やドイツ国粋主義を嫌悪していた。
ニーチェもバタイユも神の殺害者であり、《権威としての宗教》を否定する無神論者であるが、同じ論理の延長線上で、《権威としての国家》をも否定するアナーキストでもある。バタイユは、もしも、1900年に死亡したニーチェが20世紀を生きたならば、彼はナチズム(一種の社会主義)にもコミュニズムにも反対したであろうと推測する。
奉仕すること(有用であること)の拒否がこの著作[バタイユ著『至高性』]の原理であるように、ニーチェの思想の原理である。ニーチェが神や道徳から遠ざかるのは、個人的に享楽を望むからではなくて、キリスト教において停滞する教化的な(人を奴隷にする)至高性と自己目的化された理性が主体的生と思想を閉塞する事態の両方に抗議するためであった。[22]
ニーチェ自身次のように言っている。
現代の社会主義は、イエズス会派主義の世俗的な副次的形態を作り出そうとしている。すなわち誰もが全くの道具になっている。しかし何のためにという目的は今までに見出されていない。[23]
もちろんニーチェはスターリンもヒットラーも知らない。しかしニーチェが「20世紀の野蛮人[24]」を語るとき、彼はスターリンやヒットラーの出現をあたかも予言していたかのようである(そのように編集されたと言うこともできる)。
キリスト教は、ファシズムや共産主義と同様に、《自由からの逃走》である。フロムによれば、ナチズム以前に、宗教改革に既に自由からの逃走を見て取ることができる。
ルターは、一方で人々を教会の権威から解放したが、他方ではもっとはるかに専制的な権威である神に人々を服従させた。神は救済の必要条件として、人間に完全な服従と個我の滅却を要求した。ルターの“信仰”は、自分を放棄したのだから愛されるに違いないという確信であったが、この解決策は、国家や“指導者”に個人が完全に服従してしまう原理と極めてよく似ている。[25]
予定説を唱えたカルヴァンが、個人に自由を認めず、人間を神に奉仕する奴隷にしたことは付記するまでもない。
神学の神は、自我[le moi]が最終的に賭け[jeu 遊戯]から手を引きたいという郷愁に対する答えに他ならない。神学の神、理性の神は決して自らを賭けに投じない。私たち、この手に余る自我は、かぎりなく自らを賭ける。《コミュニケーション》は、かぎりなく自我を賭けへと投じる。[26]
そして、そこにキリスト教とニーチェの思想の違いがある。
イエスはともかくも、彼の信者は賭けから身を引く。これに対してニーチェの信奉者はそこに身を投じる。[27]
ニーチェは、弱者が信奉するするキリスト教的な奴隷(畜群)道徳と強者のための主人の道徳を区別したが、ファシズムは主人の道徳ではなくて畜群どもの道徳である。ファシズムとは嫉妬と反感のかたまりである大衆による数の暴力なのだ。まさに彼等にとって「赤信号、みんなで渡れば恐くない」である。これに対して「強者は、弱者が団結しようとするのと同じくらい自然必然的に孤立しようとする[28]」。
強者は、個人が全体の一部に成り下がる画一化された畜群社会に飲み込まれることに抵抗する。強者の理念は《超人 Übermensh》であるが、超人とは他人を政治的に支配/指導するフューラーではなくて、自分自身を支配す る克己の理想像である。なるほどニーチェは近代民主主義をも糾弾した。しかしそれは民主主義的平等が自由と矛盾するかぎりである。ニーチェが擁護したのは、個人の自由であり、芸術的遊戯(jeu)であり、文化的創造であった。
政治や軍事ではなくて文化を重視したことも、ニーチェとナチズムの大きな違いである。「ニーチェの精神においては全てが文化に属している。これに対して第三帝国においては、文化は圧縮されて軍事力を目的にしている[29]」。ニーチェは普仏戦争以後、ドイツがフランスに対して軍事的優位に立っていた頃、その文化的衰退を嘆いていた。
ドイツ文化が衰退していることが明白であるだけでなく、衰退の十分な理由も明らかでないわけではない。その理由というのは、結局のところ、誰も持っている以上のものは支出できないということである。このことは個人に関しても民族に関しても妥当する。もし人が権力・大政治・経済・世界貿易・議員制度・軍事的関心のために我が身を消耗するならば、もし自分の持つ全ての知力・真剣さ・意志・克己をこの方面に捧げるならば、他の方面が疎かになる。文化と国家はお互いに敵であることに関して人は勘違いをしてはいけない。“文化国家”はたんに近代の理念に過ぎない。[国家と文化の]一方は他方を食いものにして生き、一方は他方を犠牲にして栄える。文化のあらゆる偉大な時期は政治の衰退期である。即ち、文化面で偉大であるものは非政治的であり、反政治的ですらあった。[…]ドイツが強国として台頭する同じ瞬間にフランスは文化国として新たな重要性を獲得する。[30]
通常ニーチェの哲学の本質は《権力の意志》であるということになっているが、バタイユによれば「幸運[chance]は、権力よりも正確にニーチェの意向を反映したものである[31]」。このように、バタイユがニーチェ解釈において重視する概念は、偶然性であり、(幸)運であり、遊戯である。「chance[可能性・幸運・行き当りばったり]は、échéance[期限]と同じ語源、cadentia[<cadere 落ちる/時期になる]から来ている。幸運とは、偶然に舞い込んできて落ち倒れるものである(最初は幸運か不運かわからない)。それは偶然であり、さいころの落下である。ここから、滑稽なアイデアではあるが、私は超キリスト教[hyper-christianisme]を提案する![32]」。
よく知られている通り、ニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』の冒頭で、精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が子供となる「三つの変化」について語っている。「権力への意志は獅子である。しかし子供は幸運への意志ではないであろうか[33]」。駱駝は、キリスト教であれ、封建社会であれ、社会主義であれ、ファシズムであれ、何であれ、自由を奪う全体主義の課す重荷を自ら進んで担ごうとする段階で、駱駝は畏敬の念を以って権威の奴隷となることに甘んじる。これに対して、己の自由に目覚めた獅子は、龍の「汝なすべし!」という命令に対して、「我意欲す!」という否を叫ぶ。
しかし抑圧に対する反逆という獅子の段階は未だ否定的で、肯定的ではない。創造的に遊戯するのは次の子供の段階においてである。
人間の成熟とは、彼が子供の時に持っていた真剣さを遊戯[Spiel 賭け]において再び見いだすことである。[34]
偶然の理論。魂とは、選択して自己を養う存在者であり、極めて聡明で絶えず創造し続ける(この創造的な力[Kraft]は通常見過ごされている! たんに “受動的” としてしか理解されていない)。私は偶然の中に能動的な力、創造的なものを認識した。―― 偶然自身は、 創造的な衝動が相互に衝突し合うことに過ぎない。[35]
もしここで《力 Kraft》と《権力 Macht》の区別に基づいて、「偶然=幸運=遊戯への意志」を「権力の意志」から区別しようとするならば、それは権力概念の矮小化である。幸運への意志は権力への意志を止揚したものだが、それ自体権力への意志であることにはかわりがない。
『ニーチェについて(Sur Nietzsche ニーチェを越えて)』の中で、バタイユは《幸運の存在論》とでもいうべき哲学的な議論を展開しているので、長くなるが引用しよう。
もし存在時間[l’être-temps]というものがあるのならば、時間は存在を個別的に幸運の落下の中に閉じ込める。諸可能性は分かれて対立する。もし個人[individu 個体]がないならば、すなわち可能な諸事物の分立がないのならば、おそらく時間も存在しないであろう。時間と欲望は同じである。欲望は、時間が存在しなくなることに向けられている。時間とは、時間が存在しなくなることを望む欲望である。欲望は、個人を(他者たち[les autres 他なる諸事物]を)消滅することに向けられている。このことは、各個人にとっては、つまり欲望の主体[主語]にとっては、他者たちを自己へ還元すること(全体者となること)を意味している。全体者 ―― あるいは神 ―― になろうとすることは、時間を消滅させようとすること、幸運(偶然)を消滅させようとすることである。そのようなことを欲しないこと、それが時間を欲し、幸運を欲することである。幸運を欲することが運命愛[amor fati]である。運命愛は、幸運を欲すること、以前そうであった状態とは異なろうとすること、未知のものを獲得し、賭けることを意味している。一者にとって、賭けることは損をするか得をするかの可能性に身をさらすことである。全体にとっては、所与のものを越え出ること、彼方へと移り行くことである。[36]
「時間と欲望が同じである」というのはやや乱暴な言い方だが、消費によって欲望を満たすことも、時間が経過することも、ともにエントロピーの増大である。エントロピーが増大するためには、あらかじめエントロピーが低くなければならないから、欲望が存在するためには「個人」あるいは「諸事物の分立」がなければならない。欲望は、欲望が満たされることを望んでいるが、欲望が満たされればもはや欲望は存在しなくなる。したがって、欲望は自らの存在を否定するために存在している。これが「時間とは時間が存在しなくなることを望む欲望である」という命題の意味である。エントロピーが極大化したとき、時間は消滅し、個人は全体者と一体になる。エクスタシーとはそのような永遠を体験することであり、そこにおいて快楽原則と涅槃原則は一致する。それは現実原則に基づく労働とは対局にある世界だとバタイユは考えていた。
バタイユの破滅の美学によれば、人間の究極目的は、自己保存ではなくて蕩尽である。バタイユが見落としていることは、蕩尽が蕩尽であるがゆえに、同時に生産的でもあるということである。複雑性の増大は複雑性を縮減する。バタイユから見れば、ベルサイユ宮殿で毎晩行われている社交会は、時間と金と労力の浪費である。しかしその浪費は、浪費であるがゆえに至高性である。ブルデューの用語を使って言うならば、社交会での経済資本の消費は、高貴さの誇示と相まって、社交資本の蓄積へと変換される。たんなる享楽も、結果としては労働力の再生産に役立つことになる。目的論的倫理学は、不確定性の増大を、さらなる不確定性の増大を可能ならしめる不確定性の現象という目的で正当化する。遊戯は本来何らかの目的に対する手段的有用性を持つべきではないが、そのように目的を持たない活動であるがゆえにこそ、かえってある目的を達成する。
バタイユが文学から経済学に至るまでの様々なジャンルの著作の中で取り上げる非日常的な内的体験、例えば気違いじみた笑い、涙と嗚咽、エロティシズムと性的恍惚、断末魔の苦しみ、自然美に対する詩的感動、禅の悟りなどは、あらかじめ目的を設定して、それに向かって努力することによって獲得される体験ではなくて、突然思いがけずに、規則性を破って現れる。バタイユはこの開かれた可能性を《非-知 non-savoir》と名付ける。
《非-知》は、日常の平穏な秩序を破壊するゆらぎであるが、《知》の発展にはゆらぎが必要である。バタイユの過激でアナーキーな刹那主義の方向に走れば、つまり全く出たとこ勝負の生き方をするならば、システムは身を滅ぼすことになるが、反対に一切の遊戯空間を抹殺するならば、システムは硬直化し、環境の変化に対応できなくなって身を滅ぼすことになる。我々は《今・ここ》の有限性を超越した目的を持たなければならないが、有限な意識が設定した目的をも超越しなければならない。そのためには遊戯空間が必要なのである。だから遊戯は、システムにとっては生き残りを“賭けた jouer”権力への意志の一つの戦略である。先ほど「幸運への意志は権力への意志を止揚したものだが、それ自体権力への意志であることにはかわりがない」とバタイユを批判したのはそのような意味においてである。
4. 参照情報
- 永井俊哉『社会システム論の構図』Kindle Edition (2015/05/20).
- ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』筑摩書房 (2004/1/11).
- ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』筑摩書房 (2018/1/10).
- ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』筑摩書房 (2002/11/1).
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- ↑Freud, Sigmund. Die Traumdeutung/Über den Traum. 1900. Sigmund Freud Studienausgabe. Bd. 2/3. S. Fischer Verlag. p. 246.
- ↑Freud, Sigmund. Die Traumdeutung/Über den Traum. 1900. Sigmund Freud Studienausgabe. Bd. 2/3. S. Fischer Verlag. p. 248.
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- ↑Bataille, Georges. Œuvres complètes VI. Paris: Gallimard, 1973. p. 140.
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