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日本人はなぜ切腹するのか

2005年11月7日

ハラキリは、海外の辞典にも載っているぐらい有名な、日本人の伝統的な自殺の方法である。苦しいだけでなかなか死なない、こんな非効率な自殺の方法が、なぜ名誉ある死に方として尊重されたのか。千葉徳爾が『日本人はなぜ切腹するのか』で提示したのとは異なる、新たな仮説で、切腹の謎に迫ってみたい。

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吉良邸討ち入り後、切腹をする大石内蔵助[1]

1. 切腹の起源は何か

自分の腹を切るという習慣は、日本にだけあるわけではなく、中国や朝鮮にも存在した。そして、千葉によれば、その起源は、世界中に存在した内臓占いにある[2]。古代のバビロニア人やローマ人は、生贄の動物の内臓を調べて神意を占っていた。内臓占いは、人間に対しても行われ、本心が善か悪かを屍体の内臓を取り出して点検する、いわば「腹を探る」ことが、かつて、世界のさまざまな地域で行われていた。

こうした内臓占いは、生命の本性が内臓に宿っているという思想に基づいている。

日本語でも「腹黒い奴」とか「腹を割って話す」などの表現があって、腹が人間の本心を内部に存在させる場所であるという意識が、古くはあったように思われる。[3]

もしも、腹の中に魂が宿るとするならば、腹を割って、内臓を見せれば、その人の本心を示すことができる。汚ければ、文字通り「腹黒い奴」ということになるし、そうでないなら、文字通り「腹のきれいな人」ということになる。

新渡戸稲造は、1900年に出版した『武士道』“”の中で、切腹の論理を次のように説明している。

我は我が霊魂の座す所を開き、貴殿にそれを見せよう。穢れているか清らかか、貴殿みずからが見よ。[4]

千葉は、新渡戸の説を受け継いでいるわけで、この説を真心顕示説と呼ぶことにしよう。

中国では、切腹のことを剖腹と呼ぶ。中国には、男と交わったと噂された未婚の女性が、身の潔白を証明するために、剖腹して死んだという話がたくさんあるのだが、こうした「剖腹」の伝統は、どのくらい過去にまで遡ることができるのだろうか。

『旧唐書』と『新唐書』の「列伝忠義」には、諸官に皇太子への忠誠心があるのか、それとも「腹に一物ある」のかを試され、「貴君が自分を信じないならば、私の真の心を見せるため、腹を切り開いて、皇太子にそむかないことを証明しよう」と言って剖腹した安金蔵の話がある。だから、中国では、660-670年というかなり早い時期に、剖腹が既に行われていたということになる。

2. 切腹の目的は真心顕示なのか

では、日本の切腹は、中国の剖腹を輸入したもので、その目的も、中国の剖腹と同様に、疑っている人に真心を示すための行為なのだろうか。日本の切腹でも、そう解釈できる事例がいくつかあるが、それは例外的なケースだけであり、以下の理由で、新渡戸と千葉の真心顕示説だけでは、切腹を十分説明することができないと私は考える。

  1. まず、なぜ日本では、切腹が武士の死刑の方法として採用されたのかが説明できない。主人が命じる切腹は、有罪の者に対して行われる刑罰であって、有罪か無罪かを確かめるために行う実検ではない。もしも切腹で、無罪が証明されたなら、切腹を命じた主人の権威が地に堕ちる。したがって、権力者がこのような死刑の方法を採用するはずがない。
  2. また、日本では、中国の安金蔵のように、切腹で真心が示されたからといって、内臓を押し込められ、腹を縫われて、生き延び、皇帝の信用を得て出世したという人の話を聞かない。日本では、周囲が「あっぱれ、お見事」などと褒めながら、切腹人が死ぬのを見届けるあるいは介錯により死期を早めるのはなぜなのか。
  3. さらに、この説だと、なぜ日本では、女性よりも男性、農家よりも武家に切腹する傾向が強いのかが説明できない。無実を証明しなければならないのは、何も武士に限ったことではない。ちなみに、千葉が挙げる中国の剖腹の例の多くは、支配者階級には属さない一般の女性である。

日本人が、世界の多くの古代民族と同様に、腹の中に魂が宿っていると信じていたという新渡戸稲造が唱えた説には賛成である。また、中国の剖腹の習慣が日本に伝来して切腹という習慣になったという可能性も否定しない。しかし、仮に起源が中国だとしても、だからといって、日本人が、中国人と同じ動機で、同じ目的のために腹を切ったはずだと即断はできない。

仏教は、インドから日本に伝来したが、日本で定着した仏教は、本来の仏教とは異なっていた。ガウタマ・シッダールタは、苦から逃れるために、現世への執着を捨て、煩悩から解脱した。ところが仏教を受容した日本の天皇家は、自分が解脱するためではなく、怨霊にこの世への執着を捨ててもらって、成仏してもらうために、仏教を利用しようとした。そのため、日本の仏教は、インドの本来の仏教だけでなく、中国の仏教とも異なる特異なものとなった。

切腹もまた、たとえ中国から入ってきた習慣だとしても、日本人は、それを、当時最も関心が高かった怨霊退散のために転用したと考えることはできないだろうか。千葉の真心顕示説に対して、私の仮説を怨霊対策説と名付けることにしよう。

3. 切腹の起源は縄文時代に遡る

もしも、切腹の習慣が中国から日本に伝来したのだとするならば、切腹の歴史は、東日本より西日本から始まるほうが自然であるように思えるのだが、実際には、逆である。

源氏の出身者あるいは東国に居住していた人物には、かなり多くの切腹を行った者が記載される文献が、平安という古代末期までに見られるのに、同じ文献内でも、平氏一族やその従者としての西国人の側には、それらしき自害もしくは戦場での死はない。[5]

東国には、縄文文化の残滓が色濃く残っている。だから、私は、切腹の思想的根拠は、縄文文化にまで遡れるのではないかと考えている。

私が怨霊対策説を思いついたのは、以前紹介したことがある福島県で起きた死胎分離埋葬事件である。

死胎分離埋葬事件というのは、会津のある村で、懐妊後死亡した母の腹を長男が切って、胎児を摘出して埋葬し、役場に二通の死産届けを出したところ、死体損壊罪として摘発されたという事件である。その後の調査により、この風習は、福島県では昔から広く行われていたことがわかった。

この風習が行われた背景には、死んだ妊婦をそのまま埋めると、胎児の霊が母体から出られなくなり、怨霊としてこの世にとどまるという考えがある。だから、怨霊による祟りを防ぐために、胎児を腹から出して、霊がすぐに生まれ変わるようにするわけである。[6]

妊婦と胎児の関係を武士と魂の関係に置き換えれば、なぜ切腹が必要なのかがわかるであろう。

日本人は、恨みを持つとき、「腹が立つ」「腹に据えかねる」「腸(はらわた)が煮えくり返る」といった表現を使うが、これらは、腹の中にある魂が怨霊化して暴れまわっている様を表している。この状態で死んでしまうと、肉体を持った、暴れまわる怨霊が、この世に留まることになるので、そうならないように、腹を切って、あの世に行ってもらおうというわけである。

4. 腸露出と蛇崇拝の関係

もう一つ、切腹と縄文文化のつながりを指摘しよう。それは蛇崇拝である。千葉によれば、切腹で露出する腸は、くねくねと這う蛇そのものである。

日本人が蛇に対して抱く異常な畏敬や神秘感は、その残影ではあるまいか。蛇類の這ってゆく姿は、哺乳類、ことに雑食・草食のそれの腹部臓器が、それ自体として生きて動くのを思わせるのである。著者も、屠殺場で殺された大家畜のはらわたが、家畜の全身が解体された後まで、まだ蠕動をうねうねとしばらくの間は繰り返すのを実見している。[7]

千葉は、内臓崇拝が蛇崇拝になったと考えているようだが、私はむしろ逆だと思う。蛇崇拝は、ファリック・マザー幻想に基づく普遍的信仰であり、父権宗教が登場する前には世界各地に存在した。この普遍的信仰から、内臓崇拝のような特殊な信仰や切腹のような特殊な習慣が派生したと考えるほうが自然ではないだろうか。

蛇は、母なる海へと流れ込む川、胎内回帰をするためのファルスあるいはへその緒、この世とあの世を結ぶ橋の象徴である。だから、切腹のとき、腸を露出することには、重要な宗教的意味がある。蛇のような腸は、腹の中の魂が、体外に出て、この世からあの世へ行くときの橋の役割を果たしている。

切腹は、夕方に、西を向いて行われることが多かった。これは、仏教思想の影響で、魂が西方浄土へと飛んでいくことができるようにという配慮によると考えられる。

5. 切腹のカタルシス効果

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江戸時代末期の儀礼化された切腹[8]

江戸時代になると、幕府によって切腹は形式化、儀礼化され、腸を露出することが忌まれるようになった。

切腹によってはらわたを出すのを、当時の作法では「無念腹」と呼んで極めて忌むべく禁ずべきこととした。[9]

無念ということは、死を賜った主君に対して恨みがあるということであり、だから忌まれたわけだが、逆に言うと、無念の死を遂げる武士は、無念を晴らすために、はらわたをつかみ出して、放出することを望んだということである。

実際には、はらわたをつかみ出すという行為は、表向きの建前とは異なって、江戸時代になってもしばしば行われていたようで、盛岡藩などは、むしろ恩賞を出してまで無念腹をするように推奨していた。盛岡藩の介錯の作法書には、当然のことながら、無念腹の禁忌はない。

それに相当すると見られる事項として、切腹人の首を打ち落としたとき、その眼が開いていたり、口をあいて舌がはみ出している場合には、その死体の足の裏を十文字に切って創をつけておけと書いてある。[10]

腸をつかみ出したり、眼を剥いたり、舌を出したりすることには、ある共通点がある。それはカタルシスである。カタルシスとは、放出による精神の浄化であり、個人版のスケープゴート排斥である。

もしも、切腹をカタルシスと理解するならば、なぜ切腹の完遂が「あっぱれ」であり「お見事」なのかが理解できる。

「あっぱれ」は「天晴れ」と解されていた。人を恨むとき、心は曇天となる。それが、切腹というカタルシスのおかげで、陰鬱だった心がさわやかに晴れ上がり、魂は、この世への執着がなくなって、晴々した思いであの世に赴くことができる。

「ハレ」というのは、アイヌ語でいえば「パレ」に当たるが、パレというのは、見あらわしめることを意味する。まさにそれは、晴れの舞台という言葉の真の意味を示すものであろう。[11]

「見事(みごと)」は「見物(みもの)」と同じで、切腹人は、舞台の上の悲劇俳優と同じで、涙を流させることで、見る者にもカタルシスをもたらす。現代では、これと同じ状況を、卒業式や定年退職者の送別会などに見出すことができる。たとえそれまでに何かわだかまりがあったとしても、晴れの舞台でのカタルシスにより、送る方も送られる方も、晴々とした気持ちで別れることができる。

しかし、切腹したからといって、必ず怨霊化を防止できるとは限らない。遺恨が強ければ、魂は再び肉体に戻り、祟って復讐するかもしれない(卒業式のアナロジーで言うと大阪府寝屋川市立中央小学校教職員殺傷事件のように)。盛岡藩の作法書に、恨みの強い切腹人の足の裏を傷つけろとあるのは、そうなった場合でも、怨霊が自由に徘徊しないようにするためである。

眼を見開き、舌を喰出すなどの形相を見せるのは怨恨を抱いて死んでゆく者であるから、その霊が出現するのを防ぐ目的で、歩けないように足の裏を深く傷つけたのであろう。当時までは幽霊にも足があって歩くものと考えられたからである。[12]

6. 切腹したのに祟るのはどういう時か

切腹したにもかかわらず、怨霊となって、災いを起こしたと伝えられる場合もある。例えば、『日本九峯修行日記』には、願書を受け取らない邪悪な家老に憤激して切腹し、その家老の家を祟り続けたとされる山伏の話がある。

山伏立腹し、本尊不動へ祈誓(きせい)を掛け、願ひ事成就さへ致す事に候得ば、我れ一命を捨てても苦しからずと云い、即時切腹し、はらわた皆々本尊の体へ塗付け、天をうらみて死せり。其の願書を留め置きたる家老の宅同時に火災起こり、重宝の品皆々焼失す。夫(そ)より引き続き災難数を知らず。[13]

千葉が言うように、これは史実というよりも、民衆の想像力が作り上げたフォークロア(伝承)であるが、そもそも怨霊信仰自体が、想像の産物なのだから、まじめに解釈しなければならない。

この話で、山伏が、切腹した後、自分の腸を、祈誓をかけた本尊に塗り付けたとあるところに注目しよう。既に説明したように、腸は、この世からあの世に行くための橋である。その橋を本尊に架けたということは、山伏の魂は、より神威の高い本尊に乗り移ったということであり、その結果、効力のある祟りが可能になったと民衆は想像したのではないだろうか。

7. 切腹の制度化で激減した大怨霊の出現

以上見たように、切腹したから必ず怨霊にはならないという保証はないが、しかし、切腹が自害の方法として一般化したおかげで、幕府は、藤原氏ほど怨霊慰撫のために苦労しなくてすんだ。やはり、切腹の持つカタルシス効果は大きいといわなければならない[14]

平安時代の終わりにいたるまで、日本の権力者にとっての最大の政治的課題は、怨霊の鎮魂であった。飢饉、地震、雷などあらゆる天災が怨霊の仕業と考えられていた時代なのだから、無理もない。ところが、国家レベルでの怨霊騒動は、鎌倉時代以降下火になる。そして、この時期が、切腹が制度化される時期と重なっているのは、たんなる偶然ではないだろう。

殺生を生業とする縄文人の文化的伝統を引き継いでいる武士には怨霊信仰がないという人もいるが、では、権力者が公家から武家になったから、怨霊問題が消滅したのかといえば、そうでもない。流れ矢に当たって死に、斬首となった平将門は、その後、日本三大怨霊の一つとなった。壇ノ浦に沈んだ平家の武将たちも怨霊となり、平家蟹の伝説が生じた。水死は、切腹とは対照的に、もっとも怨霊になりやすい死に方なのだ。ちなみに、源頼朝は、壇ノ浦に沈んだ安徳天皇の霊を見て驚き、落馬して死んだと『北條九代記』は伝えている。

他方で、藤原通憲(信西)のような公卿でも、『愚管抄』によると、切腹している。信西は怨霊にならなかった。むしろ信西は、讃岐院(崇徳上皇)が書いた写経を拒否したことで、史上最強とも言われる大怨霊を作ってしまった。信西は、こんな怨霊と同じ世界に住みたくないと思って切腹したのかも知れない。

8. 武士道とスポーツマンシップの共通点

怨霊による祟りは、不当な処遇を受けた権力なき者が権力者に報復する手段として、いわば不正義に抗議する手段として機能してきた。もしも切腹によって死後復讐する道が閉ざされるのであれば、切腹を美化する武士道は、支配者階級が、自分たち利益を守るために、被支配者階級に押し付けたイデオロギーということになる。にもかかわらず、武士たちは、切腹を行うことを不満に思うどころか、好んで自発的に切腹したということは、それだけ洗脳が徹底的に行われたということである。

この点で、かつての武士道は、現在のスポーツマンシップとよく似た働きをしている。スポーツでは、腑に落ちない試合で負けても、審判に抗議することなく、相手選手を称えて、潔く負けを認めることがスポーツマンシップの精神であるとされている。相手選手のドーピングや審判の買収を疑ったりして、負けを惜しむと「スポーツマンらしくない」と非難を浴びる。

その結果としてスポーツ業界の腐敗が温存されるわけだが、業界は、選手にスポーツマンシップを遵守させることで、観客の視線を、自分たちの腐敗から「さわやか」で「健全」なスポーツのカタルシス的感動へと振り向けようとする。大衆は、スポーツに酔えば酔うほど、権力の腐敗に盲目となり、熱狂的な英雄崇拝を行うようになり、かくして、権力者にとって御しやすい対象となっていく。ヒトラーをはじめとするポピュリストの政治家がスポーツ振興に力を入れるのは、愚民政策の一環である。

9. なぜ切腹は武士の特権的な死に方なのか

私は、本稿の第2節「切腹の目的は真心顕示なのか」で、新渡戸や千葉の真心顕示説の三つの難点を列挙したが、怨霊対策説は、三つの難点を解消することができる。怨霊対策だからこそ、自発的自害よりも死刑の方法として意味があるのであり、周囲が「あっぱれ、お見事」と言って称えても、それは魂が晴れてあの世に行ってもらうためであって、内臓の色が良かったからといって、露出した内臓を押し込んで、腹を縫うということはしない。

では、三番目の難点はどうか。これは、怨霊は、生前の身分が高ければ高いほど、そしてその権力が大きければ大きいほど、死後強力な災いをもたらすと信じられていたことで説明できる。四谷怪談のお岩のような町の娘が怨霊になったところで、幕府を揺るがすような祟りをなすことはできない。だから、幕府は、支配階級である武士の怨霊化だけを防止すればよかったのだ。

切腹は、高い身分にのみ許された死刑の方法として差別化されていたからこそ、武士は、自発的に自害するときでも、好んで切腹をした。もしも身分を問わず、すべての死罪が切腹ならば、こういうことにはならなかっただろう。

武士であっても、あまりに悪質な罪を犯したときには、武士の身分を剥奪されて、絞首刑その他の屈辱的な方法で殺された。本当に罪のあることをしたならば、死後、呪って復讐することもないから、切腹にする必要はない。逆に、無実の罪で殺されるときには、怨霊になる可能性が高いから、名誉ある死として切腹を賜り、死後の報復を阻止する。

このように、切腹を命じる相手を怨霊になりやすい場合に限定することで切腹の希少価値を高め、かくして武士たちに、これまた怨霊になりやすい自発的自害の場合にも切腹するようにさせていたのだから、幕府のやり方は実に巧妙だと感心せざるを得ない。そして、何のために切腹をさせるのかという政策的意図を隠した点でも巧妙である。私たちは、意図的に隠された、切腹の本来の目的を、切腹が普及し始めた時代の思想にまで遡って、再発見するべきではないだろうか。

10. 参照情報

関連著作

本文では紹介しなかったが、切腹が好まれるのは、切腹による出血と内臓露出がエロティシズムの快感を伴うからという説もある[15]。三島由紀夫に切腹の作法を教えた中康弘通の説である。三島由紀夫のようにバタイユに傾倒したナルシストなら、そういう可能性もあるかもしれない。

注釈一覧
  1. 樵僊. “大石内藏助良雄切腹之圖.” 兵庫県立歴史博物館所蔵. Licensed under CC-0.
  2. 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』東京堂出版 (1994/10). p. 99.
  3. 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』東京堂出版 (1994/10). p. 86.
  4. 新渡戸稲造『武士道』第12章. “I will open the seat of my soul and show you how it fares with it. See for yourself whether it is polluted or clean.” Inazo Nitobe. BUSHIDO ― THE SOUL OF JAPAN.
  5. 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』東京堂出版 (1994/10). p. 158.
  6. 永井俊哉「あの世は縄文時代どこにあったのか
  7. 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』東京堂出版 (1994/10). p. 140-141.
  8. J. M. W. Silver. “Sketches of Japanese Manners and Customs.” Published in London in 1867. Licensed under CC-0.
  9. 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』東京堂出版 (1994/10). p. 14.
  10. 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』東京堂出版 (1994/10). p. 114.
  11. 梅原猛著作集〈8〉日本冒険(下)』小学館 (2001/7/25). p.470
  12. 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』東京堂出版 (1994/10). p. 115
  13. 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』東京堂出版 (1994/10). p. 178-179.
  14. 殺生を生業とする縄文人の文化的伝統を引き継いでいる東国の武士は怨霊にならないという説もあるが、東国武士の先駆けである平将門が日本三大怨霊の一つになったのをはじめ、怨霊となった信じられている武士の例は数多くある。
  15. 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』東京堂出版 (1994/10). p.83-84.