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酒鬼薔薇聖斗のバタイユ的解釈

2015年9月17日

酒鬼薔薇聖斗と名乗る少年Aは、なぜ罪のない子供たちを殺したのか。私は、1999年にバタイユのエロティシズム論をヒントに酒鬼薔薇聖斗の動機を解釈した。その後、2015年になって、酒鬼薔薇聖斗(元少年A)が沈黙を破って『絶歌』という本を出版したり、「存在の耐えられない透明さ」というサイトを立ち上げたりして、自分について語り始めたので、このページでは、1999年初出のメルマガ原稿を再掲しつつ、併せて、新しく出てきた情報を基に、当時の解釈を再検討したい。[1]

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原文再掲
出典:メルマガ・バックナンバー 第8号(1999年10月2日)第9号(1999年10月3日)

さあゲームの始まりです。

愚鈍な警察署君、ボクを止めて見たまえ。

ボクは殺しが愉快でたまらない。

人の死が見たくて見たくてしょうがない。

汚い野菜共には死の制裁を

積年の大恨には流血の裁きを。

SHOOLLKILLER

学校殺死の酒鬼薔薇

挑発的なメッセージが書かれた紙片を、中学校正門前に晒した男児の生首の口にくわえさせ、世間を驚かせた謎の殺人鬼、酒鬼薔薇聖斗は、「中年の変質者」という世間のイメージとは程遠い、ごく普通の中学生であった。今から二年以上前に起きた事件である。

このコラムでは、二回にわたって、エロティシズムが至高の体験であると説くバタイユの哲学を紹介したが、酒鬼薔薇聖斗は、バタイユ教の信仰を実践した熱心な信者だった。もちろん彼は、バタイユなんて名前すら聞いたことがなかっただろうが。

酒鬼薔薇聖斗は、1983年に中流家庭の長男として生まれ、弟たちよりも厳しいしつけを受けて育った。もっとも、育てたのは父親ではない。父親は仕事熱心で、2-3週間家を空けることもあった。休日出勤も珍しくなく、たまの休みにもゴルフに出かけることが多かった。父子の関係は薄かったようだ。

父親の欠如を埋めたのは母親である。母親は世話好きで教育熱心であった。酒鬼薔薇聖斗が小学生の頃から地元の子供会の面倒をよくみて、皆が嫌がるPTA役員も積極的に引き受けた。酒鬼薔薇聖斗へのしつけも幼年期から厳しく、小学校以前は午後五時までに自宅に帰らせた。その時刻を過ぎると、家に入れないこともあった。

酒鬼薔薇聖斗にとって、母親が父(F-OTHER 大文字の他者)の役割を果たしたとするならば、母(m-other 小文字の他者)の役割を果たしたのは、祖母である。祖母は、母親に叱られている酒鬼薔薇聖斗をかばってやった。酒鬼薔薇聖斗も祖母には甘えていた。祖母にねだって買ってもらった愛犬を「おばあちゃんの犬」と呼んでかわいがっていた。そして祖母の言うことには反抗せずに従った。

酒鬼薔薇聖斗が小学校5年生のとき、祖母が亡くなった。「おばあちゃんの犬」も、中学に入る頃に死んでいる。これによって、彼は、愛しかつ愛される関係にある小文字の他者を失った。両親や学校は彼にとって抑圧者でしかなかった。

祖母の死は、酒鬼薔薇聖斗にとって重要な出来事であったに違いないが、検事が記者会見で発表した「祖母が死亡したのをきっかけに死とは何かについて強い関心を抱くようになった」という動機解明には賛成できない。酒鬼薔薇聖斗は、もっと早い段階で暴力に目覚めていたのである。

私は、次の幼児体験に犯罪の原型があったと考えている。酒鬼薔薇聖斗は小学校に入る前、近くに住んでいた少し年上の小学生から奴隷のように扱われていた。幼い酒鬼薔薇聖斗は、このガキ大将の命令で、友達に頭から砂をかけたり、女の子の友達を道路の側溝に突き落としたりといったことをさせられていた。従わないと暴力を振るわれる。酒鬼薔薇聖斗が頭をはたかれ「すいません」と謝っているのを当時の友達が目撃している。

酒鬼薔薇聖斗は、最初暴力に脅されながら暴力を振るった。しかし引越しでガキ大将と縁が切れた後も、弱いものいじめという苦痛に満ちた、しかし同時にサディスティックな欲望を満たす行為を、強迫神経症患者のように何度も繰り返すことになる。

最初彼の暴力は、カエルや鳩や猫といった小動物に向けられる。土師淳君の事件が起きる2年前から、須磨ニュータウンでは、虐待された跡のある猫の死体があっちこっちで発見されている。そのすべてが、酒鬼薔薇聖斗によるものかどうかは分からないが、友人の話によると、酒鬼薔薇聖斗は、猫の舌を何枚か塩水に浸した小瓶をジーパンのポケットに入れて持ち歩いていて、「家の天井裏にあと十枚くらいあるから、欲しかったらあげるで」と言っていたとのことである。

ある同級生が酒鬼薔薇聖斗の猫虐待の話を言いふらしたため、この同級生は酒鬼薔薇聖斗に殴られることになる。後に酒鬼薔薇聖斗は、「学校の先生に殴られて学校に行かなくなった」と言っているが、これは「同級生を殴ったので学校に行かなくなった」の隠喩的置き換えのようである。

97年2月10日、須磨区で二人の小学生の女の子が、酒鬼薔薇聖斗に棒で殴られ、一人は10日間入院した。女の子は、「男は友が丘中のブレザーを着ていた」と言ったので、被害者の父親は友が丘中学校に「在校生の写真を見せろ」と迫ったが、学校側は「プライバシーにかかわるので見せられない」と拒否。結局捜査は進まないまま、うやむやにされてしまった。

97年3月16日、同じく須磨区で小学4年生の山下彩花さんが頭を殴られ死亡。同時に小学3年生の女の子が腹部を刺され2週間のけがを負う。この時、酒鬼薔薇聖斗は、次のような日記をつけている。

H9.3.16愛するバモイドオキ神様へ

今日人間の壊れやすさを確かめるための『聖なる実験』をしました。[…]公園で一人で遊んでいた女の子に『手を洗う場所はありませんか』と話しかけ、『学校にならありますよ』と答えたので案内してもらうことになりました。ぼくは用意していた金づちかナイフかどちらで実験するか迷いました。最終的には金づちでやることを決め、ナイフはこの次に試そうと思ったのです。ぼくは『お礼を言いたいのでこっちを向いてください』と言いました。女の子がこちらを向いた瞬間金づちを振り下ろしました。[…]また女の子が歩いていました。女の子の後ろに自転車を止め、公園を抜けて先回りし、通りすがりに今度はナイフで刺しました。

「バモイドオキ」は一字づつ飛ばすと「バイオモドキ」と読める。この言葉は、「野菜」「実験」という言葉とつながっている。酒鬼薔薇聖斗は、神戸新聞社への犯行声明文のなかで、「一週間に三つの野菜を壊します」と言っているが、「野菜」は、無抵抗な弱者のメタファーである。

引用したメモの横には、ノートいっぱいに次のような図が描かれていた。

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酒鬼薔薇聖斗は、小学校時代、赤色と白色だけの抽象的な絵を描き、図画の教師に「赤は血液で、白は体液」と説明した。だから、この絵に描かれている黒い粒は血液、白い粒は体液と理解するべきである。

上部に描かれている奇妙な人間は、首は切り離され、手と心臓と血管しかない。それ以外の肉は下に切り落とされているように描かれている。これは供犠で屠られた生贄の姿のようである。イエスが処刑されて神の子となったように、原父が殺害されてはじめてトーテムとして子孫たちから畏怖されたように、生贄は、供犠で屠られてはじめて神聖な存在者となるわけである。だからこの人物は、生贄であると同時にバモイドオキ神でもあるわけである。

下半分を見てみると、右に昼の世界、左に夜の世界が描かれている。昼の世界が、現実原則によって支配されたアポロ的な秩序の世界であるのに対して、夜の世界は、すべての差異=秩序が消滅したディオニソス的な祝祭空間で、快楽原則と涅槃原則によって支配されている。私たちは普通この二つの世界を区別している。昼間仕事でいやなことがあっても、夜飲み屋でそのうさを晴らすというように。職場の上司がむかつくことを言ったからといって、その上司をその場ですぐに殴り倒すわけにはいかない。私たちは我慢し「分をわきまえる」。この分別を失うと、文明は、そして人格は成り立たなくなる。

図では、バモイドオキ神が昼の世界と夜の世界の区別を超越する位置にいる。また下半分には、境界線を侵犯する位置に黒丸が描かれている。この黒丸は、上半分に描かれている、ナチスのハーケンクロイツを模した紋章と線対称になっていて、まるで鏡に映し出された影のように相関している。ナチスは殺戮の象徴であり、だからそこから血が流れている。酒鬼薔薇聖斗は、殺戮によって境界線を侵犯できるかどうか実験をしてみたわけである。そして実験は成功した。

日記のなかで、酒鬼薔薇聖斗は、「人間の壊れやすさを確かめる」ことを実験の目的としている。これは生贄となる「汚い野菜ども」が壊れやすいかどうかということと、他ならぬ自分自身の人格が壊れやすいかどうかを確かめる実験でもあったと解釈できる。酒鬼薔薇聖斗は、殺人という超えてはいけない一線をついに超えてしまった。その瞬間、彼は至高のエロティシズムを体験したに違いない。

山下彩花さんの死亡を受けて、須磨署は捜査本部を設置した。捜査本部はいいかげんな目撃証言を重視し、事件をシンナー中毒の少年による犯罪と判断し、エリアを拡大して捜査したため、酒鬼薔薇聖斗は容疑すらかけられなかった。「愚鈍な警察署君」が的外れな捜査をしている間に、酒鬼薔薇聖斗は次の供犠の儀式に向かって準備を始める。

H9.5.8愛するバモイドオキ神様へ

ぼくは今14歳です。そろそろ聖名をいただくための聖なる儀式『アングリ』を行う決意をしなければなりません。ぼくなりに『アングリ』について考えてみました。『アングリ』を遂行する第一段階として学校を休むことを決めました。いきなり休んでは怪しまれるので、自分なりに筋書きを考えました。その筋書きはこうです。

3月16日の「実験」開始からつけている日記はここで終わっている。16日後に土師淳君が行方不明になることを考えると、「アングリ」とは、淳君を屠る儀式のことのようである。もちろんスケープゴートの常として、淳君は、たまたま生贄に選ばれたのであって、酒鬼薔薇聖斗も後に「自分より弱い子をやった」「淳君でなくてもよかった」と供述している。また、なぜ淳君の頭部を切断したのかと聞かれて、「清めの儀式だ、やらなあかん」と答えている。

「聖なる儀式」に付けられた名前、「アングリ」は「ハングリー」を連想させる。バモイドオキ神は、血に飢えているのではないだろうか。バモイドオキ神と酒鬼薔薇聖斗は一体だから、バモイドオキ神が飢えているということは、酒鬼薔薇聖斗もエロティシィズムに飢えているということでもある。

バタイユは、供犠の典型として、メキシコの人身御供に注目していた。メキシコ人は、彼らが崇拝する太陽神が血に飢えていて、血を捧げないと太陽が輝くことをやめると信じていた。メキシコ人が戦争や人身御供をするのは、もっぱら太陽神に糧を与えるためだったのである。祭儀の執行人たちは、戦争で獲得した捕虜を俎板の上に投げ倒し、手足と頭をしっかり押さえつけ、黒曜石の短刀を胸にぐさりと突き立て、ぴくぴくと動く心臓を抉り取り、それを太陽に捧げていた。神官は剥ぎ取った血だらけの皮膚を身につけ、生贄の肉は饗宴で振舞われた。生贄を連れてきた戦士が切り取られた首を片手に踊って、饗宴は締めくくられる。

読者の中には、「バモイドオキ神」や「アングリ」は、ビデオか漫画に出てくる名称で、「バイオモドキ」とか「ハングリー」という意味を読みこむことは無意味ではないかと思う人もいるであろう。たしかに酒鬼薔薇聖斗の自室からは、たくさんのホラービデオや格闘技漫画が見つかっているので、出典はそのうちのどれかにあるのに違いない。しかし私が問題にしたいのは、多くの候補があるはずなのに、なぜこの名称が深層心理の働きによって選ばれたのかということである。

深層心理を読むということは、本人ですら意識していない動機を解明するということである。テレビ朝日の『サンデープロジェクト』で、島田伸介が「本当の動機は、本人以外は誰もわからないでしょうね」と言っていたが、実は本人もわかっていないのである。本人がわからないから、精神分析が必要なのである。

酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)という名前の漢字も、「榊原」という普通の漢字を使っていないのだから、明らかに選ばれた意味がある。「酒」は「酔う」、「鬼」は「殺人鬼」、「薔薇」は「赤色の血液」、「聖斗」は「聖なる闘い」の意味である。全体として、殺人鬼が聖なる闘いで流血に酔いしれるというイメージが浮かび上がってくる。また「SHOOLLKILLER」は、「SCHOOLKILLER」の間違いであるが、間違いにも意味がある。「SHOOLL」は、「シュール」と読める。そこには、シューレアリズム(超現実主義)の連想がある。

酒鬼薔薇聖斗には、現実を超えた想像力があった。彼は、淳君の首を絞め、頭部を切断しただけでなく、「魂を出してあげるために」、口の両端を耳付近まで切り裂き、両まぶたにバツ印の傷をつけるなど、入念な細工をした。そうした儀式の作法は、恣意的なものでなく、彼なりに意味のある必然的なものだったはずだ。逮捕後の供述で、酒鬼薔薇聖斗は、家族や学校の話を聞かれても「うーん」と反応が少ないのに、殺害の手口について聞くと、目を輝かせて能弁に儀式の方法についてしゃべったとのことである。

校門前に晒された頭部が発見されてから8日後、酒鬼薔薇聖斗は、神戸新聞に犯行声明文を送っている。その中で、彼は自分を「透明な存在」と称している。この言葉には二つの意味がある。

「透明な存在」とは、常識的には、警察にはつかまらない、目立たない存在ということである。この少年は実際に外から見ている限り目立たない普通の子供であった。学校の教師は「印象の薄い子」と言い、近所の人たちも「道で会えばあいさつする普通の子」と言っている。

「透明な存在」にはもう一つ隠れた意味がある。虚しい、満たされない、つまりハングリーな存在という意味である。英語の want には、欲望と欠如という二つの意味があるが、満たされない存在であるからこそ、メキシコの太陽神のように、絶えず生贄の血を求めるのである。

「透明な存在」が「ハングリーな存在」であるとするならば、犯行声明文に登場する「世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人」が誰なのかが分かる。バモイドオキ神である。酒鬼薔薇聖斗は、この「友人」に相談してみたところ、「友人」は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすればうるものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界をつくっていけると思いますよ」とアドバイスしている。こんなアドバイスを中学校の同級生がするとは考えられない。

引用文に続けて、酒鬼薔薇聖斗は、「その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した」と述べている。この箇所は、彼にとって復讐がどういう意味をもつかを示す重要な部分である。

犯行声明文には「義務教育と義務教育を生み出した社会への復讐」が書かれているが、記者会見した検事は、「捜査機関に少年以外の者が犯人であると思わせることにより、捜査を撹乱するために作成したと考えている」とのことである。しかしこの解釈は合理主義的すぎる。もし酒鬼薔薇聖斗が、逮捕される可能性を最小にしようとしている合理的な犯罪者であるならば、捜査機関に字体の手がかりを与えるような犯行声明文を書かないはずだし、ましてや中学生であることをほのめかすような「義務教育への復讐」について言及しないはずである。

ではなぜ、酒鬼薔薇聖斗は、「義務教育への復讐」という大義名分を掲げたのか。その答えは、犯行声明文の中に書かれている。「やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむこともできた」が、「世間の注目をあつめ」「せめてあなたたちの空想の中だけでも実在の人間として認めていただきたい」からである。

後に酒鬼薔薇聖斗は、淳君の首を切ったとき、「大した感動がなかった」と供述している。そこで彼は、エロティシズムの感動を極大化するために、「君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えて」いこうとしたわけである。

エロティシズムとはパンツを脱ぐ夜の快楽である。パンツを脱ぐためには、パンツという昼の秩序が必要である。そこで酒鬼薔薇聖斗は、学校やマスコミといった昼の世界を彼のゲームに参加させよとしたのである。この彼のもくろみは成功した。テレビでは、連日のように教育評論家たちが出演して、学校批判を繰り返した。彼らは、酒鬼薔薇聖斗のしかけたゲームにまんまとのせられたのである。

犯人が中学生であることが判明すると、マスコミは、学校や家庭や地域社会に問題があるのではないかと疑った。

しかし学校には、酒鬼薔薇聖斗が妄想したような、「教師に鼻血が出るほど殴られる」という事実はなかった。友が丘中学校の校長が卒業式終了後、不謹慎なところにふらふらと出かけて行って、ゴシップ誌を喜ばせるようなことをしたが、学校側に事件につながる落ち度があったわけではない。

また、母親は、しるけは厳しかったが、所謂「お受験ママ」ではなかった。神戸市には、灘をはじめとする名門私立学校があり、中学受験の競争も激しいところであるが、酒鬼薔薇聖斗は、多くの同級生とは異なって、進学塾に行かず、また二人の弟が通った書道教室にも行かなかった。勉強にはうるさくなかったようだ。

地域社会にも問題はなかった。事件の舞台となった須磨ニュータウンは、兵庫県労働者住宅生協によって開発・分譲された。入居者の多くが労組関係者で、自治会は市内で最も組織力があるとされる。淳君が殺害されたときも、パトロールが自治会活動として行われるなど、コミュニティの連帯は健全であった。

だから、この事件を説明するのに、「学校での管理教育による抑圧」とか「受験競争による心の歪み」とか「地域社会の崩壊」といった現代文明を批判する評論家好みの決り文句は使えない。私は、犯行の原因は、幼児期に味わった、弱いものいじめによるエロティシィズムの反復強迫だと思う。

その意味で酒鬼薔薇聖斗は、オタクの元祖である宮崎勤によく似ている。宮崎勤も小動物の虐殺を繰り返し、最終的に幼女4人を殺害した。自宅には大量のビデオがあった。酒鬼薔薇聖斗は、26歳になった段階で医療少年院から出てくる。きっと宮崎勤のようなロリコン趣味のオタッキーな青年として社会復帰し、新たなエロティシィズムの快楽を求めて幼女を殺害することだろう。

酒鬼薔薇聖斗事件に関連する参考資料

以下は、1997年6月4日に神戸新聞社に送られてきた、酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文である(発表は、6月6日)。参考のために本文全文を引用する。なお改行は無視している。

神戸新聞社へ

この前ボクが出ている時に たまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名前を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた

人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行為はとらないであろう やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない

だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」

その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。しかし今となっても何故ボクが殺しを好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性[サガ]としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

最後に一言

この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね。ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。

― ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている ―

2015年9月17日でのコメント

酒鬼薔薇聖斗(元少年Aを以下こう呼ぶことにする)は、2015年6月11日に『絶歌』という本を出版し、今月に「存在の耐えられない透明さ 」というサイトを立ち上げた。本の方はまた別の機会に取り上げることにして、このページでは、サイト上に掲載されている画像や文章を手掛かりに、十六年前の記事の検証を行いたい。

酒鬼薔薇聖斗はなぜ文筆活動を始めたのか。報道によれば、同年代の恋人女性と一緒に住んでいる [女性セブン2015年7月2日号:酒鬼薔薇 同年代の恋人女性と同棲証言あるも日本脱出は困難か] とのことで、結婚のための資金を手に入れる必要があるからという見方が出ている。そういう動機もあるのだろうが、上に引用した犯行声明文にもある通り、酒鬼薔薇聖斗は「自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている」のだから、自己顕示欲を満たすためというのが第一の動機なのだろう。「存在の耐えられない透明さ 」というタイトルがそれを雄弁に物語っている。

酒鬼薔薇聖斗は、新しく立ち上げたサイトの中で、『絶歌』を書くにあたって、同じ神戸出身の佐川一政の存在を強く意識していたと述べている。

『佐川一政』という稀代の殺人作家の存在は、いつも僕の心の片隅にあった。正直に言えば、彼に“嫉妬”や“羨望”を抱いていた時期もあった。

同じ殺人者でありながら、彼はまったく反省することなく、開き直って自身の犯罪をネタに金を儲け、周囲からちやほやされ、もてはやされ、罪を咎められることもなく、何ら苦悩することもなく、気楽に自分の好きな事だけをやって生きている人のように見えた(実際はそんなことはないだろうと思う)。それに比べ、自分の置かれている惨めな環境、名前を失い、自らを語る声を失い、生きているのか死んでいるのかもわからない毎日が、歯痒くてならなかった。

憧憬の念が裏返り、佐川氏を激しく憎んだこともあった。[2]

酒鬼薔薇聖斗は、1冊目はノンフィクションで、次は小説を書くというプランを持っている[3]とのことなので、今後は佐川一政のように文筆家としてやっていくつもりのようだ。もとより殺人で知名度を高め、それによって作家として成功を収めるという方法には道徳的な問題がある。実際、アマゾンでのレビュー を見ると、殺人をやって金儲けをするのはけしからんと非難轟轟だが、どのような形であれ、手掛かりとなる情報が出てくることは、研究者にとっては有益なことだ。このページでは、道徳的な問題はとりあえず措いて、犯罪者心理の学問的分析を行うことにしたい。

バモイドオキ神

本論に入ろう。「存在の耐えられない透明さ」を一読して、私にとって最も印象的だったのは「僕はおそらく、子供の頃から胎内回帰願望が非常に強かったのではないかと思う[4]」という件だ。胎内回帰願望とは、母なる大地に戻ろうとする欲望であり、エロティシズムとしての死への欲動である。この点で、酒鬼薔薇聖斗をバタイユ的に解釈したことは間違いではなかった。

胎内回帰願望をフロイト=ラカン的に解釈するなら、それは自らが母に欠如したペニスとなって、母の欲望の対象になろうとする母子一体の願望であると言うことができる。この母子による死の抱擁を禁止するのが去勢なのだが、酒鬼薔薇聖斗の場合、去勢が不十分であるため、今でもペニスの生えた母、ファリック・マザーの幻想を抱き続けている。このことは、ギャラリーに掲載されている以下の画像がよく示している。

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アエダヴァーム(生命の樹)" by 元少年A

この画について、酒鬼薔薇聖斗は次のように説明している。

入角ノ池(いれずみのいけ)のほとりには大きな樹があり、樹の根元には女性器のような形をした大きな洞がバックリ空いていた。池の水面に向かって斜めに突き出た幹は先端へいくほど太さを増し、その不自然な形状は男性器を彷彿とさせた。男性器と女性器。アダムとエヴァ。僕は得意のアナグラムで勝手にこの樹を〝アエダヴァーム(生命の樹)″と名付け愛でた[5]

たしかに、この画の中央には、女性器のような形をした大きな洞があり、その中に頭の大きな胎児のような絵が描かれている。木は池の中にあり、それ自体、羊水の中に浮かぶ胎児のようにも見える。木の両側には、酒鬼薔薇聖斗が男性器に喩える二本の枝が伸びている。この木は女性器と男性器を兼ね備えた両性具有(Androgyny)像ということだ。両性具有像は、父権宗教登場以前の、古代社会や未開社会でよく崇拝されている偶像で、ファリック・マザー幻想を可視化した物である。

酒鬼薔薇聖斗は、両性具有像に、男性を象徴するアダムと女性を象徴するエヴァから作ったアナグラムの「アエダヴァーム」という名前を与えている。「得意のアナグラム」と言っているのだから、これまでもアナグラムによる命名を行ってきたのだろう。それなら、「バモイドオキ」を「バイオモドキ」と読んだことは正しかったと言えそうだ。このアナグラムは、奇数番目の文字を拾うと「バイオ」となり、偶数番目の文字を拾うと「モドキ」となり、「アエダヴァーム」と同じ方法で合成されていることがわかる。

これ以外の点でも、「アエダヴァーム」は「バモイドオキ」の解釈に多くの手掛かりを与える。ここでもう一度バモイドオキ神の絵を振り返ってみよう。もっとも、私が十六年前に少年が描いたものとして分析した、朝日新聞(97年7月19日)に掲載された絵は、実際には、少年が描いたものではなくて、少年が描いた絵を朝日新聞の記者が模写したもののようだ。『フォーカス』(98年3月11日号)によると少年が描いたのは、以下の図の一番左の絵であるとのことだ。『フォーカス』(98年3月11日号)の報道が正しいのなら、私の分析を少しく修正しなければならない。フォーカス版では、朝日版とは異なり、酒鬼薔薇聖斗のエンブレムが中央に無く、空っぽの円になっており、アエダヴァームの絵と近い。この円は女性器、あるいは子宮を象徴しているのだろう。

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左の図は『フォーカス』(98年3月11日号)が「少年が書いたもの」と報じたもので、中央は、朝日新聞(97年7月19日)が掲載したもの[6]。一番右の写真は、「存在の耐えられない透明さ/ギャラリー 」に掲載されている。

フォーカス版でも、朝日版でも、バモイドオキ神の下の領域では、右に太陽、左に月という構図になっている。そして「存在の耐えられない透明さ」のギャラリーに掲載された写真(右)もその構図になっており、その中央には、黒く覆面した酒鬼薔薇聖斗が立っている。だから、バモイドオキ神の絵における中央の黒い丸は、自らの立ち位置を示したものと解することができる。

バモイドオキ神が左右に突き出している二本の手は、アエダヴァームの説明を援用するなら、男性器の象徴ということになる。アエダヴァームの枝の先端からは、白い液体のようなものが流れている。酒鬼薔薇聖斗が男性器に喩える以上、これは勃起したペニスから出てきた精液と解釈しなければならない。バモイドオキ神の周辺にも液体のようなものが飛び散っているが、これも体液と解釈してよい。

アエダヴァームの二本の枝を、二匹のナメクジが這っている。「存在の耐えられない透明さ」のギャラリーの主要なモチーフは、ナメクジであり、酒鬼薔薇聖斗がナメクジにかなり固執していることがわかる。彼は「「心象風景」ならぬ「心象生物」という言葉がもしあったなら、不完全で、貧弱で、醜悪で、万人から忌み嫌われるナメクジは、間違いなく僕の「心象生物」だった」[『絶歌』49頁] と言っている。「存在の耐えられない透明さ」のギャラリーでは酒鬼薔薇聖斗がナメクジにまたがっている写真がある。ギャラリーを見ると、どうも酒鬼薔薇聖斗はナメクジを自分のペニスとして扱っているようだ。ナメクジ本体をペニスに喩えることもできるが、ナメクジから突き出ている二本の触角もまるでペニスのようだ。バモイドオキ神やアエダヴァームが左右に突き出している二本の腕は、ナメクジの頭から突き出る二本の触角の触角をイメージしたものであろう。さらにフラクタルに考えるなら、ナメクジの目からあふれ出る涙も、ペニスからあふれ出る精液と解釈できる。

犯行声明以来、酒鬼薔薇聖斗は自らを「透明な存在」とみなしている。ナメクジの体も人間の体液も、透き通っており(少なくとも半透明であり)、その意味で「透明な存在」である。犯行声明で「ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている」とあるが、現在のサイトにおいても、自らの「透明な存在」に「人並み以上の執着心」を持っていることが窺える。

酒鬼薔薇聖斗は「だいたいにおいて僕は、なんでもかんでも暗示的・啓示的に受け取ってしまう傾向がある」 [存在の耐えられない透明さ/レビュー]と言う。解釈者の方でも、なんでもかんでも暗示的・啓示的に受け取って理解しなければならない。ナメクジや、ナメクジの目からあふれ出る涙、ペニスからあふれ出る精液といった「透明な存在」は、ファリック・マザーのファルスのアイコンである。母にはペニスがないのだから、これもまた目には見えない透明な存在である。この不在の現前としてのファルスとの自己同一、すなわち胎内回帰が、酒鬼薔薇聖斗を突き動かしている根源的な欲動である。

アングリ

私は、儀式名「アングリ」を「ハングリ(空腹)」と解釈したが、この解釈も、それ自体は間違っていないと思う。酒鬼薔薇聖斗は、佐藤智加著『肉触』のレビューの中で次のように述べている。

まだ幼い「私」と姉が、空腹に耐えかね道端の草を夢中で貪るシーンに代表される、この作品の途方もないやり切れなさ、切なさを、僕は皮膚感覚で理解できる。

[中略]

あるのはただ、空虚で、透明で、薄っぺらくて、痛痒くて、掴みどころのない、対処不能な、路傍の草をも食したくなるほどの寄る辺なき “存在の飢餓感”だ。

[中略]

身体性がぽっかり抜け落ちているがゆえに、偏執的なまでに身体性に固執し、志向してしまう「私」の物悲しさは、作者の佐藤智加が思春期ド真ん中を過ごした“90年代”という極めて特異な時代の空気感と無関係ではない気がする。[7]

彼は、こう述べて、自分が犯罪を行った90年代に思いを馳せている。英語の“hungry”から H を取れば「アングリ」になる。性的要素を取り除いた飢餓感といったところか。十六年前の記事では、バタイユ的な意味でのエロティシィズムに飢えていると解釈したが、彼はそれ以上のものに飢えていたようだ。犯行声明文で「やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできた」と言いつつ、「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として認めて頂きたい」とも言っている。前者がバタイユ的な意味でのエロティシィズムの飢餓感だとするならば、後者は存在の飢餓感を表明したものと言える。ラカン的に言えば、それは想像界におけるファルスとの自己同一である。「存在の耐えられない透明さ」というサイトのタイトルは、酒鬼薔薇聖斗が今も存在の飢餓感を持ち続けていることを示している。

祖母の死

酒鬼薔薇聖斗にとって、祖母の死が大きな意味を持っていたことは、早い段階から報道されていた。祖母がかわいがっていた「おばあちゃんの犬」も、中学に入る頃に死んでいる。それがトラウマになっていることを窺わせる記述が上野瞭著『ひげよ、さらば』のレビューに見られる。この作品で、片目の猫が、仲間の猫、ヨゴロウザを道連れに焼身自決をはかる時、ヨゴロウザは喪われていた“記憶”を取り戻す。

自分の飼い主であった独り暮らしの老婆が、自分を本当に愛してくれていたその人が、ある日、孤独に耐えかね、膝の上で自分を強く抱きおさえ、部屋に火を放った。またたく間に炎と煙がひろがり、ヨゴロウザは生まれてはじめて老婆に爪を立てた。それでも老婆は手を離さなかった。老婆が倒れ込んだすきに、ヨゴロウザは外へ逃げ出した。それがこの記憶喪失の猫の“過去”だった。

エグい。これはエグすぎる。

このラストのクライマックスを読んだとき、僕はこの老婆に、なぜか祖母の姿を重ねてしまった。僕は猫くらいの大きさで、巨大な祖母が自分の膝の上に僕を抱きおさえ、部屋に火を放っている映像をイメージした。両手の薬指に金の指輪をはめた祖母のマムシ指が、物凄い力で、暴れる僕の背中と頭を乱暴におさえつけている・・・。そんなことを想像した自分自身を嫌悪した。[8]

酒鬼薔薇聖斗自身『ひげよ、さらば』を読んで、喪われていた“記憶”を取り戻したようだ。かわいがってくれた祖母があの世に行ったことを、当時の酒鬼薔薇聖斗は、裏切りと感じたのかもしれない。祖母の死後、残ったのは口うるさい母と希薄な存在の父である。そんな中、酒鬼薔薇聖斗の「趣味」はエスカレートしていく。不幸なことに、それを止める父の名(Noms-du-Père 父から発せられる否)はなかった。

パラノイア的症状

父不在の自分探しはパラノイア的なストーキングにつながる。横井健司監督の映画『観察 永遠に君をみつめて』のレビューで、酒鬼薔薇聖斗は、天体望遠鏡で弥生の観察を続ける茂樹のストーカー行為を容認した父を絶賛している。しかし、父の本来の役割は、息子がファルス探しの漂流を続けなくても済むように、自ら模範を示すことなのだ。だが、酒鬼薔薇聖斗の父はそのような存在ではなかったし、その結果、酒鬼薔薇聖斗には今でもパラノイア的な症状が残っている。

酒鬼薔薇聖斗は、見城徹幻冬舎社長に心酔し、出版を打診したが、断られると罵詈雑言を浴びせるようになった[9]。これは「憧憬の念が裏返り、佐川氏を激しく憎んだ」のと同じで、憧れの相手を激しく憎むのは、パラノイア的なストーカーによく見られる現象である。十六年前の記事では、酒鬼薔薇聖斗をバタイユ的に解釈したが、今ではむしろラカン的に解釈するべきかと考えている。

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