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文学、芸術、宗教といった文化に関する記事。

2013年12月30日

世界では、神は偉大だから崇拝される。ところが、怨霊信仰のある日本では、神は偉大ではないからこそ崇拝される。日本の政治家が靖国神社を訪れることが惹き起こす国際問題は、この違いに対する無理解から生じている。

2009年3月11日

ネット上で発生する祭りは、伝統的な祭りとどのような共通点を持つのか。2ちゃんねるで神と呼ばれるのはどのような人たちか。なぜ2ちゃんねるには「クマー」が出没するのか。2ちゃんねるでのフィールドワークを通して、祭りの民俗学的分析を行い、これらの問いに答えよう。

2008年12月15日

東洲斎写楽は、江戸時代に、突如彗星のごとく華々しく現れ、画期的な浮世絵を大量に発表しながら、10ヶ月で忽然と姿を消した謎の天才絵師である。写楽とはどういう人物だったのか。写楽はあのデフォルメされた役者絵で何を表現したかったのか。写楽にまつわるさまざまな謎を解き明かしたい。

2006年1月28日

浦島太郎と桃太郎は、日本のおとぎ話の分野では、ともに人気があり、有名である。二人の太郎の話は、しかしながら、対照的である。浦島太郎のテーマが、胎内回帰願望と死への欲動であるのに対して、桃太郎のテーマは、胎内回帰の拒否と生への欲動である。すなわち、前者が去勢以前的なファリック・マザー幻想の物語であるのに対して、後者は自発的去勢の物語である。

2006年1月28日

浦島太郎の物語は有名であるが、それが何を伝えようとしているのかははっきりしない。竜宮という理想的異界は、なぜ天の上ではなくて、海の中にあるのか。竜が登場しないのになぜ竜宮なのか。竜宮から出て、玉手箱を開けるとたちまち年をとってしまったことは何を意味しているのか。これら三つの問いに答えることで、浦島伝説の本来の意義を解き明かしたい。

2005年11月26日

イスラム教は、信者の数が、キリスト教についで世界で二番目に多い世界宗教である。にもかかわらず、なぜイスラム教は、仏教やキリスト教などの他の外来宗教とは異なって、日本で信者をほとんど確保することができないのか。小室直樹の『日本人のためのイスラム原論』を読みながら、イスラム教の特異性がどこにあるのかを考えてみたい。

2005年11月23日

イスラム教徒はラマダーンの月に断食をする。断食といっても、日没後は飲食をしてもかまわない。最近では、健康のために断食をする人もいるが、健康が目的なら、就寝前に食べない方が良い。イスラム教徒が断食する理由は、イスラム教の父権宗教としての本質から理解するべきだ。このページでは、イスラム教の聖典である『コーラン(クルアーン)』の記述が何を象徴しているかを考えることで、断食の謎を解くことを試みたい。

2005年11月7日

ハラキリは、海外の辞典にも載っているぐらい有名な、日本人の伝統的な自殺の方法である。苦しいだけでなかなか死なない、こんな非効率な自殺の方法が、なぜ名誉ある死に方として尊重されたのか。千葉徳爾が『日本人はなぜ切腹するのか』で提示したのとは異なる、新たな仮説で、切腹の謎に迫ってみたい。

2005年8月23日

諏訪地方では、御柱祭りで、木落しという、死者がしばしば出る危険な行事が行われる。この古い祭りの本当の意味は何か。梅原猛の『日本冒険』を読みながら、柱や橋の語源をアイヌ語にまで求めつつ、縄文時代の死生観や宇宙観を考えてみよう。

2005年8月23日

竜宮伝説はしばしば機織姫の物語を伴う。なぜ機織姫が竜女になるのか。日本では、鶴女房が機織姫の話として有名である。浦島物語での亀の恩返しと鶴女房での鶴の恩返しには、どのような関係があるのか。『竜蛇神と機織姫―文明を織りなす昔話の女たち』を読みながら考えよう。

2005年8月23日

中国通が書いた龍のトリビア『龍の百科』を読みながら、龍は男なのか女なのかを考えよう。現在の中国人は、男と考えているようだが、もともとそうだったかどうかが問題である。

2005年8月23日

龍(ドラゴン)神話は、洋の東西を問わず、どこにでもある。西洋では、竜は退治される存在でしかないが、なぜ東洋では龍が崇められるのか。竜信仰と蛇信仰は同じなのか。なぜ宇宙の開闢は、暗い水の中にいる龍退治から始まるのか。荒川紘の『龍の起源』を手掛かりに、考えてみたい。

2005年6月17日

イエス・キリストは、なぜスケープゴートとして屠られなければならないのか。なぜ十字架は、キリスト教徒にとって、忌まわしい思い出ではなく、信仰の象徴たりうるのか。イエスの復活はどのように成されたのか。『新約聖書』を読みながら考えよう。

2005年6月16日

ユダヤ人が1948年にイスラエルを建国して以来、中東では戦火とテロが絶えることがない。ユダヤ人は、なぜ平気でアラブ人から土地を奪うことができるのか。ヒントは、先住民族の聖絶を初子奉納として正当化する『旧約聖書』にある。このユダヤ教の正典を読みながら、ユダヤ人たちの選民思想を検討しよう。

2005年5月30日

予備知識なしで『聖書』を読んでも、ほとんどの日本人には、その意味が理解できない。具体的な、わかりやすい話も出てくるが、その寓話を通して、どのようなメッセージが送られているのかまでを読み取らなければならない。『聖書を読みとく―天地創造からバベルの塔まで』を参考に、聖書の本質がどこにあるのかを考えよう。

2005年4月22日

『古事記』には、多くの異界訪問の神話が含まれている。あの世に逝ったり、蘇ったりするというのはどういうことなのか。禊はなぜ必要なのか。因幡のしろうさぎの物語が何を意味しているのか。こうした問題を考えながら読んでみよう。

2005年4月17日

アマテラスは、太陽の女神にして、天皇家の祖先であり、現在は伊勢神宮で祭られている。筑紫申真は、アマテラスの誕生で、アマテラスは、『記紀』が編集された頃、持統天皇をモデルにして作られた新しい神にすぎないと主張している。しかし、私は、アマテラス=卑弥呼説に基づいて、この説を批判したい。

2005年3月13日

古代エジプトは、母権社会的な色彩が強かった。このことは、ファラオ(男性)による統治と太陽崇拝に矛盾しないのか。吉村作治の『ファラオと死者の書―古代エジプト人の死生観』を読みながら、考えよう。

2005年3月10日

最古の文明である古代メソポタミア文明での神話は、日本の神話にどのような影響を与えたか、岡田明子と小林登志子の共著古代メソポタミアの神々―世界最古の「王と神の饗宴」を読みながら、考えてみよう。

2004年12月15日

アニメ映画『千と千尋の神隠し』で、千尋の家族は、トンネルを潜り抜けて、八百万(やおよろず)の神々が住むあの世へと迷い込む。この異界観は、日本では伝統的で、その起源は縄文時代にまで遡る。なぜ縄文時代の日本人は、キリスト教や仏教などの世界宗教が想定するように、あの世が天にあるとは考えなかったのだろうか。

2004年7月1日

十字架がキリスト教の象徴であるということは、常識的に考えると奇妙である。敵対する異教徒の中には、「彼らは、彼らに値するもの(死刑)を拝んでいる」と皮肉る人もいるが、なぜキリスト教徒は、教祖であるイエスを死に追いやった忌まわしい処刑の道具を、キリスト教の象徴として崇拝するのだろうか。イエスは、死後復活したのだから、十字架は、死の克服の象徴だと言う人もいるが、それならば、なぜ、釘とか槍といった他の処刑道具ではなくて、十字架でなければならないのかが問われなければならない。

2004年6月1日

仏教は、カースト制度による伝統的な差別を否定し、万人の平等を説く宗教であるにもかかわらず、女性を蔑視するのはなぜか。この問いに答えるには、そもそもなぜ、仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタが出家をしたのか、その動機を理解しなければならない。

2004年3月1日

浦島太郎の物語のモデルは何だったのか。乙姫様がいた竜宮に、なぜ竜はいなかったのか。そして竜宮という理想郷は、なぜ天の上ではなくて、海の中にあったのか。ジェンダー論の観点から考えてみよう。

2003年7月1日

チャールズ・ダーウィンが、1859年に出版した『種の起源』で進化論の学説を発表し、その学説がキリスト教の聖職者たちから非難されたことはよく知られている。では、なぜキリスト教はダーウィンの進化論と両立しないのか。ダーウィンが指摘した進化という事実が、神は、六日で世界を創造したとき、すべての生物を個別に創ったとする聖書の記述に反したからだと一般に言われているが、はたしてそれだけのことだったのだろうか。

2002年4月5日

三位一体とは、キリスト教の奥義の一つで、神には、父・子・聖霊という異なった三つの位格(persona)があるが、神は実体(substantia)としては同一であるという考えである。この程度のことなら、高校生でも、世界史の授業で習うので、知識としては知っている。でも、異なるけれども同じとはどういうことなのか。弁証法的に考えてみよう。

2001年5月19日

毎年節分の日になると、年男(その年の干支に生まれた人)あるいは一家の主人が「鬼は外、福は内」と言いながら、炒った大豆をまく追儺(ついな/おにやらい)の習慣が日本にある。なぜ炒った豆をまくのか、なぜ節分に鬼を退治するのかをシステム論的に考えてみよう。

1997年9月5日

ニーチェは、父なる神を殺した。その意味で、ニーチェには、エディプス・コンプレックスがあったと言ってよい。父・君主・神は、「呪われた部分」である限り、打倒すべき権威という疎外態である。このページでは、ニーチェのキリスト教批判が何を意味したのかを、バタイユの蕩尽と至高性に関する議論を手掛かりに考えてみたい。