非対称的贈与システム
首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が、満18歳のすべての子供に、高齢者介護などを行う一年間の奉仕活動を義務化することを提言している。「情操教育」と称して、若者に搾取労働を強制し、介護事業の担い手不足の問題を解消しようという、いかにも年寄りたちが思い付きそうなアイデアだが、いったんこの制度が定着してしまうと、廃止は容易ではなくなるだろうと予想される。満18歳以下の国民は、こうした擬似徴兵制に当然反対するであろう。しかし彼らには選挙権がない。選挙権を手にしたときには、奉仕活動を終了している。誰かが奉仕活動を廃止するべきだと主張しても、「自分たちは先輩に奉仕する活動をやらされたのに、後輩たちはやらなくても良いなど許せない」という反対が出て、廃止できなくなってしまう。
1. 非対称的贈与システムとは何か
前の世代に対する犠牲の対価が次の世代によって支払われる年功序列システムは、非対称的贈与システムである。非対称的贈与システムの典型は、「世代間の支え合い」を理念とする公的年金制度だ。
年金制度は、「支え合い」という対称的表現を使っているにもかかわらず、実際は非対称である。こうした非対称な年金制度は、作るのは簡単だが、廃止するのは困難である。制度を作る権力を持っている年寄りたちは、自らを「負担なき受益者」とすることができるが、スタートに「負担なき受益者」を置くと、最後には、「受益なき負担者」ができてしまう。掛け金を支払う若い世代には「ひょっとすると自分は負担者で終わって、受益者にはならないかもしれない」というリスクがあるにもかかわらず、否それゆえにいつまでも非対称的贈与システムは存続するのである。
現在、賦課方式の社会福祉から積み立て方式の社会保険へと公的年金の性格を変えようとする動きがあるが、そうした改革案は、二度払いを嫌がる現在の納税者=有権者が反対するから実現しない。
物々交換に代表される対称的贈与システムでは、受益と負担が共時的に交換される。贈与システムに貨幣が媒介しても同じことである。ハイパーインフレで、紙幣が紙くずになるリスクがないわけではないが、基本的には、「負担なき受益者」も「受益なき負担者」も認めない対称的な交換システムである。しかし非対称的贈与システムでは、ギフトとカウンターギフトとの間に差延があり、かつ構造的に誰かがババをつかまなければならないようになっている。もちろん誰もババをつかみたくない。だから、非対称的贈与システムは、ネズミ講と同様に、被害者を出さないためには常に新たに被害者を作り続けなければならない。
2. 非対称性のオートポイエーシス
権力が権力を正当化するとき、すなわち「正当化の権力」と「権力の正当化」が相互産出的であるとき、権力はオートポイエーシスとして惰性的に存続する。このことは前回確認した。今回は、もっと踏み込んで、オートポイエーシスとしての権力が、権力の非対称性の正当化をどう再生産するか考えてみよう。
権力の非対称性には、固定的な非対称性と流動的な非対称性の二種類がある。前者は、権力者を血統などで固定するが、こうした固定化は、権力から疎外された大衆によって、打倒されやすい。これに対して、後者の場合、権力の座が開かれているので、非対称性そのものは打倒の対象にはなりにくい。皮肉なことに「誰もが権力者になることができる」という平等性が、不平等性の維持に貢献しているのである。
ある学校の落ちこぼれが、学歴社会に反感を抱き、学歴社会を打倒したいと考えたとしよう。ところが学歴社会を変える権力を持っている文部大臣や文部官僚になるためには、高学歴でなければいけないとしよう。するとその落ちこぼれは、「学歴社会を否定するためには、学歴社会を肯定しなければいけない」というディレンマに陥る。権力の非対称性を肯定する通過儀礼を経なければ、権力を手にすることができないシステムでは、こうしたディレンマが起きる。
3. 非対称的贈与が不履行となるとき
もし各エージェントが利己的であるならば、いったん成立した非対称的贈与システムを廃止することは不可能であるように見える。しかし実際にはしばしば自己崩壊するのである。例えば、日本企業に見られた年功序列システムは崩壊しつつある。非対称的贈与システムを維持しようとすると、システムの存続そのものが危ぶまれると判断される時、それは放棄される。若い頃雑巾がけやお茶くみをして組織への忠誠を尽くしたのに、それが報われずにリストラされる中高年という犠牲を出してでも、賃金体系を実力本位にする企業の決断などはそれである。国民年金も、今のままでは、若年層の未加入で、自然崩壊するであろう。
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