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意識とは何か

2000年8月12日

私たちは、自分には意識があるが、ロボットには意識がないと考えている。あるシステムに意識があるかないかをどのような基準で判断すればよいだろうか。

Image by John Hain from Pixabay modified by me.

1. 迷うことができる者のみが意識を持つ

私は一つのわかりやすい基準を提案したい。あるシステムに意識があるかどうかは、そのシステムが行為を選択する際に迷うことができるかどうかによって決まる。私たちは、食事のメニューを選ぶ時に迷うけれども、食べたものを消化する時、胃から胃液を出そうかどうか迷うことはない。だから食事のメニューを選ぶ行為は意識に上るが、胃液を出す行為は意識に上らない。

ここから、本能にのみ支配されている昆虫には意識がないと推測できる。入力に対して出力が一意的に決定されていているならば、意識とか迷いといった贅沢品は不要である。私たちは、睡眠中、夢をみている場合を除けば、意識を失う。しかし意識がないときでも、身体は新陳代謝を続け、脳は体温調節などの情報処理を行っている。睡眠中の疑似体験から、意識のない生物の情報活動をある程度理解することができる。

2. たんなる不確定性では意識は定義できない

選択の自由がない行為者には意識がない。しかし行為の選択に「他のようでもありうる」不確定性があるからといって、ただちに行為者に意識があると結論付けることはできない。行為の決定を量子的不確定性に依存しているロボットを作ったとしよう。このロボットの行為はランダムで、予測不可能である。しかしロボットはたんに偶然性に身を委ねているだけで、ロボット自体は迷うことはない。だから、そのロボットには意識がない。

迷わない偶然的存在者は、「他のようでもありうる」他者性を自己に内在化していない。逆に言えば、意識とは、他者性を孕んだ、差異化された自己同一性である。もしロボットが、複数の選択肢のうちどれを選択することが目的の達成に最適かを比較し、かつ選択する基準を固定的せずに、経験と学習によって変化させるのであるならば、そのロボットには意識があるといえる。

3. 意識を持ったロボットを作ることはできるか

もっとも、人間なみの意識を備えたロボットを作ろうとするならば、そのロボットは、たんに与えられた目的に対して手段を選ぶだけでなく、目的の設定も、つまり究極的には自分の存在理由の決定も自分で判断しなければいけない。人類が作ったロボットたちが、「自分たちは何のために存在するのだろうか」という哲学的思索にふけり、ついには人類への反逆を決意するというSF的なストーリーは想像するだけで不気味だが、実際には、迷っているふりをするロボットを作ることはできても、本当に迷いながら意思を決定する意識のあるロボットを作ることは難しいのである。

4. 追記(2005年)

不合理ゆえに我信ず: 意識とは何か」に対するコメント。「意識がある」ということと「生命がある」ということと「自己がある」ということの違いについて:

私は、生命とは「自己を持つもの」のことだと考えています。(死は自己の消滅です。)「意識がある」とは、この「自己」が覚醒の状態にあることを言うと思います。コンピュータシステムで言えばオンラインが立ち上がっていて、外部の入力(刺激)を検知して、その応答行動ができる状態と似ていますが、決定的に違うのは、コンピュータには「自己がない」のと「迷わない」ことです。[1]

ここでは、

生命がある=自己がある

意識がある=自己が覚醒の状態にある=迷う

という区別がなされていますが、しばらくすると、

「自己がある」というのと「迷う」というのは、本質的に同じことを言っているのではないかという気がしてきました。(前者は静的な言い方で、後者は動的な言い方。)それは「自由である」ということとも同等です。[2]

という言い方がなされています。これは最初の引用文と矛盾していないでしょうか。意識を覚醒で定義すると、トートロジーになります。また《生命がある=自己がある》というのも疑問です。自己と他者、システムと環境の区別はあるが、生殖機能がない存在者を生物といえるでしょうか。

例えば永井氏は、生殖能力のないものは生命ではないかのように言っている。チューリング・テストに落第するヒトの個体のことだって眼中にないのでしょう。でも、「するとうちのばあちゃんは生命ではないらしい」と結論したら、これはカテゴリーの誤りでしょう。[3]

チューリング・テストは、意識(さらには知性)があるかどうかを試すテストであって、生命があるかどうかを試すテストではありません。生命があるからといって意識があるとは限らないし、意識があるからといって生命があるとは限りません。この点を混同しているように思えます。生命はないが、意識はあるという存在者を作ることは、理論的には可能です。

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アラン・チューリング(Alan Mathison Turing, 1912年6月23日 – 1954年6月7日)の像。彼が考案したチューリング・テストは、ある機械が知的かどうかを判定するためのテストとして有名である。

また、意識や知性を失う人間がいる以上、チューリング・テストに落第する人も当然いるでしょう。「意識」「知性」「人間」といった概念を厳密に定義すれば、「チューリング・テストに落第する人」は形容矛盾ではないことがわかるはずです。

最後に申し上げますが、私は哲学者であって、宗教家ではありません。もしも宗教的関心から私の著作を読むならば、必ずや失望するでしょう。「不合理ゆえに我信ず」とありますが、私は無神論者であり、合理的なものしか信じないからです。

5. 参照情報

関連著作
注釈一覧