意識とは何か
私たちは、自分には意識があるが、ロボットには意識がないと考えている。あるシステムに意識があるかないかをどのような基準で判断すればよいだろうか。

1. 迷うことができる者のみが意識を持つ
私は一つのわかりやすい基準を提案したい。あるシステムに意識があるかどうかは、そのシステムが行為を選択する際に迷うことができるかどうかによって決まる。私たちは、食事のメニューを選ぶ時に迷うけれども、食べたものを消化する時、胃から胃液を出そうかどうか迷うことはない。だから食事のメニューを選ぶ行為は意識に上るが、胃液を出す行為は意識に上らない。
ここから、本能にのみ支配されている昆虫には意識がないと推測できる。入力に対して出力が一意的に決定されていているならば、意識とか迷いといった贅沢品は不要である。私たちは、睡眠中、夢をみている場合を除けば、意識を失う。しかし意識がないときでも、身体は新陳代謝を続け、脳は体温調節などの情報処理を行っている。睡眠中の疑似体験から、意識のない生物の情報活動をある程度理解することができる。
2. たんなる不確定性では意識は定義できない
選択の自由がない行為者には意識がない。しかし行為の選択に「他のようでもありうる」不確定性があるからといって、ただちに行為者に意識があると結論付けることはできない。行為の決定を量子的不確定性に依存しているロボットを作ったとしよう。このロボットの行為はランダムで、予測不可能である。しかしロボットはたんに偶然性に身を委ねているだけで、ロボット自体は迷うことはない。だから、そのロボットには意識がない。
迷わない偶然的存在者は、「他のようでもありうる」他者性を自己に内在化していない。逆に言えば、意識とは、他者性を孕んだ、差異化された自己同一性である。もしロボットが、複数の選択肢のうちどれを選択することが目的の達成に最適かを比較し、かつ選択する基準を固定的せずに、経験と学習によって変化させるのであるならば、そのロボットには意識があるといえる。
3. 意識を持ったロボットを作ることはできるか
もっとも、人間なみの意識を備えたロボットを作ろうとするならば、そのロボットは、たんに与えられた目的に対して手段を選ぶだけでなく、目的の設定も、つまり究極的には自分の存在理由の決定も自分で判断しなければいけない。人類が作ったロボットたちが、「自分たちは何のために存在するのだろうか」という哲学的思索にふけり、ついには人類への反逆を決意するというSF的なストーリーは想像するだけで不気味だが、実際には、迷っているふりをするロボットを作ることはできても、本当に迷いながら意思を決定する意識のあるロボットを作ることは難しいのである。
4. 追記(2005年)
「不合理ゆえに我信ず: 意識とは何か」に対するコメント。「意識がある」ということと「生命がある」ということと「自己がある」ということの違いについて:
私は、生命とは「自己を持つもの」のことだと考えています。(死は自己の消滅です。)「意識がある」とは、この「自己」が覚醒の状態にあることを言うと思います。コンピュータシステムで言えばオンラインが立ち上がっていて、外部の入力(刺激)を検知して、その応答行動ができる状態と似ていますが、決定的に違うのは、コンピュータには「自己がない」のと「迷わない」ことです。[1]
ここでは、
生命がある=自己がある
意識がある=自己が覚醒の状態にある=迷う
という区別がなされていますが、しばらくすると、
「自己がある」というのと「迷う」というのは、本質的に同じことを言っているのではないかという気がしてきました。(前者は静的な言い方で、後者は動的な言い方。)それは「自由である」ということとも同等です。[2]
という言い方がなされています。これは最初の引用文と矛盾していないでしょうか。意識を覚醒で定義すると、トートロジーになります。また《生命がある=自己がある》というのも疑問です。自己と他者、システムと環境の区別はあるが、生殖機能がない存在者を生物といえるでしょうか。
例えば永井氏は、生殖能力のないものは生命ではないかのように言っている。チューリング・テストに落第するヒトの個体のことだって眼中にないのでしょう。でも、「するとうちのばあちゃんは生命ではないらしい」と結論したら、これはカテゴリーの誤りでしょう。[3]
チューリング・テストは、意識(さらには知性)があるかどうかを試すテストであって、生命があるかどうかを試すテストではありません。生命があるからといって意識があるとは限らないし、意識があるからといって生命があるとは限りません。この点を混同しているように思えます。生命はないが、意識はあるという存在者を作ることは、理論的には可能です。

また、意識や知性を失う人間がいる以上、チューリング・テストに落第する人も当然いるでしょう。「意識」「知性」「人間」といった概念を厳密に定義すれば、「チューリング・テストに落第する人」は形容矛盾ではないことがわかるはずです。
最後に申し上げますが、私は哲学者であって、宗教家ではありません。もしも宗教的関心から私の著作を読むならば、必ずや失望するでしょう。「不合理ゆえに我信ず」とありますが、私は無神論者であり、合理的なものしか信じないからです。
5. 参照情報
- 下條信輔『〈意識〉とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』講談社 (1999/2/20).
- 茂木健一郎『クオリアと人工意識』講談社 (2020/7/15).
- アントニオ・ダマシオ『意識と自己』講談社 (2018/6/11).
- デイヴィッド イーグルマン『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』早川書房 (2016/9/15).
- ジュリオ・トノーニ, マルチェッロ・マッスィミーニ『意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』亜紀書房 (2015/5/25).
ディスカッション
コメント一覧
「意識とはなにか」を読んで思ったことを書きます。 この前、授業でDennettという人が書いた「Do Animals Have Belief?」という論文を読んだのですが、そこでは、「ある主体が認識し、行動するプロセスは願望(desire)とその願望を満たすための行動に寄与する信念(belief)によって解釈できるのであるから,ある目的や願望などの意図をもち、それを解決するような活動をする主体は信念をもつ。よって自動温度調節装置(thermostats)という機械でさえ温度を一定に保つという目的をもち、その目的を果たすために活動をするのであるから信念をもつのだ。」というようなことが主張されてありました。そこで永井さんの論文を読んで「なるほど。」と思ったのですが、そうなると意識と信念の関係がよくわからなくなってしまいます。二つの論文が正しければ、機械は意識をもたないが信念を持つということになってしまう。 そこらへんを説明してくれると有り難いです。
信念を持つ存在者は、その信念を疑う能力を持つ存在者に限ります。自動温度調節装置の場合、願望や信念を持っているのは自動温度調節装置自身ではなくて、自動温度調節装置を作った人であると解釈するべきです。
サイト内検索で「”自由意志”」と入れると何件か引っかかりますが、ここに疑問を感じました。例えばある人が手を握ったとします。その人の意識には「手を握ろう」という意志があったのでしょう。
しかし、「手を握ろうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか? もしあったとしても、「手を握ろうという意志を持とうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?もしあったとしても、「手を握ろうという意志を持とうという意志を持とうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?もしあったとしても、「手を握ろうという意志を持とうという意志を持とうという意志を持とうという意志を持う」という意志はあったのでしょうか?
これを繰り返すと人の意志に”自由”が入る余地があるのでしょうか?
「意識とは何か」を読むと「迷うことができる者のみが意識を持つ」と書いてあります。迷っている人には「今、直面している問題について考えよう」という意志があると思います。
しかし、「今、直面している問題について考えようという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?
もしあったとしても、「今、直面している問題について考えようという意志を持とうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?もしあったとしても、「今、直面している問題について考えようという意志を持とうという意志を持とうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?もしあったとしても、「今、直面している問題について考えようという意志を持とうという意志を持とうという意志を持とうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?
これを繰り返すと「ほとんどの人が言う意味での意識」は存在するのでしょうか?
以前にこの様な考えを持った人はいる可能性は高いので、もしいたとするならその人の名前を教えてくれませんか?それと、”自由意志”の概念を持つキリスト教の人にこのことを話すとどのように反論するのでしょうか?
最後に、最近思いついた仮説を書きますが私は哲学を学び始めてから日が浅いので、自分の考えの間違いを見落とす可能性があります。なので先生に間違いを指摘してもらいたいと思います。
脳は意識を生み出しますが、だとすると、脳の中で意識を生み出すときの起こる現象と何かが共通している現象が起こればそこに意識が発生する(すぐに別の状態になるでしょうが)のではないでしょうか?ある人の意識に似た意識がいつかどこかで複数発生することになります。とすると、人が死ぬと意識が消滅すると考える人は多いと思いますが、実際は消滅するのではなく変化するということになります。(意識は多くの人が思っている以上に様々な状態を取れるのではないでしょうか?)
これも以前にこの様な考えを持った人はいる可能性は高いので、もしいたとするならその人の名前を教えてくれませんか?
意識とは、他のようでありうる状態を自己原因的に否定できる情報システムの決定プロセスです。もしも、意志を、単にどのように行為するかだけではなく、どのように認識するかを含めた広義の選択プロセスと理解するならば、意識と意志は同じということになります。無力で何もできなくても、こうであればよいのにと願望を持つだけで、意志の自由があるということになります。
KNさんの考えは、デカルト以降大陸で流行した機械論的決定論に近いと判定できます。意志の意志というメタレベルの意志ということで言いたかったことは、因果連鎖の指摘による自由意志の否定ということでしょう。こうした機械論的決定論は、ガリレオやニュートンの決定論的物理学の成功に触発され、それを人間の心にまで広げようとすることで、生まれました。ド・ラ・メトリの『人間機械論』とかは、その典型です。ところが、肝心の物理学が、量子力学の登場以降、非決定論に傾いたために、哲学の世界でも支持者がほとんどいなくなってしまいました。
死後の意識の連続性に関しては、通時的で経路依存的な記憶の蓄積が必要なので、共時的で可逆的な情報処理システムの再構築では不十分です。ただ、現在の科学では、第五世代コンピュータ・プロジェクトの失敗を見ればわかるように、コンピューターエージェントによる死後の魂の再生どころか、コンピュータによる意識のシミュレーションすらできないわけで、あくまでも、SF的な思考実験として考えてください。
ご指摘ありがとうございます。
ただ、少し誤解が生じてしまったようで、私は「運命は決まっているか?」というより、「人間の意識は脳の構造とその変化にのっとって生じているか」ということが言いたかったのです。
それと、永井さんは「こうであればよいのにと願望を持つだけで、意志の自由がある」と書きましたが、以前の投稿を持ち出せば、こうであればよいのにと願望を持ったとしても、こうであればよいのにと願望を持とうという意志はあったか?もしあったとしてもこうであればよいのにと願望を持とうという意志を持とうという意思はあったか?・・・と繰り返すことができます。この点についてのご説明をお願いします。
ただ、私が永井さんの言う「意志の自由」を誤解している可能性があります。「量子的不確定性にも脳の構造とその変化にも影響されない心の中の何らかの現象が存在すること」と受け取ってもよろしいのでしょうか?
最後に、こうであればよいのにと願望することは、薬や体の状態などの要因によって他人が操作することができます。(おそらく、被害者がそうとは気づかずに操作することも可能です。)ということは、加害者が自覚せずに被害者の願望に影響を及ぼし被害者がそれに気づいていない場合、被害者の意志に自由は存在するのでしょうか?なぜ、こうであればよいのにと願望を持つだけで、意志の自由があるということになるのでしょうか?
「人間の意識は脳の構造とその変化にのっとって生じているか」と問われるなら、意識は脳の状態から影響を受けるが、意識と脳は同じではないと答えます。
「こうであればよいのにと願望を持とうという意志はあったか?」という問いに対する答えは、「意志」という言葉の定義しだいです。「意志がある」という言葉が「意識がある」と同じであるほどに広く解釈するなら答えはイエスです。しかし、願望を持つ人は、願望を持つこと自体を願望しているわけではないので、その意味では、「願望を持とうという意志」という表現は不適切です。
たんに行為が不確定であるということと迷うということは同じでないことは、本文で書いたとおりです。薬物や催眠術で知らない間に行為する人には、意識も自由もありません。
返答ありがとうございます。ただ、今回の返答で3つの疑問が生じました。
1、「意識と脳は同じではない」とはどのように証明されるのでしょうか?
2、「願望を持つ人は、願望を持つこと自体を願望しているわけではない」ということは、永井さんも自分の意志(狭義の意味)で生み出したものではないものによって願望し、迷い、行動すると考えているのでしょうか?
3、前回の投稿で「薬」という言葉を使いましたが、そのとき私は強迫性障害の治療薬(健康な人も使っていますが)や媚薬などを想像していました。これらなら意識がなくなることはありません。そのことを踏まえたうえでもう一度質問します。加害者が自覚せずに被害者の願望に影響を及ぼし被害者がそれに気づいていない場合、被害者の意志に自由は存在するのでしょうか?なぜ、こうであればよいのにと願望を持つだけで、意志の自由があるということになるのでしょうか?
返答をお願いします。
1.脳と情報と意識が異なるのは、物質とエントロピーとエネルギーが異なるのと同じことです。
2.願望するとき、人は、ある実現されていないことがらが実現されることを願望しています。そして実現されると願望そのものが消滅します。実現されなければ、願望は、願望として存在し続けます。だから、願望とは、常に願望の非存在の願望なのです。つまり「…を願望する」ということは「…を願望することを願望しない」ということなのです。
3.車のハンドルが一時的に動かない時、「ハンドルは存在するが、それを動かすことができなかったので、車は直進せざるをえなかった」と言うことができます。しかし、常に全くハンドルを動かすことができないなら、それはハンドルではなくてたんなる突起に過ぎないから、「ハンドルが存在しないから、車は直進せざるをえなかった」と言わなければなりません。同じことは、意識と身体行動についても当てはまります。
返答ありがとうございます。ただ、前回の質問がよくなかったかもしれませんのでまた質問します。
1、相対性理論などには詳しくないのですが、「脳と情報と意識が異なるのは、物質とエントロピーとエネルギーが異なるのと同じことです」ということは物質の分布とエネルギーの分布は完全には対応してないということでしょうか?
2、(前回の質問で望んでいた答えと返答が違っていたので質問しなおします。)「願望を持つ人は、願望を持つこと自体を願望しているわけではない」ということは自分の意志(狭義の意味)で生み出したものではないものによって願望しているので「こうであればよいのにと願望を持つ」だけで意志の自由があると判断するのは誤りではないでしょうか?
3、永井さんの返答を持ち出せば、人間は「ハンドルは存在するが、それを動かすことができなかった」と「ハンドルが存在しない」を完全に見分けることはできないので、この考え方でも「こうであればよいのにと願望を持つ」だけで意志の自由があると判断するのは誤りではないでしょうか?
物質とエントロピーとエネルギーの違いを知りたければ、相対性理論ではなくて、熱力学あるいは統計力学を勉強してください。残りの質問に対しては、同じ回答を繰り返すしかありません。願望を持つということは、その主体には、願望を実現する能力があるということです。願望が実現できない場合があっても、願望を持つという事実がある以上、その主体には、願望を実現することができる場合があるはずです。そうでなければ、その主体には、願望など不要だし、意識すらなくなります。「動かないハンドル」が、「本来は動かすことができる」ことを含意し、原理的に動かないなら、それは「動かないハンドル」ではなくて、「ハンドルではないたんなる突起」でしかないというメタファーで言いたこたことはそういうことです。