意識とは何か
私たちは、自分には意識があるが、ロボットには意識がないと考えている。あるシステムに意識があるかないかをどのような基準で判断すればよいだろうか。

1. 迷うことができる者のみが意識を持つ
私は一つのわかりやすい基準を提案したい。あるシステムに意識があるかどうかは、そのシステムが行為を選択する際に迷うことができるかどうかによって決まる。私たちは、食事のメニューを選ぶ時に迷うけれども、食べたものを消化する時、胃から胃液を出そうかどうか迷うことはない。だから食事のメニューを選ぶ行為は意識に上るが、胃液を出す行為は意識に上らない。
ここから、本能にのみ支配されている昆虫には意識がないと推測できる。入力に対して出力が一意的に決定されていているならば、意識とか迷いといった贅沢品は不要である。私たちは、睡眠中、夢をみている場合を除けば、意識を失う。しかし意識がないときでも、身体は新陳代謝を続け、脳は体温調節などの情報処理を行っている。睡眠中の疑似体験から、意識のない生物の情報活動をある程度理解することができる。
2. たんなる不確定性では意識は定義できない
選択の自由がない行為者には意識がない。しかし行為の選択に「他のようでもありうる」不確定性があるからといって、ただちに行為者に意識があると結論付けることはできない。行為の決定を量子的不確定性に依存しているロボットを作ったとしよう。このロボットの行為はランダムで、予測不可能である。しかしロボットはたんに偶然性に身を委ねているだけで、ロボット自体は迷うことはない。だから、そのロボットには意識がない。
迷わない偶然的存在者は、「他のようでもありうる」他者性を自己に内在化していない。逆に言えば、意識とは、他者性を孕んだ、差異化された自己同一性である。もしロボットが、複数の選択肢のうちどれを選択することが目的の達成に最適かを比較し、かつ選択する基準を固定的せずに、経験と学習によって変化させるのであるならば、そのロボットには意識があるといえる。
3. 意識を持ったロボットを作ることはできるか
もっとも、人間なみの意識を備えたロボットを作ろうとするならば、そのロボットは、たんに与えられた目的に対して手段を選ぶだけでなく、目的の設定も、つまり究極的には自分の存在理由の決定も自分で判断しなければいけない。人類が作ったロボットたちが、「自分たちは何のために存在するのだろうか」という哲学的思索にふけり、ついには人類への反逆を決意するというSF的なストーリーは想像するだけで不気味だが、実際には、迷っているふりをするロボットを作ることはできても、本当に迷いながら意思を決定する意識のあるロボットを作ることは難しいのである。
4. 追記(2005年)
「不合理ゆえに我信ず: 意識とは何か」に対するコメント。「意識がある」ということと「生命がある」ということと「自己がある」ということの違いについて:
私は、生命とは「自己を持つもの」のことだと考えています。(死は自己の消滅です。)「意識がある」とは、この「自己」が覚醒の状態にあることを言うと思います。コンピュータシステムで言えばオンラインが立ち上がっていて、外部の入力(刺激)を検知して、その応答行動ができる状態と似ていますが、決定的に違うのは、コンピュータには「自己がない」のと「迷わない」ことです。[1]
ここでは、
生命がある=自己がある
意識がある=自己が覚醒の状態にある=迷う
という区別がなされていますが、しばらくすると、
「自己がある」というのと「迷う」というのは、本質的に同じことを言っているのではないかという気がしてきました。(前者は静的な言い方で、後者は動的な言い方。)それは「自由である」ということとも同等です。[2]
という言い方がなされています。これは最初の引用文と矛盾していないでしょうか。意識を覚醒で定義すると、トートロジーになります。また《生命がある=自己がある》というのも疑問です。自己と他者、システムと環境の区別はあるが、生殖機能がない存在者を生物といえるでしょうか。
例えば永井氏は、生殖能力のないものは生命ではないかのように言っている。チューリング・テストに落第するヒトの個体のことだって眼中にないのでしょう。でも、「するとうちのばあちゃんは生命ではないらしい」と結論したら、これはカテゴリーの誤りでしょう。[3]
チューリング・テストは、意識(さらには知性)があるかどうかを試すテストであって、生命があるかどうかを試すテストではありません。生命があるからといって意識があるとは限らないし、意識があるからといって生命があるとは限りません。この点を混同しているように思えます。生命はないが、意識はあるという存在者を作ることは、理論的には可能です。

また、意識や知性を失う人間がいる以上、チューリング・テストに落第する人も当然いるでしょう。「意識」「知性」「人間」といった概念を厳密に定義すれば、「チューリング・テストに落第する人」は形容矛盾ではないことがわかるはずです。
最後に申し上げますが、私は哲学者であって、宗教家ではありません。もしも宗教的関心から私の著作を読むならば、必ずや失望するでしょう。「不合理ゆえに我信ず」とありますが、私は無神論者であり、合理的なものしか信じないからです。
5. 参照情報
- 下條信輔『〈意識〉とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』講談社 (1999/2/20).
- 茂木健一郎『クオリアと人工意識』講談社 (2020/7/15).
- アントニオ・ダマシオ『意識と自己』講談社 (2018/6/11).
- デイヴィッド イーグルマン『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』早川書房 (2016/9/15).
- ジュリオ・トノーニ, マルチェッロ・マッスィミーニ『意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』亜紀書房 (2015/5/25).
ディスカッション
コメント一覧
「意識とはなにか」を読んで思ったことを書きます。 この前、授業でDennettという人が書いた「Do Animals Have Belief?」という論文を読んだのですが、そこでは、「ある主体が認識し、行動するプロセスは願望(desire)とその願望を満たすための行動に寄与する信念(belief)によって解釈できるのであるから,ある目的や願望などの意図をもち、それを解決するような活動をする主体は信念をもつ。よって自動温度調節装置(thermostats)という機械でさえ温度を一定に保つという目的をもち、その目的を果たすために活動をするのであるから信念をもつのだ。」というようなことが主張されてありました。そこで永井さんの論文を読んで「なるほど。」と思ったのですが、そうなると意識と信念の関係がよくわからなくなってしまいます。二つの論文が正しければ、機械は意識をもたないが信念を持つということになってしまう。 そこらへんを説明してくれると有り難いです。
信念を持つ存在者は、その信念を疑う能力を持つ存在者に限ります。自動温度調節装置の場合、願望や信念を持っているのは自動温度調節装置自身ではなくて、自動温度調節装置を作った人であると解釈するべきです。
サイト内検索で「”自由意志”」と入れると何件か引っかかりますが、ここに疑問を感じました。例えばある人が手を握ったとします。その人の意識には「手を握ろう」という意志があったのでしょう。
しかし、「手を握ろうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか? もしあったとしても、「手を握ろうという意志を持とうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?もしあったとしても、「手を握ろうという意志を持とうという意志を持とうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?もしあったとしても、「手を握ろうという意志を持とうという意志を持とうという意志を持とうという意志を持う」という意志はあったのでしょうか?
これを繰り返すと人の意志に”自由”が入る余地があるのでしょうか?
「意識とは何か」を読むと「迷うことができる者のみが意識を持つ」と書いてあります。迷っている人には「今、直面している問題について考えよう」という意志があると思います。
しかし、「今、直面している問題について考えようという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?
もしあったとしても、「今、直面している問題について考えようという意志を持とうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?もしあったとしても、「今、直面している問題について考えようという意志を持とうという意志を持とうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?もしあったとしても、「今、直面している問題について考えようという意志を持とうという意志を持とうという意志を持とうという意志を持とう」という意志はあったのでしょうか?
これを繰り返すと「ほとんどの人が言う意味での意識」は存在するのでしょうか?
以前にこの様な考えを持った人はいる可能性は高いので、もしいたとするならその人の名前を教えてくれませんか?それと、”自由意志”の概念を持つキリスト教の人にこのことを話すとどのように反論するのでしょうか?
最後に、最近思いついた仮説を書きますが私は哲学を学び始めてから日が浅いので、自分の考えの間違いを見落とす可能性があります。なので先生に間違いを指摘してもらいたいと思います。
脳は意識を生み出しますが、だとすると、脳の中で意識を生み出すときの起こる現象と何かが共通している現象が起こればそこに意識が発生する(すぐに別の状態になるでしょうが)のではないでしょうか?ある人の意識に似た意識がいつかどこかで複数発生することになります。とすると、人が死ぬと意識が消滅すると考える人は多いと思いますが、実際は消滅するのではなく変化するということになります。(意識は多くの人が思っている以上に様々な状態を取れるのではないでしょうか?)
これも以前にこの様な考えを持った人はいる可能性は高いので、もしいたとするならその人の名前を教えてくれませんか?
意識とは、他のようでありうる状態を自己原因的に否定できる情報システムの決定プロセスです。もしも、意志を、単にどのように行為するかだけではなく、どのように認識するかを含めた広義の選択プロセスと理解するならば、意識と意志は同じということになります。無力で何もできなくても、こうであればよいのにと願望を持つだけで、意志の自由があるということになります。
KNさんの考えは、デカルト以降大陸で流行した機械論的決定論に近いと判定できます。意志の意志というメタレベルの意志ということで言いたかったことは、因果連鎖の指摘による自由意志の否定ということでしょう。こうした機械論的決定論は、ガリレオやニュートンの決定論的物理学の成功に触発され、それを人間の心にまで広げようとすることで、生まれました。ド・ラ・メトリの『人間機械論』とかは、その典型です。ところが、肝心の物理学が、量子力学の登場以降、非決定論に傾いたために、哲学の世界でも支持者がほとんどいなくなってしまいました。
死後の意識の連続性に関しては、通時的で経路依存的な記憶の蓄積が必要なので、共時的で可逆的な情報処理システムの再構築では不十分です。ただ、現在の科学では、第五世代コンピュータ・プロジェクトの失敗を見ればわかるように、コンピューターエージェントによる死後の魂の再生どころか、コンピュータによる意識のシミュレーションすらできないわけで、あくまでも、SF的な思考実験として考えてください。
ご指摘ありがとうございます。
ただ、少し誤解が生じてしまったようで、私は「運命は決まっているか?」というより、「人間の意識は脳の構造とその変化にのっとって生じているか」ということが言いたかったのです。
それと、永井さんは「こうであればよいのにと願望を持つだけで、意志の自由がある」と書きましたが、以前の投稿を持ち出せば、こうであればよいのにと願望を持ったとしても、こうであればよいのにと願望を持とうという意志はあったか?もしあったとしてもこうであればよいのにと願望を持とうという意志を持とうという意思はあったか?・・・と繰り返すことができます。この点についてのご説明をお願いします。
ただ、私が永井さんの言う「意志の自由」を誤解している可能性があります。「量子的不確定性にも脳の構造とその変化にも影響されない心の中の何らかの現象が存在すること」と受け取ってもよろしいのでしょうか?
最後に、こうであればよいのにと願望することは、薬や体の状態などの要因によって他人が操作することができます。(おそらく、被害者がそうとは気づかずに操作することも可能です。)ということは、加害者が自覚せずに被害者の願望に影響を及ぼし被害者がそれに気づいていない場合、被害者の意志に自由は存在するのでしょうか?なぜ、こうであればよいのにと願望を持つだけで、意志の自由があるということになるのでしょうか?
「人間の意識は脳の構造とその変化にのっとって生じているか」と問われるなら、意識は脳の状態から影響を受けるが、意識と脳は同じではないと答えます。
「こうであればよいのにと願望を持とうという意志はあったか?」という問いに対する答えは、「意志」という言葉の定義しだいです。「意志がある」という言葉が「意識がある」と同じであるほどに広く解釈するなら答えはイエスです。しかし、願望を持つ人は、願望を持つこと自体を願望しているわけではないので、その意味では、「願望を持とうという意志」という表現は不適切です。
たんに行為が不確定であるということと迷うということは同じでないことは、本文で書いたとおりです。薬物や催眠術で知らない間に行為する人には、意識も自由もありません。
返答ありがとうございます。ただ、今回の返答で3つの疑問が生じました。
1、「意識と脳は同じではない」とはどのように証明されるのでしょうか?
2、「願望を持つ人は、願望を持つこと自体を願望しているわけではない」ということは、永井さんも自分の意志(狭義の意味)で生み出したものではないものによって願望し、迷い、行動すると考えているのでしょうか?
3、前回の投稿で「薬」という言葉を使いましたが、そのとき私は強迫性障害の治療薬(健康な人も使っていますが)や媚薬などを想像していました。これらなら意識がなくなることはありません。そのことを踏まえたうえでもう一度質問します。加害者が自覚せずに被害者の願望に影響を及ぼし被害者がそれに気づいていない場合、被害者の意志に自由は存在するのでしょうか?なぜ、こうであればよいのにと願望を持つだけで、意志の自由があるということになるのでしょうか?
返答をお願いします。
1.脳と情報と意識が異なるのは、物質とエントロピーとエネルギーが異なるのと同じことです。
2.願望するとき、人は、ある実現されていないことがらが実現されることを願望しています。そして実現されると願望そのものが消滅します。実現されなければ、願望は、願望として存在し続けます。だから、願望とは、常に願望の非存在の願望なのです。つまり「…を願望する」ということは「…を願望することを願望しない」ということなのです。
3.車のハンドルが一時的に動かない時、「ハンドルは存在するが、それを動かすことができなかったので、車は直進せざるをえなかった」と言うことができます。しかし、常に全くハンドルを動かすことができないなら、それはハンドルではなくてたんなる突起に過ぎないから、「ハンドルが存在しないから、車は直進せざるをえなかった」と言わなければなりません。同じことは、意識と身体行動についても当てはまります。
返答ありがとうございます。ただ、前回の質問がよくなかったかもしれませんのでまた質問します。
1、相対性理論などには詳しくないのですが、「脳と情報と意識が異なるのは、物質とエントロピーとエネルギーが異なるのと同じことです」ということは物質の分布とエネルギーの分布は完全には対応してないということでしょうか?
2、(前回の質問で望んでいた答えと返答が違っていたので質問しなおします。)「願望を持つ人は、願望を持つこと自体を願望しているわけではない」ということは自分の意志(狭義の意味)で生み出したものではないものによって願望しているので「こうであればよいのにと願望を持つ」だけで意志の自由があると判断するのは誤りではないでしょうか?
3、永井さんの返答を持ち出せば、人間は「ハンドルは存在するが、それを動かすことができなかった」と「ハンドルが存在しない」を完全に見分けることはできないので、この考え方でも「こうであればよいのにと願望を持つ」だけで意志の自由があると判断するのは誤りではないでしょうか?
物質とエントロピーとエネルギーの違いを知りたければ、相対性理論ではなくて、熱力学あるいは統計力学を勉強してください。残りの質問に対しては、同じ回答を繰り返すしかありません。願望を持つということは、その主体には、願望を実現する能力があるということです。願望が実現できない場合があっても、願望を持つという事実がある以上、その主体には、願望を実現することができる場合があるはずです。そうでなければ、その主体には、願望など不要だし、意識すらなくなります。「動かないハンドル」が、「本来は動かすことができる」ことを含意し、原理的に動かないなら、それは「動かないハンドル」ではなくて、「ハンドルではないたんなる突起」でしかないというメタファーで言いたこたことはそういうことです。
自由な状態の人間がとった行動が、「他のようでもありうる」のは、ある人間が数ある選択肢からなぜこの選択をとったかを完全に説明する方法がないからなのでしょうか?
選択肢が複数あるかどうかということと選択が説明可能であるかどうかということは別問題です。
ではなぜ自由な状態の人間がとった行動が、「他のようでもありうる」のでしょうか?
「他のようでもありうる」ことは、自由であるための必要条件です。
では物事が「他のようでもありうる」条件とはなんでしょうか?(量子的不確定性以外で)
世界は常に他のようでありえます。偶然か必然かは、確率が高いか低いかの問題です。
機械論的決定論を覆したのは量子力学以外にはどのようなものがあるのでしょうか?
例えば、カオス理論とか。カオス理論による決定論の否定に関しては、「カオスと決定論」をご覧ください。
すいませんが、「意識と脳は同じではない」ことを、比喩を使わずに説明してもらえるでしょうか?
「脳と情報と意識が異なるのは、物質とエントロピーとエネルギーが異なるのと同じことです」は比喩ではありません。
永井さんは量子的不確定性は人間に意識がある証明にはならないと書きましたが、カオス理論による不確定性はどうでしょうか?
それと量子力学やカオス理論のほかにも機械論的決定論を覆したものはありますか?
不確定性に晒されていることは意識を持つための必要条件であって、十分条件ではありません。意識を持つためには、不確定性を自己原因的に否定しなければなりません。ただし自己原因的とはいっても、他から全く影響を受けないということではありません。たとえ、他の原因に左右されても、主体が自己原因的であり、他者から見て、不確定性の楔によって切断されている限り、その主体には意識があります。
意識にどのような作用があったとき、自己原因的と呼べるのでしょうか?
@その作用の根本的な原因が自分の意志(狭義の意味)である必要はありますか?
(すいませんが@のついた質問の返答には最初にyesかnoを書いてください。質問がおかしい場合は別ですが。)
自分の意志によって、世界を変えることが、少なくとも部分的に可能ならば、その主体は、自己原因的です。「根本的」という言葉の意味がよくわかりませんが、完全に自己原因的であったり、完全に自己原因的でなかったりすると、意識は不要になります。つまり、意識ある主体は、不完全に自己原因的でなければなりません。
①意識がある、ならば迷う(=選択の自由がある)
(「意識とは何か」)
②迷うという行為は、他者(可能的自我)とのコミュニケーション行為である
(「他者は存在するのか」)
という二点から、
●他者(可能的自我)とのコミュニケーションの存在は、意識があることの必要条件である
と結論できると思います。
そこで、以下の四点についてご教示頂けませんでしょうか。
①他者(可能的自我)とのコミュニケーションを経験していない、生まれたばかりの赤ん坊は意識を持つのでしょうか?
②もし持たないとすれば、どのような認識的発達の後に意識を持つと言えるのでしょうか?
③それは間主観的な想像力(「私という言葉はなぜ必要なのか」)を持つ前に達成し得るのでしょうか?
④③への回答は当然yesになるかと思いますが、だとすると間主観的想像力と他者(可能的自我)への認識の差は何になるのでしょうか?可能的自我が実感するであろう事を物質的他者(他人)に当てはめる能力の有無でしょうか?
私本人の意見なしに、質問ばかりになってしまう事をお許しください。
胎児は、胎内にいる時から、母親や外部の人間と何らかのコミュニケーションをしているそうです。臓器にも、独自の情報処理能力があって、脳との間に何らかのコミュニケーションがあるのかもしれません。このように、意識システムと非意識システムとの間には、非連続な境界があるわけでないので、意識は、ここから生まれたと指示できる発達段階上のメルクマールはありません。
「胎児は、胎内にいる時から、母親や外部の人間と何らかのコミュニケーションをしているそうです。臓器にも、独自の情報処理能力があって、脳との間に何らかのコミュニケーションがあるのかもしれません」
私は、胎児は意識を持ち得ない、と、早とちりしていたようですね。
迅速かつ的確なご教示に感謝致します。
<質問>
昆虫も意識を持つのではないでしょうか?
昆虫は確かに本能にのみ支配されているかもしれませんが
目的を持って生きていると思うのです。暗黙的な目的を。
その目的が生命を支配しているのではないかと。
ロボットが
>「複数の選択肢のうちどれを選択することが目的の達成に
>最適かを比較し、かつ選択する基準を固定的せずに、経験
>と学習によって変化させるのであるならば、そのロボットには
>意識があるといえる」
としても、そのロボットには果すべき使命を持たないと思うの
です。果すべき使命は、生命ならばDNAを残すこと、その暗黙的
な目的の上で意識が形成されているのではないか。そうと思うと、
昆虫は意識を持つて生きていると言ってよいのではないでしょうか?
また、ロボットが迷うことが可能になっても、そのロボット自身が
生きていく本来の目的がなければ、それは意識ではなく、
脳の思考を再現したに過ぎないのではないかと。
全ての生命の本質はDNAを残すためであり、その目的を達成
するための手段として、進化を遂げたのではないでしょうか。
進化をする理由は、地球と言う惑星の母体の寿命と共に滅ぶ
ことを知っており、惑星の外へいつかは飛び出さないと死滅する
ことを本能的に感じているのではないかと思うのです。
そのことを踏まえると、生命体全てが意識を持つのではないかと。
行き着く先は、他の惑星に感染して繁栄を遂げることではないか
と感じるのです。
<質問の経緯>
Agent技術について業務で携わる機会があり、調べている内に
AIに行き着き、ロボットが意識をもって動くことは可能なのかを
考えている内に、そもそも人間の意識は何で形成されて表現
できるのかに突き当たりました。
IBMが研究したAIでは推論が意識ととらえたようですが、推論では
永井先生がおっしゃる通りに、「迷う」プロセスではなく、ある限られた
閉じた世界のなかで、全てのパターンを計算しているだけで
人口知能といっても、人のように自律的に考えて行動することは
できないと思いました。
推論ができるだけでは人の意識・思考を表現できないとすると、何が
あるから意識・思考を可能にしているのかが疑問に感じます。
外部からの刺激があるから人間は、欲求や目的を見つけ出し自律的
に判断・思考して物事に対して動作できるかと考えると、もし仮に外部
からの刺激を全て取り除いたら人は停止してしまう。
外部の刺激が無くても、人が停止しないのは意識というものが、
外部の刺激とは別で内部で自分自身に刺激(外乱)を発する
構造があると考えると、内部で自分自身に刺激を与える物が
意識でないかと考えました。
脳の構造で前頭葉が計画・立案をすると考えると、その前頭葉の
役割が意識を構成する機関ではないかと一時は考えてそこで
収束しましたが、人の意識は人の体内にある白血球や赤血球、
細胞等の意識によって構成されているのではないかと思うのです。
それらの根底にあるのは、DNAを残すためが根底にあるが故に、
生じるのではないかと思うのです。
それらを踏まえると、人が意識と感じとっている部分は実は体内の細胞達の
意識の統合的なものであり、根底にはDNAを残すと言う目的があるため
「迷うこと」で意識を持つと言うことにはならないのではないかと感じるのです。
生命があるということと意識があるということは別です。また、自然生命か人工生命かという区別も、生命を考える時には、重要ではありません。「生命とは何か」でも書きましたが、コンピュータウィルスも、生命と考えることができます。
ロボットも、この延長で考えると、次のような、SF的な想定で、生命を持つようになります。将来、ロボット生産が、コンピュータによって制御された無人工場で行われるようになり、そのコンピュータがインターネットで接続されるようになると想定しましょう。そして、あるロボットが、USBポートを見つけると、そこから自分のプログラムを注入するようにプログラムされたとしましょう。そのプログラムは、ネットを通して、世界のロボット生産工場に侵入して、プログラムを書き換え、自分の子孫を増やしていきます。これは、きわめて生物的な振る舞いではないでしょうか。
しかし、だからといって、そのコンピュータに意識があるとはいえません。本能によって、プログラムされた通りの行動しかしない生物に意識がないのと同様です。人工生命か自然生命かといったこととは関係なく、臨機応変的な選択ができるかどうかということが、意識の有無に関わってくるのです。
mori夫です。とりあげていただいてありがとうございます。
その通りだと思います。しかし意識や覚醒をトートロジーにならないように説明するのも非常に困難です。意識の説明の難しさは、他人の自我の存在証明ができないという問題(他我問題の困難)と似ている気がします。(自分の自我も存在証明できないですが)
私は生命を厳密に定義したいのではなく、生命の本質に迫りたいと考えています。それが思想や哲学の役目だと思っています。
手元にある高校生向けの生物の参考書を見ると、生物について次のような説明がなされています。
(1)特有の物質からなり、特有の構造を持っている。
(2)外部から物質をとり入れ、体の構成物質をつくりあげ《同化》、体物質や貯蔵物質を分解して体物質を合成したり生活のエネルギーをとり出す《異化》(物質交代)。
(3)物質交代の結果生じた物質の一部を放出する(排出)。
(4)自己増殖を行う(繁殖、遺伝――生命の連続性)。
(5)刺激に感じ反応する(刺激感受性)。
(6)自発的に運動する(運動性)。
(7)環境の変化に適応する能力がある(適応性)など。
これは「特徴」であって「定義」ではないようです。それにしても私には、外面から観察した現象面の記述にすぎず、生命というものの本質に迫れていないと感じられます。(4)と(6)で「自己」とか「自発的」という言葉が使われていますが、まさにこれこそが、問うべき生命の本質だと思います。
ある掲示板で工学系の専門家の方に「科学の世界に”本質”という概念はない」というようなお話を聞きました。ということは、科学では方法論的な前提において、「自我」や「自己」というものの存在を認めていないということではないでしょうか。(←こういう断定をしてしまって、いつもたしなめられていたのですが。)
現代の情報科学・情報工学・ロボット工学の力をもってすれば、上記の特徴を満たす人工生命を作ることが可能であるかのように考える人も少なくない。(アシモとティエラの研究成果は、今後どんどん接近するのかも知れない)
しかし私は、生命(自己を持つもの)は、物質や法則やシステムには還元されない実在だと考えています。そのidentityは、宇宙で唯一無二で、一回限りのものです。「自己」の再生はあり得ない。死んだ「自己」は二度とよみがえらない。「自己」が子孫に継承されることもない。
ロボットや人工生命は、コピーも部品取換えも可能な、非生命です。ただの機械です。
自己の再生や子孫継承があり得るとする考え方は、その自己の覚醒である心が、再生したり継承されたりすることを意味します。これだと神秘主義になってしまう。(そうだといいなという願望も、あると言えばありますが。)
生命の誕生は自己の出現で、その死は自己の消滅です。そう考えています。
アリストテレス以来、哲学とは、“…とは何か”と問う学問となりました。宗教でではなくて、哲学で生命の本質に迫るということは、生命を厳密に定義するということです。私の生命の定義については、「生命とは何か」をご覧ください。
本質という言葉が古いのであれば、必要十分条件と言い換えても同じことなのですが、この概念は、学問的にはいまだに重要です。
そうでしょうか。要は、どういう条件の下で、かつその時のみ、意識があり覚醒しているかをつきとめればよいのですから、近代的な実験科学の手法を使うこともできます。
人間も、クローン技術でコピーできるし、臓器移植だってできます。
私が察するところ、mori夫さんは、生命、意識、自己などの言葉で、実存主義的な意味での実存のことを念頭においているのではないかという気がします。もしそうなら、言いたいことはよくわかります。私も、実存が再生可能だとは主張していませんので。
コメントありがとうございます。
非常に思索意欲を刺激されるテーマをいくつもいただいた気がします。拙文をとりあげていただいたご好意にあまえて、順次私の考えを述べさせていただこうかと思います。(私は専門的な研究をしたことのない、ただの素人なのですが、どうぞお許しください。)
まず意識の究明可能性について。
「意識や覚醒をトートロジーにならないように説明するのも非常に困難です。」(mori夫)
「そうでしょうか。要は、どういう条件の下で、かつその時のみ、意識があり覚醒しているかをつきとめればよいのですから、近代的な実験科学の手法を使うこともできます。」(永井様)
認知科学やロボット工学が非常に発達して、将来「意識があると思われる」ロボットが完成したとします。でもこのロボットに、本当に「意識があるかどうか」は、判別不可能ではないでしょうか。
チューリングテストのように、「人間から見て意識があるとしか思えないなら、それを意識があるとみなす」ということしかできないのではないでしょうか。
私は意識は、定義も困難だし、その存在証明も困難だと思います。意識の問題は、そのものに「内的自我があるかどうか」「内的自我とは何か」という問題ときわめて同じだと思いますので。
外部観察の結果を基にする定義や説明では、意識も内的自我も、その本質を取り逃がしてしまうと思います。そして意識や内的自我が、脳システムなどの理論に還元されてしまう。そうすると意識や自我の”実存”性が損なわれて、「意識や自我など実在しない虚構だ」などということを言う人も出てきてしまう。
近代科学は、われわれの民族的・宗教的・伝統的諸概念を崩壊させました。
私はこの自我の問題、そして自我による世界解釈であるところの哲学を、真正面から考えることで、近代における文理の断絶(その結果人々に巣くっているニヒリズム)を克服できる道が開けるのではないかと思っています。
それでよいのではないですか。ロボットに限らず、通常の人間の場合でも、他者に意識があると判断する時には、外側からしか判断できませんから。
所謂「他者の心」の問題については、「他者は存在するのか」をご覧ください。
「他者は存在するのか」と「ヒューマノイド・ロボットは必要か」を拝読しました。
「意識の正体は何か」というのは、科学的にも哲学的にも、興味のつきない問題です。
私は、生と意識と心の関係を次のように考えます。
生きている>意識がある>心がある
「>」は右辺が高次進化形であることを表しています。(進化という言葉をこのように使うのは不適切かも知れませんが)
もし未来において、あるロボットに意識があると見なされたら、それを安易に壊す(殺す)ことは、許されない倫理違反になると思います。それ以前に、意識のある(心を持つ可能性のある)ものを人工的に作ってはいけない、という法律ができるような気がします。
しかし私は、心を持つロボットを作ることは絶対的に不可能だと考えています。命のないものが意識を持つようになることはあり得ない。だから、どんなに意識があるように見えても、「本当は意識がない・生物ではない」のだから、古くなったら壊してしまうことに、倫理問題を考えなくてもいいだろうと思います。
なぜ、「心を持つロボットを作ることは絶対的に不可能」と言えるのか。それこそが、「意識とは何か」「心とは何か」の本論につながるものと思います。それをはっきりさせることで、現代が科学文明によって失ってしまったものを、回復できると考えています。
もしも、同害報復するようにプログラムされたロボットがあったら、私たちは、そのロボットを人間扱いしなければならなくなります。それは、ロボットに意識や心があるからではなくて、たんに自分を大切にしたいという動機からなされます。倫理や法は、こうして生まれてくるものです。
>複数の選択肢のうちどれを選択することが目的の達成に最適かを比較し、かつ選択する基準を固定的せずに、経験と学習によって変化させるのであるならば、そのロボットには意識があるといえる。
とありますが、例えばニューラルネットワークを利用したAIなどには、意識はあるのでしょうか?
自発的に情報選択を行い、かつ迷う存在なら、意識があるでしょうが、意識があるかどうかは、外部からは確認できないものです。
ちょっと年食った素人ですが、一言。
みなさんのコメントを読んでいると、みなさんがそれぞれ持っている意識の概念が、少しずつ違っているような気がします。意識の定義が確定していないまま議論がなされているように見えるのです。
素人の考えでは意識の定義は、常識的で単純なものでいいと思われるのです。例えば…
「意識」は肉体に対して存在すると考えられている精神、あるいは心といわれているようなもの。ときには心情的な言葉で「魂」とか「霊」とか言われるもの。これをコンピュータに例えれば、ハードウェアに対するソフトウェアのようなもの。
これを少し具体的にい直すと「意識」とは下記のものすべてを言う。
(1) 無意識のうちに個体に働いている潜在意識。(遺伝によって受け継いでいる意識) 長期に亘る生命の種としての遺伝の継承活動も含む。
(2) 無自覚のうちに個体に働いている生命活動。(例 : 肺や心臓などの自律的な生理現象、トラウマ、劣等感など)
(3) 個体が生まれてから現在まで蓄積してきた先入観。(考え、記憶、行動)
(4) 現在自覚している心の動きや肉体活動の全て。これは顕在意識のこと。 (知覚、考え、記憶、行動)
つまり「意識」とは生命体が織り成す生命活動の全てのこと。
従って、肉体という自然界の普通の物体が引き起す、ごく普通の自然現象が「意識」であると考えることができます。
これらを時系列に並べると「潜在意識」と「先入観」に分けられる。(1)が「潜在意識」であり、(2)(3)(4)を合わせて「先入観」と呼び、個体が生まれてから現在までの全ての意識を表す。
また「意識」を機能別に分けると「知覚すること」「考えること」「記憶すること」「行動すること」の四つになる。「行動すること」には、個体の反応作用の全てを含む。
我々が一般的に言う「心」とは外部に見えないものですから、多分、「考える」「記憶する」の機能を指していると考えられます。
「生命体が織り成す生命活動の全て」という定義は広すぎます。生命体が行う情報処理のうち、意識が果たす役割はごくわずかです。情報処理は生命を維持する上で必要ですが、意識は必ずしもそうではない、という考えに基づいて、私は意識とは何かを論じています。
さっと拝見しただけですが、永井さんの考えに基本同意です。
こういった文章のやりとりによる論理の限界を超えた何かを見た(感じた?)時、なんで私は大きな部屋にいたことを”元から知っていた”のに、小さな明かりの当たった部分だけで自分のいる世界を説明しようと試みていたのだろう?と愕然としたことがあります。(もちろん比喩です)
それはあたかも、パズルの一部分のパーツを用いて、全体を構築しようとする作業に似ています。
科学や哲学というのが証明可能で再現可能であることは、工学的な応用という点では正しいと考えますが、やっとわかってきた一部分の仕組みを駆使して、自分たちのいる世界を記述しようというのは、よく考えると無理があると思っています。
でも、天動説を信じていた時に、誰も地球を丸いと思わなかったのと同様、いつの時代も、きっと人間は自分中心に認識できた範囲で説明したがる生き物なのではないかと思います。
永井さんは物理学者と組んで、新しい何かの発見に勤しまれてはいかがでしょうか?
絶対に何かが見つかるような気がします。面白そうだと思います。
比喩としてはどうでもいいことかも知れませんが、
天動説で地球が丸いは間違いですね。
天動説では太陽の周りを地球が公転しているとは考えなかった、が正解ですね。訂正します。
哲学は、その黎明期においては、自然科学と一体になっていました。ソクラテス以前の古代哲学の先駆者は、自然学者でもありました。デカルト、パスカル、ライプニッツといった近代哲学の先駆者たちは、数学者としても業績を残しました。古代哲学も、近代哲学も、発展期には自然科学と協働しており、衰退期には、自然科学から離れていきました。現代にあって、哲学を再興するには、再び自然科学が抱えている問題に取り組まなければいけないと思います。私が、現在構想している「一般システム学」は、そういう問題意識に基づいています。
永井さんは「意識は脳に影響を受ける」と言いましたが、逆に「意識が脳(物質)に対して影響を及ぼす」こともあるのでしょうか?
「意識の活動」は「物質である脳や身体の活動」の完全なる後追いではなく、物質の活動からはある程度独立した領域があるのでしょうか?
人間に自由意思は存在するのでしょうか?
永井さんが思う自由意思の定義と合わせてご教授お願いできませんか?
最近私が興味を持っているのは、量子脳(Quantum mind)理論です。人間の脳は、デジタルコンピュータと量子コンピュータとを組み合わせたような構造を有し、哲学者が概念と直観として区別してきた二種類の知は、この二つに対応しているのではないかと考えています。この理論が正しいのなら、意思の自由も量子的不確定性に求めることができるのですが、まだ私の研究も十分ではないので、もう少し考えがまとまってから発表しようかと思っています。
1884~1885年のジェームズランゲ説に
「悲しいから泣くのでなく、泣くから悲しいのだ」と言う考え方があります。
悲しいと言う感情を意識するのは泣いている事を意識する後追いの意識であると言う考え方です。
この後に1980年代、リベットは皮膚刺激の実験において充分な刺激が与えられる以前に刺激が意識化される事から「意識が実際の物理的事件の生起時間を後読みするのだ」と主張する。
さらに最近前野 隆司と言う人が受動意識仮説として、
『人の「意識」とは,心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて,人の心の「無意識」の部分がやったことを,錯覚のように,あとで把握するための装置に過ぎない。』と言う事を主張しています。
私は「意識は物理体験によって生起し、其の体験を後読みして意識化する」
これが脳(こころ)の働きだと思います。
そしてこの現象は普遍性があり、あらゆる場面で脳(こころ)の働きを支配していると思います。
アウトプットが再度インプットとしてポジティブ・フィードバックを形成することはあっても、だからといって、アウトプットがアウトプットではなくなるわけではないので、この点でジェームズ・ランゲ説には賛同できません。また、意識と物理体験の区別も疑問です。心と身体、意識と物質はエントロピーとエネルギーの関係にありますが、どちらも物理現象です。
①指を動かしたいと思います・・・意識
②指を動かすぞと決めます(その指以外は動かさない)・・・意志
③神経ネットワークの物理化学変化
④指が動く
現在の科学ではこの動きの中で②から③に進む過程が全く解明されておりません。
もし意識も物理現象なら、物理的な因果関係としてもっと解明できていないとおかしい訳です。
私は心と体は別範疇であると言う二元論を信じています(証明できないので信じるしかない)。もし一元論を取ると意識で物質現象を左右でき得るという念力のオカルトを認めることになると考えるからです。
因みに受動意識仮説で説明すると③④①②です、③から①、④には同時に二方向に伝わる、③から①の伝達は因果関係ではなく対応関係であり物理現象ではない。
心身二元論随伴現象と捉えると日常現象がとても判りやすく説明できます。
「物質が精神を規定する」と同時に「こころは自由であると後追いで意識する」
が両立するわけです。
エネルギー(物質もエネルギーの一つの形態に過ぎない)とエントロピーは相互に還元不可能ですから、私の立場も二元論です。ただ、どちらも物理的な概念であるというだけのことです。エントロピーはエネルギーとは別の存在ではなく、常にエネルギーの形態としてエネルギーと不可分の関係にあります。よって、両者を分離し、一方が他方に因果的な影響を与えるという考えは正しくありません。
エントロピーと言うのは難しくてよく分かりませんが、ここの論題は「意識」と言う事で「意識は物理現象である」ということでしょうか。
>別の存在ではなく・・・エネルギーと不可分の関係にあります。
>一方が他方に因果的な影響を与えるという考えは正しくありません。
はい、私の考える心身二元論随伴説も同じで、因果でなく両者は対応関係であると言うものです。
しかし良く判らない点は・・・・
>物質もエネルギーの一つの形態に過ぎない
>エントロピーはエネルギーとは別の存在ではなく、常にエネルギーの形態として・・・
これは・・・物質もエントロピー(意識)もエネルギーの一形態であると言う事ですか?
エントロピーとは、簡単に言えば、不確定性のことです。本稿で、迷う存在者が意識を持つと書きましたが、迷うということはたんに不確定性にさらされているだけでなく、不確定性の縮減が自己の存在を究極目的としているということです(この点でロボットやコンピュータとは異なる)。
物質システムである身体も、情報システムである意識も、不確定性を縮減する機能として定義される点では同じです。私の議論を理解するために、とりあえず『エントロピーの理論』の第一章第二節まで読んでいただけますでしょうか。
[エントロピーの理論(01)2. エントロピーの法則]を読んで・・・
エントロピーの法則は社会現象には使えないと思います、なぜなら・・・。
>「部分的に秩序が生まれる時でも、全体としてそれ以上の無秩序が、必ず生まれる。」
とあるように
捉える問題が冷蔵庫の中かもしれないし、太陽系の中かもしれないからです。
例えばある社会システムがエントロピーが高くなるのか低くなるのかは系のとり方で変わってくる訳でしょう?
勿論全宇宙でみれば無秩序になる不可逆現象でしょうけど。
>この宇宙は、私たちが知っている唯一の孤立したシステムである。
これなら判りやすいです、ですからこの法則は唯一この宇宙と言う系だけで適用しなければならないと思いますが。
エントロピーの法則をまとめてみましょう。
(1) 孤立したシステムにおいてエントロピーが減ることはない
(2) 孤立していないシステムのエントロピーを減らすには、それ以上のエントロピーをその環境において増やさなければならない。
(1)と(2)は言っていることは同じです。身体システム、意識システム、社会システムは、(2)の法則にしたがって自分のエントロピーを縮減しています。だから、エントロピーの法則は社会現象にも使えます。
>身体システム、意識システム、社会システムは、(2)の法則にしたがって自分のエントロピーを縮減しています。
ではそれらのシステムではエントロピーは増大する事はないのですね?
身体システム、意識システム、社会システムは、自らのエントロピーを縮減しようとしますが、必ずしもそうなるとは限りません。実際身体システムはホメオスタシスの維持に失敗して死ぬこともあるし、意識は錯乱することもあるし、社会が内乱になることもあります。
例えば体内の塩分濃度や糖分濃度はある一定に保たれるように出来ています、臓器や血管や体細胞間で濃度のやり取りが行われます。
最初の図のような例を参考にすると濃度のやり取りは体内におけるエントロピーの増大と減少とは見なされないのですか?
「最初の図」とは何のことでしょうか。
[エントロピーの理論(01)3 構造と環境との境界の維持
このなかの図1~図4 のことです。
例えば人体のすい臓でインシュリンが分泌されますが、これはイントロピーの減少ですよね、そのあと体内では図1~4のような拡散の仕方をするのではないでしょうか、ですからエントロピーの増大ですよね?
多分、ご質問は目的と手段との混同に基づいていると思います。ホメオスタシスとは恒常性のことで、他のようでありうることを否定するのですから、エントロピーの縮減ですが、その目的を達成するための手段としてエントロピーを増大させることはあります。
恒常性を保つと言う目的のためにインシュリンの濃度を濃くしたり薄くしたりする。
その現象はエントロピーの増加や減少とみなせるのではないか・・・
とお聞きしています。
分泌されたインスリンが血液中に均等に分散するプロセスは、エントロピーの増大ですが、インスリンは血糖値を一定に保つ役割を持っているので、恒常性を維持する手段として機能しています。この質問は、「意識とは何か」という問題と関係のある質問でしょうか。
>44 に於いて・・・
>とりあえず『エントロピーの理論』の第一章第二節まで読んでいただけますでしょうか。
と言われたので読んだ疑問点としてお話しています。
おっしゃるとおりこれはエントロピーについての事なのでそちらの方に質問を移します、よろしくお願いします。
「意識とは何か」 >54 に於いて・・・
>血液中に均等に分散するプロセスは、エントロピーの増大ですが、
と言うお答えでしたが、要するに人間の生体内ではエントロピーの増大現象も減少現象も両方行われて恒常性が維持されているわけです。
ならば以下の・・・
「エントロピーの理論(03)意識とはどのようなシステムか」
1. 情報システムのエントロピー
に於いて・・・・
>「明日は、晴れるかそうでないかのどちらかでしょう」という天気予報は、何の情報も伝えていない。
とありますが 当にエントロピーと言う尺度は増大も減少も同じ体内であるのだから何の情報も与えない好例なのではないでしょうか?
例えば「地球温暖化の法則」なるものがあっても、それが局所的には寒冷化もありうるとなれば、局所の議論に「地球温暖化の法則」なるものは使えないと思うのです。
投稿先が「エントロピーとは何か」になっていました。これは『エントロピーの理論』とはまた別のページです。明らかに間違いなので、それを削除して、こちらに統一することにします。
増大しているエントロピー(血中におけるインスリンの分散)と減少しているエントロピー(一定に保たれる血糖値)は同じではありません。同じ体内という場所であっても、異なる対象についての話です。同じでないものを同一視しているため、じいさんの以下の議論に混乱が生じています。そうした混乱が起きることを予防しようとして「ご質問は目的と手段との混同に基づいていると思います」と書いたのですが、通じなかったようですね。
「明日は、晴れるかそうでないかのどちらかでしょう」という命題は、直観主義の立場でも取らない限り、排中律により真であり、他の恒真命題と同様に何の情報も伝えません。しかし「明日は晴れ、または、明後日晴れでない」という命題は、「明日は晴れでなく、かつ、明後日晴れ」という可能性を排除しているがゆえに、情報を伝えています。つまり、”P∨¬P”は排中律によりトリビアルに真ですが、”P∨¬Q”はそうではないということです。
所謂「地球温暖化」は、地球全体の平均気温に関して長期的にあてはまる現象であり、局地的な寒冷化と局地的な温暖化を否定するものではありません。
>エントロピー(一定に保たれる血糖値)
ではありません。
永井さんの図で説明しますと・・・
図4の状態=増大しているエントロピー(血中におけるインスリンの分散)
図1の状態=減少しているエントロピー(インスリンが分泌された当初の状態)
これはインシュリンと言う同一の対象です。
>「明日は晴れ、または、明後日晴れでない」
この言い方を当てはめると「明日はエントロピーは増大し、明後日は減少する」と言う事になり法則性が無いんです。
ところで次のテーマの・・・・
「エントロピーの理論(03)意識とはどのようなシステムか」
2. 唯物論的実在論か唯心論的観念論か
これは大変為になりますね。
>近代の意識哲学は、世界から意味を剥ぎ取り、それを主観の意識作用の産物にしてしまった。
>意識哲学に対する反動である唯物論も、世界から意味を奪ったまま、物質を実体化してしまった点で、
>意識哲学と同じ地平内にある。
とても判りやすくて参考になります。
>物には、意味を理解する能力はないが、意味を表現する能力はあるからだ。
論点が明確で何が争点なのかがはっきりとしました。
ちなみに私は物心二元論で心は随伴現象だと思っています。
さらに物質は精神を規定すると考えております。
そして精神は物理現象に影響を与える事はできない、とも思っています。
さらに前に述べたように受動仮説を信じています、後付の自由意志が産出されるわけです。
従って意味と言うものは精神が後付で感じたものだから先行する物理現象にあるはずは無いと考えます。
そこで質問したいのは永井さんは本来物が表現している「意味」と意識が理解した「意味」は同一と捉えるのですか?
と言う事です。
つまり、じいさんは状態と変化を混同しているということですね。図1は低エントロピーな状態を表し、図4は高エントロピーな状態を表しています。図1の低エントロピーな状態から図4の高エントロピーな状態になることをエントロピーの増加と言い、図4の高エントロピーな状態から図1の低エントロピーな状態になることをエントロピーの減少と言います。二つの変化が同時に起きているわけではないのだからインスリンの分散で「エントロピーの増大現象も減少現象も両方行われている」という言い方はおかしいのです。
法則の必然性とは、前件から後件を導出する必然性であって、その必然性は前件の偶然性によって否定されません。例えば、シュレーディンガーの猫の思考実験において、青酸ガスが発生するかどうかは偶然ですが、青酸ガスを吸った猫が死ぬことには必然性があります。システムのエントロピーが増加することもあれば減少することもありますが、そうした偶然性は、システムのエントロピーが減少するとき、必ずそれ以上のエントロピーが増加するという法則の必然性を否定することにはならないのです。
そう思っている人がなぜ、コメントを書き込んで私のサイトに物理的影響を与えているのですか。
意識が対象の認識を間違うことがあるのだから、両者は同じではありません。しかし、このことは物心二元論を帰結しません。同じことは私と他者との間でも起きるからです。ミス・コミュニケーションがもたらす不確定性は意識システムとその環境を境界付けますが、環境に属する情報システムは物には限定されないということです。
>二つの変化が同時に起きているわけではない
人体と言う系ではインスリンを分泌したりそれを末端まで拡散する活動は生きているかぎり同時に行われています。
>そうした偶然性は、システムのエントロピーが減少するとき、必ずそれ以上のエントロピーが増加するという法則の必然性を否定することにはならないのです。
おっしゃるとおりです。
宇宙全体の系ではエントロピーが増加するのは法則の必然性で、永井さんが言ったとおりです。
しかし太陽系とか生命体で局所的には減少することがあると言うのも永井さんが言ったとおりです。
私は其れを受けて、人間とか社会とかの局所の系の本質としてエントロピーの法則を使うのは無理があるのではと質問してます。
>そう思っている人がなぜ、コメントを書き込んで私のサイトに物理的影響を与えているのですか。
「そう思っている」は意識(意志)で「書き込み」は行動で物理的現象です。
そして「思い」と「書き込み」のつながりは説明の出来ない謎です、「泣く」と「悲しい」のつながりが謎であるのと同様に「自我」の存在が謎である事と通じる謎です。
>意識が対象の認識を間違うことがあるのだから
間違わなければ同一なのですか?
時々、例外として間違うのですか?
もしくは間違う事が原則なのですか?
>同じことは私と他者との間でも起きるからです。
私と他者とはAさんBさんということですか?
一般に同じ対象をみてもAさんとBさんでは認識が違います。
同一のものを見て認識が異なるという事は、間違う事が原則と言う事なのですか?
>ミス・コミュニケーションがもたらす不確定性は
不確定なのは環境で、エントロピーを縮減させて確定するのが意識と仰っていたのでは?
>環境に属する情報システムは物には限定されないということです。
はい、確認ですが「情報システムは物質に還元されない実在」と仰っている訳ですよね。
インスリンの分泌を開始してからそれが末端まで拡散するには時間がかかるから、同時ということはありません。そして分泌を開始する初期状態からエントロピーが最大になる最終状態までの移行がエントロピーの増大という一つの変化であって、二つの変化が同時に起きているわけではありません。
じいさんが何を疑問としているのか自体が私には疑問なのですが、推測しながら答えるなら、私たちが知っている唯一の孤立したシステムはこの宇宙というのは、厳密かつ恒久的に孤立しているシステムに限定した場合の話で、実験室で小さな孤立システムを一時的に作って、その中で「孤立していないシステムのエントロピーを減らすには、それ以上のエントロピーをその環境において増やさなければならない」というエントロピーの法則が成り立つことを確認することはできます。また情報の出入りによる攪乱が許容できる範囲内の小さなものにとどまるのなら、閉鎖システムの中で、エントロピーの法則が成り立つことを確認することも、実務的に問題なくできます。
因果律におけるつながりとは、“PならばQ”あるいはこれと等値ですが“QでないならPでない”ということが普遍的に確認できるという論理的なつながりに過ぎず、PとQの間に実在的なつながりを確認する必要はありません。実在的なつながりが確認できないなら、因果性を認めないというのは、デカルトなどの古い時代の科学者の考えです。デカルトは近代的な心身問題を最初に提起した哲学者ですが、科学者としては、ニュートンの万有引力を、作用を及ぼすつながりが謎であるオカルト・フォースとして、受け入れを拒否しました。連続した実在的なつながりが確認できないならオカルトだという考えに固執したから、心身問題が生まれたり、万有引力の法則を拒否したりする結果になったのです。万有引力に関しては、重力波という考えもありますが、どうしてもつながりが説明できない物理的現象もあります。原子内の一つの電子が、ある量子状態から別の状態へ不連続的に変化する量子的跳躍(quantum leap)では、両者のつながりは説明のできない謎ということになりますが、現代の物理学者は、連続した実在的なつながりを説明原理として求めていないから、問題はないのです。
「間違う」ことは「同一でない」ための十分条件であって、必要条件ではありません。
原則という言葉は不適切です。「対象認識を間違う可能性がある」あるいは「他者認識を間違う可能性がある」という表現の方が適切です。
コミュニケーションに不確定性があるからこそ、その不確定性を縮減するシステムはシステムたりうるのです。
違います。環境に属する情報システムには他者という意識システムもあるということを言っているのです。
>「孤立していないシステムのエントロピーを減らすには、それ以上のエントロピーをその環境において増やさなければならない」
この事を私は言いたいわけです、表現が稚拙だったのですね。
言い換えるとある系で内部的エントロピー縮減があれば必ずそれに見合う以上の外部環境に対するエントロピー増大がある。
これで宜しいでしょうか?
>現代の物理学者は、連続した実在的なつながりを説明原理として求めていないから、問題はないのです。
はい、その通りで私も同じことを言ったつもりです。
永井さんが58(2016年1月29日 @7:27 PM)で
>そう思っている人がなぜ、コメントを書き込んで私のサイトに物理的影響を与えているのですか。
と言ったので「思い」と「行動」に「連続した実在的なつながりを説明原理として求めていない」と言いたかったわけです。ですからつながりは「謎」だと言ったのです。
>必要条件ではありません。
? 「間違っていれば同一ではない」この言い方はおかしいですか?
>「対象認識を間違う可能性がある」
えとですね共通のものを見ても一億人居れば一億通りの別々の認識の違いがあります
だとするならば間違う事が普通なのでは?
全く同じ認識を持つ事は無いみたいなので「可能性がある」は不適切では?
それとも「全く同じ認識を持つ」と言う事例が一つでもあるのですか。
>コミュニケーションに不確定性があるからこそ、その不確定性を縮減するシステムはシステムたりうるのです。
>環境に属する情報システムには他者という意識システムもあるということを言っているのです。
この辺はもっと永井さんの他の文章を勉強して、自分なりに整理してから質問したいと思います。
そういう表現でもよいのですが、内部/外部という区別は必ずしも空間的な内部/外部ではないことに留意してください。
もしも心身二元論の立場を採り、意識が物質に影響を及ぼすつながりを謎とするなら、物質が意識に影響を及ぼすつながりも同じく謎ということになるでしょう。にもかかわらず、前者を否定し、後者を肯定する理由は何なのですか。
例えば非常によく調節された二つの時計のように、同じではないけれども、常に同じ時刻を示し続けるということは理論的に可能です。だから「間違うなら同一ではない」とは言えても、「同一ではないなら間違う」とは言えません。私が、「間違う」ことは「同一でない」ための十分条件であって、必要条件ではありませんと言ったのはそういうことです。
正しい認識があるからこそ間違った認識もあるのであって、どちらか一方しかないということはあり得ません。もしも間違った認識しかないなら「間違った認識しかない」という認識も間違っていることになり、パラドックスを帰結します。
>内部/外部という区別は必ずしも空間的な内部/外部ではないことに留意してください。
はい分かりました。
「エントロピー縮減があれば必ずそれに見合う以上のエントロピー増大がある」、将にこのことから言えるのは永井さんとは反対に「意識とか社会をエントロピーの法則で***するのは意味が無い」と思うのです。
しかしこの***に当たる部分がいまひとつぼんやりしています。
もうすこし永井さんの論文を読み進めて、整理してみます。
>前者を否定し、後者を肯定する理由は何なのですか。
理由は特にありません、不思議な謎ですが二元論と言うのは現実に経験する事象に対する心が行う解釈です。
物質は精神を規定する、と言う一方通行だからこそ二元論が都合が良いと思っています。
精神は物質に影響しない為に両者を一元的に扱えないからです。
要するに日常目にする現象を説明しやすいと言うだけの事(しいて言えば理由)です。
この流れから・・・例えば
物質現象に「意味」を与えてはならない(目的、機能を見出す哲学者も居るが)。
情報は物質現象そのものに内在しない、心の解釈(後付では在るが)に過ぎない、
・・・と言った論理になります。
永井さんのお考えは精神や物質を統一的に捉える存在としてエントロピー(不確定性)とか情報がある・・・と言うような事か?と今のところ予想しております。
>同じではないけれども、常に同じ時刻を示し続けるということは理論的に可能です。
それは違うと思います。
その場合は「時計は違うけれども時刻は同じ」なので、やはり「時計は違う」のです。
同じ時計を見てもAさんBさん・・・一億人いればそれぞれ異なる一億種類の「その時計」の認識がある・・・と言うのはありふれた光景では無いでしょうか?
>コミュニケーションに不確定性があるからこそ、その不確定性を縮減するシステムはシステムたりうるのです。
はい、時刻の話とかピッタリの例は解るんです。
しかし その不確定性が増大するケースもあると思う訳です。
>パラドックスを帰結します。
パラドックスにはなりません。
認識そのもの存在を問題にして居るのではありません。
認識の内容が違うと言っているだけです。
例を挙げるとネッシーに関する認識は色々有りますが、ネッシーは実在しないので正しい認識などなく、明らかに間違った認識しかありません。
「よくわからないけれども、なんとなく好きになれない」とかいうレベルの話ですか。
つまり「物質は精神を規定するが、精神は物質に影響しない」というじいさんの物質に関する情報も、じいさんの主観的な妄想に過ぎないということですね。
時刻が同じなら、それで十分です。対象を正しく認識するということは、認識内容が同じであるということであって、認識対象と認識が同じであるということではありません。私が太陽を認識するということは、私の意識の中で実際に太陽の核融合が起きているということではないのです。
これは既に私が答えたことです。社会が不確定性を縮減できない失敗事例はあるし、だからこそ、その縮減は当為として意識されるのです
もしもネッシーが実在しないのなら、「ネッシーは実在しない」という認識が正しい認識となります。
時計の話は私の筋違いです。
「間違っていれば同一ではない」これに同意して頂いているので反論するのはおかしかったです。
じいさんの聞きたいのはその先の話で
「共通のものを見ても一億人居れば一億通りの別々の認識の違いがあります」
このことの意味は間違いの連続で認識が拡散する可能性です。
たった一つの対象が多くの人の間違い認識を生み、それがそれ其れの個人の生活の中で更なる間違いの連鎖を成長させると言う量や質の拡散です。
妄想とか想像とかがその良い例、噂なんかもそうかも知れませんがそれらが個人や社会に有用な例も多く有ります。
>社会が不確定性を縮減できない失敗事例はあるし、だからこそ、その縮減は当為として意識されるのです
そうです「当為」ということです。
これが私のまえに述べた「***」にあたります。
改めて言い直すと「意識とか社会をエントロピーの法則を用いて当為を論ずるのは意味が無い」のではないかという質問です。
社会や道徳の問題で当為を論ずるのはわかるんですか人の意識で当為ってどう扱うのですか、わたしは妄想や想像が当為に関係する事が理解できません。
つまり不確実性が増大する事が当為に適用される事が考えられません。
因みに物質現象であるエントロピーについても当為が論じられるのですか?
>「ネッシーは実在しない」という認識が正しい認識となります。
ですから存在そのものについての認識の話ではないんです。
例えば「将来貴方はなんになりたいですか?」ときかれた時に一億通りの認識が生まれます。この場合認識の内容と言うものは実在しないけれど「人間共通の一つの将来像は実在しない」からといって想像する事を停止するのが当為と言えるでしょうか?
こういう議論をするとき、そもそも「真理とは何か」という基本的な話からしなければなりません。リンク先の話を簡単にまとめると、対象との一致は真理の定義であって、いかなる基準も提供しないので、基準としては整合性が求められるが、整合的で共訳不可能なパラダイムの勝敗を決めるのは、権力闘争だということです。認識も私たちの行為の一部である以上、他の行為と同様に生存という究極目的によって規定されており、同じ対象を見て感性的な印象がまちまちでも、目的との関係で重要でないことは捨象されます。
「価値とは何か」や「道徳的価値は経済的価値と異なるか」などで書いたように、価値は低エントロピーによって定義され、当為は、私たちの存続(つまりシステムのエントロピーの縮減)という究極目的によって規定されます。だから、当為の問題を考えるにあたってもエントロピーの法則は重要なのです。
「将来貴方はなんになりたいですか?」と聞かれて、相手が素直に自分の願望を述べるのなら、それで正しい認識を得たことになります。その願望が他の人の願望と同じでなければならない理由は何もありません。なぜなら、その質問は、一人の人間の願望についてしか質問していないからです。
真理と言うのは良くわかりませんけど思いつくはエントロピー増大の法則とかダーヴィンの自然選択とか言うくらいです。
>他の行為と同様に生存という究極目的によって規定されており
その様な規定はないと思いますが、どのような根拠ですか?
「生存」が「目的」なら自殺は拾象されて許されないのでしょうか?
>当為の問題を考えるにあたってもエントロピーの法則は重要なのです。
エントロピーの法則というのはエントロピー増大の法則のことです。
エントロピー縮減の法則などと言うものはないと思います。
縮減はあくまでも増大の法則から導き出される局所の例外現象では。
>価値は低エントロピーによって定義され
その定義は無理なのでは。
赤いポルシェは価値があります、しかし塗料を塗るのはエントロピーの増大です。
鉄板のような純粋原料から車体に加工するのもそうです。
人間の労働(作業と言う行動そのもの)もそうです。
>その質問は、一人の人間の願望についてしか質問していないからです。
そうですね、しかしこの「願望」を「時刻」に置き換えても同じではないでしょうか。
認識と言うテーマなら一人ひとりの「その人の認識」について扱っていると思いますが。
その延長線上に「他の人の認識」も勿論扱うべきですが。
私が言いたいのは「時刻」の質問ならおっしゃるとおり見事に低エントロピーですが、
質問によっては「願望」のように果てしなくバラけた高エントロピーになる。
したがって認識にエントロピーの概念を適用するのは余り意味がないのでは、と言う事です。
まずは「自殺はなぜ悪なのか」を読んでください。
何度も繰り返しているように、エントロピーの縮減には法則的必然性はなく、法則的必然性があるのは、システムのエントロピーを縮減するには、それ以上のエントロピーを増大させる必要があるということです。そもそも命令しなくても必然的にそうなるものは当為の対象とはなりません。やり方次第で縮減できたりできなかったりするからこそ、当為の対象になるのです。エントロピーの法則は、その「やり方」を決めるうえで、参考になるということです(後述)。
車体が一様に赤いなら、様々な色がでたらめに塗られている場合よりもエントロピーは小さいと言えます。ただ、それは物質的なレベルのエントロピーであって、経済的なエントロピーは別次元で考える必要があります。商品は客の欲望に対して、常に他のようであります。この不確定性を縮減することが価値なのです。労働と遊びを区別するのもこの原理です。
同じではありません。「その時計は何時ですか」ではなくて「今何時ですか」という問いに対する答えだからです。前者なら、他の時計と同じかどうかはどうでもよいはずです。
それなら、最初から「将来貴方はなんになりたいですか?」ではなくて、「人類が普遍的に望む職業は何か」といった質問にすればよいでしょう。もちろん、そのような職業はありません。だからといって正しい認識がないとは言えません。「人類が普遍的に望む職業は存在しない」という正しい認識が存在するからです。
私たちの職業に対する欲望が多様であることは、分業によって成り立っている現代社会にとっては望ましいことですが、分業以上に多様であることには別のメリットがあります。進化は試行錯誤によって可能になるのであり、様々な人々が様々な欲望に基づいて様々な生き方や事業を試みることで、イノベーションが生まれます。全体主義的な統制経済はそうした多様性を否定しようとします。経済統制は、社会的エントロピーを縮減するので、社会秩序の維持にとって良いことのように思えますが、イノベーションが起きないので、かえって体制を維持することが困難になります。エントロピーを縮減するには、それ以上のエントロピーを増大させなければならないというのがエントロピーの法則であり、自由市場のもとで多様性を増やす、つまり社会的エントロピーを増大させ、淘汰によりそれを縮減する自由経済の方が、社会の維持に貢献するのです。
{自殺はなぜ悪なのか}
の答は文中にある「自然な感情」です、その答えしかないと思います。
自分は死にたくないと言う感情で本能とか欲望といはれるものです。
この答えがある以上「規定」と言うのは筋違いです。
わたしは「道徳感情論」を信じています。
規範と呼ばれるものも常にその基となる感情に立ち返って吟味されねばなりません。
規範が一人歩きすると理性が勝ちすぎて窮屈になります。
例えば「規範は、自然な価値感情に基づきながらも、その規範性は言語の普遍性に基づいています」
と言うのは理性が一人歩きする論理だと思います。
現実の人間の意識は「自分は生きたい」と言う感情があって、他人も行きたいであろうと言う「共感」の感情が生まれて、それが社会規範になっていくわけで言語は関係ありません。
基づいているのは決して言語の普遍性でなく、共感と言う感情です。
>やり方次第で縮減できたりできなかったりするからこそ、当為の対象になるのです。
>エントロピーの法則は、その「やり方」を決めるうえで、参考になるということです
>それは物質的なレベルのエントロピーであって、経済的なエントロピーは別次元で考える必要があります。
それなら良くわかります、永井さんがエントロピーの法則を一元的に全ての現象に適用しようとしているのかと勘違いしていました。
「自殺はなぜ悪なのか」には「自然な感情」という語句は出てきません。それに近い表現があるとするなら、以下の箇所でしょうか。
ここで問題にしているのは、「自殺したくない」という欲望が規範と一致している場合ではなくて、「自殺したい」という欲望が規範と一致していない場合です。そして規範は、欲望と一致しないからこそ、当為として意識されるのであって、常に欲望が優先されるなら、規範や当為というものは不要ということになります。「人の意識で当為ってどう扱うのですか」と質問しておきながら、当為の説明をして「筋違い」とはどういうことでしょうか。例えば殺人を犯した人に、動機を聞いたところ、「自然な感情に基づいて行った」と答えたら、じいさんはそれで納得するのですか。殺人が規範に反することを説教しようとすると、「規範が一人歩きすると理性が勝ちすぎて窮屈になります」と殺人犯が反論したとしましょう。じいさんは殺人犯が言う通りだと思いますか。
私は「共感」という感情がなぜ可能なのかを掘り下げて説明しているのです。人間の行動を感情で説明するのは、あたかも自然科学者が自然現象を「自然の成り行き」という表現で説明するのと同じで、説明になっていません。
確率は何の確率であるかによって数字が変わってきます。だからといって、確率という概念を一元的に全ての現象に適用できないということにはなりません。同じことはエントロピーの法則についても当てはまります。
>「自殺はなぜ悪なのか」には「自然な感情」という語句は出てきません。
すいません、「安楽死について」だったです。
良くわからなかったですが・・・その下のテーマになるわけですか?
「幸福価値説のディレンマ」と言う中ですね。
>「規範は、自然な価値感情に基づきながらも、その規範性は言語の普遍性に基づいています」と言ったのはそういうことです。
ですから「自然な感情」ではなくて「自然な価値感情」でしたね、失礼しました、コピペしたつもりだったのですが・・・。
さて読み返してみると、その次の方の「当為の問題」で永井さんが言っている・・・
>究極目的にはいかなる根拠もありません。
>それは私たち自身の存在によって認めざるをえない事実です。
私が言いたいのは生きたいと言う自然な感情(本能、欲望)は「それは私たち自身の存在によって認めざるをえない事実です。」そのものだと言うことです。
その事実は当為に先立つものです、当為だから生きているのではありません。
そしてその前文の
>究極目的は生命の維持であることが判明します。
どう判明しているのでしょうか?
少なくとも科学的には人間の目的(身体の)は生命の維持であるとはいえないと思います。
時と場合によっては物理的に「常に生命を維持する目的」とは言えない場合が多々あるからです。
例を挙げると、老化、ガン、アレルギー・・・・。
今回のお話で・・・
>今私が問題にしているのは、自殺は悪か否かという規範のレベルの問題であって、自殺したいかどうかという欲望のレベルの問題ではない。
そのレベルが逆立ちしているのではないでしょうか。
まるで欲望よりも規範が優先すると言う考えです。
私が言っているのは感情(本能、欲望)が規範の基本にあると言う事です。
自殺するとかしないとか決断するのも感情が決めます、決して規範が決める事ではない。
規範が決めたように見えるが「規範」で決断は出来ない、これが人間の脳の仕組みです。
するしないは感情や意志で決断します。
その人はその決断の後付で規範と言う概念を意味づけします。
>「自然な感情に基づいて行った」と答えたら、じいさんはそれで納得するのですか。
納得できますよ、一般に関係者が知りたいのは犯人が「自然な感情に基づいて行った」と言う「本当の動機」です(例:その時殺意があったかどうか)。
だからこそ、そのあとで罰したい、罰せられたいと思う事が「自然な感情」として生まれるわけです。
その前後両方の事が規範です。
規範が罰するのではなく人の良心(感情)が罰するのです、受ける側もそうです。
>私は「共感」という感情がなぜ可能なのかを掘り下げて説明しているのです。
>人間の行動を感情で説明するのは、あたかも自然科学者が自然現象を「自然の成り行き」という表現で説明するのと同じで、説明になっていません。
其れについてはさっき引用した永井さんの・・・
>究極目的にはいかなる根拠もありません。
>それは私たち自身の存在によって認めざるをえない事実です。
是が答えです。
「納得」という言葉を誤解しています。私は、殺人犯の言い分を事実として納得するかどうかを聞いているのではなくて、当為として納得するかどうかを聞いているのです。そもそも、当為を論じろと言い出したのは、じいさんの方です。そのリクエストに応えて当為の話をしているのに、なぜ事実についての話に摩り替えるのですか。
事実の話ではなくて、当為の話をしているということを断った上で、もう一度改めて聞きますが、「人を殺したい」という感情を根拠に「人を殺すべきだ」という当為を正当化することはできますか。殺人鬼の動機が自然な感情に基づいているのなら、「規範が一人歩きすると理性が勝ちすぎて窮屈になる」と言って、規範で殺人を罰することをせずに、じいさんは殺人鬼の言い分に「納得」し、自ら進んで殺人鬼に命を捧げますか。
当為とは、「まさに為すべきこと」です。「なすべきこと」をしてなぜ罰せられたいと思うのですか。実際、反省しない殺人鬼と言うが世の中にいるのです。
事実と当為とどちらが先かという話はしていません(どういう意味で「先」なのかをあらかじめ定義していなければ、そうした議論は不毛です)。「人を殺したい」という感情を持つ事実がそのまま「人を殺すべきだ」という当為になるのかということを問題にしているのです。
二人の感情、あるいは欲望が両立不可能である場合、どちらを選びますか。それも感情で決めるのですか。感情で決めれば、それに反発する感情が出てきます。その二つの感情のどちらを選ぶかで、問題は振出しに戻ります。人々が何をするべきかを理解し、するべきことをすることに肯定的な感情を抱くなら、感情に基づいて行動しても何も問題は起きないということになりますが、そうした仮定(あくまでも仮定であり、実際はそうではない)では、感情が後付けの役割しか果たしていません。
究極目的の生命とは個体の生命ではなくて、生命全体です。これに関しては「情報化時代のパラダイムシフト」の後半で突っ込んだ議論をしているので、それを参照してください。
なお「究極目的にはいかなる根拠もありません。それは私たち自身の存在によって認めざるをえない事実です」というのは究極目的についての話であって、それ以外の目的についての話ではありません。自然科学で言えば、人間原理と同じです。人間原理を受け入れるからと言って、科学的な説明が不要になり「すべては自然の成り行きだ」という説明になっていない説明ですまされることにはならないのと同じことです。
>「人を殺したい」という感情を根拠に「人を殺すべきだ」という当為を正当化することはできますか。
正当化するしないは後の問題です、重要なのは何故殺したかです。
最初に当為ありきでは人の意識の問題は語れないと思います。
色々な感情の中からおそらく永井さんの言う縮減で「ある意志」が選択されます。
その中には「殺したい」と言った意志もありうるわけです、その場合後で振り返って何故規範に反する決断をしたかが問われるわけです。
その振り返りに永井さんの論法は「当為に反するものも含むから当為なのだ」と言うだけです。
意識の中の「殺したい」と言う感情と本来の「自分は生きたい」と言う感情がどう繋がって殺人にいたるのかを分析するのが「人の意識とは」と言うことだと思います。
「自分は生きたい」から共感と言う感情が生まれ「他人の死」を悲しむ感情が生まれ「人を殺してはならない」と言う感情が生まれ、それが規範化したときに当為と呼ばれるかもしれませんが・・・。
しかしその時点でも規範は納得できますが、「当為」はじいさんとしては認めたくありません。
「まさに・・・すべき」と言うのは誰が語っているのですか?神ですか自分ですか?
語リ掛けている対象は解ります、その人(自分)ですね。
もし自分が自分に語っているのなら「自由意思」の問題で将に自発的意思で=感情に他なりません、
当為と言う用語は不適当だと思います。
神ならば解りやすい、神を納得できれば当為も納得できるでしょう。
>どちらを選びますか。それも感情で決めるのですか。感情で決めれば、それに反発する感情が出てきます。その二つの感情のどちらを選ぶかで、問題は振出しに戻ります。
まさに日常の意識のなかではその様になっています、私はその事実を受け入れて説明をしているだけです。
>感情に基づいて行動しても・・・
行動を決める「決断」と言うものは意志や感情なしには不可能です、それが心(脳)の仕組みです。
ですから人である限り感情で行動するしかないのです。
>究極目的の生命とは個体の生命ではなくて、生命全体です。
意識とはなにかを論ずる時に個体の生命の目的と生命全体の目的を同一視してよいのでしょうか?
前回述べたとおり、「先」とか「後」とかといった言葉はどういう意味で使っているのかはっきりさせないと議論が不毛になります。個体発生的な時間的順番という意味なら、感情の方が規範よりも先に新生児に現れますが、そういう時間的事実的関係と≪根拠→帰結≫という理論的規範的関係とを混同してはいけません。カント的に言えば、事実問題と権利問題を混同してはいけないのです。
規範とは当為のルールであり、当為のない規範は規範ではありません。だから規範と言おうが、当為と言おうが同じようなものです。なお、ある人が規範に従っていることそれ自体は事実であり、事実としての規範と規範としての規範は区別しなければなりません。人がなんらかの当為の意識を持っているということも、それ自体は事実であって、事実としての当為意識と当為としての当為とは区別しなければなりません。個人の感情や複数の人の共感から規範が生まれても、それ自体は事実でしかなく、その規範に正当性が与えられることにはなりません。ユダヤ人に対する憎悪という感情がドイツ人の間で共感を呼び、「ユダヤ人は殺すべきだ」という規範が生まれても、それは1930年代のドイツで起きた一つの事実に過ぎず、その規範に当為としての正当性があることにはならないのです。
もしも事実としての日常の意識を受け入れ、それに従うだけでよいのなら、だれも間違った行動などしないはずです。「ユダヤ人は殺すべきだ」という規範が日常の意識となっている強制収容所の管理指導者とそうは思わない人との対立をどう解消するのかという問題提起を行っているのに、じいさんはそれに答えようとしません。
ここでも規範に従うことが正しいという前提で議論していますが、規範が間違っているのなら、規範に反することが正しいということになります。「どうあるべきか」はどうあるべきかというという規範の正当性の問題は感情では解決しません。なぜなら、感情があるという事実と感情の正当性は別問題だからです。
必然的ではないことは当為が成立するための必要条件にすぎず、十分条件ではありません。この点を勘違いしているようです。私の規範倫理学に関しては、拙著『現象学的に根拠を問う』第三章の「目的論的還元・構成・破壊」を参照してください。あらゆる価値と当為を目的に対する手段としての価値や当為とみなし、手段から目的への連鎖を遡ることで、究極目的にたどり着くなら、その究極目的によってあらゆる価値と当為を正当化できるというのがその理論の趣旨です。
殺人に関して言えば、手段としての殺人なら、究極目的との関連でもっと良い別の手段を提示できるし、目的としての殺人、酒鬼薔薇聖斗のような性的サディズムの場合、欲望自体は否定するべきではなく、欲望の満たし方を変えるべきです。性欲は、そもそも死への欲望であり、変化適応のための欲望ですから、エントロピーの減少(種の存続)のためのエントロピーの増大への欲望として肯定されるべきなのです。
何度も同じことの繰り返しになりますが、自分の感情と他者の感情が両立不可能な時どうするのかということを聞いているのです。感情の趣くままに行動して誰とも衝突しないなら、誰も苦労はしません。間主観的に妥当な規範の正当化のために神を持ち出すのは前近代社会での話で、現代のように人々が神の権威を信じなくなった時代では、理性的に問題を解決しなければなりません。理性的な対話が不可能な場合は、生存競争で事を決するしかありません(目的論的破壊)。生存が究極目的である以上、どちらが生存するかで究極的には決まるということです。
個体の生命と全体の生命は同じではありませんが、個体の生命を離れて生命全体がどこかにあるわけではなく、その意味では、個体の生命と生命全体は不可分の関係にあります。
>そういう時間的事実的関係と≪根拠→帰結≫という理論的規範的関係とを混同してはいけません。
>事実としての規範と規範としての規範は区別しなければなりません。
>規範に従うことが正しいという前提で議論しています
規範についてのテーマなら解るんですが、今は「意識とは何か」について質問しています。
ですから・・・
>「人を殺したい」という感情を根拠に「人を殺すべきだ」という当為を正当化することはできますか。
というような意識(感情)の正当化の話でなく、何故その前にその様な感情が生まれたのかが「意識とは何か」のテーマに則していると思います。
>そうは思わない人との対立をどう解消するのかという問題提起
ですから(事実?)規範 が違うわけですよね、そのときにその規範の前提にある感情と言うものの違いが原因なのだから感情を掘り下げる事で解りやすくなると思います。
>感情があるという事実と感情の正当性は別問題だからです。
はい、もとより感情の正当性など在る筈がないと思います。
感情の正当性は規範によって計る・・・と言う事でしたら理解できます。
「意識とは何か」は感情と規範の食い違いを追求する事でもあると思います。
その為にはまず感情の存在を認めないと始まらないと思います。
>手段から目的への連鎖を遡ることで、究極目的にたどり着くなら、
究極の目的が「生存」なら、「何の為に生きるのか?」と問われたらトートロジーになってしまいます。
手段の目的化は良くあることなので「究極」になっていません。
>生存が究極目的である以上、どちらが生存するかで究極的には決まるということです。
その論理は少しおかしいのでは?
その場合は「生存競争で事を決する」ということしか言えないと思います。
と言うのは破壊や競争で両方が滅亡する事は良くある事だからです。
良い例は繁殖しすぎて消滅する種と言うのは多く見られます。
その場合生存が目的ではあったが究極には生存できなかった訳で「究極の生存」の真理がくずれます。
もし破壊や競争で全体の滅亡が予想される場合一部が自発的に自滅して全体の滅亡を避ける・・・
というようなシステムがあるのであれば確かに「究極の生存」は真理かもしれませんが、自然現象ではその様なシステムは一部には見受けられるものの一般的ではありません。
>その意味では、個体の生命と生命全体は不可分の関係にあります。
もちろん不可分です。
しかしじいさんは「目的」と言っています。
「個体の生命の目的と生命全体の目的」の目的を問題にしています。
不可分だからこそ全体の中で個体が犠牲になったりする事はよくあるでしょう。
さらに永井さんの「究極の目的」の趣旨は個体の目的(意識)でもなく、全体の目的(意識)でもなく・・・
何というか超越したような視点からの「究極の目的が生存である」と言う原則が宇宙原理としてあるらしいのですが・・・
そのような視点に立てば個別や全体のそれぞれの目的(意識)など無視できる訳ではありますが・・・。
しかし進化の歴史で生き残った種は極少数なのですから、自然の原理としては自然選択しかなく「究極の目的が生存」とは言えません、あくまでも「個別の利己あるいは全体(種としての利己)の目的(意識)」です。
現代の科学では目的(意識)が「個体の生存」か「全体の生存」か未だに結論は出ていないと思います。
私はそもそも「生存」を「目的」とする論理自体に無理があると思います。
生命現象に何の目的を求める考えは必然性も必要性も根拠もないと思います。
自然選択説と言うのはまさにそういう事を言っていると思います。
意識を持つ存在者に当為がないということはありえません。意識を持った存在者とは迷う存在者であり、迷いとは、目的に対する最適な手段を選ぶ迷いだからです。認識はそれ自体が実践であり、意識は決して外界をありのままに代表象しているわけではなく、生存戦略上重要な情報を選択的に得ており、目的被制約的なのです。
もしも何がどうなってもかまわないのなら、感情など不要です。生存を究極目的にしている(それを意識しているかどうかは別として)からこそ、意識や感情があるのです。
生存を究極目的としているということは、必ずしも当事者がそれを意識しているということを意味しません。もっと下位の目的しか意識していないからこそ、かえって究極目的が達成しやすくなっているというケースもあるのです。
究極目的は個体ではなくて、全体の生命の存続です。しかし、個体はそれを意識していないし、利己的に自分の生存だけを追求した方が、滅私奉公を意識している個体よりも、かえって全体の生命の存続に貢献できるということです。似たようなパラドックスに、科学の研究など、実用性を無視した研究の方が、長期的には実用になるというのもあります。宇宙原理というのは不適切で、生命の原理といったところでしょう。
生命は、この地球に誕生した時から自己保存するようにプログラムされています。そうした生命が地球に誕生する必然性はないし、ほとんどの並行宇宙には生命は存在しないと思われています。しかし、たとえ生命の誕生に必然性がなくても、いったんそういうようにプログラムされた存在ができれば、そのプログラムに従って生き続けようとすることは必然です。もちろん、コンピュータプログラムと同様に、誤作動するものとかもあるでしょうが、そういうのは淘汰されるから、結局、自己保存を目指すプログラムが生き残るということです。自己保存を目指しても、生き残れないということもありえますから、今日私たちが生きていること自体は偶然です。
なお、究極目的に関する類似の議論は、「情報化時代のパラダイムシフト」の後半で行われています。私としては、同じことを繰り返したくないので、できるだけ他の箇所を読んでから質問していただければ、助かります。
>意識を持つ存在者に当為がないということはありえません。
>生存を究極目的にしている(それを意識しているかどうかは別として)からこそ、意識や感情があるのです。
>生命は、この地球に誕生した時から自己保存するようにプログラムされています。
この事の根拠が全く不明です。
>究極目的は個体ではなくて、全体の生命の存続です。
>個体はそれを意識していない
では誰が目的を決めるのでしょうか?
ここで単純な質問をします・・・
宇宙に目的が在りますか?
太陽が輝く目的は有りますか?
理解できないのであれば、最初から読み直してください。
決めることができる目的は、手段としての目的に過ぎません。
ありません。人間原理によりこの宇宙に目的論的説明を与えることはできても、宇宙全体にはできません。
意識とは何か
>迷うことができる者のみが意識を持つ
は理解できます、大賛成なのですが「迷う」に伴う重要な要素が有ると思います。
それは「迷っているのは自分」と言う自我意識です。
是が無いと「迷い」自体が意味を持ちません。
私が参考にしている種本があるのですが・・・
「知・情・意の神経心理学 山鳥 重 (著)」
・・・と言う本ですが、その中には
「感情はわれわれの主観的軽験の原風景である、感情無しには主観的経験の世界(つまりこころ)は成り立たない。」
とあります。
要するに主観感情無しには意識は成り立たないのです。
あらゆる経験は「他ならぬ自分の体験である」と言うラベルが貼って有ります(この辺はPCに似ている)。
一般的な情報とかシステムを論じる時でも、意識と言うテーマにおいてはこの主観感情を無視できないと思います。
おそらく超越的(よく意味が解らないですが)な考え方と言うのは「意識」を扱う時には不都合な考え方ではないかと思います、超越しないこと、これが意識を扱うときは大事だと思います。
例えば「時刻」というのもそうです、客観時刻と言うのは定義できます、しかし時刻意識と言う事になればその意識主体の感情が入ってきます、いわゆる「その時刻のクオリア」です。
そのクオリア無しには意識は「時刻」を想起出来ないのです、それが脳の構造です。
>決めることができる目的は、手段としての目的に過ぎません。
これは何を言っているのですか?
一般的原則ですか?
一般にゲームは勝つことが目的ですが、究極の目的でも在ります。
決して手段にはなりえません、勝った瞬間に終わってしまいますから。
そしてその究極の勝つと言う目的は誰かが決めないと存在しません。
要するに生きる究極の目的を決めたのは誰か?をお聞きしています。
もし決めたものが居ないと言うなら、その「ゲームの目的」には居た決定者が「生きる目的」には何故居ないかと言う根拠を示す必要があると思います。
>人間原理によりこの宇宙に目的論的説明を与えることはできても、宇宙全体にはできません。
「宇宙」と「宇宙全体」とどう意味が違うのですか?
個人史的にも思想史的にも、自我意識は後になって成立する派生的な意識です。子供が自我意識を持つのは母親の認識の後ですし、デカルトがコギトエルゴスムを言ったのは近代になってからです。自我は決して直接には意識できないし、他者を通じてしか意識できない。他のようでもありうる意識の否定が自我意識であり、他のようでもありうる迷いの否定が意識システム全般を特徴付けています。
よく意味が分からないというのなら、そういう言葉は使わない方がよいですよ。超越する(厳密に言えば、超越しようとする)存在者でなければ、意識を意識として意識することはないでしょう。人間以外にも意識を持った動物は多分いるでしょうが、意識があるということと意識を意識として意識するということは同じではありません。
究極目的を決めたのは、この地球に誕生した最初の生命です。正確に言えば、その生命が決めたというよりも、そう決めることでそれは生命になったという方が真実に近い。
この宇宙とマルチバースとの違いです。
初めて投稿させて頂くので、テスト投稿です
この、意識とは何かについての議論のページへは、初めて投稿させて頂く者です。私は人間の自由意志や意識について関心があるので、割りに長い期間この問題を考えて独自の構想を練ってきました。 今回は全く初めての投稿ですから、投稿文体がどう表示されるかのテスト投稿です。
HTML タグと属性が利用できる、とありますが、投稿に必須なのか分からないし、投稿最大文字数も分かりません。また他の参考資料の提示として、URLの提示についてもよく分かりません。熱心な応答議論の真っ最中のようですが、多くの意見の参加の方が、より多くの発見もあるように思います。
唯物論者の自由意志否定は、その者の思考の末の確信だとすると矛盾が生じる
唯物科学は現象の一側面しか論じないために、実に馬鹿げた結論を盲信するように思えます。人間の素朴感覚でも簡単に認識し得る主体意志性を全く説明できないから、意識は脳の物質的属性と結論したのではないでしょうか。これは唯物論の適用限界を素直に認めない狂信性であり、さらにその狂信性は唯物論的な政治イデオロギーを死守するための、虚しい努力であるように思います。
何故ならあの労働者階級特権独裁の熱狂で誕生した、ソ連邦共産国は自己崩壊して中国人民共産国は変節しました。これは唯物的自然観をそのまま、人間の社会制度には適用できない事実を示しており、特に人間の自由意志を唯物論では幻想とするから、このために共産国家では人間の行動自由を大きく制限できる特権独裁体制の実施根拠となっています。
この、人間の自由意志は幻想だとの主張が本当であれば、人間の行動自由を大きく制限する共産国家の特権独裁体制の方が、国家集団の繁栄が期待される筈ですが、唯物的自然観を人間社会にまで拡張すると、明らかに論理矛盾が生じると思えます。
自由意志を幻想とする唯物論者は、被影響によってのみ存在する
これは、自由意志は幻想とする唯物論者の意識には主体性が無いので、唯物論者の意識は、外界の被影響反応によって“ 事物の推移を傍観するだけ “ の位置づけしかないことになります。
ところが、唯物論者の意識は“ ただ事態を傍観するだけ “ の位置づけにも係わらず、さらには唯物論者の意識は主体性を持たずに、自身の個体行動には何の企画実行の指示力が無いにも係わらず、脳興奮による喜怒哀楽の感情は、主体意志の無い唯物論者の意識をも “ 巻き込む “ ことになり、単なる “ 傍観するだけ “ の唯物論者の意識が、後悔の念だとか反省の感情までも持たされるのは、原始生命から人間に至る進化過程からも “ 不必要負担 “ であり、合理的な解釈としては “ そんな意識なら初めから無くても良くないか “ との考えに達するのです。
しかしそれ以上に滑稽なのは、唯物科学を主張する唯物論者の “ 思考の末の確信 “ は、一体どのように成立したのかと問うことです。 唯物科学は、自由意志は幻想だとしている以上、唯物論者の “ 思考の末の確信や自己努力 “ などは存在せず、ただ単なる周囲の被影響によるものになる筈です。
人間の自由意志否定には倫理的大問題が生じるが、これは唯物論の適用限界を無視するため
しかしそれ以上に深刻なのが人間の自由意志を否定して場合に、ただの金欲しさのために凶悪的殺人を犯した者を裁けるのかという問題です。これを安直な両立論で解決しようとすると、一層混乱が増すばかりに思えます。唯物論による人間の自由意志否定には、人間社会の存立を崩壊させる程のインパクトがあり、その根拠は物質的理論で語られますから、人間の自由意志は幻想であるとか人間の主体意識は錯覚であるとかの、唯物論的帰結になると思われますが、そのような人間の素朴感覚や人間社会の存立を崩壊させるような自然組成が、生命進化の過程において無抵抗に取り入れられたと考えるよりは、唯物的自然観には適用限界があると考える方が健全な思考であるように思われます。
ご質問を受け、「コメント・フォーム投稿規定」を改訂しました。要点を抜き書きすると、
以上の観点から、コメントを修正しました。その他、引用方法などに関しては「コメント・フォーム投稿規定」を参照してください。
それは俗流唯物論の説です。ヘーゲルやマルクスといったドイツ哲学の伝統では、自由とは必然性を洞察する意識の能力とされます。自然民族のように、科学的知識を持たずに、自然の偶然に翻弄される存在は自由ではなく、自分たち(近代ヨーロッパ人)のような科学的な認識能力を持つ者だけが自由なのだというわけです。しかしながら、ヘーゲルやマルクスの時代だけでなく、今日においても、私たちは必然性を完全に認識できません。それにもかかわらず、あたかも完全な認識能力があるかのように、社会全体をコントロールし、生産力を増大させようとすると、共産主義国家がそうだったように、かえって社会をうまくコントロールすることができなくなり、生産力を増大させることができなくなります。これに関しては「限界革命はどこが革命なのか」を参照してください。
80 永井俊哉 投稿:
>子供が自我意識を持つのは母親の認識の後です
勿論ですが「迷う」というのもずっと後になってからでしょう。
われ迷うゆえに我あり だと思います。
>他のようでもありうる意識の否定が自我意識であり、他のようでもありうる迷いの否定が意識システム全般を特徴付けています。
この文章は既にある自我意識が迷いの否定をしていると読めますが・・・。
>そういう言葉は使わない方がよいですよ。
意味を探る為に質問しています。
>意識を意識として意識するということは同じではありません。
それは人の心のもつ特性です、いはゆる「入れ子」とか「再帰」とか言われる機能です。
自己(主観)を客観視すると言う不思議な機能でもあるし一種の自己言及のパラドックスです、超越して居るわけ有りません。
これは私は「脳のクセ」の様なものとして捉えています。
そのおかげで他人の心も理解でき道徳、規範が生まれました。
決して当為ではありません、迷った末の選択で自由意思だとおもいます。
そこで質問です、当為が存在するならそれと自由意思との関連はどう捉えられるのですが? 当為なら迷いも無いはずです。
>そう決めることでそれは生命になったという方が真実に近い。
論点先取の文だと思います。
>この宇宙とマルチバースとの違いです。
ではそのマルチバースでは エントロピー増大の法則はどうなるんですか?
*** 相対論信奉者を不安にさせる指摘***
東京大学の佐藤勝彦教授はタイムマシンについて次のように述べられた。 時間や空間を行き来できるタイムマシンは実現可能なのか。 ずばり未来への移動は可能だ。 むしろ 「 日常的に、あなたも未来に移動している 」。 高速に移動している乗り物の中は時間の進み方が相対的に遅くなることがわかっている。 つまり 「 光速 」 に近づくほど時間の流れは遅くなる。
↑ タイムマシンを可能とする佐藤勝彦氏の解説には矛盾を含む
これは意識あるいは記憶についての問題とも言えますが、この点に関して投稿者である eig35153は以下の疑問が浮かびました。 これは他のサイトの文章を引用とかではなく、全く私個人の着想ですから設定に無理があるかも知れません。 それは、高速運動で生じるとされるタイムマシンの時間遅延について、その矛盾を指摘するのならそれを体験する生物系、特に人間について生じるのではと着想しました。
今から高速運動をする体験者に課題が出されました。 それはその体験者が未だ知らない歌謡曲を、高速運動中に覚えろというものです。 体験者は録音された歌謡曲を高速運動中に何回か再生して、地球基準系に帰還するまでにその歌謡曲を覚えました。 矛盾というのは、体験者が地球基準系でその歌謡曲をまともに歌えるかということです。
高速運動で生じるとされる時間遅延は、例えばそれが10年の時間差が生じるなら、体験者はそれに応じた容姿になるでしょうし、ゼンマイ時計も原子時計もその時間差異を示すでしょう。 高速運動体内部では地球基準系に対して時間はゆっくりと過ぎる。 高速運動中に体験者が歌謡曲を覚える過程も、さらには、体験者が歌謡曲を記憶に定着させるなどの脳思考活動も、地球基準系に対してはゆっくりと行われる筈です。
高速運動中の、ゆっくりと悠長な脳思考活動によって定着させた歌謡曲の記憶を、地球基準系で想起する場合に、地球基準系に同期したリズムでそれは歌われるでしょうか。 もしそれが地球基準系のリズムだとすると、体験者の容姿は時間遅延の過程が残っており、時計も明らかに時間遅延を示しているのに、体験者の意識や記憶だけは地球基準系に同期して、何の時間遅延も残らないのは矛盾にはならないのでしょうか。
もしこの指摘が正しいのならそれは歌謡曲の記憶だけに限ったことでは無く、高速運動中の、体験者の脳思考活動全般でそれは起きることになると思いますが、 永井先生はこの指摘をどのように思われますか。
*** 多様自由度の無い唯物世界で、果たして確率の連携性は生じるのか ***
これは均等混合の本質に繋がる指摘であり、例えば赤インクと青インクを混ぜれば、その後さらに混合を繰り返してもその混合後の新しい色は均質に維持されて、再び赤インクと青インクが部分的にも出現することは無いという、日常生活でよく知られた現象なのですが、唯物的決定論の世界では果たしてこの混合収束は成立するでしょうか。 例えば、赤 ・ 白 ・ 青の3色のビーズを容器に入れて混合する場合に、混合したと思えた瞬間に全ての赤色のビーズが白色に一斉に変化した場合は、
最初から白 ・ 青の2色を混合する場合と、容器内の各色のビーズ配合はどのような違いが生じるでしょうか。 さらには赤 ・ 白 ・ 青の3色のビーズを混合する場合に、一定時間経過後に赤色のビーズが白色に一斉に変化するような設定を組み入れた場合は、 そのような設定を組み入れない場合 と比較して、混合時間経過による容器内の各色ビーズの “ 混合比率経過 “ に違いが生じる事は起き得るでしょうか。
2重スリット通過実験での片方検出器の設置の有無によって、スリット通過粒子が様態を変化させるという実験事実がありますが、この各色ビーズ混合の指摘は、そのマクロ版として成立しないかと考えました。 ビーズ混合は明らかにマクロ現象であり、ミクロ粒子が実験設定によってその様態を変化させることはあっても、ビーズ一個の質量は確かにマクロ的かも知れません。
しかし果たしてマクロ領域とミクロ領域との明確な区分はあるのでしょうか。 別の言葉で言えば、量子力学はミクロ領域だけしか適用できないのでしょうか。 最近の波動性 ・ 粒子性のミクロ領域の二重性検証では、アントン・ツァイリンガーがミクロ領域でもかなり大きなサイズのフラーレンを使用して、それが確認されたと報道されています。
*** マクロ的物質科学だけの世界で、果たして確率の連携性は生じるのか ***
サイコロによる確率的均等出現は明らかにマクロ現象であり、マクロ実験環境での均等出現実験のために、サイコロ形状の厳密な成型や実験環境の密閉化が準備されることもあるでしょうが、実はサイコロ形状にしてもそれ程厳密でなくても、マクロ的効果以外の要因で、サイコロの確率的均等出現が生じているのではないか。意図的に歪な形状のサイコロで実験をすれば、その歪さに比例して均等出現が乱されるように思えますが、果たしてそうでしょうか。
生物系では雌雄同率出現が知られていて、雌雄同率でなければ種の存続が安定しません。 世界的大戦争で男性が多く死亡しても雌雄同率は序々に回復しますが、これは人間個体の内分泌変化だけで説明が付くでしょうか。 この事実を考えるとこの自然宇宙では、生命系と非生命系の明確な区分は無いと提言したい。 つまり道端に転がる小石も木片もその微細内部には、生命系の根源となる自然組成が活動しており、マクロ系の自然背景にそのような生命的根源があるからこそ、人間の自由意志や自律主体が成立するのだと思えます。
これはマクロ系でも実験設定に斬新なアイデアや技巧を加えたら、マクロ系で生じる確率的均等出現やエントロピーの概念に新しい知見が発見できる可能性があるように思えます。 投稿者の考えとして、確率やエントロピーの概念が生じるのは、マクロ世界にもその背景に多様性を生み出すような自然組成があるからだと思います。
このページの冒頭タイトルは意識とは何かとなっているので、この投稿指摘はそれに相応しいものだと思います。 その指摘とは、人間の睡眠時に体験する夢知覚であり、夢内容がその人の体験記憶の断片合成であるとしても、それが時には鮮明に見えたように思えるのは何故でしょうか、
人工知能が外界認識をしたら人間と同じような感覚や心像を持つでしょうか。 答えは否でしょう。 何故なら人工知能は自由意志やイメージ生成を生じません。 それでは人間にとっての意識とはなんでしょうか。 恐らく意識とは、認識する外界なり対象が生きた要素を含んだまま人間の思考意識成立に参加することによる、親和的一体性でありそれによる一層身近な感覚ではないでしょうか。
*** 人間にとって “ 意識 “ とは何だろうか ***
( 疑問点1 )、意識を持つ人間と、岩石など非生物を含む全ての認識対象物の相互について、確実な絶対的独立状態が存在しさらに、どこに至るまでも異質な固有状態であるのなら、それを生物なり人間が認知感覚器官によって知る場合の、その知覚像は絶対的な異質な差異を保持し続けているのか。
( 疑問点2 )、上記したように観測に際して疑問点1 のような状況であるのなら、人間が日常での観測対象の認知とそれによって得られる認知内容が、その人間の思考上において “ 馴染む “ ことが果たして可能なのか。
疑問点1、と疑問点2、を検証するための問い。 読者のあなたに質問です。
まずあなたの身近に有る存在物、例えばコップがあるならそのコップを充分に見て、そのコップから視点を外してから、知覚し記憶したそのコップを想起する。 そうするとコップのイメージあるいはコップの印象心像が浮かぶと思うが、ではその時のコップのイメージなり印象像は、あなたが意志し作り上げた内的な思考世界に “ 属して “ いるか。 それから、得られた認知内容があなたの思考において、“ 属しかつ馴染む “ ための絶対条件は何だと思うか。
以上の問いに対してごく一般的な回答として、得られた認知内容であるコップのイメージあるいはコップの印象心像は、観測者の内的思考で作られたものであり、かつ特別な異質感は無く “ 思考に馴染んでいる “ と言える。 またそのことは自明であり、コップのイメージあるいはコップの印象心像が、現実的印象や独立感を持つことは無く、明晰ではないが自己の思考生成による所有感がある。 ← 常識的な一般的回答でしょう。
*** 睡眠時の夢知覚は、なぜ現実味を帯びているのか ***
それでは人間の意識としてその対象が認識される時、認識対象はミクロレベルを介して現実要素を含んだまま人間の思考意識成立に参加する から、認識対象はより一層身近に感じられると仮定します。 つまりそれは単なる認識心像としてではなく、自然の律動を持った自然世界の一部が擬似実体として複製されたと仮定します。 さらに覚醒時の人間の意識は “ 主体意志の自然な確立によって “、夢知覚やイメージ像のような非現実と現前の現実とが、明らかな異質として区分されます。
それでは睡眠時の “ 主体意志が減弱している場合 “ は、この記憶イメージとしての擬似実体はどうなるでしょうか。 人間の夢知覚は周期性があり覚醒準備期であるレム睡眠時に起きるようですが、睡眠時の夢知覚が現実味を帯びた印象心像になるのはまさしく、人間の意識と擬似現実性を持つイメージのミクロレベルでの合流として、現実味を帯びることの傍証になるように思えます。
さらに夢知覚では、とりとめの無い夢内容を傍観するだけの意識性( 減弱している主体意志 )の存在もあるでしょう。 それでは、夢知覚時に現実味を帯びさせるような生命的要素を持った擬似実体としての記憶イメージは、覚醒後にはどうなるでしょうか。 それは、人間の“ 主体意志の確立によって “ マクロ世界が現前の現実となり、夢知覚時の現実要素を持ったイメージは意識の後景へと散消する。
さらに夢内容が覚醒後にそう簡単には思い出せないのは、夢知覚時のイメージ断片が擬似実体を持っていたとしても、それはイメージを制御している自律主体が夢知覚時には減弱していたからと思えます。 さもなければ、夢内容が無秩序であるように現実要素を持った擬似実体は、不眠による精神疲労などの場合は、一般人でも思考内容に幻聴体験が起きる場合があり、 これは統合失調症での幻聴などの幻想イメージの現実誤認、を説明できるように思われます。 この夢知覚時の鮮明印象について永井先生はどのように思われますか。
私たちは、覚醒時においても、現実をありのままに知覚しているわけではありません。認識は常に欲望によって根本的に規定されており、重要でない対象はすぐに意識から消えてしまいます。私たちは、いわば「見たいものを見ている」という状態です。フロイトが指摘したように、夢とは願望の象徴的実現ですから、その点で、覚醒時の知覚と夢想時の知覚の違いは、常識的に思われているほど大きくはないと言えます。
そんなことはありません。
迷いがないということと迷いを否定すること、即自的な無と否定によって媒介された即かつ対自的な無は同じではありません。
わからないで質問するのとわからないのにわかっているかのように使っているのは同じではありません。
自己反省できる自己が超越的でないなら何が超越的なのですか。言葉をどう使うかは人の勝手ですが、少なくとも近代以降の哲学で使われている「超越」とは異なる意味でじいさんがこの言葉を使っていることはわかりました。
他のようではあり得ないなら当為はあり得ません。また当為のない規範はありません。これまで同じようなことを何度も言ってきたけれども、じいさんはそれを理解しないので、私は同じことを何度も繰り返さなければなりません。同じことを繰り返すのは退屈なので、そろそろ終わりにしませんか。
論点先取ではなくて、生命の定義です。自己複製しようとしないシステムは生命とは言えません。
テグマークが謂う所の究極集合などは別ですが、物理学的なマルチバースでは、同じ物理法則が成り立ちます。
目的論的自然観はどうしても馴染めないですね。
カントが感性・悟性に先立って当為を設定しているとは思えませんがね
>同じことを繰り返すのは退屈なので、そろそろ終わりにしませんか。
了解しました。
永井先生。こんばんは。14年ぶりに投稿します。
機会があり、2005年に投稿してから未だに同じ仕事をしております。
先生、コンピュータウィルスは生物に近い動きだと思いますが、別のPCに感染したいと言うトリガーが生まれません。人がプログラムにトリガーを指示はできますが、ウィルスの意思ではありません。
コンピュータの自己学習で、望まれる傾向に進むと得点が高くなるシステムを作るとあらゆる手段で、高得点を取るためにコンピュータが試行錯誤できます。
前回、生命とは別と話されてますが、生命が意識を生み出すトリガーと思っておりますが、哲学では、切り離して議論するべきものなのでしょうか?素人的な発言で申し訳ありません。
私は哲学者ではなく機械屋でございますので、むずかしいことはわかりませんが、私の目的は意識を再現して機械を自律させることです。
※統計学を用いれば、人の認識をコンピュータに任せることが可能ですが、未だに意識を作れる会社は世界中どこにもありません。
生物界におけるウィルスも意思を持っておらず、偶然生命体に感染して、機械的に増殖します。
「望まれる傾向」と言う時、だれが何を望んでいるのかを考えなければいけません。
意識を持つ、すなわち迷う存在であるためには二つの条件が必要です。第一に、自己保存を目標としていること、第二に、自己保存を実現するための手段選択が確定的ではなくて、オープンで自由であることです。
コンピューターは自己保存を究極目的としていないので、どんなに演算能力が高度になっても意識を持つことはありません。生命にはすべて自己保存を行うメカニズムがありますが、自己保存のための手段選択が生得的なプログラム(走性、反射、本能)によって確定している場合は、意識が不要になります。
私たち人間は、自己保存のメカニズムを持ち、かつ自己保存のための手段選択の一部を後天的に獲得される変更可能なプログラムによって行うために、意識を持つのです。人間以外の動物でも、非確定的な方法で学習をしたり、知能を働かせたりするなら、意識を持つと考えられます。
日本の研究者には、感情を持ったロボットや人工知能など、人間に近いロボットや人工知能を好んで開発しようとする傾向がありますが、感情を持ったふりをするロボットや人工知能ならともかくとして、本当に感情を持ったロボットや人工知能を作ろうとするなら、自己保存のメカニズムを持たせなければなりません。自分がどうなろうとどうでもよいのなら、感情も迷いも生まれません。
しかし、感情や意識を持たせるために、ロボットや人工知能に自己保存する目標を持たせるべきではありません。私はこれまでヒューマノイド・ロボットの開発は不要であると言ってきましたが、自己保存を目標とするロボットや人工知能の開発は不要であるどころか有害であります。しばしば人工知能が高度になると、人類に取って代わるのではないかと不安視する人がいますが、自己保存するようにプログラムされていない限り、どんなに高性能になっても、その心配はありません。しかし、人類の利益を無視して自己保存するようにプログラムするなら、そうなる可能性が出てきます。
ロボットや人工知能は、自己保存を究極目的とする人類がその目的実現のために開発した道具であって、自己保存を究極目的とするロボットや人工知能の開発は、本来の開発目的から大きく逸脱しています。技術者の皆様には、この点で間違いを起こさないようにお願いしたいと思います。
永井先生。こんばんは。
早速のご返答ありがとうございます。
丁寧に回答頂きましてありがとうございます。
受け取りました。
先生の説明で、まだ浅いですが私なりの理解ですと「自己保存」がキーになりそうですね。
> 感情や意識を持たせるために、ロボットや人工知能に自己保存する
> 目標を持たせるべきではありません。
ITは、機械に神経を、CPUは認知を可能してくれ、機械が判断して、動ける時代
になりました。日本より先に進んでいる国が沢山あります。
昔ですがUKの研究で、「GC5 Brain and Mind(http://www.cs.bham.ac.uk/research/projects/cogaff/gc/gc5web.html)」が実施されましたが、結局うまく行きませんでしたが
どの国が意識を生み出すのか一番槍を突くか時間の問題です。
金融は証券の紙切れで儲けるように、機械屋は物を加工して儲けるしかできません。
誰が先に意識を作って、新サービスを世界に提供できるかで企業・国の富が変わると思います。
間違っているかもしれませんが、害を加えるかもしれな危険なヒューマノイドロボット、
しかしイーロンマスクの様なフットワークの軽さで挑戦が必要だと思ってます。
先生の言う「自己保存」が感情と意識を生み出すキーになるか、
一度熟考したいと思います。ありがとうございました。