7月 292000
 

オートポイエーシスは、もともと生物学から生まれた概念だが、哲学や社会学でもよく使われるようになった。オートポイエーシスとは何かを、自己組織化、自己指示、自己反省など隣接概念との意味の区別を通じて考えていきたい。

1. 自己組織化

平面上のある一点に砂粒を落とし続けると、円錐型の砂山ができるが、その砂山の傾斜角度は、砂粒の量とは無関係に、ほぼ一定である。斜面が急になると、なだれが起きるからである。なだれの規模とその頻度の間には、ジップの法則が成り立つ。1/fのゆらぎを持つゆらぎを通して、一定角度の円錐形 が自己組織化するわけである。

この現象は、自己組織化臨界と言われている。臨界とは、そのギリシャ語の語 源にさかのぼると、岐路、判断と言う意味であることがわかる。砂粒が落ちた とき、その場にとどまるか、それとも転がるかという岐路に立たされる。その選択は個別的にはランダムであるように見えて、全体としてはまるで砂山が自分で判断して自らの形を形成しているように見える。

システムとは選択のことであるから、円錐形を自己組織化する砂山も一つのシ ステムである。熱力学の第二法則にしたがって、システムが自己組織化するときには、環境においてエントロピーを増大させなければいけない。砂山の場合も、砂粒の摩擦によって生じる熱がシステムの外部へと散逸しなければ、砂山 の形はもっと不安定なものになるはずである。このように自己組織化と言って も、完全に自己だけで組織化が行われるわけではない。

オートポイエーシスが自己組織化システムの一種であることは確かだが、すべての自己組織化システムがオートポイエーシスというわけではない。オートポイエーシスとよぶには、さらに自己言及性が必要である。

2.自己言及

自己言及とは、文字通り、自己に言及し、自己を指示することである。「この命題は16文字で書かれている」という命題は、自己言及的命題である。しかしこの命題は、オートポイエティックな自己組織化システムとは言えない。この命題を書いたのは私であり、命題が命題自らを作り上げたわけではないからだ。他方私を含めた言語システム全体で考えると、「自己」はもはや「命題」ではないので、自己言及的でなくなってしまう。

3. オートポイエーシス

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体細胞分裂する細胞。“3D representation of two mouse daughter nuclei in a late stage of nuclear division” by Lothar Schermelleh is licensed under CC-BY-SA.

オートポイエーシスとは、自己言及的に自己自身を可能ならしめているシステムのことである。オートポイエーシスの一番わかりやすい例は、生物の生殖である。生殖において、遺伝子は遺伝子を自己複製する。遺伝子は、たんぱく質の作り方を指令する情報であるが、そうした情報全体を複製する情報をも部分として含んでいる。この「情報の複製」と「複製の情報」の間にあるループ型のオートポイエーシスにより、

  1. 情報Gを複製せよ
  2. 「情報Gを複製せよ」という情報を複製せよ
  3. 「「情報Gを複製せよ」という情報を複製せよ」という情報を複製せよ

という無限の自己複製が可能になる。

オートポイエーシスという言葉はギリシャ語から作られているが、現在の英語では、ポイエーシスという言葉は文学的創作の意味で使われるのが普通である。だから、自己創造といっても、物質的に何かを作る必要はない。自己が自己を正当化するという自己創造でもオートポイエーシスである。

例えば、日本国憲法の第89条には「この憲法は、国の最高法規である」旨が書いてある。憲法が憲法に言及しているのだから、これは自己言及だが、それ以上に自己正当化でもある。「憲法は最高法規であって誰もこれは否定できない。なぜならば、最高の法規である憲法にそう書いてあるからだ」というわけだ。これは循環論証で、みずからの存在根拠をみずからが含んでいる。つまり自己が自己を産出しているオートポイエーシスというわけである。

もっとも、私が勝手に憲法を作って、その中で「この憲法は、国の最高法規である」という条文を入れても、私の憲法が最高法規となるわけではない。だからオートポイエティックな自己正当化ではなくて、アロポイエティック(allopoietic 他者創造的)な、つまり他者による正当化が必要だと言いたくなる。はたしてそうだろうか。

4. 自己反省

ある命題が真である、妥当性があるということは、その命題が知のシステム全体において無矛盾だということである。では知のシステム全体が真であるということはどうしたら基礎付けることができるのか。実はこれが基礎付けられない。基礎付けようとすると循環論証に陥ってしまう。だから究極的な基礎付けは、オートポイエティックにならざるをえない。

個人が赤信号で歩道を渡れば、交通違反である。個別的な行為と判断が社会全体の普遍的規則と合致しないから、間違っていると認識される。しかしみんなで赤信号を渡れば怖くない。私たちには、規則を改める権利があるわけで、赤信号と青信号の意味を変えれば、赤信号でも堂々と渡ることができる。

「規範はともかく、真理は多数決では決められない。たとえ周りが認めてくれなくても、ガリレオの地動説は正しかったではないか」と反論する人がいるかもしれない。しかしガリレオの地動説が正しいのは、現在の私たちの多数が正しいと認めているからである。

真理や価値を決定する知のシステムは、異端を排除する権力システムである。権力には、権力自身を含めたすべての事柄について、何が正しいかを決める力がある。「正当化の権力」と「権力の正当化」との間にはループ型のポジティブフィードバックがある。権力は、権力の維持のために使われることによって、オートポイエティックに自己増殖する。

もっともここでいう権力とは、理念的な権力であって、現実的な権力とは異なる。現実的な権力は腐敗したり、革命で倒されたりするが、理念的な権力はそうではない。では理念的な権力とは何か。それは、知の全体を無矛盾的に構成する主体のことである。対象の統一を通じて、構成主体の統一を逆照射的に認識することを、哲学では自己反省とよぶ。個別的経験的反省を超えた普遍的な自己反省は、超越論的自己反省とよばれる。超越論的自己反省による知のシステムの自己正当化は、究極のオートポイエーシスである。

読書案内

後にルーマンが取り上げて、有名になった、オートポイエーシス論は、この本に起源を持つ。著者のマトゥラーナとヴァレラは、理論生物学者で、「神経システムに内的に規定された活動が惹き起こされるにあたって、外界は引き金の役割しかはたしていない」という神経システムの閉鎖性から、「精神はそれ自身が創造したものの創造物である」という超越論的観念論に近い哲学的結論に到着している。ポイエーシスはプラクシスに対する言葉で、文学的創作の意味に近いが、オートポイエーシスがたんなる自己認識ではなくて自己制作だとするならば、「オートポイエティック・マシンには入力も出力もない」とは言わずに、「出力がそのまま入力になっている」と表現するべきではないだろうか。

書名Autopoiesis and Cognition: The Realization of the Living (Amsterdam Studies in the Theory and History of Linguistic Sc)
著者Humberto R. Maturana 他
出版社と出版時期D Reidel Pub Co, 1980/04/01
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