実存と本質の違いは何か
実存と本質の関係は実存主義哲学のテーマであるが、ここではこのテーマを言語哲学的に考えてみたい。
1. エッセの両義性
実存(exsistentia 現実的存在)と本質はしばしば対比される。サルトルのような実存主義者が「実存は本質に先立つ」と言う時、本質を、存在とは異なった、存在者のイデア的本性として位置付けている。
しかしヨーロッパ系言語では、《本質 essentia》は語源的に《存在する esse》に由来する。では《存在する esse》と《実存する exsistere》はどう異なるのであろうか。そして本質と存在はどのような関係にあるのだろうか。ラテン語のesseは、英語のbeに相当する。be動詞には、完全自動詞(存在のbe動詞)の使い方と不完全自動詞(コプラのbe動詞)の使い方がある。
1.The car is in my garage.
その自動車は私の車庫の中にある。(存在のbe動詞)
2.The car is red.
その自動車は赤い。(コプラのbe動詞)
主語と述語の結合は、必然的な場合と偶然的な場合がある。すべての車が赤いわけではないので、2での主語と述語の結合関係は偶然的である。しかし、
3. A car is a vehicle with three or four wheels driven by a motor.
自動車とは、原動機により駆動される三輪もしくは四輪の乗り物である。
のような分析的命題(定義)では、結合が必然的である。
古代ギリシャ以来、「Xとは何か」がXの本質への問いだった。つまりX is … という定義で本質が表現された。これを
X is, and it is …
X は存在し、そしてそれは…である。
というように、二つのbe動詞で表現するなら、前半のbe動詞は存在を表し、後半のbe動詞は本質を表しているということができる。
2. 存在の両義性
では、前半のbe動詞は、existと同じだろうか。そうではない。すべての主語が実在するわけではないからだ。例えば、「キメラとは、ギリシャ神話に登場する、ライオンの頭、山羊の胴、蛇の尾を持ち、火を吐く怪獣である」という文では、主語は現実には存在しない。しかしキメラは全くの無ではない。それは少なくとも想像上の動物として存在する。
さらに言えば、無も全く存在しないとはいえない。もし無が全く存在しないのなら、無について語ることすらできないはずである。このように概念のシニフィエの中には、イデアールに存在するが、レアールには存在しないものもある。だから、すべての存在が実存するとはいえないのである。
3. 実存は実体的存在の顕在化である
語源的には、実存(existence)は《表に-立つ ex-sistere》という意味で、実体(substance)は《裏に-立つ sub-stare》という意味である。実体は、イデアールな本質として、レアールな現象の裏に潜んでいるが、それが表へと出来すると実存することになる。
ディスカッション
コメント一覧
「語源的には、実存(existence)は《表に-立つex-sistere》という意味で、実体(substance)は《裏に-立つsub-stare》という意味である。実体は、イデアールな本質として、レアールな現象の裏に潜んでいるが、それが表へと出来すると実存することになる」について:
この表現は実に的確だと思います。その意味で私の意見と永井さんとは完全に一致していると思います。そこでこれをもう一度私の言葉でのべてみます。「実体は、イデアールな本質として、レアールな現象の裏に潜んでいる」と言っていることから理解できるように、実体はイデアール(観念的)なのです。この実体が表に出てくると実存する、異なるわけですから、実存はイデアールなものです。
レアールな存在者といっても、裸の質料が存在しない以上、そこにはイデアールなモメントが含まれています。イデアールな存在者がレアールな現象へとex-sistereすれば、それはもはや純粋にイデアールな存在者とは言えないでしょう。
「”existence”を何の外に立つと解釈するかは、その哲学者の理論によることでしょう。例えば、ハイデガーは、『存在と時間』では、実存(Existenz)を、たんなる存在(Sein)から区別して、存在了解している現存在のあり方として捉えています。後期のハイデガーもこの考えを受け継ぎ、ExistenzをEk-sistenzと表記し、存在の光の中に立つことが実存だとしています。何の外に立つかは、はっきりしませんが、ハイデガーが終始近代自然科学的な世界観を、存在論的真理を隠蔽するものとして拒否しつづけてきたことを考えれば、Ek-sistenzを存在的でフォアハンデンな態度から離れて立つことと考えてよいのではないでしょうか」について:
この部分には、たんなる存在(Sein)本質=近代自然科学的な世界観=存在的、フォアハンデンな態度対実存=存在了解=現存在=存在的でフォアハンデンな態度から離れて立つこと=存在論的真理=存在の光という対立構造がみられます。本質がレアール(実在的)、実存がイデアール(観念的)となり、実存を「自然の外に立つ自由な存在」と認識してもよいのではないでしょうか。永井さんが「レアール/イデアールという分類でいけば、私とは存在/実存の区別が逆になっています」と考えているのは、近代と古代では主観・客観概念の意味が転倒していることによっているのではないかと思います。
近代では「レアールな現象」が客観、つまり対象であり、これに対立するのが主観、主体であることになっている。ところが古代にあっては、現象は非本質なものとして、二次的なものと考えられた。それに対して、本質的なものは、イデア、エイドス、形相であって、非本質的なものの根底に置かれたもの、ヒュポケイメノン、すなわち、基体であった。この基体hypokeimenonは、ラテン語でsubjectum(主観、主体、主語、)であり、近代とは逆の位置を占めている。近代ではsubjectum(実体)は判断の対象(永井さんの「X」)として、対象・客観(object)へと変化した(ousia(実体)はhypokeimenonを言い替えたもの?!)。このようにsubjectumは主観とも客観ともとれる概念である。その意味では、実存主義は本質を客観的なもの(述語=普遍)から主観的なもの(主語=観念的なもの=個別的なもの)へと元に戻したという点で、古代に帰ったことになるでしょうか。(論理が一貫しているかどうか不安ですが)
たしかに、アリストテレスではヒュポケイメノンが形相ではなくて質料としてみなされていました。しかし私は、実体という言葉を近代的な意味で理解しています。エクシステンティアは、通常は人にも物にも使うのですが、ハイデガーや実存主義者(と呼ばれている人たち)は、エクシステンティアを人の現実存在にしか使いません。ハイデガーの実存は、昔日本では自覚的存在と訳されていました。こちらの方が、日本語としてはわかりやすいと思います。私としては、自覚的存在と現実的存在とを区別したいと思います。
「ところで余談ですが、カントの倫理学は、必ずしも神を外的権威として拒否していません。『実践理性批判』を読めばわかるように、カントは神の存在を徳福一致のために「要請」しています」について:
理性で私の意味したのは、「自由において、人間は神になる」ということであって、これをカントは否定したということです。だから、カントは「超越」ではなくて、「超越論的(=私の言葉に直すと主観的超越)」であるから、神を要請したのだと思います。
自律が可能であるためには神をも拒否しなければならい、そうでないと「他律」になってしまう、ということから、自由において神がいなければ、だれが神になりうるかと言えば、それは人間でしかない、という意味だったのです。でも、この部分は記憶ちがいのようです。
カントの倫理学は、超越的倫理学であって、超越論的倫理学ではありません。実際、『実践理性批判』では、「超越論的」という言葉は、『純粋理性批判』との関係でしか出てきません。
「無も全く存在しないとはいえない。もし無が全く存在しないのなら、無について語ることすらできないはずである」について:この系統の話でいつも不思議に思います。人間の理性を話す時にも有ると思います。「もし~がないとしたら、~だと認識(語る)できない」これは、なぜそうなるのですか?
例えば、数学の世界で多次元空間について話す事はできます。時間が不可逆な性質を持っていても、思考内では可逆性がある。物理の世界で、質量をゼロと考える事なんかもよくありますよね。だとしたら、語る事が出来ても、無い物がある。逆に、語る事が出来なく、認識が出来なくても、在る物がある。こうはならないのですか?
なんかこう書くと、存在とは何かって話しになっちゃいそうですね。僕は基本的に唯脳論的な考えに近いのです。やっぱ、脳がどう知覚するか?それが問題な気がするのです。
話がそれました。”もし~がないとしたら、~だと認識できない”これに至る、思考過程を知りたいです。
引用された箇所をもう一度、解説しなおします。無とは、存在者が欠如しているという事態を意味する概念です。存在者が無くても、「存在者が無い」という事態は存在します。だから「無」という概念の指示対象は、レアールには存在しないけれども、イデアールには存在するということです。一般に有意味に語ることができて、その指示対象がイデアールに存在しない概念はありません。
逆に「語る事が出来なく、認識が出来なくても、在る物がある」のかと訊かれたら、私は「語ったり、認識したりする主語は何ですか」と訊き返します。もし主語が、経験的主観であるならば、答えは「はい」です。主語が超越論的主観であるならば、答えは「いいえ」です。
私たちは、「その時には気が付かなかったが、今思えば存在した」という経験をします。超越論的主観の《今》においては、「意識の対象とはならない存在者は無い」と言えます。もちろん、過去において意識の対象でなかった存在者が存在したように、現在においても意識の対象とはなっていない存在者が存在するはずだと推論することは、合理的です。しかしこの推論の正しさを示したとたんに、「意識の対象とはならない存在者は無い」というテーゼを否定できなくなってしまいます。
有り難うございます。
実存と実在の違いを少し理解することが出来ました。
量子論では実験結果の意味をめぐっての対立がありますが
哲学でも、言葉の意味をめぐっての対立があるのですね。
素晴らしいことだと思いました。
ヨーロッパの言語では、「…である」と「…がある」が同じ動詞(英語だと、be動詞)で表されます。ハイデガーは、世人(ダス・マン)が「…である」のおしゃべりに終始し、「…がある」という根源的な問題を忘却していること(存在忘却)を問題視しました。ベルサイユの祥さんは、実存の不条理の問題に興味があるようですが、これに関しては、私のサイトの「実存は不条理か」をご覧ください。