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認識のシステム

2000年7月8日

神秘的一元論者は、近代の哲学者たちの二元論的な認識論を批判する。しかし、私たちは、二元論か一元論かという対立地平を克服し、二元論から成り立つ多元論化を目指さなければならない。

Image by Gordon Johnson+Karin Henseler from Pixabay modified by me.

1. 認識は主観的である

適当な割合で混ぜ合わせることによって、すべての色を表すことができる基本的な三つの色のことを三原色と言う。光の三原色は、赤、青、緑。この三つが原色であるのは、この三つしか私たちの視覚を刺激しないからであって、それ以上の客観的根拠はない。実際金魚は四原色だし、犬は二原色、ネズミは一原色と動物によってまちまちである。

こうもりなどは、視覚をもたずに代わりに超音波を使っている。だからこうもりは、人間とまったく違う感覚的世界に住んでいるわけだが、どちらの感覚的世界がより客観に近いかといった問いはナンセンスである。

このように、感覚は主観的であるが、感覚をどう受け取るかも主観的である。私たちに現れる感覚的世界は無限に多様であるが、私たちはその多様性を選択により単調化している。青色と緑色の間には、無限のグラデーションがあるはずだが、そうした微妙な色のあやは捨象され、中間色も青または緑のどちらかに分類されてしまう。緑色の信号を青信号と呼ぶ人すらいる。

こうした捨象、すなわち選択が、アリストテレスの言葉を借りるならば、エイドス(形相)をヒュレー(質料)から区別する。ヒュレー(質料)は一度限りの感覚的与件だが、私たちは、時間を超えた普遍的な認識パターンであるエイドス(形相)を通してそれを把握する。形相と質料は、ドイツ語ではそれぞれイデアール/レアールと形容される。

2. 認識の構造

イデアールな形相/レアールな質料の区別と選択する/選択されるという区別は別だから、認識には次のようなモメントがあることになる。

認識の四つのモメント
objectsubject
idealideal objectideal subject
realreal objectreal subject

主観をシステムとみなすならば、客観は構造(全体)と要素(部分)に分割することができる。要素を結合して構造を作る機能がシステムである。伝統的な哲学用語を用いるならば、構造、要素、システムは、意識対象、意識内容、意識作用に相当する。

他方、縦方向にも、イデアールな世界も概念と直観の二つに分割することができる。その結果、認識の構造を次のように分析することができる。

認識の九つのモメント
object(structure+element)subject(system)
idealintellectual objectconceptconception
intuitive objectimageimagination
realsensual objectperceptperception

中間の直観的レベルは、下の感性的レベルとは異なる。誰かに直接会って、顔を知覚すると、その人が眼前から去った後でも、その人の顔のイメージを保持しつづけることができる。しかし頭の中に残っているイメージは、直接的な感覚与件とは異なり、かなり加工されている。もしその人の肖像を描くとするならば、印象に残っている特徴や関心を引いた部分を誇張し、それ以外は捨象するであろう。こうした構想力によって選択された構想内容は、もはやレアールではなく、イデアールである。

他方で、直観的レベルは、上の知性的レベルとは異なる。私は、会った人の特徴を絵ではなくて言葉で伝えることができる。髪の毛が黒くて、目が丸くて、口が大きくて等々。こうした概念そのものは、直観的イメージではない。いちいち頭の中にイメージを思い浮かべなくても、言葉を理解することができる。

直観が感覚とも概念とも異なることを別の例で説明しよう。黒板にチョークで描かれた三角形は、感覚的与件である。幾何学的上の三角形は、幅のない直線で構成されていなければならないが、そうした厳密な意味では、この感覚的与件は三角形ではない。しかし私たちは、感性的な三角形の上に、イデアールな三角形を観て取ることができる。そうしたイデアールだけれども直感的な三角形は、概念としての三角形ともまた異なる。概念としての三角形一般は、直角三角形でも鋭角三角形でも鈍角三角形でもないはずだが、そうした三角形一般を直観的に頭に思い浮かべることはできない。

次に縦軸から横軸に話を移したい。意識作用と意識内容は、一つの動詞の能動/受動で表現できる。知覚内容(percept)は知覚作用(perception)によって、構想内容(image)は構想作用(imagination)によって、概念内容(concept)は概念作用(conception)によって把握され、それぞれ感覚的対象(sensual object)、直観的対象(intuitive object)、知性的対象(intellectual object)を構成する。

感覚的世界を知覚するとき、私はたんに五感それぞれの感覚の断片を統合するだけでなく、五感全体を統合する。生まれつき目が見えず、成人してから開眼手術を受けた人が、視覚の感覚与件を他の感覚と結び付けられないことからもわかるように、感覚的対象の統一は、主観による能動的な働きの結果である。

感覚的対象から直観的対象が構想される。直観的対象は、対象の現前を必要としないので、要素を自由に組み合わせることにより、空想的な対象を作ることができる。例えば、角と馬という実在する直観の断片を結合して、ユニコーンを空想するというように。知性的対象でも、例えば、1+1=0の世界を空想することができる。このような、現にあるのとは他のようでもありうる可能性は、システムの環境を形成している。

3. 記号の構造

記号は言語よりも外延が広い。すべての言語は記号であるが、顔の表情、ジェスチャー、記念碑、狼煙など、非言語的な記号があるからである。

記号がたんなるもの以上であるのは、それが自己以外の対象を指示しているからである。例えば、鳩は鳩という意味を懐胎しているが、それだけでは鳩が記号であるとは言えない。しかし「鳩は平和のシンボルだ」と考えれば、鳩は平和という自己以外の対象を指示していることになるので、記号として機能する。言語に関しても同じことが言える。紙にインクで書かれた「鳩」という文字は、それ自体が鳩でないからこそ、鳩を指示する言葉でありうるのである。

ソシュールは、表現する記号と表現される意味をシニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)と名付けた。両者はそれぞれ、動詞「signifiér 意味する」の現在分詞と過去分詞を名詞化したもので、能動/受動の関係にある。

記号にも、感覚、直観、概念の三つのレヴェルがある。シニフィアンは、感覚的には、紙上のインクのしみ、空気の振動などとして直接に与えられる。感覚的に与えられた「鳩」の中には、楷書できちんと書かれた文字もあれば、くずして走り書きされた文字もある。しかし私たちはそうした個別的な差異を抽象(abstract 捨象)して、標準的な形態で「鳩」という文字を直観する。同じ「ハト」という言葉でも、男性の太い声で発音される音声と女性の高い声で発音される音声は、感覚レヴェルで異なるが、直観レヴェルでは、同じ「ハト」として認識される。視覚的に認識された「鳩」という文字と聴覚的に認識された「鳩」という音声は、直観レヴェルで異なっていても、概念としては同一である。

他方、シニフィエとしての鳩も、感覚レヴェルでは、色、形、大きさなど千差万別であるが、「鳩」という言葉を聞いて頭に思い浮かべる鳩の像や鳴き声は、特定の直観に基づく。また、こうした直観としての鳩を思い描かなくても「鳩」という概念を理解することができる。だからシニフィエにおいても、感覚、直観、概念の三つのレヴェルを区別することができる。

まとめると、次のような分類ができる。

記号の六つのモメント
elementsignifiantsignifié
conceptabstract significantabstract signifié
imageconcrete significantconcrete signifié
perceptreal significantreal signifié

4. 認識と記号の関係

表3の記号の平面と表2の認識の平面を、共通要素を軸に交差させると、以下のような図のようになる。

image
認識の直方体モデル

この図では、左手前の黒色の字で書かれた軸がシステム、反対側の黄色の字で書かれた軸が構造で、緑色の字で書かれた軸はシニフィアン、青色の字で書かれた軸はシニフィエである。この直方体モデルは、シニフィアン/シニフィエという記号の長方形を通して、認識システムが対象を認識しているようにも見える。

赤色の字で書かれた中心の軸は、二つの長方形が交叉する位置にある。このことは、対象と記号が構造と要素(全体と部分)の関係にあることを示している。「鳩」というシニフィアンが意味する「鳩」のシニフィエは、私たちの知のシステム全体における否定的関係で存立可能である。

「これは鳩である」という判断は、「これはカラスorスズメorニワトリor孔雀 … ではない」という否定の否定によって真理である。単純な要素命題ですら知の無矛盾的な全体において整合性を持つことで真とされるわけである。シニフィアンとシニフィエのペアは、主観と客観の垂直二等分線上にいくらでも取ることができるが、このモデルは、そうしたたくさんの要素的記号が一つの対象の軸へと収斂していくことを象徴的に示している。

このモデルでは、主観の軸と客観の軸が記号の長方形を鏡とするように対称的に向かい合っている。主観(subject)は、もともと基体(sub-jectum=下に投げ出されたもの)として、現象の背後に潜む実体の意味であったが、近代の意識哲学は、現象の背後にあったsubjectum を主観へと「コペルニクス的に」転回した。客観を統一することによって主観は自らを統一する。このことをシステム論の用語を使って表現するならば、システムは環境と自己とを区別することによって自らを可能にするということになる。