1月 292000
 

農業革命(食料生産革命)によって農業社会が、工業革命(Industrial Revolution 産業革命)によって工業社会が成立したように、今、情報革命によって情報社会が生まれつつある。この論文では、情報革命が経営形態にどのような変化をもたらすかを論じたい。第一節では情報革命とは何かを、第二節では情報革命によって生産形態がどう変化するかを、そして第三節では情報社会では経営はいかにあるべきかを論じる。

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1 : 情報革命の本質

工業革命以来、人類は人と物の拡大再生産を続けてきた。技術革新が生産力を増大させ、増大した生産力が人口の増加を可能にし、人口の増加は需要と供給の規模を増大させる。だが経済規模の爆発的拡大は、地球は有限だから永遠には続かない。大量生産と大量消費を至上命題としてきた工業社会は、石油危機に象徴される1970年代に挫折した。一方で低エントロピーの減少という資源問題が、他方で高エントロピーの増大という環境問題が人類文明の存続を脅かす問題となる。こうして1970年代に脱工業化の動きが始まる。

脱工業化社会では、物にではなくて知に投資する。情報革命とは、生産の知識集約化だと言ってよい。情報社会では、労働商品の場合を含めて、いかに同じ商品を安く大量に生産するかではなく、いかに質の高い商品を専門的に作るかが課題である。工業革命によって熟練労働は減り、単純労働が増えた。しかし情報革命は新たな熟練労働を生む。例えば、従来の汎用型の工作機械では、現場の労働者の手の前近代的熟練が重要であったのに対して、コンピュータ装備のNC工作機械は、一方で作業の単純化をもたらしたが、同時にプログラミングという新たな知的技能を必要とする。熟練労働に対する需要の増加は社会を高学歴化し、そして教育費の高騰は少子化を促進し、人口減少は環境問題の解決になる。物の生産競争とは違って、知の生産競争は環境破壊をもたらさない。情報革命は拡大不均衡時代の要請に答える縮小均衡的構造改革である。

しばしば、農業社会とは第一次産業が中心の社会、工業社会とは第二次産業が中心の社会、情報社会とは第三次産業が中心の社会と考える人がいるが、このような分類は皮相である。工業社会と情報社会との違いは、ハードウェアを作っているのかソフトウェアを作っているのかといった生産物の違いではなく、生産様式の相違である。つまり作られている物が何かではなくて、物をどう作るかが違ってくるのである。

農業を例にとって、これまで人類史上に現れた三つの種類の社会で、生産様式がどのように異なるのか考えてみよう。農業社会の農業は、人間や家畜の肉体的エネルギーを主要な動力源とする労働集約的産業であった。工業社会では、たんに農業従業者の割合が減少するだけでなく、産業革命以来の機械制大工業が、すべての生産の模範(パラダイム)となる。つまり農業も、トラクターで耕作したり、飛行機で農薬を散布したりするなど、工業化し、資本集約的産業となる。その結果、農業労働者数との対比での生産量は増大する。情報社会では、量よりも質が問題となる。農業でも、いかに食料を安く大量に生産するかではなくて、いかに様々な良い品種を開発して消費者の多様な好みに合わせるかが問題となるので、バイオテクノロジーやマーケット情報の調査に力が入れられる。このように情報社会では、農業や工業を含めてすべての産業が知識集約的産業となる。逆に言えば、第三次産業であっても、知識集約的でなければ没落する分野が出てくるということである。情報革命によって物づくりがなくなるわけではないのである。

情報革命の進展に伴って、オートメーション化が進む。ロボットは労働者を単純肉体労働から解放し、情報機器は労働者を単純事務労働から解放する。イントラネットは、経営陣と第一線で働く労働者を直接結びつけ、中間管理職をリストラに追いやる。ワープロの普及はタイピストを不要にし、パソコンの導入は業務をペーパーレス化して書類整理やコピーの仕事を簡素化し、携帯電話の一般化は電話の留守番役を無用にするなど事務職員/秘書の仕事はなくなっていく。インターネット通販と電子マネーの普及は、生産者と消費者を直接結びつけ、宅配会社を除く流通業を没落させるであろう。製造業であれ、非製造業であれ、頭を使わない産業は、情報革命によって消滅していくのである。

2 : 知識集約的生産の特徴

以上情報革命とは、産業の知識集約化であることを確認した。知識集約的産業はどのような性格を持っているのか。知識集約的産業の典型である、大学や研究所での知的生産労働を、資本集約的産業の典型である、大工場での鉄鋼製造労働と比較してみると、

  1. 資本節約的である
  2. 独創性が要求される
  3. 非線型である

という点が知識集約的産業の特徴として指摘できる。以下これを順に説明したい。

2.1 : 知識集約的産業は資本節約的である

従来資本集約的産業は、労働節約的産業として、労働集約的産業と対比されてきた。鉄鋼業に代表される資本集約的産業は、機械化とオートメーション化による労働の節約を理想とし、無人工場を究極の理想とする。これに対して、知識集約的産業は、資本節約的という意味では、一種の労働集約的産業ではあるが、後者とは異なって、肉体労働をではなくて、頭脳労働を求める。頭脳労働の典型である研究活動は、極端な場合紙と鉛筆だけで可能だという意味で資本節約的である。最近では官僚的停滞に陥っている大企業よりも、中小のベンチャー企業の方が、収益性が高かったりすることが多いが、これも情報社会の主流が資本節約的だからである。

2.2 : 知識集約的産業は独創性が要求される

鉄鋼製造では、一定水準以上の質の鉄鋼を作ることが求められるが、それを除けば特に商品に創意工夫の余地はない。企業が努力すべきことは、規模の拡大によって単価を下げることぐらいである。ところが、知的生産活動では、横並びで他の研究者と同じ生産物を作っていたのでは意味がない。これまで日本の企業は、欧米で開発された新製品をよりやすいコストで量産して利益を上げてきた。だが、例えばパソコンソフトをオンライン上で頒布する場合、複製のコストはほとんどゼロだから、従来の戦法は役に立たない。オリジナルを創った者の一人勝ちなのである。研究開発という商品には、換言すれば、研究開発者という労働商品には、間違わないという使用価値とは別に、独創性という希少価値が要求される。これに対して鉄鋼製品の希少価値は、生産要素の物理的有限性に基づいている。研究はグループでなされることもあるが、基本的に重要なのは研究者個人の自由な発想と独創的能力である。工場の工程で個人が勝手な振る舞いをすることは許されない。だから工業社会では協調性と従順性が要求されたが、それはもはや時代遅れである。

2.3 : 知識集約的産業は非線型である

鉄鋼業は、生産量が時間に比例する線形産業である。だから労働者の賃金を時間に比例して支払うことは合理的である。工業社会の仕事は線形であり、誰もができる単純作業の組み合わせで、投資に対する成果は予測可能である。労働者に求められるのは才能よりも慣れであり、だから賃金水準は勤続年数に比例する。労働者間にあまり差がないから、労働者は組合を通して団結し、一律の賃上げを要求する。終身雇用、年功序列、労使協調といった所謂日本的経営は、こうした線形産業を前提としたものである。ところが、非線型職業の典型である研究職においては、予算に比例した成果が出るという保証はない。学問を作っていくのは一握りの天才であって、全研究者が均等に知の進歩に貢献するわけではない。同じ事は芸術家についても言える。天才的な芸術家の作品は、法外に高い価格で売られる。独創性のない芸術家の作品は、たとえ値下げしても売れない。情報社会では、すべての職業がこうした研究職や芸術活動に近づいていく。

3 : 労働者の総自営業化

産業の知識集約化に対応するために必要な経営変革のポイントは、

  1. 終身雇用の廃止
  2. 能力給の割合の拡大
  3. スペシャリゼイション
  4. アウトソーシング

の四つである。

3.1 : 終身雇用制の廃止

終身雇用や年功賃金は日本だけでなくアメリカにも見られた現象であった。1970年代以降日本でも能力給の導入が始まり、1990年代以降では終身雇用も崩壊し始めた。この傾向に反対する人々は、次のような理由を挙げて終身雇用制を擁護している[1]

  1. 課題設定が短期的になり、中長期の企業の発展に無関心となる
  2. 企業特殊的能力よりも、転職に有利な一般的能力を身に付けようとする
  3. 上司の評価のみを気にして、企業全体や顧客の利益を考えなくなる
  4. 雇用の保証がないので、人件費削減につながる改善には取り組まなくなる

以下これらに反論したい。

1. 課題設定が短期的になり、中長期の企業の発展に無関心となる

査定が短期間に行われるからといって、査定の対象までが短期になるわけではない。魅力的でかつ現実性のある中長期的な課題を設定することが、上司からの、究極的には株主からの短期の評価の対象になる。ただ情報社会では、工業社会よりも企業環境の変化が激しくなるので、短期の課題設定の方が重要度を増す。現在の日本では、間接金融中心、メインバンク制、株式の持ち合いなど、重化学工業中心の社会に適した、長期にわたって安定した融資を行う金融の形態が崩れ、会計制度も取得原価主義から売却時価主義に変わりつつあるが、これらは情報革命のおかげである。学歴偏重は人材評価における取得原価主義であるが、「中長期的には伸びるに違いない」と考えて古いタイプの秀才を集めていると、時価評価で「含み損」を抱えることになる。

2. 企業特殊的能力よりも、転職に有利な一般的能力を身に付けようとする

これはむしろ逆である。どの会社もその会社独自の理念や経営方針を持っているし、また持たなければならないのだが、社員がその社風に合っているか否かは、入社してからしばらくしないと分からない。終身雇用制のもとでの転職には厚生年金保険や給与や昇格の面などで有形無形のさまざまなデメリットがあるので、自分が職場に合わなくても、そこに留まらざるをえない。それは企業にとっても、本人にとっても不幸なことである。職場で無能と呼ばれている人々の大半はこうした醜いあひるの子が多い。醜いあひるの子はあひるとして見るから醜いのであって、白鳥の子としては醜くはない。競争は必然的に弱者を作り出すと一般には考えられている。しかしそれは一つの基準で判断した場合のことであって、基準を複数化することによって、すべての社会のメンバーが落ちこぼれにならないということは、少なくとも論理的には可能である。

3. 上司の評価のみを気にして、企業全体や顧客の利益を考えなくなる

管理職は、上に行くほど企業全体や顧客の利益を考えなければならない。それができない上司は無能である。もし有能な部下を無能な上司が評価できないのならば、その部下は職場を自ら去るべきだ。終身雇用制ではこのような選択は難しい。労働組合は労働者の権利を守ろうとして、終身雇用制を維持しようとするが、終身雇用制はかえって労働者の選ぶ権利を踏みにじっている。経営者と従業員が相互に選び合える緊張した関係があった方が経営は健在化する。

4. 雇用の保証がないので、人件費削減につながる改善には取り組まなくなる

日本では、コスト削減の提案がボトムアップでなされる場合が多いが、長期雇用が保証されなければ、このような現場での改善活動が停止すると考えるのは短絡的である。無駄なコストが削減されれば、製品の価格が下がり、需要が増大して、かえって従業員の仕事が増える。逆に能率を無視して雇用を守ろうとすると、かえって雇用が守れなくなる。ヨーロッパのような労働組合の組織率が高く、力が強いところの方が、そうではない日米よりも失業率は高い[2]。最低賃金の設定や失業保険費用の負担など労働コストの上昇は、産業の空洞化を招き、雇用を減らしてしまうからだ。

「解雇は死刑にも比すべき重いペナルティであるから、もしすべての経営者が自由に従業員を解雇できるようになるならば、労働者全員は悲惨な状況に追い込まれるに違いない」という推論は合成の誤謬である。人材の適材適所化が進めば、収益性が増大し、雇用は全体として増える。

なお情報化社会の特徴である社会の高齢化に対応するためには、定年制を廃止するべきである。60歳を定年とすると、60歳超の有能な人材が生かせないだけでなく、60歳までの雇用が既得権益化してしまう。解雇するかどうかは年齢によってではなくて、会社への貢献度のみによって判断されるべきである。

3.2 : 能力給の割合の拡大

年齢による差別を止めるという点で、年功序列制度も廃止するべきである。このことは若手を登用するということと同じではない。サントリーは、若手登用のため、1994年3月より、課長は55歳まで、部長は57歳までというように、役職定年制を導入した。こんなのはナンセンスである。「50歳でバリバリやっている管理職が能力の有無に関係なく整理されるとなれば」、たんに当事者にとって「感情的にも割り切れない」だけではなく、企業そのものにとっても大きなマイナスとなる[3]。才能に応じた役割と貢献度に応じた報酬という二つの原則だけ守ればよいのである。

日本生産性本部が日米英独で技術者調査を行ったところ、「あなたの周囲を見て技術者として第一線で活躍できるのは、平均的に見て何歳ぐらいと考えるか」という問いに対して、各年齢区分ではなくて「年齢関係なし」の選択肢を選んだ割合は、ドイツは71.8%、イギリスは72.3%、アメリカは77.8%であったのに対して、日本が14.5%であった。日本企業の年齢への固執がいかに異常であるかが分かる[4]

右肩上がりの賃金体系と退職金制度から構成される年功序列の制度は、企業に社員を縛り付ける機能を持つという点でも好ましくない。社員に自営業者のような自立性を持たせるためにも、能力給を最大限取り入れるべきである。企業にとって不要な人材は、解雇しなくても、給与面に不満を持って自ら離職するであろう。日本ではまだまだ解雇はタブーで、人員削減の際にはまず希望退職を募るのが普通である。だが、希望退職を募っても、独立心の強い優秀な人物だけが辞めていって、本当に辞めて欲しい窓際族は、いつまでも会社にしがみつく。だから終身雇用が破棄しにくいのなら、その代わりに年功序列の全面的な廃止から着手するべきである。

労働組合が一律に雇用を守り、一律の賃上げを要求する時代は終わった。70年代以降の情報革命の進展に伴い、労働組合の組織率は低下している。そもそも労働組合は、重化学工業時代の独占資本主義の産物であって、超時代的に存続する存在ではない。初めて労働組合が合法化されたのは1871年の労働組合法成立以来であるが、これは帝国主義による市場の寡占化が始まる時期(1873年)と一致する。大企業による市場の寡占化は望ましくないが、労働組合による労働市場の寡占化も望ましくない。どちらも独占禁止法で規制するべきである。

3.3 : スペシャリゼイション

終身雇用制は、社員にジェネラリストであることを要求する。自分が従事してきた仕事が不要になった時、会社を捨てずに専門を捨てるのが普通であって、専門を捨てずに会社を捨てるスペシャリストは少ない。ところが産業が知識集約化してくると、スペシャリストの需要が高まってくる。20代、30代の労働者のうち7割以上が転職を考えているが、転職を希望する最大の理由は、従来の「より多くの収入を得るため」から「自分の適性に合った仕事をしたい」「自分の能力を発揮したい」がトップになってきている(5)。これまで企業は、専門知識を身に付けていない白紙のような大学生の方がかえって融通がきくと考えて採用してきたが、今では大学生も専門学校に通ってスペシャリストになろうとしている。

スペシャリティが必要なのは社員だけではない。企業レベルでも一芸に秀でていなければ生き残れない。日立のようにさまざまな部門に着手して、どこも一番になれない企業は業績不振に陥る。逆に日本電産のように得意分野に資源を集中し、独創的な技術を持つ企業は高収益である。日本電産は、主力のハードディスク駆動装置用モーターが世界7割のシェアを持っていることが強みで、売上高は日立の約100分の1であるのに、株主資本利益率は100倍以上である(1998年3月の連結決算による)。

スペシャリストとは、専門馬鹿のことではない。個人レベルであれ企業レベルであれ、いくら業務の対象領域が狭くても、業務そのものに付加価値がなければ競争力があるとは言えない。競争力の要となるスペシャリティとは、視野の狭さではなくて、同業者を差別化する個性である。

政府は日本企業の国際競争力を高めるために、持ち株会社を解禁したが、合併によって規模の大きさを追及しても、重複による無駄が解消されなければ、かえってマイナスである。むしろ分社化を進め、採算が取れない部門は売却していくべきである。量(売上高や従業員数)ではなくて、質(株主資本利益率や従業員一人当たりの収入)で評価される時代を企業が生き抜くためには、デパート型よりもブティク型の方が有利なのである。

3.4 : アウトソーシング

企業も社員もスペシャライズされ、生産がスペシャリスト間のネットワークによってなされていくと、アウトソーシングが重要になってくる。アウトソーシングは、経営者がコア業務へ経営資源を集中することにより、コウソーシングな最適分業体制の構築を可能にするほか、外部調査機関ゆえの評価の中立性の確保や繁閑・景気の変動に対するリスクヘッジなどの機能を持つこともある。

この流れを受けて、日経連の「新日本的経営システム等研究プロジェクト報告」(1995年5月)は、終身雇用や年功序列賃金の大幅な見直しを求め、

  1. 幹部候補となる「長期蓄積能力活用型」の常勤社員
  2. 専門分野を担当させる「高度専門能力活用型」の任期制契約社員
  3. それ以外の「雇用柔軟型」のパートタイム労働者や派遣労働者

に分類して、雇用を三グループ化させていくことを提言した。

これに対して、次のような反論がある。

これらの提言や新たな労働立法構想の狙いが実現すれば、労働者にとって、きわめて厳しい状況をもたらすことになる。なぜなら、労働者派遣や民間職業紹介の自由化は、従来の常用雇用の破壊を前提に、企業から放逐された男性中高年労働者(サラリーマン)の大量の層をターゲットとしており、営利的仲介者に「市場」やビジネス・チャンスを保障するために、大量の求職者を生み出すこと、つまり、今後も常用雇用の削減を継続すること前提にしているからである。要するに、従来の「日本的雇用」を、根本からひっくり返して、常用雇用を非正規雇用化しようとすることに真の狙いがあると考えられるのである。[5]

日経連の提案は、社員の総自営業化を目指すものである。自営業者は、厳しい自己責任原則に晒されるが、仕事を自分で決める自由がある。労働者が安定した収入以上の満足感(プロ意識)を求め、経営者が社内失業者などの無駄を省くことを望み、そして消費者が商品に多様性と変化を求めるのなら、労働の総自営業化は必然である。また「営利的仲介者の市場」ができることは、職安の一部民営化を促進することになる。

知識集約的で「高度専門能力活用型」労働の典型である研究職には自由は絶対必要である。ところが、日本の大学の研究者は、自由だけ求めて責任は拒否する。政府が大学教員に任期制を導入して業績の査定を行おうとすると、全大教と日本私大教連は、「任期制の法制化については、教員の身分を不安定にし、中・長期的な学問研究に重大な支障をもたらすものとして、その危険性を指摘するとともに、大学の教育研究を活性化するためには自主的な改革と教育・研究予算の充実こそが求められていると主張[6]」して、抗議した。「口を出さずに金だけ出せ」というわけである。

アメリカでは、大学教授がベンチャービジネスの経営者となったり、その逆もあったりして、研究職の雇用も流動的である。研究者が象牙の塔にこもって社会主義的経営のぬるま湯につかっているとしたならば、日本の情報革命の進展は遅れるであろう。一方で業績に応じた予算の競争的配分を行うと同時に、他方で大学をもっとオープンにすることが必要である。

アウトソーシングの課題は、情報の機密保持である。かつてさくら銀行の顧客名簿が洩れた事件があったが、これはさくら銀行が社内の顧客管理システムを系列会社のさくら情報システムに発注した時に、システムの検証用として実際の顧客名簿が使われた事から起きた。発注は、さくら情報システムのひ孫請けの会社にまで降りていって、最終的には派遣会社に開発が依頼されることになったが、派遣社員が顧客名簿を FDに落としてそれを名簿業者に20万円で売り、名簿業者はそれでさくら銀行に恐喝したため、逮捕されてしまった。

この事件はさくら銀行が直接派遣会社に開発依頼をして、責任の所在を明確にしていれば起きなかったはずだ。ところが大企業はプライドが高くて中小のソフトハウスを直接相手にしない。その結果の下請け・孫請け・ひ孫請けは、たんに責任の所在をあいまいにするだけでなく、コスト高につながる。上級でない一般SEの人月単価は、東京地区で80万円、地方では50万円から60万円だが、大企業のメーカーだと、同じ仕事でも170万円から200万円かかってしまう。アウトソーシングを必要としないところに大企業のメリットがあった。逆に言えば、アウトソーシングの時代には、ピラミッド型大組織の優位が崩れるということになる。

4 : 量的拡大ではなく、質的向上を

石油危機以後、日本企業は資源問題と環境問題に対応するため、売上高のうちの相当な割合を研究開発投資に投入し、技術革新に世界で最も成功した。その結果 1980年代には、例えばエネルギー効率の良い日本車などが世界の市場を席巻するなど、日本企業の国際競争力は高まった。80年代の日本の繁栄は、情報革命時代のグローバル・スタンダードをいち早く先取りしたことによってもたらされたのであって、しばしば誤解されているように、所謂「日本的システム」がうまく行っていたからではない。ところが80年代後半から日本は、知への投資ではなく、不動産という物への投資に走ってしまい、グローバル・スタンダードから逸脱してしまった。他方冷戦終了後、米国は軍事的負担から開放され、知への投資に専念できるようになった。こうして冷戦終結を境に日米の経済的優位関係が逆転していく。今改めて、真のグローバル・スタンダードは産業の知識集約化であることを認識しなければならない。そして日本経済を再生するには、経営者は量的拡大から質的向上へと目標を変える必要があると強調したい。

5 : 参照情報

  1. 藤村博之.『企業にとって中高年は不要か―日本型雇用システムの再評価
  2. 星野郁.『ユーロで変革進むEU経済と市場―21世紀に向けた欧州の構造改革
  3. 永井隆.『「人事破壊」後―何がどう変わるのか。その時、男たちは…
  4. 日本生産性本部創造性開発委員会.「英国の技術者・日本の技術者」「ドイツの技術者・日本の技術者」「米国の技術者・日本の技術者」
  5. 脇田滋.「規制緩和と不安定雇用」民主法律協会創立40周年記念特集号『権利闘争の新たな展開をめざして』民主法律227号(1996年7月)68-75頁.
  6. 全国大学高専教職員組合中央執行委員会・日本私立大学教職員組合連合中央執行委員会「大学の教等の任期に関する法律案への声明」
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私が書いた本

  3 コメント

  1. 大変興味深く拝読させて頂きました。正直このテーマは議論させて頂きたい点が山ほど出てきましたが、あまりに長くなってしまいそうでしたので、焦点を絞りたいと思います。
    それほど、興味深く読ませて頂きました。ありがとう御座います。
    先進国を中心に、情報社会へと進んでいますが、私が一番感じること、気がかりなことは、情報社会というのは、どうもエントロピーが大きいということです。
    なぜなら、情報社会は、様々な条件の上に成り立っているからです。私が心配するのは、世の中が変化することによる情報社会の影響です。(例:自然災害や人災、戦争、思想の変化などによる影響)
    スペシャリゼイションというのは、私には情報社会の象徴のように感じるのですが、スペシャリゼイションもエントロピーが大きい。スペシャリゼイションのような分業制は、人口が多いから成り立つものであって、極端な話、人口が大幅に減れば成り立たなくなる。
    そして、情報社会は途上国の上に成り立っているという現実もある。(もちろん途上国も先進国に依存しているという側面があるとは思いますが)
    また、冷戦後、旧ソ連の核物理学者の失業が問題になりましたが、これはスペシャリストのエントロピーの大きさを象徴している問題であると思いました。
    あえて反論致します。
    私の勝手な想像ですが、これから世の中は変化が激しくなると感じているので(価値観や自然など)、核物理学者のようにならない為にも、むしろ、世の中の大幅な変化に対応できるゼネラリスト性を教育した上で、スペシャリゼイションを目指すような流れが良いのではと提案してみたいと思います。例えば中学校における既存の授業科目では世の中の大幅な変化に対応するような内容はないと思われます。例えば、高校受験や大学受験における理系文系の分類は止めるべきだと思う立場です。

  2. 価値は、縮減するべきエントロピーが増えれば増えるほど、大きくなります。「世の中の大幅な変化に対応できるゼネラリスト性を教育した上で、スペシャリゼイションを目指す」ということは、エントロピーの増大によるエントロピーの縮減です。《分業=スペシャリゼイション=エントロピーの増大》というルーマンの考えが間違いであることは、
    ◎ 複雑性と進化の関係
    https://www.nagaitoshiya.com/ja/1997/luhmann08/
    で詳述しましたので、それをご覧ください。

  3. 「複雑性と進化の関係」の項(書籍編第三章第一節)、及び第二、三節を拝読させて頂きました。
    「エントロピーの増大によるエントロピーの縮減」、なるほど、少しずつではありますが、理解できてきました。
    第三章を読み進めていったところ、私が根本的に気になっていた問題が、第三節「近代世界システムの克服」において議論されておりました。
    付きましては、第三節の場で議論させて頂きたく、そちらをご覧頂ければ幸いです。

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