インターネットによる直接民主主義
インターネットが普及したおかげで、有権者が電子投票により、直接公共選択に参加することが技術的に可能になった。問題は、直接民主主義が、現行の間接民主主義よりも優れているかどうかである。

1. 公共選択はどうあるべきか
多くの日本人は、政治に不信感と無力感を抱いている。半数近い有権者は、選挙に行かないし、代議士を自分の代表だとは考えていない。公約違反、収賄、票田の世襲が横行し、民主主義が機能不全に陥っている。政治に民意を反映させるには、有権者が直接政策意思決定に参加するレファレンダム(referendum)が必要である。
レファレンダムの採用は、議会制民主主義を完全に否定するわけではない。議員には、政策立案・法案作成の仕事が残っている。議員に政策パッケージを作らせることで、有権者に過大な負担をかけさせたり、個別に可決された法や政策が相互に不整合となることはなくなる。
有権者が、ネットでの投票を通じて、与えられた政策パッケージに選好順序を与えることで最も高い得点を獲得した案が採択される。こうしたボルダ方式による票の集計は、アナログ投票では時間がかかるが、デジタル投票では簡単にできる。

投票が簡単にできるようになるから、「政策の選挙」だけでなく、「人の選挙」に関しても、従来より範囲を広げることができる。現在、日本国民は、国レベルの行政に対して自分たちの意思を直接に反映させる方法を持たないが、行政の最高責任者は直接国民が選ぶべきだし、その他の行政の上層部も、最高裁判所裁判官と並んで国民審査を受けるべきである。
裁判官の国民審査は、わかりにくくて不評だが、インターネット投票でなら、例えば、過去の論争の余地のある裁判のケースに自分の考えで判決を下し、それらから外れた判決を出した裁判官に、自動的に罷免の票が投じられるようにすれば、陪審制度など導入しなくても、国民の声を司法に反映させることができる。これ以外の投票でも、工夫次第で、わからないから棄権するという人の数を減らすことができる。
2. セキュリティ上の問題はないのか
電子投票システム自体は、国内外で普及しつつある。日本でも、2002年に電磁記録投票法が施行され、条例を定めるならば、地方自治体の選挙では、有権者が投票所に出向き、電子投票を行うことが可能となった。電子投票には、開票時間の短縮や人件費削減などのメリットがあるが、他方で、セキュリティ上の問題も指摘されている。2004年に行われたアメリカ大統領選挙では、電子投票が導入されたものの、投票結果が出口調査の結果と大きく食い違うケースが多数あり、ブッシュ陣営による陰謀がささやかれた。
こうした不正は、従来の選挙でも起きうることだが、電子投票、特にインターネットを使った投票では、権力者による干渉やハッカーによる侵入で、集計結果が不正に操作されたり、プライバシーが侵害されるといった不安がより大きいことも事実である。
しかし、ここで、インターネットはもともと、情報処理を脱中心化することでリスクを分散させる軍事技術であったことを思い出さなければならない。権力者による干渉やハッカーによる侵入は、集計主体が一つしかないと容易だが、集計主体の数が増えるにつれて困難になる。これまで非公式に出口調査を行ってきたマスコミを、正式な集計協力者として参加させ、投票結果を多重チェックできるようにすれば良い。
具体的に投票方法を説明しよう。まず、投票のたびに有権者にID番号を割り当て、ID番号とパスワードを有権者に通知すると同時に、そのリストを集計協力者に配布する。これと並行して、投票ソフトが集計協力者に配布され、各協力者は、社内でテストを行い、プログラムの精度を検証する。
次に、投票が始まると、有権者は、投票管理委員会、もしくは、自分が信頼を寄せている集計協力者のサイトに行って、投票を行う。投票サイトが複数あるので、たまたまどこかのサーバーがダウンしていても、投票は正常に行うことができる。投票結果は、ネットを通じて、投票管理委員会とすべての集計協力者に送られる。公開プロクシサーバーを使うこともできるようにすれば、集計協力者がIPアドレスから、IDの身元を割り出すことはできないから、投票者のプライバシーは守られる。
投票終了後、IDごとの投票内容は、各サイトで公表され、投票者は、正しく届いていることを確認できるようにする。棄権者も棄権を確認することができる。こうすれば、他人のIDとパスワードを盗んで投票しても、すぐ発覚する。そして、投票管理委員会の結果がすべての集計協力者の結果と一致するなら、投票結果は信用できる。不一致が生じるなら、調査を行って、原因を究明し、意図的な改竄があれば、処罰を行うべきだ。
集計は、即座に行われるので、マスコミには、集計協力のメリットがないと思うかもしれないが、付随的なアンケートの結果は、投票したサイトの管理者にしか行かないので、独自取材の余地がある。
セキュリティ上の問題は、これで解決できる。しかし、直接民主主義には、技術的問題とは別に、以下のような政治哲学的な問題が残っている。
3. 直接民主主義は衆愚政治か
大衆の知的水準は低いので、古代ギリシャのときと同様に、直接民主主義は衆愚政治になると危惧する人がいる。私は、政策決定には、大衆ではなくてエリートがリーダーシップを発揮すべきだという主張には賛成であるが、現在のような《大衆の間接決定=エリートの直接決定》ではなくて、《エリートの間接決定=大衆の直接決定》にするべきだと考えている。
大衆は時間的ないしは能力的制約から、政治の本格的研究・調査をすることができない。だから代議士というエリート(フランス語で選ばれた人という意味)がその仕事を代行して、大衆に選択肢を提示する。大衆はどの選択肢を選んでいいのかわからないので、マスメディアに登場する有識者の意見に耳を傾ける。大衆たちが口にする「自分の意見」の大半は、オピニオン・リーダーというエリートの受け売りである。レファレンダムを導入しても、結局政治を動かすのはエリートである。
それならエリートが直接政治を行った方が効率的だと思うかもしれない。しかしエリートとて欲望を持った存在なのだから、無媒介に権力を手にすると、私利私欲のために職権を濫用する危険がある。だから《エリート》と《権力》の間に《大衆》という中間項を媒介させなければならない。《大衆》というフィルターにかけられることによって、《エリート》の決定は、その不純なエゴイズムが取り除かれて政治に反映されるのである。《大衆→エリート→権力》ではなくて、《エリート→大衆→権力》が、《能力はないが、利害を主張すべき大衆》と、《能力はあるが、利害を主張すべきではないエリート》とのあるべき関係なのである。
4. マスコミは世論操作で政治を左右できるか
国民はマスコミの影響を強く受けるので、マスコミが政治を操作することになりかねないという政治家たちの危惧は、もしマスコミがひとつしか存在しない独占体とするならば、妥当である。しかし実際には、マスコミは複数存在するし、最近では、インターネットの普及により、マスコミによる世論操作は、かつてなく難しくなってきている。ネットで誰でも自分の主張ができる環境がある以上、マスコミの力を過大評価するべきではない。
5. 数の暴力をどうやって防ぐか
数の論理で政策決定がなされるというのは、現在の議会制民主主義でも同じことである。現在の政治システムの問題点は、ある特定の少数の意志、例えば特定の圧力団体の意向が、他の少数の意志を押さえることができるところにある。投票率50%の小選挙区の選挙で、有権者の半分以下の票で当選した国会議員が、半数を少し超える数で政治を動かすのだが、与党の意志は、与党の過半数の意志でしかないことを計算に入れると、有権者の16分の1程度の意見で政治が動くこともあることになる。
この点、多数派の利害が反映されるレファレンダムの方がまだましなのだが、どちらにしても、重要なことは、議論を尽くすこと、優れた提案に対しては、たとえ提案者が少数であったとしても聞く耳を持つことである。そのためにはまず、政策決定のプロセスを、料亭での密談からパブリックな討論の場へと移さなければならない。レファレンダムが行われるようになれば、メディアは、政治家の権力闘争を報道する代わりに、討論会を開くようになるだろう。
6. 地域エゴをどう防ぐか
大衆は自分たちの利益しか考えない。住民投票が地域エゴになりがちなように、国民投票は、主権国家のエゴに走る傾向がある。例えば、廃棄物処理所を建設を認めるかどうかという住民投票をすれば、どこでも否決されるに決まっている。そういう場合は、どこに建設するかを、ロールズが謂う所の「無知のベール」で覆って、まずは、廃棄物処理所を建設した際の周辺住民への補償に関する普遍的な法を決め、しかる後に、広域的な範囲でレファレンダムを行えばよい。エゴを否定するのは、常に普遍的な(相手の立場になることができる)法なのである。
7. 投票回数が増えると投票率が下がる
国民の多くは政治に無関心で、選挙をやっても投票率が低いから、本当の民主主義にはならないと言う人もいる。たしかに、国政選挙を例にとっても、投票率は下落傾向にある。かつて70%前後あった衆議院議員選挙の投票率は、平成8年には始めて60%を切り、参議院議員選挙にいたっては、平成7年に45%にまで落ち込んだ。
このことは政治に関心のある人が、有権者の半分程度しかいないということを意味するのではない。政治に関心があるにもかかわらず、いやそれゆえに、現在の政治に幻滅を感じている無党派層はたくさんいるのである。そうした人々は、おそらくレファレンダムを棄権しないであろう。投票率を上げるには、有権者から、間接民主主義につきまとう隔靴靴痒(かっかそうよう)の感を拭い去る必要がある。
今ある有権者が、法案Bが議会で成立することを希望しているとする。その時、代議制民主主義では、次のような不確定性がある。
- Bを公約にしている代議士Cがいるかどうか不確定
- Cがいても、当選するかどうか不確定
- Cが当選しても、Cが公約を守るかどうか不確定
- Cが公約を守ろうとしても、実現するかどうか不確定
Bが法律となることの価値が大きくても、それにこうした四つの不確定性の確率係数を乗ずると、その積は限りなくゼロに近づく。その結果、多くのサイレントマジョリティにとって、情報を収集したり、投票所まで外出したりするのに必要な時間の機会費用の方が投票の利益を上回ってしまうのである。[2]
インターネット投票なら、自宅で簡単に投票したり、投票についての関連情報を集めたりすることができるので、投票のコストは下がり、不確定要素が減るので一票の価値が増える。だから、投票率は増える。投票回数が増えても、例えば、毎週日曜日には、必ず何らかの投票があるということになれば、かえって忘れる人もいなくなるだろう。
もちろん実際の投票率は、採決事項の内容にもよる。あまりにも特殊な案件で有権者全体の関心を呼ばず、投票率が低くなる場合でも、関係者にとっては深刻な問題であることがあるから、そうした人々による投票の結果はやはり尊重されるべきである。
8. 代議士をどう説得するか
最後に、私の提案したレファレンダムが、本当に実現する可能性があるのかという現実主義者の疑問に答えたい。言うまでもなく、この制度を実現する上での最大の障害は、権力を失う代議士たちである。国政選挙について言うと、憲法改正には衆参両院の総議員の3分の2以上が賛成する必要がある。だが参議院議員が、自らの失業を圧倒的多数で賛成するだろうか。衆議院議員が、自らの権限の縮小を圧倒的多数で賛成するだろうか。そのようなことはまずありえない。
だから、国会議員を説得するために、国民投票が代議士にとっても大きなメリットをもたらすことを示さなければならない。そのメリットとは、圧力団体の拘束(A)や党議拘束(B)から自由になって、自分の政治的良心に忠実になれるれるということである。
- 現在各種の圧力団体が選挙後援や政治献金をして自分たちの息のかかった議員を国会に送り込もうとするのは、国会での決定がそのまま政府によって実行されるからである。しかし新しいシステムのもとでは、特定団体の利害を露骨に反映した法案は国民投票で排除されるから、圧力団体は政治に期待しなくなる。その結果、政財界の癒着は弱まるし、そうなれば選挙費用の相場も全体として下がることになるだろう。代議士は民意の伝達者としてよりも、政策立案・法案作成のプロとしての性格を帯びるようになる。政策秘書を増やすことによって、失業する参議院議員の雇用を吸収することができる。
- 代議士は、自分の主義主張と党執行部の方針が食い違うとき、苦悩する。与党の大政党によくあることである。しかし直接民主主義では、もはや過半数を取るための巨大政党は不要になる。その結果多くの小政党ができることになるが、小さな政党では、党執行部と代議士個人の距離は短くなる。またAとの関係で言えば、資金面でも政党の魅力は薄くなる。だから、党が代議士を拘束することがなくなる。
レファレンダムで不利益を被るのは、与党の執行部だけである。与党の主流派が、全議員数の半分の半分だとすると、レファレンダムによって利益を得るのは全議員の4分の3ということになり、3分の2を越える。だから野党と与党の反主流派が足並みを揃えれば、憲法改正は不可能ではない。もちろん与党議員が利権色の強い政治屋ばかりであるならば、このようなわけにはいかない。政治屋が減って政策家が増えることは、レファレンダム導入の結果である以前に前提でもあるのだ。選挙で、土下座をする政治屋ではなくて、政策立案能力のある候補者を選ぶことが、まず第一歩である。
9. 追記(1)レファレンダムとしての郵政選挙
2005年9月9日の記事「参院反対派の鴻池氏、郵政法案賛成に 青木氏と会談」 へのコメント。9月11日の衆院選で自民党が圧勝したことで、郵政民営化関連法案の成立が確実になり、参院反対派のリーダー格の鴻池祥肇元防災担当相(下の写真)をはじめとする11人が賛成に転換する考えを示しましたが、これで間接民主主義が不要であることがますますはっきりするようになりました。

9月11日の衆院選で自民党が圧勝したことで、郵政民営化関連法案の成立が確実になりました。参院反対派のリーダー格の鴻池祥肇元防災担当相をはじめとする11人が「衆院選の結果は尊重すべきだ」などとして賛成に転換する考えを示したからだです。
もしも、議員が、世論の動向で判断を変えるたんなる民意の伝達者にすぎないのならば、その議員を、維持費がもっと安くて、かつ確実に民意を伝えるネットの回線で置き換えた方がよいでしょう。私は、本論で、《人を選ぶ選挙》よりも《法案を選ぶ選挙》をやれと主張しましたが、今回の選挙を見て、ますますその思いを強くしました。
今回は、解散の経緯からして、郵政民営化に賛成するか否かが最大の争点となり、レファレンダムに近い選挙となりました。「小泉劇場」などと揶揄されましたが、選挙の争点がわかりやすいということはよいことですし、そのためか、投票率も小選挙区で67%前後と、小選挙区比例代表並立制が導入された1996年以降で最高となりました。
しかし、今回の選挙は、《法案を選ぶ選挙》としての性格が強いにもかかわらず、実際には《人を選ぶ選挙》であることを忘れてはいけません。2/3を獲得した与党が、その議席数を利用して、有権者が望まない法案を通すということも考えられます。そして、ここに、直接民主主義でないと解決できない、間接民主主義の根本的な問題があります。
10. 追記(2)日本の民主主義は衆愚政治か
『海外情報のプログ』の「メディア選挙」に対するコメント。国家における民主主義と企業における株主中心主義は同じなのか、政治の方針を国民に、企業の経営方針を株主に委ねてもよいのかどうかについて。

たまに日本に帰ると悲惨極まりない様態になっている。将に衆愚政治、劇場政治のなれの果てだ・・・時間的視野があまりに短すぎる。[5]
今の日本の民主主義は、衆愚政治でしょうか。今回の衆議院選挙での有権者の選択(郵政事業民営化の肯定)は、思惑はそれぞれでしょうが、結果としては正しいものだったと思います。
民主主義というのは、株式会社における株主重視と同じ原理です。取締役が、資金を投じた株主の意向に従わなければならないように、国家の指導者は、税金を納めている国民の意向に従わなければなりません。
株主が、選択を誤って、自分の投資資金を失ったとしても、それは自業自得です。人間は失敗をしなければ、賢くなりません。同じことは、民主主義についても言えます。大衆が愚かだからといって、選択する権限を与えないと、ますます愚かになります。大衆が判断を間違うこともありますが、その間違いが自分の不利益になることを体験して、賢くなってもらうしかありません。
11. 参照情報
- 待鳥聡史『代議制民主主義「民意」と「政治家」を問い直す』中央公論新社 (2015/11/25).
- 今井一, 『国民投票の総て』制作・普及委員会『国民投票の総て 増補 電子書籍版』小学館 (2018/8/31).
- 甘野雅彦『ぼくらの直接民主主義!: ロストジェネレーションが語る明日の日本』七つ森書館 (2019/2/27).
- ↑Tomohisa suna. “2011年東京都知事選挙ポスター.” Taken on April 6, 2011. Licensed under CC-BY-SA.
- ↑永井俊哉「民主主義のパラドックス」2001年2月11日.
- ↑Ogiyoshisan. “鴻池祥肇." Licensed under CC-BY.
- ↑Ggia. “Greek referendum 2015: demonstration for voting NO at Syntagma square, Athens Greece." Licensed under CC-BY-SA.
- ↑Koji."メディア選挙“.『海外情報のプログ』2005-08-27 10:57.
ディスカッション
コメント一覧
非常におもしろいと思いましたが,いくつか疑問があります。
まず,メディアで取り上げられないような細かい法案に大衆が興味を示すとは思えません。そうすると投票率は低くなると思いますし,国家や政治家への漠然とした反発感による反対票の占める割合が高くなってしまいかねません。そのような場合には法案は通りにくくなり,当該法案によって不利益を被るものによる票の買収もなされやすくなるのではないでしょうか。
また,この制度を実施するとして,国会にどのような権能を残すのかがわかりません。法案提出権のみでしょうか。権力分立の観点から,どのような権限分配がなされどのようなチェック・アンド・バランスがはたらくのかを明らかにしていただきたいと思います。
「メディアで取り上げられないような細かい法案」の場合、棄権が増えるでしょうが、有効投票のみをカウントするので、何も決まらないということはありません。
投票者数が減れば、それだけ買収も容易になりますが、それならば、間接民主主義の方が、投票者数がはるかに少ないのだから、買収はそれだけさらに簡単になります。
現在の憲法は、三権分立という形で「権力分立」を実現していますが、三つに分割するだけでは、不十分です。立法・行政・司法に有権者をもっと直接に参加させることで、有権者一人一人に分権することが、究極の権力分立です。具体的な構想については、これから投稿していきますので、またコメントお願いします。
裁判員制度も含めて日本の大衆が政治決定に参加する事は恐らく悲しい結果になるだけと思います。日本は戦前、普通選挙制度を実現したら、帝国が崩壊し原爆が落とされるまで廃墟となった歴史があります。首相公選からネットによる直接民主主義に至るまで刹那願望の極大化をもたらすだけです。宗教の本質は永遠に実現しそうにない未来にあります。人はドラマの最終回は見たいですが見てしまえばそれで終りです。大日本帝国は79年(1867~1946年)で滅亡しました。それでも滅びる時には1000名近い人間が自決しました。司馬遼太郎の死ぬ直前の言葉ではないですが今度の闇は本当に深いです。王政、貴族政、民主政、私はこの循環を前提とした制度こそが正しく、その育成機関が必要だと考えています。
歴史というものは、螺旋階段のようなもので、循環してはいるけれども、長い目で見ると一定の方向に向かっているものです。
韓国は日本より早くインターネットが急速に普及しました。また、IMF占領によって外資が上場企業が株の過半数を支配しました。その結果、ネチズンと新しい外交政策が生まれました。
>歴史を理由に、中国、北朝鮮、韓国が同じラインに立つのでは
>ないのか。これが隠れた絵ではないか
>恐怖の校内暴力組織「一陣会」 性行為イベントも
私は社会がこの方向に進むことを許容できません。産業型植民地、金融型植民地、洗脳型植民地と時代が変わると支配形態も変わります。多数派は必ずしも正しくなく、時に金で買収、時にメディアで誘導、時に宗教で洗脳できます。歴史の不可逆点を越える前に対処しなければなりません。
ご返事ありがとうございます。いくつかコメントをさせていてただきます。
地位も名誉も与えられてその投票行動が明らかにされる国会議員と,インターネットにおいて匿名性・秘密性を確保された一般国民を比べるときに,前者のほうが買収しやすいと本当に言えるのでしょうか。
たとえ買収されなくても,自分に利害関係のない(ように見える)法案については,わざわざ賛成に投じるインセンティヴが働かないのに対し,漠然とした反発感あるいはその他の理由から(例えばネットを介した一種のデモとして)多数の人がわざわざ反対票に投じるような事態も想定しうるように思われるのです。
そもそも,膨大な数の構成員からなる政治社会において,国民の政治問題への無関心・無能力は合理的帰結なのであって,投票コストを多少下げたところで,不合理な決断がなされやすいという問題は解決できないと思うのです。政治問題のために国民にいちいち金と時間と脳みそを使わせるのは非効率的ですし,関心がなければそもそもそんなことは不可能です。ですから,国民に投票させる対象を適切に選別して限定し,細かいことは専門家に任せるという方式が,効率的で国民の利益にかなうのだと思いますし,だからこそ代表民主制が基本的には正しいのだと思うのです(現状がよいという意味ではありません。例えば,政党を介した民意の集約が適切になされるようにするような方向が望ましいように思いますし,エージェンシー問題への対処ももっとなされるべきでしょう。)。
永井様は権力分立を何のための原理とお考えなのでしょうか。それが明らかでない限り,「究極の」と言われても無内容に思われます。最近の見解では,権力分立とは,(水平的分立については,)立法権,行政権,司法権のうち2つ以上を1つの機関に独占させてはいけない,という消極的な意味で捉えられています(かつては,国家権力を3つに分けるべきだという積極的な意味に捉えられていましたが。)。もし独占させると,チェック・アンド・バランスが保てないからです。永井様のおっしゃる権力分立は,これとは異なる趣旨ということでしょうか。
買収交渉をしなければならない人の数が増えれば増えるほど、ばれるリスクは増大します。
そうしたことは、代議士の選挙でも起きうることです。
間接民主主義では、
1. 望ましい政策は何か
2. その望ましい政策を主張しているのは誰か
3. その人は公約を守りそうなのか否か
というたくさんの知識が必要です。直接民主主義で必要なのは、1だけですから、むしろ理想的な政治を実現するために必要な時間と労力は、直接民主主義の方が少なくてすみます。
独裁防止のための原理です。特定の個人の意志で政治が動かないようにすることが重要です。
“買収交渉をしなければならない人の数が増えれば増えるほど、ばれるリスクは増大します。”
数以外のファクターの指摘に対するご返事として数の問題を出すのはかみ合っていないように思います。どちらが買収しやすいかは結局よくわかりませんが,数だけで決まるものではないと思います。
“そうしたことは、代議士の選挙でも起きうることです。”
議員選挙で行われる場合と法案投票で行われる場合では後者のほうがより深刻なように思うのです。
“間接民主主義では、……直接民主主義の方が少なくてすみます。”
これは間接民主主義についての通常の理解とは異なるように思います。間接民主主義というのは,個々の議案ごとに国民がいちいち考えて判断せずにすみ,代わりに判断してくれる専門家を選ぶだけでよいという制度ではないでしょうか。(もちろん,国民全体の利害に関わる重要議案は国民に判断させるべきでしょう。現状においては,それは選挙の争点となることを通じて判断されています。また,そういったものに限って国民投票を限定的に導入することも可能でしょう(現状では憲法改正のみですが)。)
もし国民の多くが直接民主主義を望み,個々の政治問題について非常に関心をもっているとすれば,永井様の指摘されるように,間接民主主義のほうが負担が重くなるかも知れませんが,そのような仮定は現実を無視していると思います。
“独裁防止のための原理です。特定の個人の意志で政治が動かないようにすることが重要です。”
了解しました。
確かに、議員は一般人より買収しにくいでしょう。しかし、レファレンダムでは、そうした違いが、全く問題にならないぐらい、買収しなければならない人数が多いのです。全国規模の投票なら、買収がばれる確率は100%に近いと言ってもよいでしょうし、ばれない規模の買収なら、投票結果に影響を与えません。
その理由は?
私たちが商品を買うとき、面倒でも、一つ一つよいかどうか判断して買いますね。代わりに判断してくれる専門家を雇うのは例外的なケースでしょう。私たちは、税金を払って、行政サービスを購入する消費者なのです。もっと消費者の選ぶ権利を認めるべきでしょう。
なお、選ぶのが面倒な場合には、信頼している有識者に委任し、その有識者が、委任された数の票をレファレンダムで投票するという制度があっても良いと思います。しかし、そうした制度を認めたとしても、自分で直接投票したいという人の権利を奪うべきではありません。
たびたびご返事ありがとうございます。
“その理由は?”
1つには,国の政策決定に直接関わるからです。2つ目としては,選挙を通じて候補者ないし政党に不満をぶつけることは,基本的には,民主的過程における正しい姿勢だからです。議案に対して関係のない不満をぶつけるのとは違います。
“私たちが商品を買うとき、面倒でも、一つ一つよいかどうか判断して買いますね。”
その場合はコストよりもメリットが大きいからです。集団的な決定における個人の投票はコストが大きい割にメリットが小さくなってしまい,無関心,フリーライドが合理的な帰結になってしまいます。
“代わりに判断してくれる専門家を雇うのは例外的なケースでしょう。私たちは、税金を払って、行政サービスを購入する消費者なのです。もっと消費者の選ぶ権利を認めるべきでしょう。”
集団的な決定においては例外的どころか,むしろ通常です,ある程度以上の規模の団体においては,理事ないし理事会(呼称はいろいろですが。)が業務について決定権限を有し,社員総会(これも呼称はいろいろですが。)は理事の選任や基本的事項の決定をするのが通常でしょう。現行法の株式会社や新会社法の取締役設置会社においては株主総会の権限は大きく制限されており,取締役会で決議すべき事項を株主総会決議で代えることも許されません。集団の構成員に決定権を認めすぎるとかえって構成員にとって有害になるからです。多くの構成員はきちんと判断しようとしないからです。(ただ,株主の権利を強調し,株主総会の活性化を唱える商法学者もたくさんいるのは事実です。永井様はおそらくこのような考えに近いのだと思います。しかし,不合理なことをやれというのは不合理だと思われるのです。)
“なお、選ぶのが面倒な場合には、信頼している有識者に委任し、その有識者が、委任された数の票をレファレンダムで投票するという制度があっても良いと思います。しかし、そうした制度を認めたとしても、自分で直接投票したいという人の権利を奪うべきではありません。”
これはよい考えだと思います。もし実施するなら,やる気だけがあって能力のない人があまり多くないことを願いますが。なお検討してみたいと思います。