6月 232001
 

文化(culture)が、「土地を耕す」「栽培する」を意味するラテン語 colere に由来するのに対して、文明(civilization)は、「市民」を意味するラテン語 civis に由来する。文化が農村的であるのに対して、文明は都会的である。前回、農耕文化の誕生を論じたので、今回は、都市文明の誕生をエントロピー理論に基づいて分析することにしよう。

1. 都市文明の定義

一般に都市は農村との対比で理解されている。確かに、都市の住人の多くは農業に従事していない。しかし、他方で、私たちは、人口密度の低い工業団地を都市とは呼ばない。難民キャンプは、人口密度の高い非農民の定住地だが、それを都市と呼ぶことはできない。非農業や人口密度の高さだけでは、都市の定義には不十分である。

私は、都市を、コミュニケーション・メディアの機能に専従する職能集団の集約的定住地と定義したい。コミュニケーション・メディアとは、商品の経済的交換、意思疎通の文化的交換、復讐/互酬の政治的交換など、自由な選択主体間の交換が生み出す相互依存的な不確定性(エントロピー)を縮減する交換媒体のことである。交換の三種類に対応して、都市には、経済的都市、文化的宗教的都市、政治的軍事的都市の三つの類型があることになる。江戸時代の大坂、京、江戸のように、三つの機能が分化することもあれば、フランスにおけるパリのように、一つの都市が三つの機能を独占することもある。

もとよりこうした類型間の相違は、都市を論じる上で本質的なことではない。都市にとって本質的なことは、情報である。文化的宗教的都市は、典型的な情報センターであるが、経済的都市も、市場に売り手と買い手の情報が集まってきて売買が成立するという意味で、政治的軍事的都市も、利害対立の情報がそこへと収集され、そこへと命令が伝達されるという意味で情報センターである言うことができる。人類史上における都市文明の出現は、生命進化上の脳の出現に喩えることができる。

工業に従事する人々が都市に集まるのは、こうした情報が目当てなのであって、工業が発達しているから都市という定義は本末転倒である。実際、電話、さらにはインターネットが普及するにつれて、工場は都市から辺境へ、先進国から発展途上国へと移転されるようになっている。

2. 都市文明の成立

人類最初の都市文明は、BC3500-2300年の時期に出来した、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明の所謂四大文明だと考えられている。BC3500年頃から、メソポタミアでシュメール人の都市国家がおこり、エジプトでは、上エジプトと下エジプトの二つの国家への統一が行われ、日本の三内丸山遺跡でも、都市とは言えないが、集落化が始まる。BC3100年頃には、メネスが上下エジプトを統一し、BC2300年頃になると、シュメール人と交易があったインダス川流域に高い完成度の都市が突然出現した。中国でも、黄河文明に先立って、BC3000年頃に長江流域に都市文明が発生したことが近年の発掘で明らかになっている。

四大文明の特徴である巨石建造物や城壁都市は、それを造成させた強い権力者の存在を示している。都市文明が登場する以前、コミュニケーション・メディアの担い手は、家長や族長であった。BC3500-2300年という時期に、超村落的な権力者が登場したのだろうか。

実は、このBC3500-2300年という時期は、約3000年続いたヒプシサーマル期の終末にあたる。ヒプシサーマル期は、気候最適期(クライマティック・オプティマム)とも呼ばれるところから分かるように、太陽活動が活発で、温暖な気候が長期にわたって続いた時期で、人類は比較的平和で豊かな地方分散型の生活を送っていたと推定される。

人間をはじめとする地球上の生命は、太陽エネルギーを主な低エントロピー資源として消費することにより成り立っている非平衡散逸構造である。太陽活動が不活発になり、ヒプシサーマル温暖期が終わると、低エントロピー資源が減少し、人類の社会システムは、危機に直面する。食糧不足はレアールなレベルでのエントロピーを増大させ、食料略奪による戦争の頻発はイデアールなレベルでのエントロピーを増大させる(つまり秩序が崩壊し、不確定性が増える)。

増大するエントロピーを縮減するために必要なことは、強力な権力者による秩序の回復、城壁都市の建設による外敵の侵入の防止、労働集約的な経済の組織化による生産性の向上、文字による情報の共有と伝承である。こうしてヒプシサーマル期の終末に、世界各地で都市革命が起きた。

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エジプト文明の象徴、ギザの三大ピラミッド。“All Gizah Pyramids” by Ricardo Liberato is licensed under CC-BY-SA.

エジプト文明を例にして説明しよう。エジプトはもともと湿潤な気候であったが、ヒプシサーマル温暖期の終わりとともに、寒冷化と乾燥化が進み、その結果リビアの遊牧民が水を求めてナイル川に多数集まった。エジプト古王国のファラオは、この豊富な労働力を組織して大規模な灌漑農業を行い、農閑期にも、生産組織と権力秩序を維持するために、彼らに巨石建造物を造らせたと考えられる。

3. 都市文明の消滅

気候の寒冷化と乾燥化が四大文明を成立させたという説は、エジプト文明に関しては、[Karl W Butzer:Early Hydraulic Civilization in Egypt, p.134] によって、一般理論としては、[鈴木秀夫:気候と文明, p.1-69] によって唱えられ、安田喜憲によって有名になった[d]

[d]
ただし、中国の乾燥化はそれほど深刻ではなかったはずだ。長江文明はアジアモンスーン地帯に位置し、エジプト・メソポタミア、インダスといった西方の文明とは気候環境が異なる。現在でも、中国のほとんどの地域
(特に長江流域)では、年間降水量そのものは豊富にあり、せいぜい降ってきた水を発芽期までどう保持するかしか問題にならない。

安田は、寒冷だった都市革命期の間に一時的に温暖になった時期があったとして、その「W字型気候変動」によって、古代文明の興亡を説明しようとする。

5500~5000年前の寒冷期に人々が大河のほとりや中部山岳などの特定の地域に集中した。人口の集中は情報量を増大させ新たな技術革新も生まれた。その頃、5000~4700年前に再び気候は短期的に温暖化して古代文明の発展に適した環境が生まれ、人口も増大した。ところが4700年前以降、気候は再び寒冷化し、膨れ上がった人口圧が気候悪化に耐え切れずに古代文明は崩壊したというシナリオを現時点では描くことができるが、その実体的研究はこれからの課題である。

[安田喜憲:5000年前の気候変動と都市文明の誕生,都市と文明, p.27]

4700年前、つまりBC2700年頃から、気候が再び寒冷化したが、それに伴って、新たな文明、新たな王朝による再統一が起きたことも事実である。

BC2600年前後
エジプトでは古王国時代に入り、ジェセル王が階段ピラミッドを造営。エーゲ海ではクレタ文明が始まる。長江流域では石家河文化が始まり、城壁都市が建設される。メソポタミアでは、ウル第一王朝が興る。
BC2500年頃
クフ王、カフラー王、メンカウラー王がギザの三大ピラミッド造営。北シリアにエブラ王国が成立。
BC2300年頃
インダス文明が成立。メソポタミアではアッカド朝が最盛期。

このように、再寒冷化に伴って、四大文明を初めとする古代都市文明は、崩壊したのではなく、むしろ5000年前の寒冷化の時と同様に、隆盛を極めたとみなさなければならない。古代都市文明が崩壊し、「暗黒時代」を迎えるのは、BC2300年以降の温暖化の時期においてである。安田のように、都市文明の成立を寒冷化で説明しながら、寒冷化で崩壊すると言うことは、矛盾である。寒冷化で成立する都市文明は、温暖化で消滅すると説明しなければ、整合的ではない。

読書案内
書名都市と文明
媒体単行本
編者金関 恕 他
出版社と出版時期朝倉書店, 1996/08
書名Early Hydraulic Civilization in Egypt
媒体ハードカバー
著者Karl W Butzer
出版社と出版時期Univ. Chicago P, 1976/11
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  2 コメント

  1. メソポタミア文明はどうやって終わったのですか

  2. メソポタミア地域には、今でも文明がありますから、その意味では、メソポタミア文明は滅んでいません。シュメール文明なら滅びましたが、これについては、「シュメール文明」をご覧ください。

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