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都市文明はなぜ生まれたのか

2001年6月23日

文化(culture)が、「土地を耕す」「栽培する」を意味するラテン語 colere に由来するのに対して、文明(civilization)は、「市民」を意味するラテン語 civis に由来する。文化が農村的であるのに対して、文明は都会的である。前回、農耕文化の誕生を論じたので、今回は、都市文明の誕生をエントロピー理論に基づいて分析することにしよう[1]

Tim StringerによるPixabayからの画像
バビロンのレンガパネルに描かれている獅子はメソポタミア文明における王権の象徴である。Source: Pixabay. Licensed under CC-0

1. 都市文明の定義

一般に都市は農村との対比で理解されている。確かに、都市の住人の多くは農業に従事していない。しかし、他方で、私たちは、人口密度の低い工業団地を都市とは呼ばない。難民キャンプは、人口密度の高い非農民の定住地だが、それを都市と呼ぶことはできない。非農業や人口密度の高さだけでは、都市の定義には不十分である。

私は、都市を、コミュニケーション・メディアの機能に専従する職能集団の集約的定住地と定義したい。コミュニケーション・メディアとは、文化的交換、商品の経済的交換、復讐/互酬の政治的交換など、自由な選択主体間の交換が生み出す相互依存的な不確定性(エントロピー)を縮減する交換媒体のことである。交換の三種類に対応して、都市には、文化的宗教的都市、経済的都市、政治的軍事的都市の三つの類型があることになる。江戸時代の京、大坂、江戸のように、三つの機能が分化することもあれば、フランスにおけるパリのように、一つの都市が三つの機能を独占することもある。

もとよりこうした類型間の相違は、都市を論じる上で本質的なことではない。都市にとって本質的なことは、情報である。文化的宗教的都市は、典型的な情報センターであるが、経済的都市も、市場に売り手と買い手の情報が集まってきて売買が成立するという意味で、政治的軍事的都市も、利害対立の情報がそこへと収集され、そこへと命令が伝達されるという意味において情報センターである。人類史上における都市文明の出現は、生命進化上の脳の出現に喩えられる。

工業に従事する人々が都市に集まるのは、こうした情報が目当てなのであって、工業が発達しているから都市という定義は本末転倒である。実際、電話、さらにはインターネットが普及し、社会が脱中心化するにつれて、工場は都市から辺境へ、先進国から発展途上国へと移転されるようになっている。

2. 都市文明の成立

人類最初の都市文明は、紀元前3500年~紀元前2500年の時期に出来した、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明の所謂四大文明だと考えられている。紀元前3500年頃から、メソポタミアでシュメール人の都市国家がおこり、エジプトでは、上エジプトと下エジプトの二つの国家への統一が行われた。紀元前3100年頃には、メネスが上下エジプトを統一し、紀元前2600年から紀元前2500年の時期にインダス川流域に高い完成度の都市が突然出現した。中国でも、黄河文明に先立って、紀元前3000年頃に長江流域に都市文明が発生したことが近年の発掘で明らかになっている。

四大文明の特徴である巨石建造物や城壁都市は、それを造成させた強い権力者の存在を示している。比較的平等だったインダス文明や長江文明でも、計画都市を設計して、人々にそれを造らせる知的指導者がいたに違いない。武力や富がなくても、人々から尊敬され、人々を動かせるカリスマは、権力者であるといえる。都市文明が登場する以前、コミュニケーション・メディアの担い手は、家長や族長であった。紀元前3500年~紀元前2500年という時期に、超村落的な権力者が登場したのだろうか。

実は、この紀元前3500年~紀元前2500年という時期は、花粉層序区分の名称で言うと、約2500年続いた温暖なアトランティック期の後に続くサブボレアルの寒冷期に相当する。アトランティック期は、ヒプシサーマル期とか気候最適期(クライマティック・オプティマム)とかと呼ばれるところからも分かるように、太陽活動が活発で、温暖な気候が長期にわたって続いた時期で、この頃人類は比較的平和で豊かな地方分散型の生活を送っていたと推定される。

人間をはじめとする地球上の生命は、太陽エネルギーを主な低エントロピー資源として消費することにより成り立っている非平衡散逸構造である。太陽活動が不活発になり、アトランティック温暖期が終わると、低エントロピー資源が減少し、人類の社会システムは、危機に直面する。食糧不足はレアールなレベルでのエントロピーを増大させ、食料略奪による戦争の頻発はイデアールなレベルでのエントロピーを増大させる(つまり秩序が崩壊し、不確定性が増える)。

増大するエントロピーを縮減するために必要なことは、強力な権力者による秩序の回復、城壁都市の建設による外敵の侵入の防止、労働集約的な経済の組織化による生産性の向上、文字による情報の共有と伝承である。こうしてサブボレアル寒冷期に、世界各地で都市革命が起きた。

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エジプト文明の象徴、ギザの三大ピラミッド。Source: “All Gizah Pyramids” by Ricardo Liberato. Licensed under CC-BY-SA.

エジプト文明を例にして説明しよう。エジプトはもともと湿潤な気候であったが、サブボレアル寒冷期の到来とともに、寒冷化と乾燥化が進み、その結果リビアの遊牧民が水を求めてナイル川に多数集まった。エジプト古王国のファラオは、この豊富な労働力を組織して大規模な灌漑農業を実行し、農閑期にも、生産組織と権力秩序を維持するために、彼らに巨石建造物を造らせたと考えられる。

3. 都市文明の消滅

気候の寒冷化と乾燥化が四大文明を成立させたという説は、エジプト文明に関しては、米国の地理学者、カール・ブッツァー(Karl Butzer, 1934年 – 2016年)によって[2]、一般理論としては、鈴木秀夫によって唱えられ[3]、安田喜憲によって日本で有名になった。

サブボレアル寒冷期になると、北緯35度以北は寒冷湿潤、北緯35度以南の北半球は寒冷乾燥という気候になった。北緯35度以南の住民たちは、アトランティック期に分散して農業を営んでいたが、水不足になったため、ナイル川、チグリス・ユーフラテス川、インダス川、長江といった北緯35度以南の大河に水を求めて集まった。かくして、これらの大河のほとりに人口密度の高い都市文明ができたというのである。

安田は、寒冷だった都市革命期の間に一時的に温暖になった時期があったとして、その「W字型気候変動」によって、古代文明の興亡を説明しようとする。

5500~5000年前の寒冷期に人々が大河のほとりや中部山岳などの特定の地域に集中した。人口の集中は情報量を増大させ新たな技術革新も生まれた。その頃、5000~4700年前に再び気候は短期的に温暖化して古代文明の発展に適した環境が生まれ、人口も増大した。ところが4700年前以降、気候は再び寒冷化し、膨れ上がった人口圧が気候悪化に耐え切れずに古代文明は崩壊したというシナリオを現時点では描くことができるが、その実体的研究はこれからの課題である。[4]

以下のグラフは、フィンランド北部の堆積物コアに保存されている花粉集団から復元された紀元前6000年から紀元前400年までの気温変動である。これを見ると、たしかにサブボレアル寒冷期に5200BPイベント(5.2 ka event)と4200BPイベント(4.2 ka event)によって気温が二回低下したW字型気候変動があったことが見て取れる。

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紀元前6000年から紀元前400年までの標準化された温度異常の移動平均線[5]。時間軸の目盛り間隔が一定ではないことに注意されたい。

四大文明が紀元前3500年~紀元前2500年の時期に出来したことは既に述べた。この時期は、5200BPイベントによって気候が寒冷化・乾燥化した時期に相当する。その後しばらく温暖化・湿潤化した後、4200BPイベントにより、紀元前2200年~紀元前1900年頃、再び気候が寒冷化・乾燥化(場所によっては湿潤化)し、古代都市文明が崩壊したというのだ。たしかに、4200BPイベントは、四大文明に大きな影響を与えた。

  • 古代エジプト文明:4200BPイベントの時期に、夏の熱帯収束帯がアフリカで南進し、ナイル川の上流で降水量が減少し、飢饉が始まった。北大西洋振動が負に大きく傾き、ナイル川下流では、集中的な降雨により、広範囲に広がる表層洪水が発生した。旱魃と豪雨という異常気象の結果、紀元前2181年頃、エジプト古王国が滅び、第一中間期と呼ばれる混乱の時代になったと考えられる[6]
  • メソポタミア文明:オマーン湾の海底堆積物コアの鉱物学的化学的分析から紀元前2075年頃から約300年間にわたって乾燥化が急激に進んだことがわかった。紀元前2334年にサルゴンが建国した史上初の帝国、アッカド帝国が、紀元前2154年に滅亡したのは、これが原因ではないかと考えられる[7]
  • インダス文明:インダス川デルタ沖のプランクトン酸素同位体比は、4200年前に大陸からインド洋に向かって乾いた風が吹く冬季モンスーンが強化され、インダス川の流出量が減少したことを示しており、この出来事はインダス文明の終結とポスト都市的な農村文化への後退というその後にインド亜大陸で起きた現象と首尾一貫している[8]
  • 中国文明:長江流域でも、黄河流域でも、4200年前に気候が寒冷化したが、降水量に関しては異なる報告がある。長江流域でも[9]、黄河流域でも[10]、乾燥化が進んだという見解がある一方で、長江流域でも[11]、黄河流域でも[12]、降水量が増え、洪水が起きたという見解もある。特に良渚文化近くの太湖は現在の二~三倍の広さになったが、塩分が低いことから、海水の侵入が原因ではないと見られている[13]。おそらくブロッキングにより、旱魃と豪雨の両方が起きる[14]という異常気象があったのだろう。

4200BPイベントは、四大文明に大きなダメージを与えたが、インダス文明と長江文明以外は、その後都市文明が復活した。

  • エジプトでは、古王国が滅びてから60年程となる紀元前2022年頃、メンチュヘテプ2世がエジプトを再統一し、中王国時代が始まる。
  • メソポタミアでは、アッカド帝国崩壊から42年後となる紀元前2112年にウル第三王朝が誕生し、紀元前1894年にはバビロン第1王朝が設立され、300年間にわたってメソポタミアを支配する。
  • 中国では、長江と黄河流域に存在した多くの都市国家が消滅したが、紀元前2070年には、夏王朝が成立し、紀元前1600年には、殷(商)王朝が成立した。

以上からわかる通り、4200BPイベントで古代文明が崩壊したと言えるのは、アジア・モンスーンの影響下にあるインダス文明と長江文明だけである。これ以外の都市文明は、打撃を受けたものの、その後も都市文明は続いた。中国では、殷中期の武丁王の時代に甲骨文字が使用されるようになったので、むしろ4200BPイベント後に文字を用いるという本当の意味での都市文明が始まったと言えるぐらいだ。では、なぜインダス文明と長江文明は消滅したのか。この問題は、次回取り上げることにする。

4. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 本稿は、2001年06月23日に書いたメルマガの記事「都市文明の成立背景」を大幅に改訂したものである。旧稿に関してはリンク先を参照されたい。
  2. Karl W Butzer. Early Hydraulic Civilization in Egypt: A Study in Cultural Ecology. University of Chicago Press; New版 (1976/11/1). p.134.
  3. 鈴木秀夫「気候と文明」in 鈴木秀夫, 山本武夫『気候と文明・気候と歴史』気候と人間シリーズ〈4〉. 朝倉書店 (1978/09). p. 1-69; Suzuki Hideo. “3500 years ago-climatic changes and ancient civilizations”. Bulletin of the Department of Geography, University of Tokyo, 11 (1979). p. 43–58.
  4. 安田喜憲「5000年前の気候変動と都市文明の誕生」in 金関恕, 川西宏幸 (編集)『都市と文明』朝倉書店 (1996/08). p.27
  5. Data from Seppa, H. and Birks, H.J.B. (2001) July mean temperature and annual precipitation trends during the Holocene in the Fennoscandian tree-line area: pollen-based climate reconstructions, The Holocene, Volume 11, Number 5, pp. 527-539.
  6. Welc, Fabian, and Leszek Marks. “Climate Change at the End of the Old Kingdom in Egypt around 4200 BP: New Geoarchaeological Evidence.” Quaternary International 324 (March 2014): 124–33.
  7. Cullen, H. M., P. B. deMenocal, S. Hemming, G. Hemming, F. H. Brown, T. Guilderson, and F. Sirocko. “Climate Change and the Collapse of the Akkadian Empire: Evidence from the Deep Sea.” Geology 28, no. 4 (2000): 379.
  8. Staubwasser, M., F. Sirocko, P. M. Grootes, and M. Segl. “Climate Change at the 4.2 Ka BP Termination of the Indus Valley Civilization and Holocene South Asian Monsoon Variability: SOUTH ASIAN HOLOCENE CLIMATE CHANGE.” Geophysical Research Letters 30, no. 8 (April 2003).
  9. 安田喜憲.『ミルクを飲まない文明』歴史新書y. 洋泉社 (2015/5/8). p. 70.
  10. Gao, Huazhong, Cheng Zhu, and Weifeng Xu. “Environmental Change and Cultural Response around 4200 Cal. Yr BP in the Yishu River Basin, Shandong.” Journal of Geographical Sciences 17, no. 3 (July 2007): 285–92.
  11. Chen, Zhongyuan, Zhanghua Wang, Jill Schneiderman, Jin Taol, and Yongli Cail. “Holocene Climate Fluctuations in the Yangtze Delta of Eastern China and the Neolithic Response.” The Holocene 15, no. 6 (September 2005): 915–24.
  12. NHK「中国文明の謎」取材班.『中夏文明の誕生 持続する中国の源を探る』講談社 (2012/12/6). p.76-77.
  13. Zong, Yongqiang, James B. Innes, Zhanghua Wang, and Zhongyuan Chen. “Mid-Holocene Coastal Hydrology and Salinity Changes in the East Taihu Area of the Lower Yangtze Wetlands, China.” Quaternary Research 76, no. 01 (July 2011): 69–82.
  14. Huang, Chun Chang, Jiangli Pang, Xiaochun Zha, Hongxia Su, and Yaofeng Jia. “Extraordinary Floods Related to the Climatic Event at 4200 a BP on the Qishuihe River, Middle Reaches of the Yellow River, China.” Quaternary Science Reviews 30, no. 3–4 (February 2011): 460–68.