仏教はなぜ日本で普及したのか
伝統的な神を祀る日本の天皇家にとって、異国の宗教である仏教を受け入れることは、自殺行為のように思える。それにもかかわらず、なぜ仏教は、日本では、上から下へと、権力者が推奨する中で普及したのか。気候的背景から考えてみよう。【→ 振り仮名付き版】
1. 仏教が日本に伝来したのはいつか
『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』によれば、日本に仏教が公式に伝来したのは、欽明天皇の戊午の年(西暦538年)である。『日本書紀』は仏教伝来の年を欽明13年壬申(552年)としている。正しいのはどちらだろうか。
百済の聖明王は、553年と554年に日本に援軍を要請した。554年には、対価として、五経博士等を献じているので、それに先立つ553年に、対価の第一弾として仏像と経文を献じたということは、十分考えられる。日本は、これに報いるために、554年、千人規模の援軍を派遣した。仏像と経文が献じられた年を、553年ではなくて、1年前の552年にしたのは、仏教の公式伝来という画期的出来事を、『日本書紀』を編集した当時末法の初年とされていた年に当てるためと考えられる。
しかし、大和朝廷が、この時初めて仏教を受容したとは言えない。『日本書紀』によると、545年に、百済が、天皇のために丈六の仏像を作り、任那日本府に贈っている。もしも天皇が仏教を嫌っているのなら、このようなプレゼントをするはずがない。だから、545年の段階で、すでに天皇は仏教を受容していたということになる。そこで、通説どおり、最初の仏教受容の年を538年としたい。
2. なぜ蘇我稲目は突然権力を握ったのか
仏教は、その後、上から下へと普及した。594年頃から臣・連らが競って寺を造り始め、7世紀になると、朝廷の下級豪族までが、こぞって一族の寺を造るようになった。多くの歴史家は、こうした仏教の日本への伝来と普及を当然のように扱っている。しかし、よく考えてみると、天皇は、世俗的権力者であっただけでなく、宗教的権力者でもあった。なぜ当時の朝廷が、伝統的な神道と本来は対立するはずの仏教を受け入れたのか。キリスト教は、封建道徳に反するという理由で、江戸時代に弾圧された。同様に、仏教も拒否されて当然だったのではないのか。
よく知られているように、仏教受容に際して、物部尾輿は「天皇は古くから天神地祇を祭るべきであって、蕃神などを信奉されるとあらば、神々の怒りを招くことは必定でありましょう」と言って反対した。しかし蘇我稲目は、「西方の諸国で信奉しているのに、我が国だけがどうして背けましょうか」と受け入れに意欲を示したので、天皇は試しに稲目に仏像を与えて礼拝させることにした。
だが、「大臣の蘇我稲目が、仏教信仰に賛成したから、日本でも仏教が普及するようになった」というのは、答えになっていない。なぜなら、蘇我氏自体が、仏教伝来の頃に突然権力の表舞台に出てきた新興勢力だからである。
蘇我氏は、物部氏や大伴氏など、由緒正しい他の飛鳥の大豪族とは違って、氏素性がはっきりしない。蘇我稲目は、一応、武内宿禰-蘇我石川宿禰-満致-韓子-高麗-稲目という家系に連なっていることになっているが、武内宿禰以外の先祖は正体不明である。葛城・紀・巨勢・平群などの名門の始祖である武内宿禰を祖先とすることは、成り上がりものがよくやる家系の粉飾と考えられる。
満致・韓子・高麗といった名前から、蘇我氏の祖先を渡来人とする説がある。蘇我氏の起源が、朝鮮半島にあるのかどうかはともかく、蘇我氏が、渡来人と密接に関係を持っていたために海外文化に明るかったことは確かだ。
ともあれ、蘇我稲目には、伝統的権威はない。蘇我馬子が、葛城の子孫を自称していることから、馬子の母、つまり稲目の妻は葛城の血を引くと考えられるが、当時葛城氏は、すでに権力を失っていた。「なぜ伝統的権威のない蘇我稲目が大臣になることができたのか」ということは「なぜ大和朝廷は、神道の伝統的権威を否定することになる仏教信仰を受け入れたのか」と同様に、歴史の謎である。
3. 仏教伝来の気候的背景
この謎を解く鍵は、蘇我稲目が大臣になった宣化元年(536年)における宣化天皇の詔にある。
食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えをいやすことはできない。真珠が一千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか[2]
安閑二年(535年)正月の時点では、安閑天皇は次のような詔をしている。
近頃、毎年穀物は実り、国境に外敵の心配はない。万民は生業を楽しみ、飢饉の恐れもない。天皇の慈愛は国中に広がり、その名声は天地に満ちている。内外は平穏で、国家は富み栄えている。[3]
安閑天皇の時代は、「安閑」の名にふさわしい平和で静かな時代だった。ところが、宣化天皇は、「宣化」の名にふさわしく、引用した詔で、ある変化を宣言した。デイヴィッド・キーズは、この詔について次のように言っている。
『日本書紀』は、全十二万語に及ぶ大著だが、このような記載はほかに一ヶ所もない。しかもこの文章が、ちょうど同じ時期に世界中に広まっていた天候異変と全く同一の現象を記していることは、決して偶然ではない。[4]
デイヴィッド・キーズが指摘するように、詔が出る1年前の535年から翌年にかけての時期は、世界的な寒冷化の年であった。そのことは世界各地の年輪データから実証されている。地域によって差があるが、535年から数年、場合によっては20年以上にわたって、年輪の幅が異常に狭くなっている。その間、木がほとんど生長しなかったのだ。
さらにグリーンランドや南極の氷雪を分析してみたところ、6世紀中ごろの氷縞に火山噴火の痕跡である硫酸層が大量にあることが確認された。このことは、火山噴火による大気汚染が日光を遮断し、世界的な気候の寒冷化をもたらしたことを意味している。535年以降、異常気象による飢饉と疫病で人々が苦しんだことは、世界中の文献に記載されている。
宣化天皇は、引用した箇所に続けて次のように言っている。
そもそも筑紫の国は、遠近の国々が来朝する所、往復の関門となる所である。そこで海外の国は海の状態をうかがってやって来ては賓客となり、天雲の様子を見ては、貢物を献上した。応神天皇より我が御世に至るまで、収穫した穀物を収蔵し、食料を蓄積してきた。それをずっと凶年の備えとし、賓客を饗応する糧としている。国を安定させる方法は、これに過ぎるものはない。[5]
どうやら、日本以上に、朝鮮半島での飢餓がひどく、日本に来た「賓客」に備蓄した食糧を与えなければならなかったようだ。
『三国史記』によれば、535年には洪水が起き、536年には「雷が鳴り、伝染病が大流行し」、それに引き続いて「大変な干ばつ」が発生した。加えて地震も、535年末に朝鮮を襲った。[6]
朝鮮半島で、それまで異教国だった新羅が仏教を採用したのは、535年だったが、日本でも535年以降、同様の天変地異が起き、このために伝統的な宗教が権威を失い、人々は現世利益をもたらす新たな信仰の対象を求めた。仏教をはじめ大陸の先進文明に通じていた蘇我氏が登用された背景には、大和朝廷が未曾有の危機に直面し、伝統的な手法に行き詰まったことがあったわけである。
ちなみに、仏教そのものは、538年以前から日本でもその存在が知られていた。『扶桑略記』によれば、継体天皇16年(522)に司馬達止が中国(南梁)から渡来し、飛鳥の坂田に草堂を構え仏像を礼拝したという。しかしこの当時の日本人は、誰も仏教を信仰しようとはしなかった。豊かな時代には、人々は新しい宗教を受け入れようとはしない。
一般的に言って、社会不安が広がると、新しい宗教が普及したり、宗教改革が行われたりする。バブル崩壊後の日本でも、広がる社会不安を背景に、様々な新興宗教が跋扈した。
気候が寒冷化し、環境が悪化すると新しい宗教が生まれると同時に、権力の集権化が起きる。新しい宗教は、しばしば新しく生まれた権力と結び付き、やがて形骸化し、腐敗していく。その体制が次の環境悪化で危機に直面するとまた同じことが起きる。世界の歴史にはこうした現象が繰り返されているように見える。
4. 読書案内
デイヴィッド・キーズの『西暦535年の大噴火―人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』(原書タイトル:Catastrophe: An Investigation into the Origins of the Modern World)は、西暦535年、史上空前の火山爆発が起き、その後一年以上も太陽が暗くなり、洪水・干ばつ・ペストが全大陸を覆い、無数の人々が亡くなったことを実証した、英語圏では話題の本。日本の読者にとっては、この大噴火の後に仏教が伝来したことが興味深い。著者は、この事件が現代と古代を画期すると言うが、それほどのインパクトがあったかどうかは、疑問である。しかし、本書の調査対象は、ヨーロッパ・アフリカ・アジア・アメリカにおよんでおり、地球史の一体性を実感させてくれるという点で、一読の価値がある。
5. 参照情報
- ↑Pqks758. “"仏教公伝地図“.” Licensed under CC-BY-SA.
- ↑「食者天下之本也。黄金萬貫、不可療飢。白玉千箱、何能救冷。」『日本書紀』巻第十八.
- ↑「間者連年、登穀接境無虞。元々蒼生、樂於稼穡、業々黔首、免於飢謹。仁風鬯乎宇宙、美聲塞乎乾巛。内外清通、国家股富。」『日本書紀』巻第十八.
- ↑《It is the only entry of its type in the entire 120,000-word chronicle, and it is no coincidence that its date coincides precisely with the climatic disaster that was unfolding worldwide at exactly that time.》David Keys. Catastrophe: An Investigation into the Origins of the Modern World. Ballantine Books; 1st American ed. (2000/10/2). Location: 2,714. デイヴィッド キーズ. 『西暦535年の大噴火―人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』文藝春秋 (2000/02). p.239.
- ↑「夫筑紫國者、遐邇之所朝届、去來之所關門。是以、海表之國、侯海水以來賓、望天雲而奉貢。自胎中之帝、[扁三水旁自]于朕身、牧藏穀稼、蓄積儲粮。遙設凶年、厚饗良客。安國之方、更無過此。」『日本書紀』巻第十八.
- ↑《In Korea itself, the Samguk sagi records that in 535 there was flooding and that in 536 “there was thunder and also a great epidemic” followed by “a great drought.”》 David Keys. Catastrophe: An Investigation into the Origins of the Modern World. Ballantine Books; 1st American ed. (2000/10/2). Location: 2,785. デイヴィッド キーズ. 『西暦535年の大噴火―人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』文藝春秋 (2000/02). p.233.
ディスカッション
コメント一覧
「仏教はなぜ日本で普及したのか」の中で、日本の人々とありますが、この時代の日本の概念は、畿内を中心に、東はせいぜい関東、西は北九州くらいまでかと思います。これは、今の日本の概念より狭いです。これは筆者も認識していて、この日本の概念が広がったのが今日の日本であるのだからだとされているとは思いますが、そう考えていいでしょうか。
疑問は、神道が体系化されたのは明治時代ということから、当時の仏教普及に対して既存の神々の存在が邪魔ではなかったのでは?と僕は考えました。本地垂迹説は、神信仰と仏教の対立があったのは確かでその折り合いをつけるためというのも否定できませんが、この場合、日本の人々の民間信仰の中にある神の存在認識に対して、仏教の如来をどう説明するかという下で生まれたと認識しています。南米では、マリア信仰というのがありますが、これは、南米土着の地母神信仰の影響で、キリストの母を大切に考えるようになったことから生まれました。これと同じようなもので、仏教の日本の神信仰の間では書かれているような対立は大きくなかったのではと考えます。これらを考えると、この当時に仏教が普及するのに、社会不安のような理由がなくても、根付くことは出来たと考えました。
そして、当時の仏教のスタイルは、密教スタイルが主流で、民間信仰が主流ではなかったと学んでます。「社会不安のために人々に普及した」、その「人々」の規定はどこにあるのか?と考えたら最後の結論から推測すると、言葉が適切か不安ですが「平民」というものを対象にしているかと思います。それを当時のスタイルから考えると矛盾が含まれるのではと僕は考えました。今日の認識で仏教が日本に普及したと考えるのは、もう少し後の時代を考えるのではと疑問を持ちました。前回の認識違いの元のように原始仏教と大乗仏教は、違うものだと考えるべきとおっしゃっていたので、この場合も言葉が適切ではないと思いますが、便宜上、「旧仏教」と「今日の新仏教」の普及の違いもあるのではと思います。その辺の認識に対して、どのような認識をお持ちか疑問でした。
以上のことで、普及したという範囲の概念を正確に規定していないのは、文章として完成してないのでは。もし今日の仏教観、日本観で考えているのなら、正確ではないのでは?というところに行き着いた次第です。
あなたが問題にしているのは「日本でも535年以降、同様の天変地異が起き、このために伝統的な宗教が権威を失い、人々は現世御利益をもたらす新たな信仰の対象を求めた」という箇所ですね。ここで使った「人々」という言葉は、「平民」という意味ではありません。なぜなら、日本における仏教は、下からではなく、上から広められたからです。だから、この文章における「人々」は、支配者階級(豪族)と被支配者階級を含む包括的な概念です。
あなたは、明治時代における神道の体系化を過大評価しているようですが、一般に宗教の教義の体系化は、宗教が本来の精神を失って、形骸化するときにも見られる現象なので、神道普及の手がかりにはなりません。神道信仰の指標は、人々の天皇に対する敬意です。そして、衰えていた天皇崇拝が盛んになり、天皇が実権を回復したことが日本史上3回ありました。大化の改新、建武の新政、明治維新の3つです。いずれの場合にも、日本が対外的な危機にさらされた時です。
以下は、「天皇のスケープゴート的起源」からの引用です。
A. 中大兄皇子(天智天皇)が大化の改新(645年)を行った時、日本は大陸と緊張した関係にあった。562年には任那(加羅)が滅亡し、663年には白村江の戦で日本と百済は唐と新羅の連合軍に大敗し、中大兄皇子は、唐・新羅の日本侵略に備えて、海辺の防衛を整え、飛鳥からより内陸の大津に遷都したというありさまだった。
B. 後醍醐天皇が建武の新政を行う50年ほど前、元が日本を2回侵略しようとした。この時朝廷は、日夜元軍滅亡を祈祷した。元軍は台風で壊滅したわけであるが、この大暴風は天皇の呪術のおかげだとされ、神国思想が広まった。本地垂迹説に対して、反本地垂迹説が唱えられたのもこの頃である。後醍醐天皇の討幕が成功した理由の一つには、この時の天皇の権威復活がある。
C. 明治天皇が江戸幕府を倒した時、日本は欧米列強の植民地化の脅威にさらされていた。江戸時代後半からロシアやアメリカが開国を要求したが、多くの日本人は尊王攘夷の立場を取った。武士は当時政治経済的には徳川将軍の傘下にあったが、日本の精神的統一原理としては天皇が担ぎ上げられなければならなかった。明治維新後、神仏分離例が出され、廃仏毀釈運動が起きた。
https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/mikado-scapegoat/
535年以降の危機は、国内的な危機だった(任那が新羅に滅ぼされるという対外的危機は、27年後に起きる)から、天皇崇拝を強化することはなく、むしろ逆に、為政者としての天皇の権威を失墜させることになりました。このときの危機がなければ、天皇にとって宗教的な独立の否定となる仏教の受容はなかったでしょう。朝廷が仏教を公認しなくても、仏教はやがては日本に広まったかもしれません。しかし、為政者によって保護されるか弾圧されるかということは、宗教が普及するか否かを決める重要な要因の一つであることは確かです。
最後に余談ですが、マリア信仰は、南米にキリスト教がもたらされる前からありましたよ。ユダヤ・キリスト教は、男性宗教なので、もともとマリア信仰はなかったのですが、宣教師たちがヨーロッパにキリスト教を普及させるとき、プリミティブな女性崇拝の宗教を信じていた異教徒を、一方では懐柔するためにマリア信仰を作り出し、他方では弾圧するために魔女裁判をしたというのは、よく知られている史実です。
なるほど、同じ学部生と、過去(明治以前)において天皇の神性は、どこまであるかということを議論したことがあったのですが、これは難しいところだという問題がありました。まず、明治維新の時を体系化としましたのは、天皇家の氏神である神以外の存在も否定したという風に学んだからです。今手元に講義ノートが無いので正確な発言が出来ないのが恐縮なのですが、伊勢神宮と他二つの神を日本の神として祭ったそうです。この時代の神仏分離の神は、その三神を指し、その他の土着の神様も仏と一緒でその神性を失ったと学びました。これを神道とするのが正確かと僕は考えました。ゆえに、神信仰が古来より行われていたのは、土着の神様の存在が多く、位付けは違えど天皇家の氏神は、そのひとつに過ぎないと把握できるかと思い疑問としました。
この点を考えれば、先に挙げた三回の明治維新の同等性は、疑問です。「伝統的な神道」という記述に、それによる仏教の対立構造を述べるとしたら、地方地方の土着の神との関係の考察を求めたいです。また、「神道」という言葉そのものが明治時代に生まれた言葉と学びましたので、明治時代を「神道の体系化」と記述しました。ここにも記述の中に疑問を感じたので、「「伝統的」な神道」の根拠は、どこに求めたのか、その「伝統」はどういう思想(行動、儀礼等、今日の「神道」という言葉で指される言葉との同義性の論拠)の中に成り立つとしたのか、教えてもらえませんか。
それと前回に書きましたが、密教仏教と念仏仏教の違いを考えたとき、今日の認識でこの文章の「なぜ?」を把握すると、読み手に誤解を与えるのではと思います。その二つの違いについてどうお考えですか。その意味で、この文章は、どこまでを題の中にある「仏教」と規定しているのか、「人々」の規定と同じように教えてもらえませんか。
「神道という言葉そのものが明治時代に生まれた」というのは、誤解です。文献上に現れた最初の神道という言葉は、『日本書紀』の第三十一代用明天皇の条で、そこには「天皇信仏法尊神道」と記されています。
私が近代の国家神道の源泉と考えている宗教は、卑弥呼のスケープゴート化に端を発するトーテム信仰です。トーテム信仰は、邪馬台国以外にもあったわけですが、大和朝廷の全国統一に伴って、氏神の序列化が行われたと考えることができます。1回目の天皇権力の再興である大化の改新では、氏上の私的支配権が否定され、国家に吸収されました。このように、政治の世界における天皇親政の再開は、宗教の世界における分権の終焉、すなわち天皇を中心とした集権化を伴うものなのです。建武の新政は、期間が短すぎたので、公的な宗教改革は行われませんでした(民間レベルでは神本仏迹説が普及した)が、明治維新では、大化の改新のときと同じような中央集権化が行われました。
鎮護系国家宗教→密教系貴族宗教→念仏系庶民宗教という日本における仏教の歴史に関しては、「日本における仏教は、下からではなく、上から広められた」という前回の説明で尽きています。
気候変動によって仏教が普及したというのはたいへん納得がいきました。
私は以前、神道が死から目をそむけるのに対して、仏教は死を扱うから普及したというような話を聞いたことがありますが、そういう要素もないことはないだろうけど、あまり納得はできませんでした。
それにしても仏教伝来のインパクトは大変なものだったろうと思います。巨大で豪華な寺という建物、鐘や読経の新しいサウンド、線香の香り、仏像という立体フィギア。さぞかしハイカラな人々の「欲望」を駆り立てたことでしょう。
これつまり「天変地異が起きたから日本に仏教が布教した」って言ってんの?
ふわふわして結局何が言いたいのかよく分からない、日本じゃなくてもいいような話だな。何の面白みもない。
日本でしか成り立たない法則は真理ではないし、そういうものにしか面白みを感じないというのはあなたの個人的な趣味の話でしかありません。
昭和40年代以降から新興宗教自体は少しずつ台頭していました。経済が安定していた時代でも新興宗教に入信する人はいました。むしろ今の方が新興宗教に入るということではかなりハードルが高いように思います。物好きな人の中には掛け持ちをしてやろうと考える人もいるかもしれないですが、聞いた話だと新興宗教自体が相互での「掛け持ち」を認めていないはずなので。
長い日本の歴史で見れば「新興」というと数十年程度の歴史しかないと思われますが、明治以降にできた宗教・宗派を「新興宗教」と呼ぶようです。そこへ行くと平安時代からある仏教宗派は軒並み1000年前後の歴史を誇りますね。
ところで仏道修行は「精神・脳内の構造改革」になるのでしょうか?
宗教に限ったことではありませんが、新興かどうかよりもその時代のニーズに合っているかどうかの方が重要なことであろうと思います。
記事を読み直して「新興であった蘇我氏が突如として歴史の表舞台に出た」との趣旨の部分が気になりました。蘇我氏は稲目の代以降に当時の大王家との何重もの縁戚関係によって権勢をふるった(確か天智天皇の最初の妻も蘇我氏分家の出身。蘇我氏の真似をしたのが藤原氏)のが歴史の通説と聞きます。
渡来人との交流があったということは資産が潤沢だったとも思われます。
天皇家と仏教の親密さが頂点になったのは奈良時代の聖武天皇の治世の頃と思います。
中世以降になると仏教に関する問題(著名な寺院の門跡・貫主・住職の後継者問題など)で朝廷があまり関与しなくなります。