このウェブサイトはクッキーを利用し、アフィリエイト(Amazon)リンクを含んでいます。サイトの使用を続けることで、プライバシー・ポリシーに同意したとみなします。

仏教はなぜ日本で普及したのか

2001年12月8日

伝統的な神を祀る日本の天皇家にとって、異国の宗教である仏教を受け入れることは、自殺行為のように思える。それにもかかわらず、なぜ仏教は、日本では、上から下へと、権力者が推奨する中で普及したのか。気候的背景から考えてみよう。【→ 振り仮名付き版

Photo by mitsuo on Unsplash

1. 仏教が日本に伝来したのはいつか

『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』によれば、日本に仏教が公式に伝来したのは、欽明天皇の戊午の年(西暦538年)である。『日本書紀』は仏教伝来の年を欽明13年壬申(552年)としている。正しいのはどちらだろうか。

百済の聖明王は、553年と554年に日本に援軍を要請した。554年には、対価として、五経博士等を献じているので、それに先立つ553年に、対価の第一弾として仏像と経文を献じたということは、十分考えられる。日本は、これに報いるために、554年、千人規模の援軍を派遣した。仏像と経文が献じられた年を、553年ではなくて、1年前の552年にしたのは、仏教の公式伝来という画期的出来事を、『日本書紀』を編集した当時末法の初年とされていた年に当てるためと考えられる。

しかし、大和朝廷が、この時初めて仏教を受容したとは言えない。『日本書紀』によると、545年に、百済が、天皇のために丈六の仏像を作り、任那日本府に贈っている。もしも天皇が仏教を嫌っているのなら、このようなプレゼントをするはずがない。だから、545年の段階で、すでに天皇は仏教を受容していたということになる。そこで、通説どおり、最初の仏教受容の年を538年としたい。

image
仏教公伝の経路と時期[1]

2. なぜ蘇我稲目は突然権力を握ったのか

仏教は、その後、上から下へと普及した。594年頃から臣・連らが競って寺を造り始め、7世紀になると、朝廷の下級豪族までが、こぞって一族の寺を造るようになった。多くの歴史家は、こうした仏教の日本への伝来と普及を当然のように扱っている。しかし、よく考えてみると、天皇は、世俗的権力者であっただけでなく、宗教的権力者でもあった。なぜ当時の朝廷が、伝統的な神道と本来は対立するはずの仏教を受け入れたのか。キリスト教は、封建道徳に反するという理由で、江戸時代に弾圧された。同様に、仏教も拒否されて当然だったのではないのか。

よく知られているように、仏教受容に際して、物部尾輿は「天皇は古くから天神地祇を祭るべきであって、蕃神などを信奉されるとあらば、神々の怒りを招くことは必定でありましょう」と言って反対した。しかし蘇我稲目は、「西方の諸国で信奉しているのに、我が国だけがどうして背けましょうか」と受け入れに意欲を示したので、天皇は試しに稲目に仏像を与えて礼拝させることにした。

だが、「大臣の蘇我稲目が、仏教信仰に賛成したから、日本でも仏教が普及するようになった」というのは、答えになっていない。なぜなら、蘇我氏自体が、仏教伝来の頃に突然権力の表舞台に出てきた新興勢力だからである。

蘇我氏は、物部氏や大伴氏など、由緒正しい他の飛鳥の大豪族とは違って、氏素性がはっきりしない。蘇我稲目は、一応、武内宿禰-蘇我石川宿禰-満致-韓子-高麗-稲目という家系に連なっていることになっているが、武内宿禰以外の先祖は正体不明である。葛城・紀・巨勢・平群などの名門の始祖である武内宿禰を祖先とすることは、成り上がりものがよくやる家系の粉飾と考えられる。

満致・韓子・高麗といった名前から、蘇我氏の祖先を渡来人とする説がある。蘇我氏の起源が、朝鮮半島にあるのかどうかはともかく、蘇我氏が、渡来人と密接に関係を持っていたために海外文化に明るかったことは確かだ。

ともあれ、蘇我稲目には、伝統的権威はない。蘇我馬子が、葛城の子孫を自称していることから、馬子の母、つまり稲目の妻は葛城の血を引くと考えられるが、当時葛城氏は、すでに権力を失っていた。「なぜ伝統的権威のない蘇我稲目が大臣になることができたのか」ということは「なぜ大和朝廷は、神道の伝統的権威を否定することになる仏教信仰を受け入れたのか」と同様に、歴史の謎である。

3. 仏教伝来の気候的背景

この謎を解く鍵は、蘇我稲目が大臣になった宣化元年(536年)における宣化天皇の詔にある。

食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えをいやすことはできない。真珠が一千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか[2]

安閑二年(535年)正月の時点では、安閑天皇は次のような詔をしている。

近頃、毎年穀物は実り、国境に外敵の心配はない。万民は生業を楽しみ、飢饉の恐れもない。天皇の慈愛は国中に広がり、その名声は天地に満ちている。内外は平穏で、国家は富み栄えている。[3]

安閑天皇の時代は、「安閑」の名にふさわしい平和で静かな時代だった。ところが、宣化天皇は、「宣化」の名にふさわしく、引用した詔で、ある変化を宣言した。デイヴィッド・キーズは、この詔について次のように言っている。

『日本書紀』は、全十二万語に及ぶ大著だが、このような記載はほかに一ヶ所もない。しかもこの文章が、ちょうど同じ時期に世界中に広まっていた天候異変と全く同一の現象を記していることは、決して偶然ではない。[4]

デイヴィッド・キーズが指摘するように、詔が出る1年前の535年から翌年にかけての時期は、世界的な寒冷化の年であった。そのことは世界各地の年輪データから実証されている。地域によって差があるが、535年から数年、場合によっては20年以上にわたって、年輪の幅が異常に狭くなっている。その間、木がほとんど生長しなかったのだ。

さらにグリーンランドや南極の氷雪を分析してみたところ、6世紀中ごろの氷縞に火山噴火の痕跡である硫酸層が大量にあることが確認された。このことは、火山噴火による大気汚染が日光を遮断し、世界的な気候の寒冷化をもたらしたことを意味している。535年以降、異常気象による飢饉と疫病で人々が苦しんだことは、世界中の文献に記載されている。

宣化天皇は、引用した箇所に続けて次のように言っている。

そもそも筑紫の国は、遠近の国々が来朝する所、往復の関門となる所である。そこで海外の国は海の状態をうかがってやって来ては賓客となり、天雲の様子を見ては、貢物を献上した。応神天皇より我が御世に至るまで、収穫した穀物を収蔵し、食料を蓄積してきた。それをずっと凶年の備えとし、賓客を饗応する糧としている。国を安定させる方法は、これに過ぎるものはない。[5]

どうやら、日本以上に、朝鮮半島での飢餓がひどく、日本に来た「賓客」に備蓄した食糧を与えなければならなかったようだ。

『三国史記』によれば、535年には洪水が起き、536年には「雷が鳴り、伝染病が大流行し」、それに引き続いて「大変な干ばつ」が発生した。加えて地震も、535年末に朝鮮を襲った。[6]

朝鮮半島で、それまで異教国だった新羅が仏教を採用したのは、535年だったが、日本でも535年以降、同様の天変地異が起き、このために伝統的な宗教が権威を失い、人々は現世利益をもたらす新たな信仰の対象を求めた。仏教をはじめ大陸の先進文明に通じていた蘇我氏が登用された背景には、大和朝廷が未曾有の危機に直面し、伝統的な手法に行き詰まったことがあったわけである。

ちなみに、仏教そのものは、538年以前から日本でもその存在が知られていた。『扶桑略記』によれば、継体天皇16年(522)に司馬達止が中国(南梁)から渡来し、飛鳥の坂田に草堂を構え仏像を礼拝したという。しかしこの当時の日本人は、誰も仏教を信仰しようとはしなかった。豊かな時代には、人々は新しい宗教を受け入れようとはしない。

一般的に言って、社会不安が広がると、新しい宗教が普及したり、宗教改革が行われたりする。バブル崩壊後の日本でも、広がる社会不安を背景に、様々な新興宗教が跋扈した。

気候が寒冷化し、環境が悪化すると新しい宗教が生まれると同時に、権力の集権化が起きる。新しい宗教は、しばしば新しく生まれた権力と結び付き、やがて形骸化し、腐敗していく。その体制が次の環境悪化で危機に直面するとまた同じことが起きる。世界の歴史にはこうした現象が繰り返されているように見える。

4. 読書案内

デイヴィッド・キーズの『西暦535年の大噴火―人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』(原書タイトル:Catastrophe: An Investigation into the Origins of the Modern World)は、西暦535年、史上空前の火山爆発が起き、その後一年以上も太陽が暗くなり、洪水・干ばつ・ペストが全大陸を覆い、無数の人々が亡くなったことを実証した、英語圏では話題の本。日本の読者にとっては、この大噴火の後に仏教が伝来したことが興味深い。著者は、この事件が現代と古代を画期すると言うが、それほどのインパクトがあったかどうかは、疑問である。しかし、本書の調査対象は、ヨーロッパ・アフリカ・アジア・アメリカにおよんでおり、地球史の一体性を実感させてくれるという点で、一読の価値がある。

5. 参照情報

  1. Pqks758. “"仏教公伝地図“.” Licensed under CC-BY-SA.
  2. 「食者天下之本也。黄金萬貫、不可療飢。白玉千箱、何能救冷。」『日本書紀』巻第十八.
  3. 「間者連年、登穀接境無虞。元々蒼生、樂於稼穡、業々黔首、免於飢謹。仁風鬯乎宇宙、美聲塞乎乾巛。内外清通、国家股富。」『日本書紀』巻第十八.
  4. 《It is the only entry of its type in the entire 120,000-word chronicle, and it is no coincidence that its date coincides precisely with the climatic disaster that was unfolding worldwide at exactly that time.》David Keys. Catastrophe: An Investigation into the Origins of the Modern World. Ballantine Books; 1st American ed. (2000/10/2). Location: 2,714. デイヴィッド キーズ. 『西暦535年の大噴火―人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』文藝春秋 (2000/02). p.239.
  5. 「夫筑紫國者、遐邇之所朝届、去來之所關門。是以、海表之國、侯海水以來賓、望天雲而奉貢。自胎中之帝、[扁三水旁自]于朕身、牧藏穀稼、蓄積儲粮。遙設凶年、厚饗良客。安國之方、更無過此。」『日本書紀』巻第十八.
  6. 《In Korea itself, the Samguk sagi records that in 535 there was flooding and that in 536 “there was thunder and also a great epidemic” followed by “a great drought.”》 David Keys. Catastrophe: An Investigation into the Origins of the Modern World. Ballantine Books; 1st American ed. (2000/10/2). Location: 2,785. デイヴィッド キーズ. 『西暦535年の大噴火―人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』文藝春秋 (2000/02). p.233.