どうすれば太平洋戦争に勝てたのか
第二次世界大戦は、枢軸国の敗北に終わったが、日本が犯したある一つの間違いさえなければ、あの戦争は、枢軸国の勝利に終わった可能性がある。どうすれば、枢軸国が勝つことができたのか、佐藤晃の『太平洋に消えた勝機』を手掛かりに考えよう。

1. ハルノートは最後通牒だったのか
第二次世界大戦で日本が犯した最大の間違いは、真珠湾攻撃である。真珠湾攻撃がなければ、アメリカが第二次世界大戦に参加する前に、枢軸国は、イギリスとソ連に勝つことができただろう。
多くの人は、ハルノートは最後通牒であり、日米開戦は避けられなかったと考えている。しかし、本当にハルノートは最後通牒だったのだろうか。ハルノートにおけるアメリカの対日要求は、たしかに過酷ではあったが、これを拒否もしくは無視したからといって、すぐにアメリカが日本に宣戦布告するということはなかった。
ハルノートには、日本が要求を受け入れた場合の、見返りとして、次のようのことが約束されている。
6. The Government of the United States and the Government of Japan will enter into negotiations for the conclusion between the United States and Japan of a trade agreement, based upon reciprocal most favored-nation treatment and reduction of trade barriers by both countries, including an undertaking by the United States to bind raw silk on the free list. [日本語訳:合衆国政府及日本国政府ハ互恵的最恵国待遇及通商障壁ノ低減並ニ生糸ヲ自由品目トシテ据置カントスル米側企図ニ基キ合衆国及日本国間ニ通商協定締結ノ為メ協議ヲ開始スヘシ]
7. The Government of the United States and the Government of Japan will, respectively, remove the freezing restrictions on Japanese funds in the United States and on American funds in Japan. [日本語訳:合衆国政府及日本国政府ハ夫々合衆国ニ在ル日本資金及日本国ニアル米国資金ニ対スル凍結措置ヲ撤廃スヘシ]
8. Both Governments will agree upon a plan for the stabilization of the dollar-yen rate, with the allocation of funds adequate for this purpose, half to be supplied by Japan and half by the United States.[日本語訳:両国政府ハ円弗為替ノ安定ニ関スル案ニ付協定シ右目的ノ為メ適当ナル資金ノ割当ハ半額ヲ日本国ヨリ半額ヲ合衆国ヨリ供与セラルヘキコトニ同意スヘシ][1]
これを見てもわかるように、真珠湾攻撃の直前まで続けられた日米交渉は、経済制裁の解除であって、日米開戦の回避ではなかった。
第1次世界大戦の時にアメリカはヨーロッパの戦争に介入したが、犠牲が大きかった割には、得た利益は少なかった。その時の反省から、アメリカ国民の圧倒的多数は、外国の戦争に介入することには反対だった。そして議員のほとんども、伝統的な孤立主義者だった。このため、ルーズベルトは、国民に、アメリカが直接攻撃されることがない限り戦争はしないと約束せざるを得なかった。[2]
ルーズベルトは、ヒトラーとの戦争に参戦しないことを選挙で公約していた。1941年9月のギャラップの世論調査では、英仏側への参戦に賛成する人はたったの2.5%しかいなかった。日本政府には、対米戦を避け、ドイツとの交戦国だけを攻撃するという選択肢があったはずだ。
アメリカが石油などの戦略物資の対日輸出を停止したので、日本は戦争をせざるをえなくなったと説明する人もいるが、これも理由にならない。アメリカと戦争したからといって、すぐに石油が手に入るわけではない。オランダやイギリスなど、ドイツとの交戦国と戦うことにより、インドネシアや中東の石油を手に入れることができたはずだ。アメリカがいくら経済制裁をしたところで、枢軸国が旧世界を支配すれば、戦略物資に欠乏することはなかった。
ルーズベルトは、日本に真珠湾を攻撃させ、ヒトラーとの戦争に裏口から参戦しようとしたわけだが、ルーズベルトがいくら日本を対米戦争に誘導したところで、日本がアメリカ本土を攻撃しなければ、アメリカは、参戦できなかった。宣戦布告には、連邦議会の承認が必要であり、議員の大半が参戦には反対だったからだ。その後、アメリカ国内の世論が変わることもあったかもしれないが、それには時間がかかるし、それまでに戦争の大勢が決まっていただろう。
2. もしも真珠湾攻撃がなかったなら
もしも、日本が、真珠湾を攻撃する代わりに、イギリスとソ連を攻撃していたなら、日本海軍が太平洋ではなくてインド洋に展開していたなら、どうなっていただろうか。
おそらく、日本は、インド洋の制海権を掌握し、以下の図に示されているような、イギリスとそのインド洋沿岸の植民地、中国の蒋介石、ソ連との間に築かれた輸送大動脈の切断に成功していたであろう。そうなれば、最後に残された援蒋ルートであるビルマルートが遮断され、蒋介石が降伏して、日中戦争は終結し、インドなどの植民地では独立運動が起き、枢軸国は、中東やバクーの油田をおさえることができたのではないだろうか。

インド洋は、第二次世界大戦における天王山であり、だからこそ、ドイツは、はるばるインド洋にまで潜水艦を送り込んで通商破壊をやっていたのである。しかし、ドイツの海軍力だけでは、限界がある。陸軍国ドイツが、大きな海軍力を持っていた日本との提携を望んだゆえんである。
日本も、実は、当初このインド洋制圧に協力しようとしていた時期があった。日本軍は、1941年12月に、マレー沖海戦で、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの二戦艦を撃沈し、42年4月には、特設巡洋艦1、駆逐艦1、重巡2、空母1をインド洋で撃沈し、イギリス東洋艦隊に大きな打撃を与えていた。日本海軍にとって、イギリス海軍は敵ではなかった。
日本によるインド洋の制圧は目前に迫っていた。7月には、「作戦正面のインド洋転換」と「セイロン作戦」が天皇に上奏された。
7月中旬、機動部隊を中心とする日本海軍の有力部隊のインド洋派遣を聞いて、独軍は沸き返る思いであったという。日本の連合艦隊がインド洋で英軍の補給路を断てば、カイロに武器、弾薬は届かない。またソ連軍の兵站も失われるのである。[3]
ロンメル率いるドイツ軍は、6月には、イギリス軍の要塞トブルクを攻略し、もう少しでカイロまで攻略するところだった。ところが、6月にミッドウェイで敗退してしまった日本軍は、インド洋制圧を放棄し、戦力を太平洋に向け、ガダルカナルという戦略的価値皆無の島で、兵力を消耗させてしまう。佐藤が言うように、勝機は、まさに太平洋に消えてしまったのである。
日本軍のインド洋からの撤退のおかげで、英軍のインド洋輸送は安全となり、大幅な戦力補充がなされた。10月には、イギリスが攻勢に転じ、11月には、ロンメルは全軍を退却させる。
いわゆる、エル・アラメインの戦いである。チャーチルが「エル・アラメインの前に勝利なく、エル・アラメインの後に敗北なし」と言ったように、枢軸国は、このときから、坂を転げ落ちるように敗退を重ねていく。翌年の2月には、ドイツはスターリングラードで敗退し、ドイツの敗北は決定的になる。
もしも日本がインド洋を制圧していたなら、ロンメルは中東からイギリスを駆逐し、枢軸国は、中東の石油を手にすることができただろう。さらに、中東を傘下におさめれば、同時期に攻撃していたソ連南部コーカサス地方を挟撃し、ソ連の油田まで手に入れることができたであろう。
ヒトラーは、日本にソ連を攻撃することをも要請していた。もしも、日本が、ソ連をも攻撃していたなら、ソ連は、二正面作戦を強いられ、ドイツに対して、有効な反撃ができなかったにちがいない。
近衛文麿総理の周辺からわが国の「南進政策」を察知したゾルゲ、尾崎秀実らの1941年9月14日報告(いわゆるゾルゲ事件)は、ドイツの猛攻に曝されているソ連にとってまさに天佑にも等しかった。この報告を受け、極東からモスコー防衛線に移動できた戦力は、狙撃師団16、自動化狙撃師団1、戦車師団3の合計20師団という。ドイツのモスコー攻撃は、そのために挫折したようなものである。[4]
3. なぜ日本は真珠湾を攻撃したのか
日本は、なぜ無謀な対米戦争の端緒を、自ら開いてしまったのか。真珠湾攻撃は、海軍に責任があるというのが佐藤の見解である。
日本海軍は、日露戦争終結の翌年に、対米戦備増強計画を打ち出し、アメリカを仮想敵国とする国防方針を決定した。当時、日米関係は良好であったにもかかわらず、アメリカを敵視したのは、海軍省が、日露戦争終了後、活躍の場を失い、自分たちの予算が減らされることを恐れたからである。海軍省は、現在の官僚たちと同様に、国益よりも省益を追求していたのである。
奇妙なことに、アメリカを仮想敵とする日本海軍の石油供給源は当のアメリカだった。日米戦争などまるで考えていなかったのである。[5]
その後、日米戦争が次第に現実味を帯びてくる。日本は、1935年にワシントン・ロンドンの海軍軍縮条約を破棄し、帝国海軍を米海軍に匹敵する規模にまで増強しようとした。ところが、アメリカは、ビンソン・プランによって、日本の追従を許さない大規模な建艦計画を実行に移したため、帝国海軍は、すっかり、対米戦争に消極的になってしまった。
だが、海軍は、これまでアメリカ打倒を口実に予算を獲得してきただけに、アメリカに勝てないとは言えなかった。そして、陸軍出身の東条英機は、海軍の誇大宣伝を真に受け、対米戦争に踏み切った。佐藤は、陸軍出身だから、彼の海軍批判は、割り引いて受け取らなければならないが、真実を語らなかった海軍には、大いに責任があるといわなければならない。
4. 最も望ましい選択肢は何だったか
以上、日本がアメリカを攻撃せずに第二次世界大戦に参戦した場合のシミュレーションをした。私は、その場合、枢軸国が勝つと判断した。しかし、果たしてそれで世界は平和になっただろうか。むしろ、ヒトラーの世界制覇の野望は、イギリスとソ連降伏後、同盟国を、アメリカとの最終決戦へと駆り立てたのではないだろうか。
結局のところ、日本にとって最も望ましい選択肢は、日中戦争を早期に解決して、ヒトラーの戦争に加担しないことだったと言うことができる。そして、さらに遡るなら、第一次世界大戦終了後に何度も発生したデフレを、非軍事的手段で解決しておくべきであった。
5. 参照情報
- 佐藤晃『太平洋に消えた勝機』光文社 (2003/1/1).
- 佐藤晃『帝国海軍が日本を破滅させた (上)』光文社 (2006/7/22).
- 佐藤晃『帝国海軍が日本を破滅させた (下)』光文社 (2006/7/22).
- 佐藤晃『大東亜戦争「敗因」の検証 ―「帝国海軍善玉論」の虚像』芙蓉書房出版 (1997/8/1).
- ↑Cordell Hull. The Hull Note. 合衆国及日本国間協定ノ基礎概略. 1941年.
- ↑永井俊哉「ニューディールは成功したのか」2002年4月19日.
- ↑佐藤晃『太平洋に消えた勝機』光文社ペーパーバックス. 光文社 (2003/01). p. 92-93.
- ↑佐藤晃『太平洋に消えた勝機』光文社ペーパーバックス. 光文社 (2003/01). p. 87.
- ↑佐藤晃『太平洋に消えた勝機』光文社ペーパーバックス. 光文社 (2003/01). p. 36.
ディスカッション
コメント一覧
This secret is important.
That”s media control and lay of history.
You shall leave japan or Usa,PRCaina soon.
日本が犯したある一つの間違いは、米国に勝てると思って戦争を仕掛けたのが間違いだったのですね。そこで疑問なのですが、何故米国に勝てると思っても米国と戦争をせずに、イギリスとソ連を攻撃し、日本海軍が太平洋ではなくてインド洋に展開しなかったのでしょうか?教えてください。
ルーズベルトは、日本が対米戦争を始めるように、かなり工作したようです。日本は、ルーズベルトの仕掛けた罠にかかったということです。日本海軍がインド洋を制圧しようとしたとき、チャーチルが危機感を抱いて、ルーズベルトに、日本海軍を太平洋に釘付けするように頼んだのだそうです。
満州国や東亜新秩序を認めないアメリカは、東南アジアへの日本軍進攻を決して看過しなかったでしょう。大西洋憲章の精神からしても明らかです。アメリカは、太平洋の覇権獲得による日本屈服を目指して、大軍備を増強しつつあった訳ですから、日本が英蘭仏領に兵力を展開した所を狙ってフィリピンとハワイからグサリと背後を攻撃すれば、ハワイ奇襲と逆のことになります。
東條氏をはじめまともに勝てるなどとは思っていなかった訳だから、独ソ戦の帰趨をもう少し待つか、対英蘭仏開戦しても、自主撤兵できる口実を残す策謀があってよかった。勿論その策謀は大西洋憲章の精神を越えるものが必要であったとは思いますが。
ルーズベルトが参戦に意欲的だったのは確かですが、アメリカは民主主義の国ですから、ルーズベルトが戦争を決断しても、それだけでは、参戦はできません。議会での承認が必要で、当時は、大半が参戦には反対でした。ルーズベルトがこの状況を打開するためにとった秘策については、ニューディールは成功したのかをご覧ください。
本文に、石原莞爾将軍の名前が出なかったのは残念です。なぜ、真珠湾攻撃に踏み切ったかは、彼の政略を理解できなかった、当時の軍部のレベルに起因していると思うからです。現象の底には、必ず、為政者の能力の問題があり、その為政者は、権力闘争の勝者であり、その時代のあらゆる国民意識の最大公約数が反映されると考えるからです。要するに、国民の能力ともいえるでしょう。石原莞爾将軍の最終戦争論では、あらゆる困難を排して、満州の5族協和による国家が、アジアの多様性の核として、戦後の冷戦構造とは違ったアジアを作り出したであろう。もちろん、巨大中国は誕生せず、朝鮮、台湾は独立して、多様なアジアを成立させたと思う。シベリア共和国も生まれていたかも
知れない。歴史に「もし」はないというが、石原将軍を支持するパワーと能力が、その当時の日本になかったのは残念である。真珠湾攻撃は愚行であったと思うが、当時の日本人の能力は、その程度の知能程度だったのだから仕方がないというべきである。
こういう「東亜連盟」は本当に必要だったのでしょうか。なぜ天皇を東亜連盟の盟主にするために、日本人が「最大の犠牲を甘受」しなければならないのでしょうか。
1941年11月時点でルーズベルト大統領自身が対日戦に積極的であったという意見、私は疑問を感じます。
アメリカの視点に立って考えてください。
1941年11月時点で、アメリカは英国だけでなくソ連に対してもレンドリースを開始しておりますので、対日宣戦布告をせずとも同盟国(ソ英中)に対する物資援助はいくらでも可能です。さらに言えば、中立国の皮を被っていたほうが、船舶を護衛する必要も無く、援助はさらにやりやすいでしょう。
それに対し、アメリカ軍の動員・増強は途上です。実際にアメリカ軍が攻勢に出たのは1942年後半から。B17による欧州爆撃は42年8月、トーチ作戦は11月。
私がルーズベルト大統領であれば、1941年12月時点では、日本との交渉を続けながら同盟国を援助して時間を稼ぎます。対日・対独交渉で強気に出るのはエセックス級、B17、M4戦車が揃った後で十分でしょう。
連続投稿失礼します。
佐藤氏が書かれている英米分離策は、やはり困難でしょう。フィリピンを放置してインドネシアに進出した場合、フィリピンに残る米軍基地はあまりに危険です。ベトナムから南進する場合、対米開戦、少なくともフィリピン攻略は必要と考えます。
また、真珠湾攻撃も、アメリカ太平洋艦隊を半年間足止めしたわけで、少なくとも機動部隊の油代は回収できたと見てよいでしょう。
一番の失策は、ミッドウェー作戦を実施したことにあると考えます。1942年前半のインド洋作戦は、成功すれば、インドだけでなく、中東やソ連南部、中央アジア一体が枢軸国側になります。
逆に、アメリカ側にとっては守りにくい地形です。日本海軍がセイロン島に現れたと聞いても、真珠湾の正規空母をインド洋まで回航するのに下手をすれば一ヶ月かかります。
インド洋作戦は、日本海軍の全力を費やす価値のあった作戦と思われます。
1941年11月の時点では、ドイツの進軍は向かうところ敵なしであり、ルーズベルトは、たんなる物資援助では不十分と判断していたことでしょう。
日本海軍は、戦時中でも、軍艦以外は攻撃しませんでした。
もしも開戦していなかったなら、そうした軍備増強のための予算を議会に承認させることはできなかったでしょう。私は、むしろ、巨額の財政支出を議会に認めさせるために、ルーズベルトは戦争を決意したとすら考えています。これについては、「ニューディールは成功したのか」をご覧ください。
それは、もしもアメリカが対日開戦したならばの話であって、アメリカの開戦を遅らせることが、当時の日本にとっては、それ以上に重要なことであったと私は考えます。